第69回 宮城県石巻市 川街の歴史と復興の物語
第69回は“ロック”の回なので、石巻を「ロックン(石)ロール(巻)」と称した故・内田裕也氏への敬意も込めて再び石巻を取り上げる。ガイダンスを兼ねた第1回では書けなかった戦前までの経緯と直近の様子を書く。
東回り航路の時代
北上川の河口の石巻は仙台藩の米の積み出し港として発展した。北上川流域のうち、岩手県南部の一関から水沢、現在の北上市南半分までは仙台藩領であり、そのさらに上流は南部氏が治める盛岡藩領だった。さらに八戸藩の飛び地もあったことから、石巻には盛岡藩や八戸藩の米蔵も置かれていた。
例年8月初めに開催される石巻川開き祭りは、伊達政宗の家臣で、北上川を開削し石巻に港を開いた川村孫兵衛重吉を記念する祭で、大正5年(1916)に始まった。最終日の晩、浴衣や法被姿の男女が、斉太郎(さいたら)節、遠島(としま)甚句からなる組曲「大漁唄い込み」に合わせ「大漁踊り」を踊り練り歩く。歌詞に「石巻その名も高い日和山」、「三十五反の帆を巻きあげて行くよ仙台・石巻」の一節がある。「待てば海路の日和あり」と、満載の千石船が順風を求めて待機したのが日和山だ。操船が難しい一枚帆の千石船で、太平洋を黒潮に逆らって進む東回り航路は海難リスクが高かった。日和山は石巻城址でもある。葛飾区葛西地域を本拠としていた葛西氏初代の清重は、奥州藤原氏の滅亡後、奥州総奉行に任じられ、日和山に山城を築いて任地支配の拠点とした。
山際が湿地帯だったため、仙台から続く街道は日和山を山越えするルートを辿っている。松尾芭蕉が街道をたどって石巻を訪れたときも日和山に登り、眼下に広がる海原を見渡した(図1 日和山から見た太平洋)。当時の中心地の本町(もとまち)は街道をたどって山を下りたところにあった。陸の道と川の道の交差点が当時の街の中心となった。
明治9年(1876)12月、石巻初の銀行が本町で開業した。明治6年(1873)に渋沢栄一が設立した第一国立銀行である。横浜、大阪、神戸、京都に次いで、いわば地方で初めて出店したのが石巻と仙台だった。同行石巻支店には文豪・志賀直哉の父の直温(なおはる)も勤めていた。慶應義塾を卒業後入行し、2店目の任地が石巻支店だった。石巻では縁家の志賀徳蔵宅に住んでいたが、ここで明治16年(1883)2月20日に志賀直哉が生まれた。もっとも2歳で東京に越したので当時の記憶はないようだ。なお、第一国立銀行石巻支店は明治26年(1893)7月に撤退。行舎を含む営業権は、仙台に本店を置く第七十七国立銀行が引き継いだ。現在の七十七銀行である。
北上運河の時代
もっとも、海運拠点としての位置づけは明治半ばには塩釜港に譲ることになった。「大漁踊り」で頭に浮かぶ漁港に転換したのはそれ以降である。背景には北上運河と鉄道の開通があった。鳴瀬川河口の野蒜と北上川を結ぶ北上運河の整備に伴い、水位が異なる北上川と運河を連結したのが石井閘門である(図2 石井閘門(右)と「水の洞窟」(左))。明治13年(1880)7月の竣工で、名称は当時の内務省土木局長石井省一郎に由来する。日本初のレンガ造の西洋式閘門で、琵琶湖疎水の大津閘門よりも古い。平成14年(2002)5月には国の重要文化財に指定された。脇にある北上川・運河交流館「水の洞窟」は国立競技場の設計でも有名な隈研吾氏が手掛けた。平成11年(1999)の竣工で、北上川の土手に半分埋まったような構造物である。
旧制盛岡中学の生徒だった石川啄木が記した修学旅行日記から当時の舟運と鉄道の関係がうかがえる。それによれば、明治35年(1902)5月28日深夜1時13分、盛岡駅を発ち、日の出の時間に一関駅に着く。4kmほど離れた狐禅寺(こぜんじ)の汽船乗り場から6時45分に蒸気船に乗船し、午後2時半に「右に石井運河の水門を望んで少し行く」ところの北上会社支店前に上陸した。ここで石井閘門が登場する。北上会社は明治18年(1885)に「北上回漕(ほくじょうかいそう)会社」として開業した船会社で盛岡に本社があった。石巻支店と船着き場は大島神社が鎮座する現在の住吉公園にあった。
一行は日和山に登り太平洋の海原を眼下にする。啄木は「砕けては またかへしくる大波の ゆくらゆくらに胸おどる洋」と詠んでいる。その後、内海橋を渡って後醍醐天皇供養碑を見学した。石巻城主の葛西氏が南朝シンパだったことから、護良(もりよし)親王を呼び寄せかくまったという言い伝えがある。一行が渡った内海橋は明治15年(1882)に架けられた。内海五郎兵衛が県の認可を得、自己資金を投じて整備したものだ。明治33年(1900)まで料金を徴収して、その後県に寄付した。今で言うPFI(Private Finance Initiative)である。
翌朝、第一北上丸で北上運河を進み、11時半に松島に到着して観光を楽しんだ。3日目、塩釜神社の参拝後、徒歩コースと鉄道コースに分かれる。徒歩コースを選んだ啄木は多賀城を見物したが、鉄道コースは塩釜駅から鉄道で仙台駅に移動した。その晩、20時57分の汽車に乗り深夜2時に盛岡に着く。その10年後、明治45年(1912)5月に同じく旧制盛岡中学だった宮沢賢治も啄木とほぼ同じルートで石巻を訪れている。
旅程からわかるように、明治後期、盛岡と仙台を結ぶルートは舟運と鉄道の2つあった。鉄道は明治20年(1887)12月15日に福島県郡山駅から仙台駅を経由し塩釜駅まで開通している。終点が塩釜なのは鉄道延伸の工事資材の荷揚げ港があったからだ。初代の塩釜駅は港にあった。後に貨物駅となったが平成9年(1997)に廃止され、跡地はイオンタウン塩釜となっている。鉄道開通をきっかけに、舟運・海運から塩釜港で鉄道に連絡するルートが確立し、積み換え港の役割は石巻港から塩釜港に代わった。また、鉄道以前に北上川で輸送されていた米は鉄道で輸送されるようになった。
石巻線~仙石線の時代
内海橋の架橋をきっかけに石巻の一等地は本町から北、内海橋のたもとに移った。字別地価の初出は明治39年(1906)で、当時の最高は仲町だった。大正以降、内海橋と駅を結ぶ立町の通りに沿って中心街が広がっていく。石巻駅は大正元年(1912)10月28日に開業した。JR東北本線の小牛田駅から枝分かれする現在のJR石巻線で当初は仙北軽便鉄道だった。大正8年(1919)4月に国有化される。昭和3年(1928)11月22日、宮城電気鉄道の石巻駅が開業する。現在のJR仙石線である。石巻・仙台間の交通は、明治の北上運河、大正の石巻線、昭和の仙石線の流れで捉えられる。
街の中心移動に伴い、銀行も仲町界隈に集まった。明治38年(1905)、内海橋に続く橋通りの突き当りに宮城商業銀行の石巻支店が開店した。橋通りが延長され丁字路が十字路になったのに伴い、北西角にドーム屋根の行舎を新築した。昭和2年(1927)に七十七銀行に吸収され、建物は昭和8年(1933)4月に進出した東北貯蓄銀行が引き継いだ。東北貯蓄銀行も昭和20年(1945)に七十七銀行に合併される。
本町にあった七十七銀行石巻支店は昭和2年(1927)11月、立町に店舗を新築して移転している。元の行舎は本町支店となった。戦後再び移転し、昭和30年(1955)5月に宮城商業銀行、東北貯蓄銀行のあった橋通りの角地に店舗を新築して石巻支店とした(図6 旧七十七銀行石巻支店(撮影当時は本町支店))。ちなみに同年、同じ橋通りに、仙台に本店を構える丸光百貨店が石巻店を出店している。
立町と裏町の交差点に現存する旧東北実業銀行石巻支店は大正14年(1925)10月に開店した(図5 旧東北実業銀行(奥)と観慶丸商店(手前))。仙台が本店。石巻は大正10年(1921)10月の進出で当初は横町にあった。設計は葛西萬司で、師である辰野金吾と辰野葛西事務所を経営していた。師弟コンビで手掛けた作品には盛岡銀行本店(岩手銀行赤レンガ館)や東京駅もある。盛岡出身で、中世に石巻に本拠を構えた葛西家の分流の養嗣子である。東北実業銀行石巻支店は、昭和7年(1932)1月の七十七銀行との合併で廃止された。その向かいにある観慶丸商店は昭和5年(1930)、石巻初の百貨店として建てられた(図5)。観慶丸は、幕末期に創業した須田幸助が雇われ船頭として乗っていた千石船の名前に由来する。
橋通りに七十七銀行石巻支店と丸光石巻店が開店した2年後、確認できるもので最も古い昭和32年(1957)の路線価図では橋通りの路線価が最も高かった。その後、街の重心は立町に移っていく。昭和42年(1967)11月に地元スーパーのサンエーが開店している。同じとき丸光が仲町に5階建ての店舗を新築し移転した。昭和49年(1974)5月、立町でも駅よりのほうに仙台の総合スーパー(GMS)、エンドーチェーンの石巻店が開店した。その翌年の路線価は立町通りと橋通りが同水準となった。七十七銀行石巻支店も昭和52年(1977)8月に橋通りから立町に移転する。元の石巻支店には本町支店が入り、第一国立銀行以来立地していた本町から銀行が無くなった。
石巻バイパスと三陸自動車道の時代
昭和54年(1979)3月、地元発のコンビニエンスストア「エイトテン」が登場。コンビニ最大手にあやかった屋号と思われるが、地域紙の広告を調べたところ7時開店12時閉店だった。昭和55年(1980)8月、地元タウン誌ZEROが創刊。単独誌としては平成2年(1990)まで発行されていた。ふりかえればこの頃が石巻中心街の全盛期だったが、その一方で郊外にロードサイド店舗が増えてきた。昭和57年(1982)6月、サンエーと提携したイトーヨーカドーが石巻店を出店。同年12月、隣地に石巻最大手のヤマト屋書店もオープンした。昭和60年(1985)9月、立町にあった東京セルフコーナーはスーパー大手のヨークベニマルと提携して郊外(大街道)に「ポートプラザ」を開店した。
中心街の衰退は橋通り界隈から始まった。平成6年(1994)に七十七銀行本町支店が閉店。平成8年(1996)3月、丸光は仲町から石巻駅前に店舗を新築して移転し「石巻ビブレ」となった。同じ年の6月、蛇田地区にイトーヨーカドー石巻あけぼの店が開店した。その2年後に三陸自動車道が延伸開通し、石巻河南ICを中心とした新市街地が形成されていった。平成18年(2006)5月には基幹病院の石巻赤十字病院が移転。その翌年3月には店舗面積33,686m2のイオンモール石巻が開店した。他方、駅前のさくらの百貨店(元の石巻ビブレ)が2008年(平成20年)に閉店。中心商店街のシャッター街化に拍車がかかった。さらに平成23年(2011)の東日本大震災で旧市街が津波被害にあう。その翌年には石巻河南IC前が駅前を抜き最高路線価地点となった。
復興の物語
震災以降、旧市街の各所で再開発が始まった。橋通りにあった七十七銀行の旧行舎は取り壊され、12階建のマンションが建った。内海橋は立町通りから続く形で架け替えられ、ほぼ岸壁だった川沿いの道路には防潮堤が築かれた。仲町の丸光跡地には産直施設「いしのまき元気いちば」がオープンし、明治期に中心地だった本町は区画整理されてマンションが建設された。仲町・本町にかけての景観は大きく変わった。
石巻のまちづくりには他例と異なり不撓不屈の物語がある。志ある人が来石し特色ある活動を通じて貢献している。「世界で一番面白い街を作ろう」を合言葉にまちづくりの活動を進めるISHINOMAKI2.0が立ち上がり、空き店舗を改修したシェアオフィスIRORI石巻や、小劇場・ミニシアターのシアターキネマティカも登場した。震災10年目の令和3年(2021)、立町の再開発ビル「石巻ASATTE」1階に、山形県の鶴岡を拠点に地産地消の第一人者として活躍する奥田政行シェフの店、「アル・ケッチャーノ」の支店が開店した。地元出身の高橋博シェフが手掛ける、石巻の旬の食材を使った料理が特長だ。また、震災以降、映画やドラマの舞台になることが増え、20本近くの作品でロケが行われた。石巻は筆者が新卒で就職し4年間過ごした街だ。1990年代の石巻を知る者として、その注目度や変貌ぶりに驚くばかりだ。
帰省の折に街を歩くと、再開発ビルや個性的な店が点在する一方、廃墟然とした家屋や撤去後の更地が目に入る。図6が撮影された頃、行舎の裏手はファンシーショップやブティック、喫茶店が集まる「ミニ原宿」だったが、立町通りまで見渡せる一面の野原になっていた。これを「復興は道半ば」と見る人もいるだろうが、新市街である蛇田地区の発展を見、本連載のテーマである街の発展史を考えれば、どの地方都市にも共通する旧市街の将来像を示しているのではなかろうか。
石巻は歴史と自然に恵まれた街だ。街なかに近代建築が残り、山と川そして海が揃う景観がある。歴史と自然を尊重した、住みやすく居心地のよい街が、新しい旧市街の着地点だと考える。復興の物語の次に何が来るのか、石巻のまちづくりの今後から目が離せない。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)
図3 宮城電気鉄道開通以前の広域図
図4 市街図
第69回は“ロック”の回なので、石巻を「ロックン(石)ロール(巻)」と称した故・内田裕也氏への敬意も込めて再び石巻を取り上げる。ガイダンスを兼ねた第1回では書けなかった戦前までの経緯と直近の様子を書く。
東回り航路の時代
北上川の河口の石巻は仙台藩の米の積み出し港として発展した。北上川流域のうち、岩手県南部の一関から水沢、現在の北上市南半分までは仙台藩領であり、そのさらに上流は南部氏が治める盛岡藩領だった。さらに八戸藩の飛び地もあったことから、石巻には盛岡藩や八戸藩の米蔵も置かれていた。
例年8月初めに開催される石巻川開き祭りは、伊達政宗の家臣で、北上川を開削し石巻に港を開いた川村孫兵衛重吉を記念する祭で、大正5年(1916)に始まった。最終日の晩、浴衣や法被姿の男女が、斉太郎(さいたら)節、遠島(としま)甚句からなる組曲「大漁唄い込み」に合わせ「大漁踊り」を踊り練り歩く。歌詞に「石巻その名も高い日和山」、「三十五反の帆を巻きあげて行くよ仙台・石巻」の一節がある。「待てば海路の日和あり」と、満載の千石船が順風を求めて待機したのが日和山だ。操船が難しい一枚帆の千石船で、太平洋を黒潮に逆らって進む東回り航路は海難リスクが高かった。日和山は石巻城址でもある。葛飾区葛西地域を本拠としていた葛西氏初代の清重は、奥州藤原氏の滅亡後、奥州総奉行に任じられ、日和山に山城を築いて任地支配の拠点とした。
山際が湿地帯だったため、仙台から続く街道は日和山を山越えするルートを辿っている。松尾芭蕉が街道をたどって石巻を訪れたときも日和山に登り、眼下に広がる海原を見渡した(図1 日和山から見た太平洋)。当時の中心地の本町(もとまち)は街道をたどって山を下りたところにあった。陸の道と川の道の交差点が当時の街の中心となった。
明治9年(1876)12月、石巻初の銀行が本町で開業した。明治6年(1873)に渋沢栄一が設立した第一国立銀行である。横浜、大阪、神戸、京都に次いで、いわば地方で初めて出店したのが石巻と仙台だった。同行石巻支店には文豪・志賀直哉の父の直温(なおはる)も勤めていた。慶應義塾を卒業後入行し、2店目の任地が石巻支店だった。石巻では縁家の志賀徳蔵宅に住んでいたが、ここで明治16年(1883)2月20日に志賀直哉が生まれた。もっとも2歳で東京に越したので当時の記憶はないようだ。なお、第一国立銀行石巻支店は明治26年(1893)7月に撤退。行舎を含む営業権は、仙台に本店を置く第七十七国立銀行が引き継いだ。現在の七十七銀行である。
北上運河の時代
もっとも、海運拠点としての位置づけは明治半ばには塩釜港に譲ることになった。「大漁踊り」で頭に浮かぶ漁港に転換したのはそれ以降である。背景には北上運河と鉄道の開通があった。鳴瀬川河口の野蒜と北上川を結ぶ北上運河の整備に伴い、水位が異なる北上川と運河を連結したのが石井閘門である(図2 石井閘門(右)と「水の洞窟」(左))。明治13年(1880)7月の竣工で、名称は当時の内務省土木局長石井省一郎に由来する。日本初のレンガ造の西洋式閘門で、琵琶湖疎水の大津閘門よりも古い。平成14年(2002)5月には国の重要文化財に指定された。脇にある北上川・運河交流館「水の洞窟」は国立競技場の設計でも有名な隈研吾氏が手掛けた。平成11年(1999)の竣工で、北上川の土手に半分埋まったような構造物である。
旧制盛岡中学の生徒だった石川啄木が記した修学旅行日記から当時の舟運と鉄道の関係がうかがえる。それによれば、明治35年(1902)5月28日深夜1時13分、盛岡駅を発ち、日の出の時間に一関駅に着く。4kmほど離れた狐禅寺(こぜんじ)の汽船乗り場から6時45分に蒸気船に乗船し、午後2時半に「右に石井運河の水門を望んで少し行く」ところの北上会社支店前に上陸した。ここで石井閘門が登場する。北上会社は明治18年(1885)に「北上回漕(ほくじょうかいそう)会社」として開業した船会社で盛岡に本社があった。石巻支店と船着き場は大島神社が鎮座する現在の住吉公園にあった。
一行は日和山に登り太平洋の海原を眼下にする。啄木は「砕けては またかへしくる大波の ゆくらゆくらに胸おどる洋」と詠んでいる。その後、内海橋を渡って後醍醐天皇供養碑を見学した。石巻城主の葛西氏が南朝シンパだったことから、護良(もりよし)親王を呼び寄せかくまったという言い伝えがある。一行が渡った内海橋は明治15年(1882)に架けられた。内海五郎兵衛が県の認可を得、自己資金を投じて整備したものだ。明治33年(1900)まで料金を徴収して、その後県に寄付した。今で言うPFI(Private Finance Initiative)である。
翌朝、第一北上丸で北上運河を進み、11時半に松島に到着して観光を楽しんだ。3日目、塩釜神社の参拝後、徒歩コースと鉄道コースに分かれる。徒歩コースを選んだ啄木は多賀城を見物したが、鉄道コースは塩釜駅から鉄道で仙台駅に移動した。その晩、20時57分の汽車に乗り深夜2時に盛岡に着く。その10年後、明治45年(1912)5月に同じく旧制盛岡中学だった宮沢賢治も啄木とほぼ同じルートで石巻を訪れている。
旅程からわかるように、明治後期、盛岡と仙台を結ぶルートは舟運と鉄道の2つあった。鉄道は明治20年(1887)12月15日に福島県郡山駅から仙台駅を経由し塩釜駅まで開通している。終点が塩釜なのは鉄道延伸の工事資材の荷揚げ港があったからだ。初代の塩釜駅は港にあった。後に貨物駅となったが平成9年(1997)に廃止され、跡地はイオンタウン塩釜となっている。鉄道開通をきっかけに、舟運・海運から塩釜港で鉄道に連絡するルートが確立し、積み換え港の役割は石巻港から塩釜港に代わった。また、鉄道以前に北上川で輸送されていた米は鉄道で輸送されるようになった。
石巻線~仙石線の時代
内海橋の架橋をきっかけに石巻の一等地は本町から北、内海橋のたもとに移った。字別地価の初出は明治39年(1906)で、当時の最高は仲町だった。大正以降、内海橋と駅を結ぶ立町の通りに沿って中心街が広がっていく。石巻駅は大正元年(1912)10月28日に開業した。JR東北本線の小牛田駅から枝分かれする現在のJR石巻線で当初は仙北軽便鉄道だった。大正8年(1919)4月に国有化される。昭和3年(1928)11月22日、宮城電気鉄道の石巻駅が開業する。現在のJR仙石線である。石巻・仙台間の交通は、明治の北上運河、大正の石巻線、昭和の仙石線の流れで捉えられる。
街の中心移動に伴い、銀行も仲町界隈に集まった。明治38年(1905)、内海橋に続く橋通りの突き当りに宮城商業銀行の石巻支店が開店した。橋通りが延長され丁字路が十字路になったのに伴い、北西角にドーム屋根の行舎を新築した。昭和2年(1927)に七十七銀行に吸収され、建物は昭和8年(1933)4月に進出した東北貯蓄銀行が引き継いだ。東北貯蓄銀行も昭和20年(1945)に七十七銀行に合併される。
本町にあった七十七銀行石巻支店は昭和2年(1927)11月、立町に店舗を新築して移転している。元の行舎は本町支店となった。戦後再び移転し、昭和30年(1955)5月に宮城商業銀行、東北貯蓄銀行のあった橋通りの角地に店舗を新築して石巻支店とした(図6 旧七十七銀行石巻支店(撮影当時は本町支店))。ちなみに同年、同じ橋通りに、仙台に本店を構える丸光百貨店が石巻店を出店している。
立町と裏町の交差点に現存する旧東北実業銀行石巻支店は大正14年(1925)10月に開店した(図5 旧東北実業銀行(奥)と観慶丸商店(手前))。仙台が本店。石巻は大正10年(1921)10月の進出で当初は横町にあった。設計は葛西萬司で、師である辰野金吾と辰野葛西事務所を経営していた。師弟コンビで手掛けた作品には盛岡銀行本店(岩手銀行赤レンガ館)や東京駅もある。盛岡出身で、中世に石巻に本拠を構えた葛西家の分流の養嗣子である。東北実業銀行石巻支店は、昭和7年(1932)1月の七十七銀行との合併で廃止された。その向かいにある観慶丸商店は昭和5年(1930)、石巻初の百貨店として建てられた(図5)。観慶丸は、幕末期に創業した須田幸助が雇われ船頭として乗っていた千石船の名前に由来する。
橋通りに七十七銀行石巻支店と丸光石巻店が開店した2年後、確認できるもので最も古い昭和32年(1957)の路線価図では橋通りの路線価が最も高かった。その後、街の重心は立町に移っていく。昭和42年(1967)11月に地元スーパーのサンエーが開店している。同じとき丸光が仲町に5階建ての店舗を新築し移転した。昭和49年(1974)5月、立町でも駅よりのほうに仙台の総合スーパー(GMS)、エンドーチェーンの石巻店が開店した。その翌年の路線価は立町通りと橋通りが同水準となった。七十七銀行石巻支店も昭和52年(1977)8月に橋通りから立町に移転する。元の石巻支店には本町支店が入り、第一国立銀行以来立地していた本町から銀行が無くなった。
石巻バイパスと三陸自動車道の時代
昭和54年(1979)3月、地元発のコンビニエンスストア「エイトテン」が登場。コンビニ最大手にあやかった屋号と思われるが、地域紙の広告を調べたところ7時開店12時閉店だった。昭和55年(1980)8月、地元タウン誌ZEROが創刊。単独誌としては平成2年(1990)まで発行されていた。ふりかえればこの頃が石巻中心街の全盛期だったが、その一方で郊外にロードサイド店舗が増えてきた。昭和57年(1982)6月、サンエーと提携したイトーヨーカドーが石巻店を出店。同年12月、隣地に石巻最大手のヤマト屋書店もオープンした。昭和60年(1985)9月、立町にあった東京セルフコーナーはスーパー大手のヨークベニマルと提携して郊外(大街道)に「ポートプラザ」を開店した。
中心街の衰退は橋通り界隈から始まった。平成6年(1994)に七十七銀行本町支店が閉店。平成8年(1996)3月、丸光は仲町から石巻駅前に店舗を新築して移転し「石巻ビブレ」となった。同じ年の6月、蛇田地区にイトーヨーカドー石巻あけぼの店が開店した。その2年後に三陸自動車道が延伸開通し、石巻河南ICを中心とした新市街地が形成されていった。平成18年(2006)5月には基幹病院の石巻赤十字病院が移転。その翌年3月には店舗面積33,686m2のイオンモール石巻が開店した。他方、駅前のさくらの百貨店(元の石巻ビブレ)が2008年(平成20年)に閉店。中心商店街のシャッター街化に拍車がかかった。さらに平成23年(2011)の東日本大震災で旧市街が津波被害にあう。その翌年には石巻河南IC前が駅前を抜き最高路線価地点となった。
復興の物語
震災以降、旧市街の各所で再開発が始まった。橋通りにあった七十七銀行の旧行舎は取り壊され、12階建のマンションが建った。内海橋は立町通りから続く形で架け替えられ、ほぼ岸壁だった川沿いの道路には防潮堤が築かれた。仲町の丸光跡地には産直施設「いしのまき元気いちば」がオープンし、明治期に中心地だった本町は区画整理されてマンションが建設された。仲町・本町にかけての景観は大きく変わった。
石巻のまちづくりには他例と異なり不撓不屈の物語がある。志ある人が来石し特色ある活動を通じて貢献している。「世界で一番面白い街を作ろう」を合言葉にまちづくりの活動を進めるISHINOMAKI2.0が立ち上がり、空き店舗を改修したシェアオフィスIRORI石巻や、小劇場・ミニシアターのシアターキネマティカも登場した。震災10年目の令和3年(2021)、立町の再開発ビル「石巻ASATTE」1階に、山形県の鶴岡を拠点に地産地消の第一人者として活躍する奥田政行シェフの店、「アル・ケッチャーノ」の支店が開店した。地元出身の高橋博シェフが手掛ける、石巻の旬の食材を使った料理が特長だ。また、震災以降、映画やドラマの舞台になることが増え、20本近くの作品でロケが行われた。石巻は筆者が新卒で就職し4年間過ごした街だ。1990年代の石巻を知る者として、その注目度や変貌ぶりに驚くばかりだ。
帰省の折に街を歩くと、再開発ビルや個性的な店が点在する一方、廃墟然とした家屋や撤去後の更地が目に入る。図6が撮影された頃、行舎の裏手はファンシーショップやブティック、喫茶店が集まる「ミニ原宿」だったが、立町通りまで見渡せる一面の野原になっていた。これを「復興は道半ば」と見る人もいるだろうが、新市街である蛇田地区の発展を見、本連載のテーマである街の発展史を考えれば、どの地方都市にも共通する旧市街の将来像を示しているのではなかろうか。
石巻は歴史と自然に恵まれた街だ。街なかに近代建築が残り、山と川そして海が揃う景観がある。歴史と自然を尊重した、住みやすく居心地のよい街が、新しい旧市街の着地点だと考える。復興の物語の次に何が来るのか、石巻のまちづくりの今後から目が離せない。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)
図3 宮城電気鉄道開通以前の広域図
図4 市街図

