第68回 青森県弘前市 文化の県都としての伝統と矜持
本州最北端の青森県は日本海側の津軽地方と太平洋岸の南部(なんぶ)地方に分かれる。南部と言えば現在の岩手県盛岡に拠点を構えた南部氏が思い浮かぶが、盛岡に拠点を移したのは南部家27代、盛岡藩初代の南部利直の時代であり、それ以前は青森県境の三戸(さんのへ)郡南部町が本拠地だった。一方、初代当主で弘前藩初代藩主の津軽為信は旧姓大浦で元々南部氏の家来だったが武力で独立。南部氏に先んじて小田原征伐に参陣し豊臣秀吉から本領安堵の確約を得た。関ケ原の戦いでは徳川家康を盟主とする東軍に付き、弘前藩主の地位を固めた。このような経緯から、津軽と南部は伝統的に関係が良くなかった。互いに因縁が深い津軽と南部だったが、廃藩置県では同じ県域に組み込まれた。
本町の時代
近世を通じて弘前は津軽の中心都市だった。藩庁の弘前城は江戸期以前の天守(現存12天守)を擁することで知られる。平成26年(2014)から石垣含む土台の修繕中で、楼閣は曳家されて別の場所にある。弘前は城郭や内堀だけでなく外堀も残っているのが珍しい。城下町の区画もその大部分が残っている。
対して青森は弘前藩の外港だった。それが明治に入ると一転して青森が県都になった。廃藩置県の渦中、青森県は一時、旧南部藩の北半分、津軽から北海道は渡島半島の旧松前藩に至る広大な県域だったことがある。このとき、広大な県域の中心で北海道との連絡航路があった青森に県庁が置かれた。
県最初の銀行が青森に出店したのも、北海道との行き来が盛んになり青森が交易拠点となったからだ。明治9年(1876)7月に開業した三井銀行青森出張店である。弘前には4年後の明治13年(1880)4月に出張店を出している。他方、県内初の国立銀行は明治12年(1879)1月に開業した第五十九国立銀行である。出資者の多くは元の弘前藩士で、仕事を失った元武士の再就職先や秩禄公債の運用先、一言で言えば士族授産の意味合いがあった。初代頭取は弘前藩の最後の家老、大道寺繁禎(しげよし)が務めた。当初は、第一国立銀行に出資し同行の支店を弘前に誘致しようとしていたが、第一国立銀行を立ち上げた渋沢栄一から地元行の設立を勧められた。渋沢に助言を求めたところ、銀行は米穀等の荷為替の取扱いが主要な業務なので本店も海陸運送の拠点となる青森がよい、という回答を得た。これは当時の銀行の役割をうかがえるエピソードである。わが国の近代銀行の役割は今でいう公金業務と荷為替だったのだ。荷為替とは、荷主(売り手)が、荷物の預かり証を担保とし、受取人が荷主で引受人(支払人)が白地の為替手形による代金取立業務である。遠隔地の送り先(買い手)が為替手形を引き受ける(署名する)ことと引き換えに荷物の預かり証を引き渡す。しかし結局、出資者の多数を占める旧弘前藩士として本店所在地は弘前から譲れず、その代わり青森に支店を置いた。
城下町の時代の弘前の中心地は本町である。三井銀行も第五十九国立銀行も現在の弘前大学病院の正門に面する本町の通り沿いにあった。青森県統計書をひもとくと、確認できる範囲で明治21年(1888)から明治42年(1909)まで宅地の最高地価だった。もっとも、青森県内では明治21年時点で八戸十三日町が首位で、弘前は青森米町に次ぐ3位だった。
土手町の時代
明治27年(1894)12月1日、現在の奥羽本線のうち青森-弘前間が官設鉄道として開通。現在と同じ場所に弘前駅が開業する。住所は中津軽郡和徳村(わとくむら)で、昭和11年(1936)に合併するまで弘前市ではなかった。
鉄道の開通をきっかけに街の中心は駅に引かれて動き出す。宅地の最高地価は明治43年(1910)に弘前市大字土手町となった。その6年前の明治37年(1904)11月、第五十九国立銀行あらため第五十九銀行が本店を新築し、移転する。木造2階建て寄棟屋根・越屋根付き桟瓦葺きで、ルネッサンス様式。設計施工は、弘前市を中心に近代建築を後世に残している堀江佐吉である。行舎は昭和40年(1965)、現在地に新店舗を建てるにあたって取り壊される予定だったが、市民の声を受けて曳家し保存されることになった。昭和47年(1972)に国の重要文化財に指定される。現在の「青森みちのく銀行記念館」である(図1 旧第五十九銀行と旧弘前無尽左)。
他にも近所に銀行建築が2軒ある。明治16年(1883)に建てられた旧津軽銀行と、昭和2年(1927)の旧弘前無尽、後の弘前相互銀行である(図1右)。旧津軽銀行の建物は元々角三宮本呉服店の店舗だったが、津軽銀行が大正6年(1917)1月に購入して本店とした。その後の銀行再編で青森銀行津軽支店となる。弘前市内に現存する洋風建築では最古級である。平成13年(2001)に青森銀行から弘前市に寄贈され、改装を経て平成16年(2004年)から美術展示施設「百石町展示館」となった。もうひとつの弘前相銀はみちのく銀行のルーツである。今年1月1日に青森銀行と合併して「青森みちのく銀行」となった。昨年までの2大行のルーツはともに弘前にあったということだ。
昭和11年(1936)の2・26事件後に発足した広田内閣、馬場蔵相の代に一県一行主義が打ち出される。低利の国債を買い入れさせるための低金利政策が背景にあった。地方銀行側にも、戦時体制が進む中で融資対象先が減っていた事情もあった。青森県下では県域一番行の第五十九銀行を軸とした統合策が進められていた。難産の末、昭和18年(1943)10月、第五十九銀行と津軽銀行、板柳銀行、八戸銀行、(旧)青森銀行が合併し、青森銀行が新設された。他に3行あったが、終戦前年の昭和19年6月に佐々木銀行、弘前商業銀行が合流。青森商業銀行が最後まで独立を貫き、結果として一県二行で戦後を迎えた数少ない県となった。
下土手町の百貨店街
戦後、昭和30年(1955)の最高路線価地点は、市街を南北に貫く土淵(つちぶち)川から南側の中土手町だった。昭和27年(1952)1月26日に開通した郊外電車、弘前電気鉄道の中央弘前駅の最寄である。通りには東京に本店を置く富士銀行と協和銀行が進出していた。その後、昭和48年(1973)の最高路線価は「土手町青和銀行前」だった。同じ土手町通りでも土淵川から北側の下土手町と呼ばれる場所に移った形だ。青和銀行は、戦後4行残った貯蓄銀行の青森貯蓄銀行が昭和24年(1949)1月に普銀転換して発足した。他方、青森商業銀行は全国最小の地方銀行として単独経営を続けていたが、店舗数7、職員数49人ではいかんともしがたく、昭和33年(1958)9月に青和銀行に吸収されていた。
弘前市は、第五十九銀行が5行合併を機に本店を青森市に移したため、銀行の本店がなくなっていた。同じ旧弘前藩とはいえ、青森市と経済圏は互いに独立している。他方、急速に勢いを増している金融機関が当時の弘前無尽だった。一県一行主義は転換期を迎えつつあった。中小企業の金融排除の解決のため登場したのが、無尽会社が転じた相互銀行という業態である。
弘前相銀の発足にあたって、昭和26年(1951)10月20付『東奥日報』は「その地方の特殊事情に精通し、かつ理解ある本店銀行を設立したいとの要望は、弘前市をはじめ周辺の中、南、西、北郡の各中小商工業者の切実な叫びであり、岩淵勉氏が弘前市長在任中も特にこの問題を取りあげ」たと、地元の歓迎ぶりを示している。昭和27年(1952)5月、下土手町に本店を新築した。現在の青森みちのく銀行下土手町支店である。昭和29年1月には資金量純増が全国相互銀行70行中の第1位となる。昭和35年(1960)に旧国道沿いに4階建の本店を新築。当時は市内3位の高層建築だった。
下土手町、つまり土淵川の蓬莱橋から下土手町交差点までわずか250m間に最盛期には3軒の百貨店があった。下土手町交差点の東南角にあったのが“かくは”宮川百貨店だ。明治20年頃に創業したかくは呉服店が源流で、大正12年(1923)1月に鉄筋コンクリート4階建の百貨店を新築し、かくは宮川呉服店とした。昭和12年(1937)に5階部分と新館を増築、エレベーターを設置し耳目を集めた。戦後は百貨店の中三が昭和37年(1962)11月に弘前店を立ち上げた。明治29年(1896)6月に五所川原で創業した「中三中村呉服店」が源流。次は、昭和46年(1971)3月に進出したカネ長武田百貨店である。こちらは安政年間(1850年代)に青森で創業した「武田呉服店」を祖とする。
駅前の発展
昭和51年(1976)10月1日は弘前にとって記憶に残る日である。この日、本店を置く銀行が再び無くなり、駅前にイトーヨーカドー弘前店が開店した。まず、弘前相銀が青和銀行と合併し「みちのく銀行」となった。新銀行の本店は青森市に置かれた。弘前では青森銀行を上回るシェアを持つ弘前相銀にとっては、さらなる飛躍を目指し地方銀行転換を果たした意義がある。また、イトーヨーカドーの開店は、土地区画整理事業の進捗に伴う発展の兆しとしての意味がある。最上階に展望レストランがある8階建の大型店舗は地元からみればスーパーというより「デパート」だった。弘南バスのターミナルが併設されていた点ではターミナル百貨店に通じる。
対する下土手町の次の一手は3店3様だった。まず、老朽化が目立っていたかくは宮川百貨店は昭和52年にいったん閉店し、昭和55年(1980)6月、ファッションビル業態のハイローザ(HI ROSA)を開店する。店名は弘前のローマ字表記の読み方を洒落たものだ。
カネ長武田百貨店は、スーパーを全国展開していたニチイと組み、ダックシティカネ長武田百貨店となった。平成5年(1993)10月に下土手町の店舗を閉店。国道7号線バイパス近辺に弘前ビブレとして移転した。シネコンを併設した郊外型の百貨店だった。国道7号線バイパスは昭和52年(1977)に竣工。以来、ロードサイド型店舗が沿線に増えてきていた。最後に、同じ場所で大型化したのは中三だった。平成7年(1995)に増築した。縄文土器に着想を得た漏斗状のファサードが印象に残る毛綱毅曠(もづなきこう)の設計だ(図4 旧中三(上)、弘前市庁舎(下)上)。
とはいえ、下土手町から駅前への中心移動は止められず、平成4年(1992)にはイトーヨーカドー弘前店の向かい、「駅前2丁目弘前第一生命ビル前駅前商店街通り」に最高路線価地点が移っている。その後、イトーヨーカドーの南側の再開発地区に弘前駅前地区再開発ビル、「ジョッパル」が完成。平成6年(1994)年3月に核店舗のダイエー弘前店がオープンした。
文化の県都としての伝統と矜持
現在、下土手町に百貨店はない。ハイローザは平成10年(1998)6月に閉店する。中三もコロナ禍で力尽き、令和6年8月29日に閉店した。最高路線価地点は平成27年(2015)から「駅前3丁目駅前商店街通り」となっている。もっともイトーヨーカドーもダイエーも今はなく、商業中心地は7号バイパス沿いにある。
下土手町からかつての賑やかさはなくなったが、その分、弘前本来の落ち着いた街なみが際立ったように思われる。弘前の持つ文化的な雰囲気には根拠がある。かつては弘前藩の外港だった青森に県都の地位こそ譲ったが、弘前は産業や金融、そして教育の中心都市としての地位を維持してきた。なかでも「学都」のブランドは名実ともに現在まで保っている。
明治5年(1872)に開校した東奥義塾は当初から外国人教師を招き、留学生を送るなどしており、弘前の開明的な気風を醸成してきた。東奥義塾と関係が深いメソジスト派(プロテスタント・日本基督教団)、聖公会、カトリックが弘前に布教拠点を構え、いずれも明治大正期に献堂された教会堂が残っている。大正10年(1921)には現在の弘前大学の前身の1つ、旧制弘前高校が設立された。令和2年国勢調査で調べてみたが、現在も、弘前市の人口のうち学生(短大・高専・院生含む)の割合は4.2%で京都市の5.5%、仙台市の4.5%と比べ遜色ない。専門職人口は青森市を上回っている。
昭和7年(1932)には今でいう地域シンクタンクの「木村産業研究所」が発足した。建物は前川國男のデビュー作でもある。前川國男はモダニズム建築の巨匠、ル・コルビュジエに直接師事した3人の日本人建築家の1人だ。母が旧弘前藩士の田中家の出身という縁があり、木村産業研究所の他、弘前市庁舎(図4下)、市立病院、市民会館、市立博物館など8つの作品がある。弘前は近代建築だけでなく現代建築の密度も高い。
城や町割りに残る城下町の面影に加え、文化の県都としての物語と近現代の建築遺産が、観光地としての価値を押し上げている。最近では、明治・大正期に建設された吉野町煉瓦倉庫を弘前市が平成27年(2015)7月に買い取り、隣接する土淵川吉野町緑地の整備と合わせてリノベーション。令和2年(2020)7月、「弘前れんが倉庫美術館」としてオープンした。その後の維持管理と運営を合わせ15年にわたって民間が受託するPFI事業だ。令和6年(2024)の宿泊者数は64万2,432人と、コロナ禍前の水準を上回った。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)
図2 市街図
図3 広域図
本州最北端の青森県は日本海側の津軽地方と太平洋岸の南部(なんぶ)地方に分かれる。南部と言えば現在の岩手県盛岡に拠点を構えた南部氏が思い浮かぶが、盛岡に拠点を移したのは南部家27代、盛岡藩初代の南部利直の時代であり、それ以前は青森県境の三戸(さんのへ)郡南部町が本拠地だった。一方、初代当主で弘前藩初代藩主の津軽為信は旧姓大浦で元々南部氏の家来だったが武力で独立。南部氏に先んじて小田原征伐に参陣し豊臣秀吉から本領安堵の確約を得た。関ケ原の戦いでは徳川家康を盟主とする東軍に付き、弘前藩主の地位を固めた。このような経緯から、津軽と南部は伝統的に関係が良くなかった。互いに因縁が深い津軽と南部だったが、廃藩置県では同じ県域に組み込まれた。
本町の時代
近世を通じて弘前は津軽の中心都市だった。藩庁の弘前城は江戸期以前の天守(現存12天守)を擁することで知られる。平成26年(2014)から石垣含む土台の修繕中で、楼閣は曳家されて別の場所にある。弘前は城郭や内堀だけでなく外堀も残っているのが珍しい。城下町の区画もその大部分が残っている。
対して青森は弘前藩の外港だった。それが明治に入ると一転して青森が県都になった。廃藩置県の渦中、青森県は一時、旧南部藩の北半分、津軽から北海道は渡島半島の旧松前藩に至る広大な県域だったことがある。このとき、広大な県域の中心で北海道との連絡航路があった青森に県庁が置かれた。
県最初の銀行が青森に出店したのも、北海道との行き来が盛んになり青森が交易拠点となったからだ。明治9年(1876)7月に開業した三井銀行青森出張店である。弘前には4年後の明治13年(1880)4月に出張店を出している。他方、県内初の国立銀行は明治12年(1879)1月に開業した第五十九国立銀行である。出資者の多くは元の弘前藩士で、仕事を失った元武士の再就職先や秩禄公債の運用先、一言で言えば士族授産の意味合いがあった。初代頭取は弘前藩の最後の家老、大道寺繁禎(しげよし)が務めた。当初は、第一国立銀行に出資し同行の支店を弘前に誘致しようとしていたが、第一国立銀行を立ち上げた渋沢栄一から地元行の設立を勧められた。渋沢に助言を求めたところ、銀行は米穀等の荷為替の取扱いが主要な業務なので本店も海陸運送の拠点となる青森がよい、という回答を得た。これは当時の銀行の役割をうかがえるエピソードである。わが国の近代銀行の役割は今でいう公金業務と荷為替だったのだ。荷為替とは、荷主(売り手)が、荷物の預かり証を担保とし、受取人が荷主で引受人(支払人)が白地の為替手形による代金取立業務である。遠隔地の送り先(買い手)が為替手形を引き受ける(署名する)ことと引き換えに荷物の預かり証を引き渡す。しかし結局、出資者の多数を占める旧弘前藩士として本店所在地は弘前から譲れず、その代わり青森に支店を置いた。
城下町の時代の弘前の中心地は本町である。三井銀行も第五十九国立銀行も現在の弘前大学病院の正門に面する本町の通り沿いにあった。青森県統計書をひもとくと、確認できる範囲で明治21年(1888)から明治42年(1909)まで宅地の最高地価だった。もっとも、青森県内では明治21年時点で八戸十三日町が首位で、弘前は青森米町に次ぐ3位だった。
土手町の時代
明治27年(1894)12月1日、現在の奥羽本線のうち青森-弘前間が官設鉄道として開通。現在と同じ場所に弘前駅が開業する。住所は中津軽郡和徳村(わとくむら)で、昭和11年(1936)に合併するまで弘前市ではなかった。
鉄道の開通をきっかけに街の中心は駅に引かれて動き出す。宅地の最高地価は明治43年(1910)に弘前市大字土手町となった。その6年前の明治37年(1904)11月、第五十九国立銀行あらため第五十九銀行が本店を新築し、移転する。木造2階建て寄棟屋根・越屋根付き桟瓦葺きで、ルネッサンス様式。設計施工は、弘前市を中心に近代建築を後世に残している堀江佐吉である。行舎は昭和40年(1965)、現在地に新店舗を建てるにあたって取り壊される予定だったが、市民の声を受けて曳家し保存されることになった。昭和47年(1972)に国の重要文化財に指定される。現在の「青森みちのく銀行記念館」である(図1 旧第五十九銀行と旧弘前無尽左)。
他にも近所に銀行建築が2軒ある。明治16年(1883)に建てられた旧津軽銀行と、昭和2年(1927)の旧弘前無尽、後の弘前相互銀行である(図1右)。旧津軽銀行の建物は元々角三宮本呉服店の店舗だったが、津軽銀行が大正6年(1917)1月に購入して本店とした。その後の銀行再編で青森銀行津軽支店となる。弘前市内に現存する洋風建築では最古級である。平成13年(2001)に青森銀行から弘前市に寄贈され、改装を経て平成16年(2004年)から美術展示施設「百石町展示館」となった。もうひとつの弘前相銀はみちのく銀行のルーツである。今年1月1日に青森銀行と合併して「青森みちのく銀行」となった。昨年までの2大行のルーツはともに弘前にあったということだ。
昭和11年(1936)の2・26事件後に発足した広田内閣、馬場蔵相の代に一県一行主義が打ち出される。低利の国債を買い入れさせるための低金利政策が背景にあった。地方銀行側にも、戦時体制が進む中で融資対象先が減っていた事情もあった。青森県下では県域一番行の第五十九銀行を軸とした統合策が進められていた。難産の末、昭和18年(1943)10月、第五十九銀行と津軽銀行、板柳銀行、八戸銀行、(旧)青森銀行が合併し、青森銀行が新設された。他に3行あったが、終戦前年の昭和19年6月に佐々木銀行、弘前商業銀行が合流。青森商業銀行が最後まで独立を貫き、結果として一県二行で戦後を迎えた数少ない県となった。
下土手町の百貨店街
戦後、昭和30年(1955)の最高路線価地点は、市街を南北に貫く土淵(つちぶち)川から南側の中土手町だった。昭和27年(1952)1月26日に開通した郊外電車、弘前電気鉄道の中央弘前駅の最寄である。通りには東京に本店を置く富士銀行と協和銀行が進出していた。その後、昭和48年(1973)の最高路線価は「土手町青和銀行前」だった。同じ土手町通りでも土淵川から北側の下土手町と呼ばれる場所に移った形だ。青和銀行は、戦後4行残った貯蓄銀行の青森貯蓄銀行が昭和24年(1949)1月に普銀転換して発足した。他方、青森商業銀行は全国最小の地方銀行として単独経営を続けていたが、店舗数7、職員数49人ではいかんともしがたく、昭和33年(1958)9月に青和銀行に吸収されていた。
弘前市は、第五十九銀行が5行合併を機に本店を青森市に移したため、銀行の本店がなくなっていた。同じ旧弘前藩とはいえ、青森市と経済圏は互いに独立している。他方、急速に勢いを増している金融機関が当時の弘前無尽だった。一県一行主義は転換期を迎えつつあった。中小企業の金融排除の解決のため登場したのが、無尽会社が転じた相互銀行という業態である。
弘前相銀の発足にあたって、昭和26年(1951)10月20付『東奥日報』は「その地方の特殊事情に精通し、かつ理解ある本店銀行を設立したいとの要望は、弘前市をはじめ周辺の中、南、西、北郡の各中小商工業者の切実な叫びであり、岩淵勉氏が弘前市長在任中も特にこの問題を取りあげ」たと、地元の歓迎ぶりを示している。昭和27年(1952)5月、下土手町に本店を新築した。現在の青森みちのく銀行下土手町支店である。昭和29年1月には資金量純増が全国相互銀行70行中の第1位となる。昭和35年(1960)に旧国道沿いに4階建の本店を新築。当時は市内3位の高層建築だった。
下土手町、つまり土淵川の蓬莱橋から下土手町交差点までわずか250m間に最盛期には3軒の百貨店があった。下土手町交差点の東南角にあったのが“かくは”宮川百貨店だ。明治20年頃に創業したかくは呉服店が源流で、大正12年(1923)1月に鉄筋コンクリート4階建の百貨店を新築し、かくは宮川呉服店とした。昭和12年(1937)に5階部分と新館を増築、エレベーターを設置し耳目を集めた。戦後は百貨店の中三が昭和37年(1962)11月に弘前店を立ち上げた。明治29年(1896)6月に五所川原で創業した「中三中村呉服店」が源流。次は、昭和46年(1971)3月に進出したカネ長武田百貨店である。こちらは安政年間(1850年代)に青森で創業した「武田呉服店」を祖とする。
駅前の発展
昭和51年(1976)10月1日は弘前にとって記憶に残る日である。この日、本店を置く銀行が再び無くなり、駅前にイトーヨーカドー弘前店が開店した。まず、弘前相銀が青和銀行と合併し「みちのく銀行」となった。新銀行の本店は青森市に置かれた。弘前では青森銀行を上回るシェアを持つ弘前相銀にとっては、さらなる飛躍を目指し地方銀行転換を果たした意義がある。また、イトーヨーカドーの開店は、土地区画整理事業の進捗に伴う発展の兆しとしての意味がある。最上階に展望レストランがある8階建の大型店舗は地元からみればスーパーというより「デパート」だった。弘南バスのターミナルが併設されていた点ではターミナル百貨店に通じる。
対する下土手町の次の一手は3店3様だった。まず、老朽化が目立っていたかくは宮川百貨店は昭和52年にいったん閉店し、昭和55年(1980)6月、ファッションビル業態のハイローザ(HI ROSA)を開店する。店名は弘前のローマ字表記の読み方を洒落たものだ。
カネ長武田百貨店は、スーパーを全国展開していたニチイと組み、ダックシティカネ長武田百貨店となった。平成5年(1993)10月に下土手町の店舗を閉店。国道7号線バイパス近辺に弘前ビブレとして移転した。シネコンを併設した郊外型の百貨店だった。国道7号線バイパスは昭和52年(1977)に竣工。以来、ロードサイド型店舗が沿線に増えてきていた。最後に、同じ場所で大型化したのは中三だった。平成7年(1995)に増築した。縄文土器に着想を得た漏斗状のファサードが印象に残る毛綱毅曠(もづなきこう)の設計だ(図4 旧中三(上)、弘前市庁舎(下)上)。
とはいえ、下土手町から駅前への中心移動は止められず、平成4年(1992)にはイトーヨーカドー弘前店の向かい、「駅前2丁目弘前第一生命ビル前駅前商店街通り」に最高路線価地点が移っている。その後、イトーヨーカドーの南側の再開発地区に弘前駅前地区再開発ビル、「ジョッパル」が完成。平成6年(1994)年3月に核店舗のダイエー弘前店がオープンした。
文化の県都としての伝統と矜持
現在、下土手町に百貨店はない。ハイローザは平成10年(1998)6月に閉店する。中三もコロナ禍で力尽き、令和6年8月29日に閉店した。最高路線価地点は平成27年(2015)から「駅前3丁目駅前商店街通り」となっている。もっともイトーヨーカドーもダイエーも今はなく、商業中心地は7号バイパス沿いにある。
下土手町からかつての賑やかさはなくなったが、その分、弘前本来の落ち着いた街なみが際立ったように思われる。弘前の持つ文化的な雰囲気には根拠がある。かつては弘前藩の外港だった青森に県都の地位こそ譲ったが、弘前は産業や金融、そして教育の中心都市としての地位を維持してきた。なかでも「学都」のブランドは名実ともに現在まで保っている。
明治5年(1872)に開校した東奥義塾は当初から外国人教師を招き、留学生を送るなどしており、弘前の開明的な気風を醸成してきた。東奥義塾と関係が深いメソジスト派(プロテスタント・日本基督教団)、聖公会、カトリックが弘前に布教拠点を構え、いずれも明治大正期に献堂された教会堂が残っている。大正10年(1921)には現在の弘前大学の前身の1つ、旧制弘前高校が設立された。令和2年国勢調査で調べてみたが、現在も、弘前市の人口のうち学生(短大・高専・院生含む)の割合は4.2%で京都市の5.5%、仙台市の4.5%と比べ遜色ない。専門職人口は青森市を上回っている。
昭和7年(1932)には今でいう地域シンクタンクの「木村産業研究所」が発足した。建物は前川國男のデビュー作でもある。前川國男はモダニズム建築の巨匠、ル・コルビュジエに直接師事した3人の日本人建築家の1人だ。母が旧弘前藩士の田中家の出身という縁があり、木村産業研究所の他、弘前市庁舎(図4下)、市立病院、市民会館、市立博物館など8つの作品がある。弘前は近代建築だけでなく現代建築の密度も高い。
城や町割りに残る城下町の面影に加え、文化の県都としての物語と近現代の建築遺産が、観光地としての価値を押し上げている。最近では、明治・大正期に建設された吉野町煉瓦倉庫を弘前市が平成27年(2015)7月に買い取り、隣接する土淵川吉野町緑地の整備と合わせてリノベーション。令和2年(2020)7月、「弘前れんが倉庫美術館」としてオープンした。その後の維持管理と運営を合わせ15年にわたって民間が受託するPFI事業だ。令和6年(2024)の宿泊者数は64万2,432人と、コロナ禍前の水準を上回った。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)
図2 市街図
図3 広域図