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路線価でひもとく街の歴史

第59回 三重県伊勢市
遷座を重ね神都伊勢の中心は内宮前に

 神宮とつく神社は多々あるが、単に「神宮」といえば伊勢神宮である。内宮(ないくう)こと皇大(こうたい)神宮と外宮(げくう)こと豊受大(とようけだい)神宮があり、内裏と離宮の関係と同様、皇大神宮が中心かつ格上で、外宮から内宮の順で参拝するのが作法である。皇大神宮の御祭神は皇祖神、天照大御神(あまてらすおおみかみ)である。わが国の総氏神であり、御神札の「神宮大麻」は地元の氏神とともに家々の神棚に祀られる。豊受大神宮の御祭神は豊受(とようけの)大御神といい、天照大御神の食事を司る御饌都神(みけつかみ)である。両宮の社殿は20年毎に新調され隣の敷地に遷座する。持統天皇4年(690)から続く式年遷宮は平成25年(2013)が62回目で、次は令和15年(2033)の予定である。

河崎(かわさき)町の舟運
 一生に一度は訪れるべき聖地巡礼、お伊勢参りが流行したのは江戸時代だ。古来、伊勢に至るルートは大きく3つある。1つは関西から東に向かう伊勢本街道、もう1つが名古屋から南下する伊勢街道だ。これらは市街地の入り口の筋向(すじかい)橋で合流した。3つ目が勢田川の水路である。伊勢湾に面する神社港(かみやしろこう)から川舟が遡上して川湊の河崎に着く。川に面して蔵や町家が並び、河崎は巡礼地の経済を担う問屋街となっていた。往時の街なみが今も残っている。川と並行する道に沿って町家が修復され、カフェや雑貨店となっている(図1 河崎の街なみ)。中を見学できる博物館的スポットが「伊勢河崎商人館」だ。江戸期に創業した酒問屋「小川酒店」を伊勢市が購入、修復した。
 明治18年(1885)の三重県統計書によれば、伊勢志摩エリア(旧度会(わたらい)郡)の最高地価は「山田河崎町」だった。「山田」は外宮の鳥居前町で現在の中心市街地と重なる。筋向(すじかい)橋で合流した伊勢街道は山田の街を貫き、約6km先の内宮で終点となる。内宮の鳥居前町が「宇治」だ。宇治と山田は長らくライバル関係だったが、明治22年(1889)に合併し「宇治山田町」となった。「三井住友銀行」式の命名だ。市制施行を経て昭和30年(1955)に現在の「伊勢市」となった。

伊勢街道
 伊勢商工会議所「昭和49年度商業近代化地域計画報告書」によれば、宇治山田町が毎年1~5等地に格付けしており、明治20年(1887)の1等地は伊勢街道に沿って筋向橋から八日市場町にかけて分布していた。当時の中枢機能は伊勢街道沿いに集積しており、明治8年(1875)、伊勢に初めて登場した銀行の三井銀行は街道沿いの岡本町にあった。県下一番行で津に本店を置く百五銀行は明治15年(1882)3月、岡本町に支店を開く。当時は第百五国立銀行といった。地元に本店を構えた最初の銀行は山田銀行である。明治27年(1894)5月の創業で本店は宮後町にあった。大正7年(1918)に閉店し、翌年、四日市銀行に買収された。四日市銀行は現在の三重銀行である。

鉄道の開通
 鉄道開通で人の流れに変化が起きる。明治30年(1897)11月、参宮鉄道の山田駅が開業した。現在の伊勢市駅である。参宮鉄道は、四日市に本店を構える関西鉄道との連携を前提に津と伊勢神宮を結ぶ目的で設立された。関西鉄道は、中山道に迂回した官設鉄道の東海道本線に代わり、旧東海道に沿って名古屋から滋賀県草津に至る路線を整備した私鉄である。亀山駅から分岐し津に至る支線を持っていた。参宮鉄道、関西鉄道ともに明治40年(1907)に国有化された。
 山田駅が開業して6年後の明治36年(1903)8月、本町(外宮前)と二見を結ぶ全国7番目の路面電車が開通した。電力会社「宮川電気」が立ち上げた「伊勢電気鉄道」である(後述の伊勢電気鉄道とは別)。延伸を重ね、明治39年(1906)には山田駅から内宮最寄りの宇治に至る路線になった。山田駅で乗り換えて鉄路で外宮、内宮そして二見の二見興玉(おきたま)神社や夫婦岩を周遊できるようになっていた。
 こうして、明治43年(1910)、山田駅から外宮に至る路面電車の道、現在の外宮参道が1等地となった。伊勢街道から山田駅を起点とする電車通りに中枢が移った。大正7年(1918)、百五銀行が伊勢街道沿いから路面電車の通りに移転した。その翌年の2月、三重県農工銀行が同じ通りに出店した。日本勧業銀行に吸収され、現在のみずほ銀行伊勢支店に至る。
 なお、明治43年当時の1等地は新道通にもあった。文政10年(1827)に開かれた道で、筋向橋から河崎町への近道になり、歓楽街としても賑わっていた。伊勢街道に沿って宇治の手前に古市という街があり、こちらも参拝の帰りに立ち寄る歓楽街だったが、鉄道の時代になるにつれ新道通の賑わいも増していった。

伊勢を目指した3本の並走線
 昭和に入るとさらに2本の鉄道が伊勢に乗り入れる。四日市に本社を構える伊勢電気鉄道(伊勢電)と、大阪から伊勢を目指して路線を延ばす参宮急行電鉄(参急)である。まず、伊勢電は大正4年(1915)9月に一身田町・白子間で開業。以降延伸を続け、昭和5年(1930)12月に外宮前に大神宮前駅を開業する。北は桑名から南の大神宮前駅まで伊勢平野を縦断する路線となっていた。2つ目の参急だが、こちらは現在の近畿日本鉄道(近鉄)の前身、大阪電気軌道(大軌)傘下の鉄道だった。昭和4年(1929)、伊賀上野・名張間で開業したのをはじめとして、伊勢に到達したのは伊勢電に3か月早い昭和5年9月である。(当時)国鉄山田駅の北側に開駅し、こちらも山田駅と名乗った。翌年3月、高架橋を架けて600m先の宇治山田駅まで延伸する。スパニッシュ様式のモダンな駅舎は国の登録有形文化財になった。
 この時点で国鉄参宮線の山田駅、伊勢電の大神宮前駅、参急の宇治山田駅の3本の路線と3つの駅があった。時世も背中を押す形で神宮への参拝者が急増。経路となった駅前の価値は以前に増して上昇した。昭和6年(1931)の最高地価は外宮参道の他、新道通、高柳通に分布していた。重心が西に拡大した形だ。
 伊勢電は度重なる設備投資で体力が低下していた。名古屋・桑名間が途絶していたのもネックだった。大軌は名古屋駅までの延伸をもくろみ、昭和11年(1936)、伊勢電を参急に合併させる。昭和13年(1938)6月、子会社に整備させた桑名・名古屋駅間の路線が完成。旧伊勢電の江戸橋駅(津の北郊)と参急の津駅の間の連絡線も完成し、大阪から名古屋まで繋がった。大神宮前駅は昭和17年(1942)に廃止されたが、江戸橋駅から新松阪駅までの旧伊勢電の路線は戦後も残り、昭和36年(1961)まで2線が並走していた。

新道通から再び駅前へ
 戦災で駅前が荒廃し戦後の中心地は新道通となる。路線価地点名の初出は昭和44年(1969)で「一之木町紅谷菓子店前通り」となった。紅谷は同じ場所で今も営業している。
 昭和53年(1978)、最高路線価地点が駅前の「本町ジャスコ百貨店前通り」に移った。ジャスコが開店したのは昭和36年(1961)7月で、当時は前身の伊勢オカダヤだった。昭和41年(1966)4月に5階建の店舗を新築する。昭和44年(1969)11月には三重交通が駅前に5階建の三交ショッピングセンター(SC)を開店した。昭和48年(1973)10月、外宮参道の向かい側に完成した伊勢駅前ビルにジャスコが入り新館(B館)を開店する。その後三交SCは業態転換して三交百貨店となり、昭和54年(1979)には背後に店舗を増築して「ジョイシティ」とした。昭和40年代以降の大型店の拡大競争の結果、新道通から西に延びる商店街の売場面積を駅前が凌駕するに至った。

巡礼道に始まる車時代と駅前の空洞化
 新道道と駅前の攻防の一方、車社会化も少しずつ進んでいた。路面電車は三重交通に引き継がれ神都線として運行されていたが昭和36年(1961)に廃止。伊勢電の廃線跡が転じてわが国初の有料道路となった参宮有料道路や伊勢志摩スカイラインが整備され、観光バス、次いでマイカーで巡礼する時代となる。
 昭和50年(1975)10月、国道23号南勢バイパスが開通した。バイパス沿いに初めてできた郊外大型店は昭和56年(1981)1月に開店した伊勢SC「ララパーク」だ。核店舗はジャスコだが、地元テナントが売場面積の約半分を占める地元主導型だった。平成5年(1993)3月、後に東名阪自動車道に連絡する伊勢自動車道が伊勢ICに到達し全線開通する。翌年6月には南勢バイパスが全線4車線となった。郊外勢に押される形で平成7年(1995)10月、ジャスコ伊勢店のA館が閉店。翌年9月にB館も閉店したが、そのさらに翌年の平成9年(1997)4月、伊勢西ICのふもとにジャスコ新伊勢SCがオープン。要するに駅前から郊外に移転した形だ。平成13年(2001)5月には三交百貨店も閉店し駅前から大型店がなくなった。

郊外立地の旧街道・おはらい町の勢い
 広域図(図3 広域図)の通り、伊勢志摩エリアの2大基幹病院が郊外大型店の至近にあり、バイパスと高速道路に関係する立地に商業・医療の郊外拠点が形成されている。平成16年(2004)には最高路線価地点が旧伊勢街道の終点で内宮前の「伊勢市宇治今在家町館町(いまざいけちょうたちちょう)通線通り」となった。式年遷宮ではないが、街の中心地は20~30年で遷り変わり、現在は南勢バイパスの終点で高速道路ICに程近い郊外である。古来の伊勢の中心に最高地価が回帰したとも言える。車社会化が人を集めるのに奏功したことは参拝者の推移(図4 伊勢神宮参拝者の推移)からもうかがえる。この20年、インバウンドのブームに乗じた観光地としての価値の高まりとともに年々地価が上昇している(図5 最高路線価の推移)。県内の他都市と比べると、平成17年(2005)にはライバルの松阪市、平成23年(2011)には名古屋大都市圏の桑名市、平成26年(2014)には県庁所在地の津市を追い越した。いまや四日市市に次ぐ水準だ。
 場所は同じだが、令和4年から地点名が「内宮おはらい町線通り」となった。全国に赴き巡礼ツアーを勧誘し、来訪者を泊め、もてなした「御師(おんし)」の屋敷が集まっていたことが「おはらい町」の由来だ。祈祷もサービスの1つだった。図6 おはらい町のように、江戸~明治期の鳥居前町の街なみが印象的な通りだ。切妻屋根の“ハ”側が道に面する「切妻・妻入り」が伊勢の伝統町家の特徴である。独自のデザインコード「内宮おはらい町まちなみ保全整備基準」に沿って再現されたものだ。おはらい町の再生を主導したのは、通りの中央に本店を構える伊勢土産の定番、赤福だった。通りを挟んで本店の向かい側に、おはらい町の景観と一体化した「おかげ横丁」がある。赤福が周辺の敷地を買い集めて平成5年(1993)に開業した町家風オープンモールだ。名称は江戸時代の「おかげ参り」にちなむ。30年が経過した現在、おはらい町の通りにもおかげ横丁の店舗が散在している。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図2 市街図