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令和6年度職員トップセミナー

講師 神﨑 亮平 氏(東京大学 名誉教授 東京大学 先端科学技術研究センター シニアリサーチフェロー)

見えない世界に価値をみいだす~人間中心から自然中心への視座の転回~
令和6年9月19日(木)開催


はじめに
 本日のテーマは3つです。
 まず1つ目は「なぜ今、自然と共存する科学技術なのか」です。私の所属する先端科学技術研究センター(注:以下「先端研」)は、まさに最先端の科学技術に取り組んでいる研究所ですが、私が所長のとき(2016年度-2021年度)、所のこれからの方向性として、自然と共存した持続的な社会の構築の重要性が議論され、その実現には、人間中心から自然中心への転回が重要と考え、所もその方向に大きく舵を切ることにしたのです。このセミナーでもまずは、このような視座の転回の重要性について述べたいと思います。
 2つ目は「自然の価値」についてです。人の視座から離れ、昆虫など人とは異なる生物の視座に立つことで「見えない世界」にある価値、新しい「自然の価値」が見いだされることを紹介します。
 3つ目は、「昆虫の知能はAIを超えるか」です。「見えない世界」の情報を適切に使うことで、現代の科学技術をしてもまだ解けない課題解決のヒントが得られることを紹介します。AI(人工知能)は、我々が知っている知識を統合しますが、知らない知識をAIは使えません。我々には「見えない」、「知らない」世界は、実は情報の宝庫なのです。その価値を知っているのは我々人間でなく、多くの生物、生命なのです。知らない世界には課題解決の重要な鍵が潜んでいて、それを使えば現代の科学技術だけでは解けない課題解決の糸口が与えられることを、匂いの検出と探索という難題を例に紹介します。
 また、このような人間中心から自然中心への視座の転回は、次代を担う子供たちの育成のうえでも大切であることも述べたいと思います。

なぜ今、自然と共存する科学技術なのか
1.東京大学先端科学技術研究センター
 先端研の大きな目標は「誰もが幸せになれるための新しい科学技術の開拓」です。様々な分野が協力して社会課題の解決に挑戦しています。
 研究所というと、通常は宇宙や地震、数学など、特定分野を研究するのですが、先端研のユニークなところは、カバーする分野が広く、理学から、医学、工学、情報、社会科学、さらにはバリアフリーに至ります。学際性が豊かな研究所なのです。
2.日本の科学技術の方向性
 現在、第6期科学技術イノベーション基本計画(2021年度~2025年度)が進行中です。この基本計画は、多様な人々のWell-beingの実現と、その実現に向けた人材育成という大きな方針で進められています。具体的には、人工知能やバイオテクノロジー、量子コンピューター、太陽電池、宇宙・海洋、環境・エネルギー、健康・医療、食糧問題といった分野が中心となっています。
 先端研の方向性を議論していた時に、私は「こういう方向性だけで本当にいいのでしょうか?」という疑問を教授会になげかけました。
 確かに重要なテーマばかりですが、人が自然を支配して利用することしか考えていないように思え、このような問題提起をしたのです。
 17世紀から発展したいわゆる科学技術は人間を中心として、人と自然を切り離して対象とすることで発展してきました。もちろんこの方向性も大切で、人類は大きな恩恵を受けてきました。しかし、自然との共存や持続社会を考えると、欠けているところがあるのではないか、人間中心に偏りすぎているのではないかということです。
 「見える幸せ」に取り組み、それをWell-beingと呼んでいるのだろう、とは思うのですが、一方で、心のつながりや、自然との協調・共存、また感性のような「目に見えない」つながりに関してはほとんど考慮されていないのではと思ったのです。
3.人間中心から自然中心への視座の転回
 私たちの行動には脳の働きが大きく関わっています。この脳には大きく2つの働きがあります。1つは大脳新皮質の役割で、ヒト独特の理性や認知、いわゆる科学技術を生み出す働きです。これによりロジックを作り意識して行動できるわけです。
 もう1つの脳の役割は、感性や本能など言葉では表現が難しい働きで、無意識もそれに含まれます。感性や本能は芸術ともかかわり、生物が自然と調和し、自然と一体化していく、そんな脳の働きです。
 理性はヒトに特徴的な働きで、まさに現代の科学技術を生み出してきました。17世紀ごろから発展した近代科学では、自然を科学の対象とするため、人と自然を切り離し、自然を理解し、自然を制御・利用しようという方向で大きく発展しました。その結果、人類に多大な恩恵をもたらしました。一方で、自然への過剰な負荷により、環境やエネルギーや資源など様々な課題をグローバルなレベルで生むことにもなったのです。
 冷静に考えれば、人というのは自然と切り離せない存在であって、人も自然の一部であるということに気づくはずです。当たり前のことでありながら、人間を中心とした現代社会においては軽視されてきたところでもあるわけです。
 様々な課題は自然とともに、自然を中心として考えて解決していくことが、本来あるべき姿ではないのか。特に我々日本人は「水にも石にも神や仏が宿る」、あらゆるものがいのちを持ち、大切であると感じる高い精神性を持っていると思います。そのような精神性から、「もったいない」のこころも生まれてきたと思います。自然との関係性の中でもう一度、科学技術のこれからの在り方を考えていく必要性があるのではないか、そのような問題意識を持ったわけです。
 繰り返しになりますが、人間を中心とした視座では、人と自然を分離する、個と全体も分ける、自と他も分ける、物と心を分ける、そういうところから最適解を目指すという方向性だったわけです。人と自然を分離した結果、様々な課題が起きてきた。これは周知の事実です。
 私たちはこれまで、理性を中心に据えたうえで、感性が大切だ、こころも、倫理も、人間性も大切だと、問題が起こるたびにパッチを当てるようにそれらを付け足してきたように思います。実はこの方向性は逆なのではないでしょうか。感性や人間性が先にあって、そういう中から理性、すなわち科学技術を発展、展開させていくことが、本来の姿なのではないでしょうか。これが本来の科学や技術の進むべき姿だと私は考えています。
 そのような考えを巡らしていたときに、空海の思想に行き当たったわけです。空海は実に1200年以上前に、高野山においてそのような思想を展開していたのです。
4.科学、芸術、宗教の調和:高野山会議
 空海と科学者とはかなり乖離がありますが、高野山のある紀伊山地(和歌山県)に南方熊楠がいてくれたというのは、私にとっては非常にありがたいことでした。南方熊楠は自然界を「南方マンダラ」という世界観で表しています。彼は土宜放龍(どきほうりゅう)という後の高野山真言宗の管長とイギリスで出会い、長らく交流を持っていました。そのような中から、熊楠は自然の大切さというのでしょうか、人も自然の一部だという精神性をもとに熊楠の自然、宇宙、生態学の概念を生み出したのではないかと思うのです。
 熊楠の背景には自然があり、空海がおり、高野山があったわけです。このような関係性に後押しされ、空海の宇宙をも包括する世界観とこれからの科学技術の方向性を考えるため高野山に行くことにしたのです。
 当時、高野山金剛峯寺のトップ(宗務総長)の方といろいろとお話をさせていただいたのですが、残念ながらなかなか相手にしてくれませんでした。「我々科学者は、科学技術によってだれも(あらゆるもの)が幸せになれるような世界をつくりたい。仏教も同じこころではないのでしょうか」と何度も出向いて説明をさせていただきました。
 このとき幸運だったのは「仏教と科学」というご著書もおありの松長有慶(まつながゆうけい)猊下にお目にかかり、たいへんご理解いただけたことです。当時90歳を迎えておられましたが、「わしが若かったら、神﨑さんと絶対やる!」とおっしゃってくれたのです。
 ちょうどその頃、先端研では東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターの近藤薫さんと理性と感性に係る議論を展開していたこともあり、お誘いをして高野山に同行いただきました。そして、その席で、バイオリンの演奏をいただいたのです。音楽とは素晴らしく、高野山金剛峯寺との壁はさらに低くなり、ついに1200年の壁を乗り越えることになったのです。
 宗教と科学は対峙するものと思われがちですが、視座の違いはあるものの、共にあらゆるものの幸せを目指すという方向性は共通しています。お互いに言葉では説明が難しい中に、感性、音楽がはいることにより、その壁の融和が図られたのです。そしてトントン拍子に連携協定を結ぶことになったのです。
 このようにして、1200年の歴史を持つ高野山金剛峯寺のご協力を得て、人間中心から自然中心へと視座を転回し、これから1200年後の我々のあり方を問い、それを実践するため、科学・芸術・デザイン・哲学・宗教・教育をはじめとする様々な分野に関わる人々が集い、対話を通して未来をかたちづくる「高野山会議」が始まったのです。和歌山県や高野町などの自治体とも連携を結び、「高野山会議」を1200年後まで続けていくことになったのです。第1回の高野山会議は、コロナ禍まっただなかの2021年に開かれ、今年7月には第4回が開催されました。約2,000人が参加してくれたのです。
 先端研ではこのような流れを加速すべく、人間中心から自然中心への視座転回を念頭に、感性・芸術・デザインの分野を設置しました。東京フィルハーモニーや東京藝大、ミラノのデザイナー、アーティストとの連携が始まり、そして、高野山会議を主宰する「先端アートデザイン」分野が動き始めたのです。
 次にこのような視座転回のきっかけとなった「自然の価値」について、実はこれは昆虫の世界から学ぶことになったのですが、お話しします。

自然の価値:昆虫から学んだ見えない世界の価値
1.環境世界
 「環境世界」というキーワードがあります。自然環境には様々な物理・化学的な信号がありますが、その中で検出できる情報は生物の種類によって大きく異なります。このような世界を「環境世界」と言います。
 人にももちろん「環境世界」がありますが、自然のなかのほんの一部の世界にすぎません。AIは今のところ、人の「環境世界」の情報しか使えません。知らない情報はAIには与えることはできないからです。自然界には様々な隠された価値のあることを知っているのはほかならぬ生物なのです。自然と共存した持続的な社会を構築していくうえで、私はそこに重要な鍵が潜んでいると考えています。見えない世界に新たな価値を見出す新しい価値創造です。
 地球上には180万種類もの生物が生息しています。ヒトはわずか1種ですが、昆虫は実に100万種以上で、全生物種の半数以上を占め、あらゆる環境で生息しています。このような昆虫と人の世界を比較することで、「見えない世界」の重要性を次に紹介します。
2.人の世界と昆虫の世界
 ここで重要となるのは次の3つのキーワード、「感覚」と「時間」、そして「大きさ」の世界です。
(1)感覚の世界
 まずは「感覚の世界」です。地球を含め宇宙は様々な物理・化学的な情報で満ち溢れていることはご存知だと思いますが、もともとは色も音も味もなかったことはご存知でしょうか? 色や味や匂いといった価値を与えたのは、実は生物なのです。生物がいなければこのような価値は存在しないのです。
 「環境世界」でお話ししたように、生物によって使える情報が随分変わります。我々は光を色としてみることができます。光は電磁波ですが、人は400nmから800nmくらいの波長の光を色として感じるわけです。ところがミツバチは、我々が色として見ることのできない光、例えば紫外線を色として感じることができます。
 菜の花は、我々には花びら全体が同じ色にしか見えないのですが、紫外線が見えるミツバチには真ん中の色が違って見えるのです。実はそこに蜜があることを瞬時に見分けられます。我々にはそれができません。
 昆虫は匂いを探すのが得意です。オスのガはメスのフェロモンという匂いを頼りになんと2kmも離れたメスを探すと言われています。人にはこのフェロモンの匂いは全くわかりませんし、匂いがわかっても探し出すことは不可能です。
 視覚や匂いだけではなく、聴覚も同様です。人は20Hzから20kHzの範囲の音しか聞き取れないのですが、超音波あるいは低周波の音を聞き分け、コミュニケーションに使っている生物もいるわけです。このように感覚の世界というのは、生物によって随分違いますし、我々が検出できる感覚の世界はそのほんの一部でしかないわけです。
(2)時間の世界
 次は「時間の世界」です。点滅している光は、周波数を上げていくと、どこかで常に光っているように見えます。この周波数を「臨界融合頻度」といいます。私たちは網膜にある光を感じる細胞(視細胞)で光の点滅を感じるわけですけが、一番よく見えるのは網膜の中央部で、1秒間に60回くらいの点滅が区別できます。しかしその周辺部では20回程度になってしまい、平均すると30~40回になります。それ以上の周波数では点滅していても、常に光っているようにしか見えないのです。
 ミツバチは1秒間に250回羽ばたきますが、ミツバチの臨界融合頻度は300回以上です。我々にはミツバチの羽ばたきは目にも止まらない速さですが、ミツバチは一回一回の羽ばたきを区別してみているようです。
 このように一瞬の時間は、生物によって大分違うのです。時間も生物にとっては感覚なのです。
(3)大きさの世界
 最後に「大きさの世界」です。私たちのからだが昆虫ぐらい小さくなったらどうなるのでしょうか。おそらく周りが大きくなったというイメージで捉えているのではないでしょうか。実はこれは大きな誤りで、大きさが昆虫くらいに小さくなると、世界はだいぶ違ってきます。力の関係が変わってしまうという世界になってしまうのです。
 その世界は、面積と体積の関係からわかります。面積は縦×横、体積は縦×横×高さで求めます。面積は長さの2乗、体積は長さの3乗です。ここで、体積に対する面積の比を取ると、小さくなるにしたがって、その値はどんどん大きくなるのがわかると思います。つまり、小さくなると面積で効いてくる力が支配的になってくるのです。その力には、摩擦力や粘性力があります。小さなサイズでは、摩擦力や粘性力が相対的に大きくなり、空気もねばねばになってくるのです。
 小さくなると重さは長さの3乗で軽くなるので、小さな力で動かせそうですが、摩擦力や粘性力は2乗でしか小さくなりません。したがって、想定していた力では動かなくなるわけです。関節の構造はご存じと思いますが、ここには摩擦が大きく働き、1mくらいの人では問題ないのですが、1mmくらいの昆虫では、間接構造では動くことは難しくなります。昆虫は間接構造を基本的には使わない構造で羽ばたくことができるのです。大きさに応じた構造を生物は持っているのです。
 空気についても、小さな蚊にとっては、ネバネバしたハチミツぐらいの粘性を持つことになります。蚊はハチミツの中で数百回も羽ばたいているのです。大きさによって、このように働く力の関係もだいぶ違ってくるのです。
 同じ環境にいれば同じように環境を感じていると思っていたかもしれませんが、生物によって、ずいぶんと違った世界が広がっているのです。
3.主観の世界と客観の世界
 これまでのお話でおわかりのように、「環境世界」は動物によって異なっています。実は人それぞれでも少しずつ違っているのです。
 例えば、ここにリンゴがありますが、何色に見えますか? と聞くと、皆さんは「赤」と答えると思います。それを聞くと、皆さんで同じ「赤」という感覚を共有していると思い、安心するのではないでしょうか。
 でも、よく考えてください。このリンゴから反射した700nmくらいの波長の光が皆さんの網膜に届き、視細胞が反応することで皆さんは赤と認識するわけです。ところが、この視細胞の電気的反応を計ってみると、なんと皆さんそれぞれで反応が少しずつ異なるのです。
 つまり、視細胞から脳には違った信号が届くことで、皆さんは「赤」を感じているのです。外界にある同じリンゴの赤を見ているかもしれませんが、実は、皆さんが感じている「赤」は、皆さんそれぞれで少しずつ違っているのです。計測装置で計れば一本のピークが立つのですが、生物の感覚器はそうはいきません。まさに生物の多様性です。私たちはこのように主観の世界で生きているわけです。
 私が尊敬するヤーコプ・フォン・ユクスキュル(ドイツの生物学者)は、今日の脳科学や神経科学の知見を全く知らない時代においてすでに、「生物により環境の捉え方は異なる」と言っています。これは彼の著書「生物から見た世界」にある挿絵ですが、リビングダイニングにある書棚とかベンチ、テーブル、食べ物、電灯、机などを色分けすることで、人と犬、ハエで、同じ環境でもその意味が違うことを示しています。人の世界では書棚、ベンチ、テーブルなどすべてに意味があるけれども、犬にとっては、ベンチとイスと食べ物ぐらい、ハエのような昆虫にとっては、電灯と食べ物ぐらいには意味があるが、あとは意味がない、価値がない、というわけです。
 そして、ユクスキュルは、「“環境”はすべての生物を取り囲む客観的なものではなく,生物自身を中心にして意味(価値)を与えるもの」と結論付けています。
 現代の私たちはそのような世界の違いを計測技術を使うことで、サイエンスとして理解できますが、そのような情報がない時代に、ユクスキュル、さらにはカントのような哲学者が主観世界、客観世界とはどのようなものかという議論を展開していたことは驚きです。
4.「見えない世界」に価値を見出す
 自然の世界を人間を中心とした視座でみてしまうと、環境世界でもご紹介したように、狭い世界しかわかりません。視座をひとたび自然へと転回することで広大な世界が広がってきます。人以外の生物が進化で獲得した多様な環境世界を知ることで、自然の内に秘められた未知の情報の価値を紐解くことができるのです。
 私たちは「見えないものには価値がない」と思いがちですが、その見えない世界にこそ大きな価値が潜んでいるわけです。それがまさに新しい価値創造につながると思います。
 今まではどうしても人のロジックで判断できる認知世界、意識の世界、土俵だけで課題の解決に当たってきたわけですが、視座を転回して動物たち、特に昆虫の世界からその課題を見直すと、これまで未解決の課題、また同じ課題に対しても違った角度から解くための鍵を知ることができるのです。人が考えもしなかった、思いもつかなかった課題解決の道筋が浮かび上がってくるわけです。
 このような課題解決法は、生物が長い歴史の中で自然との相互作用から生み出されてきたものであり、自然と協調・共存しながら持続的な社会を創造するうえでの重要な鍵になると思います。
 人が知らない自然界の力を利用することは、AIにはできないことであり、私たちがこれから深く探究していく必要があると考えています。わが国がリードしてこのような取り組みを積極的に進めてほしいと思っています。

昆虫の知能はAIを超えるか:生物知能を科学的につかう
1.昆虫の知能
 ここからは、昆虫の知能はAIを超えるかということをテーマに、人ではなく昆虫の知能から現代の科学技術では解けない問題を解くための鍵が得られることをご紹介します。
 昆虫は、地球上に生息する180万種の生物のうち実に100万種以上占め、あらゆる環境下で生息しています。まさに環境下でどのような信号を検知し、それをどのように処理をすれば課題解決に至るかを知っているわけです。
 昆虫のからだは小さいですが、体表にセンサを張り巡らせ、小さな脳による処理で様々な知的な能力を発揮します。昆虫の脳を作る神経細胞(ニューロン)はヒトと同じです。ヒトの脳は巨大で1,000億個もの神経細胞からできているのに対して、昆虫はわずかに10万個で、人の100万分の1のスケールです。
 このような昆虫ですが、想像を超えた能力を発揮します。例えば、昆虫の顔はみな同じだと思われているかもしれませんが、実は少しずつ違います。昆虫は顔の違いを個別に認識する、顔認識ができるのです。コオロギは喧嘩をして負けた相手とは喧嘩をしません。個体識別ができるのです。
 学習能力も優れていて、景色と匂いの関係を覚え、特定の場所を周りの景色から学習するという高度な能力も持ち合わせているのです。
 また、たくさんのショウジョウバエを同じ場所で歩かせても、お互い譲り合って衝突することはありません。
 チョウが花の蜜を吸う行動はよく見かけますが、この行動が起こるためには、味覚、嗅覚、視覚、触覚など異なる種類の感覚が正しく処理される必要があるのです。わずか、1mmの脳がこのような処理を見事に行うことで初めて花の蜜を探しだす行動ができるわけです。
 現代の科学技術を駆使することで、このような昆虫の脳についてかなりの分析ができるようになってきました。さらには昆虫のセンサや脳を再現して、工学的に活用することで、これまで科学技術では解決できなかった課題の解決に活用する研究も進められています。
2.昆虫の匂い検出・探索能力を搭載したロボット
 カイコガ(Bombyx mori)という昆虫をご存じでしょうか。繭からシルク繊維を作る昆虫です。このカイコガのオスはメスが出す匂い(フェロモン)によって、メスを歩いて探します。飛行するガでは数km離れたメスを探すことが知られています。
 実はこのような遠く離れた特定の匂いを探し出すことは、現代の科学技術でも未解決の難題なのです。被災地で生き埋めになった要救助者を匂いで探すことができるのは犬くらいです。最新の科学技術を駆使しても、生物ほど感度がよくて選択性の高い匂いセンサはまだ作られていません。
 また、匂い源を探すアルゴリズムについても十分に性能の良いものはまだないのが現状です。なぜ匂い源の探索が難しいかというと、匂いは風で運ばれるので、その分布が時々刻々と複雑に変化するからです。周りの匂いから区別して、特定の匂いを探すことがいかに難しいかは想像に難くありません。
 そのような理由から、これまで特定の匂いを検出し、その発生源を探索するロボットはなかったのです。ところが、昆虫は実に見事にこの匂い源探索をしてのけるわけです。そうであるならば、昆虫の能力を明らかにして、それを活用すれば、匂い源探索ロボットを世界で初めて作ることができるかもしれないわけです。
 そこで、昆虫の能力をロボットに実装すれば、本当に匂い源を探索できるのかを確かめるために、昆虫が操縦するロボットを20年近く前になりますが、作ったのです。
 空気浮上しているボールの上にカイコガを乗せます。カイコガが歩くとボールが回転するので、その回転量を光センサで読み取れば、カイコガの動きがわかります。そこで、その光センサの値を使って、カイコガが動いたのと同じようにロボットを動かしたのです。つまりカイコガが運転する「昆虫操縦型ロボット」を作ったわけです。これは雑誌Scienceに映像が紹介されていますので、ぜひご覧いただきたいと思います(http://www.sciencemag.org/news/2017/01/watch-moth-drive-scent-controlled-car)。
 フェロモンが流れる環境にこのロボットを置くと、カイコガのオスと同じような動きでメスを確実に探索することがわかったのです。つまり、カイコガの匂いセンサや脳の仕組みをロボットに実装すれば、これまで科学技術を用いても解けなかった難問を解決する匂い源探索ロボットを作ることできるというわけです。
 そこで、昆虫の匂いセンサである触角や昆虫の脳に潜むアルゴリズムを明らかにすることになったのです。
3.昆虫の匂いセンサをつくる
 昆虫の匂いセンサは触角にあります。カイコガの触角には、0.1mmくらいの小さな毛がたくさん生えています。その毛の1本をみると、内部にメスのフェロモンに特異的に反応する匂いセンサ(フェロモン受容細胞)があります。センサの表面にはフェロモンを検出するタンパク質があり、フェロモンが結合すると、イオンの電流が流れてセンサが反応します。そしてその信号が脳に届き、匂いを探す行動が起こるわけです。
 このフェロモンに反応するタンパク質は他の匂いには全く反応しないので、他の匂いでは行動が起こりません。ところが、最新の遺伝子工学の技術を使うことで、例えばAの匂いに反応するタンパク質の遺伝子をフェロモンの匂いセンサに導入することで、本来フェロモンにしか反応しない匂いセンサをAの匂いに反応するように改変できるのです。つまり、改変したカイコガはAの匂いをメスだと思って探してしまうわけです。フェロモンに反応するタンパク質を取り去ることもできるので、触角がAの匂いにしか反応しないようなセンサ、そういう触角を作ることができるのです。
 このような方法で、特定の匂いに反応する触角をもったカイコガを作ることができるのです。そのような昆虫を「センサ昆虫」と呼んでいます。「警察犬」になぞらえて「警察昆虫」とも呼んでいます。
 センサ昆虫の例を紹介しましょう。コナガという世界的な農業害虫で、被害額は年に何千億円にも上るといわれていますが、そのメスのフェロモンに反応するようにオスのカイコガを改変しました。すると、このセンサ昆虫はコナガのメスのフェロモンを検出すると見事にメスを探し出したのです。センサを変えても、脳の中の匂い源を探索するための神経回路が正常に機能していたので、匂い源であるメスのコナガを探索できたわけです。
 他の例は、マツタケの成分に反応して、マツタケを探し出すセンサ昆虫です。このセンサ昆虫もマツタケに反応し、見事に探索することができました。
 このような技術は今後、医療、農業さらには、安全保障などの分野への活用が期待されています。今回は触角への応用としてご紹介しましたが、昆虫培養細胞にもこの技術は適用でき、特定の匂いを検出すると蛍光強度(色)が変化するセンサも作出でき、応用から社会実装までが現在進められています。
4.昆虫の脳をつくる
 昆虫の脳の中には、匂いを探すアルゴリズムが内在しています。このアルゴリズムを神経の回路として明らかにする研究も長足に進んでいます。
 昆虫の脳を作る神経細胞の形は様々です。昆虫の脳をジグソーパズルの絵とすれば、神経細胞はピースに当たります。ピースである神経細胞の形と働きを明らかにして、脳を作る神経細胞のデータベース化が進められています。
 集められたピースをジグソーパズルのフレームに当てはめていくようにして、神経回路(脳)を精密に再構成することが技術的にできるようになってきました。
 さらには、日本のフラッグシップ・スーパーコンピュータである「京」や「富岳」を使って、再構成した神経回路をリアルタイムでシミュレーションすることも可能になってきました。その結果、昆虫の脳にある匂いを探す命令を作る神経回路を再現し、その働きがシミュレーションできるようになったのです。
 余談にはなりますが、ショウジョウバエでは、脳を作る約2万個の神経細胞のほぼすべての情報がデータベース化されています。私たちのグループの加沢知毅特任研究員のチームが作ったプラットフォームにそれらのデータを入れていくことで、脳が再現されるのです。約800個の神経細胞を使って脳を部分的に再現し、神経活用の様子を「富岳」でシミュレーションすることにも成功しています。
 まだ完全ではないですが、カイコガが匂い源を探索する際の動きの命令を作る神経回路のモデルを実装し、匂いセンサとして切除した触角を装着した、まさに昆虫の機能を再現した匂い源探索ロボットができあがったのです。
 切り取った触角の先端と基部に電極を入れることで、匂い(フェロモン)に高感度で反応する匂いセンサとして使えます。このセンサの信号によって神経回路モデルが動く仕組みです。このロボットをフェロモンが流れる環境におくと、カイコガのようにジグザグに動きながら、匂い源を探索したのです。
 人が考えたロジックではなく、昆虫のロジックと昆虫のセンサを実装したロボットで、世界で初めて匂い源を探索することに成功したのです。
5.昆虫工学:生物知能を活用した先端技術
生物は環境との相互作用を通して様々な環境に適応する仕組みを進化させてきました。そこには、私たちの想像を超えた仕組みも潜んでいたのです。このような生物の能力を「生物知能」と呼んでいます。
人以外の生物の知能に注目し、自然に隠された価値を見出し、それを活用することで、自然と協調、共存を図る、これまでにない課題解決法が示されるのです。生物のなかでも全生物種の50%以上を占める昆虫の知能を活用した工学(昆虫工学)は、これまでの人一辺倒のロジックの枠を超えた課題解決の鍵となるでしょう。
ちょうど1年前になりますが、昆虫の知能について「日経サイエンス」で特集いただいたのでご紹介させていただきます。また、私たちのこのような研究が、高校の生物の教科書にも紹介されるようになりました。さらに生物だけではなくて、物理の教科書で「昆虫操縦型ロボット」や、昆虫脳のコンピュータシミュレーションなどが紹介されています。多くの高校生に私たちの研究を学際的な研究として知ってもらえることを本当にうれしく思っています。

最後に

 私が本日申し上げた、人間中心から自然中心への視座の転回や、科学と芸術のバランスや自然との調和は、人類が今後、科学技術をさらに発展させ、持続的な社会を作り上げていくうえで、再度考えていくべきポイントであると思います。特に次代の社会や科学技術を担う子供たちの育成のうえでは大切です。
 現在、理科教育ではSTEM教育からSTEAM教育へと舵が切りなおされています。STEMすなわちScience(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)という理科、理性一辺倒の教育に、Art(芸術・感性)を入れ、理性と感性のバランスのとれた人材育成を目指すのが、STEAM教育と考えています。さらには、視座を自身から自然へと転回することがAであると思います。この転回ができて初めて、自分以外の他人や自然、そしていのちの大切さを感じることができるものと思います。
 私は仲間と、先端研や尾瀬で小中高生を対象とした自然探究教室やサイエンスキャンプを行っています。五感と感性を通して自然に触れ、さらに理性でサイエンスをする。東京フィルのコンサートマスターにも来てもらって一緒にその場で演奏会を行う、あるいは障害の当事者でインクルージョンの専門家にも来てもらうなど、自然環境と理性と感性の世界を子供たちと共有し、体験によって学んでもらいたいと思っています。
自身の視座から自然へと視座を転回することで、あらゆるものがつながり、価値を持つことを体感し、そのような世界観からヒト独自の理性を発揮して、これからの人類のWell-Being、持続的な社会を切り拓いてくれる子供たちが育ってくれることを切に祈り、またそのような育成に少しでも貢献できることを祈り、講演を終わりにさせていただきます。
 長時間ご清聴いただきまして、どうもありがとうございました。

講師略歴
神﨑 亮平(かんざき りょうへい)
東京大学 名誉教授
東京大学 先端科学技術研究センター シニアリサーチフェロー
1986年筑波大学大学院生物科学研究科博士課程修了(理学博士)、アリゾナ大学神経生物学研究所博士研究員(1987-1990).2003年筑波大学生物科学系教授、2004年東京大学大学院情報理工学系研究科知能機械情報学専攻教授、2006年同先端科学技術研究センター(先端研)生命知能システム分野教授、先端研所長(2016-2022)、アリゾナ大学Dep.of Neurosci.Adjunct Professor(2003-)、ミラノ-ビコッカ大学名誉学位(2019)、高野山大学客員教授(2023-)、東京大学名誉教授(2023-)、先端研シニアリサーチフェロー(2023-)、「高野山会議」ファウンダー.橋本市文化賞(2015)、和歌山県文化賞(2020)、橋本市岡潔数学体験館名誉館長(2024-)、JSTさきがけ「生体多感覚システム」研究総括(2022-)、JST ジュニアドクター育成塾、STELLA 推進委員長(2017-)。
進化により獲得された生物(昆虫)の知能を生物学・工学・情報学の融合的アプローチにより再現し活用する研究、スーパーコンピュータ「京」「富岳」に昆虫の脳をつくる研究、匂いセンサの研究などに従事。
日本工学アカデミー会員(2019-;理事2024-)、日本比較生理生化学会会員(会長2011-2015)、国際神経行動学会会員など、日本比較生理生化学会・学会賞(2008)、日本神経回路学会最優秀研究賞(2012)、JSPS ひらめき☆ときめきサイエンス推進賞(2013)、第2回HPCI(京)利用研究課題優秀成果賞(2015)、東京大学工学部2015年度Best Teaching Award(2016)など多数受賞。
著書「サイボーグ昆虫,フェロモンを追う」(岩波書店,2014)、「ブレイクスルーへの思考」(東京大学出版会,2016)、「昆虫の脳をつくる」(朝倉書店,2018)など多数。