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路線価でひもとく街の歴史

第58回 岐阜県岐阜市
センターゾーンで再結合する新旧4代の中心地

御鮨街道と籾屋町
 永禄10年(1567)、織田上総介信長が岐阜に入城。諸説あるが、“岐阜”は「周の文王、岐山より起り、天下を定む」の故事に則り信長が命名した地名だ。その後「天下布武」の印章が使われ始めた。城山の金華山の古称は稲葉山といい山麓の伊奈波(いなば)神社にちなむ。
 徳川の治世になると岐阜城は廃止され、中山道の宿場は城下町から南に3km余の加納に置かれた。現在の岐阜城は昭和31年(1956)に再建されたものだ。城は廃止されたが旧城下は長良川の舟運で繁栄した。川湊があった湊町、玉井町、元浜町の3町を総称して川原町(かわらまち)という。今は往時の町家が並ぶ観光名所だ(図1 川原町(玉井町)の街なみ)。
 長良川は1300年の歴史を持つ鵜飼が有名である。舟上のかがり火の下、鵜匠が鵜を操って鮎を獲る。将軍家に献上するため鮎は馴れ鮨にされて江戸に運ばれた。これにちなみ、岐阜から加納を経て美濃路との合流点だった四ツ家追分(愛知県稲沢市)に至るルートが御鮨(おすし)街道と呼ばれた。尾張街道・岐阜街道ともいう旧城下町のメインストリートである。
 筆者が調べた限り、岐阜の最も古い地価の記録は明治12年(1879)だ。『岐阜県統計書』によると当時の最高地価の所在地は御鮨街道の靱屋町(うつぼやちょう)だった。御鮨街道には岐阜初の銀行があった。明治6年(1873)に出店した三井組の出張所、後の三井銀行である。靱屋町の1つ南の米屋町にあった。主に公金を扱っており、民間に対する貸出には消極的だった。地元資本では明治10年(1877)創業の第十六国立銀行が嚆矢である。当時の国立銀行は旧士族の創業が多かったが、同行は地元商工業者・地主の8名が発起して旗上げされた。初代頭取は織物業の名跡12代渡辺甚吉である。当初は頭取実弟の松屋町の屋敷を賃借していたが、明治29年(1896)、中竹屋町に移転した。米屋町の1筋西で、現在は事務センターがある。国立銀行制度の終了後、明治29年(1896)に十六銀行となっている。

路面電車の開通と今小町
 明治20年(1887)1月、滋賀県の長浜から大垣まで到達していた官設鉄道が岐阜まで延伸された。JR岐阜駅の源流だが、御鮨街道沿いに置かれた駅の住所は隣の上加納村で加納駅といった。同年4月に木曽川橋梁が完成し三河湾の武豊駅まで延びた。この時点で日本海(敦賀)と太平洋(武豊)が、そして琵琶湖水運を介して瀬戸内海(神戸)が結ばれたことになる。
 明治21年(1888)3月、加納駅が300m程西に移転した。旧城下町から駅前道路を新設し、その突きあたりに駅を配置したかたちだ。明治22年(1889)に市制施行され岐阜市となったとき、上加納村のうち駅から北が岐阜市に編入された。先立って駅名も加納駅から岐阜駅に改称されている。駅前道路はその道幅から八間道路(8間=約15m)あるいは神田町通と呼ばれた。新設した道路の両側町を8分割し、神田町1丁目から8丁目まで配置した。南端の8丁目が駅前である。
 駅の引力が作用し街の重心が少しずつ南に向かってゆく。大蔵省「主税局統計年報書」をひもとくと、靱屋町は明治44年(1911)まで最高地価の地位を保っていたがその翌年に今小町(いまこまち)へ移る。今小町への移転には、メインストリートが御鮨街道から神田町通とその延長線、現在の長良橋通りに移った意味もある。背景には路面電車の開通があった。明治44年2月、美濃電気軌道が経営する路面電車が岐阜駅前から今小町まで開通した。今小町は路面電車のターミナルだった。大正4年(1915)には長良橋の北側まで延伸し、郊外線の長良軽便鉄道に連絡している。
 今小町の近隣には官公庁が多かった。今小町が最高地価の時代の建物で現存する旧岐阜県庁は大正13年(1924)に竣工した鉄筋コンクリート造だ。岐阜県出身の建築家、矢橋賢吉が建築顧問を務めた。

『柳ヶ瀬ブルース』の時代
 3番目の中心が柳ヶ瀬である。開業当時の路面電車は“ト”の字型の路線網で南北本線と東西の美濃町線の合流点が柳ヶ瀬だった。
 大正2年(1913)7月、岐阜駅が1ブロック南の現在地に移転した。拡幅された金町通の突きあたりに位置する。金町通は、戦前は凱旋道路、戦後平和通りに改名され、現在は金華橋通りという。3代目の駅舎で3代目の駅前道路だ。その翌年、岐阜駅に寄り添って郊外電車の駅、「新岐阜駅」ができた。美濃電気軌道の郊外線で、当時は笠松駅までの路線だったが、後に名古屋鉄道に買収され名鉄本線となった。
 最高地価が今小町から柳ヶ瀬町四丁目に移転したのは昭和2年(1927)である。その3年後の6月、柳ヶ瀬に岐阜初の百貨店が開業した。京都駅前に本店を構える「京都物産館」の支店で、大垣共立銀行が新築した岐阜支店のビルの上階に出店していた。物産館の“物”を丸で囲んだ商標から、開店翌年の昭和6年(1931)9月に商号を「丸物(まるぶつ)」に変更した。昭和13年(1938)に8階建の店舗を新築した。なお同時代の建物は昭和12年(1937)築の「じゅうろくてつめいギャラリー」が現存している。当時は岐阜貯蓄銀行の本店だったが、昭和18年(1943)に合併されて十六銀行の徹明支店となった。
 大戦をはさみ、昭和35年(1960)の最高路線価地点は「柳ヶ瀬通二丁目熊田文具店前」だった。丁目表記が異なるが場所は戦前と変わらず、丸物百貨店から西に入った柳ヶ瀬通である。旧熊田文具店の近くに、昭和41年(1966)に発売された美川憲一のヒット曲、「柳ヶ瀬ブルース」(作詞作曲・宇佐英雄)の歌碑が埋め込まれている。戦前と異なるのは、商業拠点が柳ヶ瀬一極から新岐阜駅前の2極となったことだ。戦後は柳ヶ瀬と新岐阜駅前の攻防史だった。昭和32年(1957)3月、2代目岐阜駅があった長住町通りに面して新岐阜ビルが完成。名鉄の新岐阜駅、岐阜バスの新岐阜バスセンターが入った。併設されたターミナル百貨店が新岐阜百貨店である。新岐阜駅の対面には山勝(やまかつ)百貨店があった。山田勝之助が始めた紳士服店を発祥とし、昭和38年(1963)に百貨店となった。昭和48年(1973)に西武百貨店と資本提携のうえ増床を果たす。
 昭和40年代から総合スーパーが進出した。一宮を本拠とするタマコシが昭和40年(1965)に岐阜店を開店した。全国チェーンはジャスコが昭和45年(1970)10月、長崎屋が昭和50年(1975)4月、ダイエーが昭和51年(1976)3月の進出である。迎え撃つ山勝百貨店は西武系の岐阜パルコに転換した。
 昭和52年(1977)、岐阜高島屋が開店した。丸物を大きく上回る規模の都市型百貨店の進出だ。迎え撃つ側の丸物は京都近鉄百貨店の岐阜店となった。タマコシは昭和58年(1983)にパルコと同じファッションビル業態へ転換し「岐阜センサ」となった。
 最高路線価は平成5年(1993)から低下局面に入る。柳ヶ瀬の下げ幅が大きく、最高路線価地点は「神田町9丁目フルーツ前田前」になった。フルーツ前田は新岐阜駅の交差点のパルコ側にある。十六銀行本店は昭和6年(1931)に交差点北西角に移転していた。

県庁に始まる郊外化と中心地の空洞化
 岐阜は全国に先駆けた車社会の地である。世帯あたり乗用車保有台数を都道府県別にみると、岐阜県は昭和47年(1972)には群馬県に次ぐ2位となっている。まっさきに郊外移転したのは昭和41年(1966)の岐阜県庁である。団塊ジュニア世代が免許年齢を迎えた平成初期に車の普及が加速し、ロードサイドに1万m2クラスの郊外店が増えた。2000年頃からは巨艦店が出店するようになった。イトーヨーカドーを核店舗とするカラフルタウン岐阜が平成12年(2000)11月、イオンモール木曽川が平成16年(2004)6月、モレラ岐阜が平成18年(2006)4月に開店した。後に開店するほど巨大化し、平成19年7月(2007)開店のイオンモール各務原は店舗面積65,958m2である。
 柳ヶ瀬、新岐阜駅前が受けた影響は大きい。平成11年(1999)9月、市内最古かつ岐阜高島屋進出前の地域一番店だった近鉄百貨店が閉店した。郊外勢の攻勢もさることながら、翌年の開店を控えたJR名古屋髙島屋の脅威もあったようだ。本格的な買い物は名古屋で、ふだんの買い物は郊外でというスタイルが浸透しはじめていた。平成14年(2002)2月に長崎屋、同4月にダイエーが閉店。平成16年(2004)に岐阜センサ、その翌年12月に新岐阜百貨店が閉店した。この年路面電車も廃止。平成18年(2006)8月、岐阜パルコが閉店。最高路線価地点が「吉野町5丁目岐阜停車場線通り」、JR岐阜駅前となった。商業拠点としての「駅前」が新岐阜駅前だったことを踏まえれば、JR駅前への移転は商業拠点が中心市街地から無くなったのと変わらない。台風の目が消滅し熱帯低気圧になったようなものだ。

センターゾーンで新旧中心が再結合
 最高路線価が岐阜駅前に移転した次の年の平成19年(2007)、43階建の「岐阜シティ・タワー43」が駅前広場の西面に建った。その向かい側には平成24年(2012)竣工の37階建「岐阜スカイウイング37」がある。戦後の「ハルピン街」を由来とする繊維問屋街の再開発の一環である。駅前広場の東面には24階建の「岐阜イーストライジング24」(令和元年)があり、北面には34階建のツインタワーが計画されている。
 岐阜駅から名古屋駅までJR新快速で最短20分だ。都心の利便性を享受しながら、3LDK4000万円台のタワマンもありコスパに優れている。柳ヶ瀬には35階建の「柳ケ瀬グラッスル35」が昨年完成した。1~2階が商店街と連続する商業施設、3~4階には子育て支援等の公共施設が入る。5階以上は分譲マンションだ。
 柳ヶ瀬通りはシャッターを閉じたままの店が軒を連ねる。県下唯一の百貨店となった高島屋も令和6年7月末に閉店した。売上のピークは平成3年度(1991)だったという。ちょうど郊外店の出店が加速する直前で、地価のピークとも重なる。西柳ヶ瀬では「日本一のシャッター商店街」と銘打ち、空洞化を逆手に取った「廃墟ツアー」などのイベントに取り組んでいる。
 視点を変えれば、いわゆる「都会の喧騒」からは一線を画した街になった。岐阜駅前は計画含め5本の高層住宅が建つ住宅街の顔を持つ。商業拠点は分散したが街なかに入る車は減り、高度成長期以前の静けさが戻ってきた。岐阜市は「居心地が良く歩きたくなるまちなか」を旗印にまちづくりを進めている。指針となるのが、岐阜駅周辺から岐阜公園に至る「センターゾーン」構想だ。駅周辺、柳ヶ瀬、市庁舎周辺そして岐阜公園の4つのエリアを1本軸で連結する。このうち「つかさのまち」と呼ばれる市庁舎周辺は駅周辺、柳ヶ瀬からつづく賑わい要素と、岐阜公園すなわち旧城下町の歴史・伝統の要素が交差する中心と位置づけられている。そのコンセプトが具現化された拠点施設が市立中央図書館「ぎふメディアコスモス」だ。プリツカー賞を受賞した伊東豊雄氏の設計で、商業拠点に代わるシビックプライドの拠点となっている。新築した市役所もあり、人が集う、中世都市の「広場」のような場所になった。一帯は公園化され、岐阜駅から長良川や金華山を緑でつなぐ軸線も仕込まれている。
 センターゾーンをなぞる2本の道路のうち長良橋通りはバス等の公共交通機関と歩行者の共用道路、トランジットモール化を目指している。かつて路面電車が走っていた道に赤色の自動運転バスが走っている。もう1本の金華橋通りでは外側車道を一時的に歩行者専用にし、テーブルやイスを置いてくつろげるようにする社会実験が度々実施されている。
 徒歩移動を前提とする「住まう街」と考えれば岐阜の優位性は2つある。まずは人口40万都市でありながら市街地のすぐ隣に自然があることだ。長良川の河岸に立つと、川の向こうに美濃山地の山並みが広がる。次は、街の中心が北から南へ約3kmの距離を移動してきたため、新しい街が上書きされずに古い街なみが残っていることだ。修景が進んだ川原町だけでなく、金華山の麓から御鮨街道に沿って町家や近代建築が残る。センターゾーン構想の4つのエリアは川原町・靱屋町(岐阜公園)、今小町(つかさのまち)、柳ヶ瀬、新岐阜・JR駅前の歴代中心地と重なる。センターゾーン構想は新旧の中心地を「住まう街」の次元で再結合するものといえる。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図2 市街図
図3 広域図
図4 ぎふメディアコスモス