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ファイナンスライブラリー

評者:杉山 真

三島 由紀夫 著
蔵相就任の想い出-ボクは大蔵大臣
新潮社 決定版三島由紀夫全集 第28巻所収

 三島由紀夫を知らぬ人はいないだろうが、元大蔵官僚ということで語られることはあまり多くない。
 三島(本名:平岡公威)の家系は、祖父・定太郎が原敬に引き立てられた内務官僚(元福島県知事、元樺太庁長官)、父・梓は岸信介と同期の農商務官僚(元農林省水産局長)、弟・千之も外務官僚(元駐ポルトガル大使)と、3代にわたる官僚一家である。
 三島は、父の強い意向で、昭和22年12月、「22年後期組」として大蔵省に入省する。同期には長岡実元大蔵事務次官がいる。三島は東京帝国大学法学部在学中に『花ざかりの森』(昭和19年)を出版し、川端康成の推薦で文芸誌に作品を発表するなどしていたが、文学で生活を立てるにはまだほど遠かった。
 生涯の負い目となる入隊検査での不合格、「園子」との初恋(『仮面の告白』(昭和24年))は入省の前々年、太宰治に面前で「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言い放った(『私の遍歴時代』(昭和38年))のは入省の前年のことである。
 法学部生としての三島は、特に刑事訴訟法の「徹底した論理の進行」に惹かれ、それが彼の文学に大きな影響を与えた一方で、行政法は「プラクティカル」「非論理的」と嫌った(『法律と文学』(昭和36年))。
 そんな三島ではあったが、大蔵省と文学の両立を志し、銀行局国民貯蓄課に配属される。職員組合の教養講座で「平安朝文学における日本人の女性観」について講演したこともあった。しかし、帰宅後の深夜の執筆で寝不足が続き、渋谷駅のホームから線路に転落してしまう。出版社からは書き下ろしの長編小説の執筆依頼がもたらされ、結局、昭和23年9月に辞職する。この依頼が後に『仮面の告白』に結実する。

(大臣講演原稿)
 在職わずか9カ月程度の三島であるが、大蔵省当時のことは少なからず語っている。
 このうち、表題の『蔵相就任の想い出-ボクは大蔵大臣』(昭和28年)は、「私がもし大蔵大臣であったなら」というテーマで書かれた4頁ほどの文章である。
 太宰治的なものも連想させながら、文士を「無用の長物」として、保安隊に強制入隊させるか、重税を課すべきと揶揄しているが、冒頭で、大蔵省在職中、「国民貯蓄奨励大会」での大臣講演の原稿を書く仕事を命じられ、従来の文体を「改革」しようと、以下のような原案を書いたという「想い出」を披露している。
「えー、本日は皆さん、多数お集りをいただいて、関係者一同大喜びをいたしております。淡谷のり子さんや笠置シズ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが・・・」
 この案は「完膚なきまでに添削が施され、原稿は原型をとどめなくなった」とのことで、上司から「あいつは文才があるというので採用してみたが、文章はトント俺のほうが巧いわい」と言われたそうである。
 この大蔵省時代のエピソードは三島のお気に入りのネタとなったようで、その後も随所で語っている。
 例えば、三島が日本語の特質や文学作品の文体・技巧等を論じた『文章読本』(昭和34年)でも、わざわざ冒頭でこの件に触れ、「ごく文学的な講演の原稿」を書いたところ、「大臣の威信を傷つける」と「根本的」に修正されたとして、次のように語っている。
「その結果できた文章は、私が感心するほど名文でありました。それには口語文でありながら、なおかつ紋切型の表現の成果が輝いておりました。そこではすべてが、感情や個性的なものから離れ、心の琴線に触れるような言葉は注意深く削除され、一定の地位にある人間が不特定多数の人々に話す独特の文体で綴られていたのであります」
 役所の文章の解説として、今もそのまま妥当しそうであるが、こうした「独特の文体」も、当然、日本語の歴史と伝統の影響を受けている。『文章読本』では、「日本語の特質はものごとを指し示すよりも、ものごとの漂わす情緒や、事物のまわりに漂う雰囲気をとり出して見せるのに秀でています」と指摘しているが、こうした三島の解説を併せ読むと、「霞が関文学」についての理解も一層深まるものがあろう。

(大蔵省百周年記念講演)
 自決の前年、三島は、交友の深かった長岡実秘書課長(当時)の依頼で、大蔵省百周年式典の記念講演を講堂で行っている(『日本とは何か』(昭和44年))。
 ここでも冒頭で、大臣講演の一件で三島は文章が下手だという評判が立ち、「唯一の取り柄もなくなってしまった」ので「早々に商売を小説に切り換えた」「原稿に手を入れられたことは、その後あまりございません」と笑わせている。また、同期との再会を喜び、当時は四谷第三小学校にあった仮庁舎での勤務を懐かしみ、「大蔵省は自分のホームグラウンド」とも語っている。
 しかし、三島が大蔵省を題材にした短編小説(作品中では「財務省」)では、在職中の経験や印象が反映されているのか、いずれもかなりシニカルである。
 例えば、退職後間もなく発表した『大臣』(昭和23年)では、「財務省の実権を握っている予算局長」は「馭者風の顔つきに不似合いな白い繊細な指をもっていた」、『訃音』(昭和24年)では、「金融局長」は「大抵のものを軽蔑している結果・・・愛想のよい人物と見られていた」「自然さが人間を大ならしめる要素であることをよく承知していて、あまり不自然な謙遜は差控えるほどに傲慢であった」等と容赦ない。
 特に、「金融局長」は、宴席でただ一人自分におもねらない若者に動揺したり、愛用の象牙のパイプを紛失して仕事が手につかないといった俗物ぶりであり、ラストシーンで読者を更に唖然とさせる。
 また、『鍵のかかる部屋』(昭和29年)では、国民貯蓄課の新人職員を主人公とし(ここでも「貯蓄奨励大会」の大臣祝辞の原稿を書いている。同期で横浜税関に「映画」を見に行く様子も面白い)、局長たちを「貧乏ゆすりをしたり、不機嫌に爪を噛んでいるのがある。そうかと思うと、血色のよい頬をして、たえず昂奮しているのもある。いつでも自分の女房を譲りわたしかねないほど寛大な顔もある」等と冷ややかである。
 ちなみに、この主人公は、密室での少女との「逢瀬」から、倒錯的な感情や妄想との葛藤に苛まれていく。

(認識と行動)
 大蔵省退職の翌年、三島は満を持して「仮面の告白」を発表する。当初は売れず、辞職を後悔したりするが、しばらくしてベストセラーとなる。更に、『金閣寺』(昭和31年)では、「怨敵」となった「美」を焼き払い、「生きよう」と思った「私」であるが、『鏡子の家』(昭和34年)の挫折の後は、肉体に加え、天皇、武士道、自衛隊、憲法改正、そして死へと傾斜していく。
 こうした中、先述の大蔵省での講演では、全学連、民間防衛、自衛隊、小説と肉体の関係と話を進めた後、この先の日本は、「日本とは何だ」「君は日本を選ぶのか、選ばないのか」が鋭く問われることになる、と慧眼を示している。そして、1時間半近くの熱弁の最後に、「あるいは行動を用意する」と言い残す。三島が事態に失望するのは、この講演からほどなくである。
 翌年(昭和45年)11月25日の「行動」に至る過程は、三島の「徹底した論理の進行」によって緻密に練られたものであったが、自決の直前、三島は「仕方なかった」とつぶやいたともされる。それは、「祖父がもっていたような、人間に対する愚かな信頼の完璧さ」(『仮面の告白』)を、ある意味で三島も受け継いでいたが故の結末でもあったかもしれない。
 この世界を変えるのは、果たして「認識」なのか、それとも「行動」なのか。
 令和7年は三島の生誕百年である。このうち9カ月は大蔵官僚であったことにも、改めて思いを馳せてみたい。

(参考文献)
三島に関する評論や評伝等は数多いが、原敬、岸信介、長岡実を緯糸的に交えながら、三島を祖父以来3代にわたる官僚家系という視点から論じた猪瀬直樹の『ペルソナ 三島由紀夫伝』(平成7年)は傑出していると思う。
長岡実は、『大蔵事務官 平岡公威君』(昭和46年)や『私の履歴書』(平成16年)で、三島との数々の思い出を語っている。
法学部時代の三島については、団藤重光の『三島由紀夫と刑事訴訟法』(昭和46年)が面白い。