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源氏物語とその世界(中)

元国際交流基金 吾郷 俊樹

 前回に続き、千年にわたって読み継がれる源氏物語とその物語の世界について、まずは物語の筋とともに当時の背景などをたどる。息子である帝の世となり、すでに最高位の太政大臣になった源氏の君は、お気に入りの女君たちを住ませる広大な邸を築いたところ。物語はその邸で始まった生活を中心に描かれる。

(22)玉鬘「恋ひわたる身はそれなれど玉鬘いかなる筋を尋ね来つらむ」
 源氏の君は短い逢瀬の後で物の怪の祟りによるのか急死した夕顔を忘れられない。その夕顔には右大臣(かつての頭の中将。生涯の親友でライバル、亡き正妻の兄。)との娘がいると聞いているが、行方は知れない。その娘は乳母の夫が大宰少弐(大宰府の次官)となったのに連れられて、九州で育てられ、美しく成長。肥後の武士から言い寄られるのを体が不自由だといって、乳母らと共に海賊に脅えながら船で逃げて、都に来るが、頼るところもない。
 物語では地方の武士は野蛮な存在として描かれる。関東で平将門、瀬戸内海で藤原純友が乱を起こしたのは、物語が書かれる数十年前。それでも、摂関期を描くと「現在の学会でもこれを超えるものはない」という「日本の歴史5 王朝の貴族」によると、「当時の公卿たちは、なによりも京都の出来事に注意を払い、地方には関心を持たなかった。また、地方武士を極めて軽く扱い、合戦などと言うことはこれら地方の武士どもの仕事として、重視しなかった」といい、大陸から「刀伊」という集団が九州を襲っても、「なにか緊張感を持たず、よそごとのように冷淡に扱」って、撃退した功に対して、ろくに恩賞も与えなかったという。武士が殿上人となったのは、源氏物語が書かれてから、100年以上たった、平清盛の父、平忠盛が最初。
 神仏の加護を受けるため石清水八幡宮参りをすると、源氏の君に仕えている旧知の女房に遭遇。源氏の君は、女房から話を聞いて、実の娘として屋敷に住まわせる。源氏の君は姫にあって喜び、世間に知らせて男どもがよってくるのを見比べてやろうと企む。そこで「夕顔を恋続けている此の身は今も昔の私のままだけど (夕顔の子である此の娘は)どういう縁をたどって(実の父親の方へは行かないで)私の所を尋ねてきたのだらう」(谷崎潤一郎訳))と独り言。
写真 (源氏物語を題材にした能の演目は多く、「玉鬘」もその一つ。)能樂圖繪 後編 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)

(23)初音「年月をまつに引かれてふる人にけふうぐいすの初音きかせよ」
 源氏の君は、完成した六条の院で初めての正月を過ごす。六条の院の規模は「四町ほどの土地」といってもピンとこないが、「王朝の貴族」によると、当時の貴族の邸宅、寝殿造の「基本形は、…一町四方(京の町は四十丈(約一二一メートル)ごとに縦横の路があり、その一マスを一町…、一町四方の敷地は約四五〇〇坪[約一万四八〇〇平方メートル]になる)の敷地北側の中央に寝殿があり、東西に対の屋があって、それらを広い渡殿でつなぎ、東西の対からは廊が南に出て、途中には中門を、南橋には吊り殿を置き、敷地の南側に池を掘り、中島を置き、橋を架け、船を浮かべる」という。あいにく、4,500坪の家に住んだり、庭の池に船を浮かべたりしたことがまだないので、どんなものがよくわからないが、「二町四方、つまり二万坪(約六万六〇〇〇平方メートル)に近い広大なものもあった」というから、六条の院はそのサイズ。なお、道長の土御門邸は「南北に二町を占めていた」という。
 紫の上の下で育てられている明石の姫君のもとに、広い六条の院の別の御殿に住む実母、明石の君から贈り物が届き、「あなたの大きうおなりになるのを見たさに引かれて長い年月を待ち焦がれて暮らしているこの年寄りに今日は鶯の初音(あなたのお声、お便り)を聞かせてください」(谷崎潤一郎訳)という歌が添えられていて、源氏の君は姫君に返歌を書かせる。源氏の君は、順に別々の建物に住んでいる女君たちを訪れ、年の始めの夜を明石の君の元で過ごすと、紫の上の機嫌が悪いのを狸寝入りでスルーする。
 夫が他の女性のところに行ったときについては、道長の父、兼家の妻の一人で、当時、本朝第一美人三人のうちの一人だったという藤原道綱母の「蜻蛉日記」。日記というと誰にも見せないものかと思うと、「宮廷生活の歴史を、藤原氏全盛の有様を中心に、裏話や人物批判などをまじえて叙述」する「大鏡」によると、彼女は「きわめたる和歌の上手におはしければ、」兼家「殿の通わせたまひけるほどの事、歌など書き集めて、『かげろふの日記』と名付けて、世に弘めたまへり」とあるから、もともと読んでもらうために書かれたようだ。「王朝の貴族」によると「…八月の末ごろに、子供が生まれた。…ところが間もなく、兼家の外出中にふと箱をあけると、中に兼家がどこかの女にやろうとして書いた手紙が入っていた。さてはと思っていると、十月ごろ、三晩もまったく姿を見せない日があったり…兼家が姿を見せたが、これからどうしても参内しなくては」といって出ていったから、こっそり人に後をつけさせたらば、「町の小路…のどこそこにお泊りになりました」と報告してきた。やはり始まったなと思ったがどうしようもないままに、二、三日して夜明けに門をたたく音がしたが、放っておいたら、例の女のところに行ってしまったらしい。夜がすっかり明けてから、『嘆きつつひとりぬる夜のあくるまは いかにひさしきものとかはしる』という歌をうるわしく書き、盛りを過ぎて散りぎわの菊に結び付けて手紙をやった。」という。この歌は百人一首に残る有名な歌。
 これに限らず、「蜻蛉日記」には、兼家を待つ思いが切々と描かれていて、そんなに逢いたいのならこちらから行けばいいのではと思うのは今の感覚で、当時の感覚では女性が男性を訪れることは異常な状況らしく、ある時、兼家が病気になったときに、家に呼ばれたことが書かれているが、異常なこと故、人目につかないように兼家に夜に車を手配させたという。
写真 (道長の父兼家の妻の一人、藤原道綱母による「蜻蛉日記」。最初に兼家から手紙が来て手紙のやり取りを始める場面)蜻蛉日記 3巻[1]- 国立国会図書館デジタルコレクション

(24)胡蝶「はなぞのの胡蝶をさへや下草に 秋まつむしはうとく見るらん」
 六条の院の春。源氏の君が池に唐風の船を浮かべる日には、親王たちや上達部が大勢やってくる。夜もすがら管弦の遊びをした翌日。秋好む中宮(六条の御息所の娘)の法会に紫の上からの「花園に飛ぶ此の美しい胡蝶をさへ、ひそかに秋を待ちたまふ君はつまらないものと御覧あそばすのでしょう」という歌が届き、中宮は「こてふにも誘われなまし心ありて八重やまぶきをへだてざりせば」(そちらで幾重もの山のあなたへ私を遠ざけようと云う心がないのであれば、私もお言葉に従い、胡蝶に誘われてそちらに参ってみたいものですが)(谷崎潤一郎訳)と返す。
 源氏の君は、右大臣と夕顔との娘、玉鬘を自分の娘として六条の屋敷に住まわせ、寄せられる沢山の恋文をみて面白がって批評したり、人物評をしたりする。
 恋文が届けられるとどうなるか。「王朝の貴族」によると道長の父、兼家の結婚の場合、「兼家の歌を受け取った娘の方では、みな寄り集まって、返事をしたものか、それとも黙って放っておこうかと相談が始まる。」まずは、「(こちらにはお話し相手になるような者もおりませんから、いくら声をおかけになっても無駄でございます。)」と返歌。「歌の上ではいちおう断った形になっているが、…これを手始めに始終手紙が来る。…娘のほうははかばかしい返歌もせず代作代筆の歌を返事に出したりしている。…こんどは自筆の返事をくださいよ、などと但し書きをつけてまた歌を送ってくる。…「(こういう様子ならば、うわついた気持ではなくまじめな話と思われて)と書いてあるように、女の方では男の気持ちをためしている」という。
 そのうち、源氏の君は、「こんな魅力のある人をみすみす赤の他人にしてしまうのは、どんなに残念だろう」と思い、ある一雨降った後のものしずかな黄昏時に「こうして母君とそっくりのあなたにお会いするのは、夢ではないかとばかり思われます。どうしてもあなたを愛する気持ちをおさえられえそうもないのです。そんな私をお嫌いにならないでください。」といって、姫君の手をとるが、姫君は、「とてもいたたまれなくなりましたけれど、さりげなく、おっとりした様子でご返歌」(瀬戸内寂聴訳)をしてスルー。

(25)蛍「声はせで身をのみこがす蛍こそいふよりまさる思ひなるらめ」
 玉鬘には貴公子たちから恋文が寄せられる。その一人、兵部卿の宮(源氏の君の弟)は、お忍びで玉鬘の御殿に来る。物蔭に隠れて万事の指図をしていた源氏の君は、蛍を玉鬘の周りに放つと、姫の横顔が美しく浮かび上がる。宮は「なく声も聞こえぬ虫の思ひだに 人の消つには消ゆるものかは」(鳴く声を持たない虫、即ち蛍の火でさへも人が消そうとしてもなかなか消えるものではありませぬ。まして私の胸のおもひがどうして消されましょうぞ)と詠むと、玉鬘は「声には出さないで終夜ただ身を焦がしている蛍の方が、口に出して仰るお方よりもいっそう切ない思ひを抱いているでございませう」(谷崎潤一郎訳)との返し。
 その蛍が源氏蛍(光源氏に由来するという説もある)だったのかわからないが、都心で蛍を見るなら、ホテル椿山荘東京の「ほたるの夕べ」。ホテルのWebsiteによると1952年の開業から2年後「ほたる観賞の夕べ」が始まり、今年70周年。明治の元勲、山縣有朋公の屋敷跡の広大な庭園を蛍が飛び交う幻想的な世界を堪能。ホテル椿山荘東京の広大な庭園は50,000m2というが、源氏の君の六条の院66,000m2は更に広い。
六条院の女君たちは、絵物語の遊び事に身を入れている。「正史といわれる日本紀などはほんの一面しか書かれていないのです。こうした物語の中にこそ、詳しいことが書かれているのでしょう」(瀬戸内寂聴訳)と源氏の君を通して、紫式部は物語への思いを語る。
 「紫式部日記」によると、紫式部は子供のころ弟が史紀を暗唱するのに手間取ったり、忘れるところを「あやしきまでさとく」暗唱できたので、父親が「「残念なことに、この子を男の子として持てなかったのは不運というものだ」と「つねになげかれはべしり」という。中宮彰子が当時漢詩として最も好まれていた白楽天の「白氏文集」のような漢詩文をお知りになりたそうにしていたので、他の女房がお傍に控えていないときにこっそりと教えたといい、源氏物語を読み聞かせられた一条天皇は「『この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし』とのたまわせける」と伝わるから、紫式部は当然日本紀などは読みこなした上で源氏物語を書いていたはず。
写真 (都会で蛍を見るなら、今年70周年を迎えたホテル椿山荘東京の「ほたるのゆうべ」。)庭園の四季の彩り(夏)|東京のホテルならホテル椿山荘東京。【公式サイト】(hotel-chinzanso-tokyo.jp)

(26)常夏「撫子のとこなつかしき色を見ばもとのかきねを人やたずねん」
 暑い夏の日、源氏は釣殿で夕霧らと涼む。内大臣(頭の中将)が最近引き取った落胤の姫君が話題になり、源氏の君は「自分には子も少ないが、名乗り出る張り合いもないと思うのか、そういう者は出てこない」(円地文子訳)という。源氏物語には豪華な宴が催された場面は多いが、何が供せられたのかはよく分からない。ドナルド・キーンも「作者は、食べ物に関して驚くほどの無関心さを示している」という。物語の中で美味しそうにも思えるのは、この帖で「氷を入れた水を取り寄せてお飲みになったり、氷水をそそぎかけて水飯などを、めいめいでにぎやかに食べています」(瀬戸内寂聴訳)くらい。
 彼らは、さぞかし豪華な宮廷料理を堪能していたのかと思うと、「王朝の貴族」は、「こと食物に関しては、平安時代の貴族も実に哀れなもので、…どうもこんにちわれわれが羨ましいと思うような食物は見当たらない。当時の貴族たちの日記に、ほとんど食物のことが出ず、 なにを食べたいとか、なにがうまかったなどという記事が見えないのは、…そもそも記事になるほどの食べ物もなく、関心がうすかったからではなかろうか」といい、財団法人味の素食の文化センターの「日本の食事文化」でも、貴族社会の行事で供された大饗料理について、「料理のなかみはあまりおいしそうではない。殆どの料理は冷たくて堅そうだ。」という。
 源氏の君は玉鬘の部屋に行って琴を弾くように勧め、父内大臣の話をして、(玉鬘の昔なつかしい母によく似た容色を見たら、父内大臣も元の垣根(母夕顔の居所)を尋ねたくなるであらう)(谷崎潤一郎訳)と詠むと玉鬘は泣く。源氏の言葉を伝え聞いた父、内大臣は玉鬘は源氏の子ではないかもしれないと疑う。

(27)篝火「篝火にたちそふ恋のけぶりこそよにはたえせぬほのほなりけれ」
 秋、源氏の君は和琴を御教えるに事寄せて、度々玉鬘のもとに出かけ、琴を枕に二人で仮寝もする。消えかかっている篝火を明るく焚かせると、その灯影に映えて、玉鬘がこのうえもなく美しく見える。源氏の君は「篝火の煙と共に立ち上る私の胸の思ひの炎こそは、いつになっても消えることはありませぬ]と詠むと、玉鬘は、「行方なき空に消ちてよかがり日のたよりにただふ煙とならば」(篝火の煙につれて、あれと同じように立ち上る思ひの煙とおっしゃいますならば、篝火の煙が行方も知れぬ空に消へてしまいますやうにその思ひもあとかたもなく消して戴きたうございます)(谷崎潤一郎訳) とつれない。帰ろうとすると、風流な笛の音が聞こえ、内大臣の長男、柏木らをそこに招いて、合奏させる。
 「王朝の貴族」によると、当時、「当時の貴族のおもて芸」は、詩歌管弦で、英明の主「一条天皇の宮廷に多数の人材が輩出し…宮廷生活で最も重んぜられる詩歌管弦の会には、それぞれに花形を欠くことはな」かったといい、「紫式部日記」でも管弦のお遊びが催された時に、殿上人たちが拍子をとり、琵琶、琴、笛などを奏で、謡ったことが記されている。

(28)野分
 秋、六条の院の庭が秋の美しさに染まる。源氏の院の息子、夕霧は例年になく激しい野分で屏風もたたんで中が丸見えになっていたので、はじめて紫の上を垣間見る。「父君が自分を、紫の上のお側に近づけないように、努めて遠ざけるようになさるのは、このように一目見た人がただではすまされそうにない紫の上のお美しさなので、万一、こんな風に自分が垣間見て、心をそそられるようなことがあっては困ると、思慮深い父君の用心からご心配なさってのことだったのか』と気がつくと、何となくそこにいるのが空恐ろしくなって、夕霧の中将が立ち去ろうとする(瀬戸内寂聴訳)。
 「王朝の貴族」によると、当時、身分ある女性は慎み深く引籠ることが良しとされ…た。彼女たちにとっては、…外来者に顔を合わせることは、はしたない所行であった。したがって御簾や几帳のうちに身を潜め、扇で顔をさしかくし…た。自然、男は女性を垣間見る機会をねらうことになる」という。
 「紫式部日記」でも、中宮とともに夜に牛車で内裏に戻る際、車に乗る時に「月が明るいので、(顔を見られるのが)恥ずかしいことと思って、足が地につかぬ思いである」と記される。

(29)行幸「うちきらし朝ぐもりせしみゆきにはさやかにそらの光やはみし」
 十二月、帝の行幸があり、六条の院の女君たちは車を連ねて見物に行く。「玉鬘は主上の御立派なお姿を拝し、さらに、父内大臣の美々しく男盛りでいられるのを見た。右大将は晴れの装束もはなやかであるが、髭ばかり黒くて好もしくない」。源氏の院は玉鬘に、「昨日は帝をお見上げしましたか。かねて、おすすめ申した宮仕えのことはいかがですか」(円地文子訳)と尋ねると、「昨日は朝曇りしてどんよりした天気でしたから、はっきりと空の光を仰ぐことはできませんでした](谷崎潤一郎訳)との返事。紫の上と相談して、ともかく玉鬘の裳着の祝いを取り行おうと決心。
 「御裳着の儀式」とは、「男子の成人式にあたり、十二,十三歳から、十六、十七歳ころに行われ、はじめて女子が成人の服装、髪型に移る式」という。藤原道長の娘、彰子の入内に先立つ御裳着の儀式について。「王朝の貴族」によると、「九九九年(長徳五)正月、…年号は長保と改められ…娘の彰子も十二歳になる。…二月九日、道長の邸では、多くの公卿・殿上人を集めて裳着の式が盛大に行われた。…大臣以下参集し、東三条院はじめ宮宮から見事な贈物が贈られ、盛宴が張られ、管弦の興があり、列座の公卿は祝賀の和歌を道長に贈った」という。
 源氏の君は、久し振り内大臣に会い、娘、玉鬘を預かっていることを知らせる。内大臣は、源氏の君は夕霧と娘の結婚を認めてほしいというかと思い、「源氏の君がおだやかに一言、怨みごとをはっきり口に出して下さったなら、とやかく反対することはとてもできないだろう。…源氏の大臣の言葉に従ったふりをして、二人の結婚を許そう』(瀬戸内寂聴訳)と思っていたら、意外な話に泣いて喜ぶ。
写真 (「藤原道長の栄華や当時の朝廷と公家社会の様子を情感豊かに叙述」する「栄花物語」での道長の長女彰子の裳着の儀の模様。巻第六 かかやく藤壺「大殿の姫十二にならせ給へば、年のうちに御裳着有りて…」とある。)栄花物語[6]- 国立国会図書館デジタルコレクション

(30)藤袴「同じ野のつゆにやつるる藤袴あはれはかけよかごとばかりも」
 帝には源氏の君を後見人とする六条の御息所の娘、秋好む中宮と、内大臣の娘、弘徽殿の女御(兄帝の生母とは別人)が既に入内しており、「玉鬘は尚侍としての宮仕えを実父の内大臣や源氏からもすすめられている。しかしどうしたものかと迷っていられる。…宮中に入っても、秋好む中宮、弘徽殿の女御にも気兼ねすることであろうと思えば、玉鬘の悩みは尽きない。…夕霧が、源氏の君のお使いとして、主上の仰せを伝えに来た。…夕霧は用事がすんでも話を長引かせ、しまいには持ってきた蘭(藤袴)の花を御簾の端からさしいれる。それをとろうとする玉鬘の袖をとらえ、歌を詠みかけた」(円地文子訳)。「あなたと同じ野にぬれる此の藤袴を、せめて少しでも可哀さうと思ってください」…「『同じ野のつゆにやつるる藤袴』とは、『あなたと同じ大宮の孫として喪服を着て濡れている私』と云うこと」」玉鬘は奥へ引き込みながら、こう答えた。「尋ぬるにはるけき野辺の露ならば うすむらさきやかごとならまし」(あなたと私は遠々しい関係でもなく、従兄弟同士の親しい関係なのですから…(これで十分親しい関係ではないでしょうか。)」(谷崎潤一郎訳)。
 宮中に入ってからの悩みといえば、例えば、いやがらせ。「王朝の貴族」によれば、後見の兄伊周が失脚していた一条天皇の中宮定子が懐妊して内裏を退出する際、中宮の行啓なのに指揮をすべき公卿の引き受け手がおらず、しかも、「定子の懐妊退出を喜ばない道長のいやがらせで」当日、道長は「宇治の別荘へいってしまう。…道長が遊びに出かけるから、公卿たちもぞろぞろついてゆく。」ことになったという。」
 いやがらせにとどまらず、命にかかわることもあるようで、道長の兄道隆の娘で中宮定子の妹、中の君は三条天皇の東宮時代に後宮東宮御所梨壺に隣接する桐壺(淑景舎)にいて東宮の寵愛を受け、「淑景舎と華やがせたまひしも」道隆の死後、「御年二十二三ばかりにて」亡くなったと「大鏡」にあるが、これも「君寵を争った他の女御側によって毒殺されたらしい」ともいう。

(31)真木柱「今はとて宿離れぬとも馴れ来つるまきの柱はわれをわするな」
 玉鬘はいよいよ宮中に入るかと思いきや場面は一気に転換。「髭黒の右大将は、玉鬘の侍女…の手引きで、首尾よく玉鬘の閨に忍び込んで思いを遂げた。…玉鬘は五の染まなかった方と契りを結ぶことになって気が滅入っていた。源氏は心に染まないながらも、表向き婚礼の儀式を立派にし、婿君を鄭重に扱っている。このことを聞かれた帝は、残念ではあるが、尚侍として勤めよと仰せられる。…玉鬘に懸想していた人々の落胆は気の毒なほどであった。」(円地文子訳))。
 かつて、源氏の君は、兄帝に入内することになっていた朧月夜の君と関係したが、ここでは、入内させようとも思っていた養女をその意に沿わない男にもっていかれる。
 養女の結婚といえば、「大鏡」は、道長の姉で一条天皇の生母詮子が皇后のとき、藤原氏の陰謀により失脚した左大臣源高明の娘明子を「内親王様をお預かり申し上げたかのように」「…限りなく思ひかしづききこえたまひしかば」、道隆、道兼、道長などの詮子の兄弟たちも「明子に付文を差し上げなどなさいましたが、詮子様は上手にたしなめられて、現在の入道つまり道長公様のみをお許しになられましたから、道長公が明子さまの所に」「通ひ奉らせたまひし」と記す。結果、道長の妻の一人となった明子との間には、女君二人、男君四人が生まれたという。
 玉鬘の出仕が快くない大将は、自邸へ引き取ってしまおうと考え屋敷の修理にとりかかる。「ついに父宮は大将の留守に、北の方を屋敷に引き取ることにした。十二、三歳であった長女の姫君は、…せかされて仕方なく、「今はこれまでとこの家を離れていくにしても、幼いころ方慣れ親しんできた真木の柱よ私を忘れてくれるな』(谷崎潤一郎訳)と書いて、日ごろ寄り馴れた真木柱の干割れに差しこんだ」。髭黒の大将は北の方の実家に迎えに行くが、逢うこともできず、「しおしおと邸へ帰っていった」(円地文子訳)。
 貴族の離婚について。「王朝の貴族」によると、結婚も自由だが、「離婚もきまった手続きは何もない。…境目がはっきりしないから、その間に求婚者もまた現れる。女のもとに同時に二人の男が通うことも、いくらでも例もあり、ことに和歌の世界ではざらである」という。

(32)梅枝
 源氏の君は、娘、明石の姫君の東宮への入内の準備を進める。まずは御裳着の儀。入内の用意として、源氏の君、紫の上、朝顔の斎院、明石の御方、花散里の調合した香が集まると、弟、蛍兵部卿の宮に判者となり香合が行われる。
 東宮が元服すると、左大臣の三の君が入内し、つづいて明石の姫君が入内。源氏は、昔の自身の宿直所であった桐壺を整えて、姫君入内の準備をする。
 入内の準備といえば、道長の娘彰子の入内について。「王朝の貴族」によると、「内裏に家の出張所をつくって、そこに天皇を迎える形になるので、内裏内の彰子の部屋の設備は、道長の方で世話をすることになる…数々の調度品のなかで道長が特に力を入れたのが高さ四尺の屏風…。これには名工飛鳥部常則の屏風絵を貼り、そこに歌人として高名な公卿たちから、画題にふさわしい和歌を集めて、一世の書家名筆藤原行成に書かせようという趣向である。…当代一流の歌人である公卿たちは、みな道長の求めに応じた。道長自身もこれに加わ」ったという。道長の求めに応じてこれを書いた、当時蔵人頭だった藤原行成は日記「権記」に入内の前日に屏風に書を書いたと記している。
 内大臣(かつての頭の中将)は、「このような準備の模様を耳にするにつけても、雲居の雁のことが案じられてならない。」(円地文子訳)。
写真 (三蹟の一人、藤原行成の書。一世の書家名筆である藤原行成は、道長の長女、彰子の入内の際、四尺の屏風に歌人として高名な公卿たちから集めた和歌を書いたという。)藤原行成[書]ほか『行成書帖』,清雅堂,昭和18.国立国会図書館デジタルコレクション

(33)藤裏葉
 娘、雲居の雁と源氏の君の息子、夕霧の結婚について「あれこれ思案の末、やはりこちらから折れて出ようと、ようやく決心がついた」内大臣は、母(夕霧の祖母)の法要で、夕霧の袖を引き寄せて、「『どうして、そんなに私を困らせるのですか。今日の法要の縁に免じてでも許してください。…』と打ち明けた様子で話しかけ」る。四月、内大臣は長男柏木を使いに庭先の藤の花ざかりへ夕霧を招く。夕霧が源氏の君に相談に行くと源氏は自分の衣料の中から立派な直衣に下着まで添えて賜り、『あなたはもう宰相なのだから、もっと着飾った方がいいだろう」(瀬戸内寂聴訳)と、息子に対する愛情をあまり見せない源氏の君には珍しい一場面。ここでいう「宰相」とは、「大臣・納言に次ぐ官」参議の唐名。明治維新で王政復古のときだと、太政大臣三条実美、左大臣岩倉具視、参議には西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らが名を連ねる。
 夕霧が「念入りに身繕いして内大臣家に行くと、…下にもおかぬおもてなし…内大臣はしきりに盃をすすめ」、『春日さす藤の裏葉のうらとけて、君し思わばわれも頼まむ』と古歌を吟じ、内大臣の長男「柏木がその意を受けて、見事な藤の花房を折ってきて、夕霧の盆に添えた。… 内大臣はおりをみて中座し、…柏木は夕霧を雲居の雁のもとに案内する」。翌朝「後朝の文が夕霧から届けられると、内大臣もそれを見て、喜んだ。…夕霧は中納言に昇進…、昔なつかしい大宮の御所、三条の宮に、雲居の雁と共に住むことになった」(円地文子訳)。
 「後朝の文」とは、「王朝の貴族」によると、「二人が共寝をした翌朝、例によって和歌を贈答すること」であり、「共寝の最初は、男はかならず夜に忍んで来る。翌朝男は家に帰って歌を贈り、女がこれに答える。…これを三日間続けると三日目の夜に露顕(ところあらわし)、三日の餅の式が行われる。これが正式の結婚式」だという。これが、女の一族が自家の娘に通っている男を確認する手続で、これに自分の家の食べ物を食べさせ、身内として待遇することを認める象徴的な手続きで…この式が済めば男は正式に娘の婿として認められ…堂々と居座ってよい」ことになるという。
 やがて、明石の姫君が入内。育ての親である紫の上が付き添い、宮中から退出する日に、実の親明石の君が交替で参内してお付添いする。
 娘の入内といえば、道長の長女彰子は長保五年(999)11月1日に一条天皇に入内。道長の日記、国宝「御堂関白記」に「以酉時入内。上達部。殿上人多来。…」と簡潔に記す。この「御堂関白記」は世界最古の自筆本日記で、この時代の政権中枢における政治・経済・社会・文化などが記述された貴重な史料。道長嫡流の近衛侯爵家では「代々これを第一の重宝とし、函に収めたまま背に負ひて何時にても他に移しうる装置を施して、書庫の入り口の近くに据えられていて、火災などの事変に備えられていた」といい、多くの日記が写ししか残っていない中、道長直筆の13巻が現存するという。
 その秋、源氏の太政大臣は、准大上天皇の位を頂く。「そうでなくても、この世はすべて思いのままでいらしゃるのに、…。こうして何事にもことのほかに威厳をお加えになりましたので、これからは参内なさるのも御面倒なことになるだろうと、一方ではお案じなさいます。」(瀬戸内寂聴訳)。
 「この世はすべて思いのまま」と言えば、寛仁二年(1018)10月16日、道長は自分の娘三人を三代の帝の中宮とする。「王朝の貴族」によると、「中宮職の職員任命が終わって、一同は公卿以下そろって土御門邸の威子のもとに拝礼に行く。庭に並んで礼を行い、それから東の対に設けた席について、祝宴が始められた。集う公卿は三人の大臣以下十八人。…形のごとく盃がまわされ、しだいに人々の酔いも増すなかに、学人が召しだされて管弦が始まり、公卿・殿上人も地下の者どもも、調子を合わせて楽に興ずる。道長は冗談も言って上機嫌であったが、ふと大納言実資を招き寄せて、『歌を詠もうと思うが、貴君にもかならず一つ読んでもらいたい』と言った。実資が承知すると、…次の有名な歌を詠みあげたのである。
此の世をば我世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば
 実資が返歌を詠む羽目になったが、…『いまの御作はいたって優美で、とてもこれにふさわしい返歌は作れません。…これほどの名歌に返歌などは無用のことで、一同で繰り返し今の御作を味わったらよろしいでしょう。』この問答を聴いていた諸卿は直ちに実資の言に賛成し、一同、この望月の歌を数回吟詠した。…祝宴は道長礼賛の声の中に深夜まで続けられた」という。この歌について歌人与謝野晶子は「道長が詩人としての風懐を窺うべし」と評する。なお、道長の御堂関白記に「此日有立后宣明」とあり、その日の出来事が詳しく書かれていて、自分が和歌を詠み、人々がこれを詠唱したことが書かれているが、どんな歌かは書かれていない。
写真 (藤原実資の日記「小右記」の寛仁二年十月十六日の日記。左ページ2行目から道長の日記には書かれていない「望月の歌」が書かれている。「望月の歌」が今日に伝わるのはそれ故。)小右記 三十、三十一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(34,35)若菜上・下「小松原すえの齢に引かれてやのべの若菜も年をつむべき」
 源氏の君の四十歳のお祝いに髭黒の大臣の北の方となった玉鬘が子供を連れて訪れる。喜んだ源氏の君は「孫たちの行末長い寿命にあやかって わたしもながいきすることでせう」(谷崎潤一郎訳)と詠む。源氏の君は、兄、朱雀院の50才の誕生日をお祝いしようと、女君たちに準備をさせる。娘の女三宮の将来を心配した朱雀院は、源氏の君と結婚させようと申し入れ、源氏の君も受け入れる。
 降嫁といえば、「栄花物語全註釈」によれば、眼病で道長に退位を迫られていた三条天皇は「女二の宮を幼少のころから格別お可愛がり申し上げておられたから…『何とかこの宮のために適当な措置を取りたいもの』と思召すにつけて」、道長の息子、頼通「大将に預けてしまったものだろうか。…自分が皇位にいるのだから、大将も粗略にすることはできないだろうと御決心なさって」、道長に「お話になされると、殿は『とやかく異議をもうしあげるべきことではございません。』と謹んでお受けして」、頼通を呼びだして、『早速しかるべき用意をして…宮の許に参上すればよい』のだとおっしゃると、『良いようにお計らい下さい』とおっしゃってただお目に涙が浮かんだのは、北の方を熱愛していらっしゃるのに、御降嫁のこともまた逃れることが出来るものでもないのが、大層悲しく思われなさるからだろう」。道長は、「その様子を見て『男は妻は一人のみやは持たる。痴れの様や。』との宣わずれば、畏まりて立たせ給ひぬ。」と伝わる。
 その間、源氏の院と明石の君の娘、明石の中宮が六条の院に里帰りして皇子を産み、その皇子は後に東宮となる。
 「王朝の貴族」によると、「源氏は…天皇との関係を見ると、先帝(物語では冷泉帝)には実父であり(これは藤壺との密通による)、その后には養父、新帝には叔父にあたり、新帝の后は実子、そして東宮にはかれは祖父に当たっているという密接な立場にあった。…道長は四十代、…当時では彼が最高位の臣であり、天皇との関係はというと、一条天皇には叔父にあたり、その中宮彰子は道長の娘である。次の天皇たるべき東宮(三条天皇)にとっても叔父であり、その后はやはり娘である。そして…道長は次の東宮にとって祖父にあたる…。これほどまでに似通っていれば、紫式部が若菜の巻を書くときに、道長の姿を思い浮かべなかったということは決してありえない。」という。
 物語では、源氏が孫の皇子をさほど可愛がっているようには見えないが、道長は、娘で一条天皇の中宮彰子が入内から9年後に念願の皇子を産み、将来の帝の外祖父となった時、道長は「夜中にも暁にも」若宮のところに参り、若宮におしっこをかけられて直衣の紐が濡れたのをあぶりながら、「『あはれ、この宮の御しと(おしっこ)に濡るるは、うれしきわざかな。この濡れたるあぶるこそ、おもふようなるここちすれ』と、よろこばせたまふ」と、また、道長は中宮の父である「まろわろからず、まろがむすめにて宮わろくおはしまさず。母も幸いありと思ひて、笑ひたまふめり。よいおとこをもたりかしと思ひたんめり」と、幸せそうに冗談を言ったと「紫式部日記」に伝わる。
 さて、女三宮は六条の院に輿入れしたが、源氏の君は紫の上を大事にする。太政大臣の息子、柏木の衛門の督は「女三の宮はうわべだけは大切にされていらっしゃって、それだけは御立派でも余りお逢いになる事もなさそうなのは、恐れ多いこと」(瀬戸内寂聴訳)と思い、源氏の君が不在のときに思いを遂げ、やがて懐妊。源氏の院は、女三の宮の部屋で衛門の督からの恋文を見つけ、「『どうやら御懐妊という御容態も、こういう不倫の恋の結果だったということか。何という情けないことだ。…亡き桐壺院も、今の自分と同じように、お心の内では何もかもあの藤壺の宮との密通のことを御承知でいらして、その上でそ知らぬふりをなさっていらっしゃったのではないだろうか…』と、身近な御自身の過去の例を思い出されるにつけ、…「恋の山路」は迷うものなので、それに迷う人を非難するなど、できた義理かという」(瀬戸内寂聴訳)気持ちもする。源氏の君は、衛門の督を招いた宴の席で「しかし、あなたの若さだっていましばらくのことですよ。決してさかさまに流れてゆかないのが年月というもの。老いはどうしたって人の逃れらない運命なのです』(瀬戸内寂聴訳)と酔ったふりをしながら言うと、衛門の督は参ってしまう。
 源氏の君と衛門の督は叔父と甥の関係。叔父と甥といえば、道長とその兄道隆の長男伊周の関係について。「大鏡」では、道長との権力闘争に敗れ、伊周が失脚した後、道長の娘彰子に後一条天皇が御生まれになり、その七夜に歌集の序文を書く会に伊周も参集。出席者たちは「本来ならこういう会には出席されるべきではないのに…何のためにおめおめとでてこられたのだろう」と見ていると、「道長公はほんとうにばつが悪くならないように上手におもてなし申し上げたのですが、その甲斐があって」、伊周は、「序文を素晴らしく立派に書き上げられた」という。また、伊周に不穏な企てありとの噂が流れたため、伊周が弁明のために道長の邸に赴くと、伊周が「たいそうびくびくしている様子がはっきりと見てとれるのを」道長は「をかしくも、またさすがにいとほしくもおぼされて」、「長いこと双六のお相手を致しませんで物足りない気がしますから今日なさいませ」といって、双六の盤を取り寄せると、伊周の顔色は格段によくなったという。二人は「肌脱ぎになり、腰に衣服を絡ませて」、双六を「夜中、暁まで遊ばす」というが、伊周は「古くから伝わった品々の何ともいえぬ美麗なもの」を道長は「新しくて面白みがある品々」を賭けて、取り取られつなさったが、結局、伊周は「このような遊び事においてまで…後れを取りなさいまして、道長帝を辞去なさいました」したと「大鏡」は記す。
写真 (当時の暦に書かれている道長直筆の「御堂関白記」の敦成親王誕生の模様。(寛弘5年)9月11日の暦に「午時平安男子産給」とある。 御堂関白記[7]- 国立国会図書館デジタルコレクション)

(36)柏木「柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿のこずえか」
 柏木の衛門の督は病になり、父太政大臣は加持祈祷で回復を祈るが物の怪は現れない。
 「王朝の貴族」によると、当時、「物の怪が活躍するのは病気のときで、…当時の貴族たちはきまって祈祷をした。もちろん、医者の世話にもなるが、それは従の立場で、最も頼みとするところは神仏の加護」であったという。
 物の怪については、「紫式部日記」でも、中宮彰子の出産のときに今お産みになるというときには、「御物の怪のねたみののしる声などむつけけさよ。」とはじめに祈祷を担当させた者たちは「物の怪にひきたふされ」たので、別の阿闍梨を召して大声で祈ったのは、物の怪がとても手強いからであったと記される。
 やがて、源氏の妻、女三宮は柏木の子を出産。産後の肥立ちの良くない宮は出家したいと言い出す。源氏の君はこれを留めるが、娘の身を案じた朱雀院が、お忍びで来られ、宮の切なる望みを聞かれ、出家を許して剃髪させる。女三の宮の出家は柏木の耳にも入り、病はいよいよ重くなり、残していく北の方女二宮(落葉の宮)を身近の人々に頼んで亡くなると親友の夕霧は遺言を守り律儀に柏木の両親や落葉の宮を慰める。夕霧が御簾での外に隔てているのはあんまりだというと落葉の宮は「夫が亡くなったからと云って、他人を家へ入れませうか。」(谷崎潤一郎訳)と詠む。
写真 (国宝 源氏物語絵巻 柏木 源氏の妻、女三の宮は柏木との不義の子を産む。)藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11.国立国会図書館デジタルコレクション

(37)横笛「横笛のしらべはことにかはらぬをむなしくなりし音こそつきせぬ」
 柏木の一周忌は盛大に営まれ、夕霧は落葉の宮を、一周忌のころには特に心を込めて御見舞いする。夜更けて帰る夕霧に、落葉の宮の母御息所は、柏木の形見の横笛を贈る。夕霧は、「笛の音は昔と格別変わりませぬけれども、亡くなった人を悲しむ私の音はいつまでも尽きはしません」と詠み、夕霧が横笛を枕辺に置いて寝ると、柏木が夢に現れ、「他竹に吹き寄る風のように吹き伝えることが出来るものならば、この笛の調べを長く生命のある音楽として、わが子孫の末に伝えたいものです」(谷崎潤一郎訳)という。それは誰かとたずねようとすると、目が覚める。翌朝、夕霧は六条の院に伺候して、源氏の君に夢の話をすると「後の世に長く伝えたいと思う相手は我が子以外の誰に取り違えるはずがあろう」(瀬戸内寂聴訳)と思いながら笛を預かる。
 横笛と言えば、「紫式部日記」によると、道長は一条帝に当代第一の名器の横笛を贈っている。また、「栄花物語全註釈」によると、彰子に「『笛をこちらを向いて御覧なさい』と帝が申しなさると」、彰子は「『笛は声をば聞くものですが、見るなどということがありましょうか』と言ってお聞きにならないから『だから、あなたは幼い人なのです。七十の老人のいうことをこんなにやりこめなさることよ。』」と冗談を言ったと伝わる。
写真 (国宝 源氏物語絵巻 横笛)藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11.国立国会図書館デジタルコレクション

(38)鈴虫「大方の秋をば憂しと知りにしを ふり捨てがたきすず虫の声」
 出家した女三の宮の御持仏の開眼供養会が催される。やがて秋になると、源氏の君は、尼宮の部屋の辺りを野原のように改修して虫を放し飼いにし、虫の声を聴きに来るようなふりで、尼宮の出家を諦めきれない心を訴えて尼宮を困らせる。十五夜の宵に訪ねた源氏の君は、山奥や、遠い野原で鳴く松虫は「人の気持ちがわからない虫ですね。それに比べて鈴虫は、どこでも賑やかに鳴くのは、当世風で可愛げがあります。」と言うと、尼宮は、「人に飽きられるという秋の季節は、いったいに辛いものと知ってをりましたのに、鈴虫の声だけは捨てがたく思います」つぶやくと、源氏の君は、「心もて草のやどりを厭へどもなほ鈴むしの声ぞふりせぬ」(俗界を厭うて出家なさっても、矢張りあなたはいつまでもお若くお美しい」(谷崎潤一郎訳)と詠んで琴を弾いていると、宮中での月見の宴が中止になって物足りない蛍兵部卿の宮や夕霧たちが月見の宴があるのではと訪ねてくる。鈴虫の宴で飲み明かそうとしていると、息子の冷泉院にも人が集まっていて「同じことなら、あなたも一緒にいらっしゃい」と誘いが来るので、冷泉院に伺って宴を楽しんだ。
 十五夜の月見の宴と言えば、「王朝の貴族」によると、道長が望月の歌を詠んだのは、娘威子の立后で一家三后として、「太皇太后、皇太后、皇后の歴代天皇の后を全部自分の娘で固め」て道長一族が絶頂となった10月16日で十五夜ではないが、「威子立后の宴は、三日間にわたり行われ、さらに引き続いて十月二十二日には威子のいる土御門邸に後一条天皇の行幸があった。これと共に太皇太后、皇太后、東宮の行啓もあり、土御門邸は道長一族の繁栄を祝ってわきかえった」という。道長の「御堂関白記」にも21日に「皇太后宮渡給…行啓。」、22日に「此日土御門邸行幸」などと記される。

(39)夕霧「山里のあはれを添ふる夕ぎりにたちいでん空もなき心地して」
 夕霧は、従兄弟で親友の柏木の妻、落葉の宮を思い続けて通い、その母の病で移った山荘に見舞いに行き、「夕霧が立ちこめてひとしほ山里の情趣を添へるにつけても、その夕霧に行く手の道も見えず、立ち返ることもできない心地がする」(谷崎潤一郎訳)と詠み、思いを伝える。女二の宮は、亡き夫の妹(雲居の雁)の夫だからと拒むが、夕霧が朝出ていくところを阿闍梨に見られる。阿闍梨は、母御息所に本妻(雲居の雁)のお里が「今をときめく御一族」で本妻の嫉妬を買うと忠告。驚いた母御息所は夕霧に手紙を送る。
 夕霧が亡き柏木の妻、女二宮に惹かれて通っていると聞き、夕霧の妻、雲居の雁は気が気でなく、夕霧宛の女二宮の母からの手紙を奪い去って隠してしまう。
 夕霧は、女二宮の母が亡くなると、夕霧は強引に女二宮を山荘から連れ帰ってしまうと、雲居の雁はこれ以上の侮辱を受けたくないと子供を残して実家に帰る。
 嫉妬は身分にかかわらないもの。「大鏡」によると、村上天皇の皇后で、藤原師輔の娘、安子には「帝も、いみじう怖じ申させたまひ」、「厄介なことでも安子が奏上することとなると、到底お断りになる事は出来ないのであった」というが、後に後宮に入った「宣耀殿の女御」と呼ばれた藤原師尹(師輔の弟)の娘芳子は「かたちをかしげに、うつくしうおはしけり」、車に乗ると体は車に乗っても、御髪の裾は、柱の根元にあるほど長い髪で、目じりが少し下がっているのが、「一段をお可愛らしくお見えになるのを、帝はもうたいへんにおかわいがりになられて」、「生きているこの世でも死後のそのまた後の来世でも二人は双生児の鳥のように寄り添うて暮らそうね」と詠んだという。
 「王朝の貴族」によると、「芳子があまり天皇に気に入られたので、皇后として後宮を完全におさえ、天皇の交情もいたって密であった安子も、いささか気にならざるを得ない。度量広く、…評判がよかった安子ではあるが、嫉妬の情だけはまた別である。天皇が芳子の局に入ったことを知った安子は、隣の部屋からしきりの壁に穴をあけてのぞくと、芳子の美しい姿が目に入った。「なるほど、美しいなあ」と思ったとたんにムラムラとなって、こわれた皿のかけらを穴から投げ込んだ」という。
写真 (「大鏡」の「宣揚殿の女御」について、帝が寵愛し、左ページ3行目から『生きての世死にての後の後の世も羽を交わせる鳥となるらむ』と歌を詠んだという。)大鏡 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(40)御法「絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中のちぎりを」
 源氏の君の最愛の人、紫の上は、大病以来、めっきり弱って病に苦しみ、出家を望むが、源氏の君はこれを許さない中、紫の上は法会を営む。法会の後、紫の上は参加した花散里に「私がこの世で営む法会はこれが最後で(もう直死んでいく身で)ございますが、それでもこの法会の功徳によって、生々世々あなたと廻り合ふようにとお約束したことはな叶えられるものと、頼もしう存じ上げてをります」と詠むと、「結びおく契りは絶えじ大方の 残り少き御法なりとも」(世間普通の、有難みの少ない法会でも功徳があるのでございますものを、ましてこのような立派な法会でお互いの間に結んでおく御縁は、後後の世まで絶えることはございますまい」(谷崎潤一郎訳)の返歌。
 夏になると、暑さに弱い紫の上の病状はますます悪くなり、明石の中宮は、若宮を連れて、二条の院に退出して見舞う。秋、祈祷のかいもなく、源氏の君を遺して、先立つ。
 源氏の君は紫の上が長い間ずっと望んでいた出家の本懐を遂げられるよう残っている僧に申し付けるよう夕霧に話す。夕霧は「あのひと眼垣間見た野分のお姿くらいはせめてもう一度拝見したいものだ。ほのかなお声さえお聞きしたことはなかったではないか。」と御簾の中に入ってみると、「死顔があまりにも可愛らしく、美しく見え」る(瀬戸内寂聴訳)。
 源氏の君には紫の上以外にも多くの女君がいるが、愛する人に先立たれると、他の女性に寵愛が移るわけでもないようで、「大鏡」によると、それまで村上天皇が熱心に筝を教えたりして「限りなく時めきたまふ」「宣揚殿の女御」芳子だったが、中宮安子が亡くなると、かえって甚だしく寵愛を失ったと噂がたち帝は、「『亡き中宮(安子)がひどく目障りで不愉快な女だと』思っていたので、「中宮を思い出すと相済まぬ気がして、なぜあんな女を寵愛したのかと後悔するのだとおっしゃられた」という。

(41)幻「大空をかよふまぼろし夢にだに見え来ぬ魂の行へたずねよ」
 紫の上を失った源氏の君は、「紫の上を失われた悲しみに暮れ惑うばかり」で、「夫婦離れず空を渡る雁の翼も、自分にあれば紫の上のいられる大空のかなたに飛んで行かれるのにと、羨ましく見つめ」(瀬戸内寂聴訳)て「あの雁が飛ぶやうに大空を飛行するといふ幻術士よ、夢にさへも現れないあの人の魂を探しておくれ」(谷崎潤一郎訳)と詠む。思い出の紫の上の手紙を処分させ、出家の準備。「正月初めにする行事のことを、例年よりも格別なものにしようと、お命じになります」(瀬戸内寂聴訳)。
 出家と言えば、「王朝の貴族」によると、栄華を極めた後、やがて「病気に悩まされるようになった道長は、1019年3月、重い胸病の発作の後、剃髪出家を決意し、七月には自分の邸のすぐ東に「壮麗な法成寺を建立する決意を固め…有能な受領を選んで一人に一間…ずつの造営を分担させた」、「栄華物語には、道長は寝食を忘れて造営に熱中」、「法成寺の寺域について、…方四町(約四百四十メートル四方)」というから、源氏の君の六条の院の4倍サイズ。1022年「後一条天皇行幸のもとに落慶供養が挙行され…金堂供養はまさに天下の盛儀で、天皇・皇太子・三后をはじめ、公卿…老若男女群衆する中、広い境内が人と車で埋め尽くされた」という。
 源氏物語のモデルの一人と言われる道長の死について。「ひたすら、臨終の念仏を思いお続けなさる。阿弥陀如来の…相好以外の外の形を見ようと思われなさらず、仏法の声以外の他の声を聴こうと思われなさらない。(また)後生善所を願う以外の事を思われなさらない。御目には阿弥陀如来の相好をお見申し上げなさり、お耳にはかように尊い念仏をお聞きなさり、お心は極楽浄土に思いを馳せられ、御手には阿弥陀如来のお手を通した(五色の)糸をしっかりおにぎりになさって、北枕に西を向いて御伏しになっておられた。」と「栄花物語」に伝わる。

(42)雲隠れ
 源氏の君が亡くなったと思われるタイトルのみで本文はないという斬新さ。

源氏の君、紫の上という主役が退場するが、物語は続き、次回は、瀬戸内寂聴が「本編よりも面白い」と評する「宇治十帖」と呼ばれる、源氏の君の子・孫の世代の物語と、源氏物語の様々な影響について4月号に掲載予定。

(主な参考文献)
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「日本の歴史5 王朝の貴族」土田直鎮、中央公論新書、1973年
「新潮日本古典集成(第五四回)蜻蛉日記」、犬養廉校注、株式会社新潮社、1982年
「新潮日本古典集成(第八二回)大鏡」、石川徹校注、株式会社新潮社、1989年
14.大鏡(おおかがみ)- 歴史と物語:国立公文書館
「源氏物語」 巻四~巻七 瀬戸内寂聴訳、講談社、1997年
「新訳源氏物語」 中巻、下巻、与謝野晶子訳、大鐙閣、1925年
庭園の四季の彩り(夏)|東京のホテルならホテル椿山荘東京。【公式サイト】(hotel-chinzanso-tokyo.jp)
「紫式部日記・紫式部集」、山本利達校注、株式会社新潮社、2016年
「現代語訳 日本の古典5 源氏物語」、円地文子、株式会社学習研究社、1979年
「百代の過客」、ドナルド・キーン、朝日新聞社、1984年
「講座 食の文化 第二巻 日本の食事文化」、石毛直道監修、財団法人味の素食の文化センター、1999年
『源氏物語の舞台装置 平安朝文学と後宮』、栗本賀世子、吉川弘文館、2024年
13.栄花物語 - 歴史と物語:国立公文書
藤原行成「権記」上、中、下、全現代語訳 倉本一宏、株式会社講談社、2011年
あの日の公文書|国立公文書館ニュース Vol.13 大久保利通|近代
日本人の肖像|国立国会図書館
日本古典全集 御堂関白記 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「藤原道長『御堂関白記』を読む」、倉本一宏、株式会社講談社、2013年
「現代語訳 小右記」3,4,9,12,15、倉本一宏編、吉川弘文館、2017年
「栄花物語全註釈」(二)、(五)、(六)、松村博司、株式会社角川書店、1976年
源氏物語絵巻|公益財団法人 五島美術館(gotoh-museum.or.jp)
大鏡 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「天皇の歴史3 天皇と摂政関白」、佐々木恵介、株式会社講談社、2018年
宮殿調度図解:附・車輿図解 下 増補 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
官職要解 修訂(7版)- 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)