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日本語と日本人(第9回)― グローバル化時代の日本語(最終回)―

国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇

 前回、西欧語の流入とIT化で揺らいでいる日本語について述べた。そして、国際社会でおよそ英語に太刀打ちできていないことを述べた。ただ、必ずしも英語の議論が、今日、グローバル・サウスの国々に受け入れられているわけではない。また、IT社会においては、実は、想像の飛躍を得意とする日本語に活躍の場があるとも考えられる。そんなことを述べて、主語を使わない日本語の話を最終回としたい。

英語の議論と日本語の議論
 日本語の議論が英語の議論に太刀打ちできない例として、数学者の藤原正彦氏が「若き数学者のアメリカ」という本の中で次のようなエピソードを紹介している。それによると、米国人はとにかく自分の意見を述べることを優先する。当方が、何か独創的なことを言うと「それは面白い見方ではあるが、あなたは数少ない現象から不当に普遍的な結論を導いている」と言うし、どこかで聞いた覚えのある意見を述べると「それは平均的かつ陳腐であり、時代錯誤でさえある」などと言う。といって相手の意見に斬新さもない。こちらの論理的飛躍を指摘する巧さだけが目に映ってくる。そこでこちらも少しずつ焦ったり興奮してきて、ついにはボロを出したり支離滅裂なことを口走ってしまい、それをまた攻撃されるという具合で、たいていの場合は降参してしまう羽目になるというのだ*1。
 しかしながら、そのような英語の議論が日本語の議論より優れているかとなると、必ずしもそうとは言えない。以下は「感情的な日本語」*2という本の中で加賀野井修一氏が述べていることだ。同氏は先ず、日本語の議論には「結論が文末にくるので、何を言いたいのか分かりにくい」「結論まで行かずに話が拡散してしまう」*3といった問題点があるという。それに対して、英語では最初からはっきりと「AはⅩである」という結論が示される。そしてその結論に至る理由がつぎつぎに敷衍されていく。つまり、「AはⅩである。何故ならば、Bであり、Cであり、Dであるからだ」という形を取る。単刀直入に結論が示されるので、相手の意図は一目瞭然でスカッとした感じになり、モヤモヤ感の抜けない日本語がいかにも見劣りしてしまう。ただ、そのような英語の議論が本当に優れているのかというと疑問だ。すなわち、最初からはっきりと「AはⅩである」という結論が示されるのはいいのだが、そうするとその時点で、「AはYだ」「AはZだ」と考えている人たちからはいっせいに反論が出されることになる。もちろん、発言者の「何故ならば」以降もじっくり聞いたあげくの反論ならいいのだが、多くの場合はそうではなく、それを聞かぬままに、てんでに自説を叫び始める。加賀野井氏がかつてパリに住んでいた頃、名だたる思想家たちが意見を戦わせる「アポストロフ」というテレビ討論番組を楽しみに見ていたそうだが、そこでもかなりの頻度で、こうした不毛なやりとりに出会ったという。一見、熱気にあふれ、さも活発な議論がかわされているかのようだが、その実、相手の言い分をきちんと聞かないままに、話は堂々巡りをくり返すことがしばしばだったという。
 それに対して日本語の議論では、文末にならないと、肯定か否定か、平叙文か疑問文か、断定か推定か、命令か感嘆かといったことが分からない。そこで「Aは」と言うと、みんな固唾をのんで次の言葉を待つ。そして最初に結論をもってこないので、「BでもCでもDでもあって」という理由をひとまず誰もが聞かなければならない*4。それで最後に「とどのつまりⅩです」と言われたら、「なるほど、ここまで網羅的に見てきた結果Ⅹなんだから、異論はないよ」となったり、「いや、Dのところにちょっと問題があるのではないか」ということで部分調整が行われたりして、不毛な自己主張の応酬よりはるかに効率よく建設的な議論が戦かわされることになる。英語の議論では、「AはⅩである」と言ったところで勝負をつけようとするので、結論はそれが正しいか誤っているかの二つに一つしかない。しかしながら、世の中には二つに一つと割り切れないことがたくさんある。となると、日本語の議論のように、ともに探索し、帰納し、協調し、徐々に不確かなものから確かな結論を導き出していく方が、実は、はるかに「発見的」であり「創造的」になる。その方が参加者全員に網羅的な発言の機会を与えて建設的な議論を行えるのだという。

グローバル・サウスの国々の納得を得ていない英語の議論
 加賀野井氏によると、主語制の英語による思考の道筋は、「主語-述語」が緊密に結びつく固い核が中心になって、それが関係代名詞や理由を述べる接続詞などによって敷衍されながら広がり、因果的・論理的に展開していく。小さなカテゴリーから大きなカテゴリーヘと広がっていく「ズームアウト」のスタイルだという。それに対して主語を使わない日本語では、まずは主題の提示によって大まかな状況のようなものが描かれ始め、次第にそれが明確化され限定されながら、ついには述語の中へと収赦していく。大きなカテゴリーから小さなカテゴリーヘと絞りこんでいく「ズームイン」のスタイルだという。
 今日の国際的な議論の場では、単刀直入な「ズームアウト」の英語が、圧倒的に優位な地位を占めている*5。日本語は、大まかな状況の中で常に相手の考え方や立ち位置に気を配って臨機応変に自らの主張のニュアンスを変えたりするので、単刀直入な「ズームアウト」の議論に負けてしまうのだ。しかしながら、それでグローバル・サウスの国々が納得しているかというと、そうは思われない。むしろ、英語の議論にうさん臭さを感じている。英語の議論は、時として大きくぶれもするからだ。例えば、地球環境問題に関して言えば、米国はオバマ大統領の時代には熱心だったが、トランプ大統領になるとほとんど関心を失ってしまった。財務省の先輩の久保田勇夫氏はその著書の中で、欧州諸国との米州開発銀行の増資交渉において、「条約とは一遍の紙切れに過ぎない」というかつてのヒトラーが述べた思想が健在であることを知ったと述べている*6。所詮、冷徹な国際関係とはそんなものだと言ってしまえばそれまでだが、そうであればあるほど英語の「ズームアウト」の議論にうさん臭さを感じる国が増えていくだろう。国際関係が錯綜し、西欧諸国とグローバル・サウスの国々の利害対立が目立つようになっている今日においては、日本語の議論への期待が高まっていく素地があるはずだ。
 日本語の議論の特徴は、相手との心理的な距離をうまくコントロールし、相手と感情を共有する構造を創り上げながら議論を集約させていくところにある。多様な民族の様々な利害が錯綜する国際社会で、各国が協調してよりよい関係を創り上げていくために求められている議論と言えよう。では、具体的にどうしたらいいのか。相手が「ズームアウト」の議論でくる場合には、こちらも同様の手法で対応し、無理難題の主張に対しては日本語なら当たり前の思いやりなどは控えて正面から冷静に反論するといったことを繰り返して負けないようにする*7。他方で、そうでない国々に対しては日本流での対応を行う。そうしながら、全体の議論を大まかな状況から入って具体的な問題点を詰めていく「ズームイン」の手法でまとめていくようにするのだ。
 そのように言うと、そんな手法はグローバル・サウスの国々には受け入れられても、欧米諸国には受け入れられるはずがないと言われそうだ。筆者も、かつてはそう思っていた。しかしながら、「日本の感性が世界を変える」という本の中で鈴木孝夫氏が、日本語を学んだフランス人が「私が私を主張しないことは最初は気持ちが悪かったが、全体の中に何となくいることが、ふあーとして心地よい」と感じるようになったという例を紹介されているのを読んで、その考えを変えた*8。本稿第1回に金谷武洋教授が、相手と感情を共有しようという構造を持つ日本語は地球を救える力を持っているとしていることを紹介したが、相手と感情を共有しようというのは日本語が「世間」の中で話される言語として他者への信頼を大切にする言語だという所から来ている。大澤真幸氏は、米国の認知心理学者マイケル・トマセロ氏によるチンパンジーの動物実験の例を引きながら、人間が言葉をしゃべれるようになったのは、チンパンジーなどの他の動物と異なり他者の善意への信頼のようなものがあったからで、「笑い」や「歌」が言語の発達に重要な役割を果たしたとしている*9。日本人は、本稿第2回と3回で見たように「他人を信ずべき存在という人間観」を強く持ち*10、「笑い」や「歌」を大切にしてきた。それは、日本語が人間が言語を話せるようになった原点を最もよく保存している言語だということを示唆している。だから、日本語を学んだフランス人が「ふあーとして心地よい」と感じるようになったのだ。それは、日本語には他の言語以上に集団をまとめていく優れた力があることを意味していると言えよう*11。

日本語の優れた力の発揮
 日本語に、そのような優れた力があるとしても、日本人が今日の国際社会で実際にその力を発揮できるかというのは別の問題である。冒頭の藤原教授のようになってしまってはその力は発揮できない。実は、筆者もかつてはそれは無理だろうと考えていた。何よりも国際社会では英語で話さなければならないが、本稿第1回で述べたように、日本人はそもそも英語が苦手だし、その苦手な英語も低い声でしか話さない。他人より先にしゃべることをためらう文化も持っている。日本は交渉で自らの主張が通らなくても、一旦決まってしまえば簡単に受け入れてしまうので*12、その発言は軽視されてしまうとも言われており、それでは国際交渉をまとめる役回りなど到底無理だと考えていた。
 しかしながら筆者は、内閣府の次官をしていた時のTPP交渉を見て、その考え方を変えた。TPP交渉では、甘利担当大臣以下の交渉グループが安倍総理のリーダーシップの下、米国や豪州などを相手に「ズームアウト」の議論で一歩も引かない交渉を行って成果を上げた*13。その際には、財務省OBの佐々木豊成氏が農業分野をはじめとする国内調整の分野で、「ズームイン」の議論を行って大いに貢献していた。筆者は、主計局時代、主査、主計官として7年にわたって農業分野を担当していたが、農業分野の調整はグローバル・サウスの国々との調整と同様のものといえる。そのような交渉を成功させたことは、日本が欧米諸国とグローバル・サウスの国々の利害が錯綜する分野で調整力を発揮することができることを示している。考えてみれば、戦前の多くの日本人はそのような力を発揮していた。それは、筆者が研究してきた高橋是清の日露戦争時の外債発行交渉での活躍ぶりなどを見ればわかることだ。また、戦前の帝国議会での金解禁をめぐる高橋是清と井上準之助の議論などは、英語の「ズームアウト」の議論顔負けの議論だった*14。そして、今日グローバル展開している日本企業の多くの社員は、英語の「ズームアウト」の議論で海外子会社の経営や契約交渉などを行っているはずだ。かつては、海外子女の日本企業への就職が難しいなどと言われていたが、最近ではむしろ帰国子女以外の社員に西欧流の議論への訓練が求められるようになっているといえよう。
 では、そのためにどんな訓練が必要かというと、西欧人を相手とする議論にあたっては日本流に言葉を断片的に投げ出すのではなく、言葉をきちんとつなぎ合わせて話す西欧流にするといった訓練だ*15。文科省が、最近重視している論理国語の目指しているところと言えよう。実は、アメリカでも西欧流の議論が何の訓練もなしに行われているわけではない。小学校時代から、スピーチの時間などで訓練されているのだ*16。
 なお、日本人が英語を低い声でしか話さないという点は、訓練というよりも心がけの問題だ。英語と日本語の間の言語としての基本的な違いを理解した上で、大きな声で話すことを心がけるのだ。何が基本的な違いかというと、英語は複雑な発音をアルファベット26文字で写すことに割り切り、「話す、聞く」に特化した「音声言語」だ。「音声言語」の世界では、音声自体に特定の意味があるので、それを大きな声で話すことによって相手により強く発言内容を印象付けられる。そこで、人々は大きな声で話すことになっているのだ。それに対して、漢字に訓読みなどの多様な読み方がある日本語は「読む、書く」に特化した「文字言語」だ*17。高島俊男氏は、同音異義語が多く文字の裏付けがなければ音声だけでは意味を特定しえないという点で、日本語は音声が無力な世界でおそらくただ一つの、極めて特殊な言語だとしている*18。それは、本稿第7回に述べた、日本語が想像の飛躍がふんだんにみられる言語だということの裏腹ともいえる。日本語は、音声が特定の意味を限定しないことによって想像の飛躍の場を大きく確保しているのだ。そのような日本語を大きな声で話しても、何ら意味の特定につながるわけではなく、場合によっては違和感を持たれることになる。そこで低い声で話すことになっているのだが、そんな調子で英語を話しても、およそ注目されず、場合によっては通じない。まずは、大きな声で話すことを心掛けることが必要なのだ。

「国際人」についての誤解
 ここで、国際的に活躍するためには英語が上手にしゃべれる「国際人」にならなければならないという話には大きな誤解があることを述べておきたい。実は、「国際人」といって通じるのは日本だけなのだ。これは、筆者が日本アスペン研究所という所でご一緒しているフランス文学者の塩川哲也氏*19が指摘していることだ。同氏がフランス人に国際人にあたるフランス語を聞いてみたところ、適切な答えが得られないばかりでなく、そもそも質問の趣旨をなかなか理解してもらえなかったという。そもそも「国際」という言葉は、国と国との間に起こる事態や問題を意味し、国際関係、国際政治、国際会議といった言い方はできても、個人であれ集団であれ、人間についてはフランス語でも英語でも国際的というのは不適切だというのである。日本人、アメリカ人、中国人、場合によっては、無国籍の人、さらには難民はいても、国際人などいないという。
 多くの日本人が、「国際人」について抱いている素朴なイメージは「英語やフランス語ができて国際舞台で活躍できる人」あたりだろうが、塩川氏が日本を良く知るフランスの友人にそのような説明を試みたところ、相手はあきれ顔で、そんな表現はおよそ理解不可能だ、それは考え方自体が混乱して矛盾していると言い、続けてこんなことを言ったという。日本人が日本独自で外国語には翻訳できないと思っている事柄も、それが日本人の生活と文化に根付いているかぎり、納豆やこんにゃくであろうと、はたまた禅や寂びや侘びであろうと、それに関心を寄せる外国人が出てくれば、やがてそれをその国のことばで適切に説明することが可能になり、場合によっては問題の日本語がそのまま取り入れられて、その国の文化に定着していくだろう。しかし日本では国際人の養成が急務であるといったたぐいの表現に出会ったら困惑し、何か下心があるのではないかと警戒するだろう。つまり「国際人」という言い方は、外国人とのコミュニケーションを促進するつもりが、かえってそれを害する結果を生むというのである。笑えない喜劇である。本稿第6回に紹介したハーディー智砂子氏は、「国際人」にするためにということで日本人がその子女を中学や高校から英語圏の学校に入れることは本人の為にもならないとしていた*20。国際的に通用する人になるためには、英語よりも日本の古典などの人文知こそ大切だというのである。他国との文化の違いを理解していてこそ、国際的に活躍が出来るというのである。本稿第1回の冒頭に「敵を知り、己を知れば、百戦して殆うからず」と述べたが、まずは「己を知」らなければならないということである。
 なお、文化の違いという点では、議論においておよそ相手への気配りを行わないアメリカ人も、日頃の交際では人間関係の保持に努めている点には留意が必要だ。日本では職場でたわいもない世間話ばかりしていると怪訝な顔をされるが、米国では隙あらばみんな廊下やエレベーターホールで話している*21。これは、かつて筆者が米国に留学した際にも感じたことだ。ドライな議論をする米国人は、日常生活では常に言語でのウェットな接触を心がけているのだ。ただ、そのようなウェットな会話は、多くの日本人には異質なものだ。それは、日本語が「世間」での相手との間合いを図るのに言語だけでなく表情やしぐさによるコミュニケーションも大切にする言語だからだろう。もっぱら言語に頼るリモートオフィスだけでは、職場の人間関係がうまく築けないのが日本人なのだ。

IT社会における日本語の潜在力
 ここから、IT社会における日本語の潜在力について考えてみることとしたい。日本人は、個人としては発想の異なるインベンションが得意だが、集団としてはイノベーションを起こすのが不得意だと言われる。前者については、数学者の小平邦彦氏が「日本語はあいまいだから、数学を創るには有利だ」としていたことが思い起こされる*22。数学者としては、江戸時代の関孝和や大正から昭和にかけて活躍した岡潔などがすぐに思いつく*23。ダーウィンの競争的進化論に対して、独創的な「棲み分け」による共生的進化論を唱えた今西錦司なども思い浮かぶ*24。
 後者のイノベーションを起こすのが不得意だという点に関して最近言われるのは、狭い「世間」に閉じこもる日本人が外の人の受け入れに消極的で移民を受け入れないということだ。かつては、3人寄れば文殊の知恵と言われていたが、それは3人寄るのが身近な「世間」だったからで、最近のネット空間では何人集まっても衆愚の知恵にしかならないと指摘されたりもしている*25。ただ、日本語の「世間」は、前回述べたように固定的なものではない。学校に入れば新しい「世間」が待っているし、会社に入っても新しい「世間」が待っている。「世間」は、固定的なものではなく多様なものになりうるのだ。戦後の日本では、ホンダやソニーといった企業に様々な人材が集い、新たなイノベーションで世界をリードしていた。それがバブル崩壊後、人材までをもコストとみる守りの経営になって、イノベーションを起こす人材を生かせなくなってしまっているだけではなかろうか。また、何でもROE(自己資本利益率)といった数字で管理しようとする「米国流」のガバナンス理論が一世を風靡してしまって企業経営が短期志向の弊害に陥って人材を生かせなくなっているだけではなかろうか。米国人だって、そんなガバナンス理論ばかりで企業経営を行っているわけではない。ベンチャー企業が、そんな企業経営から生まれてくるはずもない。グーグルにしてもアマゾンにしても、そんな経営で成長してきたのではない。最近では、日本でも東京大学が民間企業との協力の下にアントプレナーシップのための講座を始めるなどの新しい動きが出てきている。日本が、日本の人材を生かしてイノベーションの能力を再び発揮し始める日も近いと信じたい。
 筆者は、「うそ」を得意とし想像の飛躍が豊富な日本語は、これからの人工知能の時代にその潜在力を大いに発揮できる言語だと考えている。言葉は人間がものを考える基盤だが、言語を超えた世界とも親和性のあるのが日本語だ。言語による認識の限界を認知し、不立文字、空、唯識といったことを当然のこととしてきた。こんな言語は、世界中探しても日本語以外にはない。学問は、言葉を超えたイメージとの間の振り子運動によって新しい概念を獲得することによって進歩すると言われる。数学で抽象的なことを考える時は、言葉とイメージとの間を行ったり来たりと往復運動、振り子運動をするのだという*26。それは日本語が、同音異義語との間を行ったり来たりし、創造の飛躍を行うのと同様の働きだ。人工知能はそんなことはしない。人工知能は深層学習技術の開発により、情報処理の分野で大きく人間を超えるようになったが、計算による情報処理という基本を変えたわけではないからだ。人間の知能は、ニューロンで結合した100億もの脳細胞が自由自在に活動し、1000億ものニューロンによる1000兆個ものシナプス結合が創り出す統合的解釈が意識活動として認識されるものだという*27。それは、ニック・チェイター教授が指摘していた、想像の飛躍や比喩が縦横無尽に働いている世界だ。それは想像の飛躍が豊富な日本語の得意とす分野で、そこには人工知能の出番はない。そのような日本語は、今後の人類の進化に大いに役立つ言語になりうる可能性を持った言語というわけだ*28。それを人工知能が真似ようとしても、いたずらに電力を消費するだけだろう。
 なお、人工知能の発達に関して、欧米では人工知能が人間を支配するようになることが真剣に心配されているという。ターミネータ*29が生まれるのではないかというわけである。それに対して日本人でそんなことを心配する人は少ない。日本では、ロボットといえば鉄腕アトム*30である。思うに、一神教を信仰する欧米人の頭の中には、最後の審判で人類が滅ぼされてしまうという感覚がある。それに対して、混沌の中から万物が生まれてきたという神話を持つ日本人にはそんな感覚はないからであろう*31。

日本語の哲学
 最後に、日本語の哲学について述べておきたい。ニック・チェイター教授は、初期の人工知能研究は人間がもつ物理や社会の知識の根底にある原理を取り出そうとして失敗し、言語学は言語を生成する文法原理を見つけようとして失敗し、哲学は真や善の意味や心の本質の根底にある原理を明確化しようとして失敗したと述べている*32。西欧の近代哲学の原点はデカルトの発見した「自我」だ。そこから様々な概念を措定して人間の生き方を突き詰めていく。そこには、人々が変幻自在に立ち現れる「世間」でのコミュニケーションの道具である日本語ではありえない確固たる「自我」という前提がある。ロールズの「無知のヴェール」やホッブスの「万人の万人に対する闘い」に、多くの日本人が違和感を持つのはそのせいであろう。そのような西欧流の考え方は、前回見たように日本人を「不安」にしてしまう。哲学が、魂の世話(ソクラテス)で、人間を「幸せ」にするものだとするならば、日本人には西欧流の「自我」を前提としない哲学が必要なのだ。
 筆者は、日本人の哲学の原点は「自我」ではなく「世間」だと考えている。その「世間」は人間だけではなく「もの」や自然でも構成されている。日本語では人間だけでなく「もの」や自然も変幻自在だ。皿は一枚二枚、御飯は一膳二膳、魚は一匹二匹、たたみは一畳二畳、うどんは一玉二玉と、その個性に応じて数えられる。色彩にも「東雲(しののめ)色」のように、夜明けに東の空が明るくなってきたほんのひと時の様相をあらわすような多様な色がある*33。やまと言葉の「ほほえむ」は、人が「かすかに笑う」というだけでなく、植物の「つぼみが開き、ほころぶ」の意でもある。虫の音を、西欧人のように雑音としてではなく声として聴くのが日本人なのだ。そんな世界で、「他人を信ずべき存在という人間観」を強く持っているのが日本人だ。そのような日本人の哲学は、自分だけでなく他人も同じように幸せにするための生き方を教えるものでなければならない。花鳥風月といった自然も含めた「世間」の中で、可変的な存在である自分が他者とともに楽しく過ごしていくための生き方だ。前回述べた日本語の寄り添い機能を生かしていくための生き方だ。
 何か小難しい話になったが、要は日本人の哲学は変幻自在な「世間」で話される日本語の中に体現されているはずだということだ。それは、本稿第1回にご紹介した金谷教授が日本語を学ぶと人格が柔らかくなるという話に通じることだ。柔らかな人格の人々が集まれば幸せな社会が築かれる。それが、「逝きし世の面影」で描かれていた江戸時代の社会だったと言えよう。江戸時代は、250年にわたって戦乱のない太平の世だった。遡れば、縄文時代は1万5000年にもわたって戦乱のない時代だったことが考古学上明らかにされている。縄文時代の終わりに大陸から新たな文明がもたらされて戦乱の時代になったのだ。縄文時代までの戦乱のなかった文明のDNAは日本語の中に深く組み込まれているはずだ。金谷教授が、日本語は地球を救える力を持っているとしているのも、そのようなDNAを持つ日本語が人々を幸せにするということであろう。そんなことを言うと、そんな哲学は日本語以外の言語の人には役立たないのではないかと言われそうだが、そもそも人間が言葉をしゃべれるようになったのは、先に見たように他の動物と異なり人間に他者の善意への信頼のようなものがあったからだ*34。日本語は、その原点を最もよく保存している言語に過ぎない。だから、外国人でも日本語を学ぶと「ふあーっとして心地よい」と感じるようになるのだ。日本の禅の思想が世界に広がっているのもそのせいだといえよう。禅には「不立文字」という考え方がある。そこには西欧流の「自我」はない。日本人の自立は、熊谷晉一郎氏が述べているように、たくさんのものに少しずつ依存できるようになることなのだ*35。日本語の「寄り添い機能」が、それを支えるようなものなのだ。それを「自我」が必要だなどといわれると不安になってしまう。そんなことを言う人に対しては、前回述べたスルー・スキルでやり過ごせばいい。英国の哲学者、デレク・パーフィットは、人格の同一性というのは0か1かではなく程度の問題で、自他の区別も強固なものではないと考えるようになった結果、「私は自分自身の生の残りを気にかけることが少なくなり、他の人々の生を気にかけることが多くなった」としている*36。本稿第6回で触れたアダム・スミスの「道徳感情論」に通じる考え方といえよう。

言語学の現状
 最後に、世界で多様な言語がある中での日本語の独自の立ち位置と言語学の現状について見ておくこととしたい。世界にどれくらい多様な言語があるかというと、アフリカのコイサン語族ではクリック音(舌打ち)が80種類もある。ピピル語では述語を先頭に持ってくる。ナバホ語では動物をランク付けしている*37。副詞がない言語もあれば、形容詞がない言語もあり、カナダの先住民族のストレイツセイリッシュ語では、名詞と動詞の区別さえないという*38。そのように多様な言語がある中で、実は日本語には親戚にあたる言葉はないのだという。中国語は支那西蔵語族でチベット語やタイ語、ビルマ語と同じ系統だ。英語は印欧語族でヨーロッパ全域からアジア西部までまたがる世界最大の語族に属する。ところが、日本語の系統は分からないという。ちなみに、あえて日本語と中国語と英語を比べると、中国語と英語にはかなり似たところがあり、日本語と英語の間にも少しは似たところがあるが、日本語と中国語の間にはほとんど似たところがないという*39。
 そのように多様な言語がある中、言語学では18世紀後半、自然も人間社会も単純なものから複雑なものへ発展するということで言語進化論が唱えられた。孤立語から謬着語に、そして屈折語に進化したというのである。中国語のような孤立語は、文法を表す専用の道具がなく品詞の区別もなく、ただ概念を表すための単語が「孤立」して並べられるだけの単純なもの。日本語のような謬着語は、それ自体の意味を持たず関係を表す専用の道具(テニオハなど)が膠(にかわ)のように付加されている。それが、欧米語のような屈折語になると、そのように付加されたものが一体化、融合して単語の形が変化する(格や時制など)ことで文法的機能を果たすようにさらに進化したというのだ。そのような言語進化論は今日では否定されている*40。その過程では、遅れているはずの謬着原理に基づいて、欧州語からエスペラント語が創られ*41、英語は歴史過程の中で中国語のような子供っぽい原始的言語への道を歩んでいるといった指摘も行われて多くの混乱がもたらされたという*42。
 最終的に言語進化論は、ロシアの言語学者ニコライ・トルベツコーイによって否定された*43。その後一世を風靡したのが、人間は生来の言語能力を持っているとするチョムスキーの生成文法論であった。ところが、最近では、文法を仮定せずに人工知能を使った大規模言語モデル(チャットGPTなど)が言語を扱う能力を獲得してしまった*44。そこで、言語は脳による意思疎通をしようという即興的コミュニケーションの上に進化してきたとするニック・チェイター教授のような説が登場してきているのだ。その延長線上の説として筆者が興味深く思っているのは、慶応義塾大学環境情報学部教授の今村むつみ氏が唱えている、人間が言語を持つことを可能にしたのは他の動物が行わないアブダクション推論*45の能力だという説である。それによると、子供の言語習得に重要な役割を果たすのは、アブダクション推論によるブートストラッピング・サイクルだという*46。ブートストラッピング・サイクルとは、子供がよく使うオノマトペ*47から始まり、高度な言語を学んでいくというものである。それは、AI言語で解決不能な接地問題*48を説明するもので、身体の運動、思考、信念、記憶など、あらゆる要素から発話に伴うアブダクション推論が行われるのだという。それは、どんなによくできた人工言語であっても身体運動を伴わない以上、自然言語にはなりえないということを意味している*49。日本語ほど多様な身体運動に関するオノマトペを持っている言語はない*50。身体運動を言語化したオノマトペの延長線上に、日本語における創造の飛躍も基礎づけられているといえよう。西欧の言語学は、日本語のそのような特徴にほとんど気付いていなかった*51。それが脳科学の発達によって、ようやく気付かれつつあるのが今日の言語学の現状と言えよう*52。

おわりに
 以上で、主語を使わない日本語の話はお終いである。筆者は、人事院が主宰する日本アスペンの研修でご指導いただいた今道友信先生*53から、哲学は魂の世話だということと、日本人の哲学が必要だという話を伺った。今道先生は、終戦の年、鎌倉に最晩年の西田幾多郎氏を訪ね、日本人の哲学が必要だと言われたという。本稿は、筆者なりに今道先生の問題意識への答えの試みでもある。日本語の持つ「寄り添い機能」を取り戻すことが、日本人の哲学の目指すべきところだということである。専門家からのご批判を仰げれば幸いである。
 次回は、番外編として韓国語について見ていきたい。韓国語は日本語と同じ謬着語だが主語制となっており、かつては中国の漢字をそのまま用いる「文字言語」だったが、今日では漢字を捨て去って全面ハングル化し、欧米語と同じ「音声言語」になっているという興味深い言語なのである。


*1) 「若き数学者のアメリカ」藤原正彦、新潮社、2003,p210
*2) 「感情的な日本語」加賀野井秀一、教育評論社、2024、p216-221
*3) 加賀野井氏は、そのような話し方の例として結婚式のスピーチを挙げている
*4) 「完本 日本語のために」丸谷才一、新潮文庫、2011,p133
*5) 「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎、2023,p132
*6) 「戦後レジームからの脱却を」久保田勇夫、産経新聞出版、2024、p41
*7) 加賀野井秀一、2024、p57―59。「過剰可視化社会」与那覇潤、PHP新書、2022,p57。
*8) 「日本の感性が世界を変える」鈴木孝夫、新潮選書、2014、p65
*9) 「生成AI時代の言語論」大澤真幸、松尾豊、今井むつみ、秋田善美、左右社、2024、p116、133-34、137、240-43
*10) それに対して「まずは人を疑うことから始める」のが中国人であることについて、本稿第4回参照
*11) 文化人類学者の山田仁史氏は、日本語は「言葉を介した創造力のたまものとしての自己実現欲求や、他者とのコミュニケーションやつながりに欠かせない共感力、さらにそれと深くかかわる自己承認欲求」を大切にする言語であるとしている(「人類精神史:宗教、資本主義」山田仁史、筑摩書房、2022、p254)
*12) 「安倍晋三回顧録」中央公論新社、2023、p167
*13) 「宿命の子 安倍晋三政権クロニクル」船橋洋一、文芸春秋、2024、p229-282
*14) 「帝国議会と財政民主主義」松元崇、日本財政学第79会全国大会報告論文
*15) 「日本語の歴史」山口仲美、岩波新書、2006、p219-20
*16) 「日本語には敬語があって主語がない」金谷武洋、光文社新書、2010、p292
*17) 日本語の発音は極めて単純素朴で全く「音声言語」的でない(山口仲美、2023、p239)
*18) 「漢字と日本人」高島俊男、文春新書、2001、p243。中国語は、「話す、聞く」と「読む、書く」が併存する言語といえよう。「話す、聞く」の「音声言語」の性質から大きな声で話すが、「読む、書く」の「文字言語」の性質から筆談でのコミュニケーションもでき、それがグローバルな中国文明の基盤になってきたというわけである。
*19) 東京大学名誉教授、パスカルの研究で知られる
*20) 「古き佳きエジンバラから新しい日本が見える」ハーディー智砂子、講談社α新書、2019、p100-101
*21) 松谷真人、ファイナンス、July,2023、p61
*22) 「矢野雅文の述語的科学論」矢野雅文、iichiko、2018、p71
*23) 文芸春秋、2023・8,p110-125
*24) 矢野雅文、2018、p49
*25) 「先生、どうか皆の前でほめないで下さい」金間大介、東洋経済新報社、2022、pp221-3
*26) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p13
*27) 「大規模言語モデルは新たな知能か」岡野原大輔、岩波書店、2023、p85
*28) 山口仲美、2023、p270-71
*29) 未来からやってきた殺人サイボーク
*30) 鉄腕アトムは、「他者への信頼」の塊のようなロボットである。人工知能には「他者への信頼」などないので、それは日本人の創造の飛躍が創り出した「うそ」の世界のロボットで、本稿第2回の「言霊の幸はふ国」で紹介した漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪たちと同類のものといえよう。
*31) 人工知能に支配されることはないとしても、人工知能が原水爆にも匹敵する殺人システムを創り出してしまうといった危険性については留意が必要である
*32) 「心はこうして創られる」ニック・チェイター、講談社選書メチエ、2022、p284
*33) 加賀野井秀一、2024、p187-93
*34) 大澤真幸、松尾豊、今井むつみ、秋田善美、2024、p116
*35) 本稿第1回参照
*36) 「オックスフォード哲学者奇行」児玉聡、明石書店、2022、pp285-87,292-93
*37) 山口仲美、2023、p260-62
*38) ニック・チェイター、2022,p248
*39) 高島敏男、2001、pp30-31。文化人類学者のレヴィ・ストロースは、「中国はむしろ西洋に近い。西洋と真逆なのは日本である」としていた(「述語制言語の日本語と日本文化」日本語と英語の間、金谷、2019)
*40) 「言語はこうして生まれる一即興する脳とジャスチャーゲーム」モーテン・H・クリスチャンセンとニック・チェイター、新潮社、2022、p131。
*41) 「言葉は国家を超える」田中克彦、ちくま新書、2021、p107、129、136
*42) デンマークの言語学者オットー・イェスペルセンが、1928年に英国学士院で行った講演(「アイヌと古代日本」江上波夫他、小学館、1982、p350)
*43) 田中克彦、2021,p117-120、p128、234
*44) 岡野原大輔、2023、p82
*45) 驚くようなこと、不可解な事象があった時、ある仮説を置いてみて、自然に説明できるなら、とりあえず真と認めようという推論(大澤真幸、松尾豊、今井むつみ、秋田善美、2024、p120、「言語の本質」今村むつみ、秋田善美、中公新書、2023、pp254-55)
*46) 今村むつみ、秋田善美、2023、p175-219、252-54
*47) 自然界の音声、物事の状態や動きなどを音で象徴的に表した言葉。「わんわん」「よちよち」「がつがつ」など。
*48) AIは一見、言葉の意味を理解しているように見えるが、意味を理解しない記号を別の記号で置き換えているだけで、実は理解していない。それは、AIの言葉の「理解」が経験や感覚に対応づけられていない(接地していない」からだという問題
*49) 「言語の力」ビオリカ・マリアン、KADOKAWA,2023、p291
*50) 英語のオノマトペが声と音だけなのに対して、日本語のオノマトペは声、音だけでなく動き、形、手触り、身体感覚、感情と幅広い(本稿第2回参照)
*51) 大澤真幸、松尾豊、今井むつみ、秋田善美、2024、p98。
*52) 高島俊男、2001、p233-34
*53) 東京大学名誉教授、国際形而上学会会長などを歴任した