第57回 兵庫県明石市
海峡の拠点都市から住まう街の成功例となるまで
魚の街、四国への玄関口として
東経135度、日本標準時子午線上にある明石は、元和3年(1617)に着任した小笠原忠政を初代藩主とする明石藩の城下町でもある。8代藩主の松平直明以降越前松平家が治め、17代で廃藩置県を迎えた。
古来、明石は淡路島を経由して四国に向かう玄関口だった。後継の国道28号線は神戸に発し、淡路島を縦断して徳島に至る幹線道路である。本州部分の終点が明石の錦江橋南詰にあり、明石海峡大橋の開通前はここから旧日本道路公団のフェリーボートに連絡し、淡路島の岩屋港まで国道の海上区間となっていた。
明石海峡に揉まれた明石鯛や明石ダコが揚がる魚の街でもある。「昼網(ひるあみ)」の鮮魚が店先に並ぶ魚の棚(うおんたな)商店街が有名だ(図1 最近の魚の棚)。最近は飲食店も増えてきたが、明石で水揚げされた鮮魚や練り製品、乾物を扱う店が集まっている。昼網とは、明石港にある明石市地方卸売市場の水産物分場で開かれる日中のセリで揚がった魚介をいう。ここで競り落とされた鮮魚やタコが店頭に並ぶ。魚の棚は、城下町が造成された頃から存在した東魚町(ひがしうおまち)と重なる。文字通り鮮魚店が集まっていた町で、当時も魚介の取引が行われていた。
現在はマルハニチロとなったマルハのルーツが東魚町にある。江戸時代後期、東魚町に林兼(はやしかね)を称した魚商があった。事業主の林屋兼松を略したものだ。屋号の「林屋」は約3km西の林崎漁港の出身であることにちなむ。“は”を丸で囲む“マルハ”の商標は林兼の“は”に由来する。出自は魚商だったが明治に入り仲買業に進出。明石を中心とする産地市場で魚介を買い付け、大阪の消費地市場に出荷していた。当時の仲買業は自前の物流を持ち、艪を漕いで進む押送船(おしおくりぶね)が使われていた。転機は林兼3代目の中部幾次郎の代に訪れ、押送船を汽船で曳航することを思いついた。林兼は鮮度の面で優位に立ち、後の大洋漁業に成長する足掛かりをつかむ。その後、明治37年(1904)、朝鮮沿岸へ集荷の範囲を拡大するため下関に本拠を移した。その後も明石中学校(現・県立明石高校)の建設費の半額を寄付するなど故郷に貢献。明石城大手門の傍らにある銅像は昭和3年(1928)に建立されたものである。
船の発着地だった西本町
大正8年(1919)に市制が施行された。その翌年の兵庫県統計書によれば当時の最高地価は西本町(ほんまち)にあった。
城下町を東西に貫く西国街道に沿って東と西の本町があった。そのうち西本町には淡路島行きの船が発着する明石港があった。明石城の大手門に通じる南北軸との交点でもある。町人地に由来する当時の街の中心地といえる西本町には明石で初めての銀行もあった。明治11年(1878)に米沢長衛が立ち上げた第五十六国立銀行である。国立銀行の営業期間の満了をもって五十六銀行に改称した。同じく明石に本店があった明石実業銀行を買収するなどして地域一番行に成長していった。昭和11年(1936)、1県1行に向けた再編機運の中、神戸岡崎銀行、三十八銀行、高砂銀行、灘商業銀行、西宮銀行、姫路銀行と合併し神戸銀行となった。三井住友銀行の前身の1つである。ちなみに、戦前に進出して現在も残る銀行にりそな銀行がある。大正9年(1920)の進出時は不動貯金銀行(前身の1つ)だった。戦後、国道2号南面の現在地に移転した。
大正6年(1917)4月、西本町に明石駅ができた。神戸と明石を結ぶ兵庫電気軌道(現在の山陽電気鉄道の前身の1つ)のターミナルである。神戸側にはJR兵庫駅の向かい側にあった電鉄兵庫駅(当時「兵庫駅」)で明治43年(1910)に開業していた。
西本町から国鉄明石駅前へ
市街地の外側には国鉄明石駅があった。国有化前は、山陽鉄道(現在の山陽電気鉄道とは別)の経営で、明治21年(1888)11月に開業していた。乗り換えの便から兵庫電気軌道は国鉄明石駅の最寄りにも駅を設置した。「明石駅前駅」といい、現在の明石駅前交差点の北西にあった。兵庫電気軌道が開通した頃、西側の姫路と明石を結ぶ電車も計画されていた。大正8年(1919)、明石と姫路の頭文字にちなむ明姫(めいき)電気鉄道が設立された。神戸姫路電気鉄道への改称を経て、明石・姫路間の電車線が開通したのは大正12年(1923)8月である。ターミナルは現在の駅前広場ロータリーの南辺にあり、こちらも駅名が「明石駅前駅」だった。
明石を起点に2社の路線があったが、片方は電車、片方は路面電車の規格で相互乗り入れは簡単ではなかった。昭和2年(1927)、両社が宇治川電気(関西電力の前身の1つ)の傘下に入ることになった。事業体が1つとなったことで、仕様の差を乗り越え相互連絡する機運が高まった。まずは2つの路線の間に連絡線を敷設し、乗り継ぎをスムーズにした。その後、路面区間が多かった旧兵庫電気軌道の路線が現路線に移設され、昭和6年(1931)には旧2社の路線と駅が一本化した。
このとき西本町の明石駅が廃止されている。この頃、西本町から国鉄駅前に街の重心が移ったと考えられる。地域一番行の五十六銀行は昭和7年(1932)に本店を東に移し東本町に行舎を新築した。一本化した路線は昭和8年(1933)に宇田川電気から分離独立して山陽電気鉄道(山陽電車)となった。
明石駅前の盛衰
戦後、昭和31年(1956)の路線価図によれば、この年すでに駅前が最高路線価地点だった。坪当たり6万円で、西本町の3万円の2倍の水準となっていた。昭和47年(1972)の最高路線価地点名は「国鉄明石駅前第2玉錦パチンコ店前」である。店は駅前通りの東面で、道路向かい側の角に神戸銀行があった。駅前は戦災に加え、昭和24年(1949)の大火に見舞われた。復興の一環で完成したのが同年5月に誕生した幅30mの駅前通り、通称「明石銀座」である。当時の国鉄明石駅の正面から延びるシンボルロードだった。
明石初の「百貨店」は昭和26年(1951)に開店した鉄筋5階建の明石デパートである。商工会議所が「明石商工会館」を建設し3階以下を百貨店とする計画だった。営業の主体はテナントで構成する明石商業協働組合で、集合店舗だが厳密には百貨店ではない。現在の「らぽす」で建物が現存する(図3 明石デパートと現在の「らぽす」)。
昭和39年(1964)、国鉄明石駅が高架化され、それに伴って「明石ステーションデパート」ができた。昭和41年(1966)にはダイエーが開店。その2年後にはジャスコの前身の1つ、フタギが開店した。この頃が駅前商業の全盛期である。
平成3年(1991)には山陽電車の高架化が完成。山陽明石駅が国鉄改めJR明石駅と隣接する場所に後退し、旧駅の跡地が駅前広場となった。商業の郊外化が始まった時期でもある。郊外大型店の出店の動きに駅前商業は影響を受けていた。平成2年(1990)、ダイエーはディスカウント業態の郊外大型店、ハイパーマート二見店を出店した。同じ年、駅前のジャスコはファッションビル業態のフォーラスに転換していた。もっともハイパーマート事業は失敗に終わり、カルフール明石、イオンタウン明石を経て解体された。
駅前では、山陽電車の旧線跡地の再開発が進んでいた。再開発ビルには大丸百貨店が出店する予定だったが、平成7年(1995)に辞退となる。再開発ビルは平成13年(2001)に完成。現在のアスピア明石である。
平成9年(1997)にマイカル明石が開店。翌年に明石フォーラスが閉店している。マイカル明石はその後の再編でイオン明石ショッピングセンターとなり、核店舗もサティ明石からイオン明石店となった。平成16年(2004)、イトーヨーカドーを核店舗とする山陽西二見ショッピングセンターがオープンする。その翌年には駅前のダイエーが閉店した。これで明石の中心街から全国チェーンの大型店はなくなった。
明石海峡大橋で変わった四国の玄関口
他方、戦前の中心地だった西本町だが、国道2号による分断もあって、駅前からの人の流れを取り込めずにいた。東本町にあった神戸銀行も昭和40年頃に駅前へ移転している。水運から鉄道に交通手段の主力は移ったとはいえ、西本町の港から旅客船で、あるいは国道28号からフェリーで淡路島に渡るルートは存続していた。ただ、それも明石海峡大橋の完成で大きく変わった。昭和61年(1986)に着工し、平成10年(1998)4月に開通した。全長3,911mで、令和4年にトルコのダーダネルス海峡に架けられた1915チャナッカレ橋が完成するまで世界最長のつり橋だった。明石海峡大橋は神戸市の神戸西ICから徳島県鳴門市の鳴門ICに至る神戸淡路鳴門自動車道の一部で、鳴門海峡の大鳴門橋を渡って本州と四国、神戸と徳島を結ぶ。明石海峡大橋が、旧来の明石港を経由するルートに置き換わってしまった。明石海峡大橋の北詰は神戸市の舞子にあり、四国への玄関口が明石から舞子に移った。明石港と淡路島岩屋港を結ぶ航路の利用者数は激減し、フェリーは平成22年(2010)に運航休止となった。明石海峡大橋の開通以降、関西から淡路島、徳島には自動車で移動するようになった。公共交通機関の場合、JR舞子駅、山陽電車舞子公園駅に隣接して高速舞子バス停留所があり、駅から高速バスに乗り換えることができる。筆者も明石からJR舞子駅で高速舞子バス停留所に乗り換えて徳島駅まで行ってみた。バスの所要時間はおよそ1時間20分と、東京郊外からバスで羽田空港に行くほどの時間感覚である。買い物や日帰り観光で気軽に行き来できるようになった。
住まう街としての成功例
明石の中心市街地の戦後史は、様々な要因で街の中心性が薄まっていった歴史でもある。水運が衰退し、新幹線の駅が明石駅の隣の西明石駅にでき、車社会が到来し、明石海峡大橋が開通した。こうした環境変化が明石の街の空洞化を進めてきた。
その一方、明石はある時期から住まう街へ発展の方向性を変え、磨きをかけてきたと思われる。方針転換が奏功し、いまや様々な媒体で特集される住みやすい街ランキング上位の常連となった。交通拠点の座を譲った明石ではあるが、代わりに神戸圏域の住宅地としての発展を続けている。明石市の人口は平成25年(2013)以来増加しており、令和3年には30万人の大台に乗った。転出を上回る転入があり、特に神戸市からの転入が多い。年齢階層別には25歳~39歳と5歳未満がボリュームゾーンだ。出生率も令和5年で人口1000人当たり8.9と高水準を保っていることから、若いカップルが出産前後に転入するパターンがうかがえる。
ベースには明石駅から三ノ宮駅までJR新快速で15分という利便性がある。それだけではない。住みやすさ重視の、特に子育て層をターゲットにした戦略がある。中でも子育て支援の「5つの無料化」が知られるが、ここでは市街地施策に絞って例を挙げる。平成28年(2016)、明石駅前南地区第一種市街地再開発が完了し、34階建の住宅棟と6階建の公共・商業施設棟からなるパピオスあかしができた。施設棟には大型書店と拠点図書館が同居している。上階には保育ルーム、プレイルームや中高生のサードプレイスがある。本と子育て支援を介して人が集まる仕組みがある。商業拠点としての中心性の代わりに、住まう街としての中心性がパピオスあかしで高まった。
テナント構成の妙だけではない。明石駅とパピオスあかしの間の車道が廃止され、両者は横断歩道なしで行き来できるようになっている。東西から自動車で駅前広場に進入するためのロータリーは袋小路になっており、ロータリー間のスペースは歩行者専用の広場になった。駅前空間が国道2号まで拡がったようだ。駅前広場はパピオスあかし2階の吹き抜け空間「あかし市民広場」と連続しており、自由通路を伝って国道2号の向こう側に行ける。ペデストリアンデッキを降りれば魚の棚だ。国道2号で分断されていた人流が魚の棚から東西の本町通りに波及することが期待される。観光振興の後押しで淡路島行き航路利用者数も平成29年(2017)に増加に転じた。これも人流の牽引力となる。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図2 市街図
図4 パピオスあかし市民広場
海峡の拠点都市から住まう街の成功例となるまで
魚の街、四国への玄関口として
東経135度、日本標準時子午線上にある明石は、元和3年(1617)に着任した小笠原忠政を初代藩主とする明石藩の城下町でもある。8代藩主の松平直明以降越前松平家が治め、17代で廃藩置県を迎えた。
古来、明石は淡路島を経由して四国に向かう玄関口だった。後継の国道28号線は神戸に発し、淡路島を縦断して徳島に至る幹線道路である。本州部分の終点が明石の錦江橋南詰にあり、明石海峡大橋の開通前はここから旧日本道路公団のフェリーボートに連絡し、淡路島の岩屋港まで国道の海上区間となっていた。
明石海峡に揉まれた明石鯛や明石ダコが揚がる魚の街でもある。「昼網(ひるあみ)」の鮮魚が店先に並ぶ魚の棚(うおんたな)商店街が有名だ(図1 最近の魚の棚)。最近は飲食店も増えてきたが、明石で水揚げされた鮮魚や練り製品、乾物を扱う店が集まっている。昼網とは、明石港にある明石市地方卸売市場の水産物分場で開かれる日中のセリで揚がった魚介をいう。ここで競り落とされた鮮魚やタコが店頭に並ぶ。魚の棚は、城下町が造成された頃から存在した東魚町(ひがしうおまち)と重なる。文字通り鮮魚店が集まっていた町で、当時も魚介の取引が行われていた。
現在はマルハニチロとなったマルハのルーツが東魚町にある。江戸時代後期、東魚町に林兼(はやしかね)を称した魚商があった。事業主の林屋兼松を略したものだ。屋号の「林屋」は約3km西の林崎漁港の出身であることにちなむ。“は”を丸で囲む“マルハ”の商標は林兼の“は”に由来する。出自は魚商だったが明治に入り仲買業に進出。明石を中心とする産地市場で魚介を買い付け、大阪の消費地市場に出荷していた。当時の仲買業は自前の物流を持ち、艪を漕いで進む押送船(おしおくりぶね)が使われていた。転機は林兼3代目の中部幾次郎の代に訪れ、押送船を汽船で曳航することを思いついた。林兼は鮮度の面で優位に立ち、後の大洋漁業に成長する足掛かりをつかむ。その後、明治37年(1904)、朝鮮沿岸へ集荷の範囲を拡大するため下関に本拠を移した。その後も明石中学校(現・県立明石高校)の建設費の半額を寄付するなど故郷に貢献。明石城大手門の傍らにある銅像は昭和3年(1928)に建立されたものである。
船の発着地だった西本町
大正8年(1919)に市制が施行された。その翌年の兵庫県統計書によれば当時の最高地価は西本町(ほんまち)にあった。
城下町を東西に貫く西国街道に沿って東と西の本町があった。そのうち西本町には淡路島行きの船が発着する明石港があった。明石城の大手門に通じる南北軸との交点でもある。町人地に由来する当時の街の中心地といえる西本町には明石で初めての銀行もあった。明治11年(1878)に米沢長衛が立ち上げた第五十六国立銀行である。国立銀行の営業期間の満了をもって五十六銀行に改称した。同じく明石に本店があった明石実業銀行を買収するなどして地域一番行に成長していった。昭和11年(1936)、1県1行に向けた再編機運の中、神戸岡崎銀行、三十八銀行、高砂銀行、灘商業銀行、西宮銀行、姫路銀行と合併し神戸銀行となった。三井住友銀行の前身の1つである。ちなみに、戦前に進出して現在も残る銀行にりそな銀行がある。大正9年(1920)の進出時は不動貯金銀行(前身の1つ)だった。戦後、国道2号南面の現在地に移転した。
大正6年(1917)4月、西本町に明石駅ができた。神戸と明石を結ぶ兵庫電気軌道(現在の山陽電気鉄道の前身の1つ)のターミナルである。神戸側にはJR兵庫駅の向かい側にあった電鉄兵庫駅(当時「兵庫駅」)で明治43年(1910)に開業していた。
西本町から国鉄明石駅前へ
市街地の外側には国鉄明石駅があった。国有化前は、山陽鉄道(現在の山陽電気鉄道とは別)の経営で、明治21年(1888)11月に開業していた。乗り換えの便から兵庫電気軌道は国鉄明石駅の最寄りにも駅を設置した。「明石駅前駅」といい、現在の明石駅前交差点の北西にあった。兵庫電気軌道が開通した頃、西側の姫路と明石を結ぶ電車も計画されていた。大正8年(1919)、明石と姫路の頭文字にちなむ明姫(めいき)電気鉄道が設立された。神戸姫路電気鉄道への改称を経て、明石・姫路間の電車線が開通したのは大正12年(1923)8月である。ターミナルは現在の駅前広場ロータリーの南辺にあり、こちらも駅名が「明石駅前駅」だった。
明石を起点に2社の路線があったが、片方は電車、片方は路面電車の規格で相互乗り入れは簡単ではなかった。昭和2年(1927)、両社が宇治川電気(関西電力の前身の1つ)の傘下に入ることになった。事業体が1つとなったことで、仕様の差を乗り越え相互連絡する機運が高まった。まずは2つの路線の間に連絡線を敷設し、乗り継ぎをスムーズにした。その後、路面区間が多かった旧兵庫電気軌道の路線が現路線に移設され、昭和6年(1931)には旧2社の路線と駅が一本化した。
このとき西本町の明石駅が廃止されている。この頃、西本町から国鉄駅前に街の重心が移ったと考えられる。地域一番行の五十六銀行は昭和7年(1932)に本店を東に移し東本町に行舎を新築した。一本化した路線は昭和8年(1933)に宇田川電気から分離独立して山陽電気鉄道(山陽電車)となった。
明石駅前の盛衰
戦後、昭和31年(1956)の路線価図によれば、この年すでに駅前が最高路線価地点だった。坪当たり6万円で、西本町の3万円の2倍の水準となっていた。昭和47年(1972)の最高路線価地点名は「国鉄明石駅前第2玉錦パチンコ店前」である。店は駅前通りの東面で、道路向かい側の角に神戸銀行があった。駅前は戦災に加え、昭和24年(1949)の大火に見舞われた。復興の一環で完成したのが同年5月に誕生した幅30mの駅前通り、通称「明石銀座」である。当時の国鉄明石駅の正面から延びるシンボルロードだった。
明石初の「百貨店」は昭和26年(1951)に開店した鉄筋5階建の明石デパートである。商工会議所が「明石商工会館」を建設し3階以下を百貨店とする計画だった。営業の主体はテナントで構成する明石商業協働組合で、集合店舗だが厳密には百貨店ではない。現在の「らぽす」で建物が現存する(図3 明石デパートと現在の「らぽす」)。
昭和39年(1964)、国鉄明石駅が高架化され、それに伴って「明石ステーションデパート」ができた。昭和41年(1966)にはダイエーが開店。その2年後にはジャスコの前身の1つ、フタギが開店した。この頃が駅前商業の全盛期である。
平成3年(1991)には山陽電車の高架化が完成。山陽明石駅が国鉄改めJR明石駅と隣接する場所に後退し、旧駅の跡地が駅前広場となった。商業の郊外化が始まった時期でもある。郊外大型店の出店の動きに駅前商業は影響を受けていた。平成2年(1990)、ダイエーはディスカウント業態の郊外大型店、ハイパーマート二見店を出店した。同じ年、駅前のジャスコはファッションビル業態のフォーラスに転換していた。もっともハイパーマート事業は失敗に終わり、カルフール明石、イオンタウン明石を経て解体された。
駅前では、山陽電車の旧線跡地の再開発が進んでいた。再開発ビルには大丸百貨店が出店する予定だったが、平成7年(1995)に辞退となる。再開発ビルは平成13年(2001)に完成。現在のアスピア明石である。
平成9年(1997)にマイカル明石が開店。翌年に明石フォーラスが閉店している。マイカル明石はその後の再編でイオン明石ショッピングセンターとなり、核店舗もサティ明石からイオン明石店となった。平成16年(2004)、イトーヨーカドーを核店舗とする山陽西二見ショッピングセンターがオープンする。その翌年には駅前のダイエーが閉店した。これで明石の中心街から全国チェーンの大型店はなくなった。
明石海峡大橋で変わった四国の玄関口
他方、戦前の中心地だった西本町だが、国道2号による分断もあって、駅前からの人の流れを取り込めずにいた。東本町にあった神戸銀行も昭和40年頃に駅前へ移転している。水運から鉄道に交通手段の主力は移ったとはいえ、西本町の港から旅客船で、あるいは国道28号からフェリーで淡路島に渡るルートは存続していた。ただ、それも明石海峡大橋の完成で大きく変わった。昭和61年(1986)に着工し、平成10年(1998)4月に開通した。全長3,911mで、令和4年にトルコのダーダネルス海峡に架けられた1915チャナッカレ橋が完成するまで世界最長のつり橋だった。明石海峡大橋は神戸市の神戸西ICから徳島県鳴門市の鳴門ICに至る神戸淡路鳴門自動車道の一部で、鳴門海峡の大鳴門橋を渡って本州と四国、神戸と徳島を結ぶ。明石海峡大橋が、旧来の明石港を経由するルートに置き換わってしまった。明石海峡大橋の北詰は神戸市の舞子にあり、四国への玄関口が明石から舞子に移った。明石港と淡路島岩屋港を結ぶ航路の利用者数は激減し、フェリーは平成22年(2010)に運航休止となった。明石海峡大橋の開通以降、関西から淡路島、徳島には自動車で移動するようになった。公共交通機関の場合、JR舞子駅、山陽電車舞子公園駅に隣接して高速舞子バス停留所があり、駅から高速バスに乗り換えることができる。筆者も明石からJR舞子駅で高速舞子バス停留所に乗り換えて徳島駅まで行ってみた。バスの所要時間はおよそ1時間20分と、東京郊外からバスで羽田空港に行くほどの時間感覚である。買い物や日帰り観光で気軽に行き来できるようになった。
住まう街としての成功例
明石の中心市街地の戦後史は、様々な要因で街の中心性が薄まっていった歴史でもある。水運が衰退し、新幹線の駅が明石駅の隣の西明石駅にでき、車社会が到来し、明石海峡大橋が開通した。こうした環境変化が明石の街の空洞化を進めてきた。
その一方、明石はある時期から住まう街へ発展の方向性を変え、磨きをかけてきたと思われる。方針転換が奏功し、いまや様々な媒体で特集される住みやすい街ランキング上位の常連となった。交通拠点の座を譲った明石ではあるが、代わりに神戸圏域の住宅地としての発展を続けている。明石市の人口は平成25年(2013)以来増加しており、令和3年には30万人の大台に乗った。転出を上回る転入があり、特に神戸市からの転入が多い。年齢階層別には25歳~39歳と5歳未満がボリュームゾーンだ。出生率も令和5年で人口1000人当たり8.9と高水準を保っていることから、若いカップルが出産前後に転入するパターンがうかがえる。
ベースには明石駅から三ノ宮駅までJR新快速で15分という利便性がある。それだけではない。住みやすさ重視の、特に子育て層をターゲットにした戦略がある。中でも子育て支援の「5つの無料化」が知られるが、ここでは市街地施策に絞って例を挙げる。平成28年(2016)、明石駅前南地区第一種市街地再開発が完了し、34階建の住宅棟と6階建の公共・商業施設棟からなるパピオスあかしができた。施設棟には大型書店と拠点図書館が同居している。上階には保育ルーム、プレイルームや中高生のサードプレイスがある。本と子育て支援を介して人が集まる仕組みがある。商業拠点としての中心性の代わりに、住まう街としての中心性がパピオスあかしで高まった。
テナント構成の妙だけではない。明石駅とパピオスあかしの間の車道が廃止され、両者は横断歩道なしで行き来できるようになっている。東西から自動車で駅前広場に進入するためのロータリーは袋小路になっており、ロータリー間のスペースは歩行者専用の広場になった。駅前空間が国道2号まで拡がったようだ。駅前広場はパピオスあかし2階の吹き抜け空間「あかし市民広場」と連続しており、自由通路を伝って国道2号の向こう側に行ける。ペデストリアンデッキを降りれば魚の棚だ。国道2号で分断されていた人流が魚の棚から東西の本町通りに波及することが期待される。観光振興の後押しで淡路島行き航路利用者数も平成29年(2017)に増加に転じた。これも人流の牽引力となる。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図2 市街図
図4 パピオスあかし市民広場