元国際交流基金 吾郷 俊樹
1 はじめに「いづれの御時にか。女御・更衣あまたさぶらひ給ふなかに、いと、やむごとき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」で始まるこの物語。これをモチーフにした絵画、工芸は多く、能や歌舞伎でも題材になり、源氏物語を踏まえた和歌も多いというが、芥川龍之介は「僕は『源氏物語』を褒める沢山の人々に遭遇した。が、実際に読んでいるのは…僕と交わっている小説家の中でたったの二人」という。一説によると800人の登場人物が出てくるともいう四世代にわたるこの壮大な物語、登場人物の多くが官職で呼ばれ、昇進すると呼び名も変わり、名前がある人物も「夕霧」とか「柏木」だと男か女かも解らないし、「空蝉」となると人間なのかどうかさえ解らない。
父帝の寵妃と密通して皇子が生まれた皇子がのちに帝になり、兄である次の帝の妃の一人とも関係を続ける主人公光源氏。晩年にはその兄から乞われてその三女を妻にするが、その妻に懸想した甥との不義の子が生まれ、自分の子として育てるという因果応報などなど。「儒教道徳から見て言語道断の書」と指摘されたり、生まれによる差別、地方への差別意識など、今風に言っても「不適切にも程がある」と思われるところは数多いが、男女の機微、権力者へなびく人の心、身分の上下を問わない、親子の愛情、嫉妬、競争心などを細やかに描き、日本文学者ドナルド・キーンは、「全世界の文学という一大眺望の中でみるとき、紫式部ほど大きな存在として浮かび上がる日本の作家は、他にはない。」という。
今年はやはりこの千年にわたって読み継がれる源氏物語とその物語の世界、そしてこの物語の様々な分野への影響をご紹介。
写真 (『源氏物語絵詞』[1]、和田正尚 模写)源氏物語絵詞[1] - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
2 当時の社会
紫式部の生きた西暦1,000年頃。794年の桓武天皇の平安京への遷都から約200年後。大化の改新で功のあった中臣鎌足の末裔である「藤原北家が摂政や関白の地位について、朝廷の政治を主導する」摂関政治の時代。
物語の主な舞台、平安京。「高度成長期の1965~67年にベストセラーとなった」という「日本の歴史」の中の一冊で、「摂関期を扱った本では最高峰」と言われる「日本の歴史4 平安京」によると「南北三十八町(約五.三一キロ)、東西三十二町(約四.五七キロ)…大内裏は新京の北部中央に位置を占め、南北十町(約一.四キロ)、東西八兆(約一.二キロ)…、その四方に十二の門…南面の中央に建つのが朱雀門で…その地点から真南に幅二十八丈(約八十五メートル)の大路…朱雀大路」があり、「朱雀門内に…ざまざまの政庁・殿舎がぎっしり配置」された「大内裏の中央部やや東寄りに内裏…。内裏の中心は紫宸殿で、他に仁寿殿、承香殿、あるいは清涼殿などがその南半部に位置」していたという。平安時代の殿舎の意味や背景を当時の物語と関連づけた「源氏物語の舞台装置」によると「内裏は東西73丈(約219メートル)、南北百丈(約300メートル)」、内裏に暮らすキサキや宮廷女官が暮らす「後宮」は帝の住まいたる清涼殿の後ろ側に位置する五つの舎(梅壺、藤壺、雷鳴壺、桐壺、梨壺)と七つの殿(弘徽殿、承香殿、麗景殿、宣燿殿、常寧殿、登花殿、貞観殿)からなる。後宮の中ではもともと「清涼殿に隣接する弘毅殿、次いで承香殿の序列が高かった」が、藤壺が紫式部の仕えた「中宮彰子(藤原道長女)に使用されたことがきっかけで、藤壺は弘毅殿とともに最上位の皇后(中宮)の住まいとして用いられるようになっ」たという。
摂関政治の二百年間を描いた「天皇の歴史3 摂関政治」等によると、天安(858)八月、九歳の清和天皇が即位。やがて平安朝最初の太政大臣、平安時代の歴史物語「大鏡」に「藤氏の始めて太政大臣・摂政したまふ。めでたき御有り様なり」と伝わる藤原良房が「天下の政を摂行」する摂政となる。大鏡が「かくいみじき幸ひ人の、子のおはしまさぬこと、口惜しけれ」という良房が貞観十四年(872)九月に亡くなると、その政治的地位は右大臣となった養子の基経に受け継がれる。貞観十八年十一月、清和天皇が九歳の皇太子に譲位し、陽成天皇が即位すると右大臣基経が摂政となる。その陽成天皇は、元慶八年(884)二月、退位し、陽成天皇の祖父文徳天皇の異母弟、当時五五才の光孝天皇が即位し、基経の処遇を定める宣明で「内覧」を命じたという。仁和三年(887)八月、光孝天皇が死去。二十一歳の皇太子が宇多天皇となると基経の処遇について同年十一月、『其れ万機巨細、百官己を惣ぶるは、皆太政大臣に関り白し〈関白於太政大臣〉、然る後に奏すること』との詔、これが「関白」の語の初見という。基経没後、宇多天皇は基経の嫡男時平と、学者出身の菅原道真を互いに競わせるように昇進させたというが、「大鏡」では帝の道真「右大臣の御覚え、殊の外におはしましたるに」、時平「左大臣安からずおぼしたるほどに…右大臣の御ために善からぬ事出て来て、…太宰権帥になり奉りて、流されたまふ」というように菅原道真が失脚。やがて道真と競っていた藤原時平が亡くなると、その弟太政大臣忠平、その長男太政大臣実頼、次男右大臣師輔、更に師輔の長男太政大臣伊尹、次男太政大臣兼通、妻の「蜻蛉日記」に「豪放磊落にして演技派」な人間として描かれる三男太政大臣兼家らが承継。兼家の長男で疫病大流行の年に「お酒の度が過ぎたため」に亡くなった内大臣道隆、関白になり病で七日で亡くなった三男右大臣道兼、仕えた三代の帝のいずれにも娘を中宮とした五男太政大臣道長の兄弟へと藤原北家の中で権力が承継されていく。その間、様々な権力闘争が、はじめは藤原氏と他氏の間で、やがて藤原氏の権力が確立すると、藤原家内で、兄弟の中でも繰り広げられたのが史実。
そんな中で栄華を極めた藤原道長の時代に書かれたのが『源氏物語』。
写真 (平安時代の内裏。中央やや下に紫宸殿、その左上に清涼殿、そのすぐ奥に弘徽殿、桐壺(淑景舎)は右奥、藤壺(飛香舎)は清涼殿の左奥。和田万吉 等編『日本歴史参照図表』、吉川半七[ほか]。)日本歴史参照図表 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
3 物語とその世界
帝の子で、飛び切り美しく、学問や芸事にも優れている主人公が、順調に出世し、最後は太政大臣を越えて、息子である帝からの譲位を断り、准太上天皇にまでなり…という54帖からなるサクセスストーリーには、武士も殆ど出てこず、戦も生身の権力闘争も描かれない。世の中の動きは、帝の代替わりとお妃選び位で、当時、猛威を振るった疫病も描かれない。
読んだことがない人も多いかもしれないので、まずは物語の筋とともに当時の背景などをたどる。周到に巡らされた伏線、大胆な省略、時には期待を裏切る場面転換など、千年前に現れたこの才能とその後何百年とこれに匹敵する才能が現れなかったのだろうかと驚く。
(1)桐壺
高い身分ではなかったが、帝の寵愛を一身に受けていた「桐壺の更衣」は美しい皇子を産むが、他の女御・更衣達に妬まれ病気となり、亡くなる。
美しく、学問に優れ、音楽などの芸能の才にも恵まれ、父帝からも愛される主人公は、後に父帝に入内した、母の親戚で母に似ているという藤壺に惹かれる。源氏の君を可愛がる帝は高麗人の人相見の「王者の相がある人であるが、さうなると不詳のことが起こらぬとも限らない」(与謝野晶子訳)と聞き、源氏の君にはしっかりした後見人がいないとして、臣下として元服させて左大臣(律令制では太政大臣に次ぐ職だが、太政大臣は適任がいなければおかれない。)の娘と結婚し婿となる。女御・更衣は住んでいる御殿の名前で呼ばれるが、左大臣に次ぐ右大臣の娘が帝に最初に入内し、弘徽殿の女御として、東宮(源氏の君の異母兄)の母。「源氏物語の舞台装置」によると「どの建物に誰が入るか」は、「身分や宮中に入る順番が関わり、時に権力者や天皇の母后の意向」にもよったといい、弘徽殿は「後宮最上位者の生活の場」、桐壺は弘徽殿のような「殿」ではなく、小さな「舎」で「帝の住まい清涼殿から最も離れた辺鄙な場所」。
後見人がなぜ必要なのかについて。「王朝の貴族」等によると、「貴族の邸は多く娘に伝えられ、娘はそこを拠点として婿を迎え入れ」、「…生まれた子供は外祖父が第一の責任者として養育する」というから後見がいないと安定した生活ができない。摂関政治の時代、「外祖父を主軸とする外戚の一族が、一家の女子に生まれた幼児の養育・後見に当たるべき義務と権利を持っていた」といい、一条天皇の第一皇子は「御学識はたいそうすぐれ 御性質も大変りっぱな方」だったが、外伯父藤原伊周が道長との権力闘争に敗れ失脚し、清少納言が仕えた母中宮定子が亡くなったこともあり、「後見の不足ということで、東宮に立つ機会を逸し」、二十歳で亡くなったという。
この物語のモデルについては、「王朝の貴族」によると、母が「更衣」で皇子として生まれ、「源朝臣の姓を賜って臣下」となって左大臣となるが、後に藤原氏に失脚させられた源高明もその一人だという。
写真 (源氏物語の写本「河内本 第1、尾張徳川黎明会」の「桐壺」の帖)源氏物語:河内本 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
(2)帚木「帚木のこころをしらで園原のみちにあやなく惑ひぬるかな」
雨の夜に16歳の源氏の君が生涯の親友、ライバルでもある義兄(正妻葵上の兄)、頭の中将(二人いる蔵人所の長官(蔵人頭)の一人、近衛中将を兼ねる。)や「名高い好色男」(与謝野晶子訳)らと女性遍歴を語り、品定めをする「雨夜の品定め」と言われる「不適切にも程がある」帖。蔵人所とは、律令制に定めのない令外官の1つで帝の代替わり毎に選ばれる。五位以上が殿上人となる中で、蔵人は六位でも清涼殿への昇殿が認められる。「現代語訳 小右記」によると、最高幹部の一員である参議には多く蔵人頭から昇進したが、有能で信任の厚いとかえって、「なかなか参議に昇任できな」いこともあったといい、三たび蔵人頭となり、「博学と見識は藤原道長にも一目置かれた」という右大臣藤原実資がその例だという。
頭の中将が語った、女の子もあったのに行方しれずになった気の弱い女の話。中流の女にこそ掘り出しものがあるという話、子供っぽい無邪気な女を好みの女に育てていくのがいいという話、荒れはて草深い家に、思いもよらぬ可憐な女がひっそりと閉じこもっているのは非常に珍しいという話などその後の源氏の君に深くかかわりあいがある女性との出会いの伏線。
「身分ある人については、その実名を呼ぶことは極めて失礼なこととされているから」登場人物の多くは官職名で示され、主人公も源氏の君などと呼ばれるが、「代々の天皇の子孫はすべて源氏を名乗るというならわし」があるからで、名前はついにわからない。
いまだと警察沙汰になりそうだが、「中流の女にこそ、掘り出しものがある」と聞いた源氏の君は、方違えのために移った邸で主の父伊予の介の後妻、空蝉の寝所に忍び入り、「宥めすかして思いをとげる」(円地文子訳)。数日後、再び、邸を訪ねたが、空蝉は決して逢おうとはしない。源氏の君は、「帚木と云ふ木の性質を知らずに園原へ尋ねて行って、徒に道に迷ったことよ」と詠むと「かずならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる帚木(物の数でもない葦屋に生きている身は、受領の妻という卑しい名前が附いている情けなさに、いるにもいられない心地がして、帚木のように消えてしまひたうございます)(谷崎潤一郎訳)との返歌。
物語では受領は卑しい身分のように扱われるが、道長の母時姫も受領の娘。
(3)空蝉「空蝉の身をかへてける木のもとに なほ人がらのなつかしきかな」
「空蝉」とは蝉の抜け殻。源氏の君は空蝉に逢おうとして通う。ある夕暮れ、空蝉が継娘と碁を打っているのを見て、いっそう惹かれる。物語には将棋は登場しないが、囲碁は度々登場。日本棋院のWebsiteによれば、701年(大宝元年)制定の大宝律令では、「スゴロクやバクチは禁止するが「碁琴」は禁止しないという法律が決められ」、奈良の正倉院にも「碁盤が3面、碁石は2組保存」されているという程で「貴族の社会では囲碁を非常に好んだ」という。
夜、また忍び込むと若妻は源氏の君に気付いて、蝉の抜け殻のように衣を脱いで、逃げてしまうが、隣に寝ていた継娘に言いつくろって「一夜の契りを交わした」(円地文子訳)。翌朝、継娘ではなく空蝉に「蝉が殻から抜けて身を変えてしまふように、衣を脱ぎ捨てて逃げて行ってしまった人のあと(「木下」と云ったのは蝉の縁語)に、自分は取り残されながらも、なほその人の人柄のなつかしさを忘れかねている」(谷崎潤一郎訳)との歌を贈る。
(4)夕顔「心あてにそれかとぞ見る白つゆのひかりそへたる夕がほの花」
尼になった乳母の家を訪ねたおりに、夕顔の花が白く咲いている隣家の女性に心を惹かれた源氏の君は「白露の光が添うた夕顔の花のやうに美しいお方を、大方源氏の君であらうと勝手に推量して御眺め申しました」(谷崎潤一郎訳)との歌を貰い、和歌のやり取りをした女性と互いに名も名乗らずに関係する。
この時代、手紙にしたためた和歌のみならず、その文字、紙の色・質、焚きこめる香の匂いに思いを込める。郵便もない時代、手紙は使いの者が届ける。「王朝の貴族」によれば「当時の男女の交際はこのようにかならず和歌の贈答で始まる。…どんな唐変木でも和歌の一つ二つはよむらならわしで…、この男女の交際が和歌の贈答に始まるというならわしが、日本の和歌の発達をもたらした大きな原因」だという。
翌日、源氏の君はある廃院に女性を連れ出し、打ち解けて過ごすが、その夜、「枕元に、ぞっとするほど美しい女が座っていて…つまらない女をお連れ歩きになって御寵愛なさるとはあんまりです」(瀬戸内寂聴訳)といい、うなされて目が覚めると女性は既に息絶えていた。夕顔を失った源氏の君は、「品定め」のおりに頭の中将が語った幼い娘の居る女だとわかり、ずっとその人のことを忘れられず、その娘を引き取りたいと思う。
写真 (源氏の君は乳母の隣人、夕顔から歌の書かれた扇をもらう「広重『源氏物語五十四帖 夕顔』、嘉永5.」)源氏物語五十四帖 夕顔(源氏物語五十四帖) - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
(5)若紫
今なら、未成年者を保護者の同意なく家に連れ帰ったら犯罪になる。病の加持を受けに行った源氏の君は、僧都の庵に身を寄せていた美少女と会う。美少女は源氏の君が恋焦がれる藤壺の宮の兄、兵部の卿の宮の落胤。藤壺に面影が似ている少女を宮が引き取ろうとする前夜、強引に略奪して二条邸に連れてきて一切を世話する。
「王朝の貴族」によると、当時、「女は経済的にも、むしろ婿の世話をする立場であって、婿の力だけを頼みにして生きるような生活をみじめとし、恥とするたてまえであった」というから「紫の上はこうして源氏と長く同居し、葵上の死後はさながら正妻のような形になっているが、もとはといえば薄幸の、日陰的な存在」だという。
(6)末摘花「なつかしき花ともなしに何に此のすえつむ花を袖にふれけん」
雨夜の品定めで、荒れはて草深い家に、思いもよらぬ可憐な女がひっそりと閉じこもっているのは非常に珍しいと聞いていた源氏の君は、常陸宮の娘が一層御窮迫しているが琴を弾くのが好きだとの話を耳にする。暗い家で姫君の顔も見ずに関係を持つが、昼間みると、「アナと雪の女王」のオラフのよう。物語には多くの美女が登場するが、この女性については「これは畸形だと思へるのは鼻である。ひどく高ひうえに先の方が垂れて赤い。…額が非常に出ているのに、なほ下の方が長い顔に見えるのは、よくよくの長い顔であると思はれる…」(与謝野晶子訳)と残酷なまでに具体的に描く。「末摘花」は染料につかう紅花の別名で、源氏の君は「別に可憐と云ふほどの女でもないのに、どうして自分は此の鼻の先の紅い人に手を触れたのであらう」(谷崎潤一郎訳)との歌を詠む。
平安時代の美人の条件について。「王朝の貴族」によると、紫式部日記の中で彼女が同僚「を批評してあるのを見ると、だいたい、美人の標準と言うものが分かるよう」だという。「髪が長いことが当時の美人の絶対条件」とし、「その他の条件を拾ってみると、ふっくらとして少し太り気味ぐらいの方が好まれ…色は白いに越したことは無いが、それもつやがあって光るようなのが良いらしい。清らかな感じがたいせつにされるのも当然…、一体に当時の美人の標準は、…案外に健康的である。目じりはちょっと下がり目くらいが良いようで、つりあがったたのはいただけないらしい。」という。
(7)紅葉賀
父帝は、行幸の前に試楽を御所で催す。源氏の中将は、雅楽、青海波を舞い、相手は頭の中将。「源氏の君の足踏みや御顔の表情などは、…この世のものとも思われないほどである。…弘徽殿の女御はこんなに眩いばかりの御容姿をご覧になるにつけても、穏やかならぬお気持ちで、『おお、気味が悪い』とおっしゃる」(円地文子訳)。
「青海波」と言えば、独立行政法人日本芸術文化振興会のWesiteによると、青海波の装束には「波を幾重にも重ねた青海波紋に、96羽の千鳥がすべて異なる姿で刺繍され、雅楽装束の中で最も美しい」と言われているという。波頭を幾何学的にとらえて文様化した青海波は着物の文様としても知られているという。
やがて藤壺の宮が中宮になり、弘徽殿の女御は不満に思う。不遇の時代の伏線。
ずっと後から入内した人が中宮になることもある。「王朝の貴族」によれば、道長と折り合いの悪かった三条天皇が即位した際、道長の二女妍子と故大納言藤原済時の娘娍子が入内していたが。「道長を背景に持つ妍子と、…十六年前になくなった済時を父とする娍子とでは、その勢力は比較になら」ず、1012年(長和元)、「十八、九歳で子もなかった」妍子は中宮に立ち、「六人の皇子王女があった」娍子はとり遺された。ただ、それでは収まらず、妍子立后のすぐのち娍子を皇后に立てたという。
藤壺といえば、道長の娘、彰子が後宮入りしたとき、「清涼殿から近い格上の殿舎は埋まってしまっていたため」藤壺に入り、従来格下であったのが、「彰子の妹たち(三条天皇中宮妍子、後一条天皇中宮威子)も姉にならって藤壺を使用」したという。
(8)花宴
内裏の後宮は大奥と違って男子禁制ではない。紫宸殿で桜の宴があった晩、源氏の君は弘徽殿を通ったとき、美しい声で古い歌を歌っている女の袖をとらえる。
源氏の君が清涼殿の奥にある弘徽殿を通ることができるのも、殿上人(天皇の御座所、清涼殿の殿上の間に昇ることが出来る「一種の天皇の側近の人」で非常な名誉。)だったからか。当時、帝の子息は、元服の際、正五位下直叙という扱いで、初めから殿上人。財団法人味の素食の文化センターの「日本の食事文化」によると、宴会の際も、「上級の公家たちは…床几風の椅子に腰かけ…下級の者は、地面に直接敷物を敷いて」座るという歴然とした差があり、「下級の官人のことを地下(じげ)、上級の公家を殿上人」と呼んだという。
「天皇と摂政・関白」によると、その殿上人である「五位に昇る年齢の平均が、十世紀以前は二〇代後半から半ばだったのに対して、以後は一〇代に下がり、そこから従三位まで昇るのに要する年数も、…大幅に短縮され」た。というのも、「十世紀末以後になると、…、皇族や摂関の縁者(血縁・姻戚関係にある者や従者など)に特に有利となるような理由で加階される者が目立つように」なったからだという。
名を名乗らなかった女は天敵、弘徽殿の女御の妹で東宮への入内間近の右大臣の六の君、朧月夜。
写真 (源氏の君は、宴の夜、弘徽殿で古歌を謡っている人、朧月夜の袖を捉える。出典:与謝野晶子訳「新訳源氏物語 上巻」)新訳源氏物語 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
(9)葵
当時、貴族の結婚では女性が年上というのも珍しくない。紫式部が仕えた彰子の夫、一条天皇には、元服直後に道長の兄藤原道隆の娘、4歳年上の15歳の定子が入内。
源氏物語では、4歳年上の正妻、葵上は打ち解けず、源氏の君も余り家に寄り付かず、恋人たちの家に通う。それでも葵上は子供を授かる。当時の源氏の君の恋人、東宮后だったが夫に先立たれた六条の御息所は、賀茂祭に先立つ斎院の御禊(「賀茂明神に奉仕する斎院が、賀茂方に出てみそぎをする行事…その美々しい行列を見物するのが上下貴賤の楽しみの一つ」だったという。)源氏の君の行列を見る車の場所争いで、正妻の家臣に恥をかかされ、生霊となって祟り、葵上にとりついて命を奪う。
同じ祭りをライバル関係にある女性が見物することもある。「蜻蛉日記」によると、道長の父兼家の妻の一人であった藤原道綱母が賀茂の祭りに行くと道長の母時姫も出てきて、そうらしいと見てとって、向かいに車を立てて、和歌のやり取りをして、それを聞いた兼家が面白がったという。
祟りといえば、菅原道真の祟り。以下、「天皇と摂政・関白」による。道真を引き立てた宇多天皇は寛平九年(897)にその子醍醐天皇に譲位した際に『寛平御遺誡』で「日常生活や政治などの様々な面での心構えを記して醍醐天皇に与えた」という。
その中で、菅原道真について、「私は彼をとくに登用し、皇太子を立てる時も譲位を思い立った時も、彼一人に相談し、的確な助言を得た。彼は私にとっての功臣であるだけではなく、新君にとっても功臣であることを忘れるな。」としていたが、醍醐天皇の「延喜元年(901)…道真を太宰権帥に左遷する詔が出され、…二年後の延期三年二月、五十九歳で没した」。その後、「醍醐天皇後半の朝廷は、菅原道真の怨霊にどのように対応するか…が、最大の課題だった」という。延期九年(909)、39歳で藤原時平が亡くなり延長元年(923)「二一才の皇太子…が病に伏し、その日のうちに没」すると、「世間の人々はみな道真の霊魂の怨みによるものと噂した」という。そこで、「朝廷は、…道真の名誉を回復してその祟りを鎮めようとした」が、更に、「延長八年…日照りに対して公卿が殿上で雨乞いのところ…にわかに黒雲が湧き起こり、大雨と共に雷声がとどろいた。雷は清涼殿の南西の柱に落ち、大納言藤原清貫が胸を割かれて死亡、右中弁平希世も顔に大やけどを負った。その他紫宸殿にいた者にも死者やけが人が得て、宮中は騒然」となり、醍醐天皇はこの直後から病床に臥し、「その七日後には死去」したという。そのためか、10世紀後半以降は、祟りを避けるため、「朝廷での政争の敗者の扱いには細心の注意が払われ」るようになったという。
写真 (『寛平御遺誡』のうち菅原道真を特に登用したことが記された部分)寛平遺誡 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
(10)賢木「榊垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ」
源氏の君が通うのが絶えた六条の御息所は一切を捨てて娘の斎宮とともに、伊勢へ下ろうと決意。源氏の君は御息所を訪ねるが、六条の御息所は「ここの榊垣にはしるしの杉も立ててありませぬのに、どう間違へて榊を折っていらしつたのでせうか」(谷崎潤一郎訳)と詠み、伊勢へ旅立つ。
やがて、父帝の御病気が重くなり、朱雀帝(源氏の君の兄)に御遺言をして世を去ると、新帝の外戚、弘徽殿の大后と右大臣一家が「一手に政権をおさめ」(円地文子訳)、時流に敏感な人々は源氏を離れていく。
「一手に政権をおさめる」と言えば、「王朝の貴族」によると、道長の父兼家は、東宮の外祖父のときに、息子たちと謀って、寵愛する女御の死を悲しむ花山天皇に出家を勧め、内裏から連れ出して退位させて、一条天皇の外祖父となると、長年兄道兼に抑圧されて「不遇だった反動で、その子供たちの位階官職を強引なまでに引き上げて行った。」という。
右大臣の娘、朧月夜は尚侍(後宮の事務管司である内侍司の長官。天皇や東宮の妃である立場の女性に与えられる称号に変わってきたという。)となって宮中に召されているのに、源氏の君と忍び逢い、右大臣邸という大胆すぎる密会の現場を父右大臣に見つけられる。怒った右大臣が弘徽殿の大后に言いつけると、「積もる恨みが一時にほとばしり出て、今度こそ源氏を失脚させようと決心」(円地文子訳)する。
臣下が尚侍に通うとどうなるか。「大鏡」によると、三条院の尚侍のところに通った参議源頼貞について、尚侍の懐妊の噂を聞いた三条院に本当だろうかと問われた道長は、尚侍に確認し、「まことにさぶらひけり」と報告。殿上人だった源頼貞は「この御過ちにより、殿上もしたまはで、地下の上達部」とされたという。
(11)花散里「橘の香をなつかしみほとどぎす 花ちるさとをたずねてぞ訪ふ」
源氏の君は先帝の女御の妹の三の宮とも宮中で関係を持っていた。時流が変わり、「この頃世の中を面白くなく思ふ極に達している」(与謝野晶子訳)源氏の君は、この人のことが思い出されて訪ねる。夜も更けて語り合っていると、時鳥の声が聞こえてきて、「私も、昔の人の袖の香りのすると云ふ花橘の匂に、故院のおんゆかりのお方をおなつかしう存じ上げて、此方へお伺ひ致しました」(谷崎潤一郎訳)と源氏は詠む。優しくもてなされた源氏の君は「心ならずも訪れないうちに、心変わりしていく女人も多い中にと、しみじみ源氏もこの女の人柄をいつくし」(円地文子訳)む。そんな人柄が好まれてか、この人は、後に源氏の君が六条に広大な屋敷を持つようになると、そこで西の対に住いを得て、息子夕霧の良き相談相手にもなる。
いろいろな女君と結婚している源氏の君と花散里との間に子供はいないが、子供次第で妻の立場は変わるようで、「王朝の貴族」によると、道長の父、兼家の妻の一人で「蜻蛉日記」の作者、藤原道綱の母について。兼家は彼女と結婚する2年くらい前から道長の母、時姫と結婚していて、「兼家の妻たちの中では時姫が正妻というように見られているけれども、それは彼女の生んだ子女がのちになってそれぞれ栄達しただけのことで、なにも正式に正妻という地位が認められたわけではない」という。
(12)須磨「心ありて引く手の綱のたゆたはばうちすぎましや須磨の浦波」
兄帝の生母、弘徽殿の女御の影響が強くなり、様々な面倒事が起きてくるにつけても、「虚心平気でいてもこの上どんな迫害が加えられるかも知れぬ」(与謝野晶子訳)と源氏の君は無位無官となって都を去り、須磨に移る。
帝の生母の影響と言えば、道長の兄、「七日関白」藤原道兼亡き後の後継者争い。「天皇と摂政・関白」によると「長徳元年(995)…藤原道兼が没した後、…道兼の後継は…内大臣藤原伊周(二二歳)と権大納言藤原道長(三十歳)」で、「天皇の決断に大きな影響力を及ぼしたのは」、帝の生母で道長の姉、東三条院詮子。「詮子は早くから道長の才覚を高く評価しており、道兼没後も一条天皇に強く道長を推した。…結局…、内覧の宣旨が道長に下り、翌六月には右大臣となって、官職の面でも伊周の上位に立つことになった。」という。「大鏡」によると、詮子は道長に関白の宣旨を与えないのは「陛下ご自身のおんため実に不都合」だと語気を強め奏上し、更には帝の寝所にまで「はいらせたまひて、泣く泣く申させたまふ」たという。恩義に感じた道長は詮子に対して当然の道理以上にご恩報に努め、詮子が亡くなると「御遺骨までもお首におかけになってご葬儀に奉仕」したという。
源氏の君は、須磨で僅かな家臣とともに寂しい生活を過ごしていると、大宰大弐(大宰府の次官)が都への帰路須磨を通り、その娘から「琴の音に引きとめらるる綱手縄たゆたふこころ君知るらめや」(ほのかに聞こえて来る琴の音に惹かされて、船を曳いている舟人たちも綱手縄を強めるし、又その綱と同じやうに私の心も此の處を立ち去りかねて躊躇してをりますのが、君にはお分かりでございませうか)との歌が届くと、「ほんたうに私を思ふお心があって、船の引綱のやうに躊躇しつつ立ち去りかねていらっしゃるなら、此の須磨の浦を素通りなさる筈はないであらうに」(谷崎潤一郎訳)との返歌。
写真 (須磨で絵を描く源氏の君。須磨で描いた絵が「絵合」の帖で源氏方の勝利の決め手となる。出典:与謝野晶子訳「新訳源氏物語 上巻」)新訳源氏物語 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
(13)明石「独寝は君も知りぬやつれづれと思ひあかしのうらさびしさを」
ある嵐の夜、亡き父帝が夢枕に立ち、ここにいてはいけないと言われる。すると娘を高貴な人に嫁がせたいと願う偏屈な明石の元国司が源氏の君が須磨にいると聞いて迎えに来る。明石に行くと、明石の入道の「邸宅の造作に凝らした趣向や、木立、石組、植え込みなどの風情、…お部屋の設備なども、申し分なく支度されていて、そうした入道の暮らしぶりなどは、なるほど都の高貴な人々の邸宅と変わりなく、優雅できらびやかな様子などは、むしろこちらが優れているようにさえ見え」(瀬戸内寂聴訳)る。
源氏の君は、入道の屋敷に住み、そこで明石の入道が「私の娘は此の明石の浦でつくづく思案に耽りながら夜を明かしてているのでございますが、そのうらさびしい独寝の味を君もご存じでいらっしゃいませうか」(谷崎潤一郎訳)と詠み、打ち解ける。入道の望み通り、その娘(明石の君)と結ばれ、やがて娘は妊娠。
やがて、母弘徽殿の太后も物の怪に悩み、世間も不穏となり、「御目の御病気までが、このころまた重くおなりになって、帝はいよいよ心細くおなりに」(瀬戸内寂聴訳)なって、源氏の君を都に呼び戻す。
実際、帝の眼病が政治に影響を与えることがあって、「天皇と摂政・関白」によると道長は、関係の悪かった三条天皇が眼病になると譲位を促し、様々な祈祷や投薬が試みられたものの、帝は「眼病の状態も思わしくなく、寛仁元年(1017)四月二九日には出家を遂げ、五月九日、…死去した」という。
明石の君が産む娘が、後に時の帝の中宮となり、やがて源氏の君の家の繁栄をもたらす。
(14)澪標「数ならではなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」
「澪標」とは、航路を示す道標。都に戻った源氏の君は、久しぶりに兄帝に面会。大納言となり、やがて摂政となるべきところ、これを辞退し、すでに引退していた舅(かつての左大臣)に譲り、内大臣となる。
「王朝の貴族」によると、「官職の中で、別格として重視されるのが、大臣・大納言・中納言・参議…いわば国家の最高幹部会議員であり、政界の指導者グループ」といい、内大臣は太政大臣、左大臣、右大臣に次ぐ地位。
最高幹部の一員となった源氏の君は、住吉大社に参拝。たまたま同じ日に明石の君が船で参拝に来るが、源氏の君の華麗な行列を見て、「身分の差をまざまざと見せつけられて、「こんな盛儀に、つまらない身でまぎれ込み、僅かばかりの捧げものを奉納しても、神のお目にもとまらず、数の内に入れて下さる筈もないだろう」(瀬戸内寂聴訳)といって参拝もできない。この「澪標」と(16)の「関屋」の有名な場面を江戸時代に俵屋宗達が描いた屏風絵「源氏物語関屋澪標図屏風」は国宝。丁度、11月16日から、丸の内の静嘉堂文庫美術館で開催される「平安文学、いとをかし―国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」展で公開されている。
明石の君が来ていたと聞いた源氏の君は、「みをつくし恋ふるしるしにここ迄もめぐりあひける縁はふかしな」(身を盡して恋慕ふ甲斐があって、此難波江に来てまでも廻り遭ふたとは宿縁のふかいことよ)を贈ると、「数ならぬ私は何事につけても甲斐ないものでございますのに、なぜ身を盡してあなた様を思ひ初めたことでございませう」(谷崎潤一郎訳)という返歌。占いよると、源氏の君の「『御子は三人で、帝、后かならず揃ってご誕生になるでしょう。そのうち最も運勢の劣る子は、太政大臣になって人臣最高の位を極めましょう』と聞き、源氏の君は『将来畏れ多い皇后の位にもつくべき人が、あんな辺鄙な片田舎で生まれたというのでは、いたわしくも、もったいなくもあることだ。いましばらくしてから、せひ都へお迎えしなければ』(瀬戸内寂聴訳)と考える。
当時の上流貴族は、娘を入内させるために大切に育てる。「平安の貴族」によると、村上天皇の寵愛を受けた芳子は、父の藤原師尹が「ミッチリ仕込んだかいがあって、『古今集』二十巻、一一〇〇首を暗誦していたという特技があった」という。
伊勢の斎宮は、帝の譲位で代わり、六条の御息所は前斎宮とともに京に戻ったが、間もなく病気になり、剃髪。源氏の君が見舞うと、前斎宮を「色めいた相手には…お考え下さいませんように」(瀬戸内寂聴訳)世話して欲しいと頼んで亡くなる。
写真 (明石の君は、船上から源氏の君の行列を見て、身分の差を見せつけられる。「平安文学、いとをかし―国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」展で公開されている「国宝 俵屋宗達 源氏物語関屋澪標図屛風のうち澪標図」 江戸時代、寛永8年(1631)静嘉堂文庫美術館蔵)
(15)蓬生「訪ねても我こそ訪はめみちもなく ふかき蓬のもとのこころを」
源氏の君が都に返り咲いても、不器量な末摘花の姫君を訪れない。二度と来るはずもないといって使用人たちが去っていき、落ち目に付け込み叔母が自分の娘の侍女になって九州に一緒に来ないかと持ち掛けても、誇り高い姫は拒む。
道長の娘、威子が後一条天皇に入内するとき、選抜された女房四十人の中に道長の兄関白道兼の娘「二条殿の方」がその女房として同行。兄が健在であれば、「当然、女御として後宮に入った」に相違ない身分だったが、権力者の親を失うとその子の運命も大きく変転。
久し振りに姫を訪れた源氏の君は、「道もわからないほど蓬の生ひ茂った宿ではあるが、昔に変わらぬ女主人の真心を尋ねて、自分こそ訪れて上げよう」(谷崎潤一郎訳)」の句を詠む。「ひたすら恥ずかしそうにしている姫君の様子が、やはりなんと言っても気品があるのも、奥ゆかしくお感じになるのでした。そういう点をこの方の取り柄としていじらしく思い、忘れずお世話しようと…可哀そうにお思いになります。」、源氏の君を信じて待ち続けた姫は報われ、姫を見捨てて去っていった侍従は、「あの時、もうしばらく辛抱してお待ち申し上げなかった自分の心の浅はかさを、身に染みて悔やんだ」(瀬戸内寂聴)。
(16)関屋「逢坂の関やいかなる関なれば しげき歎きのなかをわくらむ」
内大臣となった源氏の君は、石山寺を詣でる途中で、任期を終えて帰京する常陸介の一行と逢坂の関で出逢う。常陸介の妻となっていた空蝉に「わくらばに行きあふ道を頼みしも なおかひなしや潮ならぬ海(たまにあなたに行き逢いましたのを頼もしく思いましたけれども お目にかかることが出来ないとはやはり甲斐ないことです)の歌を届けると、「逢坂の関は一体どういう関なので かうも生い茂った木々(『嘆き』を木に見立ててある)の間を分けて行かなければならないのだらう」(谷崎潤一郎訳)と逢瀬の差し障りが多いとの歌を返す。
上総・常陸・上野といった国では、親王が長官(守)となったから、介が代わりに国司となったというが、国司にも格がある。「王朝の貴族」によると「九九六年(長徳二)正月二十五日の定例異動の発表で、源国盛が越前守に任ぜられた。…越前国は大国で、格が良い」。紫式部の父、藤原為時は「淡路守と発表された。淡路国は…四等級ある中で、最下級の下国…。為時はまったく失望して、詩を作って、後宮の女房に頼んで一条天皇のお目にかけた。…天皇はすっかり心を打たれたが、すでに決定済みのものをしいて変更することもできず、気の毒なと思うあまりに、食欲もなく引きこもって涙を流した」という。「このとき、…天皇の様子を知った…右大臣藤原道長」は、「事情を知ると直ちに国盛を召し出して、強引に越前守の辞表を書かせ…国守の代わりに為時を越前守に任ずると改めて公表された…。為時が待望の越前守を得たのは全くその詩才の徳であった。…被害を被ったのは国盛である。…かれはそのまま病みついて、秋に播磨守に任ずるという命令を受けたのもすでに遅く、病死してしまった」という。
写真 (源氏の君が逢坂の関で常陸の介の妻となっていた空蝉に出逢う。「平安文学、いとをかし―国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」展で公開されている「国宝 俵屋宗達 源氏物語関屋澪標図屛風のうち関屋図」 江戸時代、寛永8年(1631)静嘉堂文庫美術館蔵)
(17)絵合
源氏の君は、亡き恋人六条御息所の娘、前斎宮を兄の朱雀院が恋していると知りつつ、9歳年下の帝に生母藤壺の尼君と相談して入内させる。帝には、権中納言(かつての頭の中将)の娘、弘徽殿の女御がいるから、前斎宮が後から参内して、競い合う形。年の近い弘徽殿の女御と過ごすのが長いが、絵が好きな帝は絵が上手い前斎宮と過ごすことが多くなる。源氏の君と権中納言の双方の後見が帝の寵愛を競って絵を届け、帝の前での「絵合」でいずれが優れた絵を集めたかを競う。
年下の帝への入内といえば、既に一条天皇、三条天皇にそれぞれ娘の彰子、妍子を中宮としていた道長は、孫の後一条天皇にその叔母で9歳年長の娘威子を入内させて、一家三后を実現させている。
(18)松風「身をかへてひとり帰れる山里に ききしに似たるまつかぜぞ吹く」
源氏の君は、「幼い姫君があんな田舎に寂しくお暮らしになるのを、後の世にまで人の噂に言い伝えられたら、母君の身分があんまり高くないのに加えて、なおさら外聞の悪いことだろう」(瀬戸内寂聴訳)と考えて明石の君を都に呼ぶが、すぐには応じない。親たちは、桂川のほとりに山荘を持っていたのを思い出し、入道を遺して、その妻、明石の君の母子とで移り住む。入道の妻は「出家姿になって、夫に別かれてひとり帰ってきたこの山里に あの明石の浦で聞いていたのと同じやうな松風が吹いている」(谷崎潤一郎訳」と詠む。源氏の君は、幼い娘を「あなたが引き取って、ここで育ててくださいますか。」と紫の上に頼み、子供もいない紫の上は御自分で養育してみたいと考える。
松風の舞台は今の桂離宮のある辺り。宮内庁のWebsiteによると、「この周辺の地は、古くから貴族の別荘が営まれ、藤原道長の桂山荘があった場所…月の名所として和歌の題材に数多く用いられ、『源氏物語』にここを舞台とした「桂殿」が登場…。その後、道長を祖先とする近衛家の荘園」があったという。
写真 (現在、「松風」の舞台の辺りにある桂離宮。「庭園には『源氏物語』の叙景を取り入れようとした」という。宮内庁京都事務所提供)古書院 - 桂離宮(kunaicho.go.jp)
(19)薄雲「入日さす峰にたなびくうす雲は ものおもふ袖に色やまがへる」
源氏の君は明石の君との娘を引き取って紫の上に育てさせたいというが、明石の君は子供を取られたら源氏の君に見向きもされなくなるのではと恐れる。母から「この源氏の君にしても、世に二人といない素晴らしいお方なのに、臣下の御身分なのは、母方の御祖父の故大納言が今一段地位が高くなかったために、更衣腹などと人から言われた弱みがおありになったのが原因だったのでしょう。…身分相応に、父親からも一応大切に可愛がられれた子こそ、そのまま世間からもかるく見られない始まりになるのです。」(瀬戸内寂聴訳)と言われて、娘を紫の上に委ねる。
そのころ、源氏の君の舅である太政大臣、藤壺の后の尼宮が相次いで亡くなる。源氏の君は「夕日の峰にたなびいているあの薄雲のあの色は、悲しんでいる私の喪服の袖の色に似せているのであらうか」(谷崎潤一郎訳)と詠む。
母藤壺の尼宮の法要が済み、心細い気持ちの帝(源氏の君の子)は、亡き母、藤壺に祈祷を頼まれていた尊い僧都から出生の秘密を聞く。「あまりにも意外で、とてもあり得ないような浅ましいことなので、帝は恐ろしくも悲しくも、さまざまに心が御乱れになりました。」。そして、「源氏の君を太政大臣に御就任させるよう御内定されたついでに、帝はかねてお考えの御譲位のことを、源氏の君にお漏らしになられました。君は目も上げられないほど恥ずかしく、この上なく恐ろしく思われて、そんなことは断じてなさるべきことではないと奏上して、御辞退申し上げました。」(瀬戸内寂聴訳)
「天皇と摂政関白」によると、太政大臣とは「『職員令』(各官司の定員や職務を定めた律令の一篇)に、「…(天皇の師範となる)、…(天下の人々の模範となる)。…(政治の姿勢を正す)。…(天地自然の運航を穏やかにする)。…(適任者がいなければ欠員のままにしておく)」と規定されている」という特別な職。長く権力を握っていた藤原道長も、太政大臣になったのは息子頼通に摂政を譲る直前の1017年〈寛仁元〉になってから。
(20)朝顔「見し折の露わすられぬあさがほのはなのさかりは過ぎやしぬらむ」
源氏の君が長く思いを寄せていた朝顔の齋院が父(源氏の君の叔父)の服喪で齋院を下り、叔母と一緒に住んでいる。叔母の「見舞いにかこつけて」(瀬戸内寂聴訳)訪れる源氏の君にも朝顔の齋院はなびかず、「以前お見掛けした折のお美しさが、今だに少しも忘れられませぬが、でも朝顔の花の盛りも暫くの間のことですから、今のうちにお目にかからないと盛りを過ぎてしまふでせうか」と詠むと、「秋はてて露のまがきにむすぼほれあるかなきかにうつるあさがほ」(秋も暮れて霧のたちこめる垣根にからみつきながら、あるかなきかに色あせている朝顔の花―それが私でございます)(谷崎潤一郎訳)「との返歌。
なびかぬと言えば、「紫式部日記」によると、ある晩、「戸をたたく人ありと聞けど、おそろしさに、音もせであかしたる」(返事もせずに夜を明かした翌日)道長から「昨夜は、水鶏にもまして泣く泣く真木の戸口で夜通したたきあぐねたことだ」との歌が届き、「ただ事ではあるまいと思われるほどに戸を叩く水鶏なのに、戸を開けては、どんな悔しい思いをしたことでしょう」との返し。また、道長が「浮気者という評判が立っているので、そなたを見る人で口説かずに済ます人はあるまいな」と詠むと、紫式部は「人に未だ口説かれたこともありませんのに、誰がこのように浮気者だなんて評判を立てたのでしょう」と返したという。
写真 (紫式部日記によると、ある晩、道長が紫式部の部屋の戸をたたいたが、紫式部は戸を開けなかったという。出典:紫式部日記絵巻)紫式部日記絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
(21)乙女「乙女子も神さびぬらし天つ袖 ふるき世の友よはひへぬれば」
源氏の君と亡き葵上の子、夕霧が十二歳で元服すると源氏の君は夕霧を殿上人でない六位とする。その祖母が心外だというと、「名門の子として生まれ、…世間の権勢の中で得意になって威張るのに馴れますと…、時世におもねる世間の人々が、内心では馬鹿にしながら、表面では追従して…いいなりに従うものです。…時勢が移り変わり、頼りにする人々にも先立たれて、運勢も落ち目になってしまった果てには、…もう寄りすがるものもない惨めな有様になってしまいます。…将来、国家の重鎮となるための教養を身に着けておきましたなら、わたくしの死後も心配なかろうと思」(瀬戸内寂聴訳)ってと説明する。
「王朝の貴族」によると、「皇族や摂関家の子弟は元服と同時に四位か五位を授けられて、しかるべき官職につくのが常例」で「当時の上流貴族はまず学校に入ることは無かった…。当時は令制に基づく大学があって、…学生がいたのであるが、それらはいずれも…中流以下の連中であった。上流貴族は黙っていても家柄の力でちゃんと中等以上の官職にありつけることになっているから、ガチガチと受験勉強をしなくても教養を豊かにしておけばよい」のだという。
その間、祖母(大君)の家で一緒に育っていた夕霧と、入内させようと大切に育てていた娘が親しくなっているのを女房たちの噂話を聞いた内大臣(かつての頭の中将)が大君にクレーム。姫君の乳母も「『せっかくの御結婚のお相手が六位風情ではねえ」と、ぶつくさいう」(瀬戸内寂聴訳)。
父が結婚に反対と言えば、「栄花物語」によると、道長は、源雅信左大臣「の御娘二人―それは嫡妻腹で、大そう大切になさって将来の后と思い申し上げておられる姫君なのであるが、…その姫君の一人をぜひ妻に欲しいと心に深く思い申し上げなさって、そぶりを顔色にお出しなさった。しかし、左大臣は『ああ気違い沙汰だ。もっての外の事だ。誰が現在あんなに口端の黄色い青二才連中を婿に迎えて出入りさせようか』といって、絶対お聞きにならないのを、母上は普通の女と違って、大層思慮も深く才気が勝っておられて『どうしてあの君を婿に迎えないことがありましょうか。時々祭りや行列などの見物に出て見るのに、あの君は並々でなく見える方です。文句を言わず私にお任せなさいませ。』と申し上げなさった」、「このようにしてこの母上は、三位殿の御事を気にいられて、もっぱらしたくに熱中されるのを、殿は得心できない気持ちでいらしたが」、母上は「ひたすらこの三位殿を、したくをととのえて婿にお迎えなさった。その間の有様は、つとめて意を用いるというように重々しく取り扱い申し上げられたので」、摂政殿(父兼家)は、『官位などまだ低い道長が、このような扱いを受けてみっともない事だ。どうしたものか」と思っておられた。」という。なお、道長の岳父源雅信が薨去したときは、「洛陽の士女は、その薨逝を聞いて、皆、恋慕した」と一条天皇の蔵人頭、藤原行成の日記「権記」は記す。
その間、昔心惹かれた舞姫に「あの当時の乙女子であるあなたも今では歳をとったのでせうね、古くからのあなたのお友達である私も齢を重ねたことですから」(谷崎潤一郎訳)との手紙を出した源氏の君は、やがて、六条京極あたりに新邸を造営し、別々に住んでいる女君たちを一緒に住まわせる。
どうやって広大な邸宅を造営するかは物語には出てこないが、「王朝の貴族」によると、「このような大造営の場合には、必ず諸国の受領にその工事の割り当てが来るのが例であった。…無事に割り当ての工事を完成すれば、当然功績の一つになって、位なり官位が授けられる。」という。
物語は次回に続き、忘れられない夕顔の娘との出会いから。
(主な参考文献)
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「日本の歴史4 平安京 北山茂夫、中公文庫、2004年
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囲碁の歴史|囲碁学習・普及活動|囲碁の日本棋院(nihonkiin.or.jp)
「源氏物語」 巻一~巻四 瀬戸内寂聴訳、講談社、1997年
「現代語訳 日本の古典5 源氏物語」円地文子、株式会社学習研究社、1979年
雅楽 GAGAKU|文化デジタルライブラリー(jac.go.jp)
きものの文様【青海波(せいがいは)】名前の由来は雅楽の装束。水面の波頭を表現した文様(kateigaho.com)能装束名品集〔正〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
「講座 食の文化第二巻 日本の食事文化」、石毛直道監修、財団法人味の素食の文化センター、1999年
寛平遺誡 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
官職要解 修訂(7版) - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
文学の寺|大本山 石山寺 公式ホームページ(ishiyamadera.or.jp)
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