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日本語と日本人(第8回)-主語制の西欧文明の流入と日本語-

国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇

 熊本県出身の作家、渡辺京二氏に「逝きし世の面影」という本がある。伸び伸びと暮らしていた江戸時代の日本人を描いた本だ。それは相手と感情を共有しようという構造を持つ日本語という言語空間に支えられていたかつて日本人の姿であった。その言語空間が、明治以降、主語制の西欧言語の影響を受けて揺らぎを生じ、さらに最近ではSNS*1といった場を共有しない言語空間の登場でその揺らぎを大きくしている。

高い若者の自殺率
 筆者が内閣府で官房長を勤めていた2010年、共生社会担当の統括官を一時兼務していたことがある。その時ショックを受けたのは、若者の自殺率が高いことだった*2。当時、バブル崩壊後のリストラの影響で大幅に上昇した中高年層の自殺率は少しずつ低下していっていたが、若者の自殺率は一貫して上昇していた。しかも、若者の自殺は、若者の死因の中で交通事故をも抑えてトップだった。それは、他の先進諸国では見られない現象だった。自殺防止を訴えるために、早朝に自殺防止の標語を書いたティッシュペーパーを東京駅丸の内口で担当職員と一緒に配布したりした。当時は、デフレ不況が続き有効求人倍率が0.6という状況で、ブラック企業の跋扈が問題となっていた。そこで、若者の自殺率上昇の原因も経済的な困難のせいだろうと考えていた。そこで、デフレ脱却が重要だなどと発言したところ、若者の自殺までデフレのせいにするのは乱暴だとの批判をいただいた。今日、有効求人倍率は1を大きく超えて人手不足といわれるようになり、若者の自殺も減少傾向になっている。しかしながら、自殺が若者の死因のトップだという他の先進諸国に見られない状況は変わっていない*3。その状況を見るにつけ、日本語の研究をしてきた今では、日本で若者の自殺が多いのは、西欧言語文明の流入によって日本語の世界の持っていた相手と感情を共有しようという機能が弱体化していることによるのではないかと思うに至っている。

主語制の言語文明の流入によって揺らいでいる日本語の世界
 明治期、西欧語に邂逅した日本がどのように対応していったかは、本稿第3回で見たとおりである。日本は、西欧の語彙を漢字を用いて日本語化し、進んだ西欧文明を吸収して急速な近代化を実現していったのである。しかしながら、それに伴って流入した「自我」を大切にする西欧の文明は、「自我」の観念を持たなかった日本人に大きな戸惑いを感じさせることになった。養老孟司氏によると、夏目漱石は、その戸惑いの中で胃潰瘍になったのではないかという。日本独特と言われる「私小説」もその中で誕生したのではないかという*4。
 西欧流の自立した「自我」を大切にする文明の流入によって日本人がいかに大きな戸惑いを感じたかは、今日の日本人には分からなくなっている。そこで、それを理解するのにいいのが、当時、日本に来た欧米人が日本の文明に感じた大きな戸惑いを知ることだ。そのような欧米人の戸惑いがよくわかるのが、芥川龍之介の「手巾(ハンケチ)」という短編小説だ*5。それは、自分の息子の死を知らせに来た母親に応対した「先生」*6の観察・感懐を綴った短編である。「先生」は、母親の「態度なり、挙措なりが、少しも自分の息子の死を、語っているらしくないということ」に気づく。「眼には、涙もたまっていない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さえ浮んでいる」。しかし偶然、先生が落とした団扇を拾おうとしたときに、母親の膝の上の手が目に入る。母親の手はふるえ、それを抑えるように、手巾を両手で裂かんばかりに緊く握っていたのである。「婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである」。
 東京大学名誉教授だった竹内整一氏によるとここに描かれている母親の微笑は、西洋人の目には理解しがたい、不可解・不可思議なものだった*7。それどころか、無情で冷酷で、笑いと憂鬱とが「狂的」に混じったものだとか、苦痛を堪え、死を恐れないのは神経が敏感でないからだなどと論じられていたという。それを、全くの誤解だとしたのがラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「日本人の微笑」*8だった。同書の中で、ハーンは日本人の微笑について以下のように論じた。雇い主のイギリス人から、不可解な微笑ゆえに激昂され、殴られながらも、なお微笑を絶やさず、しかし最後、威嚇の一太刀を見せて立ち去ったあと、切腹した老サムライがいた。日本人の笑顔は念入りに仕上げられ、長年育まれてきた「作法」「礼儀」なのだ。日本人は、相手にとって一番気持ちのいい顔は微笑している顔だと思っているので、たとえ心臓が破れそうになっていてさえ、凛とした笑顔を崩さないことが、社会的な義務なのだ。日本人の微笑の意味は、おたがいが「幸せに生きていくための秘訣」なのだ。それによって、人々と気持ちを通じ合う喜びを味わうことができるのだ。そうした親しみと共感を持つために、日本人は「礼節」や「寛容」をふくむ自己抑制を行うのだ。このように述べてハーンは、日本人にとっての「人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい」とした。
 ハーンが解説していた明治の日本人の姿は、西欧化がさらに進んだ今日の多くの日本人にも理解しがたいものになっている。しかしながら、ハーンの指摘していた日本人の微笑の感覚は今日でも変わっていない。例えば、平成21年に瀬戸内寂聴氏が「和顔施」という、お金がなくとも簡単にできるお布施のひとつについて話した。「誰に会ってもやさしい微笑をみせることで、相手の心も場もなごみます」という話だ。講演の後、聴衆の表情が、わずかに、しかし、たしかに変わったと感じられたという。筆者が内閣府で事務次官を勤めていた2011年、「幸福度に関する研究会」の調査が行われた。その調査結果によると、日本人が幸福感の理想としたのは、諸外国のように「とても幸せ」ではなく「ほどほどの幸せ」だった。それは、日本人が理想の幸福を周囲の人たちの幸福を考えて「世間並」と考えているいうことである*9。

「世間」が持っていた日本語の寄り添い機能の喪失
 芥川の「手巾」に描かれている母親の姿が、今日の日本人に理解しがたくなっているのは、この母親のようにふるまうことが評価されない世の中になってきたからだ。かつては、この母親のようにふるまうことを「世間」が評価し、「世間」はそのような母親に寄り添う機能を持っていた。ところが、そのような「世間」の寄り添い機能が西欧流の「自我」を大切にする文明の流入によって大きく失われていってしまったのだ。と言われても分かりにくいが、ここで本稿第1回に説明した、日本語は相手と感情を共有しようという構造をもつ言語だということを思い出していただきたい。日本の映画のクライマクスでは、愛する二人が沈む夕日を黙って眺めているというような光景で終わるのだ。ハリウッドの映画のように、二人が燃えるようなキスを交わすことで終わるというようなことはないのだ。主語のない日本語の世界では自分も他人も「世間」の中で様々な主体として立ち現れてくる。その過程で、相手との心理的な距離をうまくコントロールし、相手と感情を共有する構造が創り上げられる。その過程で、相互の寄り添い機能が創り上げられていくのである。熊谷晋一郎氏の言っていた、日本人の自立は多くの人に少しずつ依存できるようになっていくということだ*10。そのような寄り添い機能は大正時代に創られた童謡の「ふるさと」*11や、戦後まもなく創られた「かあさん」*12の歌によく表れていた*13。「ふるさと」の3番は「志(こころざし)を果たして*14いつの日にか帰らん、山は青きふるさと水は清きふるさと」となっている。この歌詞は、故郷から都会に出ていっても、心の中には寄り添ってくれるかつての友人や知人のいる故郷がいつもあることを前提にしている。しかしながら、志は必ず果たせるものではない。失敗することもある。うまくいかないこともある。そんなことの方が多いはずだ。そんな時にでも帰っていける一番身近な故郷が「かあさん」だった。「夜なべして手袋編んでくれ」る「かあさん」だ。「かあさん」がどうして一番身近な故郷なのかというと、赤ん坊は母親からの語りかけによって日本語を自然に習得するからだ。「かあさん」は、全ての日本人にとっていつでも帰れる故郷で、寄り添い機能そのものだった。かつての戦争で死んでいった多くの兵士は、「天皇陛下万歳」ではなく「お母さん」と叫んで死んでいったのだ。
 日本語が持っている寄り添い機能が西欧文明の流入によって失われていくことからくる不安を、明治、大正時代にいち早く感じていた一人が、「手巾」を書いた芥川龍之介だったといえよう。芥川は、自立した「自我」を前提にする西欧的な感覚も身に着けた上で、日本人本来の生きざまを観察した末に「ぼんやりとした不安」に取り憑かれてしまった。そして「唯ぼんやりとした不安」と書き残して自殺してしまったように思われる。西欧流の「自我」がなければならないはずだと考えると、西田幾多郎のように「我々の自己は根底的には自己矛盾的存在である」*15などと考えて不安になってしまうのだ。「逝きし世の面影」にあるように、江戸時代までは人々は貧しくとも「世間」を大切にする日本語の言語空間の中で、明るく楽しく暮らしてきた。個人にとっての生きがいや幸福などといったことは考えたこともなかったはずだ。ハーンが言っていたように、周囲の人たちの幸せを喜びと考え、「世間並」を自らの幸せと考えてきたのが日本人だった。ところが明治になって、西欧流の個人にとっての生きがいや幸福などということを考え出して不安になってしまったのだ*16。
 最近その日本人の不安に拍車をかけているのが、SNSなどの日本語が当然前提としていた「世間」をおよそ共有しない言語空間の登場だ。そのような言語空間には、日本語が持っていた寄り添い機能は存在しない。そのような言語空間が跋扈するようになって、若い人たちの間にはコミュニケーション障害といったことが日常的に問題とされるようになってきている。寄り添い機能の象徴だった「かあさん」にも「毒親」が発生し、「親ガチャ」といったことが言われるようになってきている。その延長線上に、最近の若者の自殺もあると考えられるのである。

「自らを移り行く自然と一体のものとしてとらえてきた」日本人
 養老孟司氏によれば、「日本人は従来、自らを移り行く自然と一体のものとしてとらえてきた。だが、近代以降、固定的な自己の観念が広がり、個性が求められるようになった。自分を固めなきゃというのはストレスです。変化するものと捉え直せば楽になる。」「幸福ですかと聞かれるのもストレスです」*17とのことである。
 養老氏の「自らを移り行く自然と一体のものとしてとらえてきた」ということから浮かび上がってくるのが、日本人は罪もケガレの一種で、お祓いでなくなるものだと考えてきたことだ*18。それは、「世間」の中にいる他人との間でなにかもめごとがあっても「水に流して」やり直すことを認めてきた日本人の姿である。日本人は、そのようにして「世間」の中の人々との心理的な距離をうまくコントロールしてきたのだ。そこからは、西欧流の自立した「自我」を前提にする徹底した「自己責任」の追及といった感覚は出てこない。日本人は、泥棒にも三分の理といい、百%の善人も、百%の悪人もいないとしてきた*19。嘘も方便としてきた。中国で統治の道具とされた儒学も、黒白をはっきりさせる統治の道具としてよりも、人の生き方を示す内面的な哲学として受け入れてきた*20。しかも、それも黒白を判別して正邪を正すといった絶対的なものとしてではなかった。客観論に基づく二元論や善悪、正邪などと言われると、どこか嘘っぽいと感じるのが日本人だ。正邪などと言われても、罪を穢れの一種ととらえる日本人には絶対的な正邪の感覚がなかったのだ。それは、西欧的な神に対する罪の感覚がなかったからでもあった。神と言っても、自分もやがて一体化する氏神様だからである*21。日本人にとって、罪を「お天道さまが見ている」というときの「お天道さま」はそんな氏神様も含めた「世間」だったのだ*22。

インターネットの影響
 西欧流の徹底した自己責任の追及に対しては、反発するのが伝統的な日本人の姿だった。「死刑になりたかった」として他人を殺傷する犯罪者に対しても、自己責任の論理から「一人で勝手に死ねば」と言ったりすると冷たい人間とされてしまうのだ。ところが最近、「悪」はどんな些細なものでも、徹底的にみんなで叩くということが一般化してきている。特にSNSの世界ではそうなっている。
 「悪」はどんな些細なものでも、徹底的にみんなで叩く分かりやすい例が「言葉狩り」である。日常生活においての言葉狩りは、魚屋、肉屋、八百屋などを差別用語だとして、お魚屋さん、精肉店などと言わなければならないといったもので*23、日本語の豊かな言語空間が失われてしまうことを嘆けばいい程度なのだが、それに西欧流の「自己責任」追及の感覚が加わるとそれでは済まなくなる。そのような言葉狩りは、「人権感覚のコードに反したものは、そもそも表現や言論に当たらないので、これを制限したり制裁したりするのは表現の自由と矛盾しない」とのロジックからのものだ。そのロジックの先にあるのが、過去の個人の発言まで取り上げて、現在の価値観のもとに糾弾して抹殺する「キャンセル・カルチャー」だ。「悪」はどんな些細なものでも徹底的にみんなで叩くのだ。そこには、罪がお祓いで清められて無くなってしまうという感覚は存在しない。「水に流す」という感覚は存在しない。2008年に、ある高校の野球部監督がイタリアのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で「落書き」をして、それがバッシングされて解雇までされるという「事件」が起こった。欧州でもかつての日本でも、寺社への落書きは珍しいことではなかったのに、そんな断罪が行われるようになったのだ*24。「ただしさに殺されないために」という本の中で御田寺圭氏は、それはバーミアンの大仏を爆破したタリバンの行動様式とそれほど違わないとしている*25。
 そんな「キャンセル・カルチャー」が特に跋扈しているのが、SNSなどのインターネットの世界だ。差別的な言葉を使ったというだけで、炎上したり袋叩きにあったりするのだ。欧米でもSNSは、同じ意見の人たちだけがまとまって、しかもその意見が過激化するために世界を分断化してしまうといった問題が指摘されているが、人々が自立した「自我」を持つ欧米では深刻な問題はそこまでであろう。ところが、欧米のような「自我」を持たない日本では、それは個人の存立にとっての深刻な脅威になっている。西欧文明の流入によって、ただでさえ不安になっている日本人が、SNSなどの新たな言語空間で本来の日本語の言語空間であれば期待されたような寄り添い機能なしに大きく傷つくようになっているのである*26。

SNSが作り出す言語空間
 養老孟司氏は、「言っていることが相手に通じるなんて、奇跡みたいなもの。特にSNSやリモート会議といった場を共有しないコミュニケーションは難しい。」「人や動物と仲良くなるのは、理屈ではない。なんとなく波長が合うということがある。その状況を「共鳴」と呼ぶ」としている*27。なんとなく波長が合うようにするために、日本語の世界では、敬語を駆使したり、語尾をあいまいにしたりして相互の関係をコントロールしてきたのだ。主語が無く、自己も他人も変幻自在に主体として立ち現れる日本語の会話は、それぞれの主体で構成される「世間」をまずは見極めながら行われる。誰かの発言がおかしいと思っても相手を傷つけるような直接的な反駁は行わないのが一般的だ。「只今のご発言は誠にその通りであります」と相手をまずは立てる。そして、最後まで聞いていると否定していることがわかるように発言をする。自分の発言に自信があっても断定は避けておいて、状況次第では引っ込められるようにしておくのだ。ところが、SNSの世界では、そのような臨機応変な対応が行われない。SNSのテキストは文章というよりは単語の羅列だ。日本語に豊富な他人の心を推し量る語彙がなく、複雑な表現を可能にしていた文法も簡略化されている*28。そこでの発言は、誰かに話しかけるというよりも独り言のようにつぶやくものだ*29。独り言での感情の吐露は、それが他人を傷つけることを意識しない。そこで飛び交う言葉は、その瞬間に頭に浮かんだことや思ったことがストレートに表現され、深い思慮を伴わないままどんどん暴力性を帯びて、やがて炎上を呼ぶ*30。しかもネット上の言葉は永遠に残る。永遠にナイフでの刺し合いを続けるようなものになってしまう*31。「水に流す」ことが出来ない世界なのだ。それは、人と人との結びつきを強めるはずだった言語が、人を孤独にし、人と人をバラバラにする世界だ。特に、呪いの言葉が人に不幸をもたらすといった想像の飛躍がふんだんに行われてきた日本語の世界では、「死ね」などという言葉は人を深刻に傷つけることになる*32。
 脳科学者の中野信子氏によると、人間の脳は悪意を向けられていると感じるとストレスホルモンが分泌される一方で免疫力を高めるオキシトンの濃度が落ちるという。脳は萎縮方向に向かい自律神経のバランスもとれなくなって、全身のどこかにある創傷が治りにくくなり、感染症にもかかりやすくなる。そこへもう一押しの何らかの理由があれば、本当に命を奪ってしまうこともあり得るという*33。そもそも、日本人は杞憂に陥りやすい。杞憂にはセロトニンという物質が関係するが、日本人には、セロトニン・トランスポーターの数が少ないタイプの人が世界平均と比べて異様に多いからだ*34。日本の若者の自殺が死因のトップという他の先進諸国に見られない状況になっている背景と言えよう。
 中野氏によると、傷つけられた人は健康な人を遠ざけてしまい、同じだけネガティブな人と引きあうようになるという*35。傷つけられた仲間だけで心地よい「世間」を創り出そうとするのだ。しかしながら、その「世間」で交わされるのも、SNS上の「世間」では独り言のようにつぶやく言語表現ということになるので、そこには日本語が持っていた寄り添い機能は存在しない。「ゆとり教育」の失敗を指摘した金間大介氏によると、そのような空間では、差がつくことや目立つことをひたすら忌避する「演技」が行われ、横の平等圧力が働く世界になるという。
 そのような圧力を受けている若者はインターネット以外の一般的な社会においても、目立つことをひたすら忌避する行動様式をとるようになるという。例えば、採用試験での個性や能力の見極めは圧力そのものということになるので、実力よりコネや肩書への逃避が起こるのだという*36。
 そのような状況に対して対話を避ける方向での対応が起こっているのが今日の日本のネット空間と言えよう。「知らんけど」という言葉を添えることによって、自分の発言に保険をかける技法が生まれてきているのだ。そもそも日本語の言語空間には、他人の押し付けといった不快なことに対しては、「スルー・スキル」(鈍感力)でやり過ごすという文化があった*37。その文化の下、生まれてきた技法だ。岡田尊司氏によると、そのような技法が生まれているネット空間では、傷つくことを避けたいという「回避型人類(ネオサピエンス)」が登場してきているという*38。それは、我が子など愛おしい存在を見て視線を交わすことでオキシトシンというホルモン物質が分泌される対面の機会が減り、興奮を高める神経伝達物質のドーパミンが放出されるSNS上のコミュニケーションばかりが増えることで、いわば麻痺させられたような脳内環境が常態となるような変化が起きたことによるものだという。「言語の力」*39という本を著しているビオリカ・マリアン氏によると、情報通信(IT)革命による対面コミュニケーションの機会減少の中で、他者への愛着を最低限にして、自分が傷つかないようにする変化が遺伝子レベルでも生じてきているという*40。

嫌われる勇気などない日本人
 インターネット空間に「回避型人類」が登場してくる状況下で発生してきているのが「キャラ文化」だ。それは、他者の確認、承認を求めるために自己の一面だけを切り取ったキャラクターとして振舞うという文化である。そこでは仲間だけで作り上げた「世間」で仲良くするために一度定着したキャラに添った演技をしなければならなくなる。だが、そのような演技がいかにも無理ということになると、人は解離性同一性障害*41に近い症状を呈したり、コミュニケーション障害を起こしたり、あるいはひたすら人に迷惑をかけないようにする「迷惑ノイローゼ」を発症したりするという*42。イタリア人の精神科医のバントー・フランチェスコ氏が「イタリア人の僕が日本で精神科医になったわけ」という本の中で指摘していることだ。
 フランチェスコ氏によれば、その克服のためには、(1)他者に嫌われてもいい、(2)自分の意見を言ってみる、(3)自分のユニークさに自信を持って、自分を苦しませない行動をとってみるといったことが有効だという。そして、「迷惑ノイローゼ」は相手に迷惑を掛けたらどうしようという心配でメンタルが消耗することなので、それを防ぐためには、日ごろから気軽に自分の悩みを相談したり、頼み頼まれる関係性を周りに持つようにすることだという*43。この結論は、熊谷普一郎氏の「多くの他者に依存するのが日本人の自立だ」というのと同様の処方箋になっているが、他者に嫌われてもいいといった点については、そう割り切れないのが日本人だ。西欧流の「自我」のない日本人には、それはかなり無理な注文だ。日本人は、「世間」の中で、他者から嫌われないように敬語などを使って相互の関係をコントロールしてきた。そのような日本人には嫌われる勇気などないのだ。

ネガティブ・ケイパビリティ―と日本語
 嫌われる勇気などないとしても、日本には先に述べた「スルー・スキル」という文化がある。そこから注目すべきなのが「ネガティブ・ケイパビリティ―」という能力だ。日本人のリーダーシップには、ネガティブ・ケイパビリティが大切だと言われる*44。ネガティブ・ケイパビリティとは、事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑のなかにいられる能力、あるいは、どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力のことを指す。「世間」で様々な主体が変幻自在に現れてくる日本語の世界でリーダーシップを取っていくためには、不可欠の能力と言えよう。そして実はそれはリーダーにだけ求められる能力ではない。日本語の世界で、日常生活をしていく上において全ての人に求められる能力である。日本語は「世間」の中で相手と感情を共有しようという言語だと述べてきたが、人が社会生活をしていく上で一生を一つの「世間」だけで過ごせるわけがない。学校に入れば新しい「世間」が待っているし、就職しても新しい「世間」が待っている。そこで、先ず発揮されなければならないのがこのネガティブ・ケイパビリティの能力だ。新しい「世間」は、最初はだれにとっても不確実さや不思議さに満ちた世界だからだ。そこで、ネガティブ・ケイパビリティを発揮しながら相手と感情を共有できる新たな「世間」を創っていくのだ。
 最近の職場では、セクハラ、パワハラを心配するあまり、新人への指導がまともにできないという問題が生じている。かつてのように指導すると、たちまちパワハラだ、あるいはセクハラだと言われてしまうからだ。しかしながら、それでは新人の社会人としての成長が見込めない。一人一人が仕事を通じて成長していくことが、各人の実り豊かで幸せな人生の実現のために大切なことのはずだ。そのためには上司の指導が大切なことのはずなのに、それが出来なくなってしまう。筆者は国家公務員共済組合連合会(KKR)に入会してくる新人に対して、毎年の訓示で「打たれ強くなれ」ということと、「同期仲良く」ということを訓示している。それは、主として、KKRの病院や宿泊施設でモンスター・ペイシェントやモンスター・カスタマーからのクレームを想定してのものだが、上司からの指導の場面も想定してのことである。それは、ネガティブ・ケイパビリティ―が大切だという話だ。「同期仲良く」というのは、感情を共有できる新たな「世間」を創っておけば上司から厳しい指導を受けたような場合にも寄り添ってくれる同期がいれば、それをしっかりと受け止められるはずだということである。

ネガティブ・ケイパビリティーを養っていた教育の喪失
 思うに、かつての「読書百遍意自ずから通ず」という教育は、事実や理由をせっかちに求めず、懐疑の中にいられるネガティブ・ケイパビリティを養う教育の側面を持っていた。江戸時代に薩摩で行われていた郷中(ごじゅう)教育のように、一つの答えのない問題について仲間同士であれこれ考えさせる教育も同様のものだった。前回紹介した、説明なしに型から入る武道や茶道といった習い事も、ネガティブ・ケイパビリティ―を養う教育だったと言えよう。そのような教育で自分なりの型を極めれば、それは型でなく強い個性となる*45。それに日本語が得意な夢想力が加わると、大きな革新の力にもなるはずだ*46。型から始めて自ら努力することが大切だと教えてきたのがかつての日本の教育だった。自ら努力することについては、江戸時代の家業道徳は立身出世に励めと教えていた。「みなみな身を立て出世し、諸人に褒められ可愛がられんとの心ざしは、生まれながらに自然の望みなり」とは、江戸時代の町人教訓書の言葉だ。立身出世の望みは、自然であり、正当であり、そのための努力は道徳的責務でさえあるとしていたのだ*47。明治になっての福沢諭吉の「学問ノススメ」や二宮尊徳の「報徳思想」も、その延長線上にあったと言えよう。
 文明開化のために導入された教育では、西欧諸国に追いつくために一つの正しい答えを前提とした暗記中心の効率的な詰込み教育が行われることになった。それは事実や理由をせっかちに求めることなく、「ほら」を尊び*48あいまいに考えることを当然としてきた日本語の力を失わせる教育だった。暗記中心の効率的な詰め込み教育に対してはさすがに反省が行われて、そこから「ゆとり教育」が導入された。しかしながら、それが西欧流の自立した「自我」を前提としたものだったために、一部のエリート校を除いては学校側の「主体的な学び」を測定しようとする試みに対して、生徒の側でのひたすら目立たないようにしようという行動パターンがとられて多くは失敗に終わった*49。西欧流の「自我」の観念を持たない日本人は、人の価値を特定の能力で測ることを良しとしない感覚を持っているからだ。「ゆとり教育」の失敗に関して、ここで最近とかく話題になるジョブ型の雇用を導入するに際しての留意点について触れておくこととしたい。ジョブ型の雇用のためには、職場における個人の能力の測定が必要になるが、それは「ゆとり教育」における生徒の「主体的な学び」を測定しようとする試みと同じことだ。一部の社員については良いとしても、従業員全員について機械的にあてはめようとすると、職場に大きなストレスをもたらし職場環境を悪化させることにもなりかねない*50。そもそも主体的などと言われても、最近は「何がやりたいのかわからない」「これからどうすればいいのかわからない」という若者が増えてきているというのだ*51。
 「ほら」に関していえば、漫画家の楳図かずお氏は、漫画は高度に進化したと思うけれど、「ウソの世界」は、逆に退化したんじゃないかと思いますと述べている。同氏によると、「昔の漫画はウソだらけで、そこが面白かった。その筆頭が手塚治虫さんでした。でも、そんな手塚さんまでが、次第にウソの世界を描かなくなってしまった。その代わり、「バトル」と「職業」が漫画の中心になってきました。勝ち負けの話は、僕にとっては、「ドクメンタリー」で「ドラマ」じゃないんです。職業漫画もそう」*52という状態になっているという。「ゆとり教育」で大切なのは、日本本来の「ほら」を大切にする教育ではなかろうかと思わせる話である。

若者の自殺について
 若者の自殺に関して、平田オリザ氏*53が、財務総合研究所の講演*54で、これからは「自己肯定感」から「自己有用感」へ移行し、緩やかなネットワークの中で、文化による社会包摂されることが必要だとされていた点が、参考になろう。「自己肯定感」など持てなくなっているのが「何がやりたいのかわからない」「これからどうすればいいのかわからない」となっている若者たちだ。筆者としては、そんな若者でも、懐疑のなかにいられる能力であるネガティブ・ケイパビリティ―を発揮できるようになれば、「世間」という場の中で自分が何か役立っているという「自己有用感」は持てるようになるはずだ。そうなれば、西欧流の「自我」を前提として不安になる必要はなくなる。そうなれば、若者の自殺も少なくなっていくのではないかと考えている。
 最後に、かつての日本語の言語空間が失われて行っている中で日本の老人たちも孤独になっていることについて触れておきたい。それは、「世間」の寄り添い機能が失われてきてしまったことによるものである。かつての日本人の「周囲の人たちの幸福」を願う気持ちが薄れてしまってきていることによるものである*55。そのような中で、今日の多くの老人たちは「振り返ったら独りぼっち」ということになっている。最近、昭和の下町感満載の「じゃりン子チエ」が人々の共感を呼んだというが、それもそんな状況下でのことだったといえよう*56。若者が、SNSの言語空間で孤独になり、老人が、日本語の寄り添い機能が失われてしまった言語空間で孤独になっているのだ。与那覇氏は、対話に基づくケア(寄り添い)のある社会を取り戻すための工夫が求められるとしている*57。日本語の果たしてきた役割について、よく考えてみる必要がありそうだ。
 次回は、グローバル化時代に日本語が果たすべき役割について見ていくことにしたい。日本語は、国内で問題を抱えているだけでなく、国際的にもおよそ英語に太刀打ちできないという問題を抱えているのである。

*1) ソーシャル・ネットワーキング・サービス。個人間のコミュニケーションを提供するインターネット上のサービス
*2) 「リスクオン経済の衝撃」松元崇、日本経済新聞出版社、2014、p143-151
*3) 「2020年版自殺対策白書」厚生労働省
*4) 「ものがわかるということ」養老孟司、祥伝社、2023,p71-72。森鴎外は西欧流の「個人主義」という名の下に色々な思想が籠められて排斥されている状況を乱暴だとしていた(「森鴎外」中島国彦、岩波新書、2022、pp175-76)
*5) 「大和言葉の人間学」竹内整一、2024、ペリカン社、p51以下
*6) 武士道を書いた新渡戸稲造がモデルとされる。新渡戸の夫人は、米国人だった。
*7) 東洋でも葬式で泣くのは当たり前だった。日本でも、男同士ではよく泣いた。例えば、高橋是清が、困難な日露戦争の外債募集を引き受けた時には、桂首相以下の面々が良かったといって相抱いて泣いたエピソードが伝えられている(「恐慌に立ち向かった男 高橋是清」松元崇、中公文庫、2012、p31)。中国や韓国の葬式には「泣き女」が登場する
*8) 「日本人の微笑(Le sourire Japonais Lafcadio Hearn)」/[著],大塚 幸男/編大学書林、1940.
*9) 「『持たざる国』からの脱却」松元崇、中公文庫、2016、p236-41
*10) 本稿第1回「『世間』の中で自己を規定する日本語」参照
*11) 「ウサギ追いしかの山、こぶな釣りしかの川・・・」高野辰久、1914年(大正3年)
*12) 「母さんが夜なべして手袋編んでくれた・・・」津田聡、1956年(昭和31年)
*13) 映画「男はつらいよ」に描かれた葛飾柴又の商店街の人々の人情にも、よく表れていた
*14) 卒業式で歌われる「仰げば尊し」の「身を立て名を挙げやよ励めよ」は、志を果たすべく努めよとするものである
*15) 本稿第1回「『世間』の中で自己を規定する日本語」参照
*16) 「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎、2023、p164-65。日本以外でも、英語に特化したシンガポールでは、人々が誇りと自信を失って、深刻なアイデンティティー・クライシスに直面しているという(「英語国家シンガポールのアイデンティティ:多言語国家における言語政策」示村陽一、Global studies(2), 1-12, 2018-03-01、武蔵野大学グローバルスタディーズ研究所)。
*17) 西欧でも、19世紀の思想家ジョン・スチュアート・ミルは「自分が幸福だろうかと自分に聞いたりすれば、君は幸福でなくなってしまう」と述べていた((「心はこうして創られる」ニック・チェイター、講談社選書メチエ、2022,p255、264)。
*18) 本稿第7回「日本の慰霊」参照
*19) 「日本の感性が世界を変える」鈴木孝夫、新潮選書、2014、p43
*20) 伊藤仁斎は統治の学として朱子の説く太極説や理気説は儒教の原典のどこにもないとし、荻生徂徠は朱子の学説が古代の言葉の意味とは異なっているとした(「四書五経」竹内照夫、平凡社、1981)
*21) 本稿第7回「日本における神仏」参照
*22) 西欧においては同性愛は神に対する重大な罪とされていたが、日本では、世間に迷惑をかけるわけでもない同性愛などは、そもそも罪とは認識してこなかった。戦国時代の武将は、男色を「衆道」として当たり前のものととらえていた。
*23) 「本音」小倉智昭、古市憲寿、新潮新書、2024、p195
*24) 「室町は今日もハードボイルド」清水克行、新潮社、2021、p174,186
*25) 「ただしさに殺されないために」御田寺圭、大和書房、2022、p97、p94-97、99、p101
*26) 「過剰可視化社会」与那覇潤、PHP新書、2022、p27
*27) 日経新聞、夕刊、2023・2・24
*28) 山口仲美、2023、p245-46.
*29) 「誰が国語力を殺すのか」石井光太、文芸春秋、2022、p129
*30) 石井光太、2022、p129, 152
*31) 「『言霊』という罠」京極夏彦、学士会報、No.965,2024-Ⅱ、p35
*32) 山口仲美、2023、p265-66
*33) 「脳の闇」中野信子、新潮新書、2023、p219
*34) 中野信子、2023、p241
*35) 中野信子、2023、p187
*36) 「先生、どうか皆の前でほめないで下さい」金間大介、東洋経済新報、2022、p108-9、194-5
*37) 日本経済新聞「経済教室」野口雅弘、2022.8.1。「スルースキル」は、相手との心理的距離をコントロールする手法の一つ。相手と感情を共有しようという構造を持つ日本語の言語空間では、その構造の中でトラブルが起きた場合、強力な攻撃手段として特定の人間を無視する「いじめ(村八分)」が存在する。そのような事態に陥ることを避ける一手法である。
*38) 「ネオサピエンス:回避型人類の登場」岡田尊司、2019、文芸春秋
*39) 「言語の力」ビオリカ・マリアン、KADOKAWA,2023,p109-113。遺伝子そのものは変化しなくても、遺伝子の発現が変化する仕組みは遺伝するという(エピジェネティクス)。
*40) 西欧でも最近では厳しい競争社会が自己認識の揺らぎ(不安)をもたらしていることが問題になっている。米国では、そこからくるストレス回避のための薬物乱用(オピオイド)が起こっている。
*41) かつて、多重人格障害と呼ばれていた精神障害。複数の人格が交代して現れるもの。通常なら容易に思い出せるはずの情報を思い出せないなどの症状を呈する。
*42) 「イタリア人の僕が日本で精神科医になったわけ」バントー・フランチェスコ、イースト・プレス、2023、p64、94、116、144-153
*43) バントー・フランチェスコ、2023、p171
*44) 「手間ひまをかける経営」高田朝子、生産性出版、2023
*45) 養老孟司、2023,p83-86
*46) 「愚直に考え抜く」岡田光信、ダイヤモンド社、2019、p197
*47) 「日本思想史と現在」渡辺浩、筑摩書房、2024、p84
*48) 本稿第7回「『ほら』が豊富な日本語の世界」参照
*49) 金間大介、2022、105ー6。
*50) 「聞く技術 聞いてもらう技術」東畑開人、ちくま新書、2023、p117
*51) 「応援される42の言葉」一柳良雄、日本経済新聞出版、2024、p123
*52) 「怖い!は生きる力」『時代の証言者』読売新聞、2023.4.25,楳図かずお
*53) 自然な会話とやりとりで進行していく「静かな演劇」の作劇術を定着させた劇作家
*54) 「ファイナンス」2023.8、p57-59
*55) 英国の慈善支援基金(CAF)が毎年報告している『世界人助け指数』によると日本は143か国中下から4番目の139位で「見知らぬ人を助ける」項目が特に低くなっている(岡崎明子、朝日新聞、2023.12.16)
*56) WEB特集:「じゃりん子チエ。なぜ時代超えて共感?」NHK大阪放送局ディレクター 稲嶌航士(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230420/k10014040731000.html)
*57) 与那覇、2022、p63。「メンタル脳」アンデシュ・ハンセン、新潮社、2024、が日本人に限らない話として参考になる。