第56回 福井県敦賀市
新幹線とバイパスがもたらす、鉄道と港の街の再生
内外交易の拠点として
福井県は北陸道(北国街道)の木ノ芽峠(きのめとうげ)を境に嶺北と嶺南に分かれる。木ノ芽峠の別名を木嶺(もくれい)というからだ。県庁所在地の福井や越前国の国府があった武生を擁する嶺北に対し、敦賀の属する嶺南は若狭湾岸の経済・文化圏で京都や滋賀と親密だ。明治9年(1876)まで敦賀県、そして滋賀県に編入された時期を経て、嶺南・嶺北を合わせた現在の福井県の形となり、敦賀が帰属するようになったのは明治14年(1881)である。
古来、敦賀は日本海沿岸と畿内を結ぶ要衝だった。北陸の産物は海路で敦賀湊に揚げられ、内陸の疋田(ひきた)を経由して近江国に入り、琵琶湖北岸の塩津または海津から水路で大津に渡った。近世、西廻り航路が主流になると敦賀を素通りする船が増えたが、積替コストが嵩むものの京・大阪への近道だった敦賀湊も北前船の寄港地として栄えた。北前船と取引する廻船問屋が繁盛し、大和田荘兵衛(しょうべえ)をはじめとする名跡も登場した。
明治2年(1869)、新政府は内外商業の振興のため商社機能を持つ通商会社と、貿易金融を担う為替会社を東京、横浜、大阪、神戸、京都、新潟、大津と敦賀に置いた。両社の上部機関を通商司といい、敦賀出張所の初代頭取が8代目の大和田荘兵衛だった。ちなみにその末裔が大和田伸也、大和田獏の俳優兄弟である。
また、敦賀は日本海の向こう側の大陸との窓口でもあった。NHK大河ドラマの「光る君へ」で、後の紫式部こと“まひろ”が越前守に任官した父・藤原為時に帯同して越前国に引っ越した。敦賀は若狭湾に面するが若狭国ではなく越前国に属しており、越前守が管掌した。ドラマでは敦賀にあった「松原客館」のエピソードがあった。渤海使を接待する迎賓館だったが、既に渤海は滅びており宋国人が滞在していた。
鉄道の敦賀
明治2年(1869)に起案された鉄道計画において優先されたのは東京・横浜と京阪神を結ぶこと、日本海と太平洋を結ぶことだった。縦横の結節点と目されたのが琵琶湖の水運である。まずは官営鉄道の西端の神戸から琵琶湖南岸の大津まで、そして敦賀港から琵琶湖北岸の長浜までを鉄路で結び、大津と長浜は連絡船で結ぶ構想だった。明治15年(1882)、敦賀港に金ヶ崎駅ができ、2年後に柳ケ瀬トンネルが開通して長浜駅まで開業した。敦賀駅は金ヶ崎駅の1つ手前で、気比神宮の南西にあった。明治29年(1896)、敦賀駅から福井駅まで延伸したが、敦賀駅からスイッチバックする線形だったため、明治42年(1909)、気比神宮から約1km内陸に後退した場所(現在地)に敦賀駅を移転した。敦賀駅から金ヶ崎駅までは盲腸線となった。後の敦賀港線、敦賀港駅である。駅や路線の変遷については図4 広域図も参照のこと。
鉄道が日本海沿岸に延びることは、競合する内航海運にとって不利となる。そこで敦賀港は海外に目を向けることにした。明治29年(1896)に特別輸出港、明治32年(1899)に開港場(外国貿易港)に指定される。明治40年(1907)には横浜・神戸・関門に並び国の第1種重要港湾となった。シベリア鉄道が全線開通し、敦賀とウラジオストク間の定期航路が開設され、明治45年(1912)には、東京の新橋から金ヶ崎駅(敦賀港駅)から連絡船に乗り、ウラジオストクからシベリア鉄道を介してヨーロッパに行く「欧亜国際連絡列車」が開業した。
一等地は東町(旭町)
明治15年の「福井県統計書」によれば、最高地価の場所は敦賀旭町とあった。「京都税務監督局統計書」の明治43年(1910)でも同じ場所だった。少なくとも地価の上では旭町が明治時代の中心地とうかがえる。旭町は明治以降の町名で以前は東町(ひがしまち)といった。丹後街道と北陸道に通じる道の間にある。
東町は、気比神宮の例大祭で巡行する山車(やま)を出す町の1つである。陸道総鎮守、越前国一宮の格式を持つ気比神宮は大宝2年(702)の修営と伝えられる。山車巡行は室町時代末期頃にはあったようだ。令和の現代、山車を出す町は6つあり、東町の他に山車を出す町は御所(ごしょの)辻子(ずし)町、金ヶ辻子(かねがずし)町、唐仁橋(とうじんばし)町、観世屋(かんじゃ)町、鵜飼ヶ辻子(うがいがずし)町で、町名にちなむ山車を出す(図1 みなとつるが山車会館に展示されている山車)。町の位置を図2 市街図に示したが、この辺りが古くからあった街ということだ。明治に入り東町が旭町、西町が幸町、御所辻子町が大内町という具合に町名が変わった。さらに戦後の住居表示でかつての町名を辿るのが難しいほどに変わってしまった。例えば東町、西町近辺はまとめて相生町になった。
銀行街は東町より浜手にあった。敦賀で最も早かった銀行の設立は明治11年(1878)4月の三井銀行の支店である。前身の三井組は銀行制度の発足前から県公金を扱うため敦賀に進出していた。同年12月、大津で創業した第六十四国立銀行が敦賀に支店を出した。福井県で最も早い国立銀行は明治10年(1877)に小浜で創業した第二十五国立銀行で、敦賀には明治12年(1879)に出店した。
地元本店行ができたのはそれから13年後の明治25年(1892)11月である。大和田荘七(しょうしち)が創業した大和田銀行である。大和田荘七も事業家の名跡で、8代目大和田荘兵衛の時代にできた分家である。初代頭取の大和田荘七は名跡の2代目で、出生名は山本亀次郎という。本店行舎の2代目と3代目が現存している。明治34年(1901)に建てられた木造2階建の2代目本店は現在みなとつるが山車会館の別館となっている。令和3年(2021)に国の登録有形文化財に登録された。その南隣、現在は敦賀市立博物館となっている近代建築が3代目の本店だ(図3 旧大和田銀行本店(現・敦賀市立博物館))。昭和2年(1927)の竣工の鉄骨煉瓦造3階建で、平成29年(2017)に国の重要文化財に指定された。旧本店が面する通りは現在「博物館通り」という愛称で呼ばれ、古い町家が並ぶ観光名所になっている。新興の大和田銀行が業績を伸ばす中、県外行である三井銀行、第六十四国立銀行は明治27年(1894)に撤退。代わりに地元商人が敦賀銀行を立ち上げ三井銀行の跡地に店舗を置いた。
大和田銀行は金沢や大阪にも支店を出し、福井県で福井銀行と並ぶ大手行に成長していった。昭和11年(1936)3月、敦賀銀行と第二十五国立銀行の後身である敦賀二十五銀行を合併し嶺南エリアのシェアを高めた。一県一行主義の下でも福井銀行に合流しなかったが、終戦直後の昭和20年(1945)10月、三和銀行に吸収された。舞鶴、大阪の支店と本店以外はその年のうちに福井銀行に譲渡された。本店も昭和37年(1962)に福井銀行が譲り受けた。
福井銀行が敦賀に進出したのは昭和3年(1928)である。富貴町に敦賀支店を設けていた嶺南銀行を傘下に収めた。嶺南銀行は大正9年(1920)に三方郡南西郷村で設立された。大正11年(1922)に開店した敦賀支店を含め嶺南東部に9店舗を擁していた。
もう1つの中心地が御所辻子町である。例大祭で山車を出す町の1つで、巡行時には必ず先頭を進む。大和田銀行の通りから通りに沿って東に約400m離れたところにあり、明治以降の町名を大内といった。大内には町役場があった。大正15年(1926)の大蔵省「土地賃貸価格調査事業報告書」をみると、最高賃貸価格地点が「大内」とある。大正末期から昭和初期にかけて一等地が旭町(東町)から東に移ったことを示唆する。明治40年(1907)には富山に本店を構える第十二銀行が開店した。現在の北陸銀行である。町役場は昭和8年(1933)に浜手に移転したが、新庁舎は大和田荘七が寄付している。昭和49年(1974)、郊外移転に伴い取り壊され、跡地に市民文化センターが建った。前面に大和田荘七像がある。
最高路線価は本町通りから駅前に
戦後、路線価制度が始まった昭和30年(1955)の路線価図をみると、最も路線価が高かったのは気比神宮の南側の道路2区画分と、東側の道路の1区画分だった。昭和48年(1973)の地点名は「本町1丁目ナカネ洋装店前通り」とある。洋装店は気比神宮の南にあった。その後、同じ本町通りを南下し、昭和62年(1987)に敦賀市本町2丁目汐屋金物店前本町通りとなる。金物店は、昭和52年(1977)に旧富貴町から移転していた福井銀行敦賀支店の隣にあった。本町通りの南端、駅前通りとの交差点の北西角に現在アル・プラザ敦賀がある。昭和48年(1973)の開店当初は平和堂の敦賀店(第8号店)だった。平和堂は滋賀県彦根市が発祥の総合スーパーで、敦賀店は滋賀県外で初めて出した店舗だった。2000年の建て替えとともにアル・プラザに変更された。
その後、自動車の普及とともに都市機能の郊外移転が進んだ。木崎通りを中心にロードサイド店が集まった。平成2年(1990)にはショッピングモールのポー・トンが開店。地元の協同組合つるがセントラルプラザと中部地方を本拠とするスーパー大手、ユニーの共同開発によるものだ。核店舗はユニーの総合スーパー業態のアピタだった。現在はMEGAドン・キホーテUNY敦賀店になっている。
郊外化が進むにつれ本町通りをはじめとする旧来の中心市街地の衰退が目立ってきた。平成21年(2009)12月を始期とする「敦賀市中心市街地活性化基本計画」では、空き店舗問題が解消しない原因として「商店主の高齢化による空き店舗化が増加していること」「所有者の意向により賃貸不可としている空き店舗があること」を挙げている。計画期間は平成27年(2015)3月までだったが、その翌年の平成28年(2016)の最高路線価地点は「白銀町敦賀駅前広場通り」となり、一等地の座を駅前に譲った。本年の駅前の路線価はm2当たり69,000円だった。前の最高路線価地点のアル・プラザ前が同64,000円、その先代の気比神宮前が同57,000円である。郊外で最も高いドン・キホーテ前は59,000円で昭和時代の一等地より高い。
新幹線とバイパスと「歩く街」
今年3月16日、北陸新幹線が敦賀駅まで延伸され、様々な面で変化がみられる。新幹線駅の裏手には東口広場に加え、駅から国道8号線敦賀バイパスや北陸自動車道に連結するアクセス道ができた。車社会が一段と進みそうな一方で、かつての中心市街地の「歩く街」への再生もうかがえる。平成20年(2008)に敦賀バイパスが開通し、旧8号線である本町通りの通過交通が減ることが見込まれた。そこで、気比神宮からアル・プラザまでの900mの区間の車道を4車線から2車線に減らし、代わりに歩道をアーケードから大きく張り出す形で拡げることにした。本町通りに続く駅前通りは車道の駐車帯が廃止され、歩道が拡幅された。本町通りと駅前通りは「シンボルロード」と称され、松本零士作の「銀河鉄道999」、「宇宙戦艦ヤマト」のキャラクターのモニュメントが設置されている。敦賀が港(船舶)と鉄道の街であることにちなんだものだ。
歩く街への再生が進んだことで高まったのは住民の心地よさ(Well-being)だけではない。街歩き観光の魅力も高まった。地域資源に恵まれ観光振興の期待も高い。例えば、赤レンガ倉庫の貿易港や鉄道遺産からなるレトロな雰囲気といえば横浜や門司が知られるが、敦賀の場合、これらは平成11年(1999)の敦賀港開港100周年記念事業「つるが・きらめきみなと博21」の会場として整備された金ヶ崎緑地の周辺にある。敦賀の赤レンガ倉庫は元々紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社(現・エクソンモービル)が使っていたもので、明治38年(1905)築だ。現在はレストランとジオラマ館になっている。鉄道遺産としては初代の金ヶ崎駅を模した「敦賀鉄道資料館」がある。実際に金ヶ崎駅があった場所には、駅を含めた4棟を模した「人道の港 敦賀ムゼウム」がある。杉原千畝が発給した“命のビザ”を携えたユダヤ難民が敦賀に入港したことにちなむ。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図5 減幅後の本町通り
新幹線とバイパスがもたらす、鉄道と港の街の再生
内外交易の拠点として
福井県は北陸道(北国街道)の木ノ芽峠(きのめとうげ)を境に嶺北と嶺南に分かれる。木ノ芽峠の別名を木嶺(もくれい)というからだ。県庁所在地の福井や越前国の国府があった武生を擁する嶺北に対し、敦賀の属する嶺南は若狭湾岸の経済・文化圏で京都や滋賀と親密だ。明治9年(1876)まで敦賀県、そして滋賀県に編入された時期を経て、嶺南・嶺北を合わせた現在の福井県の形となり、敦賀が帰属するようになったのは明治14年(1881)である。
古来、敦賀は日本海沿岸と畿内を結ぶ要衝だった。北陸の産物は海路で敦賀湊に揚げられ、内陸の疋田(ひきた)を経由して近江国に入り、琵琶湖北岸の塩津または海津から水路で大津に渡った。近世、西廻り航路が主流になると敦賀を素通りする船が増えたが、積替コストが嵩むものの京・大阪への近道だった敦賀湊も北前船の寄港地として栄えた。北前船と取引する廻船問屋が繁盛し、大和田荘兵衛(しょうべえ)をはじめとする名跡も登場した。
明治2年(1869)、新政府は内外商業の振興のため商社機能を持つ通商会社と、貿易金融を担う為替会社を東京、横浜、大阪、神戸、京都、新潟、大津と敦賀に置いた。両社の上部機関を通商司といい、敦賀出張所の初代頭取が8代目の大和田荘兵衛だった。ちなみにその末裔が大和田伸也、大和田獏の俳優兄弟である。
また、敦賀は日本海の向こう側の大陸との窓口でもあった。NHK大河ドラマの「光る君へ」で、後の紫式部こと“まひろ”が越前守に任官した父・藤原為時に帯同して越前国に引っ越した。敦賀は若狭湾に面するが若狭国ではなく越前国に属しており、越前守が管掌した。ドラマでは敦賀にあった「松原客館」のエピソードがあった。渤海使を接待する迎賓館だったが、既に渤海は滅びており宋国人が滞在していた。
鉄道の敦賀
明治2年(1869)に起案された鉄道計画において優先されたのは東京・横浜と京阪神を結ぶこと、日本海と太平洋を結ぶことだった。縦横の結節点と目されたのが琵琶湖の水運である。まずは官営鉄道の西端の神戸から琵琶湖南岸の大津まで、そして敦賀港から琵琶湖北岸の長浜までを鉄路で結び、大津と長浜は連絡船で結ぶ構想だった。明治15年(1882)、敦賀港に金ヶ崎駅ができ、2年後に柳ケ瀬トンネルが開通して長浜駅まで開業した。敦賀駅は金ヶ崎駅の1つ手前で、気比神宮の南西にあった。明治29年(1896)、敦賀駅から福井駅まで延伸したが、敦賀駅からスイッチバックする線形だったため、明治42年(1909)、気比神宮から約1km内陸に後退した場所(現在地)に敦賀駅を移転した。敦賀駅から金ヶ崎駅までは盲腸線となった。後の敦賀港線、敦賀港駅である。駅や路線の変遷については図4 広域図も参照のこと。
鉄道が日本海沿岸に延びることは、競合する内航海運にとって不利となる。そこで敦賀港は海外に目を向けることにした。明治29年(1896)に特別輸出港、明治32年(1899)に開港場(外国貿易港)に指定される。明治40年(1907)には横浜・神戸・関門に並び国の第1種重要港湾となった。シベリア鉄道が全線開通し、敦賀とウラジオストク間の定期航路が開設され、明治45年(1912)には、東京の新橋から金ヶ崎駅(敦賀港駅)から連絡船に乗り、ウラジオストクからシベリア鉄道を介してヨーロッパに行く「欧亜国際連絡列車」が開業した。
一等地は東町(旭町)
明治15年の「福井県統計書」によれば、最高地価の場所は敦賀旭町とあった。「京都税務監督局統計書」の明治43年(1910)でも同じ場所だった。少なくとも地価の上では旭町が明治時代の中心地とうかがえる。旭町は明治以降の町名で以前は東町(ひがしまち)といった。丹後街道と北陸道に通じる道の間にある。
東町は、気比神宮の例大祭で巡行する山車(やま)を出す町の1つである。陸道総鎮守、越前国一宮の格式を持つ気比神宮は大宝2年(702)の修営と伝えられる。山車巡行は室町時代末期頃にはあったようだ。令和の現代、山車を出す町は6つあり、東町の他に山車を出す町は御所(ごしょの)辻子(ずし)町、金ヶ辻子(かねがずし)町、唐仁橋(とうじんばし)町、観世屋(かんじゃ)町、鵜飼ヶ辻子(うがいがずし)町で、町名にちなむ山車を出す(図1 みなとつるが山車会館に展示されている山車)。町の位置を図2 市街図に示したが、この辺りが古くからあった街ということだ。明治に入り東町が旭町、西町が幸町、御所辻子町が大内町という具合に町名が変わった。さらに戦後の住居表示でかつての町名を辿るのが難しいほどに変わってしまった。例えば東町、西町近辺はまとめて相生町になった。
銀行街は東町より浜手にあった。敦賀で最も早かった銀行の設立は明治11年(1878)4月の三井銀行の支店である。前身の三井組は銀行制度の発足前から県公金を扱うため敦賀に進出していた。同年12月、大津で創業した第六十四国立銀行が敦賀に支店を出した。福井県で最も早い国立銀行は明治10年(1877)に小浜で創業した第二十五国立銀行で、敦賀には明治12年(1879)に出店した。
地元本店行ができたのはそれから13年後の明治25年(1892)11月である。大和田荘七(しょうしち)が創業した大和田銀行である。大和田荘七も事業家の名跡で、8代目大和田荘兵衛の時代にできた分家である。初代頭取の大和田荘七は名跡の2代目で、出生名は山本亀次郎という。本店行舎の2代目と3代目が現存している。明治34年(1901)に建てられた木造2階建の2代目本店は現在みなとつるが山車会館の別館となっている。令和3年(2021)に国の登録有形文化財に登録された。その南隣、現在は敦賀市立博物館となっている近代建築が3代目の本店だ(図3 旧大和田銀行本店(現・敦賀市立博物館))。昭和2年(1927)の竣工の鉄骨煉瓦造3階建で、平成29年(2017)に国の重要文化財に指定された。旧本店が面する通りは現在「博物館通り」という愛称で呼ばれ、古い町家が並ぶ観光名所になっている。新興の大和田銀行が業績を伸ばす中、県外行である三井銀行、第六十四国立銀行は明治27年(1894)に撤退。代わりに地元商人が敦賀銀行を立ち上げ三井銀行の跡地に店舗を置いた。
大和田銀行は金沢や大阪にも支店を出し、福井県で福井銀行と並ぶ大手行に成長していった。昭和11年(1936)3月、敦賀銀行と第二十五国立銀行の後身である敦賀二十五銀行を合併し嶺南エリアのシェアを高めた。一県一行主義の下でも福井銀行に合流しなかったが、終戦直後の昭和20年(1945)10月、三和銀行に吸収された。舞鶴、大阪の支店と本店以外はその年のうちに福井銀行に譲渡された。本店も昭和37年(1962)に福井銀行が譲り受けた。
福井銀行が敦賀に進出したのは昭和3年(1928)である。富貴町に敦賀支店を設けていた嶺南銀行を傘下に収めた。嶺南銀行は大正9年(1920)に三方郡南西郷村で設立された。大正11年(1922)に開店した敦賀支店を含め嶺南東部に9店舗を擁していた。
もう1つの中心地が御所辻子町である。例大祭で山車を出す町の1つで、巡行時には必ず先頭を進む。大和田銀行の通りから通りに沿って東に約400m離れたところにあり、明治以降の町名を大内といった。大内には町役場があった。大正15年(1926)の大蔵省「土地賃貸価格調査事業報告書」をみると、最高賃貸価格地点が「大内」とある。大正末期から昭和初期にかけて一等地が旭町(東町)から東に移ったことを示唆する。明治40年(1907)には富山に本店を構える第十二銀行が開店した。現在の北陸銀行である。町役場は昭和8年(1933)に浜手に移転したが、新庁舎は大和田荘七が寄付している。昭和49年(1974)、郊外移転に伴い取り壊され、跡地に市民文化センターが建った。前面に大和田荘七像がある。
最高路線価は本町通りから駅前に
戦後、路線価制度が始まった昭和30年(1955)の路線価図をみると、最も路線価が高かったのは気比神宮の南側の道路2区画分と、東側の道路の1区画分だった。昭和48年(1973)の地点名は「本町1丁目ナカネ洋装店前通り」とある。洋装店は気比神宮の南にあった。その後、同じ本町通りを南下し、昭和62年(1987)に敦賀市本町2丁目汐屋金物店前本町通りとなる。金物店は、昭和52年(1977)に旧富貴町から移転していた福井銀行敦賀支店の隣にあった。本町通りの南端、駅前通りとの交差点の北西角に現在アル・プラザ敦賀がある。昭和48年(1973)の開店当初は平和堂の敦賀店(第8号店)だった。平和堂は滋賀県彦根市が発祥の総合スーパーで、敦賀店は滋賀県外で初めて出した店舗だった。2000年の建て替えとともにアル・プラザに変更された。
その後、自動車の普及とともに都市機能の郊外移転が進んだ。木崎通りを中心にロードサイド店が集まった。平成2年(1990)にはショッピングモールのポー・トンが開店。地元の協同組合つるがセントラルプラザと中部地方を本拠とするスーパー大手、ユニーの共同開発によるものだ。核店舗はユニーの総合スーパー業態のアピタだった。現在はMEGAドン・キホーテUNY敦賀店になっている。
郊外化が進むにつれ本町通りをはじめとする旧来の中心市街地の衰退が目立ってきた。平成21年(2009)12月を始期とする「敦賀市中心市街地活性化基本計画」では、空き店舗問題が解消しない原因として「商店主の高齢化による空き店舗化が増加していること」「所有者の意向により賃貸不可としている空き店舗があること」を挙げている。計画期間は平成27年(2015)3月までだったが、その翌年の平成28年(2016)の最高路線価地点は「白銀町敦賀駅前広場通り」となり、一等地の座を駅前に譲った。本年の駅前の路線価はm2当たり69,000円だった。前の最高路線価地点のアル・プラザ前が同64,000円、その先代の気比神宮前が同57,000円である。郊外で最も高いドン・キホーテ前は59,000円で昭和時代の一等地より高い。
新幹線とバイパスと「歩く街」
今年3月16日、北陸新幹線が敦賀駅まで延伸され、様々な面で変化がみられる。新幹線駅の裏手には東口広場に加え、駅から国道8号線敦賀バイパスや北陸自動車道に連結するアクセス道ができた。車社会が一段と進みそうな一方で、かつての中心市街地の「歩く街」への再生もうかがえる。平成20年(2008)に敦賀バイパスが開通し、旧8号線である本町通りの通過交通が減ることが見込まれた。そこで、気比神宮からアル・プラザまでの900mの区間の車道を4車線から2車線に減らし、代わりに歩道をアーケードから大きく張り出す形で拡げることにした。本町通りに続く駅前通りは車道の駐車帯が廃止され、歩道が拡幅された。本町通りと駅前通りは「シンボルロード」と称され、松本零士作の「銀河鉄道999」、「宇宙戦艦ヤマト」のキャラクターのモニュメントが設置されている。敦賀が港(船舶)と鉄道の街であることにちなんだものだ。
歩く街への再生が進んだことで高まったのは住民の心地よさ(Well-being)だけではない。街歩き観光の魅力も高まった。地域資源に恵まれ観光振興の期待も高い。例えば、赤レンガ倉庫の貿易港や鉄道遺産からなるレトロな雰囲気といえば横浜や門司が知られるが、敦賀の場合、これらは平成11年(1999)の敦賀港開港100周年記念事業「つるが・きらめきみなと博21」の会場として整備された金ヶ崎緑地の周辺にある。敦賀の赤レンガ倉庫は元々紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社(現・エクソンモービル)が使っていたもので、明治38年(1905)築だ。現在はレストランとジオラマ館になっている。鉄道遺産としては初代の金ヶ崎駅を模した「敦賀鉄道資料館」がある。実際に金ヶ崎駅があった場所には、駅を含めた4棟を模した「人道の港 敦賀ムゼウム」がある。杉原千畝が発給した“命のビザ”を携えたユダヤ難民が敦賀に入港したことにちなむ。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図5 減幅後の本町通り