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アメリカにみる社会科学の実践― 2020年代の経済・財政(1)

財務総合政策研究所客員研究員 廣光 俊昭*1

 アメリカ合衆国(以下、「アメリカ」という。)は、ながく世界一の経済大国であり、軍事大国でありつづけている。理工系の科学技術にとどまらず、経済学をはじめとする社会科学でも世界をリードしている。他方、現在のアメリカは、内部では格差と分断に悩まされ、外部では非民主主義勢力との競争に直面している。
 本稿の狙いは、格差、分断、競争という現下の課題に際し、アメリカの社会科学者たちが、どのように問題を把握し、解決しようとしているのかを検証することにある。アメリカで興味深いことのひとつは、科学的方法で課題に立ち向かう実践の一貫性である。科学的方法とは、問題を特定し、解決するための方法論をロジックの筋道に沿って考え抜く営為のことをいう。アメリカにおける実践を通じて、社会科学が社会的課題にどのように役立っているのか理解を深めたい。
 アメリカの抱える多くの課題について定まった解決策が見出されているわけではない。ただ、幸い現在までの間に時に競合しあう複数のアプローチが姿をあらわしている。現在は歴史が作られつつあるユニークな時期である。本稿では、社会科学者の間に競合関係を意識的に見出し、それぞれのアプローチがどのようなロジックを持つのか理解する手がかりとする。例えば、読者は、ジャレッド・バーンスタイン(Jared Bernstein、大統領経済諮問委員会(CEA)委員長)とローレンス・サマーズ(Lawrence Summers、ハーバード大学)が並べられているのをみるだろう。
 本稿は計六回にわたる連載で、今回と次回では、アメリカ経済・財政について議論する。主に国内の視点から議論し、インフレなどのコロナ禍の顛末から、格差問題を検討するほか、第二回では、技術革新による経済のダイナミズムと財政を取り上げる。第三回、第四回では、アメリカ経済の世界との関わりを検討する。中国などとの競争が世界経済との関係を変え、新しい世界経済が姿をあらわし、地経学という新しい学問が生まれつつある。産業政策とも密接な関係を持つ国際貿易のほか、貿易や投資の規制、経済・金融制裁などよりハードな経済安全保障の問題を取り上げる。第五回と第六回では、分断などのアメリカ政治の課題について述べる。アメリカ政治を舞台として、民主主義の現在と将来を考える。

I.経済・財政
1.2020年代前半の経済政策の概観
(1)コロナ禍への対応
 はじめに2020年代のアメリカの経済政策の大筋をみる。バイデン政権の内部から政策を推進した経済学者として、特にバーンスタインとジャネット・イエレン(Janet Yellen、財務長官)を取り上げ、政権への外部からの批判者としてサマーズとオリビエ・ブランシャール(Olivier Blanchard、MIT)に注意を払う。彼らのうち、バーンスタインについては若干の紹介が必要であろう。バイデン政権はリベラルの経済学者を多く登用しているが、大統領との近さと政策の体系性で傑出した存在として、バーンスタインを外すことはできない。彼は政権当初からCEA委員を務め、2023年6月に同委員長に昇格した。中間層の強化というアジェンダを売り込むことでバイデンに接近し、バイデン副大統領の経済顧問を務めた。彼の年来の主張は議会証言などにみることができるが、その特徴は、格差是正のためにマクロ経済政策から再分配まで広範な政策を動員する包括性にある(Bernstein, 2017 2019;Bernstein and Bentele, 2019)。マクロ経済政策では、図1.1 人種と失業率(黒人、白人、アジア系、ヒスパニック)の示す黒人などマイノリティの歴史的に高い失業率の改善も念頭に完全雇用を追求する姿勢を鮮明にする。リーマンショック(Great Recession)後、2015年の金融引き締めが早すぎたと批判的にみている。財政政策についても、インフレや高金利への懸念が後退したとの認識から、拡張的政策をとる余地があるとする。ミクロの政策としては、経済機会へのアクセスの障害を排するため、インフラ投資、ヘルスケア改革、再生エネルギーへの投資、職業訓練、労働組合の強化などを提唱しており、これらはバイデン政権の政策の骨格となった。
 2020年代はコロナ禍とともに幕を開けた。コロナはアメリカに多大な健康上の被害(2023年5月までの死者で116万人)を与えた。ワクチンなどの予防措置の適用が政治論争の的となり、政治的分断を深めた。将来のパンデミックの再来を視野に、現在、コロナ対策の経済社会的帰結について学際的調査が行われている。調査は州毎の死亡率の違いが相当程度あったことを明らかにするとともに、予防のためのマンデート(強制)が子どもの学習に悪影響を与えたことなどを示唆している(コラム1.1を参照)。

コラム1.1:コロナ対策の経済社会的帰結
 コロナ禍での行動規制は、熾烈な論争を巻き起こした。現在、様々なレビューが行われているが、代表的なものとして、多様な専門家を結集し、ランセット誌に載ったレビュー(Bollyky et al, 2023)を紹介する。レビュー期間は2020年1月から22年7月であり、州を分析単位としている。健康、経済、教育に関するアウトカムをみており、因果関係ではなく相関関係の分析である。
 本レビューでは、累積死亡率について、年齢、BMI、持病等で調整の上、比較をしている。調整後の数値で比較すると、死亡が少ないのは、ハワイ(147人、10万人あたり)、ニューハンプシャー(215人)、メーン(218人)の順で、多いのは、アリゾナ(581人)、ワシントンDC(526人)、ニューメキシコ(521人)となる。アリゾナではハワイの4倍もの人が死亡しており、州の間のばらつきは大きい。表1.1 州毎の累積死亡率ランキング(10万人あたり死亡者、調整後)は、上・下位の10州を抜き出し、2020年の大統領選でトランプ候補が勝利した州に網掛けをしている。共和党州の方で死亡者がやや多い結果となっているが、民主党州にも成績の悪い州はある。
 各州の経済社会的特徴との関係をみると、教育程度が低く、貧困率が高く、人々の間の信頼度が低く、医療制度へのアクセスの悪い州であるほど、感染しやすく、死亡率も高かった。これらの州ではワクチン接種率も低かった。人種については、ヒスパニックや黒人で死亡が多く、アジア系では少なかった。マスク着用、ワクチン接種は感染を減らし、ワクチン接種は死亡を減らしていた。
 予防措置としてのマンデート(強制)について、その強制度を指標化して比較すると、民主党州に比べると共和党州ではマンデートが忌避されたことが読み取れた。予防措置が政争の種になったことが読み取れる。マンデートと健康アウトカムの関係はどうか。マンデート指標の高い州ほど、感染率は低かったが、死亡率に有意な違いはなかった。個別のマンデートでは、学校職員や州職員へのワクチン義務化は、低死亡率と相関していたが、マスク義務化や自宅待機命令では相関はなかった。マンデートと経済や教育との関係はどうか。マンデートはGDPとは関係がなかった。マンデートが強い州で経済が悪化したという関係はなかった。他方、マンデートとして、レストランの閉鎖を実施した州では、雇用減が大きかった。マンデートの強い州では、子ども(4年生)の数学のスコアが低下する相関もみられた。個別のマンデートに立ち入ると、学校の閉鎖は(負のサインであるものの)スコアと有意な相関がないものの、マスクやワクチンに関するマンデートはスコアの低下と有意に相関していた。レビューの著者たちは、マンデートが親の態度などを通じ、子どもの学習機会に影響したのではないかと解釈している。
 マンデートのような政治化した問題を分析する際、本レビューの採用した相関関係の分析は有益な入り口になる。今後は、因果関係に踏み込んだ研究が求められる。

 他方、予算に責任を持つ議会が大規模な対策をスピーディーに成立させたことは特筆に値する。トランプ政権下の2020年3月には「コロナウイルス援助・救済・経済安定化法」(CARES:Coronavirus Aid Relief and Economic Security Act)(2兆2000億ドル)が成立し、2,700ドルの現金支給、PPP(Paycheck Protection Program)という企業の資金繰り支援などが実施に移された。2020年12月、600ドルの現金支給を含む、9,000億ドルのパッケージを挟み、バイデン政権に代わった2021年3月には「アメリカ救済計画法」(ARP:American Rescue Plan)(1兆9,000億ドル)の成立をみた。同計画は、個人向けに現金(1,400ドル)を支給する政策(三度目)を盛り込んだほか、オバマ政権で導入した医療保険制度改革法(ACA:Affordable Care Act)の時限的拡充など、民主党らしい施策を盛り込んだ。この時期にはすでにワクチンの接種が始まっていたが、アメリカ救済計画で大規模な予算措置を取ったことは、禍根を残すことになる。
 2021年第1四半期には、実質GDPはコロナ前の水準を回復する。コロナ禍は経済学者の間で、民間の生み出すものを含む新しいデータを用い、施策を迅速に検証する動きを加速した。事後的なレビューにとどまらず、現在進行形で施策の改良に役立つ研究があらわれた(コラム1.2を参照)。しかしながら、落とし穴はマクロ経済にあった。少数だが、著名な経済学者がアメリカ救済計画への懸念を表明した。オバマ政権でNEC委員長を務め、民主党政権にとって身内ともいうべき、サマーズは最も厳しい言葉で警告を発した。2021年3月、彼はアメリカ救済計画を「過去40年間の経済政策のなかで最も無責任なもの」とし(The Hill, 2021)、インフレを加速させると指摘した。同様の懸念は、ブランシャールらからも示された(Blanchard et al., 2021)。

コラム1.2:新しいデータを用いたコロナ対策の検証
 コロナ対策としての予算措置のうち、個人向け給付(Economic Impact Payments)はとりわけ関心を集めた。2020年4月15日に一人あたり1,200ドル、2021年1月5日に600ドル、同年3月17日に1,400ドルの給付を実施している。通例、危機時の個人向け対策の代表格は失業手当であるが、コロナ禍では、個人向け給付が総計8,850億ドルで、失業給付の8,750億ドルを上回る最大の措置となった(Splinter, 2023)。
個人向け給付の経済効果の検証は、従前、家計調査により行われてきたが,サンプルサイズやデータ入手のラグの問題があった。ラジ・チェティ(Raj Chetty、ハーバード大学)らは、カード情報から全米の消費の相当割合(10%)を日次で追えるデータ(Affinity Solutionsによる)を活用し、個人向け給付の効果を現在進行形で分析することに成功した(Chetty et al., 2021)。分析によると、第一回の配分時には、2020年4月15日を境に支出が26%もジャンプしており、所得階層別でも概ね一律的に効果が出ていた。ところが、2021年1月5日の二回目の給付では、家計所得46,000ドル以下の家計では、1月中旬までの間に消費が10%弱ジャンプしたが、78,000ドル以上の家計では消費がほとんど変化していなかった。図1.2 第一回給付と第二回給付の月間支出に与えた効果(所得階層別)(受給者毎・ドル)は一回目と二回目で支給からのひと月で受給者あたりの消費がいくら伸びたかを推計したものである。二回目では高所得層の消費が増えていない。
 この違いの原因を、チェティらは高所得層での雇用回復に求め、高所得層では貯蓄が積み上がるままになっていると指摘した。この指摘は、当時反響を呼び、三回目の支給の決定にあたり、高所得層への配分を減らす議論を後押しした。三回目の支給では、家計所得160,000ドル以上の階層への支給額がゼロに変更された。本文で述べる通り、支給対象の限定にも関わらず、三回目の支給を含むアメリカ救済計画はマクロ的に過大で、インフレを誘発することになる。ただ、チェティらの研究が消費を下支えするという政策目標に照らして個人向け給付の見直しを示唆したのに対し、マクロのストーリーは経済全体の資源制約に関わるものであり、インフレがチェティらの研究の意義を傷つけるわけではない。
 新しいデータベースは、政府内のデータを連結することからも作り出すことができる。マイケル・ドルトン(Michael Dalton、Bureau of Labor Statistics)は、PPP(Paycheck Protection Program)の業務データを、別の政府統計(雇用・賃金センサス)と、企業名と住所に基づき機械的にマッチングして連結した(Dalton, 2023)。PPP承認前後の雇用、賃金、事業所の閉鎖状況などを把握できるデータベースを構築し、差分の差分法(Difference-in–Difference)を用いて分析した。PPPは2020年3月に6,690億ドルで創設された、金融機関に企業向け融資を促す措置で、給与維持の基準を満たした場合、融資を助成金に変更することを可能とするものであった。
 ドルトンの研究は、PPP承認から1ヶ月の効果として、(PPPがなかったという反実仮想との比較で)雇用が8.8%増加し、事業所の閉鎖確率が5.6%低下し、賃金は12%増加したことを見出した。効果は次第に低下するが、最大で15ヶ月間は持続的にプラスになっていた。PPP承認から15ヶ月後までの時点で計算すると、一人・一月の雇用増あたりで11,737ドルの資金がPPPから供与されたことになり、PPPから供与された資金のうち43%が賃金増に充当されていたと試算した。ドルトンの研究は、事業所を閉鎖しないことによる便益は含んでいない。失業に伴う長期的マイナスを回避した効果もカバーしていない。失業給付を受給せずに済むことによる効果も勘案していない。PPPについては事後の監査によって不正受給が問題化しているが、ドルトンの見出したポジティブな効果も、将来、類似施策の採否の検討する際の材料となる。
 PPPが依って立つ考えは、企業内に被用者等の間に特殊(specific)な資本関係があり、それを壊さずに経済再開に備えることには便益があるという考えである。もしこの特殊性がないのなら、PPPの便益はあまりないことになる。この便益の程度を知ることは重要であるが、ドルトンの研究はこの点は明らかにしていない。また、PPPは元の状態に復することを想定した措置であり、コロナ禍前後で最適な資源配分が変わった場合には適切性を失う。コロナ禍のアメリカでは、PPPの導入にも関わらず、一時的に高い失業率を記録している(図1.3 インフレ(CPI・全品目)、失業率、フェデラルファンドレートの推移)。労働市場の資源配分機能は損なわれていなかったともみられるが、PPPの評価は経済の資源配分全体との関係でも検証する必要がある。

(2)インフレ進行下での民主党アジェンダの追求
 サマーズらの指摘は直ちに支配的見解となったわけではないが、アメリカ経済の問題が、コロナ禍からインフレへと転換するのに時間はかからなかった。図1.2にある通り、物価(CPI・全品目)は2021年冬から上昇をはじめ、夏には5%を超える。物価上昇について、FRBは当初コロナ禍によるサプライチェーンの混乱に伴う、一時的(transitionary)なものとの見解を繰り返した。インフレの背景にサプライチェーンの混乱があったことは間違いない。ただ、サマーズらの警告の通り、財政措置が過大で需要面から物価に上昇圧力がかかっていたことは、いまとなっては否定できない。しかしながら、当時、バイデン政権はさらなる歳出法案の成立に全力を注いでいるところであった。加えて、バーンスタインらリベラルの経済学者たちは、マイノリティの雇用などへの引き締めのデメリットを気に留めていた。同様の考えは、労働経済学者出身でFRB議長時代に「高圧経済論」を唱えたイエレンにも近しいものであっただろう。折しもパウエルのFRB議長への再任を認めるかが問題となっていたことも、影響した可能性がある。バイデン大統領がパウエルの再任を発表したのが2021年11月22日、パウエルが「一時的」の説明を撤回したのが11月30日、FOMCが利上げに踏み切ったのは、翌年3月になってからであった。
 インフレを巡って高まる緊張の裏で、バイデン政権はさらなる歳出法案の成立に向けて取り組んでいた。2020年の連邦議会選挙で、民主党は上下院で多数を掌握していた。党内合意さえ出来れば、(財政調整法案というフィリバスターの迂回路を通って)やりたい施策をやれる稀な機会であった。リベラルの経済学者たちがとりわけ問題視していたのが格差問題であった。以前からのマイノリティにとどまらず、製造業の衰退に伴う中間層の貧困化への懸念を高めていた。図1.4 学歴毎の18-64歳の実質週給の累積変化、1963-2017年. (出典:Autor, 2019)は、デイヴィッド・オーター(David Autor、MIT)によるもので、学歴毎の実質賃金を時系列で追ったものである(Autor, 2019)。男性で顕著であるが、1980年代以降、高卒以下の賃金が実質減少し、2000年代以降は学部卒の賃金も停滞している。オーターはその主因をオートメーションと貿易による製造業の衰退に求めている。製造業の喪失に苦しむ地域はラストベルトと呼ばれ、共和党と激しく競い合う州(Swing States)でもあったことが、格差問題への関心を増幅した。気候変動問題にも民主党支持層の関心は高かった。気候変動が社会的弱者に有害であるとの議論により、気候変動は格差問題とも結びつくようになった。バイデン大統領の尽力もあり、2021年11月、超党派で「インフラ投資法」(Infrastructure Investment and Jobs Act)(5年間の新規支出で約5,500億ドル)が成立した。同法は、インフラの改修に加え、電気自動車の充電設備の整備という民主党のアジェンダを含んでいた。中間選挙を間近に控えた2022年8月には、「インフレ抑制法」(IRA:Inflation Reduction Act)(10年間で総額4,370億ドルの歳出)、「CHIPSおよび科学法」(Creating Helpful Incentives to Produce Semiconductors and Science Act)(5年間で約530億ドル規模の支出)の成立をみた。インフレ抑制法の前身は、Build Back Better(BBB)法案と呼ばれた社会政策を含む大型パッケージであり、モノに投資するインフラ投資法に対し、人への投資により、格差問題の改善を図るものであった。インフレ抑制法は、その前身法案から再分配策を大幅に削除したものになり、その陰には、財政刺激がインフレを一層悪化させるとの懸念があった。BBB法案からインフレ抑制法への名称の変化は、バーンスタインらとサマーズらの競合関係の均衡点を示唆している。ただ、インフレ抑制法が、気候変動対策を中心に民主党のアジェンダを前進させるものになったことは間違いない。2030年のGHG排出は、同法以前には25-31%減であったものを33-40%減にまで改善した(Zhao and Mcleon, 2023)(金融を通じた気候変動対策については、コラム1.3を参照)。特筆すべき点は、同法が電気自動車等の製造を国内に引っ張るインセンティブを与えていることである。国内製造の奨励は、CHIPSおよび科学法にもみられる。同法は安全保障上の重要製品である半導体の国内製造に財政支援(約240億ドル)を行う。これらの法律は、気候変動対策や安全保障と同時に、産業政策としてアメリカの製造業の復活を図り、まともな仕事と所得をアメリカの労働者に与えるという、格差対策の性格を持っていた。これらが体現する政策を、イエレンは「現代供給サイド経済学, modern supply side economics」と呼んだ(Yellen, 2022)。

コラム1.3:サステナブルファイナンスとは何であるのか
 気候変動対策として、経済学者はカーボンプランシング(炭素税、排出権取引)を推してきた。ただ、炭素税には年収40万ドル以下の者に増税しないというバイデンの公約が障害となる。排出権取引はオバマ政権時に導入に頓挫している。このような事情が、インフレ抑制法で補助による対策が取られたひとつの背景である。
 金融を通じた気候変動対策(サステナブルファイナンス)も、直接の税負担などを伴わず、比較的受け入れられやすいとの期待がある。しかしながら、2020年代前半の実務での動きは、期待を半ばまで裏切るものとなっている。象徴的なのは、米国証券取引委員会(SEC)が検討を進めてきた、気候関連に関する開示案の後退である。
 金融経済学者の間で、サステナブルファイナンスへの関心は高い。学会では多くのセッションが気候変動問題に充てられている。経済学者らしく、経済学のロジックと実証に基づいてサステナブルファイナンスの可能性を見極める議論が行われている。
 ローラ・スタークス(Laura Starks、テキサス大学オースティン校)は、2023年1月、the American Finance Association会長としての講演で、ESG(Environment, Social, and Governance)においてValuesとValueを区別して議論することが必要であると指摘した(Starks, 2023)。Valuesとは非金銭的な選好に由来し、Valueは金銭的な選好(リスクとリターン)に基づく。図1.5 機関投資家が投資決定に気候リスクを織り込む動機(複数回答可)はスタークスらが機関投資家に実施したサーベイ(Krueger et al., 2020)に基づくもので、投資の理由として、「自分たちのレピュテーションを守るため」という混合した動機、「道徳・倫理的な義務である」というValuesに基づく動機、「投資リターンにおいて利益がある」というValueに基づく動機が上位にランク入りしていたという。
 スタークスは、ValuesとValueいずれに基づいて意思決定を行うかは、どちらのコンテクストが投資家や経営者にとって重要かということに依存するという。例えば、ダイベストメントは企業の資本コストにあまり影響を与えないから、あまり意味がないという議論があるが、Valuesの視点からみると、自分の資金が好ましくない活動に使われるのを避けたいという動機は理解可能なものであるとする。ValuesとValueの区別は、反ESGや受託者責任の意味にも影響を及ぼすという。反ESGとは、Values投資家の選好に反対しているのか、それともValue投資家のリスクとリターンの分析に異議を唱えているのか明確にする必要がある。受託者責任との関係においても、Values投資家が投資したい思うものに投資するのを止める必要はないと示唆する。
 完璧なカーボンプライシングが実装されていれば,(脱カーボンについては)ValuesとValueを区別せず,Value一本で従来のきれいな理論が維持できるはずである。ただ,現実が完璧から遠いものである以上,ValuesとValueを区別して議論の見通しを得ることは有益である。反ESGの強いアメリカで、Values投資としてESG投資を性格づけることには、ESGを保護する効果が期待できるだろう。しかしながら、ESGをValuesとして解釈することは、ESGを道徳の問題と解することを意味する。複数形のValuesに基づく投資であるからには、ESG投資家の側にも異なる価値観への寛容さが求められることになる。
 Value投資としてのESG投資の基礎は怪しいと示唆する研究も現れている。一般にサステナブル投資はより高いリターンを生むものと信じられ、歴史的なパフォーマンスをみても確かにそのようにみえた(時期があった)。これに対し、ルーボス・パストール(Lubos Pastor、シカゴ大学)とルーク・テイラー(Luke Taylor、ペンシルバニア大学)らは、「サステナブル投資はより高いリターンを生むか」と問われれば、ノーだと答えるとしている(Pastor et al., 2022)。具体的には、1)投資家はグリーンなアセットを好んで買っており、そのぶん価格が高くなるのだから、そのぶん期待リターンは低くなる。2)投資家は気候変動リスクの低いグリーンアセットを好んで買っており、このことは気候変動リスクをヘッジしていることを意味し、当然期待リターンは低くなるという。
 その上で、2010年代にグリーン投資のリターンが高かったのは、気候変動への関心が予期に反して尻上がりに高まり、投資家がグリーン投資することを望み、消費者もグリーンな製品を欲しがるようになったからであるとする。パストールらは、アメリカの主要な新聞で気候変動が話題になる頻度を指標化したものを用い、この指標の動きがリターンの動きをよく説明することを示している。そして、図1.6 グリーンとブラウンの累積リターンの差(実際と反実仮想)の示す通り、この指標の上昇(気候変動への関心の高まり)がなかったとしたら(反実仮想)、どうであったかを逆算すると、グリーン投資の優位性が大幅に下がったことを示している。製品を買う顧客からのキャッシュやESGファンドへの資金の流入といった他の動き(上昇)もなかったとしたら、グリーン投資の優位性は完全に消えてしまうという。
 パストールらの議論は、Value投資としてのサステナブル投資に疑義を呈するものとなっている。サステナブル投資がValues投資である以上、カーボンプライシングを代替することもできない。ただし、パストールら自身は、サステナブル投資に否定的なわけではない(Chicago Booth Review, 2021)。Values投資として相応の社会的役割を果たすことを期待している。
 これらのほかにも、金融経済学は金融行政とも密接に関わる研究も行っている。ルイジ・ジンガレス(Luigi Zingales、シカゴ大学)らは、資金提供先企業のグリーン化を促す上で、企業から資金を引き揚げること(exit)よりも、企業に関与すること(voice)の方が効果的であると、理論的に示している(Broccardo et al., 2022)。実証的にも、exitはほとんど効いていないとする研究が出ている(Berk and van Binsbergen, 2024)。今後もアメリカの金融経済学からは目を離せない。

(3)次の機会への準備期間
 2022年11月の中間選挙では、事前予想よりも民主党が健闘したものの、下院の多数を共和党に明け渡した。バイデン政権の後半には、経済関係の大型法案を成立させることは望みがたいものとなった。インフレ抑制法に盛り込む機会を逸した施策は、大統領の予算教書で提案されることはあっても、実現の見通しを失った。むしろ、インフレへの選挙民の反発を目の当たりにし、バーンスタインらも雇用への悪影響が極小化されることを願いつつも、インフレの鎮静化を望み、政権前半の達成を守ることに注力した。
 この時期の議論の焦点は、前半の達成(あるいは失敗)を踏まえ、今後の方向性を探るものとなった。多くの経済学者を悩ませたのが、急ピッチの利上げにも関らず、インフレが容易には低下しない一方、成長や雇用が減速する兆しもあらわれなかったことである(図1.3)。金融政策が実体経済に与える影響はタイムラグを伴うものだが、金融引き締めが不十分であるとの指摘も絶えなかった。サマーズは、財政政策が過度に拡張的であるという認識のもと、金融政策が一層引き締め的でなければ、インフレを抑制することはできないと指摘した。ブランシャールは、ベン・バーナンキ(Benjamin Bernanke、元FRB議長)との共著論文(Bernanke and Blanchard, 2023)で、一層の引き締めがなければ、インフレ期待のアンカーが外れ、困難に陥ると警告した。もっとも中長期の経済の姿については、サマーズとブランシャールの間にも見解の相違があらわれた(PIIE, 2023a)。ブランシャールがインフレ抑制後の経済は再び金利の低い以前の姿に戻るとみるのに対し、サマーズは実質均衡金利(r*)が、安全保障や環境投資などの財政需要から上昇すると主張したことが注目を集めた。現実の金融政策は、2024年9月にようやく最初の利下げ(▲0.5%)を行ったところである。インフレの経験をどう教訓化し、今後の金融政策の枠組みをどうするか、議論が継続する見込みである。
 金利上昇は、専門家の間で財政への関心を高めている。2024年には、利払いが国防費を上回るという見込み(Congressional Budget Office, 2024)が注目を集めた。完全雇用にあるにも関わらず、巨額の財政赤字(2023年度でGDP比▲6.2%)を抱えていることは到底持続可能ではない。サマーズの挙げる国防、気候変動に加え、リベラルが望む再分配までも含めれば、財政需要は膨大である。一方、歳入面では、共和党が増税に否定的であるだけでなく、民主党も(納税者の9割が該当する)年収40万ドル以下の者に増税しないと公約している。政治の財政への危機感は低調である。2025年には減税雇用法(TCJA、トランプ減税)が失効し、自動的に増税となるため、税制論議が集中的に行われることが確実である。この期に財政健全化への道筋がつけられればよいが、悲観的な見方が強い。
 イエレンが「現代供給サイド経済学」と呼んだ施策が、気候変動、安全保障、格差問題の解決という多岐にわたる目標を首尾よく達成できるかは、オープンクエスチョンである。インフレ抑制法に基づく投資が貧困地域でよく活用されているという調査はある。しかしながら、再びサマーズはサービス化したアメリカ経済を製造業中心のものに転換することは非現実的であると批判する。
 これらのワシントン主導の取り組みよりも重要なことがおきていたのかもしれない。民間ではAI(人工知能)の広範な実用化など新しい胎動がはじまっている。経済学者たちは、生産性に与えるポジティブな影響とともに分配への懸念についての議論を活発に交わしている。
 以上の概観を踏まえつつ、以下では重要な各論について、より多くの経済学者らの参画を得て深掘りをする。具体的には、1)インフの原因と教訓、2)格差問題とその対策、3)経済のダイナミズム。4)財政を取り上げる。これらのうち、経済のダイナミズムと財政については次回に譲り、今回ははじめの二点を議論する。

2.インフレの原因と教訓
(1)サプライチェーン、財政
 2020年代前半に最も盛んに論じられた経済問題はインフレである。インフレの原因については三つの候補がある。ひとつはコロナ禍によるサプライチェーンの混乱を挙げるもの、もうひとつはアメリカ救済計画など財政出動によるとする見解、最後が金融政策の引き締めの遅れに原因を求める見方である。サプライチェーンの混乱がインフレを惹起したことは疑いがない。インフレと財政政策の関係については、サマーズらが2021年の冬から警鐘を鳴らしていたが、大型法案の成立を目指すバイデン政権の意向もあり、直ちに認められたわけではなかった。
 しかしながら、アメリカ救済計画が成立した、2021年3月には、欠員と失業者の比率(v/u)は急上昇を続けており。労働市場はタイトな状態に移行していた(図1.7 欠員と失業者の比率(v/u)の推移)。現在では、財政政策がインフレをもたらしたことには合意があるといって良い。例えば、シェブネム・カレムリ=オズカン(Şebnem Kalemli-Özcan、メリーランド大学)らは、二期間の消費の効用を最大化する消費者を想定し、借入制約のある者の割合を操作できるマクロモデルを用い、実際のマクロデータ(2022年6月まで)と突合した(Giovanni et al., 2023)*2。その結果は、総需要ショックがインフレの2/3を説明することを示している。そして、実際に観察された政府歳出の増を控除してモデルを回し、財政刺激が総需要ショックの半分以上を説明すると結論づけている(インフレの少なくとも1/3が財政要因である)。図1.8 超過インフレとその要因は、借入制約のある消費者が3割いることを想定した試算で、トレンド超の超過インフレの8.21%(左図(1))が、財政刺激がなかった反実仮想の世界(右図(2))では3.95%に減っている(借入制約のある消費者が多いほど、財政刺激がインフレを惹起する)。また、フランソワ・デ・ソレス(Francois de Soyres、FRB)らは、アメリカを含む先進国、新興国のデータ(2022年第1四半期まで)に基づき、コロナ禍特有のショックと財政刺激との関係を解き明かしている(Soyres, 2023)。財政刺激は、行動規制を解除した際に財の需要を増幅する効果を持った。他方、工業生産は急激な需要の増加に対応するほど迅速には調整されず、インフレ圧力を生んだという。超過インフレを被説明変数とする回帰分析によると、財政刺激は、アメリカの場合で2.55%程度のインフレ要因になったという。
(2)金融政策
 金融政策をインフレの原因とみるかについては、財政に比べ、見解にばらつきがある。FRBが当初、インフレを一時的なものと見做し、その後、見解を撤回したことはすでにみた。診断を誤り、利上げが遅れ、インフレを余計に加速させ、その後のインフレ抑制に苦労することになったという批判は可能である。急ピッチな利上げは経済に余分な歪みを与え、実際、2023年3月には中堅のシリコンバレーバンクが破綻するなど金融システムにストレスをかけた。
 ジョン・テイラー(John Taylor、スタンフォード大学)は、2023年3月の議会証言で、利上げがテイラールールの勧告よりも遅れていると指摘の上、遅れの背景として、FRBがルールに基づく金融政策に一貫して取り組んでこなかったことを挙げている(Taylor, 2023)。インフレ前の政策枠組みにインフレバイアスがあったことを問題視するのが、ドナルド・コーン(Don Kohn、元FRB副議長)とガウティ・エガートソン(Gauti Eggertsson、ブラウン大学)である(Eggertsson and Kohn, 2023)。彼らによると、2020年8月に採択された政策枠組み(FOMC, 2020)には二つのアシンメトリーが存在した。ひとつはFAIT (Flexible Average Inflation Target)である。FAITは一種のフォワードガイダンスである。2%の物価目標を時間をかけて達成することを目指し、インフレ率が持続的に目標を下回っている場合、適度に目標を上回るインフレを容認する。もうひとつは、最大雇用(maximum employment)に関するアシンメトリーである。新しい政策枠組みでは、従前の最大雇用からの乖離(deviations)を軽減することから、最大雇用からの劣後(shortfall)を軽減することへと目標を変更している。そして、「雇用の最大水準とは、a broad-based and inclusive goalで、労働市場の構造とダイナミックスに影響する非金融的要因に大きく依存するものであるから、直接測ることができず、時とともに変化するもの」であると、最大雇用の定義を曖昧化している。この見直しは、完全雇用の追求によるマイノリティの労働条件の改善という、バーンスタインやイエレンらのアジェンダに沿っている。政策枠組みの見直しは、2015年の利上げが早すぎたとの認識に基づき、平坦なフィリップスカーブ(物価上昇懸念の後退)、低下する均衡金利(r*)(ゼロ金利制約への懸念)という経済前提の変化に応じて考案された。コーンとエガートソンは、これらの見直し、特に最大雇用のアシンメトリーが、引き締めへの転換を遅らせたと指摘する。
 他方、FRBの執行部に近い経済学者からは、2021年の段階では失業率はパンデミック前の水準にまで下がっておらず(図1.3)、2021年中の利上げを逸したことを誤りであるとまでは言えないとの見解が聞かれる。2022年1月までFRB副議長を務めたリチャード・クラリダ(Richard Clarida、コロンビア大学)は、退任後、(2020年8月の新枠組により)9月のFOMCで設定したガイダンスに基づけば、2021年12月には利上げの条件は満たされており、テイラールールに基づく場合から3か月の遅れに過ぎないと指摘した(Clarida, 2023)。そして、実際の利上げが2022年3月にずれ込んだのは、資産購入のテーパリング(段階的縮小)の終了を待って利上げをしたからだと釈明した。実際、インフレの一部はサプライチェーンの混乱に由来するもので、その限りでは、インフレが一時的性質を持つことは間違いではない。バースタインの率いるCEAは、2023年11月に公表した分析で、その時点までのインフレ率低下の80%以上はサプライチェーンの修正によるものだと指摘した(CEA, 2023)。
 金融政策にはタイムラグがあるため、2023年11月までのインフレ減速は金融引き締めの効果というより、サプライチェーンの修正によるものという分析は理に適っている。ただ、CEAが目を瞑っているのは、財政刺激がインフレの主因であるという、不都合な真実である。アメリカでは、幸いにもインフレ期待はアンカーされてきた。ブランシャールのバーナンキとの共著論文での指摘は杞憂に終わりそうである。しかしながら、財政インフレに対応するために、金融政策に過度な負荷がかかったことは間違いない。この事実は、インフレ率がサプライチェーンの修正により下がったと指摘したところで変わるものではない。
(3)小括
 アメリカ救済計画は、時機を逸した過大な措置であった。インフレは、マクロ経済が資源制約のもとにあるという、当然の事実を改めて思い起こさせた。
 インフレの主因は財政政策であったが、金融政策も迅速に引き締めに移ることができたわけではない。2025年8月のジャクソンホール会議に向けて、今後の金融政策の政策枠組みのあり方が議論されることになる。物価目標に関するアシメトリーの位置づけは、ゼロ金利制約下に経済が戻ってくるかにもよる。最大雇用のアシンメトリーの今後については、金融経済学の論理だけでは決めがたいところがある。黒人経済学者のひとりグレイ・フーバー(Gray Hoover、テュレーン大学)らは、経済ショックに対し、黒人の雇用率は白人の二倍近くも影響を受けると指摘している(De et al., 2021)。その背景には、雇用期間(セニオリティ)の短い者からレイオフの対象となる慣行があり、人種差別によって黒人の雇用期間は短くなりやすいという。彼らの金融政策への期待は高い。バイデン政権の間に、ふたりの黒人FRB理事が誕生し、その後、そのひとり、フィリップ・ジェファーソンは金融政策担当の副議長に昇格している。その他、ブランシャールらが、インフレ目標を3%に切り上げる提案をしているが(PIIE, 2023a)、FRB関係者はこの見直しはFRBの信認を傷つけることで一致している。より重要な論点は、供給ショックのもとでの金融政策のあり方であろう。コロナ禍は収束したものの、地政学的イベントなど供給ショックがより頻繁に起こることが懸念されている。FRBの経済学者は需要側に関心を集中してきたが、コロナ禍は供給側に関心を及ぼす貴重な機会となった。
 インフレは、財政と金融政策の間の緊張関係という古い問題を突き付けた。完全雇用下での巨額の赤字が需要を刺激しつづけている。金融政策が緩和に転じても、十分に緩和的にはならない恐れがある。財政の問題については、稿を改めて第二回で議論する。

3.格差問題とその対策
(1)認識
 アメリカの所得のジニ係数をみると、1980年で0.42(0.31)、1990年で0.45(0.34)、2000年で0.48(0.37)、2010年で0.51(0.37)。2020年で0.52(0.37)と推移している(括弧内は再分配後、Luxembourg Income Study)。図1.4の学歴による賃金格差の拡大に応じ、分配前の格差が激しさを増しているものの、再分配により格差の顕在化を抑えていることが読み取れる。フローの所得にもまして格差の著しいのがストックである。図1.9 階層別の資産段高の推移は、資産保有高で下位50%の家計の持つ資産が薄く、他方、上位の家計の資産は分厚く、着実に増えていることを示す。アメリカでは資産価格が上昇を続けており、その日暮らしの家計が取り残されている。
 学歴・スキルによる格差が拡大していく過程を分析したのが、ニル・ハイモビッチ(Nir Jaimovich、UCサンディエゴ)らの研究である(Jaimovich and Siu, 2020)。彼らは、1970から80年代の不況では、その後、雇用が回復しているのに、90年代以降の不況では、雇用なき回復(Jobless recovery)が常態になったと指摘する。あわせて、雇用のなかでルーティーンの仕事が占めるシェアをみると、90年代以降は不況のたびに大きくシェアを減らしていることを明らかにした。スキルを要する非ルーティーンの知的労働、反対の肉体労働が増える一方、まずまずの所得の得られたルーティーンの仕事が消え、仕事の二極化(Job polarization)が生じている。ティル・フォン・ベヒター(Till von Wachter、UCLA)は、1970年代からリーマンショックまでの不況を分析し、不況の影響が不況の最中に労働市場に参入したコホートに集中してあらわれることを示している。不況は特にスキルの低い者に打撃を与え、参入後10年間の所得でみて、大卒者で5%の減に対し、低学歴の非白人では13%も減ることを明らかにした。悪影響は家族形成(低い結婚率、少ない子どもの数)や健康状態(肺がん、薬物摂取、自殺)にまで及んでいた(von Wachter,2020)。格差はマクロ経済の足も引っている。CEAの2023年の大統領経済報告(CEA, 2023)は、男性の労働参加率の減少傾向に触れている。働き盛り(25-54歳)の労働参加率は、1980年には94%程度あったが、2014年4月には87.9%まで低下した。最近は労働市場のひっ迫により回復しているものの、依然歴史的に低い水準にある。ベビーブーマー(1946‐1964年生まれ)の退出の最中、働き盛りが労働参加しないことは経済成長を制約する。CEAが、労働参加の低下の重要な原因として挙げるのも、オートメーションと貿易なのである。
(2)対策の基本哲学と実際
 ジニ係数をみた際に指摘した通り、アメリカでは増勢にある格差を再分配により抑えている。アメリカは元来再分配には消極的な社会である。再分配を求める切実な声と小さな政府という国家観との間で緊張が高まっているのは、故なきことではない。
 この緊張のもと、経済学者や哲学者の間で、市場所得の再配分から、事前配分(pre-distribution)へと議論の重心を変える動きが強まっている。ジェイコブ・ハッカー(Jacob Hacker、イエール大学)によると、再分配が、市場所得の不平等を是正するために税制など用いることであるのに対し、事前分配は、市場所得の不平等な分配そのものを小さくし、事後的な再分配が必要ないようにすることを目指す(Hacker, 2011)。イギリスの労働党党首(2012年当時)のエド・ミリバンドが事前の配分を口にするようになり、財政学でも事前の再配分は主流の考えになっている。事前の配分論者は、教育などの自ら稼いでいけるようにする支援を重視する(コラム1.4を参照)。コミュニティの環境改善を通じて経済状態の改善を図る考えも事前の配分に近しい考えである(コラム1.5参照)。事前の配分は三つの論拠を持つ。第一は、再分配にはインセンティブや情報の問題があることである。第二は、事前の配分が、再分配よりも人々や政治家から受容されやすいことである。第三は、道徳的に再分配は不適切で、機会の平等の方が優れていることである。努力をしてものを得る方が、単に与えられるよりも尊いと考える。事前の配分に対しては、ラビ・カンバー(Ravi Kanbur、コーネル大学)ら伝統的平等主義者から反論が出ている(Kanbur, 2022)。例えば、事前の配分のためにも資源が必要であり、その資源の確保が普通の再配分と同じ問題を生むという。

コラム1.4:大学と格差-置き去りにされた中間層
 事前の配分論者が好む介入の最たるものが教育である。十分に開発されずにいる、人々の能力に開発の機会を与えることは、社会全体にとっても大きなゲインが見込まれる。幼児教育の重要性が指摘されて久しいが、大学教育も人々の生涯所得に大きな影響を与える。
 ジョン・フリードマン(John Friedman、ブラウン大学)らは、匿名化された入学試験データと、所得税記録、SAT等のテストスコアとをリンクさせ、アイビー・プラス(アイビーリーグ及び同等校)へ入学が、学生の将来の成功と関わりのない基準により決められていることを明らかにしている(Chetty et al. 2023)。成功と関わりがないが、入学でものをいう基準とは、特定の私立高校への通学や、両親がその大学の卒業生であること、リーダーシップ活動をしていること、スポーツ活動である。成功と関わりがあるが、十分に考慮されていない基準がテストのスコアであった。現行の入学の仕組みで割りを食っているのは中間層であった。同じスコアの学生の間でも、高所得層と低所得層では中間層よりも入学の確率が高まる。中間層は親が卒業生である割合が低く、スポーツ学生も少なく、低所得者に多いアファーマティブ・アクションの対象者も少ない。
 アイビー・プラスへの入学は学生に大きなアドヴァンテージを与える。アイビー・プラスに進学すると、所得分布の上位1%に到達する確率が60%上昇し、エリート大学院に進学する確率が約2倍になり、一流企業に就職する確率が3倍になるという。フリードマンらによると、仮に同じスコアの学生が、同じように大学に入ると想定すると、世代間をまたいで伝わる格差の15%が解消できるという。さらに低所得の者に少しのだけアドヴァンテージを与えると、25%が解消するとする。
 フリードマンらの研究には大学側から反論もある。卒業生の子どもを優遇することは、大学を中心としたコミュニティを創るという意味があるとの見解がある。卒業生は大学にとって、寄付の重要なソースでもある。ただ、折しもアメリカではアファーマティブ・アクションを違憲とする連邦最高裁判決(2023)が出たところである。この数年で大学入学の在り方が変化することが見込まれる*3。その際、人種の問題にとどまらず、学生の経済的、社会的な事情も含めて、大学への入学をどのようにするのかが問われるだろう。その際、フリードマンらの研究が、アメリカの大学を変える契機になるかもしれない。

コラム1.5:生活環境の改善を通じた貧困対策
 教育が個人に着目して、その稼得能力の改善を図るのに対し、アメリカの経済学者たちは、人々の生活環境の改善を図ることで、人々の状態を改善する方法も模索している。
 マシュー・ジャクソン(Matthew Jackson、スタンフォード大学)は、貧困対策に人々の間の社会関係資本(ネットワーク)の視点を取り入れ、複数の政策を組み合わせる「カクテル」を用いることを提唱している。再分配により、貧困という症状に対処することで終わりにせず、貧困の罠など貧困の原因にまで踏み込んで対処するべきであると主張する(Jackson, 2021)。
 この考えの基礎として、ジャクソンらは、社会関係資本と子どもの社会階層の上へのモビリティとの関係を実証分析している(Chetty et al., 2022)。その結果を示す図1.10 各種の社会関係資本と上方へのモビリティの相関によると、上へのモビリティには、社会関係資本のうちでも、その子どもがどのような経済的関係のなかで生活しているのか(経済的つながり、economic connectedness)がものを言うことが明らかになった。周りの大人が失業し、収監されている環境では、子どもはよいロールモデルを得ることができない。他方、市民的関与(civic engagement)はあまり影響を与えていない。社会関係資本論の嚆矢である、ロバート・パットナムの議論(Bowling Alone, 2000)では市民的関与に焦点があったが、こと経済的モビリティに関しては、市民的関与との関係は薄いという発見は興味深い。
 処方箋として、ジャクソンは、人々の貧困地域からの転出を促す政策(MOT, moving to opportunity)を肯定的に評価する。より穏健な対策としては、もとのコミュニティとの関係を維持しつつも、教育・職業訓練、就業機会を通じて、人々の間に新たなチャネルを作り出すことを提案している。MOTはシアトルが実験的にはじめた施策であるが、コラム1.1、1.4で取り上げたチェティやフリードマンらが、その有効性を裏付ける研究を発表している(Chetty, 2018)。

 それでも、バイデン政権の前半二年間の経緯は、事前の配分の頑健さを印象づけるものであった。三つの論拠のうちの第二のもの、すなわち、連邦議会の政治家は事前の配分は受け入れたが、再配分には乗り気ではなかったのである。アメリカ救済計画は危機時の時限措置であり、端的な再分配が盛り込まれていた。失業手当の増額のほか、医療保険制度の強化、児童税額控除、勤労所得税額控除、フードスタンプ(SNAP)の拡充などが実行に移された。そして、より本格的な再分配として、3.5兆ドルに及ぶBuild Back Better法案が提案され、アメリカ救済計画に盛り込まれた拡充の更なる延長のほか、有給休暇の創設などが盛り込まれた。しかしながら、同法案がインフレ抑制法へと縮小する過程で、医療制度改革以外の多くの項目が脱落した。そして、生き残ったのは産業政策であった。インフレ抑制法、同時期に成立したCHIPSおよび科学法は、気候変動対策、安全保障政策であると同時に、国内製造業の復活を通じ、まともな仕事と所得を労働者に与えようとするものである。イエレンがこれらを「現代供給サイド経済学」と呼んだことはすでに述べた。
 バイデン政権前半二年間の顛末は、努力を尊び、再分配を嫌う、アメリカの経済哲学の頑健さの証左である。普遍的ベーシックインカム(UBI)は、アメリカでは人気のない考えである。バーンスタインでさえ、UBIは真に支援の必要な人から資源を奪うか、さもなければ、増税を求めねばならず、賛同できないとする(Open to Dedate, 2017)。アメリカのリベラルとは、再分配を人々に受容してもらうため、一通りではない工夫を凝らしてきた人たちである。ジョン・ロールズは無知のベールという装置を考案した(Rawls, 1971)。ロナルド・ドゥオーキンは、選択運と自然運の区別から議論をはじめた(Dworkin, 2000)。選択運とは、ギャンブルの結果がどうであるかという問題である。自然運とは、意図的に取ったわけではない自然のリスクの結果の問題である。選択運では、納得づくでリスクを取ったのであるから、その結果が悪いものになっても、救済しない。他方、自然運の結果が悪いものであれば、その謂れのない不遇は救済の対象となる*4。事前の配分は、これらリベラルの知的格闘の延長上にある。
(3)「現代供給サイド経済学」は格差問題を解決するか
 イエレンは、インフレ抑制法成立の一周年(2023年8月)の演説で、同法が「アメリカ全土のコミュニティに経済的機会を拡大している」とし、自身が「クリーンエネルギー産業が全国に拡大している様子を見てきた」と述べ、同法が「特定のコミュニティに投資するビジネス事案を支援する場所に基づく(place-based)インセンティブを提供する」と述べた(Yellen, 2023)。イエレンのもとで財務省チーフエコノミスト(代理)を務める、エリック・ノストランド(Eric Van Nostrand)らは、「場所に基づく分析」との副題を持つレポートで、インフレ抑制法によって、クリーン投資が経済的に恵まれない地域(賃金、所得、雇用率、大学卒業率が平均以下の地域)に集中していることを明らかにしている(Nostrand and Ashenfarb, 2023)。例えば、同法成立後のクリーン投資額の81%が、平均週給以下の地域で行われているという。また、図1.11 民間製造業建設支出(Private Construction Spending)の推移(百万ドル)にある通り、同法成立後、民間製造業建設支出(Private Construction Spending)が、急速に上昇に転じていることも「現代供給サイド経済学」の働きの傍証となるかもしれない。「場所に基づく」政策とは、民主党に近い経済学者たちが、ラストベルトなどの荒廃した地域の振興を目指し、個人を対象とする政策とは別の体系として探求してきた政策である(Shambaugh and Nunn, 2018)。探求は、(税額控除を含む)補助による産業政策として見事に結実した。産業政策が成功した自身の経験として、アメリカは第二次大戦中の例を挙げることができる。アンドリュー・ガリン(Andrew Garin、カーネギーメロン大学)らは、軍需工場建設が、高賃金の製造業と地域雇用の持続的増加を引き起こしたことを明らかにしている(Garin and Rothbaum, 2024)。影響は世代を超えて継続し、工場の来た郡の男性の子どもの成人後の年収は、1970‐80年代になっても2.8%上昇していたという。
 ただ、これまでに明らかになったのはインプットやアウトプットであり、アウトカムではない。そして、現在は第二次大戦時とは異なる。戦時中に4割に近かった製造業での雇用割合は、現在では8%程度まで減っている。サマーズはここでもバイデン政権を批判する(PIIE, 2023c)。先進国で製造業は衰退する傾向があり、政権の製造業へのこだわりは現実的ではないと指摘する。製造業の立ち上げには、相応の人材も必要である。CHIPSおよび科学法の支援を受けて、韓国のSKハイニックス社がインディアナ州に半導体工場を作ることにしている。報道によると、アメリカには半導体工場を稼働させる人材が限られるため*5、同社は地元のパデュー大学と連携し、人材育成するところからはじめているという(The Wall Street Journal, 2024)。
 筆者のみるところ、「現代供給サイド経済学」は、あまりにも多くのものを求めすぎている。気候変動、安全保障、格差対策のすべてに最適な答えを出すプログラムがあると信じてよいものだろうか。そして、Swing Satesでの選挙の勝利という、隠れたもうひとつの目標がある。補助という政策手段は最適なものであるのか。特に気候変動のように最適な技術が定まっていない分野で、連邦政府が特定の技術を推すことは市場機能を歪めるのではないか。補助こそ最大の政治力をもたらす手段であり、このことが政策設計の際にどの程度影響したのか。「場所に基づく」政策として、以前から実施されていたものは、各州による企業誘致である。各州は補助や州税減免を駆使して競い合う。ナショナルなワシントンの目線からみれば、企業は全米のどこかには立地するのだから、州からの補助は企業の懐を肥やすだけの意味しかない。連邦レベルで州のやっていたことを拡大再生産することに何の意味があるのか。ただ、「現代供給サイド経済学」に意味があるとすれば、まさにこの拡大再生産という点に隠れている。補助によって、国外に立地したはずの生産活動がアメリカに立地するのであれば、アメリカにとってはネットでプラスとなる可能性がある。関税障壁とセットの補助金による産業振興、「現代供給サイド経済学」は存外古い重商主義的な近隣窮乏策の貌を持つ。
 「現代供給サイド経済学」の歴史的評価は定まっていない。その評価は、気候変動、安全保障、格差対策、選挙対策の視点から多面的に行われる必要がある。どこに価値を置くかにより評価は変わりうる。CHIPSおよび科学法と異なり、民主党単独で可決したインフレ抑制法は、2024年の大統領・連邦議会選挙の結果から影響を受ける可能性がある。ただ、製造業振興、中国との競争というモチーフは超党派であり、アメリカの政策から重商主義のにおいが払拭されるとは考えにくい。

(次号につづく)

*1) 前在アメリカ合衆国日本国大使館公使(2021年5月~2024年7月)。博士(経済学、一橋大学)。なお、本稿のうち、意見にわたる部分は個人の見解であり、組織を代表するものではないことをお断りしておく。
*2) 本稿では、筆者が実際に意見交換した相手の名を優先して本文で挙げるものとするため、本文で名を挙げる者と論文の筆頭著者が異なることがある。
*3) 公共放送・NPR(2024)よると、連邦最高裁の判決後はじめての入学となるMITの2024年の秋入学で、黒人の比率は以前の13%から5%に激減したという。アジア系の比率は41%から47%に増加し、白人の比率は変わっていないという。
*4) この考えは運の平等主義と呼ばれる。筆者は、Hiromitsu(2024)で、この考えの社会実装のためにクリアすべき論点を検証したことがある。
*5) 同報道によると、アメリカの半導体産業の雇用は、2000年の28.7万人から2017年には18.1万人に減少している。