国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇
前回、脳科学者のニック・チェイター教授が「言葉はこうして生まれる」という本の中で、脳にとって大切なのは想像の飛躍だとしていることを紹介した。想像の飛躍がふんだんにみられ、男女の恋愛を歌で行ってきたのが日本語の世界である。そして、その日本語の世界の背景には、八百万(やおろず)の神が混沌の中から誕生してきたという日本人の宗教観があると考えられるのである。
ニック・チェイター教授の話
ニック・チェイター教授によると、「私たちはみな、ほら話に担がれている」「ほら吹きは、自分自身の脳だ。脳という即興のエンジンは驚くほどの性能を誇り、そのときその場で色、物体、記憶、信念、好みを生成し、物語や正当化をすらすらと紡ぎ出す」。「そのほら話のベールは私たちを完全に包みこんでおり、そのようなベールがそこにあることにすら私たちは気づけない。それは、私たちが驚異的なまでに創作力のある臨機応変の推論者、そして創造的な比喩機械であり、散乱した情報の切れ端を溶接して一瞬ごとに整然とした一つの全体を創り出しているという驚くべきことを意味している」*1、「私たちは思考が『そのときその場の』でっち上げだとは思いもしない。前もって形作られた記憶、信念、好き嫌いを内なる深海から自分で釣り上げたのだ。そして意識的思考とはその内なる海のきらめく表面にすぎないのだと思い込まされている。だが、心の深みなるものは作り話にすぎない。自分の脳がその場で創り出している虚構なのだ。前もって形成された信念や欲望や好みや意見などないのであり、記憶さえもが心の底の暗がりに隠れているのではない。心の奥はない。表面がすべてなのだ。つまり脳は、倦むことなき迫真の即興家であり、一瞬また一瞬と心を創り出しているのだ」という*2。
「ほら」が豊富な日本語の世界
「ほら」と言える話が豊富なのが日本語の世界だ。「時をかける少女」という映画があった。私がかつて税務署長をしていた尾道出身の大林亘彦監督の作品だ。主人公は時空を超えて変幻自在に活躍していた。小野小町の歌に、「うたたねに恋しき人をみてしより夢てふものは頼みそめてき」というのがある。夢の通い路で恋しい人に会った、もう一度、会いたいと頼む心情を素直に読んだ歌である。日本人は、夢の通い路で、遠くの人や過去の人、さらには未来の人とも会ってきた。平安時代後期の「とりかえばや物語」は、夢を通して他人と入れ替わる話である。「浜松中納言物語」では、亡き父が中国で転生して皇太子になっており、その父の母が日本でまた転生するという物語だ*3。平安時代後期から鎌倉時代初期に書かれたとされる「有明の別れ」では、隠れ蓑を使って透明人間になった姫が、男装をして活躍する*4。信貴山縁起や草双紙には、想像の飛躍そのものとも言える様々な物語が展開されている*5。そのような平安期の日本文学は、同時代の全欧州を圧倒していたという*6。室町時代に入っても、夢であった人と結ばれる恋の物語の「転寝(うたたね)草子」などが創作された*7。室町時代に成立した狂言には、ウソがばれて可笑しいものが多い。そして「ほら」を尊重する文化に磨きがかかっていったのが江戸時代だ。多くの庶民に楽しまれた落語には、現実の苦しさをウソでくるみながらウソを楽しむものが多い*8。掛け合いで成り立つ落語は、「ほら」を楽しむところからのユーモアのセンス*9を鍛えあげていった。ユーモアの神髄は意外性だとされているが、それは想像の飛躍そのものといえよう*10。
日本語に、過去や未来といった時制がないのも、想像の飛躍が豊富な日本語の特性からのものと考えることが出来る。時制にとらわれていては「ほら」の世界は成り立たないからだ。「わかった人は手を挙げて」「行く人は手を挙げて」というのは、過去と現在と未来がまじりあった表現である*11。それに対して過去形や未来形を持つ西欧の言語では、過去や未来を現在に引き付けて認識してきた。アウグスティヌスは、過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直覚であり、未来のものの現在は期待であるとしていた*12。そのような認識からは、時空を超えての想像の飛躍はかなり制約されてしまうと言えよう。
想像の飛躍が豊富な日本語は、論理(ロゴス)による認識だけでなく、直観(レンマ)による認識も尊重する言語だ*13。直観による認識とは、論理を超えた事物まるごとの認識である。日本の習い事では、弓道、茶道、華道のように説明なしに型から入るものが多い。仏教(仏道)も、祈祷、念仏、禅というように型から入るものが多い。型は論理ではない。雰囲気、位、品格をとらえるもので、能面や茶道具でも、それらをとらえた写しが尊ばれる。型は、主語のない日本語における変幻自在に立ち現れる「世間」だと考えることが出来よう。英語のオノマトペが声と音だけなのに対して、日本語のオノマトペが、声、音だけでなく動き、形、手触り、身体感覚、感情と幅広い守備範囲になっているのも、直観(レンマ)による認識を尊重する日本語ならではのことと言えよう*14。
男女の恋愛を歌によって行なってきた日本人
想像の飛躍が豊富な日本語の世界で、古くから発達してきたのが「やまと歌」(和歌)である。古今和歌集の仮名序には、「やまと歌」は「天地の開け始まりける時より出で来にけり」とされている。混とんの中から多様な神々が生まれてきて、男女の神の掛け合いから「国生み」が行われたとされる日本では、男女の恋愛が「やまと歌」によって行われてきた。異性への呼びかけが、貴賤を問わずに歌で行われてきたのだ。恋愛は想像の飛躍なくしては生まれない人間の行いといえよう。それを歌にして、しかもその恋愛の歌を柱にして文学が高度に発達してきたというのは、日本以外では見られないことだった。
平安時代の貴族の恋愛は、相手の顔を見ることもない中で、先ずは相手を思う和歌の交換から始まった。NHK大河ドラマ「光る君へ」では、若き日の紫式部が恋文の代書をしているシーンが登場していたが、平安時代には懸想文売りがいた。徒然草の作者、兼好法師も恋文(艶書)の代書をしていたという*15。14世紀には、艶書の文例集(「思露(おもいのつゆ)」)が編纂されている*16。「やまと歌」で恋愛をした日本人は、恋愛以外の場でも限られた文字空間での感情表現に様々な工夫を行い、その伝統が代々受け継がれてきた*17。枕詞(まくらことば)や歌枕、掛詞(かけことば)、更には本歌取りである。「徒然草」の冒頭、「日暮硯に向かいつつ」とあるのは、源氏物語宇治十帖に登場する浮舟(うきふね)が、光源氏の次男の薫(かおる)と孫の匂宮(におうのみや)との間の三角関係で苦悩した末に出家した後の模様の描写からとられたとされている。平安貴族の文化が、京都でその文化に触れた鎌倉武士にも受け継がれていたのである。
感情表現の工夫は、時代が下がって連歌や俳句が詠まれるようになると、調子を整えて様々なイメージを浮き出させる「や、かな、けり、なり、ぞ、がも」等の「切れ字」が多く使用されるようになっていった。歌枕は、文学の世界を超えて様々な工芸品の意匠にも使われて日常生活を彩っていった。
日本における女性の位置づけ
恋愛の話が出たところで日本語における女性の位置づけについてみておくこととしたい。平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」*18が有名だが、大和言葉には「妹背(いもせ)」「女夫(みょうと)」「母父(おもちち)」のように女性のほうが先のものがあった。日本には、本来、女性を男性よりも低い存在とみなす文化はなかった*19。それは、男のあばら骨から女が造られたという旧約聖書の世界とは全く異なる文化だった。文芸評論家の中村真一郎氏は、「枕草子」の中に描かれている当時の貴族社会における男女交際が、「なんと明るく自由で、そうして対等であることか」としている*20。仏教が日本に渡来してきたときに最初に出家したのも女性だった。司馬達等(たっと)の娘、嶋が出家して善信尼と名乗ったのだ*21。その背景には、古来からある地母神的な母性崇拝があったとされている*22。ちなみに、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)から神武天皇までの3代の天皇家の夫人は土地の娘で、意識においては父方だが血統は母方が多かったという*23。中国から官僚制が導入されても、女性にも内命婦(ないのみょうぶ)という日本独特の官制が設けられた。実際に、十三位(次官級)にまで出世した女性もいて*24、その仕組みは平安時代まで続いていたのだった。
飛鳥時代には女性の財産権が強く、通い婚の仕組みの下、婚姻を認めるのは母親だったという。男は、認められるために和歌の道に励んだのだ*25。平安時代には、結婚して夫の家に入った場合にも夫に他の女が出来ると実家に帰るのが普通だった*26。安土桃山時代に日本に来た宣教師のルイス・フロイスは、日本ではしばしば妻が夫を離別する、女性は純潔を重んじないと驚いていた*27。江戸時代は、何度か結婚してみて互いに気に入ったところで落ち着くというのが常識で、離婚率は非常に高かったという。女性が離婚する際に「三下り半」を渡されたことが、女性の地位が低かったことの証拠のように思われているが違うという。子は家のものとされていたので、女は子を連れずに家を出るが、その際にもらうのが「三下り半」で、それは女性がすぐに再婚できるための再婚許可状だったというのだ*28。ちなみに、子が家のものとされたのは、先祖のお祀りを行うためだが、それは中国や韓国のように厳格な父系原理の下での血脈を絶対とする考え方*29からのものではなかった。すべては混沌の中から生まれてきたと考える日本人にとって、先祖のお祀りは必ずしも血のつながった子供でなければならないものではなく*30、男の子供がいないと簡単に養子縁組をして先祖の祭りをしてもらった。女性が「嫁入り」すると夫の「家」の名字を名乗ったが、男性も婿養子になると妻の「家」の名字を名乗ったのだった*31。
日本人の伝統的な宗教観
想像の飛躍が豊富な日本語の背景にあるのが、霊魂は不滅で輪廻転生するとの日本人の宗教観である。人が輪廻転生するとなると、過去のご先祖さまや未来の子孫に時空を超えて変幻自在に会うことも当然ということになる。土偶の埋納方式からして、日本人は縄文時代から死と再生を信じてきたとされている*32。日本人が終末論を持たず、現世救済の意識が強いのも、そのような宗教観からのものと言えよう*33。ちなみに、終末論とは、この世の終末における最後の審判での人間の選別・救済を説く教えで、創造主を想定する一神教では一般的なものである*34。ちなみに、万物が混沌の中から生まれてきたとして霊魂の不滅を信じる日本人の宗教観には、本来、何とも言えない明るさ朗らかさがある。それは「竹取物語」によく表れているという。「竹取物語」で、もっとも端的に日本的なのは、最後に帝(みかど)がかぐや姫が残していった不死の薬を富士山で燃やしてしまう結末だという。不老不死を求める中国ではおよそ考えられない結末だ。日本人にとっては現世での不死に対する執拗な願望よりも、輪廻転生の中で今与えられている現世を明るく生きようという方が居心地よく感じられるのだ*35。
終末論を持たなかったことは、死後の救済を説く仏教が入ってくると、祖先も含めて総てのものが救われるという教えにつながっていった。草木国土悉皆成仏である。空海が伝えた真言密教の理趣経は、そもそも人間は生まれつき汚れた存在ではないという「自性清浄」を説いていた*36。天台宗の本覚思想は、人は誰でも悟れるとしていた。無縁という言葉は、「身寄りのない」ことだと思われているが、仏教における本来の含意は「特定の縁につながらない」ということで、「法界無縁」とは、仏の慈悲が全宇宙の一切の衆生に対して向けられていることを意味している。「無縁一切精霊」「三界万霊」も同様で、全てのものが仏の救済の対象になるという意味なのだ*37。
日本における神仏
そのような日本人の宗教観は、八百万の神も人も混沌の中から生まれてきたという神話からのものだと考えられる。優れた人間は神になり*38、恨みを持つ人間は鬼になるのが日本だ。大手町にある平将門神社を見ればわかることだ。世界的にみると、古代の多神教的な神々や氏神信仰はほとんど滅びている。特に一神教が入ったところでは、そうなっているのだが、八百万の神がおり、優れていれば人間も神になるとされる日本ではそれぞれが自分たちの祖霊である氏神(鎮守の神)を信仰し続けてきた。磯田道史氏は、そもそも「仏さま」と言って日本人が信仰してきたのも、基本的に「ご先祖さま」という氏神様だったという*39。日本に仏教が入ってきた時、宗教で大切とされる仏教の礼体系が伝えられなかったが、それは日本に早くから氏神を信仰する別の礼体系があったからだとされている*40。それは日本人が、一般的にキリスト教やイスラム教の唯一神や、中国の唯一の存在としての天命といった概念を受け入れなかったということであった。
神仏習合も、全てのものが混沌の中から生まれてきたという宗教観からすれば当然のことだった。天皇家も仏教に帰依してきたのである*41。仏に仕える僧侶も特別の存在ではなかった。龍女と子をなし、吉祥天に惚れた僧侶の話などが伝えられている*42。天皇も一般の人とかけ離れた存在ではなかったので、天皇が地獄に堕ちる話も伝えられていた*43。雨月物語の「白峰」のように天皇が怨霊になった話も語られていた。そこに登場する崇徳天皇は怨霊になっていて西行に諫められるのだ。そんなことから、明治期に創られた「国家神道」*44における天皇も、人間とかけ離れた「主(しゅ)」ではなく「親」とされ、国民は天皇の赤子とされていた。明治維新の指導者を育てた吉田松陰は、「今日の観念では、天子は宮中にあって、実際にはるか雲の上の人となっており、一般の人間とは質的に異なる特別の存在のように心得ているが、このようなことは古道の考え方にはなかったものである」としていたのだ*45。
日本における神の祀り方
「ご先祖さま」という氏神の祀り方(祭り)は、基本的に一族で氏神を招いて酒食を供し、ともに楽しむことだった。そこでは集団の一体感を促すために酒がつきもので、そのような酒席における無礼講は、その場にいる者すべてが日常の社会生活における序列を超えて、一族という「世間」での平等な「主体」であることを確認する場だった。日本人は、そのように集団で氏神を招いて祭りを行うだけでなく、願いをもつ時には氏神に限らず個別に様々な神を呼びだして祈りをした。そういった人間の営みにたいして神は恵みを与えるが、人が神の意向にそむく場合には怒りを沸き立たせて祟ることもあった*46。霊威神である。
そのような日本人の信仰には、経典や布教という概念がなかった*47。多くの日本人が、初詣で神社に行って家族の幸せを願い、クリスマスで子供の幸せを願うというように特定の宗教にこだわらないのも経典の概念がないからと言えよう*48。日本人には無宗教が多いと言われるが*49、それは「宗教」を経典を持つ西欧の宗教の感覚でとらえるからだ。平安末期になって仏教の経典に基づいて末法思想が語られるようになり、法然の専修念仏や日蓮の日蓮宗などが出てきて、日蓮は「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と言って他宗を排斥したが、法然は「七箇条制誡」三条で信徒に他派の教えを謗ることを諫めていた。特定の経典による教えにこだわらない日本人の宗教観からは、その方がしっくりくると言えよう。浄土真宗では弥陀の本願ということで、「無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも救われるとされたが、念仏を唱える人には浄土真宗の教理に興味がないのが普通だ。そもそも「仏教」というのは、明治時代に西欧の宗教観が入ってきてからの言葉で、それまでは「仏道」と呼ばれていた。「神道」と同じように経典にはこだわらず、人々に日々の生き方を教えるものだった。それは、混沌から生まれ、死と再生を繰り返す中で、まっとうな生き方を会得したいという日本人の心情にあった教えだったといえよう。ちなみに、神道には江戸時代の儒家神道まではまともな経典はなかった。儒家神道に対して本居宣長は、中国由来の儒教の教義などにこと寄せて神道を解釈することを強く批判していた*50。
それぞれの氏神を信仰し、人は誰でも悟れるという宗教意識を持つ日本人は、自然な形で他人の信仰にも敬意を払う*51。道端に祠があれば、お参りをするのが日本人だ。「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる(西行法師)」というわけである。一神教のキリスト教やイスラム教では考えられないことだ。山折哲雄氏は、30年ほど前にエルサレムを旅して、ユダヤ教の「嘆きの壁」、キリスト教の「聖墳墓協会」、イスラム教の「岩のドーム」を巡った時に「一神教徒は、自分の宗教の聖地だけにお参りして帰っていく。往復運動です。でも日本人観光客は全部巡る。円運動です。この差は歴然たるものがありました」、「もし一神教徒たちが互いの聖地を巡り歩くようになったら平和が訪れる。そう感じました」*52としている。氏神信仰の日本人ならではの感覚だが、それを西欧人に求めるのは無理といえよう。
日本の慰霊
霊魂が不滅だと考える日本人の慰霊の基本型は常世(とこよ)の世界に行った霊を慰めることで*53、元々お墓はなかった。神社に墓はないのである。ケガレを嫌う神道は、江戸時代の儒家神道までは葬式を行っていなかった。仏教もかつては同じで、法隆寺や薬師寺などの天平時代創建の寺院は葬儀を行っていなかった。ちなみに、チベット仏教(ラマ教)では今日でもお墓がなく、鳥葬が行われている。鳥葬は故人を自然に返す儀式で、それによって人間は生まれ変わるとされているのである。仁徳天皇陵などの皇室の陵も、墓所というよりは神としての歴代天皇を祀る場だったという*54。日本で一般的に葬式が行われるようになったのは鎌倉仏教の時代からで、中国と同様に諱(戒名)を贈る風習が定着していったのだった*55。
かつてのお墓がない中での慰霊は、戦没者や震災被災者の慰霊を考えればイメージがわく。ちなみに、そこでは慰霊される個人の生前の行いを問うようなことは行われない。それは、神主によるお祓いで全ての罪穢れが祓い清められるという神道*56の感覚によるものといえよう。中世の荘園*57での刑罰の本質は、ケガレをなくす「お清め」や「お祓い」だったという。そのために、ケガレた家屋の破却だけでなく、法螺貝を吹いたり護摩で出た神灰をまいたりといったことが行われたという*58。罪もケガレととらえて、「お清め」などで無くなるとされていたのだ。浄土真宗の悪人正機の教えも、その流れの中で自然に理解することが出来よう。
罪が「お清め」などで無くなるという考えは、日本人の「罪を憎んで人を憎まず」という考え方につながっている。それは、日本人が死者を鞭うつ文化を持たないということでもある。本居宣長は、物語の本質には「儒仏にいう善悪にあずからぬものがある」としていた。ただ、そのような文化は日本独特のもので、諸外国では罪を犯した人を憎むのが一般的である。蒋介石が先の日本の敗戦後、「報怨以徳」を唱えたことがよく知られているが、それは老子の言葉で、論語には「以直報怨、以徳報徳(憲問第十四)」とある。儒教では、罪を憎むのが道徳的なのだ。それは、今日の中国の日本人への怨みを晴らすためには何をしても罪に問われることがないという「愛国無罪」の考え方につながっている思想で、儒教を大切にしていた韓国における「恨」の思想にもつながっているものだと言えよう。
霊魂は不滅だと考える日本人の感覚で西欧人に理解しがたいものとして、自死を悪とみなさないことがある。日本人は、人工妊娠中絶や母子心中を悲しむべきことだとはしても、それを悪とはみなさない。自死を物語にした人形浄瑠璃の心中もの(「心中天の網島」)や武士の殉死(切腹)、戦争末期の特攻隊への尊崇などは日本人にはよくわかるが、自死を人間を創造した神との契約に反する悪だと考える欧米人には理解しがたいものなのである。
日本の統治システム
八百万の神が混沌の中から生まれてきたとする日本では、天皇だけでなく山や岩や猪などの動物も神だった*59。古い日本語では、イワはただの石ではなく神様の依る石だった。日本には、それぞれの土地に根ざした神(国津神)がいて地域の豪族がそれをそれぞれに祀っていた。そのような中で、天皇が自らの神(天津神)を祀る行為は、世界を照らす天照大神の子孫として、それぞれの土地の国津神を祀る人々の生活の安寧を祈る行為だった*60。魏志倭人伝に、卑弥呼が「鬼道に仕え」とあるのがその原型と言えよう。そのような天皇の祭祀は、「天」をまつる祭祀が皇帝の支配の正当性を示すものだった中国とは全く異なるもので、支配の正当性を示すものではなかった。そもそも天皇は天孫として「天」と一体だと認識されており*61、自らが統治する主体であるとの正当性を示す必要はなかったからである*62。それで国が治まるシステムになっていたのだ。魏志倭人伝には、魏からの使者が中国では罪人に施される刺青という野蛮な習慣を持ちながら、礼儀正しく、宗教政治で治まっている日本の状況に文化的なショックを受けたとされているのである*63。
支配の正当性を示すものではない天皇の「祭りごと」をする場である大内裏は、中国の王朝や西欧の宮殿のように人々に権威を見せつける場ではないので壮麗である必要はなかった。大内裏は、平安中期には度重なる火災で維持が難しくなり、鎌倉末期には四囲が道路に面する京都の町中に里内裏(さとだいり)として造られ、政務朝議の日などは見物人であふれていたというが*64、それでもいいのが日本の統治システムだったのだ。
天皇の政治的役割と日本の民主制
自らを天と一体だと認識する天皇の統治システムにおける基本的な役割は、臣下が行う統治について「知る」(しろしめす)ことだった*65。「新宗教を問う」を著している島薗進氏は、それは、日本が中央集権的に強く治める体制になりにくいことを意味していたという*66。
平安時代の摂関政治は、天皇が主催する律令制のもとで摂政や関白が天皇から統治を「預かる」ものだったが、戦国時代になると守護大名が、律令制の国を預かって「守護」するものとされた。「天下統一」が目指された安土桃山時代から江戸初期にかけては、中央集権化への試みがなされたが、それも天皇が「知る」という統治の基本的な仕組みから逸脱するものではなかった*67。江戸時代の統治は、神君として神になった家康*68が天皇から「預かった」もので、神君の末裔(大公儀)から諸侯(小公儀)に更に預けられていたのである*69。
天皇から臣下が統治を預かる仕組みは、武家政権の頃から衆議制になっていった。鎌倉幕府の評定衆、中世禅僧の集議、豊臣秀吉の高野山への集儀衆設置の指示*70、江戸の老中制、町村の寄り合いなどである。中世の国一揆や堺の自治も、衆議制の例といえよう。明治維新の「万機公論に決すべし」とした五か条のご誓文も衆議の流れに位置づけられるが、それに先立っては信州上田藩士(赤松小三郎)から普通選挙による議会を国権の最高機関とする憲法構想が幕府などに提出されていたのである*71。それは、日本型の民主制の流れだったと言えるもので、大澤真幸氏によると、戦国時代の日本には英国で発達した西欧の議会制度と類似するものが現れていたという*72。戦国時代、六角氏が制定した「六角氏式目」は、英国のマグナ・カルタに匹敵するものだったという*73。前回、西欧の民主制の成立が、申命記革命の「反復」で可能になったという大澤氏の説を紹介したが、そのような難しいことを言わなくても、日本ではそれなりの民主制が育くまれてきたのである*74。そして、そのような衆議制の発展の背景には、主語を持たず「世間」の中で主体が立ち現れてくる日本語があったというのが、筆者の考えである。すべての主体が「世間」の中で変幻自在に立ち現れてくるならば、そこでの統治は衆議によらざるを得なくなっていくはずだからである。
今日の日本人の宗教観
平安末期から仏教が説くようになった救済は、江戸時代には霊威神に結びついて富士講や稲荷信仰になっていった*75。それを支えていたのが、山伏たちの修験道だった。明治維新期に政府が神仏分離政策の下に修験道廃止を打ち出すと山伏たちの活動が抑えられて富士講や稲荷信仰は衰えていったが、それに代わって生まれてきたのが新たな民間宗教だった*76。黒住教、天理教、金光教などである。江戸時代までの仏教は、死んだ後に極楽浄土に往生するという浄土系の信仰が主流で、禅宗も一般社会の家庭生活や職業生活から離れて修行をする現世離脱的なものだった。それに対して、明治以降に生まれた新宗教は現世肯定的で、家庭生活や職業生活をしながら救われる。この世で幸せになることに救いがあるとした。平安時代の「竹取物語」への回帰と言えよう。現世での救済は、個人レベルにとどまらず大本教のように世直しに取り組むものも現れてきて、中には国家神道と衝突して弾圧を受けるものも出てきた。他方で、石原莞爾や宮沢賢治が所属した国柱会などのように、国家神道や天皇崇敬を取り込むものも出てきた。
国家神道が否定された戦後には、「神々のラッシュアワー」といった状況になり*77、立正佼成会やPL教団、創価学会などが盛んになっていった。そのような新宗教では聖職者と一般信徒との差が小さく、信徒は入信するとすぐに布教者になり、周りに信仰を広めるものが現れてきた。それは、この世での身近な生活がそもそも偉大な救いの境地に通じるという教えから自然に出てきたもので、教団の発展に大きな力になっていった*78。そういった多様な新宗教は、八百万の神の下、霊魂は不滅であると考える日本人にとっての現代版の氏神信仰と言えよう。最近の霊能や神秘的存在との交流を重視するスピリチュアルなものの流行も、そのような日本人の宗教意識の中に位置づけることができよう。そして、そのような宗教意識を支えているのが、主語を持たず、主体が「世間」の中で変幻自在に立ち現れてくる日本語の言語空間だと考えられる。「ほら」が豊富で想像の飛躍がふんだんにみられる日本語の世界では、変幻自在に立ちあらわれて来る主体の中にスピリチュアルなものがあるのは当たり前だからである。
日本人の宗教意識の源流としてのアイヌ文化
最後に、日本人の宗教意識の源流に縄文やアイヌ文化があるのではないかということについて触れておくこととしたい。今日、妖怪や修験道、陰陽道への関心の高まりの中で、沖縄やアイヌの文化、縄文時代の文化の宗教性が高く評価されるようになってきているという。梅原猛氏は、縄文の文化を残しているのがアイヌの文化だ、日本の律令以前の宗教の世界は、アイヌの宗教の世界とかなり近いものではなかったかとしていた。
アイヌ語は、自己の感情を表す言葉が大変に多く、精神内容を多分に持った言葉で相手の気持ちを推し量る言葉があふれているといった点で日本語と共通点が多いという*79。日本語と同様に擬音語や擬態語も多いという。アイヌ語でも古い日本語と同じくイワはただの石ではなくて、神様の依る石だという。そのようなアイヌ語は人称接続詞をとる抱合語*80というもので、日本語にある動詞、助動詞の活用がないといった点が日本語とは異なっているのだが、日本語の原型ではないかともされている。日本語は、弥生時代に大陸から新しい言語が入ってきて変質したというのだ。梅原氏によれば、伊勢神宮の遷宮儀式の基本は酒を振りかけるものだが、アイヌの作法にそっくりだという。アイヌの作法では、お酒を神様にあげて、拍手(かしわで)を打つ。木幣を高々と上げて祈願の文句を添えて左右に力強くパッパッと振り、お酒をヒゲベラというもので一面に散らすようにする。それらは、神主さんの神前でのお祓いの様式そのもので、神道の儀礼はアイヌの儀礼と共通しているのだという*81。梅原氏は、能やお茶やお庭といった日本の伝統文化もアイヌ的礼儀正しさを受けたものではないかとしていた。
アイヌの話はこれくらいにして、次回は、想像の飛躍をはぐくみ、日本型の民主制の基盤となってきた日本語が、明治維新期以降、西欧文明の流入によって揺らいでいる現状について見ていくこととしたい。
*1) 「言語はこうして生まれる一即興する脳とジャスチャーゲーム」モーテン・H・クリスチャンセンとニック・チェイター、新潮社、2022、p306-307
*2) モーテン・H・クリスチャンセンとニック・チェイター、2022,p306
*3) 「なごみ」2024.3,三宅香帆、p76-80
*4) 「なごみ」2024.1,三宅香帆、p84-88
*5) 「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎、2023p167-68
*6) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p73)
*7) 「妄想古典教室」木村朗子、青土社、2021、275-276
*8) 春風亭柳昇「与太郎戦記」、三遊亭圓生「鼠穴」、「芝浜」など。
*9) ユーモアは、二つの離れたもの相反するものを結びつけたりするもので、そのセンスは英国で紳士の最も重要な要素とされている
*10) 安野光雅、藤原正彦、2006、p111―12、118
*11) 「述語制言語の日本語と日本文化」金谷武洋、文化科学高等研究院出版局、2019、pp53-56,96-98
*12) アウグスティヌス『告白』第十一巻第二十章二六、岩波文庫
*13) 中沢新一氏は、数学や物理学の進歩にはレンマ領域での探求が大切だとする(「レンマ学」中沢新一、講談社、2019、p212-273、p286-98)
*14) 「言語の本質」今村むつみ、秋田善美、中公新書、2023,p152。「感情的な日本語」加賀野井秀一、教育評論社、2024、p193-98
*15) 兼好は、私家の歌集も残している(「兼好法師」小川剛生、中公新書、2017、p148-50、182-86)
*16) 中国では一般的に女性は漢字が読めなかったので、日本流の歌の交換による恋愛小説はなかった(「漢字とは何か」岡田英弘、藤原書店、2021、p97)
*17) 冷泉家の和歌の指導は、平安貴族になったつもりでその時代のことを歌にするものだという(アスペン、サロン/阿川尚之「相変わらずの京都」2022.9.01)
*18) 雑誌「青鞜」の発刊(明治44年)の辞に、平塚らいてうが寄せた言葉。天照大神が女性だったことからのもの。
*19) 男性を女性より高い存在とみなす文化は、鎌倉時代に武士が「男が家を継ぐ」のが当たり前とするようになって広がったという(「恋愛結婚の終焉」牛窪恵、光文社新書、2023、p124)。
*20) 「源氏物語の世界」中村真一郎、新潮社、2023、p129
*21) 「明恵 夢を生きる」可合隼雄、京都松柏社、1987、p209。
*22) 「古代における母性と仏教」勝浦令子『季刊日本思想史』22号、ペリカン社、1984、可合隼雄、1987、p218
*23) 「アイヌと古代日本」小学館、江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p360
*24) 飯高宿禰諸高(いいたかのもろたか)
*25) 井上さやか、奈良県立万葉文化館、企画・研究係長の三州俱楽部の講演における話
*26) 「嫉妬と階級の『源氏物語』」大塚ひかり、新潮選書、2023,p69-70、110-11
*27) 牛窪恵、2023、p126
*28) 「小さきものの近代1」渡辺京二、弦書房、2022,p240
*29) 血脈を重視し家の存続を重視しなかった中国では、土地が無限に細分化されて地域に安定した名家が無くなり、人々は常に有力者にすり寄るようになったという(「日本思想史と現在」、渡辺浩、筑摩書房、2024、p146)。
*30) 天皇家は、その例外である。桓武天皇の時代に、中国の影響を受けて父系原理になったとされる(「天皇と葬儀」井上亮、新潮選書、2013、p75)
*31) 「貞永式目」佐藤雄基、p125。中国や韓国は、厳格な父系原理の下、結婚しても姓は変わらず夫婦別姓となっている。男女平等からではなかったのである。
*32) 「土偶と仮面・縄文社会の宗教構造」磯前順一、校倉書房、1994,p117-20
*33) 病気なおし、心なおし、世直しといったことが、最近の新宗教の特徴
*34) 「教養としての神道」、島薗進、東洋経済新報社、2022、p260)
*35) 中村真一郎、2023、p113-14
*36) 木村朗子、2021、p283-84
*37) 「〈つながり〉の精神史」東島誠、講談社現代新書、2012,p17
*38) 「日本精神史 上」長谷川宏、講談社選書メチエ、2023、p74
*39) 磯田道史「文藝春秋(2023.4、p289)」、山折哲雄(長谷川宏、2023、p82)
*40) 江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p418
*41) 「新宗教を問う」島薗進、ちくま新書、2020、p156
*42) 木村朗子、2021,p132,63。「日本霊異記」中巻第13
*43) 木村朗子、2021、p155。「十訓抄」5ノ17、醍醐天皇。
*44) その元になったのは、武士が「勝手に」創り上げた天皇観で、「国体」の言葉を天皇と関連づけたのは、幕末に出された会沢正志斎の「新論」が最初だったという。神武天皇を開国の祖とする神道が出来上がった(井上亮、2013、p218、224)。それは、儒教の影響が大きいもので(島薗進、2022、p268-9)、神仏習合ならぬ神儒習合だったといえよう。
*45) 「講孟余話」吉田松陰、中公クラシックス、p73-74。室町時代に成立した吉田神道以前の神道は、皇室との密接な結びつきはなかった(井上亮、2013、p183)
*46) 「人類精神史:宗教、資本主義」山田仁史、筑摩書房、2022、p206
*47) 日本における仏法の理解・研究は、聖徳太子の「三経義疏」が有名だが、本格的には九世紀初頭の最澄と空海からだとされている(長谷川宏、2023、p93)。
*48) 山折哲雄,「無の宗教」、産経新聞、2022.9.25
*49) NHKの2018の調査では信仰宗教なしが62%
*50) 「日本という方法」松岡正剛、NHKブックス、2020、p198
*51) 「現代フランス哲学」渡名喜庸哲、ちくま新書、2023,p222
*52) 毎日新聞、2024.1.9,7面
*53) 「魏志倭人伝」によると、倭国では死者がでると喪主が号泣し、他の人はその周りで歌を歌い、舞を舞って酒を飲んだという(「古代国家と中世社会」五味文彦、山川出版社、2023、p38)。
*54) 天皇が亡くなると一定期間の殯(もがり)を行い陵に埋葬したが、年月が過ぎると誰のものか分からなくなっていた。古代の古墳はすべて「名無し」だったという(井上亮、2013、p18-24、61)。
*55) 島薗進、2020、p247-61
*56) 神主がミソギで身を清めたり祓いをしたりするのは、日本の神がケガレを嫌うからである。
*57) 荘園は、藤原氏の荘園なら春日神社、武家荘園なら八幡神社、延暦寺の荘園なら日吉(日枝)神社というように、自分たちの氏神を中心に成立していた
*58) 「室町は今日もハードボイルド」清水克行、2023、p220-221、225-228
*59) 御嶽山、磐座(いわくら)、など。
*60) 天津神が国津神の中心にあることを示すために中国にはない神祇官が置かれていた(島薗進、2022、p237)。明治半ばに「神道は祭典の古俗」とした久米邦武は、神道は天を祀る素朴な習俗だとしていた(井上、2013、p256)。
*61) 天皇が天と一体化していることは、天皇に姓がないことによって示されており、天皇は臣下に姓を与えることによって豪族を支配した(「ニッポンの闇」中野信子、デーブ・スペクター、新潮新書、2023、p150)。
*62) 大澤真幸氏は、その帰結として中国の易姓革命の思想が受け入れられず、萬世一系の天皇が続いたとしている(大澤真幸、2016、p69、p70)。
*63) 江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p419。
*64) 小川剛生、2017、p99、105―108。里内裏については、井上亮、2013、p102参照。
*65) それは、天皇が「玉」として、臣下の行う権力争いに利用される可能性のある存在であることも意味していた。源平合戦の際の院宣や幕末の「戊午の密勅」などがその例という(井上亮、2013、p137,192)。「日本史のなぞ」大澤真幸、朝日新聞出版、2016、p132。
*66) 島薗進、2022、p194。日本で封建制が長く続いた背景もそこにあるという。
*67) 徳川家光は、応仁の乱以降中絶していた「伊勢例幣使」の復活を認め、東照宮に朝廷から参議持明院基定を「日光例幣使」として派遣してもらい、天皇が「知る」形を整えた(島薗進、2022、p26)。
*68) 家康は東照大権現(仏が神の姿で現れた)として神になり、東照宮に祭られた
*69) 「『幕府』とは何か」東島誠、NHK出版、2023、p306-308、321
*70) 東島誠、2023、p296-97
*71) 「江戸の憲法構想」関良基、作品社、2024、p65,75,77、92-93
*72) 大澤真幸、2016、p176
*73) 「マグナ・カルタと六角氏式目」水林彪、早稲田法学92巻3号、2017,p242-43
*74) 江戸時代の名主や庄屋は、世襲もあったが多くの場合、町村の寄合で選出されていた(「山縣有朋の挫折」松元崇、日本経済新聞出版社、2011、p35-36)
*75) 島薗進、2020、p175、180。豊川稲荷は仏教系。
*76) 伏見稲荷では、明治維新以降、稲荷信仰集団が万にも近い「御塚」を造った(島薗進、2020、p81、201)
*77) 例えば、すさんだ世の中を明るくする電灯を発明したのはエジソンだという教理の「エジソン教」といったものが生まれた。
*78) 島薗進、2020、p8-9、202、224
*79) 本稿第2回参照
*80) 江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p346。抱合語とされるのは、バスク語やアメリカインディアンの言葉。
*81) 江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p344、346、357、367、420―22。神前に生贄を捧げないのも、アイヌと共通している。大澤真幸氏によると、狩猟採集社会や原始的な焼き畑農業の社会では、生贄を捧げるような供犠は報告されていない(「〈世界史〉の哲学3」講談社文芸文庫、2023.11、p450)。
前回、脳科学者のニック・チェイター教授が「言葉はこうして生まれる」という本の中で、脳にとって大切なのは想像の飛躍だとしていることを紹介した。想像の飛躍がふんだんにみられ、男女の恋愛を歌で行ってきたのが日本語の世界である。そして、その日本語の世界の背景には、八百万(やおろず)の神が混沌の中から誕生してきたという日本人の宗教観があると考えられるのである。
ニック・チェイター教授の話
ニック・チェイター教授によると、「私たちはみな、ほら話に担がれている」「ほら吹きは、自分自身の脳だ。脳という即興のエンジンは驚くほどの性能を誇り、そのときその場で色、物体、記憶、信念、好みを生成し、物語や正当化をすらすらと紡ぎ出す」。「そのほら話のベールは私たちを完全に包みこんでおり、そのようなベールがそこにあることにすら私たちは気づけない。それは、私たちが驚異的なまでに創作力のある臨機応変の推論者、そして創造的な比喩機械であり、散乱した情報の切れ端を溶接して一瞬ごとに整然とした一つの全体を創り出しているという驚くべきことを意味している」*1、「私たちは思考が『そのときその場の』でっち上げだとは思いもしない。前もって形作られた記憶、信念、好き嫌いを内なる深海から自分で釣り上げたのだ。そして意識的思考とはその内なる海のきらめく表面にすぎないのだと思い込まされている。だが、心の深みなるものは作り話にすぎない。自分の脳がその場で創り出している虚構なのだ。前もって形成された信念や欲望や好みや意見などないのであり、記憶さえもが心の底の暗がりに隠れているのではない。心の奥はない。表面がすべてなのだ。つまり脳は、倦むことなき迫真の即興家であり、一瞬また一瞬と心を創り出しているのだ」という*2。
「ほら」が豊富な日本語の世界
「ほら」と言える話が豊富なのが日本語の世界だ。「時をかける少女」という映画があった。私がかつて税務署長をしていた尾道出身の大林亘彦監督の作品だ。主人公は時空を超えて変幻自在に活躍していた。小野小町の歌に、「うたたねに恋しき人をみてしより夢てふものは頼みそめてき」というのがある。夢の通い路で恋しい人に会った、もう一度、会いたいと頼む心情を素直に読んだ歌である。日本人は、夢の通い路で、遠くの人や過去の人、さらには未来の人とも会ってきた。平安時代後期の「とりかえばや物語」は、夢を通して他人と入れ替わる話である。「浜松中納言物語」では、亡き父が中国で転生して皇太子になっており、その父の母が日本でまた転生するという物語だ*3。平安時代後期から鎌倉時代初期に書かれたとされる「有明の別れ」では、隠れ蓑を使って透明人間になった姫が、男装をして活躍する*4。信貴山縁起や草双紙には、想像の飛躍そのものとも言える様々な物語が展開されている*5。そのような平安期の日本文学は、同時代の全欧州を圧倒していたという*6。室町時代に入っても、夢であった人と結ばれる恋の物語の「転寝(うたたね)草子」などが創作された*7。室町時代に成立した狂言には、ウソがばれて可笑しいものが多い。そして「ほら」を尊重する文化に磨きがかかっていったのが江戸時代だ。多くの庶民に楽しまれた落語には、現実の苦しさをウソでくるみながらウソを楽しむものが多い*8。掛け合いで成り立つ落語は、「ほら」を楽しむところからのユーモアのセンス*9を鍛えあげていった。ユーモアの神髄は意外性だとされているが、それは想像の飛躍そのものといえよう*10。
日本語に、過去や未来といった時制がないのも、想像の飛躍が豊富な日本語の特性からのものと考えることが出来る。時制にとらわれていては「ほら」の世界は成り立たないからだ。「わかった人は手を挙げて」「行く人は手を挙げて」というのは、過去と現在と未来がまじりあった表現である*11。それに対して過去形や未来形を持つ西欧の言語では、過去や未来を現在に引き付けて認識してきた。アウグスティヌスは、過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直覚であり、未来のものの現在は期待であるとしていた*12。そのような認識からは、時空を超えての想像の飛躍はかなり制約されてしまうと言えよう。
想像の飛躍が豊富な日本語は、論理(ロゴス)による認識だけでなく、直観(レンマ)による認識も尊重する言語だ*13。直観による認識とは、論理を超えた事物まるごとの認識である。日本の習い事では、弓道、茶道、華道のように説明なしに型から入るものが多い。仏教(仏道)も、祈祷、念仏、禅というように型から入るものが多い。型は論理ではない。雰囲気、位、品格をとらえるもので、能面や茶道具でも、それらをとらえた写しが尊ばれる。型は、主語のない日本語における変幻自在に立ち現れる「世間」だと考えることが出来よう。英語のオノマトペが声と音だけなのに対して、日本語のオノマトペが、声、音だけでなく動き、形、手触り、身体感覚、感情と幅広い守備範囲になっているのも、直観(レンマ)による認識を尊重する日本語ならではのことと言えよう*14。
男女の恋愛を歌によって行なってきた日本人
想像の飛躍が豊富な日本語の世界で、古くから発達してきたのが「やまと歌」(和歌)である。古今和歌集の仮名序には、「やまと歌」は「天地の開け始まりける時より出で来にけり」とされている。混とんの中から多様な神々が生まれてきて、男女の神の掛け合いから「国生み」が行われたとされる日本では、男女の恋愛が「やまと歌」によって行われてきた。異性への呼びかけが、貴賤を問わずに歌で行われてきたのだ。恋愛は想像の飛躍なくしては生まれない人間の行いといえよう。それを歌にして、しかもその恋愛の歌を柱にして文学が高度に発達してきたというのは、日本以外では見られないことだった。
平安時代の貴族の恋愛は、相手の顔を見ることもない中で、先ずは相手を思う和歌の交換から始まった。NHK大河ドラマ「光る君へ」では、若き日の紫式部が恋文の代書をしているシーンが登場していたが、平安時代には懸想文売りがいた。徒然草の作者、兼好法師も恋文(艶書)の代書をしていたという*15。14世紀には、艶書の文例集(「思露(おもいのつゆ)」)が編纂されている*16。「やまと歌」で恋愛をした日本人は、恋愛以外の場でも限られた文字空間での感情表現に様々な工夫を行い、その伝統が代々受け継がれてきた*17。枕詞(まくらことば)や歌枕、掛詞(かけことば)、更には本歌取りである。「徒然草」の冒頭、「日暮硯に向かいつつ」とあるのは、源氏物語宇治十帖に登場する浮舟(うきふね)が、光源氏の次男の薫(かおる)と孫の匂宮(におうのみや)との間の三角関係で苦悩した末に出家した後の模様の描写からとられたとされている。平安貴族の文化が、京都でその文化に触れた鎌倉武士にも受け継がれていたのである。
感情表現の工夫は、時代が下がって連歌や俳句が詠まれるようになると、調子を整えて様々なイメージを浮き出させる「や、かな、けり、なり、ぞ、がも」等の「切れ字」が多く使用されるようになっていった。歌枕は、文学の世界を超えて様々な工芸品の意匠にも使われて日常生活を彩っていった。
日本における女性の位置づけ
恋愛の話が出たところで日本語における女性の位置づけについてみておくこととしたい。平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」*18が有名だが、大和言葉には「妹背(いもせ)」「女夫(みょうと)」「母父(おもちち)」のように女性のほうが先のものがあった。日本には、本来、女性を男性よりも低い存在とみなす文化はなかった*19。それは、男のあばら骨から女が造られたという旧約聖書の世界とは全く異なる文化だった。文芸評論家の中村真一郎氏は、「枕草子」の中に描かれている当時の貴族社会における男女交際が、「なんと明るく自由で、そうして対等であることか」としている*20。仏教が日本に渡来してきたときに最初に出家したのも女性だった。司馬達等(たっと)の娘、嶋が出家して善信尼と名乗ったのだ*21。その背景には、古来からある地母神的な母性崇拝があったとされている*22。ちなみに、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)から神武天皇までの3代の天皇家の夫人は土地の娘で、意識においては父方だが血統は母方が多かったという*23。中国から官僚制が導入されても、女性にも内命婦(ないのみょうぶ)という日本独特の官制が設けられた。実際に、十三位(次官級)にまで出世した女性もいて*24、その仕組みは平安時代まで続いていたのだった。
飛鳥時代には女性の財産権が強く、通い婚の仕組みの下、婚姻を認めるのは母親だったという。男は、認められるために和歌の道に励んだのだ*25。平安時代には、結婚して夫の家に入った場合にも夫に他の女が出来ると実家に帰るのが普通だった*26。安土桃山時代に日本に来た宣教師のルイス・フロイスは、日本ではしばしば妻が夫を離別する、女性は純潔を重んじないと驚いていた*27。江戸時代は、何度か結婚してみて互いに気に入ったところで落ち着くというのが常識で、離婚率は非常に高かったという。女性が離婚する際に「三下り半」を渡されたことが、女性の地位が低かったことの証拠のように思われているが違うという。子は家のものとされていたので、女は子を連れずに家を出るが、その際にもらうのが「三下り半」で、それは女性がすぐに再婚できるための再婚許可状だったというのだ*28。ちなみに、子が家のものとされたのは、先祖のお祀りを行うためだが、それは中国や韓国のように厳格な父系原理の下での血脈を絶対とする考え方*29からのものではなかった。すべては混沌の中から生まれてきたと考える日本人にとって、先祖のお祀りは必ずしも血のつながった子供でなければならないものではなく*30、男の子供がいないと簡単に養子縁組をして先祖の祭りをしてもらった。女性が「嫁入り」すると夫の「家」の名字を名乗ったが、男性も婿養子になると妻の「家」の名字を名乗ったのだった*31。
日本人の伝統的な宗教観
想像の飛躍が豊富な日本語の背景にあるのが、霊魂は不滅で輪廻転生するとの日本人の宗教観である。人が輪廻転生するとなると、過去のご先祖さまや未来の子孫に時空を超えて変幻自在に会うことも当然ということになる。土偶の埋納方式からして、日本人は縄文時代から死と再生を信じてきたとされている*32。日本人が終末論を持たず、現世救済の意識が強いのも、そのような宗教観からのものと言えよう*33。ちなみに、終末論とは、この世の終末における最後の審判での人間の選別・救済を説く教えで、創造主を想定する一神教では一般的なものである*34。ちなみに、万物が混沌の中から生まれてきたとして霊魂の不滅を信じる日本人の宗教観には、本来、何とも言えない明るさ朗らかさがある。それは「竹取物語」によく表れているという。「竹取物語」で、もっとも端的に日本的なのは、最後に帝(みかど)がかぐや姫が残していった不死の薬を富士山で燃やしてしまう結末だという。不老不死を求める中国ではおよそ考えられない結末だ。日本人にとっては現世での不死に対する執拗な願望よりも、輪廻転生の中で今与えられている現世を明るく生きようという方が居心地よく感じられるのだ*35。
終末論を持たなかったことは、死後の救済を説く仏教が入ってくると、祖先も含めて総てのものが救われるという教えにつながっていった。草木国土悉皆成仏である。空海が伝えた真言密教の理趣経は、そもそも人間は生まれつき汚れた存在ではないという「自性清浄」を説いていた*36。天台宗の本覚思想は、人は誰でも悟れるとしていた。無縁という言葉は、「身寄りのない」ことだと思われているが、仏教における本来の含意は「特定の縁につながらない」ということで、「法界無縁」とは、仏の慈悲が全宇宙の一切の衆生に対して向けられていることを意味している。「無縁一切精霊」「三界万霊」も同様で、全てのものが仏の救済の対象になるという意味なのだ*37。
日本における神仏
そのような日本人の宗教観は、八百万の神も人も混沌の中から生まれてきたという神話からのものだと考えられる。優れた人間は神になり*38、恨みを持つ人間は鬼になるのが日本だ。大手町にある平将門神社を見ればわかることだ。世界的にみると、古代の多神教的な神々や氏神信仰はほとんど滅びている。特に一神教が入ったところでは、そうなっているのだが、八百万の神がおり、優れていれば人間も神になるとされる日本ではそれぞれが自分たちの祖霊である氏神(鎮守の神)を信仰し続けてきた。磯田道史氏は、そもそも「仏さま」と言って日本人が信仰してきたのも、基本的に「ご先祖さま」という氏神様だったという*39。日本に仏教が入ってきた時、宗教で大切とされる仏教の礼体系が伝えられなかったが、それは日本に早くから氏神を信仰する別の礼体系があったからだとされている*40。それは日本人が、一般的にキリスト教やイスラム教の唯一神や、中国の唯一の存在としての天命といった概念を受け入れなかったということであった。
神仏習合も、全てのものが混沌の中から生まれてきたという宗教観からすれば当然のことだった。天皇家も仏教に帰依してきたのである*41。仏に仕える僧侶も特別の存在ではなかった。龍女と子をなし、吉祥天に惚れた僧侶の話などが伝えられている*42。天皇も一般の人とかけ離れた存在ではなかったので、天皇が地獄に堕ちる話も伝えられていた*43。雨月物語の「白峰」のように天皇が怨霊になった話も語られていた。そこに登場する崇徳天皇は怨霊になっていて西行に諫められるのだ。そんなことから、明治期に創られた「国家神道」*44における天皇も、人間とかけ離れた「主(しゅ)」ではなく「親」とされ、国民は天皇の赤子とされていた。明治維新の指導者を育てた吉田松陰は、「今日の観念では、天子は宮中にあって、実際にはるか雲の上の人となっており、一般の人間とは質的に異なる特別の存在のように心得ているが、このようなことは古道の考え方にはなかったものである」としていたのだ*45。
日本における神の祀り方
「ご先祖さま」という氏神の祀り方(祭り)は、基本的に一族で氏神を招いて酒食を供し、ともに楽しむことだった。そこでは集団の一体感を促すために酒がつきもので、そのような酒席における無礼講は、その場にいる者すべてが日常の社会生活における序列を超えて、一族という「世間」での平等な「主体」であることを確認する場だった。日本人は、そのように集団で氏神を招いて祭りを行うだけでなく、願いをもつ時には氏神に限らず個別に様々な神を呼びだして祈りをした。そういった人間の営みにたいして神は恵みを与えるが、人が神の意向にそむく場合には怒りを沸き立たせて祟ることもあった*46。霊威神である。
そのような日本人の信仰には、経典や布教という概念がなかった*47。多くの日本人が、初詣で神社に行って家族の幸せを願い、クリスマスで子供の幸せを願うというように特定の宗教にこだわらないのも経典の概念がないからと言えよう*48。日本人には無宗教が多いと言われるが*49、それは「宗教」を経典を持つ西欧の宗教の感覚でとらえるからだ。平安末期になって仏教の経典に基づいて末法思想が語られるようになり、法然の専修念仏や日蓮の日蓮宗などが出てきて、日蓮は「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と言って他宗を排斥したが、法然は「七箇条制誡」三条で信徒に他派の教えを謗ることを諫めていた。特定の経典による教えにこだわらない日本人の宗教観からは、その方がしっくりくると言えよう。浄土真宗では弥陀の本願ということで、「無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも救われるとされたが、念仏を唱える人には浄土真宗の教理に興味がないのが普通だ。そもそも「仏教」というのは、明治時代に西欧の宗教観が入ってきてからの言葉で、それまでは「仏道」と呼ばれていた。「神道」と同じように経典にはこだわらず、人々に日々の生き方を教えるものだった。それは、混沌から生まれ、死と再生を繰り返す中で、まっとうな生き方を会得したいという日本人の心情にあった教えだったといえよう。ちなみに、神道には江戸時代の儒家神道まではまともな経典はなかった。儒家神道に対して本居宣長は、中国由来の儒教の教義などにこと寄せて神道を解釈することを強く批判していた*50。
それぞれの氏神を信仰し、人は誰でも悟れるという宗教意識を持つ日本人は、自然な形で他人の信仰にも敬意を払う*51。道端に祠があれば、お参りをするのが日本人だ。「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる(西行法師)」というわけである。一神教のキリスト教やイスラム教では考えられないことだ。山折哲雄氏は、30年ほど前にエルサレムを旅して、ユダヤ教の「嘆きの壁」、キリスト教の「聖墳墓協会」、イスラム教の「岩のドーム」を巡った時に「一神教徒は、自分の宗教の聖地だけにお参りして帰っていく。往復運動です。でも日本人観光客は全部巡る。円運動です。この差は歴然たるものがありました」、「もし一神教徒たちが互いの聖地を巡り歩くようになったら平和が訪れる。そう感じました」*52としている。氏神信仰の日本人ならではの感覚だが、それを西欧人に求めるのは無理といえよう。
日本の慰霊
霊魂が不滅だと考える日本人の慰霊の基本型は常世(とこよ)の世界に行った霊を慰めることで*53、元々お墓はなかった。神社に墓はないのである。ケガレを嫌う神道は、江戸時代の儒家神道までは葬式を行っていなかった。仏教もかつては同じで、法隆寺や薬師寺などの天平時代創建の寺院は葬儀を行っていなかった。ちなみに、チベット仏教(ラマ教)では今日でもお墓がなく、鳥葬が行われている。鳥葬は故人を自然に返す儀式で、それによって人間は生まれ変わるとされているのである。仁徳天皇陵などの皇室の陵も、墓所というよりは神としての歴代天皇を祀る場だったという*54。日本で一般的に葬式が行われるようになったのは鎌倉仏教の時代からで、中国と同様に諱(戒名)を贈る風習が定着していったのだった*55。
かつてのお墓がない中での慰霊は、戦没者や震災被災者の慰霊を考えればイメージがわく。ちなみに、そこでは慰霊される個人の生前の行いを問うようなことは行われない。それは、神主によるお祓いで全ての罪穢れが祓い清められるという神道*56の感覚によるものといえよう。中世の荘園*57での刑罰の本質は、ケガレをなくす「お清め」や「お祓い」だったという。そのために、ケガレた家屋の破却だけでなく、法螺貝を吹いたり護摩で出た神灰をまいたりといったことが行われたという*58。罪もケガレととらえて、「お清め」などで無くなるとされていたのだ。浄土真宗の悪人正機の教えも、その流れの中で自然に理解することが出来よう。
罪が「お清め」などで無くなるという考えは、日本人の「罪を憎んで人を憎まず」という考え方につながっている。それは、日本人が死者を鞭うつ文化を持たないということでもある。本居宣長は、物語の本質には「儒仏にいう善悪にあずからぬものがある」としていた。ただ、そのような文化は日本独特のもので、諸外国では罪を犯した人を憎むのが一般的である。蒋介石が先の日本の敗戦後、「報怨以徳」を唱えたことがよく知られているが、それは老子の言葉で、論語には「以直報怨、以徳報徳(憲問第十四)」とある。儒教では、罪を憎むのが道徳的なのだ。それは、今日の中国の日本人への怨みを晴らすためには何をしても罪に問われることがないという「愛国無罪」の考え方につながっている思想で、儒教を大切にしていた韓国における「恨」の思想にもつながっているものだと言えよう。
霊魂は不滅だと考える日本人の感覚で西欧人に理解しがたいものとして、自死を悪とみなさないことがある。日本人は、人工妊娠中絶や母子心中を悲しむべきことだとはしても、それを悪とはみなさない。自死を物語にした人形浄瑠璃の心中もの(「心中天の網島」)や武士の殉死(切腹)、戦争末期の特攻隊への尊崇などは日本人にはよくわかるが、自死を人間を創造した神との契約に反する悪だと考える欧米人には理解しがたいものなのである。
日本の統治システム
八百万の神が混沌の中から生まれてきたとする日本では、天皇だけでなく山や岩や猪などの動物も神だった*59。古い日本語では、イワはただの石ではなく神様の依る石だった。日本には、それぞれの土地に根ざした神(国津神)がいて地域の豪族がそれをそれぞれに祀っていた。そのような中で、天皇が自らの神(天津神)を祀る行為は、世界を照らす天照大神の子孫として、それぞれの土地の国津神を祀る人々の生活の安寧を祈る行為だった*60。魏志倭人伝に、卑弥呼が「鬼道に仕え」とあるのがその原型と言えよう。そのような天皇の祭祀は、「天」をまつる祭祀が皇帝の支配の正当性を示すものだった中国とは全く異なるもので、支配の正当性を示すものではなかった。そもそも天皇は天孫として「天」と一体だと認識されており*61、自らが統治する主体であるとの正当性を示す必要はなかったからである*62。それで国が治まるシステムになっていたのだ。魏志倭人伝には、魏からの使者が中国では罪人に施される刺青という野蛮な習慣を持ちながら、礼儀正しく、宗教政治で治まっている日本の状況に文化的なショックを受けたとされているのである*63。
支配の正当性を示すものではない天皇の「祭りごと」をする場である大内裏は、中国の王朝や西欧の宮殿のように人々に権威を見せつける場ではないので壮麗である必要はなかった。大内裏は、平安中期には度重なる火災で維持が難しくなり、鎌倉末期には四囲が道路に面する京都の町中に里内裏(さとだいり)として造られ、政務朝議の日などは見物人であふれていたというが*64、それでもいいのが日本の統治システムだったのだ。
天皇の政治的役割と日本の民主制
自らを天と一体だと認識する天皇の統治システムにおける基本的な役割は、臣下が行う統治について「知る」(しろしめす)ことだった*65。「新宗教を問う」を著している島薗進氏は、それは、日本が中央集権的に強く治める体制になりにくいことを意味していたという*66。
平安時代の摂関政治は、天皇が主催する律令制のもとで摂政や関白が天皇から統治を「預かる」ものだったが、戦国時代になると守護大名が、律令制の国を預かって「守護」するものとされた。「天下統一」が目指された安土桃山時代から江戸初期にかけては、中央集権化への試みがなされたが、それも天皇が「知る」という統治の基本的な仕組みから逸脱するものではなかった*67。江戸時代の統治は、神君として神になった家康*68が天皇から「預かった」もので、神君の末裔(大公儀)から諸侯(小公儀)に更に預けられていたのである*69。
天皇から臣下が統治を預かる仕組みは、武家政権の頃から衆議制になっていった。鎌倉幕府の評定衆、中世禅僧の集議、豊臣秀吉の高野山への集儀衆設置の指示*70、江戸の老中制、町村の寄り合いなどである。中世の国一揆や堺の自治も、衆議制の例といえよう。明治維新の「万機公論に決すべし」とした五か条のご誓文も衆議の流れに位置づけられるが、それに先立っては信州上田藩士(赤松小三郎)から普通選挙による議会を国権の最高機関とする憲法構想が幕府などに提出されていたのである*71。それは、日本型の民主制の流れだったと言えるもので、大澤真幸氏によると、戦国時代の日本には英国で発達した西欧の議会制度と類似するものが現れていたという*72。戦国時代、六角氏が制定した「六角氏式目」は、英国のマグナ・カルタに匹敵するものだったという*73。前回、西欧の民主制の成立が、申命記革命の「反復」で可能になったという大澤氏の説を紹介したが、そのような難しいことを言わなくても、日本ではそれなりの民主制が育くまれてきたのである*74。そして、そのような衆議制の発展の背景には、主語を持たず「世間」の中で主体が立ち現れてくる日本語があったというのが、筆者の考えである。すべての主体が「世間」の中で変幻自在に立ち現れてくるならば、そこでの統治は衆議によらざるを得なくなっていくはずだからである。
今日の日本人の宗教観
平安末期から仏教が説くようになった救済は、江戸時代には霊威神に結びついて富士講や稲荷信仰になっていった*75。それを支えていたのが、山伏たちの修験道だった。明治維新期に政府が神仏分離政策の下に修験道廃止を打ち出すと山伏たちの活動が抑えられて富士講や稲荷信仰は衰えていったが、それに代わって生まれてきたのが新たな民間宗教だった*76。黒住教、天理教、金光教などである。江戸時代までの仏教は、死んだ後に極楽浄土に往生するという浄土系の信仰が主流で、禅宗も一般社会の家庭生活や職業生活から離れて修行をする現世離脱的なものだった。それに対して、明治以降に生まれた新宗教は現世肯定的で、家庭生活や職業生活をしながら救われる。この世で幸せになることに救いがあるとした。平安時代の「竹取物語」への回帰と言えよう。現世での救済は、個人レベルにとどまらず大本教のように世直しに取り組むものも現れてきて、中には国家神道と衝突して弾圧を受けるものも出てきた。他方で、石原莞爾や宮沢賢治が所属した国柱会などのように、国家神道や天皇崇敬を取り込むものも出てきた。
国家神道が否定された戦後には、「神々のラッシュアワー」といった状況になり*77、立正佼成会やPL教団、創価学会などが盛んになっていった。そのような新宗教では聖職者と一般信徒との差が小さく、信徒は入信するとすぐに布教者になり、周りに信仰を広めるものが現れてきた。それは、この世での身近な生活がそもそも偉大な救いの境地に通じるという教えから自然に出てきたもので、教団の発展に大きな力になっていった*78。そういった多様な新宗教は、八百万の神の下、霊魂は不滅であると考える日本人にとっての現代版の氏神信仰と言えよう。最近の霊能や神秘的存在との交流を重視するスピリチュアルなものの流行も、そのような日本人の宗教意識の中に位置づけることができよう。そして、そのような宗教意識を支えているのが、主語を持たず、主体が「世間」の中で変幻自在に立ち現れてくる日本語の言語空間だと考えられる。「ほら」が豊富で想像の飛躍がふんだんにみられる日本語の世界では、変幻自在に立ちあらわれて来る主体の中にスピリチュアルなものがあるのは当たり前だからである。
日本人の宗教意識の源流としてのアイヌ文化
最後に、日本人の宗教意識の源流に縄文やアイヌ文化があるのではないかということについて触れておくこととしたい。今日、妖怪や修験道、陰陽道への関心の高まりの中で、沖縄やアイヌの文化、縄文時代の文化の宗教性が高く評価されるようになってきているという。梅原猛氏は、縄文の文化を残しているのがアイヌの文化だ、日本の律令以前の宗教の世界は、アイヌの宗教の世界とかなり近いものではなかったかとしていた。
アイヌ語は、自己の感情を表す言葉が大変に多く、精神内容を多分に持った言葉で相手の気持ちを推し量る言葉があふれているといった点で日本語と共通点が多いという*79。日本語と同様に擬音語や擬態語も多いという。アイヌ語でも古い日本語と同じくイワはただの石ではなくて、神様の依る石だという。そのようなアイヌ語は人称接続詞をとる抱合語*80というもので、日本語にある動詞、助動詞の活用がないといった点が日本語とは異なっているのだが、日本語の原型ではないかともされている。日本語は、弥生時代に大陸から新しい言語が入ってきて変質したというのだ。梅原氏によれば、伊勢神宮の遷宮儀式の基本は酒を振りかけるものだが、アイヌの作法にそっくりだという。アイヌの作法では、お酒を神様にあげて、拍手(かしわで)を打つ。木幣を高々と上げて祈願の文句を添えて左右に力強くパッパッと振り、お酒をヒゲベラというもので一面に散らすようにする。それらは、神主さんの神前でのお祓いの様式そのもので、神道の儀礼はアイヌの儀礼と共通しているのだという*81。梅原氏は、能やお茶やお庭といった日本の伝統文化もアイヌ的礼儀正しさを受けたものではないかとしていた。
アイヌの話はこれくらいにして、次回は、想像の飛躍をはぐくみ、日本型の民主制の基盤となってきた日本語が、明治維新期以降、西欧文明の流入によって揺らいでいる現状について見ていくこととしたい。
*1) 「言語はこうして生まれる一即興する脳とジャスチャーゲーム」モーテン・H・クリスチャンセンとニック・チェイター、新潮社、2022、p306-307
*2) モーテン・H・クリスチャンセンとニック・チェイター、2022,p306
*3) 「なごみ」2024.3,三宅香帆、p76-80
*4) 「なごみ」2024.1,三宅香帆、p84-88
*5) 「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎、2023p167-68
*6) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p73)
*7) 「妄想古典教室」木村朗子、青土社、2021、275-276
*8) 春風亭柳昇「与太郎戦記」、三遊亭圓生「鼠穴」、「芝浜」など。
*9) ユーモアは、二つの離れたもの相反するものを結びつけたりするもので、そのセンスは英国で紳士の最も重要な要素とされている
*10) 安野光雅、藤原正彦、2006、p111―12、118
*11) 「述語制言語の日本語と日本文化」金谷武洋、文化科学高等研究院出版局、2019、pp53-56,96-98
*12) アウグスティヌス『告白』第十一巻第二十章二六、岩波文庫
*13) 中沢新一氏は、数学や物理学の進歩にはレンマ領域での探求が大切だとする(「レンマ学」中沢新一、講談社、2019、p212-273、p286-98)
*14) 「言語の本質」今村むつみ、秋田善美、中公新書、2023,p152。「感情的な日本語」加賀野井秀一、教育評論社、2024、p193-98
*15) 兼好は、私家の歌集も残している(「兼好法師」小川剛生、中公新書、2017、p148-50、182-86)
*16) 中国では一般的に女性は漢字が読めなかったので、日本流の歌の交換による恋愛小説はなかった(「漢字とは何か」岡田英弘、藤原書店、2021、p97)
*17) 冷泉家の和歌の指導は、平安貴族になったつもりでその時代のことを歌にするものだという(アスペン、サロン/阿川尚之「相変わらずの京都」2022.9.01)
*18) 雑誌「青鞜」の発刊(明治44年)の辞に、平塚らいてうが寄せた言葉。天照大神が女性だったことからのもの。
*19) 男性を女性より高い存在とみなす文化は、鎌倉時代に武士が「男が家を継ぐ」のが当たり前とするようになって広がったという(「恋愛結婚の終焉」牛窪恵、光文社新書、2023、p124)。
*20) 「源氏物語の世界」中村真一郎、新潮社、2023、p129
*21) 「明恵 夢を生きる」可合隼雄、京都松柏社、1987、p209。
*22) 「古代における母性と仏教」勝浦令子『季刊日本思想史』22号、ペリカン社、1984、可合隼雄、1987、p218
*23) 「アイヌと古代日本」小学館、江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p360
*24) 飯高宿禰諸高(いいたかのもろたか)
*25) 井上さやか、奈良県立万葉文化館、企画・研究係長の三州俱楽部の講演における話
*26) 「嫉妬と階級の『源氏物語』」大塚ひかり、新潮選書、2023,p69-70、110-11
*27) 牛窪恵、2023、p126
*28) 「小さきものの近代1」渡辺京二、弦書房、2022,p240
*29) 血脈を重視し家の存続を重視しなかった中国では、土地が無限に細分化されて地域に安定した名家が無くなり、人々は常に有力者にすり寄るようになったという(「日本思想史と現在」、渡辺浩、筑摩書房、2024、p146)。
*30) 天皇家は、その例外である。桓武天皇の時代に、中国の影響を受けて父系原理になったとされる(「天皇と葬儀」井上亮、新潮選書、2013、p75)
*31) 「貞永式目」佐藤雄基、p125。中国や韓国は、厳格な父系原理の下、結婚しても姓は変わらず夫婦別姓となっている。男女平等からではなかったのである。
*32) 「土偶と仮面・縄文社会の宗教構造」磯前順一、校倉書房、1994,p117-20
*33) 病気なおし、心なおし、世直しといったことが、最近の新宗教の特徴
*34) 「教養としての神道」、島薗進、東洋経済新報社、2022、p260)
*35) 中村真一郎、2023、p113-14
*36) 木村朗子、2021、p283-84
*37) 「〈つながり〉の精神史」東島誠、講談社現代新書、2012,p17
*38) 「日本精神史 上」長谷川宏、講談社選書メチエ、2023、p74
*39) 磯田道史「文藝春秋(2023.4、p289)」、山折哲雄(長谷川宏、2023、p82)
*40) 江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p418
*41) 「新宗教を問う」島薗進、ちくま新書、2020、p156
*42) 木村朗子、2021,p132,63。「日本霊異記」中巻第13
*43) 木村朗子、2021、p155。「十訓抄」5ノ17、醍醐天皇。
*44) その元になったのは、武士が「勝手に」創り上げた天皇観で、「国体」の言葉を天皇と関連づけたのは、幕末に出された会沢正志斎の「新論」が最初だったという。神武天皇を開国の祖とする神道が出来上がった(井上亮、2013、p218、224)。それは、儒教の影響が大きいもので(島薗進、2022、p268-9)、神仏習合ならぬ神儒習合だったといえよう。
*45) 「講孟余話」吉田松陰、中公クラシックス、p73-74。室町時代に成立した吉田神道以前の神道は、皇室との密接な結びつきはなかった(井上亮、2013、p183)
*46) 「人類精神史:宗教、資本主義」山田仁史、筑摩書房、2022、p206
*47) 日本における仏法の理解・研究は、聖徳太子の「三経義疏」が有名だが、本格的には九世紀初頭の最澄と空海からだとされている(長谷川宏、2023、p93)。
*48) 山折哲雄,「無の宗教」、産経新聞、2022.9.25
*49) NHKの2018の調査では信仰宗教なしが62%
*50) 「日本という方法」松岡正剛、NHKブックス、2020、p198
*51) 「現代フランス哲学」渡名喜庸哲、ちくま新書、2023,p222
*52) 毎日新聞、2024.1.9,7面
*53) 「魏志倭人伝」によると、倭国では死者がでると喪主が号泣し、他の人はその周りで歌を歌い、舞を舞って酒を飲んだという(「古代国家と中世社会」五味文彦、山川出版社、2023、p38)。
*54) 天皇が亡くなると一定期間の殯(もがり)を行い陵に埋葬したが、年月が過ぎると誰のものか分からなくなっていた。古代の古墳はすべて「名無し」だったという(井上亮、2013、p18-24、61)。
*55) 島薗進、2020、p247-61
*56) 神主がミソギで身を清めたり祓いをしたりするのは、日本の神がケガレを嫌うからである。
*57) 荘園は、藤原氏の荘園なら春日神社、武家荘園なら八幡神社、延暦寺の荘園なら日吉(日枝)神社というように、自分たちの氏神を中心に成立していた
*58) 「室町は今日もハードボイルド」清水克行、2023、p220-221、225-228
*59) 御嶽山、磐座(いわくら)、など。
*60) 天津神が国津神の中心にあることを示すために中国にはない神祇官が置かれていた(島薗進、2022、p237)。明治半ばに「神道は祭典の古俗」とした久米邦武は、神道は天を祀る素朴な習俗だとしていた(井上、2013、p256)。
*61) 天皇が天と一体化していることは、天皇に姓がないことによって示されており、天皇は臣下に姓を与えることによって豪族を支配した(「ニッポンの闇」中野信子、デーブ・スペクター、新潮新書、2023、p150)。
*62) 大澤真幸氏は、その帰結として中国の易姓革命の思想が受け入れられず、萬世一系の天皇が続いたとしている(大澤真幸、2016、p69、p70)。
*63) 江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p419。
*64) 小川剛生、2017、p99、105―108。里内裏については、井上亮、2013、p102参照。
*65) それは、天皇が「玉」として、臣下の行う権力争いに利用される可能性のある存在であることも意味していた。源平合戦の際の院宣や幕末の「戊午の密勅」などがその例という(井上亮、2013、p137,192)。「日本史のなぞ」大澤真幸、朝日新聞出版、2016、p132。
*66) 島薗進、2022、p194。日本で封建制が長く続いた背景もそこにあるという。
*67) 徳川家光は、応仁の乱以降中絶していた「伊勢例幣使」の復活を認め、東照宮に朝廷から参議持明院基定を「日光例幣使」として派遣してもらい、天皇が「知る」形を整えた(島薗進、2022、p26)。
*68) 家康は東照大権現(仏が神の姿で現れた)として神になり、東照宮に祭られた
*69) 「『幕府』とは何か」東島誠、NHK出版、2023、p306-308、321
*70) 東島誠、2023、p296-97
*71) 「江戸の憲法構想」関良基、作品社、2024、p65,75,77、92-93
*72) 大澤真幸、2016、p176
*73) 「マグナ・カルタと六角氏式目」水林彪、早稲田法学92巻3号、2017,p242-43
*74) 江戸時代の名主や庄屋は、世襲もあったが多くの場合、町村の寄合で選出されていた(「山縣有朋の挫折」松元崇、日本経済新聞出版社、2011、p35-36)
*75) 島薗進、2020、p175、180。豊川稲荷は仏教系。
*76) 伏見稲荷では、明治維新以降、稲荷信仰集団が万にも近い「御塚」を造った(島薗進、2020、p81、201)
*77) 例えば、すさんだ世の中を明るくする電灯を発明したのはエジソンだという教理の「エジソン教」といったものが生まれた。
*78) 島薗進、2020、p8-9、202、224
*79) 本稿第2回参照
*80) 江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p346。抱合語とされるのは、バスク語やアメリカインディアンの言葉。
*81) 江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p344、346、357、367、420―22。神前に生贄を捧げないのも、アイヌと共通している。大澤真幸氏によると、狩猟採集社会や原始的な焼き畑農業の社会では、生贄を捧げるような供犠は報告されていない(「〈世界史〉の哲学3」講談社文芸文庫、2023.11、p450)。