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黒田東彦前日銀総裁、東京大学講演「財政金融政策に関する私の経験」(前編)

東京大学 服部 孝洋

 2024年7月10日に、東京大学公共政策大学院において黒田東彦前日銀総裁(第31代総裁)が「財政金融政策に関する私の経験」をテーマにご講演されました。当日は、400名を超える学生や教職員にご参加いただきました。公共政策を学ぶ学生にとって大変刺激となる貴重な機会となりました。ご多忙な中対応くださいました黒田前総裁およびスタッフの方々に感謝申し上げます。
 本稿は当日の講義内容を活字化したものです。東京大学の学生向けに、黒田前総裁が大蔵省(現財務省)に入省されて以降のご経験をご講演いただいた貴重な内容です。また質疑応答では、海外での留学でのご経験や、現在公務員になることについてのメッセージなどもあり、学生だけでなく、多くの人に読んでもらいたいと思っています。なお、紙面の関係上、本講演録は2回に分けて掲載いたします。

導入
黒田前総裁:本日、この東京大学公共政策大学院で講演することは、東京大学法学部の卒業生である私にとって、大変に感慨深いものがあります。このような形で、東京大学の教授並びに学生の方々に対し、私の過去56年間にわたる財政金融政策に関する経験をお話しする機会を与えられたことについて、心より感謝いたします。
 私は1967年に大蔵省に入りまして、35年半財務省に勤務しました。その後2年間だけ一橋大学の教員をし、2005年から2013年までアジア開発銀行の総裁、そして、2013年から昨年2023年まで日本銀行の総裁を務めました。今日は、そこで得られた財政政策また金融政策、開発政策についての私の経験についてお話しさせていただきます。
 まず、図表1 日本の実質GDP成長率、消費者物価、ドル円相場を御覧ください。このグラフは、1967年から2023年までの実質GDPの成長率、消費者物価の上昇率、および、ドル円レートの動きが示されています。1960年代までは高度成長が続き、成長率は約10%、インフレは約5%でした。1970年代に入ると、1971年のニクソンショックや1973年と1979年の2回の石油ショックなどにより、赤い線のGDP成長率が大きく振れて、約5%に落ち着き、それが80年代まで続きました。
 為替は円高が進み、一方で物価の方はある程度落ち着いた動きをしていました。90年代になると成長率はさらに落ちました。金融バブルが崩壊し、金融機関の不良債権が増え、しかも、90年代の半ばから終わりまで、クリントン政権によるジャパンバッシングがなされました。自動車や半導体、パソコンなど競争力のある産業が潰れてしまいました。
 自動車は米国に移って生き延びたのですが、日本のGDP成長率が1.5%~1.8%になり、さらに2000年代にはデフレが続いて約0.5%の成長になりました。それが少し回復するのが2010年代です。
 2020年にはコロナの影響で大きくマイナス成長になりました。それからウクライナ戦争で石油価格の高騰等により輸入物価が急にあがり、成長率はあまり上がらないが物価は上昇するという状況が生じました。以上の経済的な背景を踏まえて、1967年以来の私の経験を説明したいと思います。

公務員の労使関係を学ぶ(1967~69年)
 私は1967年春に東京大学法学部を卒業して、大蔵省(現在の財務省)に入省しました。当然、財政金融政策に関する仕事に関与できると期待していたところ、配属されたのは大臣官房秘書課調査係というところでした。人事に関する仕事をするところだったので少しがっかりしました。
 仕事の内容としては総合職の採用の手伝い、職員の研修などでした。一番大きかった仕事は職員の海外出張の世話で、出張命令を出したり、公用旅券を取り付けたり、出張旅費を出してもらったりしていました。面白かったのは、公務員の労使関係についてです。
 昔も今もそうですが、公務員には団結権は認められている一方で、団体交渉権も争議権もありません。これが憲法上の問題ではないかと法廷で争われており、当時、内閣で公務員制度審議会を作り、どうするかが議論されていました。大蔵省としてもこの議論についていく必要があるので、当時の秘書課長の私的勉強会として、大学の先生や弁護士、元法制局の部長などを数人集めて、これについてどう考えるか勉強会をしていました。
 その時の議論がとても面白かったので、少しご紹介します。当時の通説としては、公務員がストライキを起こすと国民生活に大きな影響が出るので、争議権は認められない、代償措置として人事院勧告がある、というものでした。しかし、国民生活への影響については、警察や消防などには当てはまるとしてもすべての公務員に当てはまるかどうか分からないし、逆に民間の電力会社や交通機関にも当てはまってしまいます。
 研究会の法律専門家は、憲法83条の財政民主主義の下で、公務員給与は政府・国会が決めるべきものであり、争議行為を背景とした労使交渉で決めるべきものではない、という議論を展開しておられました。なるほどと思ったのですが、その後、最高裁の判例もそちらに寄っていき、結局、国家公務員法における団体交渉権と争議権を認めないということになり、今もそのままです。最高裁の判例もそのようになっており、確立されています。

ニクソンショック後に変動相場制を主張する(1971年)
 その後、オックスフォード大学に留学し、経済学者であるヒックス名誉教授の議論などを聞きました。留学から帰ってくると、大蔵省理財局国債課の企画係長になりました。当時ちょうど1971年8月にニクソンショックが起きて、1ドル360円が崩壊し、1ドル300円へと円高になる時代でした。当時は、公共事業を拡大して、国債発行額を3倍にするということで、国債課は忙しくしていました。
 日本政府は変動相場制から固定相場制に戻りたいと交渉していました。結局12月にワシントンのスミソニアン博物館でスミソニアン合意を結び、1ドル308円で再び固定することができました。私は、そうしたシステムは長続きしないし、特に金融の国際化が進んだ下では、固定相場制にすることにより金融政策の効果が薄くなってしまう、したがって、変動相場制にした方が良いのではないかと考えました。
 この考えを、大蔵省の広報誌である『ファイナンス』に書きました。その内容を『ファイナンス』の担当者に聞いたら、良いですよと、ということでした。もっとも、大蔵省として変動相場制から固定相場制に戻そうとしている時に、こういうことを書いたのは若気の至りでした。ただ、実際、スミソニアン体制は1973年に崩壊し、それ以来現在に至るまで変動相場制が続いているということになります。

石油ショックへの対応に追われる(1973年~75年)
 当時の大蔵省では、若手は1年間税務署長として働くことになっており、私も1年間いわき税務署の税務署長をしました。その後1年で戻ってまいりまして、国際金融局企画課の課長補佐になり、資本規制を担当しました。
 その時ちょうど、1973年10月に石油ショックが起こりました。今ではそんなにショックだったのかと思われるかもしれませんが、1バレル3ドルの原油価格が翌年に1バレル12ドルと4倍になったのです。今の原油価格は80ドル強ですから、3ドルから12ドルにあがることが世界的な経済ショックなのかと思われるかもしれませんが、当時から現在に至るまで物価水準が全体的に上がっており、3ドルから12ドルへの上昇が世界経済に大きな影響を与えたわけです。日本は石油を輸入していたので、国際収支が悪くなり外貨危機になる可能性がありました。そこで、それまでは円高にならないように、資本の流出を促進、流入を規制していた資本規制を180度転換し、流入を促進、流出を規制するということをしたわけです。
 私が企画課にいたのは1年間で、次に国際金融局国際機構課に移りました。当時は世界的には石油ショックはものすごく大きなショックを与えるということで、IMFでオイル・ファシリティという制度が作られました。これは、IMFが、産油国から借入れをして、石油輸入国に対し、通常のように財政金融の引き締めというコンディショナリティを課さずに、単に石油消費を節約すると言えば貸してあげるというファシリティを作ったのです。
 産油国はお金を使ってくれないので、世界的に需要不足で落ち込みます。その中で、特に輸入国は大幅な貿易赤字となります。財政金融を締めざるを得ないことになり、それは良くないということで、IMFは条件を緩め、お金をどんどん貸すことにしたわけです。
 これにアメリカは反対しました。どうせ産油国に集まったお金は先進国の金融市場に回ってくるに決まっており、そこで借りれば良いわけで、IMFが産油国に安全な投資先を提供する必要はないという主張です。アメリカは反対したのですが、日本を含む多くの国が賛成して、オイル・ファシリティが出来ました。日本は借りませんでしたが幅広く使われました。
 アメリカはオイル・ファシリティを否定する一方で、OECDに相互扶助的な「OECD 金融支援基金」を作ると主張し始めました。日本もOECDのメンバーでしたし、私はたまたま、その時国際金融局国際機構課でOECDを担当する課長補佐でした。アメリカの提案がOECDから回ってくるのをフォローして、最終的にシステムが決まって協定案になるまでずっと担当していました。結局、1975年5月のOECD閣僚理事会で、日本から大平正芳大蔵大臣が参加して協定に署名をしました。その後各国が批准すればその「OECD 金融支援基金」が出来るという話だったのですが、肝心のアメリカの議会が承認せず、結局この基金は出来ませんでした。
 このことから分かったのは、アメリカという国はtwo-government system、つまり政府と議会が別個のものであり、政府が約束したことを議会が守らないということです。このことはアメリカ人自身が良く言うことです。
 最近で言うと、OECD/G20 BEPSで、外国企業の課税に関する画期的な国際課税の合意ができ、OECDが協定案を作って、今後各国に批准してもらおうとしているのですが、アメリカの議会の理解を得るのに時間がかかっています。これはアメリカ政府も一緒になって作った国際課税の案ですが、議会が反対しているということで、実現していない可能性があるわけです。
 アメリカと政策で付き合う際、交渉する時には、いくら政府が約束しても、議会がそれを受けてくれるかどうかは全くの未知数です。そのため、アメリカ政府との約束は半分くらいディスカウントしても良いのではないかとつくづく思います。
 その後も、アメリカと様々な約束をするにあたり、政府と約束するのはいいのですが、それを議会が受け入れてくれるかは全くの別問題です。直接議会と話をするというのも一つですが、議会と交渉するというのも変です。アメリカは世界一の経済大国、軍事大国でもあり、現在でも世界をコントロールしている国でもあるのですが、この国と付き合うのは大変だなと思いました。

IMFで国際通貨制度改革の議論に参加する(1975年~78年)
 その後、1975年の夏にアメリカに行きまして、IMFの日本理事室の理事補になりました。当時はちょうど、IMF協定改正の議論が行われていました。
 先程お話しましたように、1971年にニクソンショックで米国がドルの金兌換を停止して、各国はドルとの固定相場制をやめました。IMF協定違反の状態が続いていたのですが、これをどうするかということでずっと意見が分かれていました。
 日本やドイツ、フランスは固定相場制を復活させることを主張していました。ところがアメリカは反対し、特にドルの金兌換は絶対に受け入れないということで、話が全く進んでいませんでした。そんな中、1976年1月にジャマイカ合意ができました。この時、実は私もジャマイカで会議に参加していました。その結果、暫定委員会という、現在の国際通貨金融委員会と似たような、24人くらいの大臣の会で合意ができまして、金の公定価格を廃止し、そして為替レートの制度については各国の選択に任せるという議論になりました。固定相場でもいいし、変動相場でもいいし、あるいは、カレンシー・ボード制などでもよいということになり、それに沿って1月から6月にかけてIMF協定の全面改正を議論しました。
 IMF協定を全面改正したのはこの時が最初で最後だったのですけども、為替制度を変えると他の条文にも影響してくるわけです。理事会での討議を1月から6月までやって、合意ができました。
 今でも覚えているのは、アメリカは変動相場で良いと言ったものの、貿易相手国が為替レートをわざと安くして輸出競争力を強くすることが無いようIMFが監視する、という条項を入れることを主張したことです。具体的にどの場合に、競争上の有利を得るために為替相場を操作していると言えるかどうかという基準が決まらなかったし、今でも決まっていないわけです。
 散々議論して、何らかの基準を理事会でガイドラインとして作ろうと言ったのですが出来ませんでした。今でも為替レートについて色々と問題が起こるわけです。一番大きいのは、G7諸国と途上国との間での問題です。G7での合意は出来ていますが、その中でも一定の監視をすることが一体どういうことを意味するのか未だに具体的には決まっていないわけです。

一般消費税の検討とその後の財政再建に関与する(1978~81年)
 IMFに3年程いた後、私は日本に戻って大蔵省主税局調査課の課長補佐になりました。ちょうどその時は、一般消費税の導入で大騒ぎになっていました。
 私は一般消費税の経済効果の分析の担当となりました。消費税導入により景気にどういう影響が出るかとか、逆進的だと言われていた負担配分がどうなるか、物価への影響は大丈夫かといった点がありました。これについて、マクロモデルを用いたり、また、負担配分については家計調査の個票を用いるなど分析を行いました。その結果、食料品に課税した場合の逆進性の問題には、食料品については非課税にすれば解決するとしました。
 1979年1月に閣議決定が行われ、一般消費税を1980年度中に導入するように準備をしていました。ただ、第二次石油ショックが1979年10月頃から始まり、石油価格が上がっていく中で、第一次石油ショックの時のようにまたいずれ不況になるのではないかということで反対が強くありました。
 結局、1979年秋の総選挙で大平内閣が議席を大きく減らし、一般消費税の導入は見送られました。要するに、大きな増税というのは、当然ですが国民的合意がないとできないわけです。それがない中で、財政再建が必要だとか、所得税や法人税は増税できないだろうから、というだけで一般消費税を導入しようとしたことは、振り返れば無理だったと思います。ただ、その当時は財政を再建するためにはどうしても必要だということで議論がなされました。
 私は2年間調査課にいたのですが、結局一般消費税は導入しないということで、2年目は時間ができました。その時間を使って、『財政・金融・為替の変動分析―相互波及のメカニズム』という本を東洋経済新報社から出しました。このタイトルは私がつけたのではなく、東洋経済新報社の編集者がつけてくれました。
 本を出す時に上司の許可がいるかどうかという話ですが、実は大蔵省は非常にリベラルなので、勝手に何を書いても構わないということです。その点、IMFや中央銀行では個人的な論文であっても、全て上司の許可が無くては発表できないことになっています。職員が所属している組織の方針と反対の事を書くと困るからです。大蔵省では構わないということだったので、大蔵省の政策に批判的なことも書いてあります。
 その後、私は、間接税を担当する主税局税制二課に移りました。一般消費税が導入されないので、既存税目で増税して財政再建をしようということになります。税制二課は、酒税、物品税、印紙税という3つの間接税を同時に増税するという、主税局としてもほとんど例のない案を作成しました。
 自民党の税制調査会を通り、国会も通り、その通り執行されたのですけど、後で思うと、これほど巨額の間接税の同時の増税は、ある意味一般消費税の時と似た側面もあります。したがって、大変な反発が経済界や政治家からあり、その後は「増税なき財政再建」に政府の方針が変わりました。
 この間接税増税には理屈もあったし、国民からも受け入れられたと思ったのですが、実際に行われた後になって、経済界や政治家から不満が出てました。増税による財政再建はだめだ、増税なき財政再建だと言われ、全体の財政の方向が変わったということがあります。やはりそういうことを含め、国民や国会の合意を得られるかどうかを考えないと、結局後から綻びが出てくるなと思いました。

グリーンカード導入延期と納税環境整備に関与する(1981~83年)
 同様のことが、実はグリーンカード導入延期にも言えます。これはそういったケースの最たるものと言われます。
 不公平税制と目されていた利子・配当の分離課税を廃止して総合課税にすると、郵貯やマル優の非課税貯蓄に逃げ込むのではないかという懸念がありました。そこで、非課税貯蓄をするためには、グリーンカードの提示を義務付けようということになりました。限度額が守られているかどうかの監視もできる、というために始まったわけです。
 法律も通り、グリーンカードを配布する日も決まっていて、国民の合意も国会の合意も得られたと思い、いよいよグリーンカードを配布しようとした時に、最初は野党、次に、自民党から反対や延長論がでてきました。郵貯やマル優を抱えた銀行が反対して延期しろという話になり、自民党も延期法案を議員提案で出すという話になりました。
 これはどうにもならないということで、主税局としてもグリーンカードの発行を延期することを考えたのですが、法律そのものは、1983年1月から交付すると書いてあるのです。法律を出す時間もないので、政令で定める日まで延期するということを法制局に相談しましたが、法制局は法律で定められたことを政令で変えることはできないと断られてしまいました。このままだと違法状態になり大変だ、という時に竹下登大蔵大臣が誕生しました。竹下大蔵大臣が法制局長官を説得し、法律に書いてある日付を政令で延期できるとしたため、政令で延期し、その翌年に延期法を出して法律で延期し、何とか収拾したという話です。
 これについても、税制改正は税制調査会や国会で吟味し通過したとしても、国民の合意を得られているかを見極められないと、最終的にこうした事態になってしまうことを痛感しました。予算の方は、実際には各省が要求してそれを主計局が査定して、その内容について自民党の政調という部門で了解したうえで国会を通ります。その後、何か問題があると、大蔵省ではなく要求した各省に問題が向けられるため、予算については、国民の合意があるかどうかのチェックの必要性はあまりないともいえます。しかし、税の場合は直接国民に負担を求めるので、国民の合意が得られていないことをやろうとしても、国会を通ってもできないことになります。税については、必ず十分に議論して、国民が納得したというところまでもっていかないとできないということをこの時も感じました。

三重県で地方行政を経験する(1984~86年)
 その後、1984年夏に三重県庁に出向し、総務部長を務めました。国からの補助金と地方交付税については、補助金が地方公共団体の支出に影響を与えようとするのに対し、地方交付税交付金は、使途が特定されず、支出に影響を与えない補助であると説明されていました。
 その中で補助金と地方交付税についての扱いが趣旨と違っているのではないかと思いました。補助金とは、それを出すことによって、当該地方公共団体が補助されたものにより多く歳出することを考えています。そのため、定額の補助金や少額の補助金だと効果がなく意味がないと思っていました。しかし実際には、定額の補助金や少額の補助金がたくさんありました。地方公共団体としては、そうした補助金をもらっても、該当項目の歳出を増やそうと思わないからあまり意味がないと思いました。
 逆に地方交付税は、本来的には一般財源で、何に使ってもいいというものですが、地方交付税の交付の基準に何十もの指標があり、その組み合わせで交付税がどれくらいの金額になるかが決まるようになっていました。例えば、道路の延長なども含まれており、そういう部分があると、補助金と同じになってしまうわけですね。それはおかしいなと思いました。補助金は補助金としての役割を発揮できるように交付すべきであり、地方交付税は交付基準を人口や面積などに単純化して、地方公共団体が操作できることがないようにすべきです。操作できるというのは逆に言うと、補助金のように地方交付税を使うということになってしまうのでそれはおかしいと感じました。
 そこで「補助金と地方交付税に関する理論的分析」というタイトルで論文を財務総合政策研究所の『フィナンシャル・レビュー』という雑誌に掲載しました。三重県の総務部への出向期間には、県議会に警官隊を動員する等色々な事件がありましたが、私が一番覚えているのは、補助金と地方交付税が一般的に言われているような機能になっていない、ある意味歪んだことになっている問題を指摘したことです。このところ、地方交付税がますます補助金と同様に運用されるようになっているのは、気がかりなことです。

IMF拡大構造調整融資制度を支援し、「宮澤構想」を推進する(1987~89年)
 その後、東京に戻りまして、最初は大臣官房調査企画課参事官になりました。ちょうど1986年5月の東京サミットで、G7が出来た際、G7について経済指標を使ってサーベランスを行い、そして経済協調をするという触れ込みで、国際金融局だけでなく官房でもそういう経済指標をチェックする必要がありました。当時、新設されたポストでして、調査企画課参事官としてG7関連の仕事をしていました。
 そこには1年在籍し、その後1987年に国際金融局の国際機構課長になり、1988年までいました。ここで非常に大きかった出来事は、IMFがESAF(拡大構造調整融資制度)という制度を作ろうとしていたことです。ESAFというのはSAF(構造調整融資制度)の拡大版です。ESAFは特に途上国、最貧国など国際収支困難に陥っている国に条件付きで低利の特別な融資を行うものでした。
 当時、IMFは、保有金の売却益で低開発途上国に低利融資していたSAF(構造調整融資制度)を先進国の支援で拡大し、ESAF(拡大構造調整融資制度)を設置しようとしていました。IMFが最初に提案したのは、日独など経常黒字国がESAFに低利で資金を供給するという案でしたが、日独は、黒字国が市場金利でESAFに資金を供給したうえで、ESAFが低利融資できるように先進国全体が利子補給金を公平に分担すべきだと主張(米国は反対)し、そのようになりました。必要な資金は輸銀(現JBIC)が大半を供給し、残りをドイツのKfWなどが供給することになりました。
 ただ、輸銀は、ESAFが低所得途上国に融資する信託基金なので、信用リスクを軽減するようIMFの保証を求めました。これに対し、IMFは、「ESAF設置の理事会決定の際、専務理事が『IMFはESAF債務完済のため保有金の売却を含めあらゆる努力を払う』と発言することではどうか」と反対提案し、(法的には保証になっていないのですが)輸銀がこれを受け入れたので、ESAFは無事発足することができたのです。
 実際にお金の大半は日本の輸出入銀行(現在の国際協力銀行)が出していたわけで、IMFのカムドシュ専務理事がわざわざ国際機構課まで来て、支援してくれたことに感謝すると言ってくれました。これは、IMFの新しい体制やシステムを作ることがいかに大変かを表していますが、特にアメリカが反対するとなかなか難しい現実はあります。IMFの協定改正や増資、新規メンバーの加盟は議決権の85%の賛成を必要とする多数決によって決められるのですが、米国は約16%の議決権をもっているので、米国には拒否権があるわけですね。アメリカが反対することを踏まえてIMFが政策を進めることはなかなか難しいことでした。そこを日本は相当強くサポートしたということがありました。
 また、当時中南米の中所得国の債務問題が非常に大きくなっていたので、日本は「宮澤構想」を出しました。これは、債務の一定の削減を行うというものでした。それまで米国がサポートしていた「ベーカー構想」では、債務削減はせず、IMFや世銀が新規融資をして助けるとしており、これでは上手くいかないということで、債務削減を含む形でやることを「宮澤構想」で打ち出しました。これは、当時のIMFの総会で最も話題になったことだったのですが、米国が反対し、そのままでは受け入れられませんでした。
 その後、米国が「ブレイディ提案」という債務削減のスキームを作成しましたが、その内容はほとんど「宮澤構想」と同じでした。米国はその時は反対したものの、他に良い案がないので、日本が提案した案をそのまま用いました。これが中南米の債務問題の解決に大きく貢献しました。

国際課税の適正化と土地税制の抜本改革を進める(1989~91年)
 その後、主税局の国際租税課にいきました。その後、税制一課、総務課の課長を務めるということになります。国際租税課では、ちょうどアメリカが課税強化、特に外資企業の米国内における課税強化、それから米国企業の海外における活動に対する米国の課税強化を行っていました。しかし、これはアメリカが結んでいる租税条約に反していました。これではいかんということで、OECDの租税委員会などに持ち込んで散々文句を言ったのですが、何を言っても米財務省は何も聞きませんでした。
 実際、税法も含めアメリカでは法律は全て議員提案で、議会で承認されるので、日本の閣法のような政府提案ではないわけです。何を言っても聞いてくれないので、アメリカの雑誌などに、アメリカのやっていることは租税条約違反であり、これはFiscal Mercantilismではないかと主張しました。その結果、一部は修正できましたが、全体としては租税条約違反を完全には止められませんでした。やはり政府と議会は全く別であり、またアメリカの面倒なこととして、租税条約を含む条約は上院のみで承認し、下院は一切関係ないのです。
 それに対して、国内の歳入法、増税・減税などの税法は下院が先に議論することになっていました。下院は、自分に断りもなく上院が勝手に政府が交渉してきた租税条約を承認したと主張し、それをひっくり返すような国内税法を下院先議でやります。その意味で、米国議会の上下両院のねじれがありました。
 租税条約でも、アメリカと交渉して上院を通って批准されても、下院が条約を否定するような国内税法を作ってしまうため、必ずしも信用できません。こうしたことが散々あったわけですが、こうしたアメリカのシステムではどうしようもない状況でした。
 それから、税制一課にいきまして、当時、資産バブルで地価がものすごく上がっていたので、地価の抑制、土地の有効活用のために地価税の導入をやりました。また、湾岸戦争で湾岸特別税などを担当した後、総務課長としても国会の税法通過などについても担当しました。主税局の課長としては、増税・減税について、国民の合意がないとできないので、国民の合意が得られるものか、得られそうなものか、得られたと考えて良いか、ということを常に考えておかないといけません。それから、国際課税については、アメリカとの国との交渉は、条約が通っていたとしても信用できないということで、難しい相手だとつくづく感じました。

東京サミットの準備に従事する(1992~93年)
 その後、副財務官になり、1993年7月の東京サミットの準備を担当しました。当時の千野財務官のもとでして、その時の思い出としては、蔵相報告をまとめる役割を与えられたことです。G7の各国財務省の局長クラスの人と4回ほど会合をして、東京サミットの蔵相報告を作り、それをG7の財務官・次官クラスの会議に出して承認してもらえれば、大臣報告をするということでした。
 東京で会議をして報告をしたところ、なんとドイツの次官がこれはおかしいと言ったのです。財政を使ってどんどんやれということばかり書いてあるが、財政規律について書いていないんじゃないか、おかしいと文句をつけてきました。そのことが遺憾だったのは、ドイツの局長も入って、4回も確認して皆賛成した文書なわけです。
 それをなぜ次官の人が今更反対するのか良く分からなかったですが、その時幸いだったのは、ラリー・サマーズが米国の財務次官であり、また、ジャン=クロード・トリシェがフランスの国庫局長をやっていた点です、その二人が財政規律についても書いてあるとたしなめてくれたため、助かりました。
 ドイツの大蔵省は、次官と局長との間の意思疎通が十分にできていない、それに対して、アメリカやフランスでは局長が議論して合意してきたことは次官にも入っている。一見すると、ドイツはしっかりしていて、フランスもしっかりしていて、アメリカはしっかりしていないんじゃないかと思うかもしれません。しかし、私の経験ではそうではなく、ドイツの大蔵省が一番ダメでした。米国もフランスもちゃんと局長が同意した結果を次官に上げてあって、ドイツはそうではなかった。
 その時以来、ラリー・サマーズやジャン=クロード・トリシェと親しくなり、その後も仕事で助けてもらうこともありました。ラリー・サマーズのことを傲慢だと言って嫌う人もいますが、私は彼とうまく付き合っています。実は昨年日銀総裁を辞めた後に、ハーバード大学に呼ばれて講演しに行ったのですが、これはラリー・サマーズが是非来てくれといったものでした。
 それで何を話したらいいのだと聞いたら、イールド・カーブ・コントロールについて話してくれというのですね。彼はイールド・カーブ・コントロールがどうして上手く出来たのか、どういう効果があったのか、どういう副作用があったのかを個人的に知りたかったらしいです。それで、私はハーバード大学で講演させていただき、イールド・カーブ・コントロールの話だけをしても仕方ないので、日銀の10年の金融政策の話をさせていただきました。それから、世界経済の分断化という話を、また別のファカルティの人が集まった日に話しました。いずれにせよ、東京サミットの準備の時にお付き合いをした人とは親しくなりました。

バブル崩壊の影響を体験する(1993~96年)
 そのあと、私は大阪国税局長として1年間勤めました。大阪では、ちょうどバブルの崩壊後ですから、当然ですけど赤字の企業だらけで、大阪国税局長としても、むしろ還付金を早く還付してあげる必要がありました。企業が赤字だった時に、前年黒字で払った法人税を還付する制度がありますので、それを次々に進めるということをやっていました。経済がすごく落ち込んで、企業が赤字である中、徴税を強化してもしょうがないので、むしろ還付金を早くスムーズに返すことで、一種のビルトインスタビライザーの機能を果たしていました。
 その後東京に戻って、国際金融局の審議官、次長になりました。もっとも、この時もバブル崩壊後の色々な問題があり、明るい話は多くありませんでした。問題になったことを挙げれば、北朝鮮の核疑惑です。北朝鮮が重水炉でプルトニウムを作って、それを核兵器にするという疑惑がありました。最初、アメリカは重水炉を爆撃したいと主張したのですが、日本と韓国としては、北朝鮮が反撃して来たらソウルが火の海になるのでそれはやめてくれ、と言いました。
 結局、重水炉を北朝鮮が壊して廃止する、そうすれば軽水炉を2基あげます、いうことになりました。軽水炉だとプルトニウムもそれほど出ないし、監視しやすいためIAEAに監視させるということで、「朝鮮半島エネルギー開発機構」(KEDO)という国際機関を日本・アメリカ・韓国、後にECも加盟する形で作り、北朝鮮に軽水炉をあげる代わりに重水炉を破壊しなさい、ということで始めました。
 資金は、韓国が7割、日本が3割で負担していました。しかし、北朝鮮はプルトニウムから原爆を作るのではなく、自分のところから出るウランを濃縮して核兵器を作るということを始めていたのですね。これは約束違反なのか、騙されていたのか分かりませんが、結局、北朝鮮に対する軽水炉の供与がなくなりまして、北朝鮮は核兵器開発を続けて、今では水爆も長距離ミサイルも持っています。
 北朝鮮はマッカーサーによる大反撃に対する防衛は、中国の人民解放軍がやってくれましたから、中国が体制維持の頼りになるということで、北朝鮮は中国をずっと頼りにしていました。しかし、その中国が90年代になって、どんどんアメリカに近付いていきます。北朝鮮としては中国に対する信頼が危ういのではないかと思い、90年代になって自分で核兵器を開発して、これで絶対的な抑止力になると思ったのだと思いますが、そういうこともあって日米韓がやったことは失敗し、北朝鮮が核兵器を持つに至りました。

財政金融研究所長として研究・研修と技術支援に勤しむ(1996年~97年)
 その後、財政金融研究所の所長を1年間だけやりまして、これは非常に良い経験でした。研究は色々とできましたし、それよりも有用だったのは、研修と技術支援をやったことです。
 研修については、財務省の職員に対する経済学の研修など様々な研修を行い、その研修に講師として参加して、研修に出ている人達の意見を聞いたりしました。それから、技術支援については、特にウズベキスタンと親しくなり、ウズベキスタンの人を数十名呼んで研修をするということをやっていました。私自身ウズベキスタンに行って、ウズベキスタンの複数通貨制を改正することについて、ウズベキスタンの首相や財務大臣、中央銀行総裁と議論を重ねました。その後ウズベキスタンは複数通貨制をやめて、一本化することになりました。
 また、ベトナムがIMFプログラムで、付加価値税をいれなくてはいけないということになり、そこで、付加価値税を一番新しい時点で導入した日本の経験を知りたいということで、石弘光一橋大学教授と一緒にベトナムに行き、一週間ほどベトナムの財政省、国税委員会の人達に日本の経験をお話しました。その後、ベトナムの財政省が付加価値税法を議会に出したのですが、否決されてしまいました。
 その否決の理由も、便乗値上げがあるんじゃないかとか、中小企業の事務負担が大変なんじゃないかとか、日本で言われていた理屈で、議会で否決されたといいます。そこで、議員たちに付加価値税の重要性や、今言ったような問題が少ないことなどを説明してくれと言われたのですが、それは技術支援ではなくて政治的な話、特に税金の話になるので、私はご遠慮しました。
 ですが、石先生は個人的に行かれてベトナムの議員に説明して、議会は1年後に付加価値税法を通したので、ベトナムの付加価値税の父というのは、石弘光先生ということなります。いずれにせよ、研修と技術支援というのは大変興味深く、勉強になりました。

アジア通貨危機への対応を進める(1997~99年)
 その後、97年7月に国際金融局長になった途端に、タイでアジア通貨危機が起こりました。IMFがタイへ40億ドル出すことにしたのですが、到底足りないということで、東京で8月にタイ支援国会合というものをやりました。アジア諸国で100億ドルほど集めてIMFの40億ドルを補完するお金を集めたということです。
 日本はIMFと同じ40億ドルだけ拠出し、タイに非常に評価されただけでなく、アジア地域内での相互扶助、最終的にはチェンマイ・イニシアチブ(Chiang Mai Initiative、CMI)まで繋がるわけです。97年の10月に、香港でIMF世銀総会があった時に、こういう形でアドホックにやるだけでは無理なので、アジア通貨基金というものを作って、アジア域内の国が資金を出し、IMFが緊急支援をしなくてはいけない時にそれを補完・補足するような支援をするシステムを作っていく必要があるという提案をしました。その時の香港でのIMF世銀総会では、ASEAN諸国や中国、韓国のほかに、オブザーバーとしてIMFと米国、ヨーロッパが入っていました。ASEAN諸国と韓国も賛成だったのですが、IMFは絶対反対だと言いました。
 アメリカの代表がラリー・サマーズだったのですが、これはIMFのコンディショナリティを弱めると彼は言いました。実際はIMFの支援に付け加えるだけですので、IMFのコンディショナリティを弱めることはないのですが、そういうことを言って騒がれてしまったため、結局その場でアジア通貨基金を作ることを合意できなかった。これは本当に痛恨の極みです。もし出来ていればその次のインドネシアや韓国の問題に十分対応できたと思うのですけど、それができなかった。これも基本的にはアメリカの反対でできなかったことになります。その後、インドネシアと韓国に波及して大変なことになったわけですね。

為替の安定とアジア経済の復興に努める(1999~2003年)
 アジア通貨基金は出来なかったのですが、1999年に財務官になってからも引き続きアジア経済の復興に努めるということで、「新宮澤構想」で300億ドルの支援を日本が請け負ってやるということになりました。そういうことを通じて、IMFや米国も日本のアジア支援に対する反対を減らし、例のチェンマイ・イニシアチブを打ち出しました。
 チェンマイ・イニシアティブは今や総額2,400億ドルという巨額の基金となっています。その条件を決めるため、あるいはサーベランスを行うために、シンガポールに国際機関として、「ASEAN+3マクロ経済リサーチオフィス(AMRO)」という機関を作りました。
 かつては小さい組織でしたが、現在は相当大きなオフィスになっていまして、そこがASEAN+3諸国の経済金融状況を毎年サーベランスして監視をしているわけです。国がお金を貸してほしいという時には、当然IMFからも借りるわけですが、それを補足するようなチェンマイ・イニシアチブでの資金が2,400億ドルもあるということです。
 アジア通貨危機を経てアジア通貨基金はできなかったものの、形としてはそれとほとんど同じものが、チェンマイ・イニシアチブ、そして、「チェンマイ・イニシアチブのマルチ化」になります。最初のチェンマイ・イニシアチブは二国間通貨スワップのネットワークだったのですが、今はマルチの協定で、ほとんどIMFと似たような仕組みですけども、アジア通貨基金の当初の構想と全く同じような仕組みが出来たことになります。

(後編に続く)