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路線価でひもとく街の歴史

第55回 広島県広島市
かつての繁華街は再生し水と緑と祈りの街へ

原爆投下の目印となった中心街
 広島を舞台としたマンガ作品に、こうの史代「この世界の片隅に」(双葉社)がある。片渕須直(かたぶちすなお)の脚本・監督でアニメーション映画化され、平成28年(2016)から公開された。映画版では昭和8年(1933)12月、物語の主人公、尋常小学2年の浦野すずが江波(えば)港で母親に風呂敷に包んだ箱を背負わされるシーンから始まる。荷物は家業で養殖している海苔だ。北に約3km、本川(ほんかわ)沿いに歩けば約40分かかる中島本町(なかじまほんまち)の料理屋へ配達を頼まれた。途中で船頭に声をかけられ、グリブネと呼ばれる砂利船に乗せてもらう。
 広島は、太田川が7川に分かれて広がった三角州の城下町である。広島城は鯉城(りじょう)と呼ばれ広島カープの由来となった。7つとは本川(旧太田川・本流)、猿猴川、京橋川、元安川、天満川、福島川、山手川だが、福島川と山手川は一本化され太田川放水路となった。
 浦野すずは、森永製菓(当時は森永食糧工業)の前の河岸にあった階段状の乗降場「雁木(がんぎ)」で上陸する(図1 本川の雁木)。今でも市街地の河岸に約400か所の雁木があり、水上タクシーの乗降場にも使われている。なお森永製菓の建物は元は藝備(げいび)銀行の本店だった。同行は県内一番行の広島銀行の前身である。
 目的地の中島本町は当時の中心街で、映画版ではクリスマス商戦の賑わいが描かれていた。同シーンで大正屋呉服店が登場する。現在の平和記念公園レストハウスだ(図2 平和記念公園レストハウス(旧大正屋呉服店))。昭和4年(1929)の建築である。呉服店は昭和18年(1943)に閉店し、被爆当時は燃料会館だった。昭和32年(1957)に広島市の施設となった。町内には中島勧商場もあった。原作ではすずがキャラメルを買っていた。明治15年(1882)の開店で跡地に記念碑が立つ。勧商場とは様々な業種が入居する集合店舗で今でいうショッピングセンターである。
 中島本町が最高地価地点となったのは大正4年(1915)である。中島本町は本川と元安川に両側を挟まれた中洲の北端にあたる。広島県統計書によれば、筆者が確認できた中で最も古い明治12年(1879)以降、最高地価の場所は横町(よこまち)だった。西国街道に沿って中島本町の隣の町で、元安川を渡った対岸となる。
 横町の北が細工町で、町内にあった島病院が原爆の爆心地となった。空からT字に見える相生橋を目印に投下したが風に流されたようだ。世界遺産「原爆ドーム」はチェコ人の建設家のJan(ヤン) Letzel(レッツェル)の設計で大正4年(1915)の竣工。元々は広島県物産陳列館だった。昭和28年(1953年)から広島市の所有となり、昭和41年(1966)に議会で永久保存が決まった。世界文化遺産となったのは平成8年(1996)である。物産陳列館とは要するにコンベンションセンターである。大正8年(1919)3月に催された「俘虜技術工芸品展覧会」でバウムクーヘンが日本で初めて販売された。9日間の催事中16万人の入場者があった。出品したのはユーハイムの創業者、カール・ユーハイムである。中国青島で店を営む菓子職人だったが軍属とみなされ、第1次世界大戦に伴って似島(にのしま)の捕虜収容所に収容されていた。似島は広島港の南端から最短1.7kmの湾上にある。

大手町銀行街
 中島本町、横町ともに西国街道の町である。西国街道が街の東西軸ならば、南北軸は広島城の正門に続く大手町だった。この界隈が当時の街の中心で、銀行の出店も多かった。広島初の銀行は明治9年(1876)7月に開店した三井銀行の出張店で、大手町1丁目にあった。明治13年(1880)に同2丁目に移転し分店に昇格、大正14年(1925)には支店に昇格し行舎を新築した。行舎は昭和42年(1967)からベーカリー、広島アンデルセンの本店となっている(図4 旧三井銀行広島支店(現・広島アンデルセン))。
 広島銀行の前身で最も古いのは明治11年(1878)に創業した尾道の第六十六国立銀行である。支店が本川の西岸にあった。広島市内の前身行は第百四十六国立銀行で尾道の翌年に設立された。国立銀行制度の満了後はそれぞれ第六十六銀行、(旧)廣島銀行となった。両行は大正9年(1920)にその他5行を含めて合併し、藝備(げいび)銀行(第1次)となった。本店は元柳町にあった旧廣島銀行の本店を引き継いだ。昭和2年(1927)紙屋町で新築した本店に移転してから、森永製菓の支店となった。前述の浦野すずの上陸地点である。その後、終戦3か月前に呉、備南、三次、広島合同貯蓄銀行が合流して藝備銀行(第2次)となり、昭和25年(1950)8月に廣島銀行に改称した。新字体の広島銀行になったのは昭和63年(1988)である。令和3年(2021)に竣工した現本店は昭和2年から数えて3代目の店舗となる。
 三井銀行以外の進出行で早いのは明治30年(1897)の住友銀行である。中島本町にあったが、藝備銀行本店に続く昭和3年に紙屋町に移転した。現在は三井住友銀行となっている。三菱UFJ銀行の前身行では明治40年(1907)に第三十四銀行が大手町に進出した。後の三和銀行である。三菱銀行は前身の加島銀行が大正6年(1917)に進出している。みずほ銀行の前身をみると大正9年(1920)に第一銀行、翌年の大正10年に安田銀行が出店した。第一銀行と、後に日本勧業銀行となる広島県農工銀行が大手町にあった。

路面電車と紙屋町・八丁堀
 主税局統計年報書によれば、昭和7年(1932)の土地賃貸価格の最高地点は堀川町になっていた。昭和35年(1960)の最高路線価地点は「堀川町とらや菓子店前銀座街側通」である。
 中心が東に移った要因には鉄道の引力がある。広島に鉄道が到達したのは日清戦争の開戦が目前に迫った明治27年(1894)の6月だ。神戸を起点に西に延ばしてきた山陽鉄道が広島駅を開業。駅は7川の手前、中心街から見て北東にできた。7月に戦争が始まったため、陸軍省の受託で広島駅から南下し宇品港に至る軍用線を敷設し8月に開業した。宇品港は、太田川河口の江波港を代替すべく築かれた大型船着岸可能な近代港湾で明治22年(1889)に完成していた。9月に大本営が広島に移され、翌月には広島に仮の議事堂が建てられて臨時帝国議会が開かれた。日清終戦までの7か月だが事実上の首都が広島にあった。
 もう1つは路面電車である。大正元年(1912)11月、広島電気軌道(現・広島電鉄)が広島駅前(現・広島駅)から相生橋東詰の櫓下(やぐらした)(現・原爆ドーム前)まで、南北軸は紙屋町から分岐して御幸橋(みゆきばし)西詰(現・御幸橋)まで開通した。翌月には櫓下から己斐(こい)(現・広電西広島)に延伸し街の東西を貫く本線が完成した。
 路面電車の敷設のため整備された水路跡の幹線道路が新たな都市軸となった。東西軸の本線は外堀が埋め立てられた相生通り、南北軸の宇品線は運河「西堂(せいとう)川」が埋め立てられた鯉城通りである。鯉城通りには広島、住友両行に続き、昭和11年(1936)には日本銀行が移転してきた。こうして鯉城通りは大手町に代わる銀行街となった。日銀行舎は被爆による倒壊を免れ現存する。平成4年(1992)まで営業を続け、平成12年(2000)に市の重要有形文化財となった。
 昭和36年(1961)、最高路線価地点が相生通りの「八丁堀福屋百貨店前電車通」となる。街の東西軸が西国街道から相生通りに移転した。福屋は、昭和4年(1929)、広島初の百貨店として創業。昭和13年(1938)に地上8階の新館が本館向かいに開店した(図5 福屋百貨店)。隣には、岡山に本店を構え昭和29年(1954)に進出した天満屋があった。昭和48年(1973)4月、天満屋の隣に三越が開店。平成24年(2012)に天満屋が専門店ビルに転換する以前は相生通りに百貨店が3つ並んでいた。

ターミナル機能を得た紙屋町
 商業面で水をあけられた紙屋町だが、昭和32年(1957)、広島市とバス事業者の共同出資の下、相生通りと鯉城通りの交差点の北西角地にバスターミナルが開業した。バス事業者が会社の枠を超えて乗り入れるタイプではわが国初の事例だった。昭和49年(1974)10月に広島センタービルとなり、広島そごうが開店した。ターミナル百貨店のバス版だ。その後、大手町の家電大手、第一産業(後のデオデオ、現・エディオン)やファッションビル化したサンモールなどと連携しつつ、地域一番店の座を獲得していった。平成6年(1994)、4月に地上35階建のNTTクレド基町(もとまち)ビル(通称・基町クレド)が竣工。商業棟とホテル棟があり、ホテル棟にはリーガロイヤルホテル広島が入った。そして8月に新交通システムのアストラムラインが開通し、発着駅の「本通(ほんどおり)駅」が紙屋町にできた。鉄道駅が新設され、紙屋町のターミナル機能が高まった。
 こうしたことが奏功し平成7年(1995)の最高路線価地点は「中区基町広島そごう前電車通り」となった。平成13年(2001)には地下街「紙屋町シャレオ」が開店。「おしゃれ」の逆さ言葉が命名の由来で、若い女性をターゲットにしたテナント構成が特徴だ。

水と緑と祈りの街へ
 昭和24年(1949)8月6日「広島平和記念都市建設法」が公布・施行された。「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設する」ことが目的である。これを受けて「平和記念都市建設計画」が策定された。要点は平和記念公園、中央公園、河岸緑地、100m道路、下水道の5つである。戦前の中心街だった中島本町一帯は更地となり公園化された。諸施設を含め昭和30年(1955)に完成した「平和記念公園」である。南側には100m道路の平和大通りが整備された。完成は昭和40年(1965)だ。相生通りから北側、旧城郭内の軍用地も大部分が都市公園「中央公園」となった。昭和32年(1957)、その一角に広島市民球場ができた。本拠地とする広島カープは特定の企業に経営を依存しない「市民球団」の伝統がある。昭和25年(1950)のシーズンから参入。設立当初の財政難の時代には広島県、広島市など地元自治体、財界そして市民の出資や募金で支えられてきた。
 平和記念公園を設計したのはわが国を代表するモダニズム建築家の丹下健三である。平和大通りの東西軸に対して南北軸となる「平和の軸線」を提唱した。平和記念資料館本館から原爆死没者慰霊碑、元安川を挟んで原爆ドームを貫く一直線をいう。慰霊碑で捧げる祈りの念の消失点が原爆ドームにあたる。
 平成21年(2009)3月、広島市民球場でプロ野球最後の試合が行われた。この年のシーズンから広島カープの本拠地が新・広島市民球場(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)に移った。この翌年、最高路線価地点が八丁堀に戻っている。広島市民球場の跡地は令和5年にひろしまゲートパークになった。イベント広場を商業施設が囲む。平和記念公園から伸びる「平和の軸線」上にピースプロムナードができた。その北側にある県立総合体育館(大アリーナ)も軸線を意識した配置だったが、球場が撤去されて軸線上に見通せるようになった。さらに北にはサッカー場、エディオンピースウイング広島が本年2月に開業。サッカー場を含む一帯はひろしまスタジアムパークとして8月に開園した。俯瞰すると、南端の平和大通りから原爆ドームを経て広島城まで広大な水と緑のベルト地帯になっている。西国街道と大手町、相生通りと鯉城通りに次ぐ3代目の軸線が透けて見える。
 河岸緑地といえば、河岸に常設型のオープンカフェを設けたのは広島が全国初である。平成14年(2002)に設置された「水の都ひろしま推進協議会」が推進母体となり、平成17年(2005)、京橋川の河岸に常設エリア「京橋リバーウィン」がオープンした。オープンカフェは元安川の東岸にもあり、平和記念公園の対岸でレストランが営業している(図6 元安川とオープンカフェ)。
 近々変貌するのが広島駅前だ。再開発3区画のうち1つが平成11年(1999)に完了し、福屋の広島駅前店が開店した。それから17年を経て、平成28年(2016)と翌年に残り2区画が完了。それぞれ下層の商業施設と上層のタワーマンションからなる複合ビルができた。来年にはJR広島駅ビルが完成する。目玉は路面電車のルート変更だ。現在の、駅の直前で迂回しJR駅に横付けするルートが、駅前大通りに沿って直進し、駅の2階正面に突っ込むルートに変更される。地上にある電鉄広島駅は撤去され南口広場に再編される。周囲のバス乗降場を取り込んだ拡大バスターミナル、タクシーやマイカーの乗降場と2階の路面電車が階層的に直結し、乗り換えの利便性が高まる見込みだ。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図3 市街図