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ファイナンスライブラリー

評者:渡部 晶
井伊 雅子 著
地域医療の経済学
医療の質・費用・ヘルスリテラシーの効果
慶應義塾大学出版会 2024年4月 定価 本体3,000円+税

 本書の帯には「地域住民の安心感をどう高めるか」と太字で書かれている。そして、「世界の最先端を走っているようで実は不備が目立つ日本の医療体制。人々が安心して暮らしていくためにはどんな情報やサービスが必要かを、地域医療の観点から丁寧に解説。診療や医師の『質』の問題、統計・エビデンスの扱いの問題、医療情報の開示、国民の健康に関する理解度など、国際比較を交え斬新な切り口から検討する、新しい医療経済論」とある。
 題名に「経済学」とあると、数式モデルに覆いつくされた内容を想像する向きもあるかもしれない。しかし、OECDレポートや著者の日本及び海外医療体制(大学教育も含む)についての該博な知見に基づいた本書の医療についての詳細な分析内容は、経済学のトレーニングを受けていなくても読み通せるし、新鮮な発見に満ちている。
 著者は、現在、一橋大学大学院経済学研究科および国際・公共政策大学院教授で、専門は医療経済学、公共経済学である。財務総合政策研究所の学術専門誌「フィナンシャル・レビュー」のうち、直近では2022年4月刊行148号『過剰医療と過少医療の実態:財政への影響』の責任編集を行った。
 本書の構成は、はじめに、第1章 東京という地域の医療、第2章 現代日本の地域医療―現状と課題、第3章 日本の医療の質―国・地域の需要と国際比較からみた評価、第4章 地域医療と医療費、第5章 日本の医療体制とヘルスリテラシー、第6章 医療提供体制の国際比較、巻末資料 地域医療を重視した評価指標(コモンウェルス財団)、おわりに、等となっている。
 NHK放送文化研究所が加盟する国際比較調査グループISSPが2021年に実施した調査「健康・医療」の日本の結果(村田ひろ子「世論調査からみえる健康意識と医療の課題」『放送研究と調査』2022年9月号)によれば、インターネットで「健康・医療」情報を収集する人がそれなりに多いこと(一日に数回から月に数回までを足し合わせると5割弱)、医療制度や医師への信頼は高いことがうかがえる。
 しかし、後者については、医療に特有な「情報の非対称性」がそうさせているのではないか、と痛感した。評者も年齢的に親の介護問題などに直面している。医療と介護の接続の悪さ、医師の専門領域の縦割り、医師以外の専門家の不十分な活用、認知症についてのケア体制の欠如などを日々痛感している。また、不明を恥じるが、確かに健康診断・診査が適切な医療につながっていないということは自分でもこれまで十分に体験していた。井伊教授が指摘するように、日本人の「ヘルスリテラシー」の不十分さが反映しているのではないか。いわば、「井の中の蛙」である。
 OECD加盟国でふつうに行われ、日本では1987年に政治的に挫折した「家庭医」というものについて、きちんとあらためて国民に情報提供すべきだろう。「家庭医」がまずは担うメンタルヘルスケア(精神医療)について日本ではデータが致命的に不足しているという指摘にも驚愕した。
 そのように考えると、上記のNHK調査で、新しい感染症の治療体制については整っていないと思っている人は6割を超えたことに注目すべきだ。これは新型コロナに関する医療体制の国際比較の情報がかなり報道され、実体験に省みて日本人のこの分野のリテラシーが上がったことによるものと推察されるのだ。
 日本の医療体制について、地域住民の立場からみた質の向上を第一義とし、まず実態把握のための統計情報の整備、評価体制の確立(費用対効果の分析を含む)を果断に推し進めるべきだと考えた。自分の専門領域に寄せれば、政策評価制度を改革し、公共事業と並ぶものとして、実施主体が分権化していて全体の把握が難しい医療や介護についての政策評価に国としてもっと資源を割くという政策判断もあろう。
 今後の日本の医療の在り方に大きな示唆をもたらす画期的な労作だ。関係者の精読を期待したい。