講師原田 尚美 氏(東京大学 大気海洋研究所 国際・地域連携研究センター 教授)
演題 南極地域観測の現状と意義
令和6年5月8日(水)開催
はじめに
東京大学の原田尚美と申します。ご紹介いただきありがとうございます。
今日は南極地域観測の現状と意義について、7つの項目に分けてお話しします。
1つ目が自己紹介、2つ目が南極観測事業の成り立ちと政策、3つ目が地球温暖化と南極、4つ目が第66次で何をする?:重点観測、5つ目が第66次で何をする?:昭和基地、6つ目が強力な支援組織である海上自衛隊、7つ目が南極観測隊長を務めるにあたって、となっています。
自己紹介
私の専門分野は生物地球化学で、古海洋学という古い時代の海洋環境を復元する研究をしています。具体的には、海底の堆積物に記録された生物由来の有機化合物をマーカーとして使用します。海底堆積物は表面が最も新しくて、深くなればなるほど古い時代の記録が保存されているタイムレコーダーのようなものです。堆積物中のバイオマーカーを分析することで、過去の海洋環境を復元し、自然変動による気候変動の度合いを理解する研究を行っています。
海洋極域、特に北極あるいは南大洋は環境の変化に対する反応が激しいエリアです。そういった極域の環境の変化に対して、そこに生息する生物たちがどう反応しているのか、といった研究も併せて行なっています。
こうした分野が生物地球化学という分野です。
私は最初から研究者になろうとか、大学院博士課程に行こうと思っていたわけではなく、実は修士の卒業後の就職も決まっておりました。
私が所属していた研究室は海洋のフィールドワークを中心に研究している研究室でした。指導教官に頼み込んで、初めて先生と一緒に赤道の研究航海に参加した時に、研究航海の素晴らしさを知ったのです。みんなで連携してサンプルを取り、分析・解析をするということに大変感動して、決まっていた就職を断り、博士課程に進学するということを決めてしまいました。
そして33年前、博士課程の1年生の時に突然チャンスがやってきます。国立極地研究所から指導教官に対して「南大洋で観測をするので、ぜひ手伝ってくれる学生を出してくれないか」と申し出が来たのです。当時、日本隊において南極に隊員として行った経験のある女性は1人しかいない状況です。男子学生がみな断ったことを小耳に挟んだ私は、渋る指導教官を説得して、第33次の南極地域観測隊の一員として行かせていただくことになりました。
南極は学生にとって、見るもの、やること、すべてが新鮮です。こんなにワクワクする研究を行う仕事はなんと楽しいのだろう、これを職業にするしかない、と思いまして、この時にようやく研究者になることを決意し、今に至っております。
自然を相手にする研究者としては、楽しい時間と大変な時間の比率はおおよそ1対9です。そして大抵、計画通りに進まず、辛い時間の方が長いですが、新たな知を探求する研究職という職業を選んだことで、大変ワクワクしながらお給料をいただけているという点においては、大変良い選択だったと思っています。
南極観測事業の成り立ちと政策
1.南極地域観測そもそもの話
南極地域観測は昭和30年10月に閣議決定され、予算をつけていただいて、昭和34年から実施となりました。第5次まで行った後に一旦中断しますが、その後、村山雅美元南極地域観測隊長が奔走されて、当時まだ若かりし頃の中曽根康弘代議士と長谷川峻文部政務次官の2人を南極に連れていったのです。アメリカが研究者と軍との強力な連携のもと南極観測を推進していることを知った中曽根代議士は南極観測の重要性を認識し、このことが契機となって昭和38年度から南極観測が再開され、今に至っております。
2.南極地域観測と我が国の科学政策
我が国の政策で南極に関連するものが2つあります。
1つは「科学技術イノベーション基本計画」です。6つの柱のうちの1つである「社会課題を解決するための研究開発、社会実装の推進と総合知の活用」に南極地域観測は貢献するものです。
もうひとつは2023年にスタートした「第4期海洋基本計画」です。この計画には「北極・南極を含めた全球観測の実施」という項目があり、今回第4期から初めて「南極」という言葉が海洋基本計画に含まれるようになりました。
このように、南極地域観測は我が国の政策にも貢献する事業として位置づけられています。
3.取り巻く背景
日本は敗戦国ということもあり、東南極という海氷が厳しい海域に昭和基地を建設することになります。東南極の大陸のすぐ目の前にあるオングル島に日本の昭和基地があります。
海氷が厳しいエリアですので、東南極に基地を持つ先進国は未だにほとんどありません。しかし、現在では、その状況が功を奏して、この周辺のデータ収集において日本は非常に大きな役割を果たしています。
1960年に南極条約が締結されます。日本は、この時の締約国12カ国の原署名国の1つであり、南極条約締約国会議における日本の地位は非常に高いと言えます。
4.南極研究科学委員会
次にガバナンスについてです。南極に関するガバナンスとして、「南極研究科学委員会」があります。これは英語名の頭文字を取ってSCARと呼ばれています。SCARは1958年に設立された国際学術会議の委員会で、南極域や南極域の地球システムへの影響に関する先端的な国際的科学研究の立案、推進、協調を行う組織です。この委員会では重要な科学政策が決定されます。
2014年に「SCARホライズン・スキャニング」という、南極研究の今後20年の重要テーマが策定され、SCARは現在「南極大気と南大洋の全地球的影響を明らかにする」等、6つの重要分野を推進しています。
我が国の南極観測事業は、国立極地研究所が中心となり6か年ずつの中期計画として進めていますが、そのすべてが「SCARホライズン・スキャニング」の6つの重要分野に貢献するものとなっています。
地球温暖化と南極
1.大気のCO2濃度の変化
大気中のCO2濃度は変化し続けています。初めて監視観測が始まった1979年の大気中のCO2濃度は336ppmでした。それが現在では430ppmを超す濃度になっております。
約10万年という単位で過去を遡ると、CO2濃度は200ppmからせいぜい高くても280ppmという範囲を上がったり、下がったりしていました。現在私たちが暮らしている400ppmを超えるCO2濃度がいかに高い濃度であるかがお分かりいただけるかと思います。
もちろん、400ppmを超える大気中のCO2濃度というのは、地球46億年の歴史の中で何度か経験はしています。ただし現在のCO2濃度の増加速度があまりに早くて、46億年の歴史の中でも、これだけのスピードで大気中のCO2濃度が増加していた時代は、過去には一度もありません。
従って、経験したことのない速さで大気中のCO2濃度が上昇している中、これからどうなっていくかということも含めて、実は分からないことばかりなのです。したがってCO2に関しては、濃度の監視観測だけでなく、それが及ぼす周辺環境の変化、それに対する生態系の反応、こういった観測を統合的に行っていくことが重要になってきます。
2.CO2による温暖化の仕組み
もし地球上に大気がない場合、大気から降り注ぐエネルギーはそのまま宇宙に帰っていきますので、地球の平均気温は約マイナス18℃程度になります。
今現在、適度に温室効果ガスが存在してくれているおかげで、15℃という地球の平均気温になっています。太陽からのエネルギーの一部が地面に帰ってくるという温室効果です。
パリ協定で大気中のCO2をはじめとする温室効果ガスの増加による平均気温を「プラス2℃」に抑えようとしています。これは、15℃に2℃加えた17℃を意味します。しかし、これまで通りにCO2が使われ続けると、プラス2℃には収まらない。そのため、今後、さらに厳しい温暖化が懸念されています。
ところが、温暖化の影響は、場所と季節によって大きく異なります。北極域では温暖化の影響が非常に強く出ており、北半球平均の2.7倍です。また、夏と冬では、特に冬が暖かいといったような状況がIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change:気候変動に関する政府間パネル)の1.5度特別報告書にも報告されています。
実は、同じ極でも南の極である南極はこれまで温暖化に応答している様子が観測されてきませんでした。ところが、2015~2016年頃から海氷が減少する様子が衛星から観測されるようになってきました。いよいよ温暖化の波が南極周辺にも押し寄せている可能性があります。
3.南大洋が直面する2つの問題
南大洋は今、2つの問題に直面しています。
それは「海氷の減少」と、もう1つのCO2問題と呼ばれる「海洋酸性化」です。
海氷減少に関してグラフを見ますと、北極は右肩下がりでどんどん減っています。一方で南極は数年サイクルのような周期で増えたり減ったりしているのが2014年頃まで続いているのが分かります。
しかし先ほども述べましたように、2015~2016年以降、南極周辺の海氷も急激に減少を始めました。その減少速度は、北極を上回ることが衛星観測から明らかになってきました。
それから、もう1つのCO2問題と呼ばれる「海洋酸性化」についてです。実は、CO2は海水に溶けると、存在しうる形態が3つあります。
1つはガス状のCO2であり、2つ目が水と反応して炭酸水素イオン(HCO3-)であり、3つ目が炭酸イオン(CO32-)です。
この存在割合というのは、海水のpH(イオン濃度指数)によって決まってきます。現在、表面海水の平均的なpHは8.1で、弱アルカリ性です。この状態でCO2が海洋に溶け込みますと、H2Oと直ちに反応を起こして、最も安定した形である炭酸水素イオン(HCO3-)になります。
このときに、水素イオンH+を生成するのです。となると、水素イオン濃度が増加するということになり、pHは酸性の方向に傾いていく。これを海洋酸性化と呼んでいます。
では、海洋酸性化が一体どういう点で深刻なのかというと、それは生物への影響です。
CO2が海水に溶け込んでH2Oと反応すると、HCO3-と水素イオンH+が生成されますが、この炭酸系には緩衝作用という作用、すなわち増えた濃度を元に戻そうという作用が働きます。
この増えたH+を減らすためには、周辺にある炭酸イオンCO32-と反応して、弱アルカリ性で最も安定な形であるHCO3-を作り出します。
CO32-は弱アルカリの海水の中では1割程度しか含まれておらず、これが反応に使われてしまうと、CO32-の濃度を元に戻そうとする作用が働きます。どうなるかと言いますと、CaCO3という固形の炭酸カルシウムの粒子が溶けることでCO32-の濃度を元に戻そうとするわけです。
海水中に存在しているCaCO3はほぼすべて生物が作り出す骨格や殻であり、例えば貝類、エビ、カニなどの甲殻類の生物への影響が懸念されるわけです。
4.世界の海面水位上昇の将来予測と南極氷床
海水準は今現在もミリメートル単位で上昇中で、日本周辺ではだいたい年間で3.5ミリと見積もられています。
この海面水位上昇、今はミリ単位ですが、実は南極には膨大な淡水が氷床として存在し、これが融解して海水に流出してしまうと、メートル単位で海水準を上昇させてしまう可能性があるということが懸念されているわけです。東京や大阪、上海等の世界の大都市の海抜は0mなので、海面水位上昇は大都市にとって大きな問題なのです。
南極大陸の場合、大陸の表面には約3,000メートルの淡水が氷として存在しており、そろそろ氷床が融解して海水準を上昇させるフェーズに近づいているとの見解が示されています。
膨大な氷床量を持つ東南極における観測のデータは圧倒的に少ないことから、日本の独壇場といわれる東南極において、氷床がどのようなメカニズムで融解していくのかを探求することが、現在の我が国の南極地域観測における重要な研究テーマとなっています。
5.海面水位上昇だけではない南極の重要性
現在、「気候変動」や「海洋酸性化」など、安定した地球システムを脅かす10の環境ストレッサーが存在しています。
これは「プラネタリーバウンダリー」という概念です。各環境ストレッサーを同心円上に表し、地球の環境が安定した状態を保てる限界を視覚的に理解するための図があります。中心の緑色の円の内側に収まっていれば、動的平衡が成り立っていて、まだリスクは大きくない、とされていますが、緑の円をはみ出してしまっているものはリスクが大きい、とされております。
南極地域観測は、「土地利用の変化」と「水資源の枯渇」を除く8つのストレッサー(生物多様性減少、気候変動、海洋酸性化、成層圏オゾン層の破壊、新規物質の導入、窒素・リン循環、大気中エアロゾルの増加、化学汚染)の理解に貢献します。地球規模のプラネタリーバウンダリーの影響評価は、南極地域の観測研究で非常に重要な項目となります。
第66次で何をする?:重点観測
1.観測隊の編成
では次に、観測隊の編成についてご紹介したいと思います。
「越冬隊」は、夏の期間は「夏隊」と一緒に過ごして、夏が終わる頃に「夏隊」は帰りますが、そのまま昭和基地に残ってひと冬を過ごして、翌年の「夏隊」と一緒に帰ってくるというチームです。「越冬隊」は大体30人ほどですが、1番多いのは気象隊員の5人(気象庁から派遣)です。
最近は、夏の期間だけ南極で観測研究したいという方が非常に多くて、「夏隊」は60人のメンバーがいます。
隊員以外に、旅費等を参加者側で支弁する「同行者」というカテゴリーがあり、大学院生、小・中・高などの教員派遣や外国人研究者など約20人が参加しています。
これらの参加者を含め、現在の南極地域観測隊は合計で100人を超える編成となっています。
2.行動概要
観測隊は様々な役割を持つメンバーで構成されおり、3つパーティーに分かれて活動を行っています。
1つは先遣隊です。10月下旬に南極航空網を利用して南極に一足早く入ります。この時期にしか観測できない事象、例えばペンギンのルッカリー(ペンギンやアザラシが集まって子育てする場所)の調査をする隊員や、内陸で柱状の氷床サンプルを採取する「内陸ドーム旅行隊」の隊員などが、先遣隊として先行して南極に入ります。
次は本隊です。私もこの本隊に入ります。オーストラリアまで飛行機で移動した後、南極観測船「しらせ」に乗って、海洋観測を行いながら昭和基地に入ります。
最後は別動隊です。東南極周辺の南大洋は「しらせ」だけではカバーしきれないほど広く、異なる季節の観測データの取得も重要です。そこで、東京海洋大学の練習観測船「海鷹丸」を利用し、「しらせ」より約1ヶ月ほど早い時期に南大洋での海洋観測を行います。これが別動隊の役割です。
3.南極地域観測6か年計画
南極地域観測の中期計画は、6年ごとに改訂され、現在は第X期を実施中です。
先ほどご紹介した「SCARホライズン・スキャニング」には6つの重要テーマがありますが、これらのテーマが「研究観測」のテーマとなっています。
研究観測は、中期計画を2、3回繰り返して集中的に行う重点研究観測や、CO2の濃度測定のような継続して監視していく必要がある基本観測、さらに萌芽観測という、大きな課題に発展する前のチャレンジングな観測など、さまざまな課題が進められています。
4.重点研究観測:その1
(1)東南極の氷床・海水・海洋相互作用と物質循環の実態解明
SCARの重要課題に応える日本の南極地域観測について、いくつかご紹介します。
東南極地域にトッテン氷河というところがあります。これは日本の観測チームが見つけた、東南極で非常に活発に大陸氷床が融解しているエリアです。
このトッテン氷河周辺の氷床は、海氷によって蓋がされている状態で、現在、大量に淡水が融解しているわけではありません。もしこの海氷が取り除かれてしまうと、大量の淡水が海へと流れ出す可能性があります。トッテン氷床の背後に存在する氷床の淡水の量は、全球の海面を4m上昇させるほどと推測されています。これがトッテン氷河の特徴です。
私たち日本の観測隊は、今年もトッテン氷河沖の集中観測を海洋観測の柱としています。というのも、実は「氷床を融解しているのは海かもしれない」可能性があるからです。
トッテン氷河の氷床というのは棚氷という形で、海にせり出しています。そして、極方向に流れる沖合の温かい海水がこの棚氷の下部を舐めるように流れており、この流れがトッテン氷河の氷の底面融解を加速している可能性がある、ということが日本の南極地域観測隊のデータから分かってきました。
この沖合の温かい海水が本当に直接的に棚氷まで存在しているのか確認しなければなりません。そして大量の淡水が海洋に流れ出すと、当然栄養環境は変化し、生息している生物も大きく変わるでしょう。
生態系にも影響を及ぼすこの淡水の状況や、どのようなメカニズムで氷が融解していくのかなど、氷床、海洋、物質循環、生態系の面から統合的に解析、観測していくことが非常に重要であり、これら海洋観測が私たち第66次観測隊の主要なミッションとなっているのです。
(2)大気・海洋気候システムのメカニズム解明
氷床と海洋の相互作用には大気も非常に大きく関わっています。そのため、搭載している大気レーダーを用いて風や大気の循環の状況を明らかにし、海洋と大気の相互作用についての研究も重点観測の一部として行っています。
5.重点研究観測:その2
(1)100万年を超える柱状氷床サンプルの採取
SCARの重点課題に応えるもう1つのプロジェクトは、内陸にあるドームふじ観測拠点にて、過去100万年に遡る柱状の氷床サンプルを取るというものです。南極大陸の真ん中の方に行って氷床サンプルを採取してくるため、10人ぐらいのパーティーが「内陸ドーム旅行隊」として雪上車で目的地に向かいます。
晴れた日は問題ないのですが、天気が悪くなると、ほとんど視界が及ばず、トイレに行くにも赤いロープだけが唯一の頼りという命がけの状況になるのです。
現在、最も古い氷床サンプルは、ドームC基地で採取された約80万年前のものです。このプロジェクトの目標は、これを超える年代の氷床サンプルを採取することです。
(2)なぜ100万年前まで遡る必要?
なぜ100万年前まで遡る必要があるのか、という疑問があるかもしれませんが、実は理由があります。「スーパー間氷期」の存在を確認するためです。現在の温暖期は、40万年に1回起こる「スーパー間氷期」である可能性が指摘されています。間氷期は通常、せいぜい1万年程度しか続かず、現在の間氷期はスタートしてから既に1万年経っています。そのため、いつ氷期に入っていってもおかしくないタイミングです。しかし、40万年に1度の「スーパー間氷期」だと、間氷期が約2~3万年続くことになります。このことは我々が温暖化対策をしっかり行うべきことを示しています。
この仮説が本当に正しいのかを確認するためには、現在の氷床サンプルで、40万年前の1回だけ確認できた「スーパー間氷期」を再現するだけでは不十分なのです。100万年前まで遡って、もうひとつのサイクルが確実に存在することが確認できれば、現在が「スーパー間氷期」であると確定できます。
また、現在の温暖・寒冷気候変動は約100万年前頃から約10万の周期が卓越していますが、それ以前は4万年の周期が卓越していました。この周期性の大きな変換点に何が起きていたのか? この謎に迫ることも可能になります。
100万年まで遡るということは、過去の気候変動を解析し、メカニズムを理解する上で非常に重要なことなのです。
6.今後期待される南極と南大洋の研究
観測データはまだまだ足りません。本当にトッテン氷河から大量の淡水が放出されるかどうかを監視観測するためには、船舶を用いた観測が必要です。
観測船「しらせ」は、世界に冠たる砕氷能力を持つ船です。このような船を使って初めて氷を割りながら進み、観測地点に到達することができるのです。
今後も船を用いた観測は重要性を増していくでしょう。もちろん、海の観測だけでなく、大気の観測も重要です。そこに生息する海洋生態系との統合的な研究観測も、今後ますます必要とされる研究になっていくと考えられます。
7.南極観測船「しらせ」
「しらせ」は基準排水量としては1万2千トン、長さとしては140メートルです。
海上自衛隊の乗員が179名乗船して南極観測事業を支えてくださっています。
「しらせ」は就役してもう15年目に入りまして、そろそろ次世代の「しらせ」後継船の準備の時期にきているタイミングかと思います。
第66次で何をする?:昭和基地
1.昭和基地の施設
昭和基地はオングル島にあります。オングル島と南極大陸の間には、~5キロぐらいの幅を持つ海氷でびっしりと覆われたオングル海峡が存在しています。
昭和基地はかまぼこ状の住居モジュールがいくつか点在しています。昭和基地のメインとなる管理棟、夏隊が滞在する建物、越冬隊の個室が入っている建物などがあります。また、寒冷地仕様の風力発電の装置や太陽光パネルなども設置されています。
基地では風力発電、太陽光といった再生可能エネルギーも利用はしていますが、全体のエネルギーの数%で、大部分は化石燃料をエネルギー源にしています。
2.基本観測
重点研究観測以外にも基本観測として定常的に実施している観測があります。
気象庁の気象隊員は1日24時間365日気象観測を実施していますし、国土地理院の隊員は南極の地図を作る仕事をしており、海上保安庁の隊員は潮汐観測や海底地形調査を行っています。このように多くの省庁が基本観測に携わっています。
基本観測の中で、重要性を増しているのは、温室効果ガスの濃度観測です。南極の昭和基地と北極のニーオルスンという場所のCO2濃度の観測結果を示したデータには、違った特徴を見ることができます。
北半球の場合、時系列データの振幅が大きくなります。これは、北半球には大陸があって植生も多いので、季節による草木の光合成活性状態変化の影響によるものです。
一方、南半球は大陸面積が小さく、南極は植生がほとんどない状態ですので光合成活性の違いによる季節変化は見られません。一直線に上昇しているという状況になります。
3.昭和基地及び周辺での輸送・設営
設営や輸送も夏季のミッションです。補給は年1回、夏の時期のみですので、越冬隊が1年半暮らしていける資材、食糧、エネルギー全てを輸送しなければいけません。
また基地にて生じたゴミはすべて日本に持ち帰っています。廃棄物は持ち帰るという輸送も大変重要な夏のミッションということになります。
4.昭和基地、内陸、沿岸観測
昭和基地沿岸の輸送・設営のほかにも、約1,045本の八木式アンテナをネットワーク化したPANSYレーダーを使って昭和基地周辺の超高層大気の観測をします。
大陸の成り立ちを調査するチームは地質観測を行い、南極特有の大型生物であるペンギンの行動生態を研究する者もいます。
また、南極大陸は塵が少なく空気がきれいですので、天文の研究者も南極で観測を行っています。
強力な支援組織:海上自衛隊
1.観測支援
南極地域観測においては、海洋観測、設営、輸送、八木式アンテナの下の除雪など、海上自衛隊から絶大なるご支援をいただいています。
野外観測を行う場合、研究者たちは大陸周辺の様々な拠点に行きたいのですが、ヘリコプターでの移動も海上自衛隊の支援を受けています。
2.輸送支援、設営支援
燃料は、パイプラインを「しらせ」から昭和基地のオイルタンクにつないで輸送します。それ以外にもヘリコプターを使った航空機輸送、大型の物資は雪上車とソリを使った氷上輸送など、輸送には2週間から3週間かかりますが、昼夜問わず、海上自衛隊のご支援をいただいています。
このほか、新しい建物の建築、発電機のオーバーホールといった基地の設営面の仕事に関しても大きな支えとなっています。
南極観測隊長を務めるにあたって
1.女性リーダーと性差偏見
最後に南極地域観測隊長を務めるにあたって、少しお話しします。
リーダー像というと、男性というイメージが強いのですが、これは無意識のバイアスの1つでして、男性がこれまで担ってきた役割を女性が担うということに関する葛藤はそれなりに本人も持っているところです。
ここにハーバード大学で行われたベンチャー企業が多数集まるシリコンバレーの調査の結果があります。「あなたは男性リーダーの下で働きたいですか? それとも女性リーダーの下で働きたいですか?」というアンケート調査の結果、圧倒的に「男性リーダーの下で働きたい」の「はい」が多く、「女性リーダーの下で働きたい」については、圧倒的に「いいえ」が多いのです。
アメリカの非常にリベラルな地域と言われるところでも、こういう結果になることから、おそらく日本も、あるいは南極地域観測隊もこの意識は少なからず存在しているであろうと思いながら、この役割をお引き受けしているところであります。
2.女性リーダーを第66次隊に置き換えると
隊長の役割というのは、現場で最終的な方針、決定を下すというものです。「本当にこの人に判断を任せても大丈夫なのか?」という思い、そして先ほどの調査結果もあるように、「女性の隊長だし・・」という思い、初めて顔を合わせるタイミングである3月の冬期訓練の時には、全員このような不安感を持っていると思います。
そこで、ここから出発までの12月までの間に、隊員の皆さんとしっかりと信頼関係を築く努力をしていく。問題の種がありそうなら、それが小さいうちに摘んでしまう。「どう元気?」という隊員の皆さんへの声掛けをしながらしっかりとコミュニケーションを取り、最終的には「この人だったら大丈夫だろうな」と思ってもらえるような関係性を築いていきたい、一歩ずつ進めていきたいと思っています。
最後に:南極地域観測の魅力とは
南極地域観測、大変魅力的な現場なのですが、常に死が隣り合わせですので、いざという時に助け合える非常に強力な信頼関係が不可欠です。
南極で寝食を共にしながら仕事をしているとこの信頼関係(絆)が強まり、色々なことにものすごく感動して、感情が大きく揺さぶられる現場です。大の大人でも涙を流したりする人も増えます。
非常に厳しい環境ではありますけれども、大変ワクワクとする現場で働けていることの幸せを感じております。
ご清聴ありがとうございました。
講師略歴
原田 尚美(はらだ なおみ)
東京大学 大気海洋研究所 国際・地域連携研究センター 教授
1991年文部技官(博士課程1年第33次南極地域観測隊員)
1996年海洋科学技術センター(現:海洋研究開発機構)に研究員として就職
2018年国立極地研究所客員教授(第60次南極地域観測隊副隊長・夏隊長)
2022年東京大学大気海洋研究所附属国際・地域連携研究センター教授
2024年国立極地研究所客員教授(第66次南極地域観測隊隊長・夏隊長)
演題 南極地域観測の現状と意義
令和6年5月8日(水)開催
はじめに
東京大学の原田尚美と申します。ご紹介いただきありがとうございます。
今日は南極地域観測の現状と意義について、7つの項目に分けてお話しします。
1つ目が自己紹介、2つ目が南極観測事業の成り立ちと政策、3つ目が地球温暖化と南極、4つ目が第66次で何をする?:重点観測、5つ目が第66次で何をする?:昭和基地、6つ目が強力な支援組織である海上自衛隊、7つ目が南極観測隊長を務めるにあたって、となっています。
自己紹介
私の専門分野は生物地球化学で、古海洋学という古い時代の海洋環境を復元する研究をしています。具体的には、海底の堆積物に記録された生物由来の有機化合物をマーカーとして使用します。海底堆積物は表面が最も新しくて、深くなればなるほど古い時代の記録が保存されているタイムレコーダーのようなものです。堆積物中のバイオマーカーを分析することで、過去の海洋環境を復元し、自然変動による気候変動の度合いを理解する研究を行っています。
海洋極域、特に北極あるいは南大洋は環境の変化に対する反応が激しいエリアです。そういった極域の環境の変化に対して、そこに生息する生物たちがどう反応しているのか、といった研究も併せて行なっています。
こうした分野が生物地球化学という分野です。
私は最初から研究者になろうとか、大学院博士課程に行こうと思っていたわけではなく、実は修士の卒業後の就職も決まっておりました。
私が所属していた研究室は海洋のフィールドワークを中心に研究している研究室でした。指導教官に頼み込んで、初めて先生と一緒に赤道の研究航海に参加した時に、研究航海の素晴らしさを知ったのです。みんなで連携してサンプルを取り、分析・解析をするということに大変感動して、決まっていた就職を断り、博士課程に進学するということを決めてしまいました。
そして33年前、博士課程の1年生の時に突然チャンスがやってきます。国立極地研究所から指導教官に対して「南大洋で観測をするので、ぜひ手伝ってくれる学生を出してくれないか」と申し出が来たのです。当時、日本隊において南極に隊員として行った経験のある女性は1人しかいない状況です。男子学生がみな断ったことを小耳に挟んだ私は、渋る指導教官を説得して、第33次の南極地域観測隊の一員として行かせていただくことになりました。
南極は学生にとって、見るもの、やること、すべてが新鮮です。こんなにワクワクする研究を行う仕事はなんと楽しいのだろう、これを職業にするしかない、と思いまして、この時にようやく研究者になることを決意し、今に至っております。
自然を相手にする研究者としては、楽しい時間と大変な時間の比率はおおよそ1対9です。そして大抵、計画通りに進まず、辛い時間の方が長いですが、新たな知を探求する研究職という職業を選んだことで、大変ワクワクしながらお給料をいただけているという点においては、大変良い選択だったと思っています。
南極観測事業の成り立ちと政策
1.南極地域観測そもそもの話
南極地域観測は昭和30年10月に閣議決定され、予算をつけていただいて、昭和34年から実施となりました。第5次まで行った後に一旦中断しますが、その後、村山雅美元南極地域観測隊長が奔走されて、当時まだ若かりし頃の中曽根康弘代議士と長谷川峻文部政務次官の2人を南極に連れていったのです。アメリカが研究者と軍との強力な連携のもと南極観測を推進していることを知った中曽根代議士は南極観測の重要性を認識し、このことが契機となって昭和38年度から南極観測が再開され、今に至っております。
2.南極地域観測と我が国の科学政策
我が国の政策で南極に関連するものが2つあります。
1つは「科学技術イノベーション基本計画」です。6つの柱のうちの1つである「社会課題を解決するための研究開発、社会実装の推進と総合知の活用」に南極地域観測は貢献するものです。
もうひとつは2023年にスタートした「第4期海洋基本計画」です。この計画には「北極・南極を含めた全球観測の実施」という項目があり、今回第4期から初めて「南極」という言葉が海洋基本計画に含まれるようになりました。
このように、南極地域観測は我が国の政策にも貢献する事業として位置づけられています。
3.取り巻く背景
日本は敗戦国ということもあり、東南極という海氷が厳しい海域に昭和基地を建設することになります。東南極の大陸のすぐ目の前にあるオングル島に日本の昭和基地があります。
海氷が厳しいエリアですので、東南極に基地を持つ先進国は未だにほとんどありません。しかし、現在では、その状況が功を奏して、この周辺のデータ収集において日本は非常に大きな役割を果たしています。
1960年に南極条約が締結されます。日本は、この時の締約国12カ国の原署名国の1つであり、南極条約締約国会議における日本の地位は非常に高いと言えます。
4.南極研究科学委員会
次にガバナンスについてです。南極に関するガバナンスとして、「南極研究科学委員会」があります。これは英語名の頭文字を取ってSCARと呼ばれています。SCARは1958年に設立された国際学術会議の委員会で、南極域や南極域の地球システムへの影響に関する先端的な国際的科学研究の立案、推進、協調を行う組織です。この委員会では重要な科学政策が決定されます。
2014年に「SCARホライズン・スキャニング」という、南極研究の今後20年の重要テーマが策定され、SCARは現在「南極大気と南大洋の全地球的影響を明らかにする」等、6つの重要分野を推進しています。
我が国の南極観測事業は、国立極地研究所が中心となり6か年ずつの中期計画として進めていますが、そのすべてが「SCARホライズン・スキャニング」の6つの重要分野に貢献するものとなっています。
地球温暖化と南極
1.大気のCO2濃度の変化
大気中のCO2濃度は変化し続けています。初めて監視観測が始まった1979年の大気中のCO2濃度は336ppmでした。それが現在では430ppmを超す濃度になっております。
約10万年という単位で過去を遡ると、CO2濃度は200ppmからせいぜい高くても280ppmという範囲を上がったり、下がったりしていました。現在私たちが暮らしている400ppmを超えるCO2濃度がいかに高い濃度であるかがお分かりいただけるかと思います。
もちろん、400ppmを超える大気中のCO2濃度というのは、地球46億年の歴史の中で何度か経験はしています。ただし現在のCO2濃度の増加速度があまりに早くて、46億年の歴史の中でも、これだけのスピードで大気中のCO2濃度が増加していた時代は、過去には一度もありません。
従って、経験したことのない速さで大気中のCO2濃度が上昇している中、これからどうなっていくかということも含めて、実は分からないことばかりなのです。したがってCO2に関しては、濃度の監視観測だけでなく、それが及ぼす周辺環境の変化、それに対する生態系の反応、こういった観測を統合的に行っていくことが重要になってきます。
2.CO2による温暖化の仕組み
もし地球上に大気がない場合、大気から降り注ぐエネルギーはそのまま宇宙に帰っていきますので、地球の平均気温は約マイナス18℃程度になります。
今現在、適度に温室効果ガスが存在してくれているおかげで、15℃という地球の平均気温になっています。太陽からのエネルギーの一部が地面に帰ってくるという温室効果です。
パリ協定で大気中のCO2をはじめとする温室効果ガスの増加による平均気温を「プラス2℃」に抑えようとしています。これは、15℃に2℃加えた17℃を意味します。しかし、これまで通りにCO2が使われ続けると、プラス2℃には収まらない。そのため、今後、さらに厳しい温暖化が懸念されています。
ところが、温暖化の影響は、場所と季節によって大きく異なります。北極域では温暖化の影響が非常に強く出ており、北半球平均の2.7倍です。また、夏と冬では、特に冬が暖かいといったような状況がIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change:気候変動に関する政府間パネル)の1.5度特別報告書にも報告されています。
実は、同じ極でも南の極である南極はこれまで温暖化に応答している様子が観測されてきませんでした。ところが、2015~2016年頃から海氷が減少する様子が衛星から観測されるようになってきました。いよいよ温暖化の波が南極周辺にも押し寄せている可能性があります。
3.南大洋が直面する2つの問題
南大洋は今、2つの問題に直面しています。
それは「海氷の減少」と、もう1つのCO2問題と呼ばれる「海洋酸性化」です。
海氷減少に関してグラフを見ますと、北極は右肩下がりでどんどん減っています。一方で南極は数年サイクルのような周期で増えたり減ったりしているのが2014年頃まで続いているのが分かります。
しかし先ほども述べましたように、2015~2016年以降、南極周辺の海氷も急激に減少を始めました。その減少速度は、北極を上回ることが衛星観測から明らかになってきました。
それから、もう1つのCO2問題と呼ばれる「海洋酸性化」についてです。実は、CO2は海水に溶けると、存在しうる形態が3つあります。
1つはガス状のCO2であり、2つ目が水と反応して炭酸水素イオン(HCO3-)であり、3つ目が炭酸イオン(CO32-)です。
この存在割合というのは、海水のpH(イオン濃度指数)によって決まってきます。現在、表面海水の平均的なpHは8.1で、弱アルカリ性です。この状態でCO2が海洋に溶け込みますと、H2Oと直ちに反応を起こして、最も安定した形である炭酸水素イオン(HCO3-)になります。
このときに、水素イオンH+を生成するのです。となると、水素イオン濃度が増加するということになり、pHは酸性の方向に傾いていく。これを海洋酸性化と呼んでいます。
では、海洋酸性化が一体どういう点で深刻なのかというと、それは生物への影響です。
CO2が海水に溶け込んでH2Oと反応すると、HCO3-と水素イオンH+が生成されますが、この炭酸系には緩衝作用という作用、すなわち増えた濃度を元に戻そうという作用が働きます。
この増えたH+を減らすためには、周辺にある炭酸イオンCO32-と反応して、弱アルカリ性で最も安定な形であるHCO3-を作り出します。
CO32-は弱アルカリの海水の中では1割程度しか含まれておらず、これが反応に使われてしまうと、CO32-の濃度を元に戻そうとする作用が働きます。どうなるかと言いますと、CaCO3という固形の炭酸カルシウムの粒子が溶けることでCO32-の濃度を元に戻そうとするわけです。
海水中に存在しているCaCO3はほぼすべて生物が作り出す骨格や殻であり、例えば貝類、エビ、カニなどの甲殻類の生物への影響が懸念されるわけです。
4.世界の海面水位上昇の将来予測と南極氷床
海水準は今現在もミリメートル単位で上昇中で、日本周辺ではだいたい年間で3.5ミリと見積もられています。
この海面水位上昇、今はミリ単位ですが、実は南極には膨大な淡水が氷床として存在し、これが融解して海水に流出してしまうと、メートル単位で海水準を上昇させてしまう可能性があるということが懸念されているわけです。東京や大阪、上海等の世界の大都市の海抜は0mなので、海面水位上昇は大都市にとって大きな問題なのです。
南極大陸の場合、大陸の表面には約3,000メートルの淡水が氷として存在しており、そろそろ氷床が融解して海水準を上昇させるフェーズに近づいているとの見解が示されています。
膨大な氷床量を持つ東南極における観測のデータは圧倒的に少ないことから、日本の独壇場といわれる東南極において、氷床がどのようなメカニズムで融解していくのかを探求することが、現在の我が国の南極地域観測における重要な研究テーマとなっています。
5.海面水位上昇だけではない南極の重要性
現在、「気候変動」や「海洋酸性化」など、安定した地球システムを脅かす10の環境ストレッサーが存在しています。
これは「プラネタリーバウンダリー」という概念です。各環境ストレッサーを同心円上に表し、地球の環境が安定した状態を保てる限界を視覚的に理解するための図があります。中心の緑色の円の内側に収まっていれば、動的平衡が成り立っていて、まだリスクは大きくない、とされていますが、緑の円をはみ出してしまっているものはリスクが大きい、とされております。
南極地域観測は、「土地利用の変化」と「水資源の枯渇」を除く8つのストレッサー(生物多様性減少、気候変動、海洋酸性化、成層圏オゾン層の破壊、新規物質の導入、窒素・リン循環、大気中エアロゾルの増加、化学汚染)の理解に貢献します。地球規模のプラネタリーバウンダリーの影響評価は、南極地域の観測研究で非常に重要な項目となります。
第66次で何をする?:重点観測
1.観測隊の編成
では次に、観測隊の編成についてご紹介したいと思います。
「越冬隊」は、夏の期間は「夏隊」と一緒に過ごして、夏が終わる頃に「夏隊」は帰りますが、そのまま昭和基地に残ってひと冬を過ごして、翌年の「夏隊」と一緒に帰ってくるというチームです。「越冬隊」は大体30人ほどですが、1番多いのは気象隊員の5人(気象庁から派遣)です。
最近は、夏の期間だけ南極で観測研究したいという方が非常に多くて、「夏隊」は60人のメンバーがいます。
隊員以外に、旅費等を参加者側で支弁する「同行者」というカテゴリーがあり、大学院生、小・中・高などの教員派遣や外国人研究者など約20人が参加しています。
これらの参加者を含め、現在の南極地域観測隊は合計で100人を超える編成となっています。
2.行動概要
観測隊は様々な役割を持つメンバーで構成されおり、3つパーティーに分かれて活動を行っています。
1つは先遣隊です。10月下旬に南極航空網を利用して南極に一足早く入ります。この時期にしか観測できない事象、例えばペンギンのルッカリー(ペンギンやアザラシが集まって子育てする場所)の調査をする隊員や、内陸で柱状の氷床サンプルを採取する「内陸ドーム旅行隊」の隊員などが、先遣隊として先行して南極に入ります。
次は本隊です。私もこの本隊に入ります。オーストラリアまで飛行機で移動した後、南極観測船「しらせ」に乗って、海洋観測を行いながら昭和基地に入ります。
最後は別動隊です。東南極周辺の南大洋は「しらせ」だけではカバーしきれないほど広く、異なる季節の観測データの取得も重要です。そこで、東京海洋大学の練習観測船「海鷹丸」を利用し、「しらせ」より約1ヶ月ほど早い時期に南大洋での海洋観測を行います。これが別動隊の役割です。
3.南極地域観測6か年計画
南極地域観測の中期計画は、6年ごとに改訂され、現在は第X期を実施中です。
先ほどご紹介した「SCARホライズン・スキャニング」には6つの重要テーマがありますが、これらのテーマが「研究観測」のテーマとなっています。
研究観測は、中期計画を2、3回繰り返して集中的に行う重点研究観測や、CO2の濃度測定のような継続して監視していく必要がある基本観測、さらに萌芽観測という、大きな課題に発展する前のチャレンジングな観測など、さまざまな課題が進められています。
4.重点研究観測:その1
(1)東南極の氷床・海水・海洋相互作用と物質循環の実態解明
SCARの重要課題に応える日本の南極地域観測について、いくつかご紹介します。
東南極地域にトッテン氷河というところがあります。これは日本の観測チームが見つけた、東南極で非常に活発に大陸氷床が融解しているエリアです。
このトッテン氷河周辺の氷床は、海氷によって蓋がされている状態で、現在、大量に淡水が融解しているわけではありません。もしこの海氷が取り除かれてしまうと、大量の淡水が海へと流れ出す可能性があります。トッテン氷床の背後に存在する氷床の淡水の量は、全球の海面を4m上昇させるほどと推測されています。これがトッテン氷河の特徴です。
私たち日本の観測隊は、今年もトッテン氷河沖の集中観測を海洋観測の柱としています。というのも、実は「氷床を融解しているのは海かもしれない」可能性があるからです。
トッテン氷河の氷床というのは棚氷という形で、海にせり出しています。そして、極方向に流れる沖合の温かい海水がこの棚氷の下部を舐めるように流れており、この流れがトッテン氷河の氷の底面融解を加速している可能性がある、ということが日本の南極地域観測隊のデータから分かってきました。
この沖合の温かい海水が本当に直接的に棚氷まで存在しているのか確認しなければなりません。そして大量の淡水が海洋に流れ出すと、当然栄養環境は変化し、生息している生物も大きく変わるでしょう。
生態系にも影響を及ぼすこの淡水の状況や、どのようなメカニズムで氷が融解していくのかなど、氷床、海洋、物質循環、生態系の面から統合的に解析、観測していくことが非常に重要であり、これら海洋観測が私たち第66次観測隊の主要なミッションとなっているのです。
(2)大気・海洋気候システムのメカニズム解明
氷床と海洋の相互作用には大気も非常に大きく関わっています。そのため、搭載している大気レーダーを用いて風や大気の循環の状況を明らかにし、海洋と大気の相互作用についての研究も重点観測の一部として行っています。
5.重点研究観測:その2
(1)100万年を超える柱状氷床サンプルの採取
SCARの重点課題に応えるもう1つのプロジェクトは、内陸にあるドームふじ観測拠点にて、過去100万年に遡る柱状の氷床サンプルを取るというものです。南極大陸の真ん中の方に行って氷床サンプルを採取してくるため、10人ぐらいのパーティーが「内陸ドーム旅行隊」として雪上車で目的地に向かいます。
晴れた日は問題ないのですが、天気が悪くなると、ほとんど視界が及ばず、トイレに行くにも赤いロープだけが唯一の頼りという命がけの状況になるのです。
現在、最も古い氷床サンプルは、ドームC基地で採取された約80万年前のものです。このプロジェクトの目標は、これを超える年代の氷床サンプルを採取することです。
(2)なぜ100万年前まで遡る必要?
なぜ100万年前まで遡る必要があるのか、という疑問があるかもしれませんが、実は理由があります。「スーパー間氷期」の存在を確認するためです。現在の温暖期は、40万年に1回起こる「スーパー間氷期」である可能性が指摘されています。間氷期は通常、せいぜい1万年程度しか続かず、現在の間氷期はスタートしてから既に1万年経っています。そのため、いつ氷期に入っていってもおかしくないタイミングです。しかし、40万年に1度の「スーパー間氷期」だと、間氷期が約2~3万年続くことになります。このことは我々が温暖化対策をしっかり行うべきことを示しています。
この仮説が本当に正しいのかを確認するためには、現在の氷床サンプルで、40万年前の1回だけ確認できた「スーパー間氷期」を再現するだけでは不十分なのです。100万年前まで遡って、もうひとつのサイクルが確実に存在することが確認できれば、現在が「スーパー間氷期」であると確定できます。
また、現在の温暖・寒冷気候変動は約100万年前頃から約10万の周期が卓越していますが、それ以前は4万年の周期が卓越していました。この周期性の大きな変換点に何が起きていたのか? この謎に迫ることも可能になります。
100万年まで遡るということは、過去の気候変動を解析し、メカニズムを理解する上で非常に重要なことなのです。
6.今後期待される南極と南大洋の研究
観測データはまだまだ足りません。本当にトッテン氷河から大量の淡水が放出されるかどうかを監視観測するためには、船舶を用いた観測が必要です。
観測船「しらせ」は、世界に冠たる砕氷能力を持つ船です。このような船を使って初めて氷を割りながら進み、観測地点に到達することができるのです。
今後も船を用いた観測は重要性を増していくでしょう。もちろん、海の観測だけでなく、大気の観測も重要です。そこに生息する海洋生態系との統合的な研究観測も、今後ますます必要とされる研究になっていくと考えられます。
7.南極観測船「しらせ」
「しらせ」は基準排水量としては1万2千トン、長さとしては140メートルです。
海上自衛隊の乗員が179名乗船して南極観測事業を支えてくださっています。
「しらせ」は就役してもう15年目に入りまして、そろそろ次世代の「しらせ」後継船の準備の時期にきているタイミングかと思います。
第66次で何をする?:昭和基地
1.昭和基地の施設
昭和基地はオングル島にあります。オングル島と南極大陸の間には、~5キロぐらいの幅を持つ海氷でびっしりと覆われたオングル海峡が存在しています。
昭和基地はかまぼこ状の住居モジュールがいくつか点在しています。昭和基地のメインとなる管理棟、夏隊が滞在する建物、越冬隊の個室が入っている建物などがあります。また、寒冷地仕様の風力発電の装置や太陽光パネルなども設置されています。
基地では風力発電、太陽光といった再生可能エネルギーも利用はしていますが、全体のエネルギーの数%で、大部分は化石燃料をエネルギー源にしています。
2.基本観測
重点研究観測以外にも基本観測として定常的に実施している観測があります。
気象庁の気象隊員は1日24時間365日気象観測を実施していますし、国土地理院の隊員は南極の地図を作る仕事をしており、海上保安庁の隊員は潮汐観測や海底地形調査を行っています。このように多くの省庁が基本観測に携わっています。
基本観測の中で、重要性を増しているのは、温室効果ガスの濃度観測です。南極の昭和基地と北極のニーオルスンという場所のCO2濃度の観測結果を示したデータには、違った特徴を見ることができます。
北半球の場合、時系列データの振幅が大きくなります。これは、北半球には大陸があって植生も多いので、季節による草木の光合成活性状態変化の影響によるものです。
一方、南半球は大陸面積が小さく、南極は植生がほとんどない状態ですので光合成活性の違いによる季節変化は見られません。一直線に上昇しているという状況になります。
3.昭和基地及び周辺での輸送・設営
設営や輸送も夏季のミッションです。補給は年1回、夏の時期のみですので、越冬隊が1年半暮らしていける資材、食糧、エネルギー全てを輸送しなければいけません。
また基地にて生じたゴミはすべて日本に持ち帰っています。廃棄物は持ち帰るという輸送も大変重要な夏のミッションということになります。
4.昭和基地、内陸、沿岸観測
昭和基地沿岸の輸送・設営のほかにも、約1,045本の八木式アンテナをネットワーク化したPANSYレーダーを使って昭和基地周辺の超高層大気の観測をします。
大陸の成り立ちを調査するチームは地質観測を行い、南極特有の大型生物であるペンギンの行動生態を研究する者もいます。
また、南極大陸は塵が少なく空気がきれいですので、天文の研究者も南極で観測を行っています。
強力な支援組織:海上自衛隊
1.観測支援
南極地域観測においては、海洋観測、設営、輸送、八木式アンテナの下の除雪など、海上自衛隊から絶大なるご支援をいただいています。
野外観測を行う場合、研究者たちは大陸周辺の様々な拠点に行きたいのですが、ヘリコプターでの移動も海上自衛隊の支援を受けています。
2.輸送支援、設営支援
燃料は、パイプラインを「しらせ」から昭和基地のオイルタンクにつないで輸送します。それ以外にもヘリコプターを使った航空機輸送、大型の物資は雪上車とソリを使った氷上輸送など、輸送には2週間から3週間かかりますが、昼夜問わず、海上自衛隊のご支援をいただいています。
このほか、新しい建物の建築、発電機のオーバーホールといった基地の設営面の仕事に関しても大きな支えとなっています。
南極観測隊長を務めるにあたって
1.女性リーダーと性差偏見
最後に南極地域観測隊長を務めるにあたって、少しお話しします。
リーダー像というと、男性というイメージが強いのですが、これは無意識のバイアスの1つでして、男性がこれまで担ってきた役割を女性が担うということに関する葛藤はそれなりに本人も持っているところです。
ここにハーバード大学で行われたベンチャー企業が多数集まるシリコンバレーの調査の結果があります。「あなたは男性リーダーの下で働きたいですか? それとも女性リーダーの下で働きたいですか?」というアンケート調査の結果、圧倒的に「男性リーダーの下で働きたい」の「はい」が多く、「女性リーダーの下で働きたい」については、圧倒的に「いいえ」が多いのです。
アメリカの非常にリベラルな地域と言われるところでも、こういう結果になることから、おそらく日本も、あるいは南極地域観測隊もこの意識は少なからず存在しているであろうと思いながら、この役割をお引き受けしているところであります。
2.女性リーダーを第66次隊に置き換えると
隊長の役割というのは、現場で最終的な方針、決定を下すというものです。「本当にこの人に判断を任せても大丈夫なのか?」という思い、そして先ほどの調査結果もあるように、「女性の隊長だし・・」という思い、初めて顔を合わせるタイミングである3月の冬期訓練の時には、全員このような不安感を持っていると思います。
そこで、ここから出発までの12月までの間に、隊員の皆さんとしっかりと信頼関係を築く努力をしていく。問題の種がありそうなら、それが小さいうちに摘んでしまう。「どう元気?」という隊員の皆さんへの声掛けをしながらしっかりとコミュニケーションを取り、最終的には「この人だったら大丈夫だろうな」と思ってもらえるような関係性を築いていきたい、一歩ずつ進めていきたいと思っています。
最後に:南極地域観測の魅力とは
南極地域観測、大変魅力的な現場なのですが、常に死が隣り合わせですので、いざという時に助け合える非常に強力な信頼関係が不可欠です。
南極で寝食を共にしながら仕事をしているとこの信頼関係(絆)が強まり、色々なことにものすごく感動して、感情が大きく揺さぶられる現場です。大の大人でも涙を流したりする人も増えます。
非常に厳しい環境ではありますけれども、大変ワクワクとする現場で働けていることの幸せを感じております。
ご清聴ありがとうございました。
講師略歴
原田 尚美(はらだ なおみ)
東京大学 大気海洋研究所 国際・地域連携研究センター 教授
1991年文部技官(博士課程1年第33次南極地域観測隊員)
1996年海洋科学技術センター(現:海洋研究開発機構)に研究員として就職
2018年国立極地研究所客員教授(第60次南極地域観測隊副隊長・夏隊長)
2022年東京大学大気海洋研究所附属国際・地域連携研究センター教授
2024年国立極地研究所客員教授(第66次南極地域観測隊隊長・夏隊長)