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路線価でひもとく街の歴史

第54回 特別編
120年前の地価で探す次世代まちづくりの着眼点


7月1日、令和6年の路線価が発表された。コロナ禍が収束し人流が戻ってきたこと、円安を追い風に外国人観光客が増えたことから、観光地とりわけホテル需要が旺盛なエリアの価格が上昇したのが今年の特長だ。税務署別にみると、前年比上昇率の全国トップは長野県白馬村の32.1%だった。4位が伝統的建造物群保存地区の高山市上三之町(かみさんのまち)で、5位が浅草雷門と新札幌駅前だった。東京では渋谷駅前の路線価が新宿通りを追い越した。連載に関するトピックとしては、令和5年3月号で紹介した前橋市が32年ぶりに上昇。馬場川通りのまちづくりが奏功した。今年の3月号(沼津市の回)では沼津市の最高路線価が三島市に昨年並ばれたと書いたが今年は抜かれてしまった。

明治の地価上位は貿易港

今月は特別編として120年前の「最高路線価」を紹介する。戦前刊行された大蔵省主税局年報書に道府県別の最高地価が所載されており、これを元に、最も古いデータの明治37年(1904)から30年おきに最高地価を抽出した(図1 都道府県別の最高地価地点)。明治37年は日露戦争が始まった年だ。2列目が昭和9年(1934)の最高賃貸価格、3~4列目は昭和39年(1964)、令和6年(2024)の最高路線価である。ページ幅の都合で平成6年(1994)はスキップした。物価や評価手法が異なるので同じ都市の地価変動を解釈するのは難しい。地価を切り口に都市の位置づけの変遷を探索することが問題意識だ。
では一番上の行から見てみよう。明治37年、北海道の最高地価は札幌でなく函館だった。市制施行前の函館区で、連載では令和5年2月号(函館市)で採り上げた。函館の最高地価地点は末廣町で、青函連絡船が着岸した東濵桟橋の1筋陸側にある。通りには旧日本銀行函館支店をはじめとする近代建築が残っており往時の函館を彷彿させる観光名所となっている。興味深いのは、函館が47道府県で東京、横浜、大阪、神戸に次ぐ第5位だったことである。函館につづくのが京都、名古屋である。地価でいえば函館は6大都市と肩を並べていた。8位以下には下関、尾道、長崎、福岡、新潟そして静岡がつづく。人も物も船で移動していた時代である。当時の最高地価地点には貿易港が多かった。
北から順に見ていくと、青森県で最も地価の高い場所は旧藩庁の弘前でも青函連絡船の青森でもなく、港町八戸の十三日町(じゅうさんにちまち)である。岩手県は盛岡市肴町が一等地だった。今も界隈には岩手銀行赤レンガ館をはじめとする明治・大正・昭和初期の銀行建築が並ぶ。市外を貫く中津川の向こう岸には盛岡城跡が見え、歴史を輪切りにしたような街だ。ニューヨーク・タイムズ紙「2023年に行くべき52カ所」に掲載され一躍有名になった。東北の雄は今も昔も仙台だが、当時の最高地価地点は駅前でなく大町四丁目だった。大町通は城下町を貫く東西路で、西端には仙台城(青葉城)大手門があった。その四丁目は奥州街道との交差点、「芭蕉の辻」の界隈だ。仙台に次ぐ東北第2位の都市は山形県の酒田だった。北前船の西廻り航路の発着点で、中でも港があった船場(ふなば)町が最高地価地点だった。言うまでもなく県都の山形市を上回っていた。

関東の3大「小江戸」

江戸時代の土蔵造りの街なみが残る川越、栃木、佐原(さわら)の3つの街は「小江戸」と呼ばれる。いずれも舟運で栄え、当時の県庁所在地を上回る県内の最高地価地点だった。小江戸の筆頭が川越である。埼玉県の最高地価は県都の浦和でも鉄道拠点の大宮でもなく、新河岸川舟運で栄えた川越だった。川越には埼玉県初の銀行、第八十五国立銀行の本店もあった。現在の埼玉りそな銀行だ。大正7年(1918)築の行舎はまちづくり拠点施設「りそなコエドテラス」に改装された。
次は栃木町(現・栃木市)である。明治17年(1884)に宇都宮に移転するまではここが県庁所在地だった。移転後も明治42年(1909)までは栃木の地価が宇都宮を上回っていた。巴波(うずま)川舟運の河岸を拠点に物流が発展した「蔵の街」だ。例幣使街道の宿場町でもある。
3つ目が平成の大合併を経て今は香取市に属する佐原である。利根川舟運で栄えたことから「水郷(すいごう)」と呼ばれる。「お江戸見たけりゃ佐原へござれ 佐原本町 江戸まさり」と唄われた。引退後に「大日本沿海輿地全図」を作成した伊能忠敬が事業経営者として現役時代を過ごした街でもある。

北國街道沿いの中心地

今年は新幹線の延伸効果で北陸3県の最高路線価も上昇した。上昇率が最も高かったのは福井駅前で小松駅前がこれに次ぐ。いずれも駅前だが、明治時代の最高地価地点はすべて北國街道沿いだった。富山市はアーケード街の東端近辺の東四十物町(ひがしあいもんちょう)が一等地だった。四十物とは塩魚の意味で、魚市場にちなんだ町名だ。東京の日本橋本船町(ほんふなちょう)、盛岡の肴町もそうだが、魚市場が街の中心となったケースはいくつかある。
石川県金沢市の一等地は尾張町だった。金沢城の北側で、大手門いわば正面玄関の前にあった。図2 尾張町の碑と尾張町町民文化館の尾張町町民文化館は明治40年(1907)に建てられた元の金沢貯蓄銀行で、後に北陸銀行尾張町支店となった。土蔵造りの行舎は明治に多かったが、現存するのは珍しい。昭和9年の最高賃貸価格は下近江町で、現在の近江町市場だ。戦後、一等地が城の南西の片町に移り、香林坊を経て現在の駅前に至る。
福井市は戦後早々から福井駅前が最高路線価地点だったが、明治期は北國街道沿いの照手上町(てるてかみちょう)が最も地価の高い場所だった。城下町の南側に流れる足羽川に架かる九十九(つくも)橋の北詰の近辺にある。そこから駅に向かって移っていったが駅前には到達していなかった。

舟運ルートの河岸の街

織田信長が天下布武の拠点とした金華山(旧称・稲葉山)のふもと、1300年以上の歴史をもつ鵜飼で知られる長良川の手前が岐阜の旧城下町である。明治の最高地価は旧城下町の靭屋町(うつぼやちょう)だった。町に面する尾張街道は、鵜飼漁で獲れた鮎鮨を運ぶルートだったことから「鮎鮓(あゆすし)街道」、「御鮨街道」という別名がある。川沿いの湊町、玉井町、元浜町からなる「川原町」に古い街なみが残っており観光客を集めている。
京都の一等地は新京極だった。明治5年(1872)に区画整理でできた繁華街だ。今でこそ修学旅行生とおみやげ店のイメージが強く、京都の中心といえば四条河原町を想起するが、四条通が明治44年(1911)、河原町通は昭和2年(1927)に拡幅されて市電ルートになってからの話である。それまでは河原町通の1筋東の木屋町通が街の南北軸だった。木屋町通に沿って高瀬川運河と市電が走っていた。
運河は伏見が終点で、宇治川、淀川を辿って大阪に至る。大阪市の明治期の最高地価地点は天神橋筋一丁目だが、その対岸の天満橋南詰に八軒家浜(はちけんやはま)船着場があった。明治43年(1910)、この場所に京阪天満橋駅が開業する。当時は大阪側の発着点だった。その後、舟運から鉄道に主要交通手段が移るに従って大阪の都市軸は堺筋に移っていった。昭和9年の最高賃貸価格地点は証券取引所界隈の北濱2丁目である。市電ルートだった堺筋には銀行や百貨店が多かった。目を見張るのは大阪市の地価が全国で最も高かったことである。大正12年(1923)に発生した関東大震災で首都東京が甚大なダメージを受けたこともあった。この頃、わが国2番目の地下鉄が御堂筋に開通した。昭和8年(1933)に開通したのは梅田から心斎橋までの区間である。戦争が終わるまでに天王寺駅まで延伸し、大国町駅から分かれた支線が花園町駅まで開通した。後の四つ橋線である。地下鉄の開通を契機に大阪の南北軸が堺筋から御堂筋に移動し現在に至る。

瀬戸内航路の港町

大阪、神戸を含め、瀬戸内海に面する府県では西回り航路の寄港地が最高地価地点になるケースが多い。神戸から西の都市で、明治時代に最も地価が高かったのは下関だ。下関市西南部町(にしなべまち)は明治26年(1893)に日本銀行西部支店が置かれた場所である。大阪に次ぐ西日本2番目の支店だった。関釜航路の発着点でもあった。広島市は中国地方どころか広島県の中心でもなかった。広島県で最も地価が高いのは尾道だった。尾道には県内最古の銀行があった。明治11年(1878)開設の第六十六国立銀行で、広島銀行の前身の1つである。住友銀行が初めて支店を出した地でもある。尾道の対岸の新居浜に住友別子銅山があった。
香川県の最高地価地点は県都高松市ではなく西回り航路の多度津(たどつ)町にあった。明治43年(1910)に宇高連絡船が就航する前は、尾道-多度津を結ぶ多尾連絡船が就航していた。尾道駅から多度津駅まで連絡していた背景もあってJR土讃線の起点は多度津駅にある。
西回り航路に限らず瀬戸内海に面する地域は航路の拠点が中心地となった。愛媛県の最高地価は松山ではなく八幡浜である。「伊予の大阪」と呼ばれるほどに海運と商業で賑わった。県内初の銀行は隣の保内町(ほないちょう)(現・八幡浜市)川之石(かわのいし)で発足した。明治11年(1878)創業の第二十九国立銀行で現在の伊予銀行に連なる。伊予銀行の八幡浜支店は明治29年(1896)に創業した八幡浜商業銀行が源流で、現存する行舎は豫州銀行本店だった昭和11年(1936)の建築だ。伊予銀行の支店となってからも地元では「本店」と呼ばれた。
九州でも、宮崎県の最高地価は五ヶ瀬川の河口港で瀬戸内航路につながる延岡だった。大分県は周防灘に面する中津である。延岡も中津も県庁所在地ではない。
ちなみに、九州で最も地価が高かった都市は福岡でなく長崎だった。幕末明治の開港地かつ上海航路の拠点である。福岡は九州で2番目だった。当時の中心地の中島町は中州の北端部分で、現在の昭和通りの北側にある。那珂川の西中島橋を渡ると、橋のたもとに福岡市の道路元標、背後の角地に福岡市赤煉瓦文化館がある。元の日本生命九州支店で明治42年(1909)の建築だ(図3 中島町の福岡市赤煉瓦文化館)。その前は福岡銀行の前身、第十七国立銀行の本店があった。佐賀県の最高地価地点は佐賀市ではなく伊万里にあった。有田産地を中心とする磁器の積出港として栄えた。こちらも貿易港である。

街道と水辺の街だった鉄道以前の時代

明治の最高地価地点からうかがえるのは、鉄道以前の時代は貿易港や舟運拠点が地域の中心だったことである。そして鳥の目に対する虫の目で見れば、その1つ1つが街道と水辺の街だった。意識せずとも街は十分ウォーカブルで、舟運や水源に使うための水辺が身近にあった。高低差の力で水道を引ける範囲に限られた街は元々コンパクトだ。街道沿いの町家の周囲には緑豊かな屋敷街があった。車道の代わりに運河が走り、道といえば歩道だった。生まれつき「居心地が良く歩きたくなるまちなか」(ウォーカブルシティ)である。
戦後、駅前道路が拡幅され、街なかの運河は埋められた。行政、ビジネス、商業の中心施設が集まり都市は過密になったが、近年は車社会やネット社会の影響による空洞化が問題となっている。しかし、見方を変えれば都市に清流が戻ってきたと言えないだろうか。
近年の地価上昇の特長は観光だ。地域資源を活用し、エリアの価値向上に成功している地域は路線価も上昇している。高山市は人口約8万人ながら路線価は県都岐阜市に次ぐ県内2位だ。県内第2の都市の大垣市は高山市の約2倍の人口だが、最高路線価は半分に満たない。盛岡市のように旧市街が脚光を浴びるケースも出てきた。川越の街も外国人観光客に人気の街歩きスポットだ。伝統的な中心地には長い歴史の積み重ねがある。銀行の行舎をはじめとする近代建築、町家の連なり、舟運時代の水辺や街道を活用することでエリアの価値を高めることができる。そうした切り口で見れば明治の最高地価地点は地域資源の宝庫である。次世代まちづくりの素材がここにある。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)