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日本語と日本人(第5回)-北京官話による漢字の読み方の統一-

国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇


中国では、今日、漢字の読み方を北京官話に統一する政策が押し進められているが、その政策は偉大な中華文明の基盤を崩してしまいかねないという問題を孕んでいる。中華文明は、読み方が違っても目で見てわかる漢字という優れたコミュニケーション手法によって、ユーラシア大陸を東西にまたがる広大な領域の民族の文明を融合させながら築き上げられてきたものだからである。


中国の神話
まずは神話の話から始めることとしたい。本稿の第1回に、虫の音を「声」として聴く日本語の根源に八百万の神が「混沌」の中から生まれてきたとする神話があるという話をした。神話の根源には、正と悪といった価値観念を超えた大きな「混沌」の世界があったはずだが、中国ではそういった世界は歴史を規範だと位置付けた後の儒教の影響によって淘汰されていってしまった*1。「荘子」に、混沌に7つの穴をあけたところ死んでしまったとの故事が紹介されているが、混沌であるがゆえに価値を持っていた混沌が、秩序という「穴」をあけられて死んでしまったのだ*2。魯の国の歴史書である「春秋」が経典に入ったことが、歴史の解釈が規範として尊ばれるようになったことを象徴しているという。
中国にも古代には豊富な神話があったはずだ。ところが、今日それらは一つのストーリーとしては残されていない。「書経」や「楚辞」「詩経」「尚書」「荘子」などに断片が残されているだけだ*3。紀元前7世紀ごろの成立とされる「書経」には、混沌の中から世界が生まれてきたとの神話が記されているが、日本神話のスサノオノミコト伝説やヒンズー教のラーマーヤナといった国造りに関する叙事詩はそこには存在しない*4。「詩経」にも燕(つばめ)が殷*5の始祖である商を生んだという神話が記されているが*6、神の活動をうたった叙事詩はやはり残されていない。「詩経」には、集団歌謡、季節の祭りや祖先の祀りの歌、さらには抒情歌が多く記されており、それらの多くは子孫繁栄と五穀豊穣を神に祈願する宗教歌であったはずだ。ところが、それらも漢の時代に儒教の教えに添って読まれるようになった結果、変質してしまったという*7。自由な恋愛の歌は礼儀の教えに、亭主に愛想をつかした女の歌は人民の苦しみの表白にといったぐあいである*8。「書経」でも、殷代の甲骨文に記されていた神話の神々が人間の優秀者たる聖王賢者の類(尭帝、舜帝、禹帝)に読み変えられてしまっているという。「易経」でも神託や霊感の類の話は、非合理性をできるだけ薄いものにされ、占いもなるべく道徳的かつ原理的なものにされてしまっているという*9。


中国の文学

中国文学の中心は華麗な漢詩の世界といえるが、そこには混沌が醸し出すような素朴さは見られない。漢詩で大切なのは、韻や平仄だ。韻や平仄は吟じることを念頭に、耳に心地よく響くようにするための約束事で、詩聖と言われた李白は自作の詩を大声で吟じるのが大好きだったという*10。しかしながら、そのような難しい約束事の結果、漢詩は庶民には程遠い存在になってしまった。今日の中国人でも、北京語だろうが上海語だろうが、どれだけ中国語を話せても、漢詩を聴いただけで意味を理解できる人はまずいないという*11。そんな漢詩の世界からは、庶民の素朴な歌を含む「万葉集」のような文学は生まれなかった。
東洋史学者の岡田英弘氏によれば、品詞の区別がなく、接頭辞や接尾辞、時称もなく、並べ方もどんな順序でもいい漢文では言葉の微妙なニュアンスはすべて抜け落ちてしまうという。そこでは、日本語でのように「もののあはれ」を表現することはできないという。豊かな漢詩の世界を思い浮かべると、そんな馬鹿なと思われるが、岡田氏によれば、有名な杜甫の「春望(国破れて山河在り)」も、日本人が勝手に日本語化して情緒を感じているのだという*12。日本人は永年にわたって漢文を読み下し文にして日本文として読んできたので、そう感じるのだという*13。確かに漢詩には、我が国の和歌にあるような、ある物にこと寄せて自身の心を歌にする「心物対応構造」*14のようなものは存在しない。ただ、漢詩には自然を読んだものも多く、そのような漢詩は容易に日本語化できた。自然に主語は必要ない。そこで、主語のない日本語にもなじみやすかったのだろう。そして日本人はそのような漢詩に奈良・平安の時代から親しんできた。江戸時代の文人にも荻生徂徠をはじめとして漢詩を詠む人が多かった。明治になっても西郷隆盛や森鴎外など多くの人が漢詩を詠み、今日でも漢詩に親しんでいる人は多い。漢字を日本語化した日本では、中国語が出来なくても漢詩に親しむことが出来た。それは英語が出来なくては英語の詩に親しめないのとは大違いだった。中国人と日本人の間で、漢詩への感じ方に異なるものがあったとしても、日本人も中国人も漢詩の華麗な世界に深く親しんできたのである。
民衆文学に目を転ずると、そこにも極めて豊かで多彩な世界が広がっている。神話が儒教に則って解釈されるようになった中国では、神話伝説の類は雑説とか小説と呼ばれて価値の低いものとされたが*15、そんな中でも、漢、魏、六朝の時代には、古典的な文章語である「文言(ぶんげん)」で書かれた様々な小説が生まれた*16。唐代には、口語に近い書き言葉である白話が誕生し、虚構を交えた「伝奇」「志怪(怪を志(しる)す)」小説が生まれた。明代には、「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」などの物語りが生まれ、古くからある笑話にも傑作が生まれた。清代には、強烈なロマンチシズムを持つ「聊斎志異」などが生まれた。そして、そのような多彩な中国文学は、わが国に大きな影響を与えた。明代の笑話は、江戸の小咄(こばなし)に、小説は江戸の上田秋成(「雨月物語」)や江戸から明治にかけて活躍した三遊亭円朝(「牡丹灯籠」)に大きな影響を与えた。さらに時代が明治や大正になっても、唐代の小説が芥川龍之介(杜子春)や中島敦(山月記)、太宰治(竹青)などの作家に大きな影響を与え続けたのである。


中国の言論空間

中国の文学が華麗な発展を遂げたのに対して、極めて窮屈だったのが言論空間だった。前回ご説明したように、知識人どうしでも経書や史書といった古典に則った模範文例に添った漢文を通じてしか意思疎通が出来なかったからだ。実は、その状況を相当程度打破したのが本稿第3回で紹介した明治維新期に日本が創り出したおびただしい翻訳漢語、和製漢語と欧米語を下敷きにして創り上げた新しい日本語で、中国に新しい思想をもたらす土台になった。そこで創造された新しい漢語は、中国の古典とは何の関係もない言葉だった。それは、経書、史書などを良く知らない、尊重しない、仮名を創り出して漢字を日本語化してしまうという融通無碍な日本人のなしうる技だった。
また、明治維新期に創り出された新しい日本語の上に、従来の漢文とは全く異なる中国語の文体が創り出された*17。日本語の「てにおは」にあたる「的」「在」「里」「化」「式」「感」「型」「性」「界」「力」「観」などの言葉が導入されて新しい中国語が生まれたのだ。1918年には、中華民国教育部は、日本のふり仮名をまねた「注音字母」という表音文字を公布した*18。日本語直訳の「時文」や新しい白話文などが試みられた。ただ、それらの試みは必ずしもうまくはいかなかった。魯迅は話し言葉に近い「白話文」を試みたが、その試みはそれが話し言葉に近づけば近づくほど他の方言の話者には難解な文体になっていって失敗したという*19。それは、中国各地で話されていた言語が実に様々だったからだった。日本の標準語導入のようなわけにはいかなかったのだ。


偉大な中華文明を育んできた漢字によるコミュニケーション

中国各地の言語の間には、ドイツ語とフランス語、ロシア語くらいの違いがある*20。上海語、広東語、福建語などは、先住民族の言語に古代漢語がかぶさったもので、北京語とは別系統のものなのだ*21。ブルース・リーが登場する香港映画が、かつて東南アジア全域に輸出されていたが、必ず英語に加えて漢字の字幕がついていた。華僑でも、出自が違えば香港映画のセリフを理解できなかったからだ。東南アジアの華僑が広く使っていたのは片言(かたこと)の広東語(ベーシック・カントニーズ)で、それは、広東語が他の方言よりも文語に近く漢字で書けて筆談に使えたからだという。福建語などは、漢字では書けなかったのだ*22。
筆談に関しては、筆者が谷垣禎一元財務大臣からうかがった話が興味深い。元大臣のお母さんは、戦前、中国大陸で特務活動を行っていた影佐禎昭陸軍中将の娘だったが、お父様から日本軍の特務員は中国で日本人と認識されることはなかったと聞いていたという。筆談でコミュニケーションを行っていたからだろう。筆者が部長として出向していた熊本県の出身で、日露戦争前に中国大陸で活躍した石光真清の自伝には、中国大陸で活躍した女性の話が出てくるが*23、筆者にはどうして日本の普通の女性にそんなことが出来たのかというのがかねてからの疑問だった。その謎が、谷垣元大臣の話で氷解した。つまり、漢字の筆談で何も困らなかったのだ。前回ご紹介した、唐の時代、阿倍仲麻呂が活躍できたのと同じだったのだ。
そのような中国大陸の各民族の間には、漢字を使うということ以外には共通のアイデンティティはなかった*24。それは、中世ヨーロッパでラテン語が知識人の共通言語だったからといって、共通のアイデンティティなどなかったのと同じことだった。そのように共通のアイデンティティがないのに、中国大陸では、見て分かる漢字の活用によって、唐(鮮卑系ともされる)や元(蒙古族)、清(満州族)といった異民族を含む王朝の統治*25が行われて華麗な中華文明が花開いていったのである*26。そのような歴史を持つ中華文明は、騎馬民族などの文明も自然に受け入れてきた、おおらかなグローバル文明だった。例えば、唐の則天武后は、前夫の息子に娶られて権勢をふるった。そんなことは漢族の儒教文化から言えばとんでもないことだったが、遊牧民族の風習としては当然のことだった*27。偉大な中華文明が発展していった背景には、話し言葉と書き言葉が分離していたことを利用した漢字による多様な異民族統治の仕組みがあったのである。


北京官話による漢字の読み方の統一

今日、中国では、その偉大な中華文明を育んできた優れた統治の仕組みを崩壊させかねない政策がとられている。話し言葉と書き言葉の分離を否定する政策がとられているのだ。北京語を基にした「北京官話」(普通話:プートンホワ)での言語の全国統一の政策である。それは一見、秦の始皇帝が行った漢字の読み方の統一(焚書)に似ているが、その実態は全く異なっている。始皇帝の焚書は、漢字の読み方は統一しても各民族の言語は尊重していた。ところが北京官話による統一は、各民族の言語を否定するものなのだ。ちなみに、明代の初めまでに、人口増加に伴って多くの漢人がそれまで住んでいた北京から広州に至る地域から内陸各省(広西、湖広、四川、東北3省、安徽、広西など)に移住していき*28、南京が首都とされて南京地方の中国語が「南京官話」とされたが、それは官吏だけが用いる言葉だった。清朝までの中国の歴代王朝は、現地語を否定することはなかったのだ*29。それは、目で見ただけでわかる漢字が中国大陸で生み出した多様な民族が共生する世界だった。
清朝までの言語政策は、今日のインドやシンガポールがとっている政策と同様のものだった。インドの共通言語は誰の母語でもない英語だが、公用語として認められている言語だけでも40くらいある。部族語まで含めると何百もあり、それぞれに尊重されているという。シンガポールも英語を共通言語としているが、様々な出身地の華僑が異なる言葉を話し、タミル系インド人やマレー人もそれぞれの言葉を話している。ところが北京官話による中国の言語統一政策は、中国大陸に住む多様な民族の言葉を認めないとしているのだ。それは近代において、中国が列強の植民地支配を受けた歴史から、言語の統一によって一国としてのナショナリズムを確立しようとしていると考えることができる。実は、一国の言語統一の必要性は、フランス革命のときに唱えられたことだった。当時のフランスではフランス語を話す人は四人に一人しかおらず、それでは一つの国民を創り出すことは出来ないとされたのである*30。
しかしながら今日、中国に対して列強からの植民地支配の圧力があるわけではない。また、北京官話への統一は、フランスで行われたものとは次元の異なる極めて強権的なやり方で行われている。その結果、モンゴル族やウィグル族、チベット族などとの間で、また上海語や広東語などを話す漢族との間で大きな摩擦を生んでいるという。同化政策を施されて母語を失いつつある部族は、怒りの感情や暴力性を強めるからだという*31。ウィグルでは、小学校から北京官話での教育を強制されている結果、子供は親とウィグル語での会話が出来なくなりつつあるという*32。かつてソ連がモルドバで使われていたラテン文字をロシアのキリル文字に強制的に変えてモルドバの人々のアイデンティティを奪おうとしたことがあったが、それと同様の政策が行われているのだ。そのような政策は、米国やカナダの議会でジェノサイドと認定されている*33。かつては、そのような政策が、欧州諸国の植民地だった南北アメリカ、アジア、オセアニア等で広範に行われていた*34。しかしながら、今日、そのような政策を行っている国は中国以外にはない。英国は英語以外に3つの言語を公用語としており、フランスではブルターニュ地方独自のブルトン語などが尊重されている*35。日本でも、アイヌ語やウタリの文化を尊重する政策がとられるようになっている。ちなみに中国では、中国語は「中国語」ではなく「漢語」とされているという。中国は多言語国家なのに、そこで話される言語を「中国語」というのは、インド大陸で主に話されているヒンズー語を「インド語」というのと同じだからだ*36。


中華文明の基盤の崩壊

中国における中華文明の基盤を崩壊させかねない政策は、言語以外の倫理・道徳といった分野でもとられている。1949年の中華人民共和国の成立以来、中国共産党によって伝統的な文化・宗教の否定が行われてきているのだ。1957年に始まった大躍進後の四清運動では、村々の地蔵殿、観音廟、三清殿、財神廟、五道廟、三官廟、真武廟等がことごとく破壊された。続く文化大革命では、儀式の書物、楽譜、衣、楽器までもがことごとく燃やされ、破壊されたという。筆者は、退官後、2016年の日本経済界訪中団の一員として中国西域などを訪れる旅に参加したが、そこで見聞きしたのは、秦の始皇帝の兵馬陵のように地中に埋められていたものは実に良く残っているが、地上にあった文物は文化大革命でほとんど失われてしまったということだった。それは、高校時代、学園紛争を経験し、中国の文化大革命を賛美する学友を身近にもっていた筆者にとっては衝撃的な話だった。それらの学友には、人間的にも大変魅力的な人が多かったのである。
文化大革命は、文物といった物理的なものだけでなく人々の信頼と絆のよりどころとなっていた家族、宗教、市民社会、学問、政治的自由といった領域をも破壊するものだった。善良、慈悲、同情、思いやりなどの伝統的な倫理道徳は厳しく非難、批判され、個人には「自己批判」が求められた。近所の人が道端でぐったりしているのを助ければ、自分も有罪になったという*37。かつて、中国にはほぼすべての職業に神がおり、ほぼすべての街角に寺院や祠があって儀式が行われ、人々は儒教や仏教や道教の信仰がまじりあった宗教を信じていた*38。船乗りの神は媽祖、大工の神は魯班、武術家の神は孫悟空、医者の神は華陀という具合であった。それは、神学理論などほとんどなく聖職者もいないに等しい民衆の宗教空間だった。それが失われていったのである。
そのような中国共産党の支配は、実は中国の伝統的な「華夷秩序」の考えに基づく「人知の仕組み」の現代版だと理解することが出来る。歴代王朝が「華夷秩序」で「儒教」を置いていたところに「マルキシズム」を置いたというわけだ。そして、科挙で儒教がその内容を融通無碍に変えながら統治の道具になったのと同様に、マルキシズムも融通無碍な形で統治の道具(中国流のマルキシズム)になっているというわけだ。筆者は、かつてある中国人に中国の社会主義市場経済におけるマルキシズムの理論内容について質問したことがあるが、確たる答えは得られなかった。内容が融通無碍にされているのは、仏教やキリスト教*39などについても同様である。習近平総書記は2014年、ユネスコで、「仏教は古代インドで始まった。中国に入ってから、仏教は長期にわたって中国固有の儒教と道教と混ざって発展し、遂に中国らしい特徴を持った仏教になった。そうして中国の人々の宗教的信念、哲学、文学、芸術、礼儀、慣習に深い影響を与えた」と演説したが、今日の中国の仏教にどれくらい仏教本来の教えが残されているのか疑問である。なにしろ、リービ英雄氏の「我的日本語」によると「中国共産党に洗脳されると、お金の話しかしなくなる」と中国人のガイドが言うようになっているというのである*40。中国の倫理道徳がそのようになっている背景には、中国共産党が「華夷秩序」のもう一つ上にある「天命思想」の発想から、自らが創り出した「正史(中国流のマルキシズム)」に反するような異なる価値を信じる組織を、何よりも警戒していることがあると思われる。チベット、台湾、ウィグル、民主派、法輪功が「5毒」とされて徹底的に弾圧されているのである*41。


強権的な統治の背景にあるもの

それにしても、北京官話による言語の統一を始めとする今日の中国の強権的な統治は、中国の「天命思想」の伝統からは外れているように見える。「天命思想」の実践である「易姓革命」の考え方からすれば、皇帝たらんとするものは軍事的な勝利の直後に、大急ぎで武器を捨て、自分が根っからの「文人」であったかのように振る舞って徳治を行わなくてはならないはずだからである。その疑問への答えは、中国共産党が「易姓革命」の考え方に則った軍事的勝利をまだ得ていないと認識しているからということであろう。実は、それを示していると考えられるのが、2021年7月の習近平総書記の中国共産党創立100周年を祝う式典での演説である。そこで、習総書記は「中華民族の偉大な復興」を謳いあげたがその際、中国は清朝の時代に「天恵を得た国」として、チベット、モンゴル、そして新疆を含む中央アジアの東半分ほどをその版図としたが、それらの地域に対する支配権を確固たるものにしなければならないとしたのである。それは清朝の時代に拡大した「中原」*42を統一することによって中国共産党が「天命」を受けた正当な政権であることを証明する。それによって「易姓革命」を完結させるという考え方を述べたものだと解釈できるのである。実は、その考え方は、かつては中華民国政権を打ち建てた蔣介石総統も主張していたものだった。1990年代初頭まで、中華民国は「大陸反攻」を掲げて清朝の時代に拡大した地域に対する軍事的勝利を目指していた。そのために、1949年に敷いた戒厳令を1987年まで続けて強権的な国内統治を行っていたのである。
そのような中国政府の強権的な姿勢に対しては、周辺諸国だけでなく国内からも異論が出てきそうなものだが、実は、それを抑え込んでいるのがIT技術を使った監視社会による統治である*43。と聞くと日本人はとんでもないと考えるが、多くの中国人はそれを歓迎しているという。中国では、中華人民共和国建国以来何十年にもわたって監視と人物調査が当たり前に行われてきた。生体情報対応の国民IDカードも抵抗なく導入されてきた。数億人の都市住民には毛沢東時代に導入された幼少期からの「档案」(人事記録制度)が実施されており、1990年代半ばまで中国の一般的な辞書には「プライバシー」を意味する「隠私」という言葉は載っていなかったという*44。そして、今日、中国政府の監視は海外にも及んでいる。2023年2月現在、中国は100か所以上の「海外警察署」を設置して、亡命した中国人に対する監視や干渉、場合によっては送還を行っているという。その背景には、華僑は故郷への送金を欠かさなければ、事業が失敗しても元の村に戻ることが出来るという伝統的な仕組みがあるのだという。中国人は、世界中どこにいても中国人というわけだ。そのような感覚を持つ多くの中国人は外国にいて中国の国家主権が及んできても違和感を感じないのだという*45。と言われても、まだ違和感が残るのだが、そこは前回見たような「人知の仕組み」の伝統の下、多くの中国人は「天は高く皇帝は遠い」、上に政策あれば下に対策ありということで割り切っているのであろう。


中国における「自由」と「人権」

2022年の北京冬季オリンピックでは、競技場の壁に「自由、民主、共同富裕」のスローガンが掲げられていた。日本人の感覚からすると、香港で言論を厳しく規制し始めていた当時の中国で「自由」や「民主」があったのだろうかと思うが、中国人にとっては何の違和感もなかったという。そのことについて、元中国大使の宮本雄二氏は、今日の中国では、西欧流の「自由」や「人権」が、民衆が大切にする「義」の中にはまだ入っていないからだとしている。せいぜいが、これまで支配階級が説いてきた「仁」と同じようなもので、内面的・本質的な性格を持たないものと認識されているという。ただ、中国社会も、ようやく生きるための生存権の世界から、それ以外の人権を考える世界に足を踏み入れてきているので、欧米と同じになることはないが、今後変化が期待されるという*46。元内閣官房副長官補の兼原信克氏も、2023年まで総理を勤めていた李克強氏には変化の兆しを感じていたという*47。
筆者は、中国大陸で西欧流の「自由」や「民主」が本来の姿で認識されないのは、中国が閉じられた言語空間になっているからだと考えている。中国は、インターネットを世界から分離し、入国した外国人には中国仕様のスマホを持たせて常時監視するといったことによって*48、閉じられた言語空間を創り出している。そのような言語空間での認識は、意思疎通が模範文例集によるという伝統に従ったものになる。模範文例集は毛沢東語録や習近平語録なので、それらに制約される。そこには中国流の「自由」や「民主」しか出てこないので、人々はそれに添った認識しかできなくなっているというわけだ*49。それに対して、それと異なる状況が生まれてきているのが台湾だ。台湾では、1990年代初頭に「大陸反攻」が放棄され、それに合わせて言論空間が解放された。そこに新たに西欧流の「自由」や「人権」の考え方を含んだ模範文例集がもたらされたのである。なお、そのような台湾での変化の背景には、日本語の影響を受けて誕生した新しい中国語があったといえよう*50。


中国流の「民主主義」と世界

実は、強権的な中国流の統治の仕組みは、グローバル・サウスの多くの国々に支持されている。西欧流の民主制では、それらの国での統治が難しいからだ。先の大戦後に独立したアジアやアフリカの多くの国々は、独立当初には民主的な選挙を行ったが、ほとんどの国でクーデターが起こって軍事独裁政権になってしまった。植民地主義の時代に西欧諸国が地域の部族の支配を無視して国境を定めたアフリカの国々では部族間の紛争が少なくなく、ある部族が選挙に勝って政権を握ると、前の政権のエリートを全て殺してしまうといったことまで起こっている。西欧流の民主制では、そういった国々の統治は難しい。そんな中、「中国流の民主主義」があると言われ*51、民主主義は一部の国の専売特許ではないと言われ、それを唱える中国が「中華民族の偉大な復興」に突き進んでいるとなれば、多くの国がそれをまねしたくなるのには無理からぬものがある。今後は、非民主的なままで発展する国家が増えていくことが考えられるともいわれているのだ*52。
そもそも民主制は難しい。「民主制は最悪の政治形態である。ただし、過去に試みられた他のすべての政治形態を除いては」とは、英国のチャーチル首相が言った言葉だとされているが、元々はアリストテレスのニコマコス倫理学の中にある言葉である。古代ギリシャの時代から、民主制は難しいとされてきたのだ*53。ただ、では西欧流の民主主義で統治が難しい国は、「中国流の民主主義」でいいかといえば、そうもいくまい。西欧流の民主制(democracy)は、言論の自由や身体・財産の自由といった自由主義(liberalism)と結びついて発展してきたもので、個々人の能力の自由な発展や人々の幸福につながる可能性を開く、人類共有の貴重な知的財産というべきものだからだ*54。強権的な統治が行われている中国からは、その統治を嫌って多くの知識人が逃げ出し、海外で大きなネット・ワーク(バーチャルコミュニティー)を作りつつあるともいわれているのだ*55。
とはいえ、今日、中国流の統治手法がグローバル・サウスの国々に幅広く受け入れられてきているのが現実であり、その背景には、西欧諸国のこれまでの行動に問題があったことがある。米国は、欧州における宗教弾圧から逃れて来て、原住民(ネイティブ・アメリカン)に助けられて入植したピルグリム・ファーザーズ達が、民主主義の崇高な理念を掲げて建国した国だが、建国後は、原住民と結んだ条約をことごとく破って800万人ほどもいた原住民を自分たちの土地から追放してしまった歴史を持っている。また、「アメリカの民主政治」を著したトクヴィルが問題だとした黒人奴隷制も持ち込んだ。異人種間の婚姻などを違法とした人種差別的な南部諸州の法律は、驚くことに戦後の1967年まで存続していた*56。1967年といえば、日本で最初の東京オリンピックが開催された頃のことである。ナチスのニュールンベルク法(ユダヤ人排斥法)がお手本にしたのは、実はそういった南部諸州の人種差別法だったともいわれている*57。米国は、戦後もインドネシアで反共主義の名の下に、共産主義者やその親派に対して行われた大量虐殺を背後から支援した歴史も持っている*58。そのような米国の民主主義は、世界で、特に中南米諸国で信用されていない*59。ちなみに、筆者が米国の民主主義に疑問を感じたのは、財政史の研究の中で、戦後、大蔵大臣になった石橋湛山をGHQが自らの方針に反するとして排除した手法が、戦前の軍部の手法よりもひどかったと石橋が語っていたことを知った時からである*60。ただ、そのように問題のある米国の民主制であるが、トクヴィルは、米国は「欠点を自ら矯正する能力がある」と記していた。政治学者の高坂正尭氏も同旨の指摘を行っていた。
米国の民主主義はさておき、では欧州の民主主義はどうだっただろうか。実は、欧州の民主主義も、けして褒められたものではなかった。欧州の諸国家は、17世紀、カトリックとプロテスタントの宗教戦争に終止符を打ったウェスト・ファリア条約を基盤にして作り出されたとされるが、その後、海外で人種差別的な植民地支配に乗り出した歴史を持つのだ。ただ、そのような欧州諸国は、国際社会は異質なものがぶつかり合う多様性に満ちた世界で、異なる文化、宗教、民族、部族が闘い、あるいは共生してきたという柔軟な認識を持つに至っている*61。民主主義を大切にしながらも、その限界を理解しているのだ。ギリシャの民主制よりもローマの共和制を良しとするような議論も行われており*62、日本では明るい面しか教えられないことが多いフランス革命についても、自由や人権を無視したロシア革命につながったとの議論もなされているという*63。


多言的な社会であるインドの民主主義

中国流の統治の仕組みがグローバル・サウスの国々に広がりを見せつつある中で、国際社会で存在感を増しているのが、英国の植民地だったことから英語を共通語としているインドだ*64。GAFAや世銀のトップはインド系だ。米国大統領選挙の民主党候補になったカマラ・ハリスの母親もインド系だ。多言語社会で育ったインド人は子供のころから自分と見た目や習慣、育った環境の違う人々と接することに慣れている。そんなインド人は、今日の多様性に満ちた国際社会において「よそ者」とのコミュニケーションが得意なのだという。
インドは世界最大の民主主義国家だと言われるが、インドの社会には極端に貧しい農村、都市のスラム、宗教的・民族的・言語的な分裂、階級間の格差、法を無視した小規模集団間の不断の紛争、等々、一般に民主主義を阻害するような構造的な条件がほとんどすべてそろっている。それなのに、インドがこれまでそれなりに民主主義的に運営されてきているのは、インドの多元的な社会が、結果的に、民主主義と親和的だからだとされている。単一の強い権力に服従することなく、小さな社会集団が自律的に活動することを許す社会構造が、民主主義と親和的だというのである*65。ただ、単一の強い権力に服従することがないことの延長線上として、国際的な規範や制度への信頼も低いという。同盟や国際協力を信頼し、そのために自国の行動の自由を犠牲にすることなどあり得ないと考えるのだ。欧米流の民主主義や法の支配といったことも偽善と解釈するという*66。欧米諸国の植民地支配を受けた歴史からすれば、今更、欧米諸国に「人権」、「民主主義」、「自由」などと言われても、心の底には「偉そうな顔をして何を言うか」といった気持ちがあるのだろう。それは、先人たちの努力で欧米列強による植民地にならなかった日本人には理解しにくい心情だ*67。そして、そのようなインドの民主主義も、今日、モディ首相のヒンズー第一主義(多数派主義的ナショナリズム)の下に変化を見せている*68。インドの民主主義の動きには、今後、目が離せないといえよう。


中国の「正史」の背景にある中国語

今日の中国で「中国流のマルキシズム」が、政権の指導原理になっていることについて、兼原信克氏は日本の徳川幕府と違って清朝がなかなか倒れず、倒れたときにはマルキシズムやファシズムがもてはやされる時代になっていたからだとしている*69。前回説明したように、清朝は列強に侵略されるようになっても、最後には礼を知る中国の感化を受けて中国に同化されるはずだとして自らの支配を正当化し続けてなかなか倒れなかった。そのことが、今日の中国を生んだというわけである。
それにしても中国が、自らの創り出した「正史(中国流のマルキシズム)」に反するような異なる価値を信じる組織を「5毒」として徹底的に弾圧している姿は、今日の日本人には違和感のあるものである。この点について中国における「正史」の歴史をさかのぼってみると、唐の時代に同盟関係にあったウィグル族の碑文にソグド文字と漢字によるものが彫られていた。漢字文面は唐側を良く見せるようなものになっていたが、後の「正史」はそれをさらに粉飾しているという*70。そのように他の民族の歴史理解に配慮することなく史実を自らの認識に基づいて粉飾して新たな歴史を創り出し、それを指導原理としていく中国と、史実には民族ごとに様々な見方があり、自らの考えだけに基づいて粉飾を行うことは正しくないとする今日の日本との間には、認識の仕方に基本的な違いがあるとえいよう*71。そして、そのような中国の「正史」を創り出す認識手法は、今日でも行われている。例えば、この原稿を書いているところで、「中国、上川氏発言を無断修正」というニュースが入ってきた*72。日中外相会談での中台関係をめぐる上川外相発言を、中国側が中国の立場に近い内容に無断で修正して公表した。それに対して、日本の外務省が水面下で「正確性に欠ける」と申し入れたというのである。それは、ウィグル族の碑文に彫られたソグド文字と漢字の違いと同様の話といえよう。
それにしても、そのような中国と日本との認識手法の違いは、どこから来るのであろうか。その点についての筆者の考えは、主語がある中国語と主語が無い日本語の違いが背景にあるというものである。イタリア人の精神科医であるバントー・フランチェスコ氏の「日本のコミュニケーションを診る」によると、「安定した自尊心を持ち他者の評価をそこまで気にしない」個人主義者は、自分の行動を正当化する思考回路に走るという*73。天命を受けた中国の皇帝は、安定した自尊心を持ち他者の評価を全く気にしなくていい存在だった。そのような皇帝が、「自分の行動を正当化する思考回路」として新たな歴史を正しいものとして創り出してきたわけである。そしてその背景には、主語を持ち「世間」より前に自分を位置付ける中国語が創り出した個人主義の強い社会があったと考えられるのである。そのような中国人の世界観は、主語がなく「世間」の中で自分を位置付ける日本語を持つ日本人、多くの人に少しずつ依存できるようになることが自立だとする日本人からは、なかなか想像しがたいものだ。本稿の第1回に「敵を知り、己を知れば百戦して危うからず」と述べたが、「敵を知る」ためには、そのような言語のもたらす世界観の違いを知る必要があるといえよう。
次回は、英語について見ていくこととする。今日、世界を席巻しているのが主語を持つ英語だが、英語の世界観にも自らの認識こそ正しいとして議論するという日本語の世界観とは随分と違うものがあるのである。


*1) 「四書五経」竹内照夫、平凡社、1981、p127
*2) 牧角悦子、2012、p188―89
*3) 「詩経・楚辞」牧角悦子、角川文庫、2012、p187
*4) 竹内照夫、1981、p9-12
*5) 実在が確実な中国最古の王朝
*6) 「中国古典小説選 11」明治書院、2008、p181
*7) 竹内照夫、1981、p127-28、144
*8) 牧角悦子、2012、p5
*9) 竹内照夫、1981、p13-17、47
*10) 「李白」海江田万里、アジア太平洋観光社、2024、p143-44
*11) 「漢字とは何か」岡田英弘、藤原書店、2021、p60
*12) 岡田英弘、2021、p95-96
*13) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p74
*14) 本稿第2回参照
*15) 竹内照夫、1981、p12
*16) 「中国古典小説集、1-12卷」明治書院、2006-2009
*17) 「中国の論理」岡本隆司、中公新書、2016、p157、164-166
*18) 「中国・韓国の正体」宮脇淳子、ワック、2019、p131、144
*19) 岡田英弘、2021、p31、宮脇淳子、2019、p146
*20) 「言語の力」ビオリカ・マリアン、KADOKAWA,2023、p209
*21) 「越境の中国史」菊池秀明、講談社、2022、p26,27,30、59-60
*22) 岡田英弘、2021、p141、299
*23) 「曠野の花-石光真清の手記(2)義和団事件」中公文庫、2017
*24) 岡田英弘、2021、p59
*25) 宮脇淳子、2019、p187、194
*26) 菊池秀明、2022、p175-185
*27) 「唐」森部豊、中公新書、2023,p92。中国が、そもそも「遊牧文明である」ということについては、「ユーラシア時代の日本文明論」与那覇潤、ファイナンスNo704,p58-59、参照。
*28) 菊池秀明、2022、p54-59
*29) 岡田英弘、2021、p161―62、187―88
*30) 「近代の呪い」渡辺京二、平凡社、2023、p36、105
*31) 「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎、2023、p165
*32) 「日本人になったウィグル人たちに中国がやっていること」三浦小太郎・日本ウィグル協会著、産経新聞出版、2023、宮脇淳子、2019、p182、205
*33) 「経済安全保障」北村滋、中央公論社、2022、p312
*34) ビオリカ・マリアン、2023,p184―85
*35) 岡田英弘、2021、p282-83
*36) 「漢字と日本人」高島俊男、文春新書、2021、p17
*37) 「現代中国は何を失ったか」陳立行、国際書院、2022
*38) 「信仰の現代中国」イアン・ジョンソン、白水社、2022、p29-31、152、365
*39) 中国とバチカン(ローマ・カソリック教会)の間には、様々な摩擦が伝えられている
*40) 「我的日本語」リービ英雄、筑摩書房、2010、p199
*41) 北村滋、2022、p128
*42) 「中原」の解釈については前回参照。南シナ海については、北村滋、2022、p143、302-303参照。
*43) 「ソクラテスからSNS 「言論の自由」全史」ヤコブ・ムシャンガマ、早川書房、2024,p421-22
*44) 「監視資本主義」ショシャナ・ズボフ、東洋経済新報社、2021、p445、p448
*45) 菊池秀明、2022、p52
*46) 宮本雄二、2023、p40
*47) 「日本人のための安全保障」兼原信克、日本経済新聞出版、2023、p141
*48) 「国家の総力」兼原信克、高見澤将林編、新潮新書、2024、p228-236
*49) 北村滋、2022,p308参照
*50) 日本でも戦前には、閉じられた言語空間の下、ゆがんだ言語認識が行われていた(「日本語のために」丸谷才一、新潮文庫、2011,p176-80)
*51) 中国でも村レベルでは選挙が行われている。ただ、その点について田原史起氏は、村の幹部の土着勢力化を防ぎ、中国共産党の支配を確固たるものにするためのもので、民主主義と関係はないとしている(「中国農村の現在」田原史起、中公新書、2024、p268-69)。
*52) 「危機のいま古典をよむ」与那覇潤、2023、p219
*53) プラトンが最も優れているとしたのは、哲人政治だった(「国家」岩波文庫、1979)
*54) 渡辺京二、2023,p120-121
*55) 「岐路に立つ中国の行方」柯隆、学士會会報No967,2024-Ⅳ、p10
*56) 「我々はどこから来て、今どこにいるのか?(下)」エマニュエル・トッド、p23,35。「何でも見てやろう」小田実、1979、講談社文庫、p125,129,134。
*57) 「〈世界史〉の哲学 東洋編」大澤真幸、講談社、2014、p233-34
*58) 「ジャカルタ・メソッド」ヴィンセント・ベヴィンス、河出書房新社、2022。
*59) 「外務省は『伏魔殿』か」飯村豊、芙蓉書房出版、2023、p142
*60) 「石橋湛山の財政思想 ―戦後復興の基礎の形成」松元崇、第77回日本財政学会報告、2020
*61) 飯村豊、2023、p272
*62) 「リベラルアーツと民主主義」石井洋二郎編、水声社、2024、p67-70
*63) 渡辺京二、2023,p102-103、149
*64) インドで最も話されているのは、インド・アーリア語族のヒンズー語。なお、「ヒンドゥー教と日本の宗教の意外な親和性」赤松明彦、学士会報第960号、p52-53参照。
*65) 大澤真幸、2014、p291。田原史起、2024、p164-66
*66) 学士会報、No.964,田所昌幸、p40-42
*67) 飯村豊、2023、p287。
*68) ヤコブ・ムシャンガマ、2024、p388-89 政権批判者の海外市民権を認めないといった動きが出てきている(日経新聞朝刊、2024.6.30)
*69) 兼原信克、2023、p160-61
*70) 「訓読論」中村春作、市來津由彦、田尻祐一郎、前田勉、勉誠出版、2008、p315
*71) 日本も戦前の一時期ではあるが、中国と同様の認識手法をとったことがある。皇国史観である。
*72) 日本経済新聞、2024.08.01,4面
*73) 「日本のコミュニケーションを診る」バントー・フランチェスコ、光文社、2023、p69