大臣官房総合政策課 寺田 仁史/山本 達哉/野田 芳美/南 健人/川本 将平/毛利 真希子
1.はじめに
バブル崩壊以降の日本経済は、長引く低成長と物価の低迷により、「失われた30年」とも称されていた。その背景としては、企業が足もとの利益の確保のためにコストカットに注力し、賃金や投資を抑制したことが長引くデフレの要因とされている。
2024年は、持続的・構造的な賃上げを通じて、「賃金と物価の好循環」が起動し、そのようなコストカット型経済から脱却できるかどうかの正念場にある。
本稿では、足もとの労働市場や賃金の動向を分析したうえで、2024年の賃上げの動向を概観しつつ、地域における賃上げや人手確保に向けた事例を紹介する。
2.労働市場や賃金の動向
雇用者数については、2020年の新型コロナ感染症拡大以降、行動制限に伴う対面サービスの減少等を背景に、非正規を中心として大きく減少したが、行動制限の緩和以降、経済活動が回復するなかで、正規・非正規ともに雇用者数は増加している。(図表1 雇用者数の推移(正規・非正規))
他方で、経済活動の回復等を背景に、足もとの企業の人手不足感は拡大しており、労働需給はひっ迫している。(図表2 従業員数判断BSI)
このような状況の中で、2023年以降、名目賃金は2%台前後の高い伸び率となっているが、ロシアのウクライナ侵攻や円安の進行に伴う、輸入物価の上昇を起点として、物価上昇が継続しており、実質賃金はマイナス圏内で推移している。(図表3 賃金の動向)
3.賃金に関する分析
前述のとおり、労働需給がひっ迫するなかで名目賃金は上昇傾向にあるものの、物価上昇を背景に実質賃金は弱含んでいる。2024年がコストカット型経済からの脱却の年となるためには、物価上昇に負けない賃上げが実現し、実質賃金が上昇することが必要である。
そこで、今後の実質賃金の動向を考えるため、実質賃金の変動を、労働生産性・労働分配率・交易条件に要因分解*1する。なお、長期的には、一人当たり名目賃金の下押し要因として、女性・高齢者の労働参加に伴う非正規雇用の増加による労働時間の減少が指摘されているところ、その影響を除くため、本分析では、時間当たりの実質賃金の動向を確認することとしている。
図表4 時間当たり実質賃金の要因分解に示されている通り、時間当たりの実質賃金の伸びは、労働生産性の上昇に支えられている一方で、労働分配率の低下や交易条件の悪化が下押し圧力となっていることが分かる。特に足もとでは、エネルギー・食料を中心とした輸入物価の上昇を背景に、交易条件悪化による下押し幅が拡大している。言い換えると、エネルギー・食料といった輸入品の価格が、生産される財・サービスの価格との対比で上昇したことにより、賃金の原資となる国内の付加価値に下押し圧力がかかっていたと考えられる。
他方で、日本が資源輸入国である以上、資源価格の高騰局面における交易条件の悪化は不可避であり、そのような局面でも賃金上昇率を高めていくためには、人的資本投資の強化や労働移動の活性化を通じて、労働生産性の更なる引上げを行っていくことが重要と考える。
4.2024年の賃上げの動向
次に、2024年の賃上げの動向を確認するにあたり、まず、賃金と一般的に相関の高い物価の動向を確認する。消費者物価指数(総合)は足もと2%台で推移しているほか、物価の中でも、賃金とより相関が高いと指摘される消費者物価指数におけるサービスの動向においても、企業の価格転嫁が進展するもとで2%前後の高い上昇率となっている。
また、賃上げの原資となる企業収益について、法人企業統計調査(年次別調査)の経常利益を確認すると、日本経済の経済活動の回復や円安等を背景として、2022年度は95.2兆円と過去最高の水準となっている。さらに、2023年度についても企業決算の状況から、好調な企業収益となることが見込まれている。
ここで、財務省・財務局が、令和6年3月中旬から4月中旬に各財務局管内の全国1,125社に実施したヒアリング調査*2で企業の賃上げの見通しを見てみる。
同調査によれば、2024年度に「ベア」を実施すると回答した企業の割合は約7割、「定期昇給」は約8割となり、企業が賃金の底上げを意識していることがうかがえる。(図表5 2023-2024年度の賃上げの動向)
また、「賃金引上げを実施する理由」としては、「社員のモチベーション向上、待遇改善、離職防止」との回答が最も多く、「物価上昇への対応」、「新規人材の確保」が続いた。(図表6 賃上げを実施する理由)一方で、「賃金引上げを実施しない理由」としては、「業績(収益)低迷(見通し含む)」との回答が最も多く、「価格転嫁ができない、または追いつかない」が続いた。(図表7 賃上げを実施しない理由)
「人件費の価格転嫁」については、一定程度以上できたとする企業が、大企業、中堅・中小企業等いずれも約3割となったものの、価格転嫁が十分に、または全くできていないとする企業は、大企業では約4割、中堅・中小企業等では約5割となり、人件費の価格転嫁が引き続き課題となっている。「人件費の価格転嫁ができていない理由」としては、「同業他社の動向」との回答が最も多く、「原材料費の高騰分の価格転嫁を優先している」、「取引先や消費者から理解が得られない」が続いた。(図表8 人件費の価格転嫁ができていない理由)
そのような中で、2024年の春闘の第7回回答集計結果では、定昇を含む値で5.10%(ベアのみは3.56%)と、1991年以来33年ぶりとなる5%超えの高水準となっている。春闘の結果は、大企業の状況が反映されやすいと言われているが、中小企業に限った場合でも、定昇を含む値で4.45%(ベアのみは3.16%)となっている。
こうした結果を踏まえると、中小企業も含めて賃上げの機運が高まっているものと考えられる。
5.地域における賃上げ事例
当課職員が本年5月に各地域の企業に賃上げの取組等についてヒアリングを行ったところ、多くの企業で「賃上げを実施している」といった声が聞かれるとともに、「コスト高騰分の価格転嫁を進めている」、「人材確保のため企業の魅力向上に向けた給与・人事制度の見直しを行っている」、「省力化投資として新たに設備を導入している」といった声もあった。その中で設備投資や人的資本投資を通じた生産性向上に取り組む事例を以下に紹介する。
6.おわりに
賃上げが2024年だけに留まることなく、持続的・構造的な賃上げや賃金と物価の好循環につながっていくためには、設備投資や人的資本投資の強化、労働移動の活性化などを通じた更なる生産性の上昇により、企業の付加価値が向上し、賃上げの原資となる企業収益が高まることが必要となる。
今後の賃上げの広がりについては、様々な経済指標を注意深く確認していく必要がある。その際、生産性の向上、人手不足の中での人材確保、など賃上げの背景を確認していくことも重要な視点である。
(注)文中、意見に係る部分は全て筆者の私見である。
(参考文献)
唐鎌大輔(2022)「『強い円』はどこへ行ったのか」日経プレミアシリーズ,P.107
厚生労働省「令和5年版厚生労働白書」
*1) 唐鎌(2022)の要因分解を参考に当課にて試算
*2) 本調査は、各財務局がヒアリング調査を行った企業についての調査結果であり、日本企業全体の動向を網羅した調査結果ではない点に留意。
https://www.mof.go.jp/about_mof/zaimu/kannai/202401/tokubetsu.pdf