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駿河湾より~富士山を仰ぎながら~興津清見寺町
名古屋税関清水税関支署興津出張所長森本 学

1 はじめに
清水税関支署興津出張所は、静岡県静岡市清水区興津清見寺町に位置します。駿河湾に面しており、特に空気が澄んでいる冬場の通勤時などには、美しく雪化粧をした富士山を毎日のように見ることができます。
サッカー王国と呼ばれる町、静岡。ここ静岡市清水区もサッカーが非常に盛んな町で、子供から年配の方々までサッカーを楽しむ光景があちらこちらで見られます。地元のチームがJリーグに所属しており、ホームゲームが開催される日は、チームカラーのオレンジ色の旗が町中に掲げられ、ユニフォーム姿のサポーターがスタジアムに集結し、勝利した日には夜空に花火が打ち上げられるなど、熱狂的なファンが多く根強いサッカー人気のある町であることが感じられます。
写真 [富士山]

2 興津出張所と清水港
【興津出張所】
東京と名古屋のほぼ中間点となる東名高速道路清水ICより東方約3kmに位置し、東西を横断する国道1号線及び同バイパス並びに山梨県に至る中部横断自動車道及び国道52号線から近距離にある興津第1・2埠頭、新興津埠頭、袖師第1・2埠頭及びその周辺が管轄区域であり、静岡県内外のあらゆる様態の貨物を取り扱う総合港湾地区として、経済と国際化を支える地域となっています。
昭和45年(1970年)に興津・袖師地区のコンテナ埠頭の供用が開始されたことにより、輸出入貨物の増加に対処するため、昭和47年(1972年)7月10日、清水税関支署興津監所内に当出張所が設置されました。
昭和49年(1974年)10月9日、興津出張所庁舎の竣工により移転し、令和4年7月に設置50周年を迎え、現在に至ります。
写真 [興津出張所]
【清水港】
(1)冷凍マグロの水揚げ日本一
静岡県には清水港や焼津港といった冷凍マグロの水揚げ漁港が多く、水揚げ量日本一を誇っています。水揚げ量が多く比較的安定して流通するためか、清水港にある河岸の市などにはマグロを提供する店がたくさんあり、リーズナブルに美味しいマグロを食べられます。マグロはツナ缶にも使用されており、ツナ缶メーカーも静岡県に集中しています。過去にアメリカへ輸出して大好評となり、以来需要が増し、清水港でのマグロ水揚げ量が多くなっていきました。
写真 [冷凍マグロの水揚げ]
(2)桜えび漁
静岡県は「桜えび」の漁業許可を受けており、毎年4~6月にかけて漁が行われます。興津出張所近くに所在する由比港は、日本最大の桜えび水揚げ港。漁港直営のお店をはじめ、静岡市内の飲食店などで、獲れたての生の桜えびやかき揚げなどを味わうことができます。
写真 [生の桜えび]
(3)ボールの輸入数量・金額とも日本一
冒頭にサッカー人気に触れました。そのことと因果関係は定かではありませんが、清水港はボールの港別輸入数量、金額とも構成比が日本一という特徴もあります。(貿易統計より)

3 管内の観光名所・グルメ
(1)清見寺(せいけんじ)
NHK大河ドラマ「どうする家康」が昨年放送され、家康ブームが起きました。徳川家康公が今川家に人質になっていた幼少期、滞在していたのが興津にある清見寺です。
清見関と呼ばれた関所が今の興津に設置され、その傍らに関所の鎮護として仏堂が建立されました。この仏堂を以って清見寺の始めと伝えています。足利尊氏がこよなく崇敬し、今川家から外護を受けるなど日本でも有数の寺とされていました。清見寺の住職太原雪斎が家康公の人質時代の教育を務めたそうです。家康公が過ごした空間「手習いの間」は、本堂が改築された今も、柱や欄間、床などが当時のまま残されています。
本堂に向かう石畳横の「臥龍梅(がりゅうばい)」は清見関の梅を家康公が訪れた際に接ぎ木したものと云われています。地を這う龍の形をなぞらえて臥龍と呼ばれるそうですが、その日から400年以上、清見寺の庭で毎年2月から3月にかけて、少し遅咲きの美しい梅が見頃となります。この臥龍梅は、静岡の名酒銘柄にもなっています。
写真 [清見寺]
写真 [臥龍梅]
(2)鮎釣りの名所、興津川
東海道17番目の宿場町として知られる「興津宿」は、歌川広重の「東海道五十三次」にも題材として用いられ、そこに描かれているのが興津川です。
興津川は清水区を流れる全長52キロメートルの二級河川です。清流として知られ、静岡県の鮎釣りの名所です。毎年5月、本年も静岡県内のトップを切って鮎漁が解禁されました。ここで釣れる鮎の姿と味の良さには定評があり、遠方からも多くの鮎釣り師が集まると聞きますが、個人的には食すことが専らで釣りには興じていませんので、鮎釣りの醍醐味などをお伝えできないのが残念です。
写真 [興津川]
写真 [興津川の鮎]
(3)グルメ
前述のマグロや桜えびなどの海の幸はもちろんお勧めですが、ご当地グルメもあります。静岡の郷土料理である黒はんぺんは、青魚を丸ごとすり潰しているので、薄いグレーの見た目をしており、イワシのつみれに近い食感と味わいで魚の旨味を楽しめます。焼いて生姜醤油で食べたり、フライで食べたりするのが主流で、地元飲食店のメニューにもよく見かけます。静岡名物「しぞ~かおでん(静岡おでん)」の種としても白はんぺんとは違った美味しさがあり、主役の一品です。
また、珍味であるイルカのタレは、塩漬けにしたイルカ肉を干したもので、ビーフジャーキーのように味付けされたものです。諸説あるようですが、「タレ」はたれ漬けのタレではなく、垂らして干す「垂れ」からだとも言われています。イルカ料理は独特な食感と臭みがありますが、タレはそれが気にならない程度でお酒のお供になど初心者にもお勧めできます。
次にスイーツについてですが、興津は日本の製餡(あん)業発祥の地と言われており、製餡業技術の生みの親である北川勇作氏と内藤幾太郎氏を祀る「製餡発祥の碑」があるほか、あんこを扱う甘味処や製餡所が多く点在しています。その中から2つご紹介します。1つ目は、筆者が日本一だと思っているたい焼きです。小麦粉と砂糖で作る皮、小豆と砂糖と塩だけで作るあんこを使った、昔ながらの身体にやさしいたい焼きです。たいの形の外側にも皮が付いた状態で提供され、カリっと香ばしい皮も食べて楽しめます。
2つ目は、クリームたっぷりの生どらです。皮はどら焼きの皮ともパンケーキやホットケーキとも違う感じです。生クリームはあっさりしていて、これが皮とのコンビネーション抜群の味わいとなっています。
写真 [黒はんぺん]
写真 [イルカのタレ]
写真 [たい焼き]
写真 [生どら]

4 結びに
これまでの紹介により、興津・清水港に少しでも魅力を感じていただけたなら幸いです。紙面で紹介した以外にも、当地には清見オレンジの原木がある国内初の国立の果樹研究所、坐漁荘(ざぎょそう)などの観光名所が数々あり、巡ってよし、食べて・飲んでよしの地域です。
静岡にお越しの際は、興津方面にも是非足を運んでみてください。
(写真)すべて筆者撮影


52年連続で人口の増えているまち
前 長崎税関長崎空港出張所長上林 豊

1 はじめに
長崎空港出張所は、1951(昭和26)年、大村出張所として開設、大村監視署を経て、1980(昭和55)年、長崎空港出張所として機構が設置されました。
長崎空港は、1955(昭和30)年、現在の長崎空港が所在する簑島の対岸(大村市今津町)に設置され、「大村空港」の名称で開港されました。その後急増する航空需要と大型ジェット機に対応するため、大村湾の箕島に新空港が建設され、1975(昭和50)年5月1日、世界初の海上空港として供用開始となり、名称が「長崎空港」と改められました。3000mの滑走路を保有しており、1990(平成2)年開催の「90長崎旅博覧会」の際にはエールフランス社の超音速旅客機コンコルドが飛来した実績があります。現在では、国際線やチャーター便の増便を目指して、騒音問題が少ない海上空港のメリットを活かし運用時間「24時間化」に向けて早朝・夜間の臨時便の実証事業が行われています。
国際線については、東アジアに近いことから中国(上海、香港)、韓国(仁川)路線がこれまで定期便として就航しております。
また空港ターミナルビルについては、江戸時代に長崎の出島でオランダと交易があったことに因み、オランダの教会をモチーフにした外観を有しています。長崎空港は970mの箕島大橋で本土とつながっており、海に浮かぶ空の玄関口として現代の出島になっています。
写真 世界初の海上空港

2 大村の地勢と歴史
(1)穏やかな内海の大村湾と多良山系の裾野に広がる平野
大村市は、長崎県本土の中央に位置しており、超閉鎖性海域の大村湾の南東岸に面し多良岳にかけて広がっています*1。大村湾は、長崎県21市町のうち5市5町が面する里海であり、南北25km、東西12km、面積320km2で琵琶湖のおよそ半分の大きさです。江戸時代後期の儒者頼山陽(らいさんよう)がこの湖のような穏やかな大村湾を琴に例えて詠んだ漢詩に由来して、「琴湖(ことのうみ)」と称されることがあります。多良岳は、長崎・佐賀県の両県にまたがる多良岳県立自然公園に属する火山群で、大村市側には美しい渓谷の広がる黒木盆地があり、郡川などの河川が形成した扇状地となっています。山と離島の多い長崎県の中では、大村市は平野が広がる数少ない地域で、海と山の自然豊かな環境に恵まれているという地理的特徴を持っています。
(2)領主大村氏の歴史
平安時代に藤原直澄が四国から移り住み大村氏を称したのが始まりとされています。大村氏は戦国時代、江戸時代の幕藩体制下でも改易転封もなく明治の廃藩置県まで絶えることなく大村の領主としてこの地を治めました。なかでも有名なのは戦国時代の第18代領主大村純忠であり、キリスト教を受入れ日本初のキリシタン大名となり、ポルトガルとの南蛮貿易を行いました。1571(元亀2)年に長崎港を貿易港として開港し、領地を教会領としてイエズス会に寄進し、天正遣欧少年使節をローマに派遣し、活版印刷など西洋の進んだ技術を持ち帰らせました。
江戸時代には、肥前大村藩2万7千石の城下町は、海外の唯一の窓口となった出島からの海外の文物のほか、江戸から長崎へ向かう長崎奉行や幕府の役人、商人、文人が往来する長崎街道の宿場町であり、交通の要衝として賑わいました。
(3)大村市の誕生と発展
1897(明治30)年に陸軍大村連隊、第2次世界大戦中に第21海軍航空廠、海軍航空隊が設置され軍都となり、人口が増えたことから1942(昭和17)年に大村市となりました。当時の人口は3万9千人でしたが、現在は人口が9万9千人(2024年3月)の中核都市となっています。全国的に人口減少が進むなか、大村市は52年連続で人口が増加しており、県内13市でも唯一人口が増え続けている自治体となっています。2024(令和6)年度は、新編される陸上自衛隊第3水陸機動連隊が大村市に配備されたことから人口10万人に達すると見込まれています。
大村市は、古くから「花と歴史と技術のまち」と称されていましたが、現在は目指す将来像として「~行きたい、働きたい、住み続けたい~しあわせ実感都市 大村」をスローガンに、長崎空港、長崎自動車道インターチェンジ、2022(令和4)年9月に開業した西九州新幹線の「高速交通三種の神器」という交通アクセスの利便性を活かしたまちづくりが進められています。
写真 展望台から大村市内を望む

3 城下町の魅力
(1)城と桜
市内には、いくつかの城跡が残っていますが、時代とともに変わっていく武器や戦術に応じて、城もまたその造りが進化していったことを知ることができます。
「三城城」は、1564(永禄7)年に築城された大村純忠の居城で、土塁や空堀りによって周囲を囲まれた(平)山城です。
「玖島城」は、1599(慶長4)年に純忠の子で初代大村藩主・喜前が朝鮮出兵の経験をもとに、海に囲まれ守りに適した玖島に築き、明治維新まで大村藩主の居城でした。現在は、史跡「御船蔵跡」など海城の特徴を見ることができます。また、1614(慶長19)年に2代藩主純頼が城を改修した際には、熊本城を築いた肥後の武将、加藤清正の助言を受けたとされています。石垣の曲線が最上部で垂直に立ち、その美しい曲線は「扇の勾配」と言われ、この石垣がある板敷櫓は大村のシンボルとなっています。
現在は、玖島城跡は大村公園として桜や花菖蒲の名所となり、例年3月下旬から6月中旬まで「おおむら花まつり」が開催されています。なかでも国指定天然記念物「大村神社のオオムラザクラ」(花弁が60枚から200枚と極めて優美な桜)のほかソメイヨシノなど21種類約2000本の桜が咲き誇り、「日本のさくらの名所100選」となっています。また、5月下旬から6月中旬には30万本の花菖蒲園がライトアップされるなど、多くの花見客で賑わいます。
写真 大村公園の菖蒲と板敷櫓
写真 国指定天然記念物オオムラザクラ
(2)武家屋敷通り
玖島城の城下町の面影として、五小路(本小路、外浦小路、小姓小路、上小路、草場小路)に旧武家屋敷やその石垣、塀が残っています。
特に、草場小路に残る「五色塀」は、色とりどりの海石の石積みを漆喰で塗り固めた大村地方独特の塀で見応えがあります。この小路には、国指定名勝「旧円融寺庭園」があり、江戸時代初期様式の庭園で斜面を利用した400個の自然石の石組み枯山水の庭は圧巻です。
外浦小路の先に、藤原直澄が最初に上陸したとされる寺島があり、NHK大河ドラマ「龍馬伝」のロケ地になったことでも有名です。
写真 草場小路の五色塀
(3)大村の郡三踊り
寿古踊、沖田踊、黒丸踊は、後述する領地奪還の際の祝いの踊りを起源とし500年の歴史があり国の重要無形民俗文化財に指定された民族芸能です。このうち沖田踊、黒丸踊は、2022(令和4)年にユネスコ無形文化遺産に登録されています。

4 令和に注目の名所、特産品
(1)長崎街道
長崎街道は、江戸時代に整備された九州唯一の脇往還で、小倉から長崎までの全長57里(約228km)で25の宿場があり、大村市内を通る15kmの区間に本陣がある大村宿、松原宿の2つがありました。松原は陸路、海路の交通の要衝として栄えました。街道の南には大村領と諫早領の境の峠である「鈴田峠」があり、当時の景観がよく残っている箇所として文化庁「歴史の道百選」に選ばれ、駕籠立場跡や藩境石などを見ることができます。
長崎街道は、出島で輸入された砂糖が運ばれたことから別名「シュガーロード」とも呼ばれ、外国由来のお菓子や当時は高級品であった砂糖を使用したお菓子など独特の食文化が花開きました。こうした長崎街道「シュガーロード」を中心として発展した独自の文化に関連した有形・無形の様々な文化材群は、文化庁により2020(令和2)年に日本文化遺産として認定されています。認定された文化財には「大村寿司」、「へこはずしおこし」がありますので、特産品として後述します。
(2)キリシタン巡礼
大村市内の長崎街道沿いには、キリシタン弾圧の史跡も多く残されています。1657年に大村地方で潜伏キリシタンの存在が発覚するという大事件が起こり、603人が捕まり、406人が打ち首となり、首は塩漬けにされ長崎街道で20日間さらし首にされました、その後、キリシタンの妖術で首と胴がつながって生き返ることが恐れられたため、受刑者の胴体と首は別々に埋められました。市内には獄門所跡、首塚、胴塚、妻子別れの石などキリシタン巡礼の史跡があります。
(3)大村の偉人
大村藩の藩校「五教館」は、九州では最も古く、藩士の子弟に限らず農民や町人の子弟も入学を許可されていたことが特徴です。特に幕末には、この藩校の出身者が中心となり薩摩藩や長州藩と協力し倒幕に活躍したことから、明治以降も新政府で活躍した偉人を多く輩出しています。
「楠本正隆」は、新潟県令、東京府知事となり、また衆議院議長も務め、近代都市計画に大きな功績を残しました。上小路の旧屋敷が県指定有形文化財になっており見学できます。
「渡辺清」は、大村藩勤皇三十七士の中心人物、新政府軍参謀として江戸無血開城の会談に立会い、新政府では福岡県令や福島県知事として活躍しました。
「長岡半太郎」は、世界的な物理学者で、のちにノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士や朝永振一郎博士を教え、自身も最初の文化勲章を受章しました。
今年注目されているのは没後80周年となる「石井筆子」です。前述の渡辺清の子であり、知的障害児の父といわれる石井亮一とともに「滝乃川学園」を運営し、近代の知的障害児教育に尽力しました。19歳でヨーロッパへ留学し、帰国後は津田梅子らとともに華族女学校の教師となりました。この日本初の知的障害児の教育施設は、渋沢栄一も理事長を務めました。県指定史跡「五教館御成門」の隣に石井筆子の像があります。
写真 五教館御成門
(4)「ミライon」図書館
「ミライon」図書館は、2019(令和元)年に開館した長崎県立・大村市立一体型図書館と大村市歴史資料館の複合施設です。県立・市立一体型図書館の県庁所在地以外での整備は全国初であり、蔵書202万冊は九州最大規模です。長崎に所縁の深い造船所のドックや湾をイメージしてデザインされた建物は、市中心部の新しいランドマークとなってます。4万冊の絵本・児童書を揃え子どもの読書活動の推進やワークショップなどの参加型イベントを行い、知の拠点としてだけでなく地域の活性化や情報発信が期待されています。多くの来館者を呼び込む工夫をしており、周辺の商店街の活性化など人の流れの創出に官民が連携してまちづくりに取り組んでいます。
(5)西九州新幹線
2022(令和4)年9月に西九州新幹線が開業し、大村インターチェンジ付近に新大村駅が設置されました。空港、高速道路、新幹線と高速交通ネットワークが車で10分圏内に揃う利便性の高さから、観光振興や市内の企業の事業拡大や新規の企業誘致による経済効果や雇用の創出が期待されています。また、新幹線を活かしたまちづくりとして、商業施設等の民間開発や公園整備など官民一体となって進められています。
各地へのアクセスに有利な立地性に着目し、空港内や市中心部にサテライトオフィスやテレワークが可能な環境の整った個室やスペースなどの有料施設も増加しております。また、県内の移動は長崎市、佐世保市、雲仙市、島原市まで1時間圏内であり、五島、壱岐、対馬などの離島へも日帰り可能であることから、ワーケーションの拠点としてもアピールされています。
(6)コミュニティーパーク「Gruun(グルーン)おおむら」
日本初のキリシタン大名、世界初の海上空港など、大村が事始めとなったものがいくつかありますが、1952(昭和27)年に全国で初めてモーターボートレースが開催された「競艇発祥の地」でもあります。競艇事業として、過去最高売上額の更新及び3年連続売上日本一を達成しており、福祉や教育事業、道路、インフラ整備に寄与しています。モーターボートレース場開設70周年を迎え2022(令和4)年11月に新たな多世代間の交流拠点として、県内最大規模のスケートボードパークや全天候型ボルダリング施設、インクルーシブ遊具等を整備したコミュニティーパーク「Gruun(グルーン)おおむら」が整備されています。
(7)特産品
「大村寿司」は、室町時代に戦に敗れ領地を奪われた大村純伊が、反攻して領地を奪還した際に、領民らがそれを祝うために押し寿司を作り供したのが起源とされています。領民が、領主を迎えるための食事の用意に取りかかったが、食器が十分そろわないため、もろぶた(木製長方形の浅い箱)に炊きたてのご飯をひろげ、その上に魚の切り身、野菜のみじん切りなどをのせて押さえたものを食前に供し、将兵たちがこれを脇差しで角切りにし、手づかみで食べたのが大村寿司の起こりと伝えられています。
「へこはずしおこし」も領主の大村氏を起源とするもので、米を蒸して乾燥させたものを煎り、自家製の水飴をまぶし黒砂糖を入れて作られたものです。創業は1679年(延宝7年)で、名前の由来は、お殿様が、このおこしを食べたとき、あまりの美味しさに「へこ(ふんどし)」が外れたのも気づかずに食べ、みんなに笑われたと言い伝えられていることからです。
食べ物以外では、「松原包丁、松原鎌」が500年の伝統と、切れ味と粘り強さを備えた極上の手打ち庖丁として特産品となっています。
写真 大村寿司
写真 へこはずしおこし

5 おわりに
一昨年2022(令和4)年に税関は発足150年を迎えましたが、貿易に携わる官庁として、この大村が450年前から長崎での海外貿易の起源にゆかりがあり、現在では空の港となっていることに特別な縁を感じます。
大村市は、穏やかな大村湾と多良岳の自然豊かな環境に恵まれ、城下町としての歴史が長く特色のある文化があり、コンパクトな街ながら見どころがたくさんあります。県内外へ地理的・高速交通網によるアクセスの良さ、文化施設、子育て支援や医療体制の充実など幅広い世代が快適に暮らせる生活環境が整っていることが人口が増え続けている要因だと思います。
この記事をきっかけに大村に興味を持っていただけましたら、出張や旅行の際にぜひお立ち寄りいただき、この魅力を感じていただければ幸いです。

参考文献・資料
広報おおむら
2023年大村市要覧
長崎税関のあゆみ 50年史
写真提供
大村市

*1) 閉鎖性海域とは、湾の大きさに比べて湾口が狭く海水の入れ替わりが少ない海域です。大村湾の入り口は、同じく閉鎖性海域である佐世保湾の奥にあります。このような地形は世界的にも珍しく、大村湾は「超閉鎖性海域」と呼ばれています。