講師 與那覇 潤 氏(評論家)
演題「ユーラシア時代」の日本文明論
令和6年4月9日(火)開催
はじめに
本日はご多忙の中お集まりくださり恐縮です。またWEBで参加されている方も多くいらっしゃるということで、感謝申し上げます。
二年と少し前にウクライナ戦争が始まり、「ユーラシア」をどう理解するかへの関心が高まっています。また平成の後半からのブームもあり、どの書店でも「地政学」を掲げる本が平積みです。
しかし、どの本をめくっても内容はほぼ同じです。19世紀生まれのマハン提督(米)やマッキンダー(英)の概念を使いまわして、「ランドパワー対シーパワー」とお決まりの話をするばかり。
そうした「大昔の英米の視点」に沿って世界を捉えるだけで、本当に現在起きている変化が理解できるのでしょうか? むしろ地政学を言うのであれば、欧米の知見を踏まえつつも「『日本』という場所からはこう見える」という視角を意識していくことが、より重要ではないでしょうか。
私たちはいま、どんな時代を生きているか?
1.「空虚な楽観」の2010年代
いまという時代を捉えるとき、直近の前史に当たるのが2010年代です。当時はまだ、今日振り返ると意外なほどに楽観主義、オプティミズムの論調があらゆる分野を席巻していました。
2011年の前後から、海外では「アラブの春」や「Occupy Wall Street」、国内では脱原発デモの潮流が台頭します。「民衆の力を結集し、みんなで立ち上がれば、世の中は良くなる」といった、素朴なデモクラシーへの信仰が高まりました。
それが収束した10年代の後半には、「AIとロボットに任せれば上手くいく」という発想が人気になります。社会問題は技術の進歩で解決できるとするテクノロジー信仰です。同時に流行したのが「国債はいくらでも発行でき、財源は無限にある」と唱えるMMTの経済論。立場こそ多様であれ、あらゆる人が楽観的なことを語り、「問題は解決できる、というかすでに解決している」といった言論ばかりが注目を集めました。
2.「投げやりなニヒリズム」の2020年代
ところが20年代の頭に新型コロナウイルス禍に襲われると、世相が一挙に暗転します。10年代の楽観論には「根拠がなかったのでは?」と疑う空気が広がり、180度逆の極論へと偏っていきました。「どうせ世の中はダメだから、どうだっていい。自分さえ愉しければいい」とする、露悪趣味で攻撃的なニヒリズムが主流になります。
たとえば「AIが人間を抜くことはない」と多くの学者が論証しているのに、いつまでも「人間はAIに抜かれる」という話に固執する人がいる。彼らは実は、AIが好きなのでもなんでもなく、「人間に価値なんてない、だから他の人に共感せず無視していい」と言いたいだけなんですね。
2022年から続くウクライナ戦争でも、近日はウクライナの敗色が濃くなり、「結局は力がある方が勝つのだ。正義や民主主義なんて関係ない」といったシニシズムが高まり始めています。
なぜ、いかに、「ユーラシアと日本」を考えるのか?
1.「全世界が西側になる」シナリオの破綻
ニヒルな世界の見方がここまで広がると、「欧米=『西側』の自由民主主義こそが、全人類に共通の理想なのだから、日本人もその方向を目指すべきだ」とする、冷戦終焉以降の議論の前提もまた、疑わしく感じられるようになります。
「欧米が結集してウクライナを勝たせようと言ってきたのに、結局はプーチンが勝ちそうだ」、これは一体何なのか? という状況です。
2.先人の知に対する敬意とリサイクルを
『応仁の乱』(中公新書)で知られる呉座勇一さんと、共著『教養としての文明論』(ビジネス社)で論じたのですが、冷戦下の日本の学者たちは決して、西側=欧米との対比でのみ自国の歴史を捉えてきたのではありません。むしろ当時は共産圏が広がっていた「ユーラシア」と対照しつつ、日本文明の特質を捉える議論が多くなされてきた。その知恵を「もう一度回す」という意味でリサイクルすることが、いま有益だと考えます。
学問的な論文を書くときは、当然ながら先行研究を批判する。それが勢い余って、先行世代といえば「けなす対象」だと決めつけるのは、学者の悪い癖です。先人の知見に敬意を持ちつつ、改めるべき箇所を改訂してゆく姿勢が大切です。
梅棹忠夫『文明の生態史観』
1.2つの戦争と梅棹史観:1950から2022へ
(1)第一地域と第二地域
『教養としての文明論』で採り上げた、ユーラシアとの比較で日本文明を考察する名著五冊のうち、四つを今日はご紹介したいと思います。
一冊目は、梅棹忠夫の『文明の生態史観』。1950年代の後半、高度経済成長が始まり出した時期の論考を中心に集めた著作ですが、いまもユーラシア史の「基礎論」として有意義です。
梅棹さんの見取図では、ユーラシア世界とは、東西の両端にあたる西ヨーロッパと日本が「第一地域」、真ん中のすごく広い部分は「第二地域」とざっくり二つに分かれる。その歴史的な根拠は、「第一地域」である西ヨーロッパと日本にのみ、前近代の間に封建制が存在した点だという。
「第一地域」の封建社会とは、地方ごとにそこそこの有力者が数多くおり、政治も経済も分権的に動かすしくみだった。それが基盤となって、西欧と日本は近代に安定した自由民主主義を発展させることができた、とするのが梅棹説です。
対して、ユーラシア大陸の「第二地域」は大きく四つの文明圏、つまり中国文明、インド文明、ロシア文明、イスラーム文明に分かれる。これらはそれぞれに高度な文明を発展させるけれども、定期的に、チンギス・ハーンのモンゴルのような遊牧民に侵攻されて荒廃する。なので、王朝が滅亡するごとに一からやり直しになり、定期的にリセットされるから、歴史の進歩が蓄積しない。
持続性を持つ地元の有力者が存在せず、封建制を欠くこれらの地域では、専制的な「帝国」の支配が標準的になる。皇帝が全権力を握る裏面で、「あの人も最近落ち目じゃないか?」となると、みんながそっぽを向き、大反乱が起きて王朝が転覆する。この繰り返しが「第二地域」の歴史だと、梅棹さんは1957年の論考で素描しました。
(2)マルクス主義の予言が外れた
梅棹の議論の背景として重要なのは、1950年から53年の朝鮮戦争です。北朝鮮がソ連と中国の支援を受けて、半島を統一し共産化するために起こした戦争ですが、その目論見は失敗しました。
この体験は当時の日本の知的世界に、「マルクス主義の予言が外れる」という衝撃をもたらしていた。やがて冷戦終焉によって起きる大きなショックの、遠い前触れという感じですね。
「マルクス主義に従えば社会主義が勝つ、つまり朝鮮も日本も共産化するはずではなかったのか?」と、多くの人が疑問を抱いた。そこに梅棹さんが登場し、「日本と西ヨーロッパは、そもそも真ん中のユーラシアとは違うのです。確かにロシアや中国はいま社会主義ですが、あれは前近代の『帝国』の変種ですから、日本や西欧に普及することはありません」と説明してくれた。
共産主義への道は、全人類が歩む普遍的なコースではなく、「第二地域」に限られた特徴に過ぎない。だから「第一地域」に属する日本は安心して、西側世界の一員であればよい。そうした含意をともなって、梅棹の歴史観はヒットしました。
しかし2022年にロシアがウクライナに侵攻した際、梅棹風に言えば、当初は「第一地域」が結束してロシアを撃退することが叫ばれました。しかしウクライナ戦争の展開は、むしろいまや「第二地域」が予想を超えて強大になり、簡単には押し戻せないことを示している。私たちは朝鮮戦争以来のユーラシア史の流れが、ちょうど反転する歴史の転換点にいるのです。
2.ほんとうに「第二地域」はユーラシアのみか?
(1)道徳(宗教)と政治の一致
梅棹さんは「第二地域」はユーラシアの中心部に限られたものであり、両端にある日本と西ヨーロッパはまったく別の世界だと唱えたのですが、近日はそれも怪しくなってきています。
例えば、梅棹さんが「第二地域」の特徴として挙げるのは、オスマン・トルコ帝国のスルタン(世俗的な最高権力者)とカリフ(宗教的な最高権威者)が同一人物で、ロシア帝国でもツァー(皇帝)が正教会とつながっていた「政教一致」です。今日だと1979年にイスラーム革命が起きた後の、イランがそうした体制ですね。
ところが「第一地域」である欧米でも、近年は「政教一致」に向かうかのような流れが生まれています。つまり、道徳的に正しいことが「そのまま政策になるべきだ」とする発想が高まっている。
例えば、欧米のリベラル派や左派がエコロジーをうたって、どれほど経済的に損害を出しても「脱炭素化せよ」と主張する。あるいはアメリカの宗教右派が聖書を「文字どおり」に解釈して、中絶の禁止やLGBTの排斥を訴える。
いまや先進国ほど左右問わず、政治が「政教一致」的な方向に傾いているのです。
(2)テクノロジスト至上主義
もう一つ、先進国で見られる不穏な兆候が「テクノロジスト至上主義」です。
梅棹さんはロシアや中国の社会主義化を評して、これは「第二地域」には封建制がなく、ボトムアップでは近代化できないためだと論じました。したがって「皇帝」のように全権力を握るスターリンや毛沢東の下で、「緊急技師団」として有能な人材を前衛党の官僚に起用し、トップダウンで国民を指導する形でしか工業化ができないと。
封建制が存在しない地域では、そこそこに豊かで経営者としての体験も持つ、知識あるブルジョワ層が育たない。だから独裁者が上からテクノロジーを普及させて、「このやり方でやれ」と命令せざるを得ないというわけですね。
しかし2020年からのコロナ禍では、当初は中国共産党に限られていた「ロックダウンして、政府が定めた規則を国民に強制する」やり方が、先進国にも模倣され広まってしまいました。それが終わった後でも、日本ではいまだに「AIに政策を決めさせて、人間は黙って従う社会が合理的」と吹聴する学者がいたりします。
梅棹さんが「第一地域は第二地域と違います」と述べたような、牧歌的な時代が終わりつつある。むしろ従来は「ユーラシア限定」だと思われてきた特徴が、日本も含めた先進国でも姿を現しつつあるのが現在だと、受け止めるべきでしょう。
宮崎市定『東洋的近世』
1.中国史にも「封建制」は実はある
(1)遊牧民としての「始皇帝」
二冊目は、京都大学で教えた中国史の泰斗である宮崎市定の『東洋的近世』(1950年)です。
同じ京大でも、梅棹さんは理学部出身の人類学者なので、「ユーラシアの両端には封建制があり、真ん中にはない」とざっくり分けて議論します。本人も、ケッペンの気候区分をモデルにしたと認めています。
一方で宮崎さんは歴史家なので、「中国史の展開を細かく追うと、実は中国でも封建制を取り入れた時期がある」と書いている。時系列を採り入れることで、また違う見方ができるわけです。
この宮崎の系譜を引く、京大系の東洋史の研究者がつねに強調するのは、「中国とは、そもそも『遊牧文明』である」ということです。
例えば始皇帝の秦が、なぜ最初の統一を達成するほど発展したのか。秦は戦国の七雄の中では一番西の、ほとんど中央アジアの入り口にある地域から始まった国ですから、遊牧民の騎馬戦術を取り入れるのが非常にうまい。これが軍事的な卓越性をもたらしたと、宮崎さんは述べています。
もう一つ秦の優位性として宮崎さんが指摘するのは、「亡命者の思想を純粋に採用することができた」という点です。具体的には法家、韓非子や李斯に代表される思想で、これが強権的な統治と行政のしくみを秦にもたらした。だけど彼らは、元は中国の中央部の出身で、しかしすでに文明が成熟していた母国では自分の思想を訴えても聞き入れてもらえる余地がなく、それで辺境の秦へと流れてきた人たちだったんですね。
この宮崎さんの指摘が興味深いのは、近代にアメリカが発展する構図を思わせることです。既得権を持つ人が少なく、人材の流動性が高い遊牧民的なフロンティアでこそ、斬新なアイデアが全面的に採用され、イノベーションを起こす。そうした気風は今日のシリコンバレーまで共通です。
(2)遊牧民を封建制に組み込んだ曹操
三国志の曹操も、北方の遊牧民を騎馬隊に組み込み軍事力を強化した点は同様です。しかし曹操は屯田制も導入し、彼らに定住を促す政策を採りました。中国では内乱が起きると農民は逃げてしまうので、「食べられる生活は保障するから、この土地を耕せ」と軍団ごとに命令したわけです。
宮崎の見方では、これが中国史における「封建制」に相当し、曹操の手法を微調整しつつ、楊貴妃との恋で有名な唐の玄宗まで続きます。ところが安禄山の乱で統治が崩壊した結果、「もう封建制の路線では無理だ。その先の社会に行こう」となった文明が中国だ、と宮崎さんは考えました。
2.宋における大変革:文明は「近世」で決まる
(1)税の直間比率の究極的是正
では、封建制を止めてどうするのか。唐の次の統一王朝である宋の時代に、実は中国では、直接税と間接税のバランスが大きく調整されます。
屯田制で「この土地で働け」と言っても、どうせ人は逃げてしまう。だったら農民はもう、どこに住んでくれてもいい。代わりに商取引ごとに課税するから、場所は問わず「物を売り買いした際」に税を払ってね、と発想を切り替えたわけです。
(2)究極の「新自由主義」の果てに
(ア)必需品である「塩の専売」が財源
もっとも商業課税と言っても、多くを占めたのは「塩の専売」でした。生活必需品の塩は沿海部でしか取れないので、原価の30倍超の価格で内陸部の住民に売りつけ、国の財源にする。これは実際に儲かるので、以降は兵士も傭兵を雇えばよくなり、ますます封建制は不要になります。
ところが専売制の結果、ちょうどアメリカで禁酒法がマフィアを台頭させたように、「塩賊」と呼ばれる闇で塩を売る業者が力を手にしてしまう。いつしか国民も「国より安くサービスを提供してくれるなら、そっちでいいや」と思い始める。そうした光と影の両面を宮崎さんは指摘します。
いま、NHKに受信料は払いたくないが「お得なAmazonプライムになら進んで払う」日本人は少なくない。そうした国家に公共性を感じない状況の、先駆けが中国だったとも言えます。
(イ)科挙という「教育なきメリトクラシー」
社会の流動性を抑制せず、むしろ促進する政策を採った宋朝以降の中国を、代表するしくみが有名な「科挙」です。
同じ時代の日本でも西欧でも、政治の担い手は「家柄」で選ばれたのですが、中国だけは試験で選んだ。しかしやはり宮崎さんが指摘するように、科挙は「教育なきメリトクラシー」でした。
近代社会のメリトクラシーでは、国が学校を建て、国民皆教育の上で試験を実施しますが、中国は学校をつくらず、試験だけをする。
なので拙著『中国化する日本』(文春文庫)でも書いたように、民間に宗族と呼ばれる巨大な親戚グループが作られ、一番優秀な子弟に一族が送金し、超一流の家庭教師をつけて勉強させる形になります。教育まで「民間にできることは民間に」なのです。
これだと合格して役人になったら、自分に教育費を送ってくれた千人規模の一族を、返礼で食べさせないといけない。なので汚職が深刻になる。
また科挙の合格者はごく少数で、彼らエリートだけでは地方を統治できないため、実際には地元の顔役として売り込んできた人間をポケットマネーで「胥吏」(しょり)として雇い、実務はその人たちに丸投げします。ところがこの胥吏は正式な公務員ではない分、日常的に賄賂を取ったり、コネのある身内だけを優遇する政治に走る。
「官から民へ」でNPOへの委託を増やしたら、かえって不透明な行政になっていないか? といった環境も、やはり中国では昔からでした。
遣唐使の阿倍仲麻呂が合格した例が著名ですが、放っておいても科挙を目指して優秀な人材が集まる分、中国には「国のお金で公教育を行う」発想が弱かった。実は作家の司馬遼太郎と陳舜臣が、それは「アメリカに近いあり方だ」と指摘していました(『中国を考える』文春文庫)。
結果として、ハーバードはじめ世界一の私立大学に海外からエリートが流れ込んでくるのだから「国内の頭の悪いやつなんて、放っておけばいい」と。しかしそうした奢りの下で、米国では社会の分断が進み、長い目では国力が衰えていった。私もエマニュエル・トッド氏の来日時に、そう議論して中国史の例を紹介したことがあります(拙著『危機のいま古典をよむ』而立書房)。
(ウ)現状批判からの原理主義の台頭
米国ではそうしたあり方への反動として、「偉大なアメリカを取り戻せ」と唱えるトランプ主義が高まっています。実は原理主義的な欲求の台頭についても、宮崎の中国史は指摘していました。
例えば朱子学が南宋の時代に成立しますが、これは原点回帰の思想なのです。朱熹は「今までの儒教の読み方は歪んでいた。だから一から見直すので、これからは私が解釈した儒教を信じよ」と唱えた。いわば儒教原理主義と呼べます。
宋代に封建制を放棄し、流動化に舵を切った社会の果ては、今日にも通じる危ない世界だった。そう宮崎は示唆していたとも読めるわけです。
井筒俊彦『イスラーム文化』
1.日本とイスラームは「最も遠い」文明?
(1)純粋なる「第二地域」の先駆者
三冊目は井筒俊彦の『イスラーム文化』です。
井筒さんの同書が出たのは1981年。79年に起きたイラン革命を受けて、イスラームの本質を日本の財界人に講義した内容が基になっています。
当時はイスラームというと、中東起源でベドウィンなど「遊牧民の宗教」という理解が強かったため、井筒さんは「それは違う」と指摘することから始めます。むしろ遊牧民に強い「部族意識」を、宗教の力で克服したことにイスラームの意義がある、というのが井筒説のコアになります。
(2)日本と180度逆の「聖俗一致」
(ア)閉じた「家族」の限界をどう超えるか?
遊牧民に限らず、原初的な社会では一般に、自分の血縁者、つまりファミリーどうしは信頼し合い、そうでない別のファミリーとは対立する。そうしたマフィアのような部族抗争が常態です。
これに対し、イスラームは「コーランを信じる者はみんな仲間だ。血縁や部族意識にこだわるのは止めよう」と訴えた。ここにイスラームの画期性があったと、井筒さんは述べています。
そうした目で見ると、日本とイスラームは世界でも稀な「180度逆の文明」かもしれません。
日本ではイスラームと異なり、家的な小集団への帰属意識がずっと長く残った。しかし日本の家のユニークなところは、狭く閉ざされた集団ではあっても「可変性が高い」点です。
例えば、日本人が養子を迎えて家を継がせる場合、相手は誰でも自由に選べます。これはかなり特殊なあり方で、中国や朝鮮の場合は、「父系血縁がつながっている親戚」しか養子にとることはできませんでした。西欧でも前近代では、日本ほど自由に養子を選べなかったとされます。
つまりイスラームの場合は、同じ宗教(思想)を共有することに基づく巨大な共同体意識で、従来の部族意識を丸ごと「上書き」した。日本は逆に家という小集団を残しつつ、そのメンバーの入れ替えの自由度を上げることで、変化に対応した。
文明のベースが正反対の発想で作られていることが、井筒さんのイスラーム論を参照することで見えてくる。外国人労働力の移入を通じて、これから日本でもムスリムの人口が増えることが確実な現在、留意すべき点だと思います。
(イ)商行為も「宗教的行為」になるコーラン
もうひとつイスラームと日本で180度異なるのは、宗教と世俗の関係です。我々は「ビジネスと宗教」はそれぞれ別のものだと思っていますが、イスラーム文明では、コーランの教えに則って「公正な取引」を行うことがビジネスなので、両者は不可分一体です。
例えばコーランに従うかぎり、利子は禁止ですので、世界中にイスラーム銀行と呼ばれる、コーランの規則とすり合わせた上で投資・運用をする金融機関があるわけです。
日本人はまったく逆です。むしろ外国人には「宗教的な儀式」と見えることを、世俗的な行為として行っている。だからよく揶揄されるように、キリスト教の教会で結婚式を挙げて、葬式は仏教のお寺で出しても矛盾を感じません。単に、異なるチェーン店を時には使うよねと思うくらいです。
いつからそうかというと近世、江戸時代からですね。「宗門人別改帳」という用語を日本史の授業で覚えたかと思いますが、徳川時代には戸籍の管理を、事実上お寺が行っていました。だから当時、地元のお寺に顔を出すというのは、今日でいえば「市役所に行く」程度の感覚なんです。
イスラームの人たちは、「それはあくまでビジネスでしょう?」という行為も、「いいえ、宗教的な実践です」として行う。逆に日本人は「ああ、仏教の信仰ですね?」と見える儀式でも「いや、ビジネスマナーとして、葬儀にはお坊さんが居てくれないとまずいから」としか思っていない。こうした対照ぶりを意識していたことも、井筒さんの叙述から読み取ることができます。
2.意外に似ている近代日本と「シーア派」
(1)イラン革命になにを見るか
(ア)シーア派が行う読解「タアウィール」
一方で面白いのは、井筒さんの『イスラーム文化』を読み進めると、ここまで正反対の日本とイスラームが似て見えてくる瞬間がある。それも、一般には日本が「西洋化」したとされる近代に、意外なほどイスラーム的なあり方に接近している。これは気づかれてこなかったポイントです。
1979年にイスラーム革命を起こしたイランは、どちらかというと少数派にあたるシーア派の信仰を持ちます。それは主流派であるスンナ派と、どう異なるのか。井筒さんの解釈によれば、「コーランの読み方」が違うんですね。
主流派は書かれた文言を素直に読み、そのままの意味で理解します。しかしシーア派には「タアウィール」と呼ばれる独特の読解法があり、これは先ほどの朱子学とも似ていて、「文言上はこう書いてあるけれど、神様の真の意思を踏まえるなら、文字面の奥に秘められた別の意味を読み出せる」といった読み方をするのだという。
呉座勇一さんに聞いたところでは、これは近代日本のナショナリズムの源流になった、本居宣長の「国学」とも近い。宣長は古事記や源氏物語に関して「今までの読み方は正しくなかった」と断じ、従来の通説とはまったく異なる解釈を行うことで、「あるべき日本人像」を描き出しました。
(イ)イスラーム以前の王(シャー)の権威
また井筒さんが注目するのは、イランにはそもそもイスラームの教えとは別個に、アケメネス朝からの「ペルシア」の伝統もあります。つまり宗教の権威と世俗の王権の、両方が並立している。
ここでシャーと呼ばれる王様がイスラームを敬っている限りでは、問題は起きないのですが、「いまの王は本来なら宗教者の代理人のくせに、イスラームをないがしろにしている」と感じられ始めると大変です。結果として宗教者のホメイニが指導者に担がれ、王様は追放されました。
これも日本人にとってなじみ深い光景で、幕末の尊王攘夷とまったく同じ構図になります。
「天皇と将軍」という二つの権威は、徳川将軍があくまで天皇の代理人として振る舞うなら、共存可能だった。しかし条約勅許問題を通じて、「将軍は外国勢力におもねり、天皇をないがしろにしているぞ」とする不満が高まり、天皇を担いで将軍を廃止する明治維新が起きたわけです。
「近世」のあいだは180度逆を向いていた日本とイスラームは、「近代」に入るとむしろ似た動きを見せる。日本とイスラームのつきあい方を考える上でも、糸口になり得る視点だと思います。
(2)井筒俊彦のイスラーム研究の起源
大川周明という、戦前に活躍した右翼の思想家がいます。彼はコーランの翻訳を試みるなど、元々イスラームへの関心が深く、実は助手時代から井筒さんの才能を見抜いてそのイスラーム研究を支援したのも、大川周明でした。
大川は戦時中に『回教概論』(現在はちくま学芸文庫)という本を書いており、戦後の研究水準に照らしても遜色ないイスラーム概説として評判が高い。しかし近日の研究では、実際には大川の研究所に出入りしていた井筒さんが、ゴーストライターとして代筆したのだと指摘されています。これもまた、日本とイスラームが「意外に相通じる」可能性を考える上で、示唆的な挿話です。
丸谷才一『忠臣蔵とは何か』
1.プリミティブな日本:文明化以前の文明?
(1)社会の原理は「感情の共有」
(ア)なぜ四十七士は吉良上野介を襲うのか?
最後に「日本文明」の本質を問う書物として、評論でも知られた作家の丸谷才一さんが、1984年に出した『忠臣蔵とは何か』を紹介します。
忠臣蔵のストーリーは誰もが知っていますが、実はよく考えると、おかしな箇所が多いのです。
例えば、浅野内匠頭に切腹を命じたのは幕府なのだから、「復讐する」なら幕府の奉行所を襲うのが筋です。ところが赤穂浪士たちは、内匠頭が斬りつけた吉良上野介の家に討ち入って殺す。
これを正当化するために「そもそも吉良が浅野に賄賂を要求し、いじめていた」云々と語られるのは後世の創作で、証拠はありません。
むしろ大石内蔵助らは、討ち入り後の口述書に「うちの殿様がなぜ吉良に恨みを抱いたかは、よく分かりません。しかし殿が『吉良を殺したい』と強く思っていたことは確かなので、その思いを我々が果たしました」としか書いていない。
つまり日本では、政治的なテロを起こすのに思想は必要ないのです。自分たちが担ぐ対象の「お気持ち」に同一化し、法律や合理性を無視してでもそれに従うことが、日本人にとっては一番強力なモラルになるのだと、丸谷さんは指摘します。
(イ)「仮名手本忠臣蔵」の包摂性
現実の赤穂事件の後に、それをフィクション化する形で、最初は浄瑠璃、のちに歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が成立します。そこで行われた脚色についても、丸谷さんの分析は鋭い。
歌舞伎の忠臣蔵の終幕では、討ち入りを果たした後、主人公が懐から財布を取り出し「今回の資金を集めてくれたのは、今は亡き早野勘平だ。だから彼は討ち入りには参加していなくても、やはり忠臣であり義士であるのだ」と演説する。
これを丸谷さんは、徳川時代の観客に自己承認を与えるためのしかけだと解釈します。江戸の庶民には、自分で武家政権に逆らうような勇気はない。しかし、劇場に来て討ち入りを「応援」してくれた時点で、君も早野勘平と同じように義士であり、十分偉いんだというわけです。
いまもSNSで「意識の高い」ことばかり言い、格好をつけた時点でプライドを満たして、少しも現実を変えることに貢献しない人がいますね。丸谷さんの見立てでは、彼らのようなタイプを「それでいいんだよ」と肯定するエンタメ作品として、江戸時代の忠臣蔵は機能していた。
日本でフランス革命のような大変革が起きないのは、「架空の世界で自己実現した気にさせる」フィクションで、満足する歴史的な癖があるからなのだと。
(2)内発的な「個人主義」とは冷笑系?
日本の将来を考える上で、より重要な指摘も歌舞伎の分析から出てきます。忠臣蔵はあまりにも定番となってしまったため、途中から多くのパロディ作品が生まれました。有名な『東海道四谷怪談』もその一つで、同作は外国船が近づき徳川時代の終わりが見えてきた、1825年が初演です。
民谷伊右衛門という、今だと「貢がせホスト」をしていそうな凶悪なイケメンが主人公です。奥さんのお岩さんを散々裏切り、搾取し尽くしたうえに、用済みだからと毒を盛って殺してしまう。ところがこの伊右衛門、実は赤穂浪士でもあるという点が、作品のポイントなんですね。
「みなさん、『意識の高い赤穂義士』なんて話は嘘くさいと思いませんか? 実は彼らにも、やっぱりクズがいたんですよ」というストーリーが、徳川末期の庶民にはウケるようになっていた。冷笑主義やシニシズムが売り物になる時代が、近代を待たずして始まっていたのですね。
先に論じたように、忠臣蔵には「お気持ちへの同情」以外、復讐のロジックがない。そうした感情的な押しつけを鬱陶しく感じ出した観客は、「忠義とか知らねぇよ。俺は自分さえ愉しめればそれでいい」とうそぶく伊右衛門に喝采した。そうしたニヒリズムの形でしか、日本文明から個人主義は生まれ得ないのかと、丸谷さんは嘆息します。
2020年代のいま、世界で「別に西側だけがモデルじゃないぞ」「結局は正義より力だ」とする空気が高まっています。舵取りを誤れば、日本の個人主義もまた伊右衛門のような近世以来の「地金」(じがね)に回帰し、他人に共感せず理想をせせら笑う人ばかりの社会になってしまうかもしれません。
それを避けるためにこそ、まずはユーラシア時代における日本の「立ち位置」を、歴史の中に位置づけることが大切です。『教養としての文明論』では、上記の四冊に加えて、西欧およびアメリカを扱う高坂正堯さんの『文明が衰亡するとき』を参照することで、歴史の裏づけを持って現在の国際秩序を理解する方法を模索しています。
日本のグランドデザインを描く上で、もう一度歴史が役に立てるのなら、これほど嬉しいことはありません。ご清聴ありがとうございました。
以上
講師略歴
與那覇 潤(よなは じゅん)
評論家
1979年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、博士(学術)。当時の専門は日本近現代史。
2007年から15年まで地方公立大学准教授として教鞭をとった後、うつによる休職を経て17年離職。20年に『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏と共著)で小林秀雄賞。21年の『平成史』を最後に、新型コロナウイルス禍での学界の不見識に抗議して歴史学者を辞め、評論家となる。『帝国の残影』『中国化する日本』『知性は死なない』『危機のいま古典をよむ』ほか著書多数。
演題「ユーラシア時代」の日本文明論
令和6年4月9日(火)開催
はじめに
本日はご多忙の中お集まりくださり恐縮です。またWEBで参加されている方も多くいらっしゃるということで、感謝申し上げます。
二年と少し前にウクライナ戦争が始まり、「ユーラシア」をどう理解するかへの関心が高まっています。また平成の後半からのブームもあり、どの書店でも「地政学」を掲げる本が平積みです。
しかし、どの本をめくっても内容はほぼ同じです。19世紀生まれのマハン提督(米)やマッキンダー(英)の概念を使いまわして、「ランドパワー対シーパワー」とお決まりの話をするばかり。
そうした「大昔の英米の視点」に沿って世界を捉えるだけで、本当に現在起きている変化が理解できるのでしょうか? むしろ地政学を言うのであれば、欧米の知見を踏まえつつも「『日本』という場所からはこう見える」という視角を意識していくことが、より重要ではないでしょうか。
私たちはいま、どんな時代を生きているか?
1.「空虚な楽観」の2010年代
いまという時代を捉えるとき、直近の前史に当たるのが2010年代です。当時はまだ、今日振り返ると意外なほどに楽観主義、オプティミズムの論調があらゆる分野を席巻していました。
2011年の前後から、海外では「アラブの春」や「Occupy Wall Street」、国内では脱原発デモの潮流が台頭します。「民衆の力を結集し、みんなで立ち上がれば、世の中は良くなる」といった、素朴なデモクラシーへの信仰が高まりました。
それが収束した10年代の後半には、「AIとロボットに任せれば上手くいく」という発想が人気になります。社会問題は技術の進歩で解決できるとするテクノロジー信仰です。同時に流行したのが「国債はいくらでも発行でき、財源は無限にある」と唱えるMMTの経済論。立場こそ多様であれ、あらゆる人が楽観的なことを語り、「問題は解決できる、というかすでに解決している」といった言論ばかりが注目を集めました。
2.「投げやりなニヒリズム」の2020年代
ところが20年代の頭に新型コロナウイルス禍に襲われると、世相が一挙に暗転します。10年代の楽観論には「根拠がなかったのでは?」と疑う空気が広がり、180度逆の極論へと偏っていきました。「どうせ世の中はダメだから、どうだっていい。自分さえ愉しければいい」とする、露悪趣味で攻撃的なニヒリズムが主流になります。
たとえば「AIが人間を抜くことはない」と多くの学者が論証しているのに、いつまでも「人間はAIに抜かれる」という話に固執する人がいる。彼らは実は、AIが好きなのでもなんでもなく、「人間に価値なんてない、だから他の人に共感せず無視していい」と言いたいだけなんですね。
2022年から続くウクライナ戦争でも、近日はウクライナの敗色が濃くなり、「結局は力がある方が勝つのだ。正義や民主主義なんて関係ない」といったシニシズムが高まり始めています。
なぜ、いかに、「ユーラシアと日本」を考えるのか?
1.「全世界が西側になる」シナリオの破綻
ニヒルな世界の見方がここまで広がると、「欧米=『西側』の自由民主主義こそが、全人類に共通の理想なのだから、日本人もその方向を目指すべきだ」とする、冷戦終焉以降の議論の前提もまた、疑わしく感じられるようになります。
「欧米が結集してウクライナを勝たせようと言ってきたのに、結局はプーチンが勝ちそうだ」、これは一体何なのか? という状況です。
2.先人の知に対する敬意とリサイクルを
『応仁の乱』(中公新書)で知られる呉座勇一さんと、共著『教養としての文明論』(ビジネス社)で論じたのですが、冷戦下の日本の学者たちは決して、西側=欧米との対比でのみ自国の歴史を捉えてきたのではありません。むしろ当時は共産圏が広がっていた「ユーラシア」と対照しつつ、日本文明の特質を捉える議論が多くなされてきた。その知恵を「もう一度回す」という意味でリサイクルすることが、いま有益だと考えます。
学問的な論文を書くときは、当然ながら先行研究を批判する。それが勢い余って、先行世代といえば「けなす対象」だと決めつけるのは、学者の悪い癖です。先人の知見に敬意を持ちつつ、改めるべき箇所を改訂してゆく姿勢が大切です。
梅棹忠夫『文明の生態史観』
1.2つの戦争と梅棹史観:1950から2022へ
(1)第一地域と第二地域
『教養としての文明論』で採り上げた、ユーラシアとの比較で日本文明を考察する名著五冊のうち、四つを今日はご紹介したいと思います。
一冊目は、梅棹忠夫の『文明の生態史観』。1950年代の後半、高度経済成長が始まり出した時期の論考を中心に集めた著作ですが、いまもユーラシア史の「基礎論」として有意義です。
梅棹さんの見取図では、ユーラシア世界とは、東西の両端にあたる西ヨーロッパと日本が「第一地域」、真ん中のすごく広い部分は「第二地域」とざっくり二つに分かれる。その歴史的な根拠は、「第一地域」である西ヨーロッパと日本にのみ、前近代の間に封建制が存在した点だという。
「第一地域」の封建社会とは、地方ごとにそこそこの有力者が数多くおり、政治も経済も分権的に動かすしくみだった。それが基盤となって、西欧と日本は近代に安定した自由民主主義を発展させることができた、とするのが梅棹説です。
対して、ユーラシア大陸の「第二地域」は大きく四つの文明圏、つまり中国文明、インド文明、ロシア文明、イスラーム文明に分かれる。これらはそれぞれに高度な文明を発展させるけれども、定期的に、チンギス・ハーンのモンゴルのような遊牧民に侵攻されて荒廃する。なので、王朝が滅亡するごとに一からやり直しになり、定期的にリセットされるから、歴史の進歩が蓄積しない。
持続性を持つ地元の有力者が存在せず、封建制を欠くこれらの地域では、専制的な「帝国」の支配が標準的になる。皇帝が全権力を握る裏面で、「あの人も最近落ち目じゃないか?」となると、みんながそっぽを向き、大反乱が起きて王朝が転覆する。この繰り返しが「第二地域」の歴史だと、梅棹さんは1957年の論考で素描しました。
(2)マルクス主義の予言が外れた
梅棹の議論の背景として重要なのは、1950年から53年の朝鮮戦争です。北朝鮮がソ連と中国の支援を受けて、半島を統一し共産化するために起こした戦争ですが、その目論見は失敗しました。
この体験は当時の日本の知的世界に、「マルクス主義の予言が外れる」という衝撃をもたらしていた。やがて冷戦終焉によって起きる大きなショックの、遠い前触れという感じですね。
「マルクス主義に従えば社会主義が勝つ、つまり朝鮮も日本も共産化するはずではなかったのか?」と、多くの人が疑問を抱いた。そこに梅棹さんが登場し、「日本と西ヨーロッパは、そもそも真ん中のユーラシアとは違うのです。確かにロシアや中国はいま社会主義ですが、あれは前近代の『帝国』の変種ですから、日本や西欧に普及することはありません」と説明してくれた。
共産主義への道は、全人類が歩む普遍的なコースではなく、「第二地域」に限られた特徴に過ぎない。だから「第一地域」に属する日本は安心して、西側世界の一員であればよい。そうした含意をともなって、梅棹の歴史観はヒットしました。
しかし2022年にロシアがウクライナに侵攻した際、梅棹風に言えば、当初は「第一地域」が結束してロシアを撃退することが叫ばれました。しかしウクライナ戦争の展開は、むしろいまや「第二地域」が予想を超えて強大になり、簡単には押し戻せないことを示している。私たちは朝鮮戦争以来のユーラシア史の流れが、ちょうど反転する歴史の転換点にいるのです。
2.ほんとうに「第二地域」はユーラシアのみか?
(1)道徳(宗教)と政治の一致
梅棹さんは「第二地域」はユーラシアの中心部に限られたものであり、両端にある日本と西ヨーロッパはまったく別の世界だと唱えたのですが、近日はそれも怪しくなってきています。
例えば、梅棹さんが「第二地域」の特徴として挙げるのは、オスマン・トルコ帝国のスルタン(世俗的な最高権力者)とカリフ(宗教的な最高権威者)が同一人物で、ロシア帝国でもツァー(皇帝)が正教会とつながっていた「政教一致」です。今日だと1979年にイスラーム革命が起きた後の、イランがそうした体制ですね。
ところが「第一地域」である欧米でも、近年は「政教一致」に向かうかのような流れが生まれています。つまり、道徳的に正しいことが「そのまま政策になるべきだ」とする発想が高まっている。
例えば、欧米のリベラル派や左派がエコロジーをうたって、どれほど経済的に損害を出しても「脱炭素化せよ」と主張する。あるいはアメリカの宗教右派が聖書を「文字どおり」に解釈して、中絶の禁止やLGBTの排斥を訴える。
いまや先進国ほど左右問わず、政治が「政教一致」的な方向に傾いているのです。
(2)テクノロジスト至上主義
もう一つ、先進国で見られる不穏な兆候が「テクノロジスト至上主義」です。
梅棹さんはロシアや中国の社会主義化を評して、これは「第二地域」には封建制がなく、ボトムアップでは近代化できないためだと論じました。したがって「皇帝」のように全権力を握るスターリンや毛沢東の下で、「緊急技師団」として有能な人材を前衛党の官僚に起用し、トップダウンで国民を指導する形でしか工業化ができないと。
封建制が存在しない地域では、そこそこに豊かで経営者としての体験も持つ、知識あるブルジョワ層が育たない。だから独裁者が上からテクノロジーを普及させて、「このやり方でやれ」と命令せざるを得ないというわけですね。
しかし2020年からのコロナ禍では、当初は中国共産党に限られていた「ロックダウンして、政府が定めた規則を国民に強制する」やり方が、先進国にも模倣され広まってしまいました。それが終わった後でも、日本ではいまだに「AIに政策を決めさせて、人間は黙って従う社会が合理的」と吹聴する学者がいたりします。
梅棹さんが「第一地域は第二地域と違います」と述べたような、牧歌的な時代が終わりつつある。むしろ従来は「ユーラシア限定」だと思われてきた特徴が、日本も含めた先進国でも姿を現しつつあるのが現在だと、受け止めるべきでしょう。
宮崎市定『東洋的近世』
1.中国史にも「封建制」は実はある
(1)遊牧民としての「始皇帝」
二冊目は、京都大学で教えた中国史の泰斗である宮崎市定の『東洋的近世』(1950年)です。
同じ京大でも、梅棹さんは理学部出身の人類学者なので、「ユーラシアの両端には封建制があり、真ん中にはない」とざっくり分けて議論します。本人も、ケッペンの気候区分をモデルにしたと認めています。
一方で宮崎さんは歴史家なので、「中国史の展開を細かく追うと、実は中国でも封建制を取り入れた時期がある」と書いている。時系列を採り入れることで、また違う見方ができるわけです。
この宮崎の系譜を引く、京大系の東洋史の研究者がつねに強調するのは、「中国とは、そもそも『遊牧文明』である」ということです。
例えば始皇帝の秦が、なぜ最初の統一を達成するほど発展したのか。秦は戦国の七雄の中では一番西の、ほとんど中央アジアの入り口にある地域から始まった国ですから、遊牧民の騎馬戦術を取り入れるのが非常にうまい。これが軍事的な卓越性をもたらしたと、宮崎さんは述べています。
もう一つ秦の優位性として宮崎さんが指摘するのは、「亡命者の思想を純粋に採用することができた」という点です。具体的には法家、韓非子や李斯に代表される思想で、これが強権的な統治と行政のしくみを秦にもたらした。だけど彼らは、元は中国の中央部の出身で、しかしすでに文明が成熟していた母国では自分の思想を訴えても聞き入れてもらえる余地がなく、それで辺境の秦へと流れてきた人たちだったんですね。
この宮崎さんの指摘が興味深いのは、近代にアメリカが発展する構図を思わせることです。既得権を持つ人が少なく、人材の流動性が高い遊牧民的なフロンティアでこそ、斬新なアイデアが全面的に採用され、イノベーションを起こす。そうした気風は今日のシリコンバレーまで共通です。
(2)遊牧民を封建制に組み込んだ曹操
三国志の曹操も、北方の遊牧民を騎馬隊に組み込み軍事力を強化した点は同様です。しかし曹操は屯田制も導入し、彼らに定住を促す政策を採りました。中国では内乱が起きると農民は逃げてしまうので、「食べられる生活は保障するから、この土地を耕せ」と軍団ごとに命令したわけです。
宮崎の見方では、これが中国史における「封建制」に相当し、曹操の手法を微調整しつつ、楊貴妃との恋で有名な唐の玄宗まで続きます。ところが安禄山の乱で統治が崩壊した結果、「もう封建制の路線では無理だ。その先の社会に行こう」となった文明が中国だ、と宮崎さんは考えました。
2.宋における大変革:文明は「近世」で決まる
(1)税の直間比率の究極的是正
では、封建制を止めてどうするのか。唐の次の統一王朝である宋の時代に、実は中国では、直接税と間接税のバランスが大きく調整されます。
屯田制で「この土地で働け」と言っても、どうせ人は逃げてしまう。だったら農民はもう、どこに住んでくれてもいい。代わりに商取引ごとに課税するから、場所は問わず「物を売り買いした際」に税を払ってね、と発想を切り替えたわけです。
(2)究極の「新自由主義」の果てに
(ア)必需品である「塩の専売」が財源
もっとも商業課税と言っても、多くを占めたのは「塩の専売」でした。生活必需品の塩は沿海部でしか取れないので、原価の30倍超の価格で内陸部の住民に売りつけ、国の財源にする。これは実際に儲かるので、以降は兵士も傭兵を雇えばよくなり、ますます封建制は不要になります。
ところが専売制の結果、ちょうどアメリカで禁酒法がマフィアを台頭させたように、「塩賊」と呼ばれる闇で塩を売る業者が力を手にしてしまう。いつしか国民も「国より安くサービスを提供してくれるなら、そっちでいいや」と思い始める。そうした光と影の両面を宮崎さんは指摘します。
いま、NHKに受信料は払いたくないが「お得なAmazonプライムになら進んで払う」日本人は少なくない。そうした国家に公共性を感じない状況の、先駆けが中国だったとも言えます。
(イ)科挙という「教育なきメリトクラシー」
社会の流動性を抑制せず、むしろ促進する政策を採った宋朝以降の中国を、代表するしくみが有名な「科挙」です。
同じ時代の日本でも西欧でも、政治の担い手は「家柄」で選ばれたのですが、中国だけは試験で選んだ。しかしやはり宮崎さんが指摘するように、科挙は「教育なきメリトクラシー」でした。
近代社会のメリトクラシーでは、国が学校を建て、国民皆教育の上で試験を実施しますが、中国は学校をつくらず、試験だけをする。
なので拙著『中国化する日本』(文春文庫)でも書いたように、民間に宗族と呼ばれる巨大な親戚グループが作られ、一番優秀な子弟に一族が送金し、超一流の家庭教師をつけて勉強させる形になります。教育まで「民間にできることは民間に」なのです。
これだと合格して役人になったら、自分に教育費を送ってくれた千人規模の一族を、返礼で食べさせないといけない。なので汚職が深刻になる。
また科挙の合格者はごく少数で、彼らエリートだけでは地方を統治できないため、実際には地元の顔役として売り込んできた人間をポケットマネーで「胥吏」(しょり)として雇い、実務はその人たちに丸投げします。ところがこの胥吏は正式な公務員ではない分、日常的に賄賂を取ったり、コネのある身内だけを優遇する政治に走る。
「官から民へ」でNPOへの委託を増やしたら、かえって不透明な行政になっていないか? といった環境も、やはり中国では昔からでした。
遣唐使の阿倍仲麻呂が合格した例が著名ですが、放っておいても科挙を目指して優秀な人材が集まる分、中国には「国のお金で公教育を行う」発想が弱かった。実は作家の司馬遼太郎と陳舜臣が、それは「アメリカに近いあり方だ」と指摘していました(『中国を考える』文春文庫)。
結果として、ハーバードはじめ世界一の私立大学に海外からエリートが流れ込んでくるのだから「国内の頭の悪いやつなんて、放っておけばいい」と。しかしそうした奢りの下で、米国では社会の分断が進み、長い目では国力が衰えていった。私もエマニュエル・トッド氏の来日時に、そう議論して中国史の例を紹介したことがあります(拙著『危機のいま古典をよむ』而立書房)。
(ウ)現状批判からの原理主義の台頭
米国ではそうしたあり方への反動として、「偉大なアメリカを取り戻せ」と唱えるトランプ主義が高まっています。実は原理主義的な欲求の台頭についても、宮崎の中国史は指摘していました。
例えば朱子学が南宋の時代に成立しますが、これは原点回帰の思想なのです。朱熹は「今までの儒教の読み方は歪んでいた。だから一から見直すので、これからは私が解釈した儒教を信じよ」と唱えた。いわば儒教原理主義と呼べます。
宋代に封建制を放棄し、流動化に舵を切った社会の果ては、今日にも通じる危ない世界だった。そう宮崎は示唆していたとも読めるわけです。
井筒俊彦『イスラーム文化』
1.日本とイスラームは「最も遠い」文明?
(1)純粋なる「第二地域」の先駆者
三冊目は井筒俊彦の『イスラーム文化』です。
井筒さんの同書が出たのは1981年。79年に起きたイラン革命を受けて、イスラームの本質を日本の財界人に講義した内容が基になっています。
当時はイスラームというと、中東起源でベドウィンなど「遊牧民の宗教」という理解が強かったため、井筒さんは「それは違う」と指摘することから始めます。むしろ遊牧民に強い「部族意識」を、宗教の力で克服したことにイスラームの意義がある、というのが井筒説のコアになります。
(2)日本と180度逆の「聖俗一致」
(ア)閉じた「家族」の限界をどう超えるか?
遊牧民に限らず、原初的な社会では一般に、自分の血縁者、つまりファミリーどうしは信頼し合い、そうでない別のファミリーとは対立する。そうしたマフィアのような部族抗争が常態です。
これに対し、イスラームは「コーランを信じる者はみんな仲間だ。血縁や部族意識にこだわるのは止めよう」と訴えた。ここにイスラームの画期性があったと、井筒さんは述べています。
そうした目で見ると、日本とイスラームは世界でも稀な「180度逆の文明」かもしれません。
日本ではイスラームと異なり、家的な小集団への帰属意識がずっと長く残った。しかし日本の家のユニークなところは、狭く閉ざされた集団ではあっても「可変性が高い」点です。
例えば、日本人が養子を迎えて家を継がせる場合、相手は誰でも自由に選べます。これはかなり特殊なあり方で、中国や朝鮮の場合は、「父系血縁がつながっている親戚」しか養子にとることはできませんでした。西欧でも前近代では、日本ほど自由に養子を選べなかったとされます。
つまりイスラームの場合は、同じ宗教(思想)を共有することに基づく巨大な共同体意識で、従来の部族意識を丸ごと「上書き」した。日本は逆に家という小集団を残しつつ、そのメンバーの入れ替えの自由度を上げることで、変化に対応した。
文明のベースが正反対の発想で作られていることが、井筒さんのイスラーム論を参照することで見えてくる。外国人労働力の移入を通じて、これから日本でもムスリムの人口が増えることが確実な現在、留意すべき点だと思います。
(イ)商行為も「宗教的行為」になるコーラン
もうひとつイスラームと日本で180度異なるのは、宗教と世俗の関係です。我々は「ビジネスと宗教」はそれぞれ別のものだと思っていますが、イスラーム文明では、コーランの教えに則って「公正な取引」を行うことがビジネスなので、両者は不可分一体です。
例えばコーランに従うかぎり、利子は禁止ですので、世界中にイスラーム銀行と呼ばれる、コーランの規則とすり合わせた上で投資・運用をする金融機関があるわけです。
日本人はまったく逆です。むしろ外国人には「宗教的な儀式」と見えることを、世俗的な行為として行っている。だからよく揶揄されるように、キリスト教の教会で結婚式を挙げて、葬式は仏教のお寺で出しても矛盾を感じません。単に、異なるチェーン店を時には使うよねと思うくらいです。
いつからそうかというと近世、江戸時代からですね。「宗門人別改帳」という用語を日本史の授業で覚えたかと思いますが、徳川時代には戸籍の管理を、事実上お寺が行っていました。だから当時、地元のお寺に顔を出すというのは、今日でいえば「市役所に行く」程度の感覚なんです。
イスラームの人たちは、「それはあくまでビジネスでしょう?」という行為も、「いいえ、宗教的な実践です」として行う。逆に日本人は「ああ、仏教の信仰ですね?」と見える儀式でも「いや、ビジネスマナーとして、葬儀にはお坊さんが居てくれないとまずいから」としか思っていない。こうした対照ぶりを意識していたことも、井筒さんの叙述から読み取ることができます。
2.意外に似ている近代日本と「シーア派」
(1)イラン革命になにを見るか
(ア)シーア派が行う読解「タアウィール」
一方で面白いのは、井筒さんの『イスラーム文化』を読み進めると、ここまで正反対の日本とイスラームが似て見えてくる瞬間がある。それも、一般には日本が「西洋化」したとされる近代に、意外なほどイスラーム的なあり方に接近している。これは気づかれてこなかったポイントです。
1979年にイスラーム革命を起こしたイランは、どちらかというと少数派にあたるシーア派の信仰を持ちます。それは主流派であるスンナ派と、どう異なるのか。井筒さんの解釈によれば、「コーランの読み方」が違うんですね。
主流派は書かれた文言を素直に読み、そのままの意味で理解します。しかしシーア派には「タアウィール」と呼ばれる独特の読解法があり、これは先ほどの朱子学とも似ていて、「文言上はこう書いてあるけれど、神様の真の意思を踏まえるなら、文字面の奥に秘められた別の意味を読み出せる」といった読み方をするのだという。
呉座勇一さんに聞いたところでは、これは近代日本のナショナリズムの源流になった、本居宣長の「国学」とも近い。宣長は古事記や源氏物語に関して「今までの読み方は正しくなかった」と断じ、従来の通説とはまったく異なる解釈を行うことで、「あるべき日本人像」を描き出しました。
(イ)イスラーム以前の王(シャー)の権威
また井筒さんが注目するのは、イランにはそもそもイスラームの教えとは別個に、アケメネス朝からの「ペルシア」の伝統もあります。つまり宗教の権威と世俗の王権の、両方が並立している。
ここでシャーと呼ばれる王様がイスラームを敬っている限りでは、問題は起きないのですが、「いまの王は本来なら宗教者の代理人のくせに、イスラームをないがしろにしている」と感じられ始めると大変です。結果として宗教者のホメイニが指導者に担がれ、王様は追放されました。
これも日本人にとってなじみ深い光景で、幕末の尊王攘夷とまったく同じ構図になります。
「天皇と将軍」という二つの権威は、徳川将軍があくまで天皇の代理人として振る舞うなら、共存可能だった。しかし条約勅許問題を通じて、「将軍は外国勢力におもねり、天皇をないがしろにしているぞ」とする不満が高まり、天皇を担いで将軍を廃止する明治維新が起きたわけです。
「近世」のあいだは180度逆を向いていた日本とイスラームは、「近代」に入るとむしろ似た動きを見せる。日本とイスラームのつきあい方を考える上でも、糸口になり得る視点だと思います。
(2)井筒俊彦のイスラーム研究の起源
大川周明という、戦前に活躍した右翼の思想家がいます。彼はコーランの翻訳を試みるなど、元々イスラームへの関心が深く、実は助手時代から井筒さんの才能を見抜いてそのイスラーム研究を支援したのも、大川周明でした。
大川は戦時中に『回教概論』(現在はちくま学芸文庫)という本を書いており、戦後の研究水準に照らしても遜色ないイスラーム概説として評判が高い。しかし近日の研究では、実際には大川の研究所に出入りしていた井筒さんが、ゴーストライターとして代筆したのだと指摘されています。これもまた、日本とイスラームが「意外に相通じる」可能性を考える上で、示唆的な挿話です。
丸谷才一『忠臣蔵とは何か』
1.プリミティブな日本:文明化以前の文明?
(1)社会の原理は「感情の共有」
(ア)なぜ四十七士は吉良上野介を襲うのか?
最後に「日本文明」の本質を問う書物として、評論でも知られた作家の丸谷才一さんが、1984年に出した『忠臣蔵とは何か』を紹介します。
忠臣蔵のストーリーは誰もが知っていますが、実はよく考えると、おかしな箇所が多いのです。
例えば、浅野内匠頭に切腹を命じたのは幕府なのだから、「復讐する」なら幕府の奉行所を襲うのが筋です。ところが赤穂浪士たちは、内匠頭が斬りつけた吉良上野介の家に討ち入って殺す。
これを正当化するために「そもそも吉良が浅野に賄賂を要求し、いじめていた」云々と語られるのは後世の創作で、証拠はありません。
むしろ大石内蔵助らは、討ち入り後の口述書に「うちの殿様がなぜ吉良に恨みを抱いたかは、よく分かりません。しかし殿が『吉良を殺したい』と強く思っていたことは確かなので、その思いを我々が果たしました」としか書いていない。
つまり日本では、政治的なテロを起こすのに思想は必要ないのです。自分たちが担ぐ対象の「お気持ち」に同一化し、法律や合理性を無視してでもそれに従うことが、日本人にとっては一番強力なモラルになるのだと、丸谷さんは指摘します。
(イ)「仮名手本忠臣蔵」の包摂性
現実の赤穂事件の後に、それをフィクション化する形で、最初は浄瑠璃、のちに歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が成立します。そこで行われた脚色についても、丸谷さんの分析は鋭い。
歌舞伎の忠臣蔵の終幕では、討ち入りを果たした後、主人公が懐から財布を取り出し「今回の資金を集めてくれたのは、今は亡き早野勘平だ。だから彼は討ち入りには参加していなくても、やはり忠臣であり義士であるのだ」と演説する。
これを丸谷さんは、徳川時代の観客に自己承認を与えるためのしかけだと解釈します。江戸の庶民には、自分で武家政権に逆らうような勇気はない。しかし、劇場に来て討ち入りを「応援」してくれた時点で、君も早野勘平と同じように義士であり、十分偉いんだというわけです。
いまもSNSで「意識の高い」ことばかり言い、格好をつけた時点でプライドを満たして、少しも現実を変えることに貢献しない人がいますね。丸谷さんの見立てでは、彼らのようなタイプを「それでいいんだよ」と肯定するエンタメ作品として、江戸時代の忠臣蔵は機能していた。
日本でフランス革命のような大変革が起きないのは、「架空の世界で自己実現した気にさせる」フィクションで、満足する歴史的な癖があるからなのだと。
(2)内発的な「個人主義」とは冷笑系?
日本の将来を考える上で、より重要な指摘も歌舞伎の分析から出てきます。忠臣蔵はあまりにも定番となってしまったため、途中から多くのパロディ作品が生まれました。有名な『東海道四谷怪談』もその一つで、同作は外国船が近づき徳川時代の終わりが見えてきた、1825年が初演です。
民谷伊右衛門という、今だと「貢がせホスト」をしていそうな凶悪なイケメンが主人公です。奥さんのお岩さんを散々裏切り、搾取し尽くしたうえに、用済みだからと毒を盛って殺してしまう。ところがこの伊右衛門、実は赤穂浪士でもあるという点が、作品のポイントなんですね。
「みなさん、『意識の高い赤穂義士』なんて話は嘘くさいと思いませんか? 実は彼らにも、やっぱりクズがいたんですよ」というストーリーが、徳川末期の庶民にはウケるようになっていた。冷笑主義やシニシズムが売り物になる時代が、近代を待たずして始まっていたのですね。
先に論じたように、忠臣蔵には「お気持ちへの同情」以外、復讐のロジックがない。そうした感情的な押しつけを鬱陶しく感じ出した観客は、「忠義とか知らねぇよ。俺は自分さえ愉しめればそれでいい」とうそぶく伊右衛門に喝采した。そうしたニヒリズムの形でしか、日本文明から個人主義は生まれ得ないのかと、丸谷さんは嘆息します。
2020年代のいま、世界で「別に西側だけがモデルじゃないぞ」「結局は正義より力だ」とする空気が高まっています。舵取りを誤れば、日本の個人主義もまた伊右衛門のような近世以来の「地金」(じがね)に回帰し、他人に共感せず理想をせせら笑う人ばかりの社会になってしまうかもしれません。
それを避けるためにこそ、まずはユーラシア時代における日本の「立ち位置」を、歴史の中に位置づけることが大切です。『教養としての文明論』では、上記の四冊に加えて、西欧およびアメリカを扱う高坂正堯さんの『文明が衰亡するとき』を参照することで、歴史の裏づけを持って現在の国際秩序を理解する方法を模索しています。
日本のグランドデザインを描く上で、もう一度歴史が役に立てるのなら、これほど嬉しいことはありません。ご清聴ありがとうございました。
以上
講師略歴
與那覇 潤(よなは じゅん)
評論家
1979年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、博士(学術)。当時の専門は日本近現代史。
2007年から15年まで地方公立大学准教授として教鞭をとった後、うつによる休職を経て17年離職。20年に『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏と共著)で小林秀雄賞。21年の『平成史』を最後に、新型コロナウイルス禍での学界の不見識に抗議して歴史学者を辞め、評論家となる。『帝国の残影』『中国化する日本』『知性は死なない』『危機のいま古典をよむ』ほか著書多数。