第53回 東京都豊島区(巣鴨・大塚・池袋)
街道から駅前に移った「巣鴨」の中心
中山道の街、江戸の境界の街の巣鴨
昭和7年(1932)、巣鴨町と西巣鴨町その他2町が統合して豊島区が発足した。現在の巣鴨駅周辺が巣鴨町で、現在の折戸通りから西側は西巣鴨町だった。西巣鴨町は町に昇格する前は巣鴨村といった。サンシャインシティは通称「巣鴨プリズン」があった場所である。要するに巣鴨駅から池袋駅まで地域としては巣鴨だった。今でこそ名実ともに池袋が中心だが、戦前は旧中山道、巣鴨地蔵通り商店街が巣鴨エリアの中心だった。
白山通りから旧中山道が分岐するところが巣鴨地蔵通り商店街の南端である。ここに真言宗豊山派、醫王山東光院眞性寺(しんしょうじ)がある。巣鴨で地蔵と言えばとげぬき地蔵が有名だが、眞性寺にも地蔵菩薩像がある。江戸六地蔵尊の1つで、江戸に発する旧街道の出入り口に配置された。中山道の眞性寺の他、東海道、奥州街道、甲州街道、水戸街道、千葉街道に5つある。江戸市街地の境界に着眼すると東海道は青物横丁駅の近くの品川寺、奥州街道は浅草寺の裏手の東禅寺、甲州街道は新宿2丁目の太宗(たいそう)寺だ。千葉街道の永代寺は門前仲町だが、地蔵含め現存せず名称を引き継いだ(新)永代寺が近隣にある。巣鴨は市街地の北辺にあたる。
とげぬき地蔵は曹洞宗萬頂山髙岩寺(ばんちょうざんこうがんじ)の本尊、延命地蔵菩薩の通称である。正確に言えば霊験で抜けたのは棘ではなく誤飲した折れ針だ。本尊を転写した紙片の「御影(おみかげ)」を飲み込んだところ、嘔吐物と一緒に針に貫かれた御影が出てきたという。フランスで多くの巡礼者を集める「ルルドの泉」と同じく癒しの奇跡である。眞性寺に比べれば歴史は浅く、髙岩寺が巣鴨に来たのは明治24年(1891)である。その前は上野駅前にあったが区画整理で移転を余儀なくされた。新しい土地でどうにか参拝者を集めようと、明治30年(1897)に24世住職の巨海道雄(こかいどうゆう)が露天商の協力を得て4・14・24日の縁日を立案した。これが現代に続く賑わいのはじまりとなる。
巣鴨駅が開業したのは明治36年(1903)である。日本鉄道豊島線の駅だった。元々、赤羽駅から東京市街を迂回して品川駅に至る品川線があった。豊島線は品川線から分岐し、田端駅から現在の田端貨物線を経て常磐線に乗り入れするための路線だった。当時の品川線には池袋駅がなかったため、豊島線を通すにあたって駅を新設して分岐点とした。豊島線には他に巣鴨駅と大塚駅が設置された。明治45年(1912)、都心から見て巣鴨駅の手前に東京市電の巣鴨橋停車場ができる。大正2年(1913)は駅を越え巣鴨車庫前まで延伸された。現在の都バス営業所の場所である。
白木屋百貨店が進出した大塚
街道から鉄道の時代に移り、巣鴨エリアの中心は大塚に移った。きっかけは明治44年(1911)に開通した、黎明期の郊外電車、王子電気鉄道である。現在の都電荒川線で、最初は大塚駅から現在の飛鳥山駅(飛鳥上山駅)に至る路線だった。大正2年(1913)年、東京市電が大塚駅前に到達し王子電気軌道と乗り換えできるようになった。この年、山手線の池袋駅、大塚駅、巣鴨駅の乗客数で、大塚駅が、前年までトップだった巣鴨駅を追い越している。翌年には降車客でも追い越した。その後、池袋駅に抜かれるまでの7年間は大塚駅の乗降客数が3駅中トップだった。
製紙工場があった王子周辺から乗客が流入し大塚駅前は賑わった。現在、駅前に「大塚三業通り商店街」がある。三業地とは料理屋、芸妓置屋、待合(貸座敷)の3業が集まる花街を意味する。商店街の名前に往時の名残がある。巣鴨エリア初の百貨店も大塚にできた。昭和4年(1929)、白木屋が大塚駅北口駅前に分店を開店。昭和12年(1937)に改装し5階建の店舗となった。昭和31年(1956)、浜松本店の松菱に経営が移り東京松菱になる。松菱ストアーの店名で営業していたが、3年後の昭和34年(1959)に閉店した。建物は平成29年(2017)まで残っていた。
乗換拠点・郊外住宅地だった池袋
今年3月からJR池袋駅の発車ベルは、池袋に本店を構える家電量販店、ビックカメラのテーマソングである。昨年7月に変更されたが、池袋駅の西側に東武線、東側に西武線の謎を指摘した歌詞が頭に浮かぶ。説明すると、元々は国鉄池袋駅の西側に東上鉄道、東側に武蔵野鉄道の駅があった。まず大正3年(1914)に池袋と川越を結ぶ東上鉄道が開業する。大正9年(1920)、旧武蔵国の東部地域で伊勢崎線を経営していた東武鉄道に合併され、現在の東武東上線となった。
東上鉄道池袋駅ができた翌年の大正4年(1915)、池袋と飯能を結ぶ武蔵野鉄道が開業した。昭和21年(1946)、前年に吸収した(旧)西武鉄道の名前を継承し西武鉄道となった。(旧)西武鉄道は現在の西武新宿線を経営していた。東上鉄道、武蔵野鉄道とも東京側の発着点は巣鴨を希望していたが、市電と競合する山手線の内側に乗り入れられず、手前で90度カーブする形で池袋駅に横付けした。郊外電車の登場に加え関東大震災の影響もあり大正から昭和初期にかけ巣鴨エリアの人口が急増。豊島区が発足して昭和14年(1939)末には現在とほぼ同水準の約30万人となっていた。もっとも池袋自体が郊外住宅地といった趣で、大正10年(1921)に大塚駅の乗降客数を上回っても池袋駅はさらなる郊外と都心の乗換駅の位置づけだった。当時の郊外移転といえば大正7年(1918)に旧築地居留地から池袋駅の西側に移転した立教学院がある。周辺には貧しくも気鋭の若手芸術家が集まり、池袋モンパルナスと呼ばれるようになった。発展を嘱望された一方、エリアの中心街としては大塚、巣鴨がその役割を保っていた。昭和16年(1941)の東京市統計においても、宅地売買価格の最高は巣鴨一丁目(巣鴨駅周辺)、賃貸価格は西巣鴨二丁目(旧町名・大塚駅周辺)だった。
ターミナル百貨店と戦後池袋の発展
戦後は名実ともに池袋がエリアの中心となる。昭和30年(1955)の最高路線価地点は現在のグリーン大通りと明治通りの南東角にあった。前年、丸ノ内線が池袋駅と御茶ノ水駅の間で開業していた。戦後初の地下鉄で、東京では銀座線に次ぐ2本目の路線だった。
池袋駅にターミナル百貨店が集中しているのが池袋の特長である。反面、賑わいが駅の外に広がらないことから「駅袋」と呼ばれた。池袋のターミナル百貨店の源流は京浜電気鉄道(現在の京浜急行)が白木屋百貨店の支援を受けて立ち上げた京浜デパートである。現在の京急ストアの前身で、鉄道の拠点の品川を本店に、蒲田、鶴見、高田馬場に分店を出していた。池袋分店は昭和10年(1935)、国鉄池袋駅の東側にあった武蔵野鉄道の駅端に出店した。京浜電気鉄道の名前を憚って「菊屋デパート」と称した。白木屋大塚分店の3分の1程の小型店だった。昭和15年(1940)に武蔵野鉄道が買収し武蔵野デパートに改称。西武百貨店となったのは昭和24年(1949)である。昭和25年(1950)、国鉄池袋駅西口の駅ビル(民衆駅)に東横百貨店(後の東急百貨店)の支店が出店した。昭和32年(1957)、東口の駅ビルには京都本店の丸物(まるぶつ)が東京丸物(まるぶつ)を出す。同じ年には三越が明治通りを挟んで向かい側に池袋店を出店していた。昭和37年(1962)、東武鉄道が東横百貨店の南隣に東武百貨店を開店。百貨店は5つになった。
その後、池袋の百貨店はいくつかの日本一を打ち立てる。昭和44年(1969)、西武百貨店が隣の東京丸物を買収し池袋パルコに改装。翌年連絡通路でつながり日本一長い店舗となる。東武百貨店は隣接する東横百貨店を買収、取り壊して昭和46年(1971)に15階建の日本一高い百貨店を新築した。昭和57年(1982)、三越から転じた坂倉芳明社長の下、西武池袋店は三越本店を抜き売上高全国首位となる。西武ライオンズの日本シリーズ初優勝の年でもある。平成4年(1992)、東武本店は増床で売場面積が全国首位となった。この頃、特に西武百貨店は文化の発信源でもあった。上階に、現代美術を中心に先鋭的な企画展で知られる西武美術館(後にセゾン美術館)を設置したり、ブランド信奉に物申すスタンスから「無印良品」を立ち上げたりと、いわゆる「セゾン文化」の全盛期だった。
「駅袋」から駅の外に人の流れを生むきっかけとなったのが、巣鴨プリズン、東京拘置所の跡地再開発で昭和53年(1978)に完成したサンシャインシティである。当時日本一の高さを誇るサンシャイン60をシンボルとした複合施設で、階下にショッピングセンター、水族館、劇場、展示場などがある。60階の展望台は東京タワー特別展望台より高く耳目を集めた。サンシャインシティはロードサイド立地の郊外大型店の性質を合わせ持つ。1,800台分の駐車場を擁し、ショッピングセンター部分は地上3階地下1階、店舗面積46,641m2(当時)でフロア当たりの面積が大きい。最奥部には首都高速道路5号池袋線の東池袋ランプに隣接するバスターミナルがある。
サブカル&ウォーカブルに変わる池袋
目下、豊島区は「国際アート・カルチャー都市」構想の下でまちづくりを進めている。池袋モンパルナスの伝統を継ぎ、東京芸術劇場やシアターグリーンなどに代表される劇場文化も盛んだ。セゾン文化に象徴されるように、時代を通して現代的かつ先鋭的な文化を希求してきた。こうした流れを俯瞰するに、2000年代以降で顕著なのはアニメを中心としたオタク文化である。アニメショップ最大手「アニメイト」は昭和58年(1983)、サンシャインシティの西辺の、現在は乙女ロードと言われている場所で創業した。平成12年(2000)、同じ通りに大型店を新築し本店とする。この頃から女性オタク向けの物販店やカフェが集まり、通りは乙女ロードと呼ばれるようになった。
池袋駅前の“歩く街”化も進んでいる。前提が、令和9年度(2027)予定の都心環状線5の1号、通称明治通りバイパスの開通である。首都高速の高架下、サンシャインシティの前の通りが新しい明治通りとなる。現在の、駅に並行する明治通りを通る車がバイパス線を通るようになる。「旧」明治通りは、駅前の南北で袋小路となる計画だ。そして駅正面からまっすぐ伸びるグリーン大通りが歩行者専用となり広場化する。さらに駅から旧三越裏通りまでの一帯に車が進入できない歩行者優先区域ができる(図4 池袋予想図)。
平成27年(2015)年、中池袋公園の向かい側にあった豊島区役所が明治通りバイパス沿いに新築移転した。跡地は再開発され、劇場やシネコンを併設するハレザ池袋ができた。その隣には平成24年(2012)に移転したアニメイトの本店がある。中池袋公園を中心に新しい中心街ができた形だ。他方、ビックカメラ近隣は電器街になりつつある。平成21年(2009)に三越が閉店、店舗は改装されてヤマダ電機(現・ヤマダデンキ)LAVIとなった。西武百貨店の半分はヨドバシカメラになる予定で、一連の変貌は現代文化の世代交代のようにも映る。
おばあちゃんの原宿から癒しのまちへ
戦前の一等地だった巣鴨は戦後どうなったか。はじめは近隣住民の日用を賄う商店街として発展した。昭和4年(1929)の路面電車の延伸に伴い、中山道に並行するバイパス線の白山通りができた。通行量は白山通りに譲ったが、かえって旧中山道は歩行者用の道になった。高齢者寄りの商店街になったきっかけが、昭和44年(1969)に巣鴨駅前に出店した西友ストアである。日用の買物客は西友ストアに流れたが、その代わりに門前商店街の性質を強めていった。「おばあちゃんの原宿」と呼ばれるようになったのは昭和60年前後である。当時の高齢女性はモンペを継承する「モンスラ」をよく履いていた。その頃に流行していた「竹の子族」が身を包んでいた蛍光色のハーレムスーツをモンスラに見立てている。ハーレムスーツではなくモンスラや赤パンツなどを売るファッション店、クレープではなく塩大福など和菓子を出すスイーツ店が多い点が年齢層は違うが原宿のようだった。「おばあちゃんの原宿」で一躍有名になり、首都圏一円、ときには全国から人が集まるようになった。
東日本大震災やコロナ禍の影響はあったが、現在も高齢者のまちとして賑わっている。約200店舗の構成を見ると、おばあちゃんの原宿と呼ばれた頃から営業を続ける業歴40年以上の店が少なくとも60店は残っている。一般論を言えば、自分で所有する店舗を持つ店が商店街の強みだ。賃料相場のプレッシャーに抗い個性的な店を出すことができるからだ。
もっとも、本家原宿に竹の子族はいない。モンスラを履いていた「おばあちゃん」も世代交代し、「おばあちゃんの原宿」に代わるコンセプトが求められる。高齢層が多いとはいえ、まち歩きで来街する若者も増えている。意外にも近隣住民は若者が多い。
池袋が常に変化を求める刺激的なまちならば、巣鴨は伝統をつなぐ癒しのまちと位置づけられる。ネット社会、コンプラ社会で何かと息苦しい世の中だ。心のとげが抜けるまちと捉えれば癒しに年齢は関係ない。インバウンドの文脈を踏まえると、巣鴨もルルドの泉のようなポジションを獲得していくのだろうか。世代を超えて愛される癒しの奇跡のまちである。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図1 とげぬき地蔵の縁日
図2 市街図
図3 サンシャイン60と乙女ロード
街道から駅前に移った「巣鴨」の中心
中山道の街、江戸の境界の街の巣鴨
昭和7年(1932)、巣鴨町と西巣鴨町その他2町が統合して豊島区が発足した。現在の巣鴨駅周辺が巣鴨町で、現在の折戸通りから西側は西巣鴨町だった。西巣鴨町は町に昇格する前は巣鴨村といった。サンシャインシティは通称「巣鴨プリズン」があった場所である。要するに巣鴨駅から池袋駅まで地域としては巣鴨だった。今でこそ名実ともに池袋が中心だが、戦前は旧中山道、巣鴨地蔵通り商店街が巣鴨エリアの中心だった。
白山通りから旧中山道が分岐するところが巣鴨地蔵通り商店街の南端である。ここに真言宗豊山派、醫王山東光院眞性寺(しんしょうじ)がある。巣鴨で地蔵と言えばとげぬき地蔵が有名だが、眞性寺にも地蔵菩薩像がある。江戸六地蔵尊の1つで、江戸に発する旧街道の出入り口に配置された。中山道の眞性寺の他、東海道、奥州街道、甲州街道、水戸街道、千葉街道に5つある。江戸市街地の境界に着眼すると東海道は青物横丁駅の近くの品川寺、奥州街道は浅草寺の裏手の東禅寺、甲州街道は新宿2丁目の太宗(たいそう)寺だ。千葉街道の永代寺は門前仲町だが、地蔵含め現存せず名称を引き継いだ(新)永代寺が近隣にある。巣鴨は市街地の北辺にあたる。
とげぬき地蔵は曹洞宗萬頂山髙岩寺(ばんちょうざんこうがんじ)の本尊、延命地蔵菩薩の通称である。正確に言えば霊験で抜けたのは棘ではなく誤飲した折れ針だ。本尊を転写した紙片の「御影(おみかげ)」を飲み込んだところ、嘔吐物と一緒に針に貫かれた御影が出てきたという。フランスで多くの巡礼者を集める「ルルドの泉」と同じく癒しの奇跡である。眞性寺に比べれば歴史は浅く、髙岩寺が巣鴨に来たのは明治24年(1891)である。その前は上野駅前にあったが区画整理で移転を余儀なくされた。新しい土地でどうにか参拝者を集めようと、明治30年(1897)に24世住職の巨海道雄(こかいどうゆう)が露天商の協力を得て4・14・24日の縁日を立案した。これが現代に続く賑わいのはじまりとなる。
巣鴨駅が開業したのは明治36年(1903)である。日本鉄道豊島線の駅だった。元々、赤羽駅から東京市街を迂回して品川駅に至る品川線があった。豊島線は品川線から分岐し、田端駅から現在の田端貨物線を経て常磐線に乗り入れするための路線だった。当時の品川線には池袋駅がなかったため、豊島線を通すにあたって駅を新設して分岐点とした。豊島線には他に巣鴨駅と大塚駅が設置された。明治45年(1912)、都心から見て巣鴨駅の手前に東京市電の巣鴨橋停車場ができる。大正2年(1913)は駅を越え巣鴨車庫前まで延伸された。現在の都バス営業所の場所である。
白木屋百貨店が進出した大塚
街道から鉄道の時代に移り、巣鴨エリアの中心は大塚に移った。きっかけは明治44年(1911)に開通した、黎明期の郊外電車、王子電気鉄道である。現在の都電荒川線で、最初は大塚駅から現在の飛鳥山駅(飛鳥上山駅)に至る路線だった。大正2年(1913)年、東京市電が大塚駅前に到達し王子電気軌道と乗り換えできるようになった。この年、山手線の池袋駅、大塚駅、巣鴨駅の乗客数で、大塚駅が、前年までトップだった巣鴨駅を追い越している。翌年には降車客でも追い越した。その後、池袋駅に抜かれるまでの7年間は大塚駅の乗降客数が3駅中トップだった。
製紙工場があった王子周辺から乗客が流入し大塚駅前は賑わった。現在、駅前に「大塚三業通り商店街」がある。三業地とは料理屋、芸妓置屋、待合(貸座敷)の3業が集まる花街を意味する。商店街の名前に往時の名残がある。巣鴨エリア初の百貨店も大塚にできた。昭和4年(1929)、白木屋が大塚駅北口駅前に分店を開店。昭和12年(1937)に改装し5階建の店舗となった。昭和31年(1956)、浜松本店の松菱に経営が移り東京松菱になる。松菱ストアーの店名で営業していたが、3年後の昭和34年(1959)に閉店した。建物は平成29年(2017)まで残っていた。
乗換拠点・郊外住宅地だった池袋
今年3月からJR池袋駅の発車ベルは、池袋に本店を構える家電量販店、ビックカメラのテーマソングである。昨年7月に変更されたが、池袋駅の西側に東武線、東側に西武線の謎を指摘した歌詞が頭に浮かぶ。説明すると、元々は国鉄池袋駅の西側に東上鉄道、東側に武蔵野鉄道の駅があった。まず大正3年(1914)に池袋と川越を結ぶ東上鉄道が開業する。大正9年(1920)、旧武蔵国の東部地域で伊勢崎線を経営していた東武鉄道に合併され、現在の東武東上線となった。
東上鉄道池袋駅ができた翌年の大正4年(1915)、池袋と飯能を結ぶ武蔵野鉄道が開業した。昭和21年(1946)、前年に吸収した(旧)西武鉄道の名前を継承し西武鉄道となった。(旧)西武鉄道は現在の西武新宿線を経営していた。東上鉄道、武蔵野鉄道とも東京側の発着点は巣鴨を希望していたが、市電と競合する山手線の内側に乗り入れられず、手前で90度カーブする形で池袋駅に横付けした。郊外電車の登場に加え関東大震災の影響もあり大正から昭和初期にかけ巣鴨エリアの人口が急増。豊島区が発足して昭和14年(1939)末には現在とほぼ同水準の約30万人となっていた。もっとも池袋自体が郊外住宅地といった趣で、大正10年(1921)に大塚駅の乗降客数を上回っても池袋駅はさらなる郊外と都心の乗換駅の位置づけだった。当時の郊外移転といえば大正7年(1918)に旧築地居留地から池袋駅の西側に移転した立教学院がある。周辺には貧しくも気鋭の若手芸術家が集まり、池袋モンパルナスと呼ばれるようになった。発展を嘱望された一方、エリアの中心街としては大塚、巣鴨がその役割を保っていた。昭和16年(1941)の東京市統計においても、宅地売買価格の最高は巣鴨一丁目(巣鴨駅周辺)、賃貸価格は西巣鴨二丁目(旧町名・大塚駅周辺)だった。
ターミナル百貨店と戦後池袋の発展
戦後は名実ともに池袋がエリアの中心となる。昭和30年(1955)の最高路線価地点は現在のグリーン大通りと明治通りの南東角にあった。前年、丸ノ内線が池袋駅と御茶ノ水駅の間で開業していた。戦後初の地下鉄で、東京では銀座線に次ぐ2本目の路線だった。
池袋駅にターミナル百貨店が集中しているのが池袋の特長である。反面、賑わいが駅の外に広がらないことから「駅袋」と呼ばれた。池袋のターミナル百貨店の源流は京浜電気鉄道(現在の京浜急行)が白木屋百貨店の支援を受けて立ち上げた京浜デパートである。現在の京急ストアの前身で、鉄道の拠点の品川を本店に、蒲田、鶴見、高田馬場に分店を出していた。池袋分店は昭和10年(1935)、国鉄池袋駅の東側にあった武蔵野鉄道の駅端に出店した。京浜電気鉄道の名前を憚って「菊屋デパート」と称した。白木屋大塚分店の3分の1程の小型店だった。昭和15年(1940)に武蔵野鉄道が買収し武蔵野デパートに改称。西武百貨店となったのは昭和24年(1949)である。昭和25年(1950)、国鉄池袋駅西口の駅ビル(民衆駅)に東横百貨店(後の東急百貨店)の支店が出店した。昭和32年(1957)、東口の駅ビルには京都本店の丸物(まるぶつ)が東京丸物(まるぶつ)を出す。同じ年には三越が明治通りを挟んで向かい側に池袋店を出店していた。昭和37年(1962)、東武鉄道が東横百貨店の南隣に東武百貨店を開店。百貨店は5つになった。
その後、池袋の百貨店はいくつかの日本一を打ち立てる。昭和44年(1969)、西武百貨店が隣の東京丸物を買収し池袋パルコに改装。翌年連絡通路でつながり日本一長い店舗となる。東武百貨店は隣接する東横百貨店を買収、取り壊して昭和46年(1971)に15階建の日本一高い百貨店を新築した。昭和57年(1982)、三越から転じた坂倉芳明社長の下、西武池袋店は三越本店を抜き売上高全国首位となる。西武ライオンズの日本シリーズ初優勝の年でもある。平成4年(1992)、東武本店は増床で売場面積が全国首位となった。この頃、特に西武百貨店は文化の発信源でもあった。上階に、現代美術を中心に先鋭的な企画展で知られる西武美術館(後にセゾン美術館)を設置したり、ブランド信奉に物申すスタンスから「無印良品」を立ち上げたりと、いわゆる「セゾン文化」の全盛期だった。
「駅袋」から駅の外に人の流れを生むきっかけとなったのが、巣鴨プリズン、東京拘置所の跡地再開発で昭和53年(1978)に完成したサンシャインシティである。当時日本一の高さを誇るサンシャイン60をシンボルとした複合施設で、階下にショッピングセンター、水族館、劇場、展示場などがある。60階の展望台は東京タワー特別展望台より高く耳目を集めた。サンシャインシティはロードサイド立地の郊外大型店の性質を合わせ持つ。1,800台分の駐車場を擁し、ショッピングセンター部分は地上3階地下1階、店舗面積46,641m2(当時)でフロア当たりの面積が大きい。最奥部には首都高速道路5号池袋線の東池袋ランプに隣接するバスターミナルがある。
サブカル&ウォーカブルに変わる池袋
目下、豊島区は「国際アート・カルチャー都市」構想の下でまちづくりを進めている。池袋モンパルナスの伝統を継ぎ、東京芸術劇場やシアターグリーンなどに代表される劇場文化も盛んだ。セゾン文化に象徴されるように、時代を通して現代的かつ先鋭的な文化を希求してきた。こうした流れを俯瞰するに、2000年代以降で顕著なのはアニメを中心としたオタク文化である。アニメショップ最大手「アニメイト」は昭和58年(1983)、サンシャインシティの西辺の、現在は乙女ロードと言われている場所で創業した。平成12年(2000)、同じ通りに大型店を新築し本店とする。この頃から女性オタク向けの物販店やカフェが集まり、通りは乙女ロードと呼ばれるようになった。
池袋駅前の“歩く街”化も進んでいる。前提が、令和9年度(2027)予定の都心環状線5の1号、通称明治通りバイパスの開通である。首都高速の高架下、サンシャインシティの前の通りが新しい明治通りとなる。現在の、駅に並行する明治通りを通る車がバイパス線を通るようになる。「旧」明治通りは、駅前の南北で袋小路となる計画だ。そして駅正面からまっすぐ伸びるグリーン大通りが歩行者専用となり広場化する。さらに駅から旧三越裏通りまでの一帯に車が進入できない歩行者優先区域ができる(図4 池袋予想図)。
平成27年(2015)年、中池袋公園の向かい側にあった豊島区役所が明治通りバイパス沿いに新築移転した。跡地は再開発され、劇場やシネコンを併設するハレザ池袋ができた。その隣には平成24年(2012)に移転したアニメイトの本店がある。中池袋公園を中心に新しい中心街ができた形だ。他方、ビックカメラ近隣は電器街になりつつある。平成21年(2009)に三越が閉店、店舗は改装されてヤマダ電機(現・ヤマダデンキ)LAVIとなった。西武百貨店の半分はヨドバシカメラになる予定で、一連の変貌は現代文化の世代交代のようにも映る。
おばあちゃんの原宿から癒しのまちへ
戦前の一等地だった巣鴨は戦後どうなったか。はじめは近隣住民の日用を賄う商店街として発展した。昭和4年(1929)の路面電車の延伸に伴い、中山道に並行するバイパス線の白山通りができた。通行量は白山通りに譲ったが、かえって旧中山道は歩行者用の道になった。高齢者寄りの商店街になったきっかけが、昭和44年(1969)に巣鴨駅前に出店した西友ストアである。日用の買物客は西友ストアに流れたが、その代わりに門前商店街の性質を強めていった。「おばあちゃんの原宿」と呼ばれるようになったのは昭和60年前後である。当時の高齢女性はモンペを継承する「モンスラ」をよく履いていた。その頃に流行していた「竹の子族」が身を包んでいた蛍光色のハーレムスーツをモンスラに見立てている。ハーレムスーツではなくモンスラや赤パンツなどを売るファッション店、クレープではなく塩大福など和菓子を出すスイーツ店が多い点が年齢層は違うが原宿のようだった。「おばあちゃんの原宿」で一躍有名になり、首都圏一円、ときには全国から人が集まるようになった。
東日本大震災やコロナ禍の影響はあったが、現在も高齢者のまちとして賑わっている。約200店舗の構成を見ると、おばあちゃんの原宿と呼ばれた頃から営業を続ける業歴40年以上の店が少なくとも60店は残っている。一般論を言えば、自分で所有する店舗を持つ店が商店街の強みだ。賃料相場のプレッシャーに抗い個性的な店を出すことができるからだ。
もっとも、本家原宿に竹の子族はいない。モンスラを履いていた「おばあちゃん」も世代交代し、「おばあちゃんの原宿」に代わるコンセプトが求められる。高齢層が多いとはいえ、まち歩きで来街する若者も増えている。意外にも近隣住民は若者が多い。
池袋が常に変化を求める刺激的なまちならば、巣鴨は伝統をつなぐ癒しのまちと位置づけられる。ネット社会、コンプラ社会で何かと息苦しい世の中だ。心のとげが抜けるまちと捉えれば癒しに年齢は関係ない。インバウンドの文脈を踏まえると、巣鴨もルルドの泉のようなポジションを獲得していくのだろうか。世代を超えて愛される癒しの奇跡のまちである。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図1 とげぬき地蔵の縁日
図2 市街図
図3 サンシャイン60と乙女ロード