国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇
前回、日本人が日本語の中に漢字を融通無碍に取り込んで、話し言葉と書き言葉が融合した豊かな表現方法を創り出していったことを説明した。実は、話し言葉と書き言葉が分離していたのが漢字文化圏の世界である。話し言葉が違っていても見ただけで分かる書き言葉の漢字を駆使することによって話し言葉が違う多くの民族の文化が融合し、グローバルな漢字文明圏が築き上げられていったのである。
漢字の創造
漢字は、漢族によって長江流域で創り出されたもので、それによる文章(漢文)は漢字が「孤立」して並べられるものだった(孤立語)。といわれても分かりにくいが、名詞や動詞といった品詞の区別がなく、接頭辞や接尾辞も、時称もなく、並べ方もどんな順序でもいいものだった。それは、どんな言語を話す民族にとっても目で見て理解できる、容易に使いこなせる道具だった。そこで、古くから便利な共通のコミュニケーション手段として広く用いられるようになった。漢字は、それぞれが意味を持つことから「表意文字」と言われてきたが、最近、研究者の間では、目で見て理解できることをとらえて「表語文字」とも言われるようになっているのだ*1。
日本で漢字の文章が残っているのは古事記の時代(8世紀)からだが、魏志倭人伝(2世紀)には、邪馬台国を率いる卑弥呼が南の狗奴国と戦った際に、魏が詔書と黄幢(魏の正規軍を示す旗)を贈って励ましたことが記されている。それは、邪馬台国が魏と濃密な交わりを持っていたことを示しており、とすればその交わりの際には漢字が用いられていたはずだ。目で見て分かれば、文章として理解できなくても十分だったのだ。
当時の漢字を、周辺諸民族は様々な字体、読み方で用いていた。漢族の読み方は他の民族にとっては知る必要のないものだった。そのことは、日本人が漢文を訓読する際に中国での読み方を知らなくても問題がないことを考えれば理解できよう*2。それを、秦の始皇帝(BC221-206)が字体と読み方を漢族のものに統一してしまった。東洋史学者の岡田英弘氏によれば、それが焚書だった。秦以外の国で用いられていた字体の書物を焼き捨て、それによって統一がなされたという*3。なお、焚書坑儒と言われるが、詐術を弄する方士*4に対する懲罰は行われたが儒者に対する坑儒は行われなかったという*5。でなければ、その後の儒者の重用が説明できないからだ。
読み方が統一された結果、目で見て理解できる便利な道具という漢字の位置づけは変わらなかったが、読み方は漢族以外の民族にとっては意味を持たない音*6になってしまった。話し言葉と書き言葉が分離してしまったのである。実は、そのように意味を持たない音になってしまった漢字を再び意味を持つ音にして自国語化してしまったのが日本人だった。そのようなことをしたのは日本人だけなので、そうとは知らない中国人の中には、そのように漢字を使う日本人も中国語の方言を使う周辺の一部族くらいにしか思っていない人がいるのだという*7。本稿の第1回に「敵を知り、己を知れば百戦して殆うからず」と述べたが、己を知るためには、まずはそのように漢字文明圏で日本が極めて異質な存在だったことを知る必要がある。
儒家の登場
中国の戦国時代(紀元前5世紀-3世紀)には、様々な経典を先生から弟子に伝える多くの教団(諸子百家)が生まれたが、その中でも儒家は特に自らの経典を神聖視し、その読み方を厳密に定めていたので、儒家同士でのコミュニケーションがスムーズだったという。そこで、戦国時代の多くの国々は、外交文書の行き違いが起こらないようにと儒家を雇っていた。そんなことから、始皇帝による漢字の読み方の統一にあたっても儒家の経典が使われ、やがて儒家の文献が統治手段の中心に位置づけられて儒者が雇われるようになっていった。といってもそれは文書作成のエキスパートとしてだった。というのは、そもそも、孔子の唱えた儒教は諸侯に対して批判的だったからだ。儒家で宰相になった人物はいなかったという*8。それが、統治手段の中心に位置づけられた結果、漢代(BC206-AD220)には、儒教の批判的な部分が縮小されていった。そもそも、儒教の「儒」は祭祀や儀礼を司る「巫祝(ふしゅく、シャーマン)」のことで、古代儒教では、祖先の祭祀、父母への敬愛が最も重要とされていた。それが、孔子の時代になって王朝の祭祀儀礼を重んじるものになっていったという。政治を批判するのが本来の姿だったわけでもなかったのだ*9。
批判的な部分が縮小された儒教は、高級官吏たらんとする人々の必修の「経学」になった。漢代以降の儒学は、それまでと様変わりの無批判の古典学となり、統治に役立つ部分についての文献学、解釈学になっていった。すなわち、形式的な孔子崇拝と一定の倫理体系の信奉を伝承する学になっていったのである*10。
隋の時代(AD581-618)には科挙が導入されたが*11、その際には歴史を規範として現実に対応することを説く儒教の経典の部分が出題範囲に定められた*12。科挙の制度によって、それに受かれば青い目をしていようが金髪だろうが「漢人」と見なされるようになった。ただ漢族以外の諸民族にとって、読みが意味を持たない音である漢文を習得するのは暗号の解読のようなもので、科挙の為の勉強は猛烈な暗記力とかなりの忍耐力を必要とするものだった。漢族にとっても、名詞も動詞もなくテニオハも語尾変化もない漢文の解読は容易な作業ではなかった。そこで儒教の経典を学ぶのには、まずは暗記から入ったという。「読書百辺意自から通ず」の世界である。儒教の経典の深い意味は、漢族でも学習が進んで主要な漢籍をマスターして初めて理解できるものだとされていた*13。
科挙のための勉強が儒教の経典の暗記から入ったということは、儒教の経典が漢文の模範文例集になったことを意味していた*14。岡田英弘氏によれば、そのような教育を受けた人は何かを表現しようとすると、その模範文例集や古人の詩文の文体に添った表現しかできなくなるという*15。そういった人々が「読書人」と呼ばれた。そのような「読書人」は、古典をプログラミングされた一種の人間コンピュータだった。そのような人間コンピュータ同士が高性能を競い合うゲームが中国人の「詩」や「文」の作成で、それは、ほとんど無限の煩瑣な約束事を乗り越えて、達意の名文を綴り情感に満ちた詩や文章を作るという大変な作業だった。そこから、中国では「文章が『経国の大業、不朽の盛事』」で男子一生の事業とされるようになったという。それは、漢字を日本語化したおかげで、仮名の他に多少の漢字さえ覚えれば日常の言葉で自由に詩を詠んだり文章を創ったりできるようになった日本人には想像を絶する世界だった*16。というわけで、日本では文章が男子一生の事業とはされなかったのである。なお、中国の文盲率が高かった背景にも、漢文の習得がそのように大変な作業だったことがあったという。日本のように、寺子屋でちょっと学べば、簡単な文章なら読み書きできるといったものではなかったのだ*17。
天命思想
歴代王朝の支配の道具となったのが儒教だったが、王朝の支配のそもそもの根拠とされたのは「天命思想」だった。天命思想とは、天(森羅万象)を司る天帝から天命を受けた皇帝が徳をもって天下を統治するというものである。「美」という漢字は、生贄の羊が大きいさまをあらわしているが、天を司る天帝には生贄がささげられた。それは、一神教の世界である旧約聖書において天地の創造主である神に生贄が捧げられているのに通じるものだ。この世を統治する支配者には生贄が捧げられるのである。多神教の日本にはない思想といえよう。
中国における天命思想を確立したのも、中原を統一した秦の始皇帝だった。始皇帝は、それまで諸侯が統治を「私」していた周の時代以来の封建制を否定して、皇帝だけが統治を「私」する仕組として天命思想を確立した*18。それは、天命を受けることによって天に代わってただ一人の皇帝がこの世を支配するという「人知の仕組み」だった。始皇帝は、それまで諸侯が使っていた王号の上に皇帝号を導入し、世襲を前提としていた諸侯の地方統治に代えて、皇帝の任命した官吏による地方統治を導入した(郡県制)。そして、そのような官吏による統一的な地方統治のために各地方でバラバラだった度量衡や文字、貨幣の統一などを行った*19。そのように天下を支配する皇帝に、周辺諸民族は朝貢し、その見返りに冊封されることとされた。朝鮮半島から貢物とされた女性は「貢女」と呼ばれたが、日本からも卑弥呼が「生口」(奴隷)を魏に献じたと魏志倭人伝に記されている。
始皇帝が天命を受けたとした背景には、中国の歴史において初めて中原を統一したことがあった。そこから、天命を受けたとするためには中国を統一することが必要だという思想が生まれた。今日、中国共産党が台湾を含む中国の統一が中国の核心的利益だと言っている背景にあるのがこの思想といえよう*20。
始皇帝が統一したかつての中原は、今日の中国の領域に比べると極めて限られた領域であったが、それにしても対抗勢力がある中でそれらの領域を統一するためには、強力な軍事力が必要だった*21。それは徳で統治をするという「天命思想」の建前に反するものだった。そこで、中国の歴史上、皇帝たらんとするものは軍事的な勝利の直後に、大急ぎで武器を捨て、自分が根っからの「文人」であったかのように振る舞わなくてはならなかった*22。天命を受けたというためには、前の王朝は徳がなかったので滅んだのだとして否定して*23、徳のある新たな王朝の歴史を創り出さなければならなかったのである*24。それによって現王朝に反抗するものをことごとく悪として切捨てたのである*25。
それにしても、強力な軍事力をもって前王朝を倒しておきながら、そんなことを言うのには無理があった。そのことを指摘したのが江戸時代の山鹿素行の「中朝事実」で、山鹿素行は中国よりも日本の方がよほど儒教の教えに則っているとした。日本では、実権を握った武士たちも、天皇制を廃止して全く別の新たな王朝を創り出すようなことはしなかったのである*26。それは、日本では武士が天皇の権威を借りることによって、徳をもって治めると言わなくても統治の主体になれたからだったとされている*27。
天命思想の下では、王朝が交代するのは徳がなくなって天命が失われるからだとされた。「易姓革命」である。世の中が乱れることが、天命を失ったことを示すということで、農民反乱などがそのきっかけとされた*28。ちなみに、易姓革命の思想は孔子にはなかったもので、孟子(紀元前372年-290年)が述べたものだった*29。興味深いのは、天命を受けるのは漢族に限らなかったことである。元朝も清朝も、漢族ではなかったが天命を受けたとして王朝を建てた。唐も、実は北方民族の鮮卑系ではなかったかとされている。その感覚からすれば、日本の豊臣秀吉が中国大陸に覇をとなえようとしたのもおかしなことではなかった。中国の歴史書では、秀吉について朝鮮半島出兵への対応の負担が明の滅亡につながったとの記述はあるが、韓国でのように極悪人として描かれていないのはそのためであろう。逆に言えば、元が日本に元寇を行ったのも責められるべきことではなかったのである。
易姓革命で天が下す天命には特別の内容はないので、新たに皇帝になった人物の命令がそのまま法としての効力を持った(人知の仕組み)。それは、歴代の統治の道具とされてきた儒教をさえ否定してしまうものだった。中国共産党の毛沢東は、中国の新たな皇帝として、批林批孔*30によって儒教の否定まで行ったのである。今日、中国は孔子学院を世界中に展開しているが、それも儒教を広めるというよりも、現在の皇帝である習近平主席の人知としての世界戦略であろう。いずれにしても「革命」という名前がついているが、「易姓革命」には特別の内容はないので、西欧の革命のように社会の変革につながるものではなかった*31。社会学者の大澤真幸氏は、そのような革命は、革命を否定する革命、真の革命を防止するための革命だったとしている*32。
華夷秩序
「人知の仕組み」が儒教をさえ否定してしまうものだったといっても、それは近年になってのことで、歴代、易姓革命で帝位についたほとんどの皇帝は、周辺諸民族を支配する道具として儒教に基づく「華夷秩序」を活用してきた。唐の時代まで、東ユーラシアでは多くの民族がグローバルなレベルで覇を競っていたが、安史の乱を境に唐はグローバルな大帝国から、中国本土のみを支配する国家へと変貌していった*33。東洋史学者の森部豊氏によると、その際の漢族と非漢族の対立から生まれてきたのが「華夷秩序」だった*34。華夷秩序は、「野蛮な周辺民族」と「文明的な中国人」を前提に、儒教の説く「礼」を周辺民族を支配するための道具と位置付けたものだった*35。そして、そのような「華夷秩序」から生まれたのが「中華思想」だった。華夷秩序の外延に組み込まれたのが朝鮮とベトナムで、それ以外の西欧やアジア・アフリカ諸国は「化外の民」の国とされた*36。さらにその枠外とされたのが日本だった。日本は一時、足利義満が明の永楽帝から日本国王に冊封されて朝貢貿易を行い、華夷秩序の外延に位置づけられそうになったが、天命思想が天皇制と相いれないということで枠外にとどまった。それに対して、外延に組み込まれた朝鮮王朝は深く中華思想を奉ずるようになり、漢族の明が滅びると満州族の清に公式には朝貢しつつも、独自に小中華を自認するようになった。
満州族の清は、「機能主義的な華夷観」を採用して漢族の漢文明が中心だとする「華夷秩序」の考え方を修正していった。清朝三代目の皇帝となった雍正帝は、科挙にさえ受かれば漢族でなくても政治に携われるシステムを活用し、それによって、多民族国家である中国の「大いなる統一」を実現した。それは、「華」の一員になるためには民族の指導層が科挙に受かってさえいればよく漢文明を受容する必要はないとしたもので、隋が科挙を導入した当初の考え方に立ち戻るものであった*37。清朝は、同じ遊牧民族のモンゴル、チベットの政治、宗教を尊重して寛容な間接統治を行いつつ、西南諸民族に対しては元代から行われていた自治である土司制度*38を否定して中央政府の任命する地方官(流官)を派遣して中央集権化を推し進めたが(改土帰流政策)、その際に実施したのが西南地域の指導層への科挙の優遇だった。優遇された科挙の合格枠には、当初、科挙に受からない先進地域の読書人が競って受験したが(寄籍、冒籍)、やがて西南諸民族の指導層の中にも地域における自らの支配力を万全なものにするために進んで科挙を受ける者があらわれてきて中国の「大いなる統一」が実現したのである*39。それが、中国の歴史上最大規模にまで拡大した清朝の領域支配だった。今日の中国は、そのようにして拡大した清朝の領土を中国固有の領土としているが、清朝以前の歴代王朝の版図からすれば相当に拡大したものである。特に海に関しては、明にしても清にしても17世紀後半までは海禁政策*40をとっており、南シナ海を自国の版図などとは考えていなかったのである*41。
清朝は、近代になって列強に侵略されるようになると、華夷秩序の考え方から化外の民である列強が武力で清に勝ってもそれは優越を意味しない、むしろ軽蔑、否認すべきことだ*42。やがて最後には礼を知る中国の感化を受けて中国に同化されるはずだとして自らの統治を正当化していた*43。清朝が、なかなか倒れなかった背景にあった考え方である。明治維新期に日本の文明開化を見て行われた変法自強運動も、そのような認識の下に行われたものだった。
「機能主義的な華夷観」を可能にした漢字文化
清朝の「機能主義的な華夷観」が支配の道具として儒教を用いながら、それによって各民族の文化を縛るようなことをしなかった背景には、名詞も動詞もなくテニオハも語尾変化もないため、いかようにでも解釈できる漢文の存在があった。漢代に、本来政権に対して批判的だった儒教が無批判な古典学になっていったのも、漢文のそのような性格からのものだった。そして、漢代以降も、統治の道具ということを逸脱しない範囲の中で、儒教には様々な学説が登場した。性善説あり、性悪説あり、朱子学があり、陽明学がありというようになっていったのだ。
宋代に朱熹によって新しい学問体系として説かれるようになったのが、日本の徳川幕府も採用した朱子学だった。朱子学は宋代の商業の発展を背景に実用主義に傾いたものだったとされている。それは、仏教、道教の影響もうけて、現実世界の奥に、理(万事万物を現出せしめる必然原理、善美の規範)の世界、真実在の世界があると説いた。それに対して、朱熹の論敵だった陸象山は、孟子流の性善説を徹底して、禅宗の哲学に近い「心即理」を説いた。さらにそれに反発したのが王陽明で、実践を重視する陽明学を説いた。そのように儒教に様々な学派が出てくる中で、清朝は知識階級の政治活動を制御して統治を円滑に進めるために、漢唐訓詁の経学研究(考証学)を保護奨励した*44。そして、そのような考証学の中から、明治維新を目の当たりにすると、春秋公羊伝の研究に基づき政治改革の必要性を説いた康有為の戊戌の変法*45などが登場していったのである。
聖人の尊い教えを伝えているはずの儒教について、いかようにでも解釈ができたなどと言うとそんな馬鹿なと言われそうであるが、そのことに筆者が思いいたったのは、浩志会という官民の研修会で安岡正恭氏(安岡正篤氏の御子息)の指導の下「論語の活学」*46を学んだところによる。そこには、ただぶらぶらしているよりは、博打でも打っていたほうがいいと孔子が語った話*47が出てくる。それは孔子が人を見て法を説いていたからであった。「論語」は、孔子と弟子たちとの対話集である*48。孔子は弟子を導くために、相手によって様々なことを説いていたのだ。なお、「論語」の解釈が様々であることは、筆者が日本アスペン研究所*49でお世話になった今道友信*50先生から学んだことである。今道先生は、「論語」里仁第4.1にある「子曰、里仁為美、擇不處仁、焉得知」の「里仁為美」を、朱子学では『田舎は朴訥なので仁を美徳だとしている』としているが、『仁に里(おる)を美(よし)と為す』とすべきだとされていた*51。
中国民衆の宗教
以上、「華夷秩序」や「中華思想」に関して、中国における儒教の話をしてきたが、中国の人心は上下おしなべて、儒教よりも仏教や道教*52を好んできた。中国社会で伝統的に重んじられてきたのは、儒教で大切だとされてきた「仁」といったものではなく、道教的な「義」だったのだ。ちなみに、論語にも「義」を重んじる話が出てくる。お父さんが羊を盗んだ時に子は父のために隠すという話である*53。
かつて中国大使を勤められた宮本雄二氏によると中国の「義」は、仏教化した道教に導かれたもので、そこに人倫道徳の根源的なものを感じるのだという*54。中国の底辺社会の価値観は道教的で、支配階級が重視した儒学はどこにも出てこないのだという。そもそも、儒教の教典を読んで理解できるのは「読書人」に限られていたので、それは当然の成り行きでもあった。儒教の人間観は、合理的・理性的、君子本位で、民衆的ではなかった*55。民衆は大きな気持ちを大事にする老荘思想や神秘主義、迷信などを大切にしてきた*56。そもそも、「易姓革命」の下での統治は、それがいかに合理的に説明されていても「人知の仕組み」だった。「人知」の世界では、上下おしなべて国家よりも自分を、そして家を大事にすることになるという。上に政策あれば下に対策ありである。それは、「天は高く皇帝は遠い」ということであった*57。
なお、孔子が弟子たちに様々なことを説いた対話集である「論語」には、「仁」以外の徳も説かれていた。「夫子の道は忠恕のみ」*58ということで、忠実で同情心が厚いこと、真心と思いやりがあることが最も重要だとされていた。また「中庸」も重要な徳とされていた。「中庸」とは、「過不足なく偏りのない」徳のことだが、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」とされていた*59。そして、儒教の聖典である四書の『中庸』では、「誠」を「中庸」よりも重要な概念としていたのである。
言語による論理で論争する漢族
中国大陸では、飢饉や外敵の侵入が起こるたびに多くの命が失われ、民衆は食べ物のある安全な地方に移っていった。移っていった代表的な人々が客家と呼ばれる人たちだった。移っていった人々は条件の悪いところにしか住めず、元からの住民には冷たくされた。そこで中国人は、よく働きよく学ぶようになったのだという*60。そのような中国人は、他人はしばしば競争相手であるので、まずは人を疑うことから始めるという。頼れるのは自分の血縁者だけだと思っているので、弱者には温かいが、こちらが強くなると俄然対抗的になる*61。生活環境が厳しかった中国においては、自己主張しないと生きていけなかったので*62、契約や約束にこだわらず、相手を誤解してでも、有利な立場に立とうとする。日本人のようにすぐには謝らない。誤ったら最後、こちらが悪いことになるからだ。そこで、本稿第1回でご紹介したように、子供に「人にだまされるな」と教えることになったのだろう*63。
そのような中国では、社会通念として人に手を出すことはご法度で、言語による論争で物事を決しなければならないとされている。夫婦喧嘩も路上に出ての論争として行われる。英語や日本語で物腰穏やかに話す中国人も、一旦中国語に切り替わると、途端に表情は大げさに、動作は派手に、声も大きく、芝居がかってきて、話の内容は断定的、教条主義的になり、微妙なニュアンスはあらかた吹っ飛んでしまうという*64。まずは、しっかり論理を組み立てて、自己主張の為に大きな声で話す(500-3000ヘルツ)*65というわけだ。そのような中国人の世界への発信力は、日本人と比べると格段に強いということになっている。
ただ、中国人が論争で物事を決するのを基本としていると言っても、言葉が通じないとなるとそうは行かない。かつて漢人が越境していった南中国では、19世紀半ばに先住民族との間で激しい「械闘」(武器を持って争うこと)が繰り広げられたが、その背景には言葉が通じないことがあったという。械闘は、「例えば壁越しに聞こえてくる隣の家の会話が全く聞き取れない」という状況で起こった*66。今日、南シナ海で繰り広げられている中国海警による力の行使も、一種の「械闘」ととらえることが出来るのかもしれない。
漢文によるコミュニケーションの難しさ
漢文が名詞も動詞もなくテニオハも語尾変化もないためにいかようにも解釈もできたということは、そのような漢文では中国人同士でも新たな思考をコミュニケートすることが困難だったことを意味していた。岡田英弘氏によれば、そこで伝えたい情報の核心になるべく近い意味を表す漢字をいくつか選び、それを古典や経典の文章に則って並べ直すことが行われてきたという。ところがそれでは、古典や経典にない、新しい思想や事物を叙述しようとすると、受け手の側にそれを理解するのに無理が生じる。そこで、分かりきったことしか伝えらなかった。そこで、建前と本音の乖離、総てが建前の世界が行われることになった。それが漢文の恐るべき性質だという。岡田氏によれば、その結果、中国は文字だけで言葉のない国、建前だけで本音のない国になってしまった。漢字の表皮を中国からはがした後には、国語らしい国語が見つからない。漢字を抜いてしまうと中国にはフィクション同様の存在しかなくなってしまうとしていた*67。そこまで言うのは言い過ぎのように思われるが、NHKの世界のニュースで毎朝報道されている北京発のニュースが中国政府の建前ばかりを発信してるのを聞いていると、さもあろうかと思わされる指摘である。
中華人民共和国の政治家で哲学者だった張東蓀(1887-1973)は、そのような中国語で、きちんとした政治議論ができるかどうか、中国で生じる様々な政治問題は中国語の構造の為に生じているのではないかとの問題提起を行っていた*68。清末民初のジャーナリストで、政治家、思想家でもあった梁啓超は、日本語が読めるようになって思想が一変したという。中国が「天下」ではなく、「列国」のうちの「一国」だと認識するようになり、「国民」を誕生させなければならないという考えに到ったのだという*69。中国の漢字の「天」には、天帝の統治する所という一通りの意味しかなかったので、それまでそんなことは考えたこともなかったが、日本語の「天」には、訓読みのものを含め、歴史的に様々な意味が込められていたからである。台湾総統だった李登輝が「日本精神(リーベンチェチン)」を唱えた背景にも、漢字に多様な意味を読み込んでいる日本語が台湾の民主主義のために必要だとの判断があったのであろう。
漢文による漢字文化圏の形成
何か漢文に厳しい話になってしまったが、ドイツの言語学者だったヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、名詞と動詞の区別もなく、語尾変化もなく、従って字と字の間の論理的な関係を示す方法がない漢文が、受け手に多くの文法的補填を求めるという精神の働きを要求するために、かえって豊かになるとしていた*70。確かに、中国で展開されてきた思想には極めて多様で深遠なものがある。また、「表意文字」で、かつ「表語文字」でもある漢字で構成される漢文には、漢字に含まれる概念を明確に表現しつつ、だれにでも容易に理解できるという大変な長所がある。そのおかげで言葉の違う民族同士のコミュニケーションが円滑に行われ、各民族の文明が交わることによって偉大な中華文明圏が創り上げられてきたのだ。
日本が幕末、米国などとの厳しい条約交渉に一歩もひるむことなく対応できたのも漢文に親しんでいたおかげだったと言えよう。日米修好通商条約は、治外法権を認めた不平等条約だったとされているが、実は日本も米国も自国民は相手国にいても自国の法律で裁くとした極めて論理的な条約だった。そのような論理的な条約交渉が行えたのも、江戸時代の武士たちが日ごろのコミュニケーションを漢文の筆談で行っていたからだった。筆談が当たり前の世界では、今日の日本人のように英語が話せないからと言ってものおじするようなことはなかった。言葉が違う人間同士で、相手の話す言葉を理解できないのは当たり前。筆談となれば、どちらが先に話すかなどは大した問題ではない。相手が大きな声で話しても、こちらが大きな声を出す必要もなかった。
唐の時代、遣唐使で中国に渡った阿倍仲麻呂が、安史の乱の前に高官に上り詰めて玄宗皇帝にまで仕えたのもそのような漢文のおかげだった。仲麻呂は、もちろん後には中国語に熟達していったはずだが、唐にわたった当初は筆談でしか円滑な会話は出来なかったはずだ。しかしながら、国際都市だった当時の長安では筆談が普通のことだったので、漢文さえ読めればなにも困らなかったのだ。しかも日本人は訓読法を発明して漢文を日本語と同じように読めるようにしていた。それは、日本国内にいて外国語を勉強しなくても「グローバル」な漢字文明を吸収できるようになっていたということだった*71。
筆者は、財務省の現役時代から高橋是清の研究を行ってきたが、その際の疑問が高橋がどうしてあんなに外国人とフランクに交流できたのだろうかということだった。留学のつもりで米国に行ったら奴隷契約を結ばされてしまった話が有名だが、そんな中でも隣の牧場の娘さんと親しくなったりしているのだ。今日、その秘密は高橋に漢文の素養があったからだと考えている。しかも、中国語には主語があるので、その感覚で英語を学ぶことは現在のわれわれよりもはるかに容易だったはずだ。
漢字による統治システムの創造
筆者は、昨年エジプト旅行をして、エジプトの象形文字の遺跡を目のあたりにする機会を持った。古代エジプト王国はシリアまでをも征服して幅広い交易をおこなっていたのだが、それに際しては目で見て容易に理解できた象形文字が大いに役立ったはずだ。古代インダス文明にも、解読されていないが独自の象形文字があり*72、交易や統治に役立っていたはずだ。ところが、それらの象形文字の中では中国の漢字だけが生き残り、他の象形文字は滅びてしまっている。それには、中国の漢字が他の象形文字とは異なり個別に意味を持つ「表意文字」だったことが大きかったと考えられる。そのことが、儒教と結びついた統治システムを創り出し、そのようにして創り上げられた統治システムは、漢族のみならずモンゴル族や満州族といった多くの民族にとっても中国大陸を統治する上において大きな力になったのだ。
だれにでも容易に理解できるという大変な長所をもつ漢字を多くの民族が利用することによって、中国4000年といわれる歴史が育くまれてきたのだ。漢字を利用してのコミュニケーションにより多くの民族の様々な思想や文芸が融合した中華文明が生まれきたのだ。それには、歴代の中国王朝が漢字の使用を統治の手段に限定して他の民族の言語、文化を尊重してきたことが、あずかって大きかったといえよう。ところが、その素晴らしい伝統が、今日、言語を北京官話に統一するという中国政府の政策によって失われようとしている。北京官話への統一は、漢字文化圏で分離していた話し言葉と書き言葉を融合させようという試みなのだが、それは、多民族国家である中国の中華文明の核心を失わせるおそれのあるものなのだ。
次回は、その現状について、中国語の歴史を遡りながら見ていくこととしたい。
*1) 「漢字が日本語になるまで」円満字二郎、ちくまQブックス、2022,p22
*2) 「漢字とは何か」藤原書店、岡田英弘、2021、p148
*3) 岡田英弘、2021、p23
*4) 紀元前3世紀から西暦5世紀にかけての中国で、瞑想、占い、気功などの方術によって不老長寿などを成し遂げようとした修行者
*5) 「古代中国王朝史の誕生」佐藤信弥、ちくま新書、2024、p216、224。始皇帝が、不老長生を説いた徐福に巨資を与えたが、やがて詐術にあっていたとして腹を立てたのが焚書坑儒の直接の動機だったとされる(「四書五経」竹内照夫、平凡社、1981、p319-20)
*6) 日本で言えば、庶民にとっての「お経」
*7) 岡田英弘、2021、p58、57
*8) 岡田英弘、2021、p74、149、152-53
*9) 宮脇淳子、2019、p71-72
*10) 竹内照夫、1981、p299-307、309-310、321-25。「学んで思わざれば則ちくらし」(論語、為政編)「尽く書を信ずるは、則ち書無きに如かず」(孟子、尽心下編)などの批判的な部分が忘れられて文献学・解釈学になっていった。
*11) 科挙で個人が官僚になる仕組みは、中国の血脈による「父系原理」に基づく「姓」を重視する仕組みの下での分割相続制と整合的な制度だったとされている。日本では、「父系原理」よりも「家原理」が重んじられて分割相続が行われていなかったために科挙導入の必要はなかったというわけである(「御成敗式目」佐藤雄基、中公新書、2023,p125、142)。
*12) 「五教正義」が編纂されて教科書になった(竹内照夫、1981、p325-6)
*13) 岡田英弘、2021、p23、61、129-30
*14) 「中国・韓国の正体」宮脇淳子、ワック、2019、p73
*15) 岡田英弘、2021、p28-29
*16) 岡田英弘、2021、p123、150
*17) 岡田英弘、2021、p188‐89
*18) 日本の封建制では、天皇と諸侯は対立概念ではなく統合されていた(「『幕府』とは何か」東島誠、NHK出版、2023、p306)。
*19) 佐藤信弥、2024、p198
*20) 台湾を統治している中華民国政権も、かつては大陸反攻による中国の統一を唱えていたが、1990年代の初めに武力による統一を正式に放棄した
*21) 毛沢東は、「革命は銃口から生まれる」としていた。政権は銃口ではなく投票用紙から生まれると訴えた民主化の活動家は国家政権転覆罪で懲役14年とされた(読売新聞オンライン、2023.4.10)
*22) 大澤真幸、2016、p76、p78
*23) 満州を東北3県と呼び、かつての満州国を「偽満州国」としているのも前王朝の否定の例と考えることが出来る
*24) 宮脇淳子、2019、p121
*25) 岡田英弘、2021、p91-93。今日、「ぷーさん」と表現しただけで、習近平批判ではないかとしてネットから削除されるのも、その感覚であろう。
*26) 文芸春秋、本郷恵子、2023.1、p525
*27) 大澤真幸、2016、p123
*28) 2000年代の中国では年間7万件を超える騒乱が起こったが、その後デジタル技術で抑え込んでいる(宇野和夫「中国の群衆犯罪事件の概念と特徴」2005,https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F9213072&contentNo=1
*29) 竹内照夫、1981、p337。易姓革命の思想は、同じ姓を持つ皇帝が天命を受けたり失ったりする(易姓)ということだったので、姓をもたず、天と一体化している日本の天皇にはなじまないとされた(大澤真幸、2016、p69)。江戸時代の雨月物語の中に易姓革命を説く崇徳天皇を西行がいさめる話が出て来る。
*30) 1973~74年に中国で展開された林彪,孔子を批判する政治運動
*31) 「〈世界史〉の哲学 東洋編」大澤真幸、講談社、2014、p100
*32) 「日本史のなぞ」大澤真幸、朝日新聞出版、2016、p79、81
*33) 「華夷秩序」の成立と同時期に「会昌の廃仏」が行われ、仏教というよりも、景教(キリスト教)や祆教(ゾロアスター教)、明教(マニ教)が姿を消していった
*34) 「唐」森部豊、中公新書、2023、p278-9
*35) 王朝は、中国理念の文化世界(華夷秩序や正史)を継承するものとされた(「訓読論」中村春作、市來津由彦、田尻祐一郎、前田勉、勉誠出版、2008、p313)。
*36) 「中国の論理」岡本隆司、中公新書、2016
*37) 菊池秀明、2022、p98
*38) 元代から西・西南部の中国の少数民族地区に置かれた一種の地方官。土着民族の長を集落の長官司として、従来の慣行による自治にゆだねていた。
*39) 「越境の中国史」菊池秀明、講談社、2022、p91-94、97―8、p106-111
*40) 民間の海外貿易や海外渡航を禁止、制限した政策
*41) 南シナ海の版図を拡大したのは日本だった。日華事変勃発2年後の1939年、日本は南沙諸島の領有を諸外国に通告した(「国家の総力」兼原信克、高見澤将林、新潮新書、2024、p144)
*42) 岡本隆司、2016、p134、「日本思想史と現在」、渡辺浩、筑摩書房、2024、p108
*43) 岡本隆司、2016、p155
*44) 竹内照夫、1981、p316―17、328-35、340-45。陽明学は、明治維新を導いたともされる一種の危険思想だった。
*45) 清朝末期、日本と同様の立憲君主制を導入して中国の近代化を推し進めようとした運動
*46) 「論語の活学」安岡正篤、プレジデント社、1987
*47) 「論語」陽貨編17
*48) 新約聖書も、キリストと弟子たちとの対話集である
*49) 「古典」という素材と「対話」という手段を通じた研修を行っている米国発祥の研究所
*50) 東京大学名誉教授、中世哲学、美学の研究者。世界形而上学会の会長も務めた
*51) 「今道友信 わが哲学を語る」今道友信、鎌倉春秋社、2010,p177
*52) 道教は、戦国末期からの神仙信仰を基にし、漢末に成立した(竹内照夫、1981、p326)
*53) 「影山輝國先生論語義疏」20220915経学研究会、しまうまプリント、p39
*54) 「2035年の中国」宮本雄二、新潮新書、2023、p35
*55) 竹内照夫、1981、p318、p319
*56) 今道友信、p204-229。竹内照夫、1981、p320
*57) 「中国農村の現在」田原史起、中公新書、2024、p158-163、268-69参照
*58) 「論語」里仁編15
*59) 「論語」擁也
*60) 宮本雄二、2023、p31-32
*61) 山本尚、2020,p51-53
*62) 宮本雄二、2023、p34
*63) 『日本復活への道』「文芸春秋、2023.5」岡藤正広、p107
*64) 岡田英弘、2021、p88
*65) 「述語制言語の日本語と日本文化」日本語と英語の間、金谷武洋、2019、p293
*66) 菊池秀明、2022、p188―89、191-217
*67) 岡田英弘、2021、p22、113-16、122、129、322
*68) 田中克彦、2021,p108(ヘルムート・ギッパー「言語研究のための基礎」1963)
*69) 岡本隆司、2016、p163
*70) 「言葉は国家を超える」田中克彦、ちくま新書、2021、p114
*71) 英語会話のできない英語教師が当たり前だった背景に、その伝統があったと考えられる
*72) 「万物の黎明」デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ、光文社、2023,p359-60