第52回 「奄美大島名瀬(鹿児島県)」
世界自然遺産と郷土愛がつくるまち
薩摩藩の在外拠点としての名瀬
豊臣政権が朝鮮半島から撤退して11年後の慶長14年(1609)、南端の雄たる薩摩藩は琉球国に侵攻する。講和条約の掟十五条に基づき琉球国は薩摩藩の間接統治下に置かれることになったが、国境を接する奄美群島は慶長16年(1611)に割譲され薩摩藩の領土となった。ただし対外的には琉球国にカモフラージュされていたからややこしい。奄美地域を代表するのが群島最大の奄美大島だ。鹿児島から約380km離れており、現代もフェリーなら11時間かかる。鹿児島起点に日本地図を重ねると奄美大島は広島県東部にあたる(図1. 奄美群島、薩摩藩の版図と日本列島)。さらに沖縄は京都大阪、石垣島が東京都区部に重なることから雄藩薩摩の最大版図の大きさがうかがえる。現地支配の厳しさは「黒糖地獄」と称されるほどだった。元々米納だったが、延享2年(1745)の「換糖(かんとう)上納令」以降は黒糖で徴税することになった。さとうきび畑への転作が進み食糧自給が難しくなる。文政13年(1830)以降の惣買入(そうかいいれ)制によって、藩の販売事業が納税分を除く残余の黒糖を独占的にかつ安値で買い入れることとなった。藩は黒糖を大阪の荷受問屋に卸し、安値仕入による超過利潤を藩の収益源とした。藩は、島民から注文を集めて食料や日用品を小売する購買事業も扱った。ただし商品が割高なうえ、黒糖見合いの商品券「羽書(はがき)」で買うシステムだった。
黒糖地獄の背景にはこのような不公正取引の重なりがあった。幕末に至り、黒糖が富国強兵政策の財源として期待されたことから奄美に対する優越的地位の濫用の度が高まっていく。薩摩藩が外には薩英戦争、内には政権抗争を闘い抜き徳川家の下野後に連立与党の一角を獲得できたのには奄美の黒糖の貢献が大きい。
名瀬の中心の金久本町通
寛政13年(1801)、藩の出先機関の仮屋(代官所)が名瀬に移転する。奄美大島の「首都」としての名瀬の歴史が始まった。明治4年(1871)の廃藩置県で薩摩藩は鹿児島県となり、明治8年(1875)に名瀬の仮屋が奄美地域を統括する「大島大支庁」になった。旧藩の黒糖事業は不公正取引の体制のまま県設立の専売公社「大島商社」に継承されていた。旧藩時代と変わらない支配体制に異を唱えたのが、地元出身で英国から帰郷したばかりの丸田南里(まるたなんり)だった。丸田が指導した自由化運動「勝手(かって)世(ゆ)騒動」によって大島商社は解体に追い込まれた。旧弊の専売体制は終わったが、代わりに鹿児島や大阪から黒糖の買い付けや日用品の販売のために商人が来島した。商人たちは役所や船着き場に近い金久(かねく)本町通の界隈に店を出した。彼らを「寄留商人」という。明治44年(1911)の鹿児島県統計書には同年末時点の宅地の最高価格の場所として金久とある。3方を山に囲まれた名瀬の街だが、測候所近辺の標高が周辺に比べ僅かに高く、その「麓」が中央通りに沿っている。住所地としての「金久」は年代によって変遷があるが、およそ中央通りを含み、この道から西側、蘭館(らんかん)山の麓までが金久エリアといえるだろう。蘭館山は幕末に白糖工場を整備するため招へいした英国人技師が住んだ洋館があったことにちなむ。当時、欧米人を見ればすべてオランダ人と呼ばれていた。
大島支庁は明治の初めに金久の内陸に移り、明治40年(1907)におがみ山の麓の現在地に落ち着いた。当地最初の銀行も金久本町通の界隈にあった。明治25年(1892)に出店した大阪七十九国立銀行の支店だが、明治34年(1901)に破産。明治38年(1905)、同じく大阪に本店を構える浪速銀行が出店した。前身は島津家の関わりが深い第五国立銀行である。事実上の県域行で、鹿児島県内に拠点網を張り巡らしており、公金業務も扱っていた。その後、現在の鹿児島銀行の前身である第百四十七銀行が、大正6年(1917)、営業を譲り受けて同行大島支店とした。大正9年(1920)には鹿児島商業銀行の支店が開店した。『名瀬市誌』によれば、屋仁川通りと金久本町通が交差する東南角にあったが、昭和3年(1928)に第百四十七銀行に吸収された。
第百四十七銀行と同じ通りには百貨店の山形屋の支店もあった。明治30年代からあった親戚筋の山形屋衣服店の大島店を大正11年(1922)に転換したものだ。大島紬の仕入店を兼ねていた。
カトリック教会と奄美大島の関係
奄美大島にはカトリック教会が多い。鹿児島司教区の統計によれば、奄美大島には令和2年(2020)末時点で31の教会があり信徒数は3320人だ(現在の教会数は29)。これは島の人口の6%弱となる。信徒が多い北部(奄美市・龍郷町)に限れば7%弱だ。隠れキリシタンの潜伏地として有名な五島列島(長崎県)、中でも上五島地区の約25%には及ばないが、下五島地区や平戸地区の8%強とはいい勝負だ。全国ベースの信徒率が0.3%程度であることを考えれば奄美大島のカトリック濃度がいかに高いかがわかる。隠れキリシタンの歴史はなく、名瀬近郊の浦上に生まれ鹿児島で洗礼を受けた大工の臼井熊八が郷里でカトリックの教理を伝えたのが始まりだ。物心両面の近代化を期待した地元検事の働きかけもあり、誘致に応えるかたちで明治24年(1891)、パリ外国宣教会のフェリエ神父が当時の任地だった天草から名瀬に転任した。宣教して2年で信徒数は1500人になったという。
この時代の奄美大島にカトリックが浸透したのはなぜか。神への愛と隣人愛の教えは、奄美大島に3年住んだ大島三右衛門こと西郷南洲(隆盛)が会得した「敬天愛人」に通じる。檀家制度が未発達だった背景もあるが、勝手世騒動の熱狂が冷めきらぬ中、ローマ帝国の圧政下にあったユダヤ属州の民に自らを重ねたのかもしれない。福音書に「義のために迫害される人たちは幸いである」の一節がある。一部の島民に郷士格を与えて懐柔し、その他大勢の島民を支配させる薩摩藩の支配地経営は、家人(やんちゅ)という債務奴隷制度とともに島民の間に分裂を生んだ。利害を超えて互いを尊重する愛の教えは和解を進めるのに貢献したことだろう。
川沿いの永田町市場から中央通りへ
戦後、名瀬市街の一等地は金久本町通から中央通りに移った。昭和39年(1964)が初登場の路線価図を見ると、当時の最高路線価地点が中央通り(35千円/坪)だった。2番目が天文館通り(現在の奄美本通り)の坪当たり28千円で、郵便局から西の本町通り(元の金久本町通)の同24.5千円を上回っていた。地価の重心も永田川方面に移ったことがうかがえる。どのような背景があったのか。奄美群島は復帰を遂げた昭和28年(1953)まで米軍の統治下に置かれていた。金久本町通を中心に集まっていた寄留商人は終戦前からそれぞれの出身地に引き揚げていった。また、地価の重心が移った先には陸路の幹線である古見(こみ)本通りがあった。古見は名瀬南方にある地域名で、古見本通りは国道58号線の旧ルートの一部だった。鹿児島から那覇に至る国道58号線は大部分が海上にあり、奄美大島には赤木名(あかきな)から上陸し、名瀬から古見を通って南端の古仁屋(こにや)に至る。名瀬には、古見本通りを通って南北から野菜等の生活物資が集まってきた。古見本通りと並ぶ永田川の両岸には戦後の闇市が展開していた。図5. 移転集約前の永田橋市場のように一部の店は川をまたいで出店していた。いわゆる「戦後」が終わると河岸の店の整理が進んだが、一部は共同店舗に入居した。その名残で現在まで残るのが永田橋市場と末広市場である(図8. 現在の永田橋市場・末広市場)。
昭和47年(1972)の最高路線価地点は「末広町川三(かわぞう)商店前中央通り」だった。川三はワイシャツや学生服の店として現在も営業している。中央通りは島内唯一のアーケード商店街「ティダモール」で、令和に至るまで名瀬の中心であり続けた。また、本土と同じく名瀬にも大型店が進出した。売場面積は825m2と現代の感覚では小さいが名瀬初の大型店は昭和37年(1962)12月に出店した「まるはセンター」である。本店は鹿児島県鹿屋市にあった。昭和53年(1978)、熊本を本拠とし九州各地に店舗網を広げていた寿屋(ことぶきや)が名瀬に店を出す。中央通りと末広通りの2店3館に分かれていた。現在、まるはセンターの跡地は観光交流センターの奄美市AiAiひろば、中央通りの旧寿屋は地元スーパー「グリーンストア」になっている。
街の郊外分散の経緯
奄美大島は山がちで平野が少ない。両側の急峻な山麓で互いの往来が制限された谷間の集落は「シマ」と呼ばれた。もっとも、海上の「島」に喩えられた地理環境は昭和40~50年代に進められた沿岸の埋め立てで大きく変わった。図6. 広域図の地名のうち埋め立ててできたものを竣工順に挙げると塩浜、佐大熊(さだいくま)、小浜(こはま)、長浜、鳩浜、浜里および平松となる。埋め立て事業による新たな平野は車道とトンネルで結ばれ、互いに分散していた地域の一体化が進む。名瀬湾に沿って業務地が広がり公共機関や民間企業が移転した。中心街に対して北西の「上方(かみほう)」、北東の「下方(しもほう)」、南側の内陸(奄美)地区には郊外住宅地が広がった。街の拡大と一体化に伴って車社会化が進み、郊外店舗も増えてきた。郊外大型店のはしりが平成4年(1992)にオープンしたダイエーである。地元の開発会社のプラザ大島が、福岡を本拠とするユニードダイエーとフランチャイズ契約を結んだ。店舗面積は4153m2と小ぶりだが総合スーパーの存在感は十分だ。平成28年(2016)、イオンプラザ大島店に転換。
ダイエーの翌年にはタイヨー平田店が出店。現在は上方、下方、内陸のそれぞれに店舗があり、わざわざ買い物で中心街に上る必要がなくなった。タイヨーは鹿児島、宮崎県に展開しているスーパーだ。平成12年(2000)、「ビッグⅡ(ツー)」が名瀬の隣の龍郷町にオープンした。店舗面積は6,825m2と島内最大。総務省・経済産業省「経済センサス」によれば、令和3年の奄美大島の売場面積は48,843m2だった。ビッグⅡ、イオンプラザ大島、タイヨー浦上店の店舗面積を合わせると、奄美大島の売場面積の約27%となる。
最近は商圏の重心が国道に沿って龍郷町に移りつつある。名瀬から奄美空港に向かう道の途中にあるのが龍郷町だ。島内最大のビッグⅡは龍郷町、3番目のタイヨー浦上店は龍郷町との境界まで1.2kmの国道沿いにある。令和6年1月の地価公示では龍郷町瀬留玉里の地価上昇率が3.6%と住宅地で県内最高だった。他の地方都市なら東京に向かう玄関口は新幹線駅だが、奄美大島の場合は名瀬から東に30km離れた奄美空港である。昭和39年(1964)に開港し、昭和63年(1988)にはジェット機対応の新空港が現在地に開設された。平成4年(1992)には羽田空港に直行便が就航。開港から60年と長い年月をかけ、船から航空機への交通手段の変遷が街の構造にも影響を及ぼしている。
世界自然遺産登録の追い風
令和5年、最高路線価が「名瀬末広町中央通り」から「名瀬入舟町屋仁川(やにがわ)通り」に移った。金久本町通と直交する通りであることから、一等地が戦前に回帰したともいえる。今も昔もホテルと飲食店の集積地である。明治43年(1910)、当時の警察署が飲食店を屋仁川通りに集めて飲食店街となった。公示地価の基準地も最高路線価地点と同じ場所で、本年1月の前年比上昇率は県内の商業地で最も高い3.2%だった。路線価の水準は鹿児島市天文館に次ぐ県内第2位だ。背景にあるのが名瀬の集中度の高さだ。琵琶湖をひと回り大きくしたほどの奄美大島の人口は6万人弱だが、そのうち奄美市に4万人弱が住む。地理的に他の地域で代替できないため人口の割には都市機能が充実しており、財務省財務局の名瀬出張所をはじめ国や県の出先機関が名瀬に集中している。名瀬に本店を置く信用金庫、信用組合もある。地元新聞社は2紙ある。
上昇基調の背景は観光地としての集客期待だ。特筆すべきところでは令和3年(2021)7月、沖縄島北部、西表島、徳之島とならび奄美大島が世界自然遺産に登録された。亜熱帯多雨林、広大なマングローブ林、北限と南限の境目に展開する希少かつ多様な生態系が評価された。固有種も哺乳類はアマミノクロウサギの他7種、昆虫類等は700種近くある。
名瀬港ではウォーターフロント開発が進んでいる。埋立地のマリンタウン地区にはホテルが建ち始めた。奄美大島の伝統産業といえば黒糖と大島紬だが、輸入製品や洋装の影響で衰退した経緯がある。所得構成としては埋め立て事業やトンネル工事など土木建設や、公共工事を発注する側の「公務」(産業分類)のウェイトが高い。地理条件がゆえの必要性はありつつ、補助金はじめ財源の外部依存度の高さが課題だった。
こうした中、経済の自立に向けた戦略分野が観光だ。公共施設としては、市街地から車で15分ほどの距離に大浜海浜公園がある。夕日が美しいホワイトビーチが目玉で奄美海洋展示館(水族館)もある。休業中のタラソ奄美を含め、民間の資金と企画力を生かした一体的な再生が期待される。スポーツ合宿の誘致にも注力している。昨年に続き横浜DeNAベイスターズ2軍のキャンプ地となった。実業団の七十七銀行野球部も平成15年(2003)からほぼ毎年合宿している。
観光振興のポイントは、狭義の観光産業であるホテルや飲食店、土産物店の活性化にとどめず、観光を体験型のアンテナショップと位置づけ、移出経済の土台となる農水産物やその加工品を将来の定番商品に育成することである。無比の自然環境を生かした食品、デザインに独自性を求めた大島紬など新商品開発も集客に勝るとも劣らない課題といえる。
郷土愛と絆が原動力
奄美大島には大願成就に必要な天地人の3要素が揃っている。インバウンドをはじめとする観光の盛り上がりという「天の時」、世界自然遺産に認められた自然環境、本稿でも触れた歴史と文化の遺産が「地の利」だ。そして何より強いのが、苦難の歴史を共有するもの同士の「人の和」だ。旧藩時代の複雑な感情もつい1世代ほど前までは実際あったようだ。昭和61年(1986)の鹿児島県警『離島勤務の手引』に「鹿児島の方言を使っての日常業務は、離島各地においては、歴史的背景もあり大きな障害となっていることを肝に銘じておく必要がある」とある。考えるに「人の和」には3つの側面がある。1つ目は奄美大島に生まれ、住む人の郷土愛だ。地元大手の有村商事は大正11年(1922)創業の老舗企業で、元々大島紬や黒糖を扱っていた。現在は石油、酒類、米穀の総合卸を軸に、グループ会社でフェリー、ホテル、醸造、旅行、マンションなども手掛けている。多様化するニーズに自ら対応しようとすると自ずと多角経営になっていく。根底にあるのは「奄美群島の発展や文化の継承の一助になっていく」(同社webサイト)という情熱だ。大浜海浜公園と園内の奄美海洋展示館の運営を担う谷木材商行の祖業は建材卸である。一見脈絡のない多角化の背後には観光振興に対する代表の熱い思いがある。この他も本業の枠を超え、地元活性化こそが本業とばかりの企業が少なからずある。
文化の継承といえば、屋仁川通りの奥にある郷土料理店「なつかしゃ家」は、元教員が定年退職後、奄美の食文化を次代に継承する思いを込めて立ち上げた店だ。その経緯は店主の恵上イサ子氏の著『奄美ごはん』(東京ニュース通信社)に詳しい。
2つ目は、島外に住む奄美出身者あるいは島にルーツを持つ人の郷土愛である。去る4月末、奄美市役所で「奄美群島活性化応援セミナー」が開催された。財務省の主催、奄美市の共催で筆者も基調講演に登壇した。財務省(財政投融資特別会計)は様々な施設整備資金を自治体に融資している。地域金融機関と同じく融資先の財政をモニタリングし、経営アドバイスやマッチング等を通じて本業支援をしている。そして今般、「地域課題解決よろず支援」制度を立ち上げた。セミナーはその第1弾で、仕掛け人は理財局の大江賢造計画官である。大江計画官は奄美三世だ。また、東京奄美会の会長を務めていた大江修造氏(東京理科大学の元教授)の長男でもある。
東京奄美会とは奄美出身者とその縁故者で組織された13の郷友会の連合体だ。「奄美の島々から出て来て首都圏で暮らす人々がお互いに励まし合い、助け合い、郷土に何かあれば積極的に応援したいという志しを持った人々の集まり」である。明治37年(1904)に発足した歴史ある組織だ。同じような奄美会が中部、関西、神戸、広島、福岡、鹿児島など全国にある。傘下にある小単位の郷友会を考えると、そのネットワークはきめ細かく、かつ相当な規模であることは想像に難くない。
出身者の恩返し開業もある。前述のビッグⅡは鹿児島の大島紬「都喜ヱ門」で知られる藤絹織物の関連だ。出店は創業者の藤都喜ヱ門が名瀬で生まれ、修行したことにちなむ。今年4月、奄美市の西隣の大和(やまと)村(そん)に「奄美温泉 大和ハナハナビーチリゾート」がオープンした。島内初の温泉を目玉にプールやホテルからなる複合リゾート施設だ。運営会社の本社は東京だが、大和村出身の社長の故郷に対する思いが結実している。本件には自治体との公民連携案件の側面もある。施設スタッフの社宅を想定し大和村が「政策宿舎」を整備した。それも民間が資金拠出し30年にわたって維持管理を担うPFI方式で公的負担は少ない。
3つ目は島外の人たちの奄美大島への愛である。昭和スタイルの永田橋市場、末広市場にはIターンした若手事業家がカフェや雑貨店を開店している。地元FM局「あまみエフエム・ディ!ウェイヴ」(77.7MHs)もスタジオを構えるオシャレ空間となった。Iターンとはいえ、配偶者や近しい友人が奄美大島出身のケースも多そうだ。離島生活への憧れだけでなく、仕事上であれ島での社会関係が移住において重要なポイントであることが見て取れる。2月に開店した島ドーナツの店「あまみ家とっと」もU・Iターンである。
龍郷町にコンサルティング事務所を構える「オフィス青音(あおん)」代表の中村安久氏は鹿児島県霧島市の出身。鹿児島銀行大島支店の38代目の支店長だった。次の任地の県庁支店時代に銀行を退職し、大島支店の取引先だった町田酒造の社長になった。同社は黒糖焼酎「里の曙」の蔵元で、当時は後継者難に悩んでいた。就任後、働き方改革を進め、商品力を高めては国際賞を獲得するなどした。再生が軌道に乗ったところで社長業を後身に託して独立。現在は島内企業37社の本業支援、地域シンクタンクを通じた政策提言などを通じ、奄美の発展や文化の継承に取り組んでいる。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
図2.市街図
図3.3方を山に囲まれた名瀬の街
図4.カトリック名瀬聖心(みこころ)教会
図7.昼の屋仁川通り
図9.末広市場の内部(「あまみ家とっと」の前)