評者 財務省大臣官房財政経済特別研究官 名古屋大学客員教授 佐藤 宣之
依田 高典 著
データサイエンスの経済学 調査・実験、因果推論・機械学習が拓く行動経済学
岩波書店 2023年10月 定価 本体3,400円+税
(一橋大学に72年ぶりの新学部)
データサイエンス、ESG等の時流ワードに鈍感な評者も、昨年度新設された一橋大学ソーシャル・データサイエンス学部の設立趣旨「(前略)社会科学の知見のみでは、ビジネス上・政策上の課題解決や意思決定を、不十分な材料により行わざるを得ません。そして、データサイエンスの知見のみでは、解決可能な社会課題の範囲が、既存のデータで扱いうる課題に限定されてしまいます。(後略)」を読んで重い腰を上げ、財務省図書館の新着図書コーナーに偶然並んでいた本書を手に取った。京都大学経済学部教授の著者曰く、経済学教育は「ミクロ経済学」「マクロ経済学」「計量経済学」を3本柱としてきたが、ラボ・フィールド実験で経済現象を探究する「実験経済学」と実験や心理学の知見も生かして経済行動を探究する「行動経済学」とを包含するデータ重視の「実証経済学(empirical economics)」を4本目の柱とすることを提唱したいという。著者は昨年度末までの学部長在任中に第二外国語を非必修化する代わりに、データサイエンスの必修化を決めた。
(実証経済学の最前線)
著者は、巷には貴重なデータの存在を前提とした分析技法の書物は多いが、データ収集の勘所を詳しく説明する書物は少ないので本書を執筆したと語る。以下、本書の概要を記し、以て著者周辺で偶然と必然とが折り重なりつつ発展を続ける実証経済学の最前線に誘いたい。離散選択分析 著者が財務データを用いた公益事業の費用関数研究の意義に疑問を感じていた2000年代初頭、「電気通信事業分野における競争状況の評価」に着手する総務省から協力依頼が舞い込み、研究分野の「転向」を決意する。当時の5タイプのインターネットサービス(以前主流の「ダイヤルアップ」と「ISDN」、当時主流の「ADSL」、地方で手堅い「CATV」、現在主流の「光通信」)について、アナログ調査に代わりつつあったWEB調査で消費者アンケートを行い、「離散選択分析」で分析した。その結果、当時巨大市場のADSLの価格が上昇してもADSLの需要は余り低下せず、消費者がADSL内でサービスを変更していると結論付けた。
コンジョイント分析 著者は総務省プロジェクトで得た知見を生かすべく、2005年頃より時間選好(直ぐ得られない大きな報酬よりも直ぐ得られる小さな報酬を優先する態度)と喫煙の関係を「コンジョイント分析」で分析した。その結果、非喫煙者に比べ喫煙者特に高度喫煙者は時間選好率が高い一方、非喫煙者の中では生涯非喫煙者に比べ過去喫煙者は時間選好率が低く、禁煙成功が忍耐力を高める関係が示唆された。さらに、嗜癖が複数対象に跨がるクロス・アディクションについては、喫煙と飲酒、パチンコと競馬に相互依存性が認められる一方、喫煙と競馬、飲酒とパチンコに意外にも相互依存性が認められず、それぞれ競馬場での喫煙規制、パチンコ店での飲酒規制が背景にあると推測された。
RCT 著者が次のテーマを探し始めた2010年、経済産業省の誘いで節電のフィールド実験に参画した。当初は関係者も多く中々進まなかったが、2011年の東日本大震災で節電が待ったなしとなり一転加速する。元々医療で発展し「因果性識別の最強の道具」と言われる「RCT」を全国4地域で実施することとなり、日本初の大規模フィールド実験と相成った。関西文化学術研究都市のフィールド実験では、経済的インセンティブを伴わない働きかけである「ナッジ」の効果の世界初の検証として節電要請を試行し、節電要請の効果は持続しないが短期的には生じ、かつ一定時間をおいて節電要請すれば効果を繰り返せるとの結論を得る。横浜市のフィールド実験では「変動料金」を試行し、海外の先行事例と同様、情報不足や変更コストに起因する現状維持行動である「デフォルト・バイアス」が手強く、固定料金から変動料金への移行が一筋縄では行かないことを確認した。
ポリシー・ターゲッティング 従来の経済学は説明変数と被説明変数との相関関係に着目したが、RCTを用いたフィールド実験の普及で介入と効果の因果関係が重視されるようになった。ただRCTでは介入効果の平均しか計算できない。最近、因果性判定に長けるRCTと予測能力に長ける機械学習との融合で個人毎の介入効果を予測する新手法が提案され、社会厚生最大化を目的関数として介入を最適に割り当てようとする「ポリシー・ターゲティング」への応用が試みられている。ポリシー・ターゲティングに関する新研究テーマを温めていた著者を含む日本人研究者は2020年より環境省プロジェクトとして、中部・近畿地方を中心にした大規模なフィールド実験を通じて、節電リベートを一律にすべきか希望世帯に限定すべきかを「経験厚生最大化」と名付けた新理論で検証した。その成果を国際的学術誌に投稿中である。
(日本人初の「アレ」の可能性)
著者は昨年1月のインタビュー記事で個人毎の介入効果について「次の10年から20年以内には、ほぼ確実にこの分野にノーベル経済学賞が授与されることになると思います。」と発言した。この分野をリードする著者を含む日本人研究者に日本人初の「アレ」が授与される可能性は低くないと評者は期待を込める。著者はまた、RCTを用いたフィールド実験は特別なプロジェクト化を要するので若手研究者が容易に実施できない、RCTを用いないで因果性を識別できる新しい分析手法の開発が求められるがそれがどのようなものか見当が付かないと述べる。評者も思い付きの域は出ないが、今注目の「圏論」が本件でも役立つと信じたい。
(悔しいけど美味しい)
本書に引き込まれるのは、経済学及び著者の裏事情も包み隠さないからだろうか。経済学以外の研究者は「経済学は何をしてきたのか。大事な第二外国語以外に削れる科目があるだろう。」と感じるかもしれない。著者も総務省プロジェクトについて、参考事例も少ない中での人生初のアンケート調査で質問票の表現も含め反省も多いと率直に認める。しかし、改良を重ねたアンケート調査と分析手法はGAFA等の市場支配力の判定にも使用されるまでに進化した。
私事に亘るが、今後の発展が見込まれる実証経済学のツールを以て、様々な日本酒の中、個性ある生産者が醸す「あの日本酒」に限って「悔しいけど美味しい」と感じるメカニズムが解明される日も来るのだろうか。