国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇
漢字を日本語化した日本
日本語の豊かな言語空間になくてはならないものが漢字だ。漢字はすっかり日本語の一部になってしまっている。それは、日本人が様々な工夫を行うことによって漢字を日本語に取り込んできたからだ。日本人は、日本語にだけある助詞や助動詞、活用語尾、固有名詞などを表すために、漢字の意味を捨てた日本独自の万葉仮名を創り出し、それを「ひらがな」「カタカナ」に進化させていった*1。「ひらがな」は漢字を崩したものから、「カタカナ」は漢字の部首から創り出されたものだ。さらに、漢文に訓読みも導入していった。そのようにして、日本人は日本語の中に漢字を融通無碍に取り込んで、話し言葉と書き言葉が融合した豊かな表現方法を創り出していった*2。文字学者のスティーブン・ロジャー・フィッシャーは、漢字と2種類の仮名という3つの文字を使い分ける日本語は、おそらく現存の文字システムの中で最も複雑だとしているが*3、その日本語を使いこなしているのが日本人なのである。実は、漢字文化圏の中で漢字をそのように自国語化して使いこなすようになった国は日本だけだった*4。中国大陸に王朝を打ち立てた蒙古族や満州族、北方に王国を造った五胡十六国の各民族の中には独自の文字を持つ者もいて、彼らは自分たちの公文書には自らの文字を用い、統治のためには漢字を用いるといった使い分けを行っていたが、自らの文字に漢字を取り込んで自国語化するようなことはしなかった。
日本に漢字をはじめ多くの中国大陸の文物を伝えた朝鮮半島では15世紀に独自の文字であるハングルを創り出したが、そこに漢字を取り込むことはせず、またそれを公文書に利用することもしなかった。ハングル(訓民正音)は、漢字が読めない庶民でも朱子学の漢籍を正しく発音できるようにしようとの考えから創り出されたものだったからだ。と言われても分かりにくいが、当時の朝鮮では、人間の発する音声は単なる音ではなく万物の真理が込められていると考えられていた。儒教を国教とした李氏朝鮮では、朱子学の漢籍を庶民にも正しく発音できるようにすることが、正しい政治だと考えられていた。そこで、民に正しい音を訓(おし)えるというので「訓民正音」と呼ばれるハングルを創り出したのだ。そこには朝鮮の言語をハングルで記述しようという意図は全くなく、公文書をはじめとした全ての文章は、それまでと同様に漢文のままだったのである*5。
仮名の誕生
わが国の万葉仮名は、一朝一夕で誕生したわけではない。まずは、表意文字である漢字を下敷きに、その一語一語に意味が対応する倭語を探し出してきて置き換える、対応する倭語が無ければ倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味を無理やり持たせるといった作業が行われた。初期の万葉集では、倭語の単語を意訳した漢字を、倭語の語順に従って並べるだけで、語尾の変化を音訳漢字(意味のない漢字)で送ったりもしていなかった。それは漢文の一種と言ってもよいものだった。それが、第2段階では、音訳漢字が登場して意味のある漢字(意訳漢字)と意味のない漢字(音訳漢字)の組み合わせによって動詞の変化語尾を表現するようになり*6、第3段階で音訳漢字のすべてが1音節1漢字となるような万葉仮名が完成したのだ。そのようにして漢字を離れた、つまり意味のない漢字となった万葉仮名を読むのを聞いただけでわかる、漢語から独立した国語が成立したのだ*7。そんなことをした民族は、漢字文化圏の中で日本人だけだった。それを、1200年以上も前の日本人が成し遂げたのである。岡田英弘氏によれば、そのような万葉仮名の創られ方は今日のマレーシア語の創られ方に似ているという*8。戦後、マレーシアが独立した時、マレーに住む人々が共通に話す言語はなかった。マラヤの原住民はオーストロネシア系の言語を持っていたが、そこに、マレー語を話すマレー人が移住してきた。16世紀には、ポルトガル人が最初の華人を連れてきて、その後、英国が互いに言葉も宗教も違う広東、客家、潮州、海南の華僑を連れてきた。さらにドラヴィダ系のタミル語を話すインド人も連れてきた。そのように共通言語がなかった上に、いずれの言語にも近代的な事物を表現する語彙も、論理的な表現に適した文体もなかった。その状態で、マレー語の文法の基礎的な骨組みだけを残して、英語を基礎に新しいマレーシア語(バハサ・マレーシア)が創られていったのだという。それは、マレー語の皮をかぶった英語と言っていいものだった。当初の万葉集の歌が、漢文の一種だったというのと同じだ。万葉集が成立したころの日本には、マレーシアの英国人の代わりに漢人が入ってきており、日本語の皮をかぶった漢文から始まって万葉仮名が創り出されていったと考えればわかりやすい。そのようにして創られたマレーシア語は、まずは民族的な歌と踊りで普及していったという。ちなみに、近代ヨーロッパの言語も、先ずは古典のラテン語があってそれにおんぶして出来上がっていったとされている*9。
そのようにして創り出された仮名の文化で今日忘れらてしまっているのが変体仮名の伝統である。仮名の「仮」の中国語の元の意味は「偽」だ。「仮病」にその痕跡が認められるが*10、「偽」のものゆえに新たに勝手に創り出しても誰にも文句を言われなかった。そこで、江戸時代までは様々な漢字からたくさんの変体仮名が創り出され、その数は322種類にも上ったという。変体仮名には、書きやすく、また美しく見えるようにということで様々な「くずし字」が工夫され、状況に応じて選択された。そのような変体仮名は、それ自体が美術品で、様々な工芸品に主役あるいはわき役として登場した*11。ちなみに「偽」である仮を面白がる日本の文化には、人間を動物に擬した鳥獣戯画や、秘所をそのものの寸法以上に大きく描いた枕絵なども含めることが出来よう*12。そのような自由な創意工夫として発展していた変体仮名が失われてしまったのは、明治33年に明治政府が学校教育で仮名を一種類に統一したからであった*13。それは「文明開化」の為に国民により効率的に文字を学ばせようと、漢字の字数を絞っていったのと同じ発想からのものだったが、日本文化がもっていた「ダイバーシティー」の多くを失わせてしまったうらみなしとしない。
訓読みの導入
仮名の発明に加えて、漢字の日本語化を推し進めたのが訓読みの導入だった。訓読みは、今日の日本人にとってはあまりにも当たり前で、その持つ意味が分からなくなってしまっているが、それは英語の“defense”を「ふせぐ」と読ませて日本語の中に取り込んでしまうというような奇想天外なことだった。訓読みの導入後、日本古来の和語も次々に漢字で表わされるようになり、さらには漢字を組み合わせたたくさんの和製漢語が誕生していった。例えば、「敷金」や「縁組」は和製漢語だ*14。万葉集では、「餓鬼」を「お餓鬼」「め餓鬼」というように和語の「おのこ(お)」と「めのこ(め)」に漢字(餓鬼)を合体するような用いられ方もしている。そのようにして、漢字がすっかり日本語化していったのである*15。日本語の特徴としてダジャレ、ギャグなどの言葉遊びが盛んなことがあるが、それは漢字をその意味に従って日本語読みにする訓読みの導入がもたらしたものだった。仮名の発明で表意文字である漢字の意味を捨てながら、わざと漢字の意味を拾って臨機応変に漢字を「訓読み」して遊ぶようになったのだ。万葉集の時代には、「二八一」と書いて「二(に)八一(くく)」と読ませたり、「山上復有山ば」と書いて「出(いで)ば」と読ませたりしていた*16。「無学漢」を、「わからずや」と自由自在にフリガナを付けたりしていた。奈良時代までの漢語は主に仏教関係に限られていたが、そのような言葉遊びが行われるようになった中で、現在よりもはるかに多くの「やまとことば」が漢字化されていった*17。万葉集では恋を「孤悲」と書いたりしていた。恋とはひとり悲しむことといった面白い認識をそこに見出すことが出来よう*18。それは、仮名が「偽」であるがゆえに元の漢字の「正当性」に縛られない自由な日本語の世界が繰り広げられるようになったということだった。リービ英雄氏によれば、それは漢字という異質なものを日本語に同化した日本人が行った独特の創意工夫だった*19。
そのように漢字が日本語化されていったのだが、今日でも漢字には元々のニュアンスが残されている。例えば、仮名の「こころ」と漢字の「精神」は同じものにはなってはいない。ほぼ同じものを指すが、印象として仮名では具体的、漢字では抽象的な感じになる*20。それは、夏目漱石の小説「こころ」の標題を「精神」にしたらどうだろうかと考えてみれば分かることだ。そこには、新しい文明を取り入れながらも先祖が築き上げてきた伝統を尊重するという日本の文化がある。その伝統は、例えば和歌における「本歌取り」にも生かされている。本歌取りについて、資生堂の名誉会長だった故福原義春氏は「もとの作品の存在を明らかにし、それに対する敬意を払いながら、独自の趣向を凝らすところが、単なる模倣(コピー)との決定的な違いである」としていた*21。お茶の道具でも「写し」といって、過去の名人の作品の模倣であることを明らかにしながら優れた作品を創り出すことが行われている。先祖の伝統を尊重するということでいえば、漢字について呉音、漢音*22というように歴史的な読み方を保存しているのは日本だけだ。漢字の本国の中国でも読み方は時代によって変遷してきて過去の読み方は忘れられてしまっているのに日本はそうしているのだ。
そのように漢字を縦横無尽に日本語化してきた日本は、今日まで漢語以外の外来語もそのまま受け入れたり、時によって新しい言葉を創り出したりしてきた。その結果、日本語には和語、漢語、外来語が混在し、圧倒的に語彙量が豊富になっている。今日、語彙が豊富なのは、ラテン語やギリシャ語から多くの語彙を取り入れた英語とされているが、その英語と較べても日本語の語彙量はほぼ倍だ。英語は5000語をものにすれば9割の文章が書けるようになるが、日本語ではその倍の1万語でようやく9割程度が書けるようになるというのである*23。
漢字を日本語化した日本の文化の発展
仮名や訓読みにより漢字を日本語化した日本では、文字による自由闊達な表現が可能になり、多くの人が文字に親しむようになった*24。平安時代には漢文や漢詩と並んで人々の心情を読み込む和歌の世界が大きく発展していった*25。それを支えたのが「ひらがな」だった。当時の宮中には、夜通し起きている庚申待ちという文化があり、その場で女房たちが物語を語り合い和歌を読むことが行われていたが、そのような場からは「虫めづる姫君」のような様々な短編を集めた「堤中納言物語」などが創り出されていった*26。ひらがな文は、日常使っている話し言葉を基本とする文章の作成という素晴らしいことを可能にし、自分の感情や考えをつづった「蜻蛉日記」や「枕草子」が生まれた。それまで口語りで伝えられてきた「竹取物語」や「伊勢物語」などの物語が文字化された。また、宮廷文学の最高傑作とされる「源氏物語」が生まれた*27。「源氏物語」は、和歌(韻文)で使う掛詞、縁語、本歌取りなどの技法を散文に巧みに取り入れた優れた文学作品だった*28。平安時代後期、鎌倉時代初期に書かれたとされる「有明の別れ」は、隠れ蓑を使って透明人間になった姫が、男装をして活躍するという、今日でいえばSF(サイエンス・フィクション)の物語だった*29。男性も「伊勢物語」(作者不詳)を著し、西行はすぐれた和歌を詠んで人々に影響を与えた。漢文で、多くの貴族が「小右記」などの日記をつけるようになった*30。平安時代末期には、ひらがな文では読みにくいというので、漢文の訓読で用いられていたカタカナを用いた漢字カナ交じり文が生まれ、そこからは「今昔物語」のような仏教の説話文学が誕生した。鎌倉時代には、「平家物語」のような戦記文学や「愚管抄」などの史論書が誕生した。江戸時代の武家諸法度は、最初、漢文で記されていたが、家光の時代にカナ交じり文に改められた*31。江戸時代には、「浮世風呂」のような庶民の話し言葉をできるだけ忠実に写した文学作品が登場し、多くの書籍が刊行された*32。また、庶民が楽しむ詩である俳句や狂歌、川柳が盛んになった*33。そのような江戸時代の庶民の文字文化を支えたのが寺子屋で、普通の庶民までもが文字を読むという当時の世界では例のないことが実現した。その状況が、世界に例を見ないような幕末における豪農や豪商をも含めた草莽の志士たちの活躍*34の背景となり、明治維新につながっていったといえよう。
江戸時代には、漢文をそのままでほとんど日本語にしてしまう訓読法も開発された。それまでの訓読はお経の読み方に近いものだった*35。それに荻生徂徠が日本語でも分かるような一種のルビ(左訓*36)を付ける工夫を行い、さらに宇野明霞といった儒者が日本語への「口語訳」といってもいい訓読法を工夫していった*37。そのようにして訓読された漢文は、独特のリズム感の下に一般民衆でも理解可能な日本語文になった*38。その結果、漢文を読む「読書」が、一般民衆にも広く普及していった。文芸評論家の中村真一郎*39氏によれば、明治の初め、文字通り無学な田舎の少女だった中村氏の外祖母が、子供だった中村氏に台所に立ったまま荻生徂徠の「日本外史」をえんえんと暗唱して聞かせてくれたという。そのような中で、漢文を読むのは儒学者だけではないという変化が起こり、それが、明治以降の漢文の発展につながっていった*40。
明治になって、まず公用文の主流になったのはそのような漢文訓読体だった。実は、江戸時代の公用文は候文で、候文はほとんど言文一致になっていた。それが、明治になって使われなくなったのは明治維新政府が、武士階級によって用いられ、敬語を使いこなしていた候文では四民平等の時代にふさわしくないと考えたからだとされている。福沢諭吉が、「学者職分論」の中で述べていることである。ちなみに、福沢は自らの著作の中では、孔子にも天皇にも敬語を用いなかった。「学問のすすめ」にも「文明論の概略」にも敬語表現はなかったのである*41。
日本人と歌
漢字を日本語化して自由闊達な表現を可能にした日本では、生活の中での歌が盛んになっていった*42。今日、毎年宮中で行われる歌会始においては和歌の朗詠が行われるが、和歌も漢詩も本来まずは耳で聞くものだった*43。日本では、貴賤を問わず生活と歌や踊りの間には隙間がほとんどなかった。男女がお祭りなどの際に集団で恋の歌を歌いあう歌垣の伝統があり*44、「わらべ歌」や「数え歌」などが生まれていった*45。歌に合わせた踊りも盛んだった。それらに熱中した高貴な人としては、平安中期に流行った今様に熱をあげた後白河院などが知られている*46。室町時代末期には、乱世になる中で歌や踊りが流行した。小歌を集めた「閑吟集」が編まれた*47。江戸期には、都都逸、端唄、大津絵節、ちょんがれぶし、あるいは祭文、説教浄瑠璃といったものについて多種多様な「唄本」が出版された。幕末には、「ええじゃないか」の踊りが大流行した。そのように日本人が、古くから広く歌に親しんできた割には、その作者はほとんど伝えられていない。バッハやベートーベンといった作曲家の名前は残されていないのだ。それには、ほとんどの歌が庶民の間での自然発生だったことに加えて、個人によって創作される邦楽が室町時代以降、男性盲人の互助組織である「当道座」によって創られるようになったことがあった。すなわち、盲人による創作は口伝での伝播、伝承で、しばしば集団作曲になったため、特定の個人がプレイアップされることがなかったのである*48。
近年になっても、明治期には北原白秋の歌などが大流行し、大正期には世界に類例のない子供を対象とした表現運動として多くの童謡が作られた*49。明治から、大正、昭和まで徳島に住んでいたポルトガル人の作家は、「日本人は歌ばかり歌っている」とびっくりしていたという。大工はトンカチを叩きながら、お母さんは洗濯をしながら、行商人は商いをしながら、子供は学校の行き帰りに歌っていたという*50。風呂に入っても「うなる」人が多かった。それがなくなっていったのは、1923年の関東大震災以降で、同時期にレコード会社が設立され、ラジオが開局したことの影響が大きかったとされている*51。それと、学校で童謡をあまり教えなくなったこともあったと思われる。そのようにして日常生活で歌に親しんできた伝統が失われていったのだが、日本人が歌に親しんできた伝統は、今日のカラオケ文化に生きているといえよう。
欧米語との邂逅
明治期に、日本語は欧米語と邂逅し、それへの対応を迫られることになった。そこで行われたのが、漢字を用いての欧米語の翻訳と、欧米語を下敷きにした新しい日本語の創出であった。まず行われたのは欧米語を漢字に翻訳して日本語に取り込むことだった。それによって、日本語での高等教育が可能になったのである。実は、日本と中国以外のアジアの国々では、今日でも高等教育は欧米語でしか行えないのが一般的だ。欧米語を自国語化できなかったからだ。それを、日本がいとも簡単に漢字を使って行ってしまったのは、かつて漢字を日本語化していった伝統からのものだった*52。中国は、そのように日本が漢字化した欧米語を逆輸入して高等教育を行うようになっているのである。英語を漢字に翻訳する際には、individual→個人、nature→自然、right→権利というように必ず2語の漢字に翻訳されたが、それは漢字の持つ豊かな意味包含力を利用しながら、たった2語で新たな概念を創り上げてしまうという伝統的な造語法*53によるものだった。なお、カタカナに翻訳された言葉はいつまでたってもカタカナで表わされている。例えばコンピュータである。そのように臨機応変に、外国語が日本語の中に取り入れられていったのである。新しい日本語としては、文法構造のはっきりした欧米言語を基礎として、散文の文体が確立された*54。漢字を日本語化した日本では、「万葉集」以来、情緒を表現する韻文は素晴らしい発展を遂げていたが、論理的文体の散文は確立していなかった。漢文については、次回に説明するが、名詞と動詞の区別もなく、語尾変化もなく、字と字の間の論理的な関係を示す言葉もなかったため、散文の文体の基礎にするのには無理があったからである*55。「5箇条の御誓文」は、漢文訓読体だったが、それで日常の散文を綴っていくのには無理があった。当初、明治維新政府は、公用文に漢文や漢式和文を用いていたが、やがて漢字カナ交じり文を採用して*56、それまで漢文や漢式和文が権威のある文体だとされていたのに終止符を打った*57。そのような中で、新聞や教科書には、俗語や日常よく使われる漢字を取り込んだ漢字カナ交じり文である「普通文」が採用された。それは、まだ一種の文語文だったが、やがて言文一致体が採用されるようになっていった。言文一致体の採用は、教科書では明治36年から、新聞では大正10年から、公用文では戦後のことだった。
ただ、言文一致体の確立への道のりは必ずしも容易なものではなかった*58。当初の言文一致体では、地の文の記述の客観性を確保するのが難しかったからである。と言われても、ちょっとわかりにくいが、常に「世間」の中で話す日本語を書き言葉にした場合、単に自分が思っていることなのか、客観的な事実を述べようとしているのかの区別がつきにくかったのである。そこで、言文一致が試みられても一時は幸田露伴の雅俗折衷体や森鴎外の雅文体などの一種の文語文の復活が見られたのである*59。英語を公用語にしようとの提案を行った森有礼は、当時の言文一致体の日本語よりも英語でのほうが容易に文章を書けるとしていた*60。それを打破したのが、尾崎紅葉による「である」の使用だった。「である」は元々公の場で用いられていた言葉だったが、「である」が使用されるようになって以降、その時の気分に従って主観的に断言したいときは「だ」を使い、語りかけたいときは「です」「ます」を使い、客観的に述べたいときは「である」を使うというように、その使い分けによって書き手の呼吸のリズムを自在にあらわせるようになり、言文一致体の文章が違和感を持たれない文章になっていった。その完成形が、二葉亭四迷の「浮雲」であった*61。ちなみに、本稿も「である」を使用して記述している。そのような言文一致体の完成によって、書くための特別の言語(江戸時代の候文)や文法(漢文訓読法)が不要となり、誰でも散文を容易に書けるようになったのである。そして、そのような欧米語を下敷きにした新しい日本語の創出にともなって登場してきたのが「主語」だった。文学では「世間」の中の「私」を描く「私小説」のジャンルが誕生した。それは、「主語」の登場がもたらした欧米文明の影響による日本人の心の葛藤を描いた日本独自の文学だった。そのような中、西田幾太郎をはじめとして多くの識者が日本語にも「主語」があると思い込むようになったのである。
古典が読めなくなった日本人
今日、言文一致体が当たり前になって散文の文体が確立しているが、他方で古典が読めなくなって伝統文化からの断絶が生じるといった問題が生まれている*62。古典は文語で楽しむのが一番だ*63。源氏物語や枕草子も、やはり文語で読んでこそ本来の味わいが楽しめる。それは、能や狂言がそうであるように、文学も「舞台の上」の世界として楽しむことによって本来の姿が味わえるからだ。古典を読めなくなったことによる伝統文化からの断絶は、伝統文化を踏まえた「文豪」がいなくなり流行作家ばかりという現象をもたらしているといえよう。ちなみに、明治時代の言文一致運動は、欧米の言文一致運動の影響の下に始まったものだったが、欧米の言文一致運動では、伝統文化からの断絶の問題が意識されることはほとんどなかったという*64。言文一致運動が始まったルネサンス以前のヨーロッパには、日本の平安時代や鎌倉時代の文学にあたるようなものはほとんどなかったからだというのである。
ただ、今日の日本人のほとんどが古典が読めなくなったといっても、漢字が読めなくなったわけではない。そこで、ちょっと学べば古典をそれなりに読むことが出来るようになる*65。それは、韓国のようにハングルで統一した結果、漢字をほとんど失ってしまった国とは異なっている。漢字文化圏で最後まで科挙制度を守っていたベトナムも、今日の言語はローマ字化されてしまって漢字文化を失ってしまっているが、そことも異なっている。漢字文化とは何かといえば、一語一語の漢字が持つ歴史に根ざした意味内容だ。漢字は表意文字で、辞書を見れば示されている本来の意味を持っており、そこには日本で埋め込まれたものも含まれている。ただ、それが読まれるときに必ずしも意識されているわけではない。それは、人の名前がかな書きになっても問題がないことを考えれば分かることだ。本来の意味は、読みの背景に隠れてしまうのだ。そこで、ローマ字化したり仮名だけにしたりしてもいいではないかという考えが出てくるのだ。しかしながら、隠れてしまうから忘れてしまっていいかといえばそうはいかない。ローマ字化したり仮名書きだけにしたりしてしまうと、親が子の名前を一生懸命に考えて付けたという事実が抜け落ちてしまう*66。隠れていても、その背後には表意文字としての漢字の大きな存在があるのだ。
実は、日本でも明治維新期に、初代の文部大臣だった森有礼が西欧諸国に追いつくためにと漢字を捨てて英語を公用語にしようと提唱したことがあったがうまくいかなかった。終戦後には作家の志賀直哉がフランス語を公用語にせよと主張したが、ほとんど賛同を得られなかった*67。GHQからの日本語をローマ字化しようとの動きもあったが実現しなかった。漢字を自国語化して、発音される言葉の背景に漢字本来の意味だけでなく日本で埋め込まれた意味をも持たせてきた長い伝統を持つ日本では、漢字を捨て去ることなど出来るはずもなかったのである。なお、言文一致で伝統文化からの断絶が生じて「文豪」がいなくなったといっても、今日の日本語の下でも優れた作家は次から次へと誕生している。漢字を自国語化してきた日本では、多くの人が古典が読めなくなっても、欧米語をも自国語化した新たな日本語を活用して日本語の文化をさらに発展させていっているのである*68。
同音異義語が多い「日本語の力」
漢字に漢字本来の意味だけでなく日本語の意味も埋め込んできた日本語には同音異義語がたくさんあり*69、「話し言葉」と「書き言葉」の間には、諸外国の言葉にはない緊張感がある。それは、ワープロの漢字変換を考えてみれば分かることだ。諸外国の言語ではボキャブラリーの選択があるだけなのに、日本語では漢字変換の作業が必要になる。それは、社会科学の論文でまず行われる言葉の定義をそのたびに行っているようなものだ。その神業のようなことを、日本人は日常不断に行っているのだ*70。その日本語の神業のような情報処理が、脳でどのように行われているかと言えば、漢字の読みに加えて漢字の持つ視覚的弁別機能を活用しての処理が行われている*71。話された言葉の音声だけでなく、その元の漢字をイメージして言葉の意味を瞬時に確定しているのだ*72。例えば、「きのう」には、機能、昨日、帰納、帰農というように多くの同音異義語があるが、これらを元の漢字をイメージして区別しているのだ。それは、日本語が大変ビジュアルな言語だということを意味している*73。
そのような複雑な情報処理を行って豊かな文字文化を開花させてきたのが日本人なのだ。実は、緊張感があるといっても、漢字かな交じり文は、ひらがな文やカタカナ文の2倍も早く読める。長い文章も思いのままに楽に書ける*74。目で見た漢字が意味の把握に役立つからだ。日本語の持つそのような視覚的弁別機能は、スマホの絵文字の開発にもつながったとされている*75。実は、文字というものは、筆画が多く複雑であるほど覚えやすく、見分けやすく、意味が分かりやすいという。簡単にすればするほど意味が分かりにくく、使いにくくなるという。日本語に同音異義語が多数あり、漢字かな交じり文という複雑なシステムになっているのに、古くから世界最高の識字率になったのは、そのおかげともいえよう。
ちなみに、脳には複数のタスクを同時に実施する能力があるという。「言語の力」という本の中で、ビオリカ・マリアン氏が述べていることで、バイリンガルになるとその能力が増幅されるので、創造性が向上するという。それどころか、アルツハイマー病の罹患率が低くなり、また、他人が自分と違う信念を持っていることを子供のころからよく理解するようになるという。バイリンガルになることが脳に複数のタスクを同時に実行させることにつながり、より効率的なコントロールシステムを発達させるからだという*76。日本語における同音異義語の判別も、それと同じ働きをしていると考えるここができる。とすれば、そのような日本語は、日本人の創造性を向上させるとともに他者を尊重する文化をはぐくむ「言語の力」を持っているといえよう。日本が人口割の出版物数で世界最大を誇ってきたのも、そのような「言語の力」によるものだったといえそうである*77。
漢字文化圏とは何か
最後に、次回への予告編として、漢字文化圏の各民族の言語と相互のコミュニケーションについて見ておくこととしたい。漢字文化圏の各民族の言語は、それぞれ独自のもので、欧州の各言語のようにギリシャ語やヘブライ語といった祖先形(語源)をもっていなかった。英語やフランス語で多くの語彙が共通するといったように互いに影響し合うこともなかった。そのような中で、相互のコミュニケーションに漢字が用いられ、文化の交流も行われていた。漢字文化圏の各民族は、満州語、女真語、ウイグル語、朝鮮語、ベトナム語、福建語等々の独自の言語を持っていたが、王朝の統治には漢字が用いられていた。例えば、清朝を建国した満州族の公文書は満州語だったが各地域の統治には漢字が用いられていた。東京大学の川島信教授によると、今日、中国の歴史学者で紫禁城に保存されている満州文字の清朝の公文書を読める人はほとんどいなくなっているという*78。それは、漢族の創ってきたこれまでの歴史書に描かれている各民族の歴史には、その一断面しか描かれてこなかったことを意味しているといえよう。漢字文化圏における異民族間のコミュニケーションの具体的な手段は漢字での筆談だった。漢族の間でも、北京語、上海語、広東語、福建語などはほとんど別系統の言語で、同系統の言語でも、一山超えた隣の地域に行くともう通じないというのが現状だった*79。そこで筆談でのコミュニケーションが行われていたのだ*80。わが国には、江戸時代に多くの中国の禅僧や儒学者がやってきて幕府の官吏たちと自由に意思疎通を行ったがそれに役立ったのも筆談だった。朝鮮通信使と町方の文化人たちの意思疎通でも同様のことだった。実は、日本国内でも薩摩藩と東北地方の諸藩では方言がまるで違っていたため漢文や候文による筆談での意思疎通が行われていた。江戸時代に武士階級で謡(うたい)が教養とされたのも、謡の言葉が共通のコミュニケーション・ツールになっていたからだとされているのである*81。
次回は、東アジアにそのような漢字文化圏を創り出していった中国の漢字について見ていくこととしたい。
*1) 「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎、2023、p208―213
*2) 山口仲美、2023、p230-31
*3) 「文字の歴史 ヒエログリフから未来の『世界文字』まで」スティーブン・ロジャー・フィッシャー2005、研究社(Euro-NARASIA、2017.Sep,奈良県立大学、p52)
*4) 「漢字とは何か」藤原書店、岡田英弘、2021、p37。
*5) 「朝鮮半島の歴史」新城道彦、新潮選書、2023,p43-44)。
*6) 表意文字と表音文字の組み合わせは、かつてシュメール文字、エジプト文字、ヒッタイト文字などで行われていた(山口仲美、2023、p204-205)
*7) 岡田英弘、2021、p299―308
*8) 岡田英弘、2021、p283-90、295-99
*9) 岡田英弘、2021、p325
*10) 「我的日本語」リービ英雄、筑摩書房、2010、p200-202
*11) イスラム建築で、コラーンのアラビア文字が装飾として用いられているのと同様
*12) 「笑いの日本史」船橋晴雄、中央公論新社、2023,p76
*13) 森鴎外は、文部省の臨時仮名遣調査委員会(1908年)で、安易な新仮名遣いの採用に反対した(「森鴎外」中島国彦、岩波新書、2022,p119)。
*14) 山口仲美、2023、p206。「漢字が日本語になるまで」円満字二郎、ちくまQブックス、2022,p111-113
*15) 「日本語の歴史」山口仲美、岩波新書、2006、p41-42。「漢字と日本人」高島俊男、文春新書、2001、p101。
*16) 山口仲美、2006、p25-27
*17) 山口仲美、2006、p40―41、212―15
*18) シェイクスピアの戯曲にも、言葉遊びが数多く登場する
*19) リービ英雄、2010、p20
*20) 「日本史のなぞ」大澤真幸、朝日新聞出版、2016、p54
*21) 「『見えないものをみる』ということ」福原義春、PHP新書、2014、p65)
*22) おおむね、仏典は呉音で、漢籍は漢文で読まれていた(「訓読論」中村春作、市來津由彦、田尻祐一郎、前田勉、勉誠出版、2008、p134)
*23) 山口仲美、2023、p225-231
*24) 岡田英弘、2021、p156-57
*25) 漢詩については、「日本の漢字 1600年の歴史」沖森卓也、ベレ出版、2011、p113-14、参照
*26) 「古典再入門」三宅香帆、なごみ、淡交社、2023.2、p78
*27) 岡田英弘、2021、p122-123、山口仲美、2023、p217―224、山口仲美、2006、p80-83
*28) 山口仲美、2006、p83)
*29) 「なごみ」2024.1,三宅香帆、p84-88
*30) 沖森卓也、2011、p148-49。「古代国家と中世社会」五味文彦、山川出版社、2023,p147.212.
*31) 「戦国の社会と天下人の国家」五味文彦、山川出版社、2023.7、p320
*32) 山口仲美、2006、p128-130、p220-225。「近世の政治と文化の世界」五味文彦、山川出版社、2023、p26
*33) 五味文彦、2023、p42-44、192-97
*34) 「近代社会と近現代国家」五味文彦、山川出版社2023.8、p200
*35) それは、漢字文化圏のベトナムや朝鮮半島などで行われていたのと同様の読み方だった(「訓読」論、中村春作、前田勉、市來津由彦、田尻祐一郎2008、p108、p269-71)
*36) 左訓は、例えば、通常の訓読(和訓)では、〈しずか〉で読まれる〈閑〉〈静〉〈謐〉〈寂〉の相違を明らかにした(「訓読論」、2008、p231)
*37) 「訓読」論、2008、p30、41、167―71
*38) 「訓読」論、2008、p271
*39) 日本の小説家・文芸評論家・詩人。1918-1997年。
*40) 「訓読」論、2008、p36、p173
*41) 「訓読」論、2008、p195―96
*42) 「唄本」論ノート、中丸宣明、「日本近代文学館年誌、資料探索18、2023.3、p31
*43) 船橋晴雄、2023,p27。「和漢朗詠集」が編纂された。
*44) 歌垣は、古代日本から東南アジアに至る広い地域での伝統だった(「越境の中国史」菊池秀明、講談社、2022、p104)。
*45) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p90-91
*46) 船橋晴雄、2023,p61―66。田楽に親しんだのが白河院だった(五味文彦、2023、p196-97)。
*47) 五味文彦、2023.7、p47-49
*48) 「日本のクラシック音楽は歪んでいる」森本恭正、光文社新書、2024、p86-94
*49) 「日本という方法」松岡正剛、NHKブックス、2020、p296.「赤い鳥」
*50) 安野光雅、藤原正彦、2006、p90-91
*51) 中丸宣明、2023、p16、27、30
*52) 高島俊男、2001、p38-41、128-152
*53) 最近の例で言えば、鉄道事業者がその管理下にある駅の中や近くで展開する店舗などを「駅中」といいうようになったのと同様の造語法
*54) 岡田英弘、2021、p38、314
*55) 岡田英弘、2021、p38、314
*56) 山口仲美、2006、p177-179、p209-210
*57) 漢文教育は、漢字文明への理解を通じて人生を豊かにするものといった位置づけがなされた(「訓読」論、2008、p208-210)
*58) 山口仲美、2006、p181-202、p205-07
*59) 山口仲美、2006、p200、p202-205
*60) 高島俊男、2001、p172
*61) 山口仲美、2006、p207
*62) 安野光雅、藤原正彦、2006、p106―107
*63) 岡田は、そもそも、どんな言語でも言文一致などありえないとしている(岡田英弘、2021、p321-22)
*64) 山口仲美、2006、208
*65) 山口仲美、2023、p207
*66) 岡田英弘、2021、p134。高島俊男氏は、日本人にとって言葉の実体は文字だとしている(高島俊男、2001,p156)
*67) 高島俊男、2001、p193ー95
*68) 五味文彦、2023.8、p370-73,419-20
*69) 同音異義語の大量発生は、もともと多様な読みを持っていた漢字が読みの少ない日本語になる上で避けられないことだった(円満字二郎、2022,p96、高島俊男、2001、p29-37)
*70) 高島俊男、2001,p153-57
*71) 「日本の感性が世界を変える」鈴木孝夫、新潮選書、2014、p186
*72) 大澤真幸、2016
*73) 大澤真幸、Euro-NARASIA、2017.Sep,奈良県立大学、p52
*74) 山口仲美、2023、p217、225
*75) 鈴木孝夫、2014、p186
*76) 「言語の力」ビオリカ・マリアン、KADOKAWA,2023,p48、p61-94,122-23、127―29、138―39
*77) 岡田英弘、2021、p320
*78) かつては、中国はそのような文献を外国人に自由に閲覧させていたが、最近は制限している。
*79) 「中国農村の現在」田原史起、中公新書、2024,p82
*80) 岡田英弘、2021、p148
*81) 岡田英弘、2021、p282。