社会に3Q、個性にサンキュー、あなたにThank You
ファッションジャーナリスト 徳永 啓太
メディアが「個性や多様性の時代」と軽々しく言葉にする度に、私は素直に受け止められない。個性や多様性が尊重されるのならば、争いがないはずなのに、世界では悲惨な侵略や戦争が起きている。ネットに救いを求めても、出る杭は打たれるの如く、変わった人がいると晒され、大衆は個人を責め立てる。一方で個性を見つけることは、他者との比較を余儀なくされ、劣等感を感じる人も多いはず。私たちは他者の目を優先し、社会で安定した生活を送る代償として、個人の希望や感情をすり減らし続けている。誰へのハラスメントかさえ不明確な何かに怯え、毎日のように変わる常識に振り回され、世間体という言葉で抑圧されても「鈍感」を程度よく使って、気づいてない“ふり”をしながら。それが俗にいう平和な国なのだろう。自分のありのままでいることが生きづらい世の中、それは多様性なの? 個性を尊重してる? 個性は必要とされてる? と疑問が湧いてしまう
ゆえに個性を求められると困惑する人も多いだろう。このコラムを読んでくれてるあなたも「個性的」と言われたらどう感じるだろうか。そんな私は車椅子を使用しているのだが、障がいを「個性」という言葉で括られてしまうと困惑する。明らかに違う身体をしているからといって独自性があるかと言われれば、みんなと同じ感覚や価値観も持ち合わせているから私は平凡であると感じてしまう。見た目で比較されているならばこの世に全く同じ人はいないわけでしっくりとこない。改めて個性について考えたい。「個」と「性」。自分の体や性格を含めた「個」を運命「性(さが)」として受け入れること。そして伝えることで初めて「個性の価値」を見出すのではないか
きっかけはパフォーマンス集団「東京QQQ」との出会いだった。自らを生き様パフォーマーと名乗る彼・彼女らは、バーレスク、ドラッグクウィーン、ポールダンサー、HIPHOPからコンテンポラリーまで多彩な身体表現をするダンサー、そして、小人バーレスク、車いすパフォーマー。さまざまな背景を持った職業や表現者が集まっている。2023年の夏、東京QQQは奈落とラッキーをもじった「ナラッキー」をテーマにそれぞれの生き様を包み隠さず身体で、ときに言葉でパフォーマンスを行った。即興で展開する彼らは、パフォーマー同士の衝突と調和が交錯し激しい吐息と身体が重なり合う。個々にプライドと人生を賭けた表現が強くある故に、自分の主張は譲らない。ぶつかり合う個と個。そこで生まれる摩擦が掛け算となってパフォーマンスの熱量を高めていく。これまで生きてきた〈様〉を武器に、それぞれが感じる社会へのQ(Question)を全心全力で表現。異なる身体と感情が混じり合うことで、個人の想い、生き様が浮き彫りになり観客の心を揺さぶる。
東京QQQが放ったそれぞれの運命、使命感、生きてきた証。そして社会のひとりとして生きる価値。自分も「生き様」を伝えたい、残したいという想いにかられ、同年秋、私は年に1度開催される歌舞伎町祭に車椅子DJとして人前に出たいと志願した。そこには彼らも出演しており私も同じ舞台に立ったのだ。
個性は他者よりも優れていることでもなければ、マイノリティの特権的なものでもない。酸いも甘いも経験した生き様。綺麗事だけでは語れない軌跡。この世に生まれ落ちた「個」が意志を持ち、現代社会で生きる運命「性(サガ)」をありのままに伝えていく。それは1人だと発揮できず、他者との関係があるからこそ「個」の魅力が引き立つ。重要なことは、表現にしたり、言葉にしたり、他者に向けて、社会に向けて「生き様」を残し「個」が受け継がれていくこと。
誰かの生き様は誰かの生きる指針となり、希望になり、救いとなる。人間味が脱色され、夢や目標を持ちにくくなっている現代人に「個性」が輝いてみえるのかもしれない。
しかし冒頭でも述べたように、個性や多様性に向き合う余裕がない人は多いだろう。急激に変わる情勢、他国で戦争が起こりSNSで監視されるこの世で、明日は我が身といつ奈落に落ちるかわからない窮屈な世界。日々の変化に心が乱れる中、救いの言葉を最後に。
「大丈夫じゃなくても大丈夫。生まれ落ちたらナラッキー。あなたにサンキュー。わたしにサンキュー」東京QQQより。