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路線価でひもとく街の歴史

第51回 「山口県下関市」

交通手段で激変した街の立ち位置


海運拠点と南部町

下関は元々赤間関(あかまがせき)といい、赤間関の別表記である赤馬関の後ろ2字から馬関(ばかん)とも呼ばれた。北前船の寄港地で幕末には政権抗争の舞台となった。海峡という地政学的要衝だったこと、下関が「稼げるまち」だったことが背景にある。長州藩は条約破棄、英仏軍が駐留していた居留地反対を一貫して唱えた先鋭野党で、民意ならぬ叡慮をめぐり万事バランス重視の政権党と対峙していた。地の利から海上封鎖をこころみたが、英米蘭仏の返り討ちにみまわれる。いわゆる馬関(下関)戦争である。停戦交渉を担った高杉晋作は下関で郷土防衛隊の「奇兵隊」を立ち上げた。奇兵隊は後に藩内の権力掌握を目指して功山寺で決起。かたや薩摩藩との野党連合構想が進められていた。「稼げるまち」の面でいえば、抗争を持続する軍事力を持てたのも特別会計のルーツといえる「撫育方(ぶいくかた)」を持っていたからだ。その稼ぎ頭が「越荷方(こしにかた)」である。これは倉庫業あるいは倉荷担保の融資を営む「地方公営企業」だった。
下関市は、長州藩が馬関戦争の講和条件として外国船に航行の自由を認めた元治元年(1864)を開港年と定めている明治8年(1875)に横浜-上海定期航路の寄港地になり、明治16年(1883)には対馬厳原、博多とともに朝鮮貿易の特別輸出港に指定された。明治22年(1889)の市制制定と同時に施行された31市の1つである。当初は赤間関市といった。
このように港で発展した街なので街の中心は港の後背地にあった。下関で最も高い地価は、明治37年(1904)の大蔵省主税局統計年報書によれば西南部町(なべちょう)だった。西と東の南部町は近世以来の問屋街で、明治以降は問屋を得意先とする銀行街になった。下関で初めての銀行は明治9年(1876)に一等出張店を開業した三井銀行である。支店に昇格したのは明治26年(1893)だった。得意先だった物品問屋の衰退に伴って明治40年(1907)に撤退。営業は百十銀行に譲渡した。
百十銀行の前身は、明治11年(1878)11月に創業した第百十国立銀行である。長州藩の旧藩士らが立ち上げ、初代頭取は毛利一門の右田(みぎた)毛利家の毛利藤内(とうない)だった。県庁所在地の山口で創業したが、2年後の明治13年(1880)には本店を赤間関の西南部町に移した。戦時末期の昭和19年(1944)、百十銀行は華浦銀行、船城銀行、大島銀行、宇部銀行と合併し山口銀行となった。山口県の地域一番行である。
明治26年(1893)、第百十国立銀行は本店行舎を日本銀行に売却し東南部町に移転する。日本銀行にとっては、明治15年(1882)に本店と大阪支店を開業して以来の営業拠点である。西部(さいぶ)支店といい、初代支店長は後に日銀総裁、蔵相、首相を歴任した高橋是清だった。元々門司港に開設する計画明治31年(1898)に移転した。地所は百十銀行が買収し、明治44年(1911)に行舎を新築して再び本店とした。
三井銀行は、大正5年(1916)年に再び出張所を開設する。2年後に支店となり、大正9(1920)年に行舎を新築した(図3. 旧三井銀行下関支店(現やまぎん史料館))。重厚な古典主義建築は辰野金吾の門下生、長野宇平治(うへいじ)の設計である。30歳から43歳まで日銀技師として過ごし、47歳で独立した後も本件をはじめ多くの銀行建築を手掛けた。施主の三井銀行は昭和8年(1933)に営業を百十銀行へ譲渡し再び撤退。行舎も引き継いだ百十銀行はここを本店とした。5行統合で山口銀行が発足した後は同行の本店となった。戦後、昭和40年(1965)に本店を駅前の現在地に移してからは観音崎支店、本部別館として使われた。山口銀行創業130年となる平成20年(2008)にやまぎん史料館となり現在に至る。
明治29年(1896)の開業で百十銀行に次ぐ規模だった馬関商業銀行も同じ通りにあった。大正時代に浪速銀行に合併され、その後十五銀行、帝国銀行となる。戦災を機に駅前に移転し、後年三井銀行となった。これも昭和44年(1969)に撤退したので、三井銀行は下関に3度出店し3度撤退したことになる。
南部町の通りの中国労働金庫は、昭和9年(1934)に建てられた不動貯金銀行下関支店の行舎を引き継いでいる。戦後の協和銀行を経て、昭和48(1973)年に撤退した。その他の県外行として第一銀行や住友銀行があり、いずれも同じ通りに支店を構えていた。
海岸の通りにひときわ目立つ赤レンガの建物は旧英国領事館で、明治39年(1906)に建てられたものだ(図4. 旧英国領事館)。領事館が下関に設置されたのはその5年前で、当時の駐日英国大使アーネスト・サトウの進言による。

鉄道連絡船と西細江町

明治43年(1910)、主税局統計年報書の最高地価が西細江町(ほそえちょう)に移った。背景は9年前の明治34年(1901)5月に開業した山陽鉄道馬関(ばかん)駅である。線路は既存市街を大きく迂回し、Uターンする形で西から進入するルートを辿り、市街地に入ると海上を埋め立てて敷設された。そうしたわけで駅は南部町の西側、現在地より東の細江町にできた。明治35年(1902)、赤間関市が下関市に改称したのに伴い下関駅に改称。同年11月、駅の正面左手に山陽ホテルを開業する。鉄道会社が経営するわが国初のターミナルホテルだった。日韓保護条約が締結された年の明治38年(1905)には関釜連絡船を就航した。
駅の開業で人と物の流れが変わり、交通拠点が西細江町に移った。朝鮮半島やその先の中国東北地方すなわち南満州に向かう玄関口という位置づけも加わった。貿易拠点としては門司港に株を奪われつつあったが、新たな成長要因を得た格好だ。大正15年(1923)4月の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書によれば、下関市の最高地価が坪当り28円(西細江町)、門司市24円(本町桟橋通)、小倉市が18円(魚町)だった。当時の下関は広島を上回り中国地方で最も地価が高かった。
西細江町には下関で初めての百貨店もできた。昭和7年(1932)に開店した鉄筋コンクリート造5階建の山陽百貨店である。戦争激化とともに衰退し昭和19年(1944)に閉店した。

関門トンネルと下関駅西口

街の構造を一変させたのが、昭和17年(1942)7月に開通した関門トンネルである。この年の11月、現在地に新しい下関駅ができた。これまで起終点だった下関駅が通過駅となった。連絡船乗船の前後泊に使われる山陽ホテルの強みもなくなり、戦災を機に閉業を余儀なくされる。戦後は国鉄ビルに転用され、平成23年(2011)に取り壊された。戦後は新しい下関駅が街の中心となった。もっとも、新駅から旧駅に至る広大な敷地は貨物ヤードとして使われていたため、繁華街は駅の西側にできた。資料で確認できる戦後最初の最高路線価地点は、昭和35年(1960)の「竹崎町四丁目大洋漁業下関支社駅側通」である。
大洋漁業は現在のマルハニチロである。昭和24年(1949)に東京に移転するまでここに本社があった。駅前だが下関漁港を背にした立地で、下関経済における水産業の重みがうかがえる。昭和41年(1966)には水揚げ全国一となった大洋漁業は明治13年(1880)、中部(なかべ)幾次郎(いくじろう)が家業の鮮魚仲買運搬業を継いで創業した。屋号が林兼(はやしかね)で略称がマルハだ。明治37年(1904)、明石から下関に本拠地を移した。大正13年(1924)に林兼商店を設立。昭和11年(1936)に大洋捕鯨を設立し南氷洋捕鯨に進出した。その後、戦時統合で林兼商店をはじめ関連会社群から漁労部門を集約して新会社とし、終戦に伴って大洋漁業に改称した。
横浜DeNAベイスターズの源流は昭和25年(1950)シーズンから登場した大洋ホエールズである。前身は実業団チームの大洋漁業野球部だった。下関市営球場を本拠地とし、大洋漁業2代社長の中部兼市(かねいち)が初代オーナーを務めた。下関が本拠地だったのは最初の3年で、松竹と共同経営だった2年間は準本拠地として扱われ、昭和30年(1955)には川崎球場へ移転した。
地元に根差した多角化の一環として、大洋漁業は百貨店「下関大丸」を立ち上げている。終戦直後に下関商工会議所の会頭だった中部社長が、大阪の商工会議所を介して大丸に百貨店の経営を依頼。大丸から派遣された川島銈造(けいぞう)を下関大丸の初代専務とした。開店は昭和25年(1950)11月で、下関にとっては戦中に閉店した山陽百貨店に続く2例目の百貨店だった。店舗は駅の西側、下関漁港の手前にあった。元々はオフィスビルとして建築が進められていた5階建の「貿易ビル」を急遽百貨店に転用した。昭和34年(1959)12月、2倍以上の営業面積となる6階建の店舗を新築し移転した。駅西口には昭和46年(1971)にニチイ下関店が開店した。

貨物ヤード再開発で街の中心は東口へ

昭和53年(1978)、最高路線価地点が「竹崎町2丁目エイラクパチンコ店前通り」となった。パチンコ店は下関駅の線路を挟んで東側にある。西から東に移った背景には、その前年の10月に下関駅東口にショッピングセンター「シーモール下関」が開店したことがある。西日本最大規模の複合商業施設と銘打たれていた。敷地の北半分は下関駅貨物ヤードの一部、南半分は昭和48年(1973)に竣工した埋め立て地である。北九州への買い物客の流出を食い止めるべく、市や商工会議所、地元の商店街などが関わった一大プロジェクトだった。施設を所有する「下関商業開発」は下関市も出資し、商工会議所の会頭が社長を兼務した。核テナントは下関大丸とダイエーで、両者が専門店街の両脇を固める配置だった。下関大丸はシーモール下関への入居に当たって駅西口の店舗を閉店した。街の賑わいが東口に移ったあおりで西口のニチイの売上は落ち込み、昭和60年(1985)に閉店を余儀なくされる。
もっとも、かつて小倉を凌ぐほどの下関の拠点性は、関門トンネルの開通を機に大きな転換点を迎えていた。海峡を挟んで下関と北九州エリアとの一体化が進み、特に買い物需要については小倉への流出が目立つようになった。鉄道トンネルの開通後、減便しつつ連絡船は継続されていたが、昭和33年(1958)の国道トンネル開通、昭和36年(1961)の鉄道電化などで需要が減り、昭和39年(1964)には廃止に至った。昭和48年(1973)に高速道路の一部として関門橋が完成する。昭和50年(1975)に山陽新幹線が博多駅まで全通したが、下関駅の約8km北の長門一ノ宮駅が新幹線の新下関駅となり、下関駅は都市間鉄道の拠点駅でなくなった。小倉だけでなく福岡にも近くなった。
新幹線が開通した翌年の昭和51年(1976)の最高路線価をみると下関はm2当たり21万円で小倉の55万円の半分以下、そして県内最高値でもなかった。当時の県内最高値は徳山の28.5万円だった。小倉駅から下関駅まで2駅約15分である。ビジネスや工業分野においてはともかく、商業において下関は小倉の郊外都市の1つとなっていた。シーモール下関も百貨店というより郊外大型店と捉えたほうがしっくりくる。

公民連携によるエリア一体再生

かつての銀行街だった南部町、大陸への玄関口だった細江町に当時の面影はあまりない。南部町は旧三井銀行、旧不動貯金銀行の行舎に痕跡をしのぶのみである。地形を反映した唐戸界隈の区画も戦後復興で方陣状に上書きされた。アーケード商店街はシャッターを閉めた店が目立つ。
他方、かつての交通拠点を活かし新しい街に再生する取り組みも進んでいる。90年代、かつての貨物ヤードが「海峡あいらんど21」に再開発され、海峡メッセ下関や全長153mの海峡ゆめタワーができた。平成13年(2001)には南部町の前の埋め立て地「あるかぽーと」に市立しものせき水族館「海響館」が開館し人気を博している。唐戸市場は昭和8年(1933)開設の「魚菜市場」を起源とする公設の地方卸売市場だ。業者向けの卸売と合わせ一般小売をしていることが特長だ。金曜日と土休日には屋台が出店され、一貫単位で寿司を買える「活きいき馬関街」が開催される。気の向くままパックに詰めた寿司を港で食べるスタイルが定着し、下関で最も有名な観光スポットとなった。
令和5年、「あるかぽーと・唐戸エリアマスタープラン」が公表された。令和7年秋にリゾートホテル「リゾナーレ下関」を開業する星野リゾートが、市と締結した地域活性化に関する連携協定を背景に素案を作成した。ホテルが立地するあるかぽーとを中心に岬之町(はなのちょう)地区から唐戸市場まで一体開発する計画だ。観光地としての価値向上を念頭に「日本を代表するウォーターフロントシティ」のビジョンを示している。
市庁舎の前面には市民広場がオープンした。街なかの芝生公園で、敷地内にはカフェ「TAGLINE(タグライン)」がある。周囲に点在する港町の遺構やウォーターフロントをまとめる求心点の役割が期待される。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図1. 関門海峡と下関
図2. 市街図
図5. 唐戸市場