国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇
日本語の「世間」には自然物も含まれる
前回、主語を使わない日本語は、自分だけでなく多くの相手がいるという「世間」で互いに意思疎通を図る言語なのだというお話をした。そして、その「世間」で意思疎通を図る相手は、人間に限らないとお話しした。秋の草むらの虫の音を、西欧人は雑音として聞くのに、日本人は虫の音として聴くのである。そのような西欧人と日本人の違いは、近代西欧音楽が純音を基本としているのに対して、邦楽は「サワリ」や「唸り」というように、わざと「雑音」を取り入れているという点にもあらわれている。明治のはじめに日本各地を回り「日本紀行」を著したイザベラ・バードは、新潟を訪ずれた時に邦楽を聞かされて、こんなものが音楽かという不快感を記している。英国人のイザベラ・バードにとって、日本の謡いは雑音でしかなかったのである。ちなみに、日本の尺八や篠笛の演奏では舌を使ってリズムをとることをしなかった。それは、世界の管楽器の中で唯一のことだったという。邦楽は、ただそこに音がある。その音は、自然という世界に溶け込んでいくものだったということだ。たとえて言えば自然の中に吹く一陣の風を表現しようとしており、自己主張をしなかったからだという*1。
日本語には雨の音が無数にあるが、それも日本人が雨の音も「言葉」として聴いているからだ*2。雨のような自然物とも「対話」をすることから、無数の擬音語、擬態語を持ち*3、それらを使いこなしてファジーな状況を言語化しているのが日本語なのだ。「パクパク食べて、ガンガン飲む」「スーと来て、サーと消える」といった擬態語の表現は日本語特有で、そんな表現を含む日本文学の翻訳は外国人には難しいという*4。英国の猫は動詞で鳴くが、日本の猫は副詞で鳴くという*5。そんな自然との対話をも詠み込んでいたのが和歌だったが、時代が移るにつれて本来の感覚が分からなくなっていた。それを江戸時代に、同時代人に分かるように「翻訳」したのが本居宣長で、宣長はそのような作業によって言語化された「文献テキスト」から、和歌が詠まれた時代の日本人の「こころ」に分け入っていったのだという*6。本居宣長と言えば、漢意(からごころ)を排したことで知られるが、それは自然とも対話をする日本語の本来の姿を取り戻そうとしたのだと考えられる。
日本の音楽が、わざと「雑音」を取り入れているなどというと首を傾げられる向きもありそうだが、まずいものさえ評価するのが和食だと聞くと、それなりに納得がいくのではなかろうか。例えば、私は退官後にお茶を習っているが、茶懐石ではご飯を3回食べる。1杯目は蒸らしていないべちゃのご飯で美味しくない。それは生まれたての瑞々しい、最も清らかな水の味を賞味するのだという。2杯目はよく蒸らした、匂いまでおいしいご飯。3杯目はお焦げにお湯をさして、塩を入れ、お焦げの香ばしさを味わう。それでご飯の一生を味わい尽くすのだという。そのようにして、日本人は枯れていく最後にまでおいしさを見出すことで幸せになれるのだという。日本料理における「おいしい」は、偶然のご褒美で、まずいものをおいしくしようとする必要はないという。和食には食材と調理法があるだけで、料理の名前すらない。その基本が「一汁一菜」だという。大阪の「味吉兆」で日本料理を修業された料理研究家の土井善晴氏が指摘されていることだ*7。
言霊の幸はふ国
とまあ、小難しい話から始めてしまったが、今回は、日本語が自然物をも構成員とする「世間」での会話の道具として発達してきて、そんな中で「世間」で楽しむ日本文化をはぐくんできたという話をすることとしたい。古今和歌集*8の仮名序に、「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)・業(わざ)しげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」とある。「生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」ということは、「生きとし生けるもの」すべてが日本語の「世間」の構成員で対話の相手だということを示している。「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば」というのは、和歌が「花鳥風月」を読むことを示している。平安時代の和歌には、基本的に「心物対応構造」というものがあった。それは、ある物にこと寄せて自身の心を歌に託す構造のことで、「掛詞(かけことば)」や「序詞(じょことば)」という技法に現れていた。例えば掛詞の「まつ」は恋しい人を待つ気持ちと樹齢の長い松を対応させている。序詞では、「海(わた)の底沖つ白浪たつた山いつか越えなむ妹があたり見む」という歌の「海の底沖つ白浪」が「たつた山」にかかる序詞で、白波(白浪)は立つので「たつ」を導き出しているといった調子だ。「掛詞」や「序詞」では、必ず心と物がペアになっているが、その場合の「物」が「花鳥風月」で、自然の中の植物、動物、更には景色ということになる。そのような日本の和歌における人間の心は歌われるものと別個のものではなく、むしろ積極的に結びついたものだったのである。
「世の中にある人、事(こと)・業(わざ)しげきものなれば」の「事(こと)」については、科学技術振興機構研究開発戦略センター上席フェローの藤山智彦氏が、「ものこと」という場合の「もの」とは根っこにある形而上の「もの」のことで「こと」とはそれが形而下に現れることだと指摘しているのが参考になる*9。本居宣長が、源氏物語の研究で大切だと気付いた「もののあはれ」の「もの」の第一義的な意味も、そのような形而上のものだった*10。そのような形而上の「もの」の根っこが現れるのが「ねあら」で、それが「ながら」に変音して「神ながらの道」になったという。形而上などというと難しいが、前回、説明した、人間も動植物も神々も同じように混沌の中から生まれてきたという日本神話の世界からだと考えればわかりやすい。「神ながらの道」が、そのようなものだとすれば、その「神ながらの道」を実践する神道の祝詞で、混沌の中から生まれてきた自然物が言葉を発し、自然音を言葉のように聞くのは当たり前だということになる*11。聞くだけでなく雨乞いのように神への問いかけも当然に出てくることになる。後拾遺和歌集には、神との問答である神祇歌や釈教歌などが収録されており、能の「鉄輪」では、貴船神社で神の声を聞く場面が登場するというわけだ*12。
そのような日本では、人工物の器物も百年も経つと精霊を宿して言葉を発する付喪神になると考えられていた。漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する「一反木綿」や「塗り壁」といった妖怪は、元々は器物だったが、鬼太郎は、それらの妖怪と一緒に大活躍する。それは器物にも「人格」があるからだ。針供養、筆供養、人形供養などが行われてきたのも、器物を日本語の「世間」における対話の相手と考えてきたからだ。中世には、盗みはたとえ1銭でも死刑に処するという「一銭切」ということが行われていたという。それは、モノを所有者の肉体の延長、所有者の「たましひ(魂)」の一部が乗り移ったものと見ていたため、盗みに対して過酷な処断になったのだという。また、所有を所有者の肉体の延長とみなしていたため、質入れや売買はモノを本来あるべき場所から引きはがす異常な行為とされていた。そこで、それを元に戻すことを命じたのが徳政令だったともいう*13。また、小難しい話になってしまったが、要は日本語の対話の相手の「世間」には神や物も含まれているということである*14。なお、古今和歌集の仮名序の別の部分に「言霊が天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせる」*15とあるが、その原典は中国の詩経*16だとされている。しかしながら、中国ではその後、詩経などの古典が儒教的な解釈によって変質してしまい、日本でのように言霊が文学の発展に結びつくことはなかった。「掛詞」や「序詞」が生まれることはなかったのである。この点は、中国語について述べるときにご説明することとしたい。
人間同士うまく生きていくための技法
そのように、日本語は神や自然物、人工物とも会話をするのだが、そうはいってもやはり会話の中心は人とのものだ。そこで、日本語には「世間」を構成する人を強く意識した語彙があふれている。「世間」という閉じられた環境で人間同士がうまく生きていくための「気が利く」「気を利かす」「気が付く」「気を配る」等の相手の気持ちを推し量る言葉があふれている。日本語には、心の動きに敏感で、それを表す語彙もたくさんある。中でも多いのが、「心」の状態を表す「気落ち」「劣等感」「快感」「不安」「憎む」「さびしい」などの語彙だ。そして、「いたたまれない」「いまいましい」「うすきみわるい」「うっとうしい」「うるさい」「こわい」「つらい」「なさけない」などの不快な感情を表す形容詞の語彙もきわめて豊富だ*17。日本人は概して人前で感情をあらわにするのを避け、笑顔を絶やさず温和にふるまうが、そのような不快な語彙の多さは、むくむくと湧き上がる不快な心を抑え込んでいることを明らかにしているともいわれる*18。前回ご説明したように日本語では文の成立になくてはならない述語を最後に持ってきて断定するのを回避したりするが、それは不快な心を抑え込む技法だとも考えられよう。平安時代に人間の心理をくまなく描写した「源氏物語」が成立したことは、世界の文学史上でも驚異的なことだとされているが、それもそのように人間の心理を表わす語彙が豊富で、心を抑え込む技法を発達させていた日本語があってのことだったと言えそうである。「世間」という閉じられた環境で人間同士うまく生きていくための技法として発達してきた日本語の会話においては、「世間」の参加者みんなに気配りをする作法も行われている。特定の相手の目を見て話すことは失礼になりかねないという作法だ*19。「世間」の中で特定の相手を限定することを避けようとするのだ。これは、英語の会話では相手の目を見て話さないことが失礼になりかねないのと全く異なっている。
「世間」における相互の認識から始まる日本語の会話
様々な参加者で構成される「世間」とは、変幻自在な「世間」でもある。そのような「世間」の中での日本語の会話では、「いま、ここ」という場(「世間」)を大切にする*20。手紙文の冒頭に時候の挨拶を持ってくるのは誰でもやっていることだが、一般の会話も「いま、ここ」を確認する「時候のあいさつ」から始まることが多い。そのような変幻自在な「世間」に登場する主体は、自分も相手も状況によって違ったものになる*21。前回ご説明したように、子供を持つ先生に対して、状況に応じて「おかあさん」と呼びかけたり「先生」と呼びかけたりするのだ。そして、複雑な人称名詞*22や敬語を使い分ける。そのようにして相手と自己との関係をとり結び、時々刻々と新たな主体が立ちあらわれてくるのが日本語の世界なのだ*23。
日本人は暗黙のうちに、こうした前提で会話をしている。そんな日本語の会話は、ハイ・コンテクストなものだといわれる。「言わなくてもわかるだろう」「空気を読め」というわけである。「空気」とは、様々な参加者で構成される変幻自在な「世間」で形成されるものだ。考えてみれば、相手がいなければ自分も規定できないというのは、面倒なこと甚だしい。ただ、その分だけ、他者への思いやりが常に発揮されるのが日本語の世界なのだ。
ちなみに、江戸時代まで、一人の人間が複数の名前を持つことは当たり前だった。山縣有朋は、幼名を辰之助、通称を小助といい、その後、狂介・小輔・狂助・狂輔と称したが、その他に素狂という号も持っていた。変名としては萩原鹿之助という名前も用いていた。有朋の諱(いみな)を称したのは明治4年以降のことだった。そのように自分の名前も自由自在に変えるのが日本語の世界だったのだ。
大阪弁の話
「世間」を大切にする日本語では、地方ごとの「世間」の違いに応じた方言も発達していた*24。江戸時代までは、各地方ごとの方言の違いが甚だしく、言葉が違う地域同士の話し言葉での意思疎通は困難なほどだった。例えば、薩摩弁と津軽弁とでは意思疎通が難しく、江戸では筆談で意思疎通が行われていたという。それが、今日、標準語に押されて各地方の方言が失われていっている。そんな中でも根強く残っているのが大阪弁だ。大阪弁は、相手との接触を歓迎する、人と会話することそのものを喜ぶ、そういう気持ちまで表現してこその会話であるという、ハイコンテクストな日本語本来の感覚を大切にしている言葉と言える。「世間」における相手との相対的な関係を臨機応変に取り結ぶという日本語の特徴をしっかりと保持しているのが大阪弁だということである*25。
大阪弁では、「われ」や「おんどりゃ」というように、臨機応変に自分と相手を表現する。大阪弁は、「おまへん」を「おまへんねん」といって、柔らかく、親しく、手の内を開いて話しかける調子を出す。それは、相手との心理的距離を自在にあやつる表現だと言えよう。「はよせんかいな」は、きつい表現の「はよせんかい」に「な」という助詞をつけて和らげている。「言いなはれ」は、「言え」という命令形に「なされ」という尊敬表現を一体にしたものだ。アクセルとブレーキを同時に踏むような表現だ。「言うたれ」「言うたらんか」といった迂回的要求、反語命令といった表現も持っている。相手と自分の関係や、場面、状況の在り方を精細、緻密に感じ分け、それに応じて要求の仕方を微妙に使い分けるのが大阪弁なのだ。重層的、複眼的で、異質なものを共存させる精神の在り方を多様に表現し、上品で柔和で丁寧な言い回しから喧嘩をするのにはもってこいの汚い言い回しまでをもっている。また、停滞を嫌い、わかりやすさが一番という特徴も持っている。神戸の動物園の猛獣の檻の前には、「かみます」とだけ、そのものずばりが書いてあるという。合理性を志向しているのだ。日本語の「世間」での会話は相手との共同作業なので、相手との信頼関係が大切になるが、そういったことを柔軟にこなせるのも大阪弁だ。例えば、高校野球で相手に先行を許している監督が7回裏に「ぼちぼち行こか」といった表現で選手に声をかける。「何が何でもがんばれ」など、恥ずかしくて言えるものかという含羞が、そこには存在している。それは、しゃべることが「世間」の中で、生きることであるという文化だと言ってもいいだろう。元禄以来の上方和事の伝統といってもいいのかもしれない。
大阪の笑いは、相手との距離の近さ、相手との共同作業の感覚、次元の異なった二つの視点や論理が、瞬間的に結合して生まれるものだといわれる。会話を共同作業と考えるので、誰かがぼけると誰かが突っ込む。東京の保育園では、バーンとピストルを撃つ格好をしてもみんながきょとんとしているが、大阪だと何人かは撃たれて倒れる格好をするのだという。大阪弁では、同音異義語による駄洒落も多用される。大阪人が二人寄ったら漫才になるとも言われる*26。政治家で、大阪弁の技法を使いこなしていたのが、私が主計局の総務課長としてお仕えした塩川正十郎先生だった。塩川先生は、塩爺といわれ大蔵大臣としては異例の人気を誇っていたが、私が無理な説明をしたりすると「松ちゃん、そら違うわねえ」などとおっしゃっていた。
笑いを大切にする日本語
動物と人間の違いに言語の使用があるといわれる。言葉の使用によって人間社会、文明の形成が可能になり、共存・共栄が可能になったというわけだ。とすれば、周りの人が何を言うのかをまず認識し、相手との相対的な関係を臨機応変に取り結ぼうとする日本語は、多くの言語のうちでも最も進化した形態のものだということになる。日本語でダジャレやギャグなどの言葉遊びによる笑いが盛んなことは、その例証だと考えられる。なぜならば、動物は人間のように笑うことはないからだ*27。
日本語における笑いは、古事記の時代から登場する。天照大神が弟の素戔嗚尊の乱暴狼藉に立腹して天岩戸に閉じこもった時に、天宇受賣命(アメノウズメノミコト)が滑稽なセクシー・ダンスをしたのに八百万の神が大笑いして、それに天照大神が何だろうと顔を出したというお話しだ。日本では、神々も笑いを楽しみ、自らも笑いを生み出す主体だったのだ。
なお古事記には、この時に歌があったかは述べられていないが、滑稽なダンスに歌が伴わなかったとは考えられない*28。日本人の歌好きについては、次回見ていくことにしたいが、ここでは日本語の歌の背景に日本語が子音+母音(CV)構造となっており、音節の切れ目が明快で音節数が数えられ、等時間リズムを作りやすいことをご紹介しておきたい。また、日本語は、英語のような強弱アクセントではなく、高低アクセントをとることから、メロディーを作りやすく、音読すると音楽に近い心地よさを醸し出すとされている。相撲の「呼び出し」を思い浮かべていただければ、お分かりいただけよう。それが、平家物語などの語り物や浄瑠璃、浪花節といった日本独自の文学・芸能を生み出した背景になっているのだ。ちなみに、江戸時代までは、多くの書物は声に出して音読するものとされていたという。ただ、音節の切れ目が明快で音節数が数えられる日本語は、その反面として聞き分ける音の数が100程度と英語の600程度に比べて非常に少ないという特徴を持っている。日本人が、英語を苦手とするのも、英米人のように多くの語を聞き分けられないからなのだ*29。逆に、英米人は東京を「トキョ」などと発音してしまうのだ。
日本人の笑い好きに関しては、財務省の先輩である船橋晴雄氏の「笑いの日本史」に詳しいが、枕草子の作者である清少納言の父親だった清原元輔は「人笑するを役となす翁にてなむ有り」けるとされていたという*30。それくらい笑いが重視されていたのだ。鎌倉時代に成立した「宇治拾遺物語」には、一貫して笑いを誘う話が集められていた。江戸時代には、「醒睡笑」という笑話集が編まれていた*31。船橋氏は、そのような日本人の笑いの背景には誰にも仏性があるという禅の人間観や多神教があるとしている。一神教の世界では神に捨てられたらおしまいだが、多神教の世界では「捨てる神あれば拾う神あり」になるからだ。そして「捨てる神」も絶対の悪ではない。それは狂言に登場する悪人がほほえましい「悪人」で笑いを誘う存在になっていることからわかるという。そのような狂言の笑いは、おおらかな幸福感を誘うのだという*32。
西欧流の「自我」の必要性を感じていない日本人
「世間」での会話が、相手との一種の共同作業だということは、前回述べた日本人には西欧人のような「自我」がないということにもつながっている。自分も他者も、「世間」での出会いに先だって確立している絶対的な存在などはないという日本語の世界では、人々は西欧流の「自我」や自己肯定の必要性という「ナンセンス」をそもそも感じていないというわけだ*33。西欧流の「自我」は、「われ」という自分の存在がなんなのかという疑問に対するデカルトの「われ思うゆえにわれあり」という答えなのだが、それは人間が神によって創造され、現在を生き、最後の審判を受ける存在だというところから来ているといえよう。神によって創造され、神によって裁かれる存在だとすれば、その「われ」は何かという疑問が出てくるというわけだ。それに対して、全てが混沌の中から生まれてきたという神話を持っている日本人は、なんとなく死ねば混沌の中のご先祖様と一体になるという感覚を持っている。そのような感覚を持つ日本人にとっては西欧流の「われ」は何かという疑問や、それに対する答えとしての「自我」という概念は出てきにくい。ちなみに、仏教では「さとり」を開くために、「自我(主体)」への執着を取り除くことを説いているが*34、そもそも仏教の「縁起」に「自我」はないという。「縁起」とは、「主体と対象それ自体がまず存在していて、しかる後に行為が発動するのではなく、発動している行為が、主体と対象を構成することなのだ」という*35。それは、日本語における主体や対象の認識と同様の構造だと言えよう。
そのように近代西欧流の「自我」の観念を持たない日本人は、西欧流の自分の能力に対する自意識が希薄で、人の価値を特定の能力で測ることを良しとしない感覚を持っている*36。一般的な日本人は履歴書に、西欧人のように自分の能力を積極的には書いたりはしない。ビジネス・スクールを卒業すれば、西欧人は高められた自らの能力を強く意識するが、日本人でそんな意識を持つ人は多くない。それは、日本人が、自己肯定感というようなものを持つ必要性をそもそも感じていないからだと言えよう。それは、前回ご紹介したように、日本人にとっての「自立」とは、自分が他者に依存しなくなるということではなくて、多くの人に少しずつ依存できるようになることだ*37からだと考えられるのである。
「世間」で楽しむ日本の芸能
日本人にとっての「自立」が、多くの人に少しずつ依存できるようになることだということは、多くの人で構成される「世間」を大切にすることにつながっている。日本人の愛社精神や愛校精神は、そのような「世間」の一つである会社や学校を大切にするということなのだ。山折哲雄氏によれば、日本人はそのような「世間」の中にいる人間を信頼するのだという。山折氏によれば、西欧人は疑うことがすべての源という人間観を持っているが、日本人は他人を信ずべき存在という人間観を持っているという*38。それも「世間」を大切にするところから出てくることであろう。
他人を信ずべき存在ということは、日本の文化や芸術が「世間」で楽しむことを基本にしていることにもつながっている。例えば、茶道では、掛け軸や茶道具を茶室という「世間」で、主人がお客と一緒になって楽しむ。それは、演奏会場や美術館という「世間」と離れた場で個人として楽しむ西欧流とは異なるものだ。明治時代に欧州の美術館を訪れた日本人は、蔵のようなところに美術品が所せましと並べてあって、それに対面させられることに違和感を持ったという。
日本語における「世間」は、時々刻々と立ち現れてくるもので、そこにおける貧富の違い、貴賤の違いなどは絶対のものではない。そこで、幅広く人々に親しまれる形での日本の文芸が生まれてきたと考えられる*39。平安時代の中頃には様々な滑稽味のある雑芸が猿楽の熊(わざ)として庶民にも親しまれるようになった*40。無礼講と会合(えごう)の文化が全面開花したのは南北朝時代といわれているが、そこではその場限りで身分制の時限的解除が謳歌されていた*41。能のように上流階級だけが楽しむものも生まれたが*42、幅広い「世間」で楽しむものとして連歌や連句、茶会が盛んになり、今日につながっている。連歌や茶会は、プロの芸術家による作品に「美」を見出すだけではなく、しろうとの創作にも「美」を見出そうとするものだった。連歌や連句は、「世間」における「主体」の掛け合いというべきもので、その創作過程での言葉のお可笑しみや変化を連衆が共同で楽しむものだった。出来上がった作品自体は単なる記録だったが、そんな中から俳句や川柳が生まれていったのだ。そのような創作活動は、芸術は個人の能力の発揮だという西欧流では考えられないものだった。利休の侘茶は、武家だけでなく堺の町衆といった町人も楽しめるものだった。江戸時代には名物を披露するような大名茶も行われ、明治の茶人には経済界の大物が多かったが、庶民の気軽なお茶会も盛んだったのだ。梅原猛氏は、そのような庶民が楽しむ文芸はアイヌの文化と共通しているとしている*43。とすればその起源は、縄文時代にも遡るということにもなろう。「世間」で普段使いをする道具をめでる「民藝」*44がはぐくまれてきたのも同様の伝統といえる。
西欧の影響を受けた明治以降、連歌や連句は急速に廃れていったが、句会は今日でも行われており、新聞、雑誌には短歌や俳句の特集欄がある。森鴎外は小説を書くだけでなく歌会(「観潮楼歌会」)も催していた*45。そのように、幅広く庶民に親しまれる俳句や短歌、川柳の伝統を持つ日本は、世界で最も詩人が多い国だとされている*46。ちなみに、本居宣長の古事記研究のきっかけも嶺松院の歌会に参加したことからだった。そこで、源氏物語を講釈するうちに、儒学の道徳を離れて感動を素直に表現する「もののあはれ」が大切だと気づき、源氏物語の根源といえる古事記研究に志した。そして、古事記を読むために万葉集を研究して「詞の玉緒」を著したというのである。
連歌や連句と同様に、「世間」における「主体」の掛け合いを話芸にまで仕上げたものに落語がある。熊さん八っあんとご隠居さんの掛け合いで笑いを創り上げるのだ。西欧においても、平家物語などの「語り」に相当する吟遊詩人は古くから存在したし、喜劇から生まれたコメディも世界各地に存在していたが、落語のように「掛け合い」を話芸にまで発達させたのは日本だけだった。渡辺京二氏によると、実は、歌舞伎も「世間」におけるかけ合いの延長線上の演劇だった。歌舞伎は西欧の演劇の観念からすれば、余程奇天烈な代物だという*47。まずは、単一の作者というものがいない*48。作者部屋に、立作者、二枚目、三枚目という人々がいて、立作者が新作を立案し、座元や主だった役者と相談する。その上で、立作者が主要な幕を書き、二枚目、三枚目が補助的な幕を書く。そして役者に読み聞かせるが、ここで役者からの注文に応じて改変が行われる。そうして出来上がったものは、いわば一座の合作だ。しかも、科白は要旨だけで、あとは役者が自由に述べ立てていた。役者は科白を勝手に言い変えていたのだ。それは歌舞伎が本質的に役者と観客が「掛け合い」で楽しむために書かれる芝居だったからで、観客は個々の役者の芸を役者と一緒になって楽しんだ。常連客が「成田屋!」「音羽屋!」などと「大向こう」の声をかけるのも、役者の見世場を一緒になって楽しんでいるのだという。そのような歌舞伎では、作品が通しで上演されるようなことはなく、人気を取った見世場だけを抜き出して上演されるのが一般的。客は桟敷を借り切って、飲み食いしながら、それを楽しむ。幕合いには茶屋に戻って接待を受ける。その際、衣裳を変えて楽しんだりする。芸者風にしてみたり、御殿女中のなりをしたりする。それがご婦人たちの楽しみで、歌舞伎見物は観るだけでなく、自分たちも観てもらうものだった。そんな歌舞伎には、西欧演劇なら当然行われるようなリハーサルなどない。それぞれの役者が磨いている芸を、みんなで鑑賞するのにリハーサルなど必要ないからだ。
最近は行われなくなったが、酒席でのお流れ頂戴も、「世間」での交流を大切にする日本ならではの文化だった。お流れ頂戴は、中国では不衛生だというので大変いやがられ、朝鮮半島でも行われないというが、日本では酒席における大事な行事だった。実は、お流れ頂戴は茶事の懐石料理での大切な作法の一つでもある。「千鳥の杯」というのが行われるのだ。なお、結婚式で行われる三々九度の盃は、アイヌのカムイノミの行事に似ているとのことで、梅原猛氏は、そこにもアイヌの伝統の影響があるとしている。アイヌのユーカラ(叙事詩)では、盃(さかずき)を交わすことは、自分の霊を相手に与え、相手(偉い人)の霊を自分にもらうことで、お互いの霊力を交換し合うことだったというのだ*49。
「世間」の中での日本人の平等
日本の文芸が、貧富の違い、貴賤の違いにかかわらずに「世間」で楽しむものとして発達してきた背景には、万物が混沌の中から生まれてきたとする神話を持つ日本では、西欧的な身分差別意識が成立しなかったことがあったと考えられる。「ハエが手をする足をする」という俳句の背景には、ましてや「ハエ」ならぬ人間同士は身分が違っても同じ人間じゃないかという感覚があるのだ。江戸時代というと、士農工商の身分差別が厳しかった時代だったと思われているが、それは明治になって江戸時代を暗いものに描いたせいだ。渡辺京二氏によると、芝居の「助六」を見たら「花は桜木、人は武士」ということで侍は庶民の憧れの的だったということがわかるが、その侍(武家)の身分は、株を買うことで成り上がっていけるものだった。例えば、勝海舟のひいじいさんは越後の農民で江戸に出て成功して旗本の侍株を買った人だった。幕末の能吏には、そういった武士が多かったという*50。ちなみに、倒幕に活躍した坂本龍馬や西郷隆盛は下級武士の出身であった。
渡辺氏によれば、「武士は為政者つまり治者でありますから、他身分から一応尊敬はされますけれども、それでも一般庶民は武士に対してへへっとおそれ入っていたわけではなく、特に江戸の庶民には武士何するものぞという気概がみなぎっておりました。斬り捨て御免などとんでもないことであった(中略)。侍の子が町人の悪童にいじめられた話など珍らしくもありません。(中略)これは幕末から明治初年にかけて来日した西洋人の気づいたところですが、武士の間では上級者が下級者に非常に気を遣ったものでした。これは召使いや女中に対しても同様で、西洋人の主婦は日本人の召使いを使ってみて、彼らが主人の言う通りにしないのにほとほと手を焼いています。主従関係において従者に主導権があるらしいことに、西洋人はみな奇異の念を抱いたのです。(中略)実際その社会に住んでみて、江戸時代と現代のどちらがより不平等感の強い社会であるか、必ずしも容易にはきめられないのではありますまいか。今日、(中略)会社にはいれば、それこそ上司との平等などありえないでしょう。私は新聞記者と一緒にタクシーに乗って、記者が運転手に「~までやってくれ」といった物言いをするのに、冷汗が出るような思いをしたことがあります。これは明白な身分的不平等ではありますまいか」というのだ*51。ちなみに、江戸時代には、「押し込め」というのがあった。暗愚な殿様には何の権力もなく、全部、家臣団がもっていたのである*52。
最後に余談である。日本語には単数複数の区別がないという話についてである。それは、大阪弁で猛獣の檻の前に「かみます」とだけ書いてあるのと同じ合理的な話なのではなかろうか。複数が必要な時には人々、島々というように語を重ねればいいだけで、英語のように必要もないときにまで複数と単数を区別するのは面倒なこと甚だしいということである*53。それは、英語が論理的なので複数・単数の区別をするのに、日本語が論理的でないのでそうしないといったこととは次元の違う話だと思われる。
次回は、文字を持たなかった日本語が、漢字を取り込むことによって書き言葉としての多彩な日本語を創り出していった話をすることとしたい。
*1) 「日本のクラシック音楽は歪んでいる」森本恭正、光文社新書、2024、p116-120
*2) 「雨のことば辞典」倉嶋他編、講談社学術文庫、2014
*3) 「擬音語、擬態語辞典」山口仲美、講談社学術文庫、2015
*4) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p72
*5) 「述語制の日本語論と日本思想」飯島英一、日本国際高等学術会議研究叢書.述語制の日本;1巻、哲学する日本.4、p465
*6) 「日本とは何か」今野真二、みすず書房、2023、p242
*7) 学士会報、No.964、p19
*8) わが国最初の勅撰和歌集。その解釈は伝承化され、肥後の細川家に伝えられた。筆者が出向した熊本県の水前寺公園には、古今伝授の間が京都から移築されていた。
*9) 万葉集740では「鬼」を、伊勢物語第23段では「魂」を、「もの」と読ませていた。
*10) 規範としての民主主義・市場原理・科学技術」藤山智彦編著、東京大学出版会、2021、p64、65
*11) 「述語制言語の日本語と日本文化」金谷武洋、文化科学高等研究院出版局、2019、p143
*12) 「女子大で和歌をよむ」木村朗子、青土社、2022、pp179-182
*13) 「室町は今日もハードボイルド」清水克行、2023、p209―213
*14) そのような日本語の感覚から生まれたのが、鳥獣戯画のような動物が人間のように行動する描写であり、絵画に自然の印象を取り入れた浮世絵といえよう(山口仲美、2023,p166-67)
*15) 同様のことは、多くの民族(オーストラリアのルビビ族など)で信じられていた(「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎新書、2023,p265、「日本語の哲学へ」長谷川三千子、ちくま新書、2010、p229-30)。
*16) 詩経「毛詩大序」:得失を正し、天地を動かし、鬼神を感ぜしむるは、詩より近きはなし(「江戸漢詩の情景」揖斐高、岩波新書、2022,p250)
*17) 山口仲美、2023,p160、236-38
*18) 金谷武洋、2019、p291
*19) 金谷武洋、2019、p294
*20) 「日本語には敬語があって主語がない」金谷武洋、光文社新書、2010、p16
*21) タイやラオスに住む山岳民族が話すムラブリでは、相手との関係性を確認するメタ・メッセージ以外には、ほとんどコミュニケーションをしない(「ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」伊藤雄馬、集英社インターナショナル、2023,p98-103)
*22) 複雑な人称名詞を使うのは日本語だけの特徴ではない。ベトナム、カンボジア、タイやチベットなど、アジア各地には多数の一人称・二人称をもつ言語文化が見られる(「人類精神史:宗教、資本主義」山田仁史、筑摩書房、2022,p215-16)。
*23) 金谷武洋、2019、p39
*24) 土井善晴氏は、大阪弁は地球とつながっていると感じるのでやめられない、料理も同じだとしていた。養老孟司氏によると、標準語は「軍隊のことば」であった(学士会報、No.964,2024.1,p18)
*25) 「大阪ことば学」尾上圭介、岩波現代文庫、2010、p56―65、67、112,164,166,186,209,213)。
*26) 尾上圭介、2010、p72、108-109、166、170-172、189、193
*27) 「笑いの日本史」船橋晴雄、中央公論新社、2023、p82
*28) 船橋晴雄、2023、p14。船橋氏は、日本人の笑いの一つの中心は、性にかかわる笑いだとしている(同、p12,18)。
*29) 幼児の成長の過程で、10か月頃に知覚狭窄が起こり、それ以降は聞き分けが難しくなる(「顔に取り憑かれた脳」中野珠美、講談社現代新書、2023,p79-80)
*30) 船橋晴雄、2023、p49、55
*31) 船橋晴雄、2023、p67、163-170
*32) 船橋晴雄、2023、p114、139―142
*33) 本稿第1回、ニック・チェイター教授、参照。同教授は、それは、アダム・スミスと同時代のエジンバラの哲学者デイビッド・ヒュームが洞察していたことだとしている(「心はこうして創られる」ニック・チェイター、講談社選書メチエ、2022,p255)。
*34) 「明恵 夢を生きる」南直哉、p267
*35) 山田仁史、2022、p248
*36) 無能者と思われていたものが活躍する「三年寝太郎」といった民話にその感覚が表れている
*37) 東京大学先端科学技術研究センター熊谷晋一郎准教授
*38) 人類みな兄弟。山折哲雄、われ信ず、ゆえにわれあり。悪人正機。非分離主義(金谷武洋、2019、pp26-28)。
*39) 鈴木孝夫、2014、p87
*40) 船橋晴雄、2023,p135
*41) 「『幕府』とは何か」東島誠、NHKブックス、2023、p190。
*42) 船橋晴雄、2023,p136
*43) 梅原猛は、お茶の作法は中国のものではなく、アイヌの酒の作法と似ているとする。成田得平(北海道ウタリ教会教育文化部長)は、能も神楽も歌舞伎もアイヌの芸能の世界と非常に近いとする(「アイヌと古代日本」江上波夫他、小学館、1982、p416)。
*44) 西欧で「民藝」が見られるのは博物館である。「民藝」は、個人の独創性を標榜し、既存の美の観念を破壊し、奇想天外な着想を競う近年のモダン・アートとも正反対の芸術観念といえよう。
*45) 「森鴎外 学芸の散歩者」中島国彦、岩波新書、2022、pp116-7
*46) 「日本の感性が世界を変える」鈴木孝夫、新潮選書、2014、p80-86
*47) 「小さきものの近代1」渡辺京二、弦書房、2022、p269-271
*48) 「三宅雪嶺 異例の哲学」鷲田小彌太、言視舎、2021、p108
*49) 「アイヌと古代日本」江上波夫、梅原猛、上山春平、小学館、1982,p343
*50) 「近代の呪い」渡辺京二、2023、p182
*51) 「近代の呪い」渡辺京二、2023、p119
*52) 「近代の呪い」渡辺京二、2023、p189
*53) 世界には、数の概念自体を持たない民族が存在することについて「過剰可視化社会」(与那覇潤、PHP新書、2022、p94)参照。