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令和5年度職員 トップセミナー

講師 増田 明美 氏(スポーツジャーナリスト・大阪芸術大学教授)
演題 スポーツの力
令和6年1月19日(金)開催


はじめに

今日は財務省の職員トップセミナーに講師としてお招きいただきまして、どうもありがとうございます。またオンラインで聞いてくださっている方も100人ぐらい全国で聞いてくださっているとのこと、よろしくお願いします。
私、このセミナーのおかげで財務省に初めて伺うことができました。何かこのアンティークな感じ、作りが古めかしくて重厚で、こういったところで皆さん国の予算とか大事なお仕事をされているのだ、というのを肌で感じて、何だか得した気持ちです。
本日はここに来るまではとても緊張していましたけども、2020東京五輪の関係で存じ上げている方も参加されているということで、今日はざっくばらんに話していいのだな、と感じています。


1.能登半島地震

今日はまず、能登半島の地震についてお見舞いを申し上げたいと思います。被害に遭われた方々に向けて、これからどういうふうに予算立てして復旧復興を進めていくか。本日オンラインで聞いてくださっている全国の皆さんも、各地で汗を流されていると思います。
今も石川県では断水、それから停電が続いている地域も多いわけですよね。避難生活で本当ご苦労されている方々もいらっしゃる。体育館のようなところで200人ぐらいの方が避難生活されると、運動不足になって余計に低体温症になったり、寒い中で高血圧になったりすることも多いと聞いていますし、整形外科の先生方はロコモティブシンドローム(加齢や生活習慣を起因とする運動器の障害や衰え)を心配しています。
石川県を訪れることができるようになったら、避難所の皆さんと一緒に歩いたり、体操したりしていきたいな、と思っています。私はそれを熊本地震のときや、東日本大震災のときにも行いました。動きが取れるようになったら、またそういう活動もしていきたいと思っています。

2.1月14日の全国女子駅伝:魂の走り

本日は講演のタイトルを「スポーツの力」としました。講演の依頼を受けたのが去年でしたが、今回の能登半島地震のようなことがあると、余計にその力を感じるのです。最近では、1月14日にありました全国女子駅伝がそれです。
全国女子駅伝というのは、47都道府県ごとに中学生、高校生、大学生、社会人がふるさとのためにたすきをつなぐ大会なのです。その全国女子駅伝の石川県代表で、1区を走った五島莉乃さんという選手は、石川星稜高校出身です。松井秀喜さんと同じ学校の出身であり、中央大学に行って、今は資生堂チームで陸上競技をやっています。世界陸上にも日本代表で出るような強い選手です。でも、この全国女子駅伝での走りは、ただの強さではなくて、「魂の走り」でした。ご覧になった方、そう思いませんでしたか。五島さんは西京極陸上競技場では集団の中にいました。でも競技場を出た途端にトップにたち、2位の人に大差をつけていったのです。
五島さんの「石川の皆さん、今大変でしょうけども、私も頑張るから、この震災に負けずに、元気でいきましょう! 一歩一歩前に進みましょう!」という気持ちが全身に現れていましたね。沿道からは「石川、がんばれ」と声がとび、石川というユニフォームの文字が揺れるたびに、テレビで応援していた私は胸打たれて涙がこぼれて仕方がなかったのです。
これがスポーツの力です。五島さんはいつもならもっとスマートな走りをします。が今回はがむしゃらな、魂の走りでしたね。
五島さんの走りを見て、自分ができることで被災した方々を元気づけられたらいいのだな、という気持ちを強くしました。
NHKがこの日の夜8時55分の全国ニュースの中で伝えたのが、五島さんの走りとコメントを中心にした映像でした。やはりそういうことなのです。スポーツというのは競技だけではなくて、その走る姿が皆さんを明るくするのだ、そういうことを感じましたね。

3.阪神淡路大震災:がんばろうKOBE

振り返ってみると、阪神淡路大震災が29年前でした。当時のオリックス・ブルーウェーブは「がんばろうKOBE」を合言葉にチームが一つになって、95年にリーグ優勝しました。96年には日本シリーズでも勝ったのです。
阪神淡路大震災の時も、野球で皆さんが元気づけられたことを思い出しました。

4.東日本大震災1:箱根駅伝での柏原竜二の力走

2011年の東日本大震災のときには、翌年の箱根駅伝で、当時「二代目・山の神」と言われていた福島県いわき市出身の柏原竜二さんが、5区の登りで自分の区間記録を破る素晴らしい走りをしたのです。やはり、被災した東北のことを思って自分の走りで元気づけたい、ということで、寒い中、あの5区を走っていたときの表情は忘れられませんね。
独走状態であり、競っているわけではなかったのに、柏原竜二さんが阿修羅のごとき顔をして力走していたのです。あの表情をすごくよく覚えています。一緒にみんな頑張ろう、というエールを送る走りでしたね。
あのときのインタビューが私には忘れられなかったのです。柏原竜二さんは自分の区間記録を破った後に、「私の苦しみは1時間ちょっとです。福島の人の苦しみに比べたら大したことない」ということを言われて、これは本当に響く、すごい言葉だな、と思いました。
私もマラソンをやっていましたけど、考えてみたらマラソンだって2時間半の苦しみでしかないのです。被災された方々の気持ちとか葛藤とか苦しみというものはずっとあるわけですから。それを柏原さんが言われたことを思い出しましたね。

5.東日本大震災2:なでしこジャパン優勝

2012年はサッカーワールドカップでなでしこジャパンが決勝戦で強敵アメリカに勝って優勝しました。あのときは、後から報道で知りましたが、震災の様子をビデオで見て、頑張ろう、という気持ちで試合に臨んだそうです。

6.KOBE2024世界パラ陸上競技選手権大会

今年は5月17日から神戸で世界パラ陸上競技選手権大会が開かれます。スキーでも活躍された車いすの村岡桃佳さんや日本の義足陸上競技選手初のメダリストである山本篤さんをはじめ、本当にいろいろな選手たちがいらっしゃるのですけれども、選手たちとは「私たちにできるのは、たくさんの応援してくださる人たちに元気を与える精一杯のパフォーマンスをすることだよね」と話をしています。
私はこの大会の組織委員会会長をやらせていただいています。しっかりと準備して進めていますが、神戸市の方々が本当に一生懸命です。「神戸はたくさんのボランティアの方々からサポートを受けて阪神淡路大震災を乗り越えてきた街だから、神戸の人は優しいよ」とみんな言うのです。
2020東京五輪のときは、コロナ禍でしたからほとんどの競技が無観客でした。5月の世界パラ陸上競技選手権大会では、できるだけ子供たちにトップアスリートに触れてもらおう、ということで、いろんな小学校、中学校、また高校などの生徒たちも見に来てくれますし、ボランティアでも参加してくれます。
今、私が感動しているのが子供記者です。神戸で行われる日本選手権やパラリンピックなどのリハーサルが開催されると、子供記者の皆さんが取材に来てくれるのです。これからこういったものが新しいレガシーとして残っていくのが素敵だな、と思います。
2月7日になると開催100日前となり、ドーンと応援団も増えますので、PRのビデオなども流させていただく予定です。
たくさんの方に見に来ていただきたいって思っていても、自分たちが強くないと魅力的ではないのです。強くて愛される選手というのが一番じゃないですか。大谷翔平さんなどを見ていても、そうですよね。強くて愛される選手を目指そう、と選手たちとよく話しています。

7.失ったものは数えるな

パラの多くの選手が座右の銘にしている言葉があるのです。
それは「失ったものを数えるな。今あるものを最大限生かしましょう」という言葉です。
これは「パラリンピックの父」と呼ばれているルードヴィヒ・グットマン博士の言葉です。パラの選手たちというのは、例えば視力を失っても、聴力に頼って走り幅跳びをします。また交通事故で右脚を切断した選手は「まだ左足がある」と。脊髄損傷で下半身まひになっても「腕で車いすをこげる」というように、気持ちを切り替えて競技に取り組んでいます。ひと山越えての競技者なのです。
先ほども触れたメダリストの山本篤さんという、みんなの兄貴と慕われる走り幅跳びの選手がいらっしゃいますが、この方も交通事故で足を失ったときには死んじゃうかな、と思ったそうです。でも、恩師や家族の支えなどがあって、パラリンピックという目標ができて、また頑張ることができたそうです。
長年の努力で鍛えた体から生まれるパフォーマンスは、すごく良いものを与えられると思うから、選手たちは、失ったものを数えるのではなくて、今残っているものを最大限生かしていこうと、頑張っているのです。

8.パラの選手の体の動かし方が参考になる

パラの選手たちの、残された機能を生かしながらのパフォーマンスを見て、一緒に合宿をするオリンピックの選手が「体の動かし方の参考にしたい」というケースもあるのです。
100m走の山縣亮太選手などはそうですね。同じ慶応大学で一緒に合宿をした高桑早生さんという義足の走幅跳と100m走の選手がいるのですけども、一緒に合宿をしたら、山縣さんが「高桑さんの体の動かし方がヒントになった」ということで、コーチも一緒にしてしまって、高桑さんのコーチの方に今見てもらっています。だから、山縣さんが100m9秒台を出したときにも、彼は「高桑さんからすごく良い影響を受けた」と言っていました。

9.ロサンゼルス五輪での挫折

私は高校時代には天才少女と言われていました。多分、若い方は知らないですよね。
私が出場した1984年のロサンゼルス五輪が、女子マラソンが正式種目になって初めてのオリンピックだったのです。岩手県で先生をやってらっしゃった佐々木七恵さんと2人でオリンピックの日本代表になって出場しました。
私は高校時代が黄金時代で、高校3年生のときに当時のトラック種目からマラソンまでの日本記録を全部塗り替えて、天才少女と言われていました。教わった先生が良かったのです。俳優の滝田栄さんのお兄様(滝田詔生さん)が私の先生でした。
先生のお宅で畳の部屋一間の下宿生活をしていましたけど、その畳の部屋を次に使った人が室伏広治さんです。
「彗星の如く現れた」とスポーツ紙にも書いてもらって、調子に乗っていました。もう本当に強かったので、「足が痛いです」と言うと、高校生なのに、トレーナーの方が飛んできてくれて、足をマッサージしてくれました。またシューズがすり減ってペタペタになると、大手シューズメーカーからシューズが四足ぐらい送られてきたりしました。
まだ人間ができてない高校生のうちからそうでしたから、「自分を中心に、みんなが何でもやってくれるのだ」という思い込みのようなものがあったのです。
そして期待された20歳のときのオリンピックで、プレッシャーに負けて、私は16キロで途中棄権してしまったのです。
私がオリンピックという大舞台で思っていた走りができていなくて、「すごくみじめな走りを今日本中の人が見ているのだ・・・」という思いで頭がいっぱいになり、そういう恰好悪い自分に負けました。結局オリンピックでメダルを取る人は、人間力で取る、と言うじゃないですか。私の人間力は未熟だったのです。
16キロで棄権して、日本に帰ってきました。成田空港に着いた時、通りすがりに顔を見られてしまい、見ず知らずの人から「おい、非国民!」と指差されました。
その言葉が刺さってしまい、街中を歩いていても、みんなから指差されているような、そういう空気を感じて、ちょっと病気みたいでしたね。人の目が怖くなって寮の部屋に約3か月引き籠って、どうしたら楽になれるか、シャボン玉みたいに消えてなくなることができるか、ということばかり考えていました。
私が元気を取り戻したのは、励ましの手紙に助けてもらったからです。当時は人と話すのも嫌だから、電話線とかも全部抜いていたのですけども、それで母親が心配になって、いろいろ料理を作って持ってきてくれたときなどに、全国から届いた手紙を見せてくれました。
その手紙を読むと、皆さん優しいのです。今でもよく覚えていますが、便箋10枚ぐらいに70過ぎの男性の方がそれまでのご自分の人生を綴って送ってくださったのです。私の悩みは、陸上の世界、競技の中だけの小さな悩みに過ぎないことを、その手紙は私に教えてくれました。その手紙には経営がうまくいかなくなって、それこそ大変な思いをされたことなどが書かれていて、最後に「増田さん、マラソンは長いけど、人生はもっと長いのだから、元気出して頑張りましょう」と書いてありました。私はその手紙を読んで泣きました。
それからハガキ1枚で届いた手紙は今でも残してありますけれども、大きな優しい、笑っているような文字で、「明るさ求めて暗さ見ず」と書いてありました。良い言葉ですよね、
「非国民!」という人もいるけれども、「明るさを求めて暗さ見ず」と励ましてくれる人もいる。人は人に助けられながら、人生の長距離ランナーとして一歩一歩前に進んでいるのだ、ということを、オリンピックの失敗を通じて学ぶことができました。
「神様が人に失敗を与えるのは、その人に足りないものがあるからだ」と言われますけど、まさに私がそうです。それまでは高飛車なところがありました。オリンピックでの挫折を通じて人に対する感謝の気持ちを教えてもらえて、人生の勉強をさせていただいたと思います。

10.大阪国際女子マラソンに参加、完走

少しずつ元気になってきたら、私はまた走り始めました。でも42.195キロを走るには、長いから本当に勇気が要るのですね。
またフルマラソンを走って、もう1回止まるようなことがあったら、私は、今度は立ち直れないかもしれない、という怖さもありました。だから4年間マラソンは走れなかったのです。
でも「ビリでもいいからゴールまで行かないと、本当の意味での新しいスタートは切れないな」という気持ちになって、かつてオリンピックの切符を掴んだ大阪国際女子マラソンを走りました。
そのときは、本当にゴールまで行くことが目標でしたから、第3集団を走っていても楽しかったですね。沿道からは「増田さん、おかえり!」という掛け声があったりして、本当に待っていてくれたのだ、というマラソンでした。
今でも忘れられないのは、27キロ地点で、男の人の太い声で、「増田、お前の時代は終わったんや!」という野次が飛んだのです。
私、オリンピックから4年も経っていて、「もう絶対にゴールまで行ける。昔の自分とは違う」と頭では整理がついていたのですけど、やはり心が駄目なのです、また負けちゃったのです。沿道の人も、テレビを見ている人もみんなが「お前いつまで走っているんだよ、お前の時代はとっくに終わっているんだ!」と言っているように思えてしまったのです。
また負けちゃって、カメラマンに捕まらないように、地下鉄でホテルに帰ろう、と思い、私は止まって、地下鉄の駅を探しながら、歩いたのです。
でも人が沿道に多かったので、なかなか地下鉄の駅が見つからない。そうしているうちに、歩いている私を、6人の市民ランナーの方が追い越していったのです。その6人の方が誰一人として素通りしなかったのです。みんな私のことを気にかけてくれました。
歩いている私の横に来て走らせようとして、「ほら、ほら、ほら」と手拍子するひともいれば、右肩をポンと叩いて走り去っていく方、スポンジを持ってきてくださる方もいらっしゃいました。
最後6人目の方が「増田さん、一緒に走ろう!」と言いながら、何度も何度も後ろを振り返って、私を走らせようとするのです。ふくよかな体形の感じの方だったのですけども、その6人目の選手の後ろ姿が素敵だったのです。
その選手に付いていく、というか、長居の陸上競技場に運んでいただいて、ゴールすることができました。
30位でした。記録は2時間52分台で、自分の持つ日本記録からしたら20分以上遅いのです。でも、私が競技生活を振り返ってみて一番好きな大会がこの1988年の大阪国際女子マラソンなのです。
競技場のトラックに入ってもずっと泣いていました。6人の方が私を運んでくれてありがとう、という気持ちと、何か都合が悪くなると弱くなる自分がいて、でもそれを試すかのような「お前の時代は終わったんや!」という言葉に負けることなく、私は競技場まで帰ってくることができた・・。そういった、いろいろな感情が混ざったマラソンでした。
オリンピックの後に手紙で人に助けられて立ち直った後、今度はマラソンのレース中に6人の市民ランナーに助けられて、それでしっかりゴールができたから、本当の意味で、私は新しいスタートを切ることができて、今日があるのだな、と思うのです。
だから、隣にいる人が元気ないときには、今度は私が「一緒に走ろう!」と言ったり、給水の水を与えてあげたり、ということをしながら、前に前に進んでいかないと、私は本当に罰が当たるな、と思っています。

11.「知好楽」

今解説の仕事などで、選手たちを取材して感じることは、オリンピックの大舞台でメダルを取っている選手は大舞台を楽しめているということです。もう待ち遠しくて仕方ない。一生懸命鍛錬してきた力を試す晴れ舞台が楽しくて仕方ないのです。
シドニー五輪に臨む、女子マラソンの高橋尚子さんが、まさにそうでした。マラソン当日は、高橋さんは、ヘッドホンで音楽を聴きながら踊っているのです。「何をやっているの?」と聞いたら、「hitomiの曲を聞いて踊っている」とのこと。こういう選手が強いですね。
なでしこジャパンもそうじゃないですか。去年ベスト8にも入りましたけれど、今の選手たちみんな明るく笑っていましたよね。
昨年夏の甲子園で優勝した慶応義塾高校の「エンジョイ・ベースボール」もそうで、やっぱり昭和と違いますね。
本番を楽しめる、大舞台が楽しみで仕方がない、というのは、練習でやっていることに自信があるからですね。自信があるから、待ち遠しい、楽しみだ、となるわけです。
そういう選手を取材していましたら、すごい言葉に出会いました。それが今私の座右の銘、論語の「知好楽」という言葉です。
一つのことに一生懸命打ち込んでいるとき、そのことをよく知っているというのは素晴らしい。でも、知っているだけの人よりも、それを好きでやっている人は勝っています。そして好きな人よりも楽しんでいる人が一番良い結果に繋がっていきますよ、こういう解釈ですね。
私、自分のオリンピックを振り返ると、「知」で終わっていました。
ロサンゼルスは暑いので暑さ対策をしました。40キロ走を3回やったから大丈夫だよねって。それだけで終わっているのです。
全然自信がなくて、ゲームを楽しんでいるかと問われたら、競技生活だって辛くて辛くて仕方がなくて、体調崩して吹き出物がいっぱいできて、かさぶたになって剥がさなければ治るのに、何の楽しみもないので、鏡の前でかさぶたを剥がすことだけが楽しみでした。
選手の層が厚くなる中で、今オリンピックや世界陸上なんかでメダルを取ることはすごく大変なのです。私がやっていたときよりも練習の量も質も高くなった中で、今の選手たちは厳しい練習を、明るさを持って乗り越えようとしています。
知の時間はとてつもなく長いのですが、その辛さに明るさでぶつかっていきます。まさに「知好楽」です。

12.国際NGO活動

最後になりますが、私の国際NGO活動について簡単にご紹介します。
私は今、プラン・インターナショナル・ジャパンという国際NGOの活動をしています。
こちらの写真はラオスです。貧しい地域ではどこも女の子が後回しです。男の子には「いっぱい食べなさい、教育もしっかり受けなさい」となるのですが、女の子は小学校に行かなくていい、農作業をしなさい、という感じなのです。ラオスでもやはり女の子が裸足で水汲みをしていました。
でもここの家のお母さんが教育熱心で、看護士になりたいという娘が電気も通らない地域でランプのもとで一生懸命勉強していました。
私がラオスで子どもたちに「日本から来た」と言っても、みんな怪訝な顔をするのですが、「一緒に走ろう! あそこの丘までみんな一緒に走ろう!」と言って走り始めたら、この写真を見てください。一緒に汗を流したらみんなが笑顔になりました。
まずは一緒に走って、打ち解けてからいろんなコミュニケーションを取ろう、ということに気付かせてもらったのがラオスでした。
こちらは西アフリカのトーゴに行ったときの写真です。トーゴは大変貧しい国ですが、サッカーが人気です。私が訪れる8年ぐらい前から、プラン・インターナショナルはトーゴで女子サッカーチームを作る活動を行っていました。
でも女子チームを作った当初は、長老の方々が「なぜ女性が短いパンツを履いてボールを蹴るのか」と批判し、親たちも反対でした。しかし、村同士での試合などで女子選手ががんばっていると、次第に観客も増え、今では遠くの試合には村の長老が率先して応援に行くようになったのです。
試合後に女子選手たちに「将来何になりたいですか?」と聞いたら、「トーゴの総理大臣になりたい」という子もいて、ご家族の方に話を聞いたら、「サッカーをやる前までは、うちの子供は声が小さかった。でもやり始めたら大きな声で話すようになった」とのこと。
途上国で新しくこういうチームができて変わっていく様子を見ていますと、スポーツはまだまだいろいろと果たせることがあるなと思いました。
ご清聴ありがとうございました。(以上)
写真 提供 プランインターナショナル ジャパン 撮影 鬼室 黎

講師略歴
増田 明美(ますだ あけみ)
スポーツジャーナリスト・大阪芸術大学教授
1964年、千葉県いすみ市生まれ。成田高校在学中、長距離種目で次々に日本記録を樹立する。
1984年のロス五輪に出場。92年に引退するまでの13年間に日本最高記録12回、世界最高記録2回更新という記録を残す。マラソン、駅伝の解説が好評で、2017年にはNHK朝の連続テレビ小説「ひよっこ」の語りを担当。
現在、テレビ番組のナレーションやニュース番組のコメンテーターも務める。日本パラ陸上競技連盟会長、東京陸上競技協会会長、日本パラスポーツ協会理事。