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ファイナンスライブラリー

評者 渡部 晶

國部 克彦/後藤 玲子 編著
責任という倫理 不安の時代に問う
ミネルヴァ書房 2023年8月 定価 本体3,800円+税

本書の扉裏には「国際紛争、経済格差の拡大、そしてパンデミック。文明社会が容易に解答を見出せない問題に直面するなか、求められている倫理とはどのようなものなのだろうか。本書はこの問いに応答するための鍵概念として『責任』に着目する。リスク社会、政策決定、政治過程、隣人、公平、ジェンダー、企業といった領域に生じている問題を分析するなかで、『責任』という手垢のついた概念を再検討し、時代に対応した形に鍛えなおすことで、問題解決への糸口を探っていく。新たな時代の倫理を示す、総合的研究の成果。」とある。編者らによれば、「哲学、法学、経済学、経営学、会計学の研究者が、コロナ禍の不安な時代背景のもとで、それぞれの立場から『責任』について議論したもの」である。「人文社会科学の領域も、自然科学と同様に学問の縦割りが進行しており、相互の研究交流は驚くほど細くなって」いるという。「しかし、責任や倫理という社会の基底的な概念は、細分化した学問分野だけでは十分に捉えることができ」ない。そのため、「私たちのささやかな試みが、この閉塞状況に一縷の望みをつなぐことができれば、これほど嬉しいことは」ないとする。
本書の構成は、はしがき、序章 現代的な不安と責任という倫理(國部克彦・神戸大学大学院経営学研究科教授)、1章 リスク社会における責任と倫理―混乱を克服するために(國部克彦)、第2章 許容可能なリスクの責任ある決定―費用便益分析と契約主義(瀧川裕英・東京大学大学院法学研究科教授)、第3章 公共政策と責任―コロナ禍の政策過程(山本清・東京大学名誉教授)、第4章 隣人への責任―ケイパビリティと「外出自粛」(後藤玲子・帝京大学経済学部経済学科・先端総合研究機構教授)、第5章 責任の基盤としての自制―アダム・スミスと「公平な観察者」(金森絵里・立命館大学経営学部教授)、第6章 ジェンダー正義への責任―ロールズ「財産所有のデモクラシー」の可能性(神島裕子・立命館大学総合心理学部教授)、第7章 企業の社会的責任の展開―レスポンシビリティを組み込むために(國部克彦)、終章 責任という倫理が成立する条件(後藤玲子)、索引、となっている。
編者の1人である國部教授は、「序章」にて、諸論考の共通点について「未来に対する人間の主体的な行為が人間の責任として求められることと、そのために必要な倫理的な思考の道筋と、それを支える制度のあり方である」と整理する。そして、1979年に世に問われた哲学者ハンス・ヨナスの『責任という原理』の言葉を引きながら、「現代的な不安に対処するためには、人間という存在が人間に『突きつけられる要求に対して開かれている』ことが必要である。ヨナスはそれを『人間の未来に対する責任の目標』であると主張する。その目標が人類に共有されるとき、目標は倫理として人の行為を支援することになるであろう」とする。また、もう1人の編者後藤教授は、「終章」にて、責任概念には、「倫理としての責任」と「財としての責任」の2つの側面があり、その2つが交錯性を持つとする。また、「悪」を「悪」として同定し、加害主体の応答責任の無限性を無効にすることなく、被害者の抱え込まされた損害を能うる限り補償すること、すなわち、誠意をもって死者を悼み、生者の生存を支えること、という責任のあり方を提示する。この論点につき昨年12月2日に出版を記念して開催されたシンポジウムでは批判的な意見が強く述べられたが、今後とも冷静な議論の中で鍛え上げられていくことを期待したい。
なお、評者は、以前、J.E.ミードの『理性的急進主義者の経済政策―混合経済の提言』を紹介する機会を『ケインズとその時代を読む』(大瀧雅之・加藤晋編 東京大学出版会 2017年)の中でいただいたことがある。ミードが提唱した「財産所有のデモクラシー」について、第6章でロールズを通じて現代的課題として考察がなされていることに深い感慨を持った。この構想の根底に「私たちが他者と共に生きる存在者としての責任を引き受けることに依存している」ことがあるという指摘にも頷かされた。