国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇
敵を知り、己を知れば、百戦して殆うからず
若いころ、人事院の留学制度で米国のスタンフォード・ビジネス・スクールに留学した。当時は、ジャパン・アズ・ナンバー・ワンなどと言われていた時代で、日本のビジネスについて学びたいという米国人学生が多かった。南カリフォルニア大学のビル・オオウチという教授が日本流の経営手法についての“Theory Z”という本を出してベスト・セラーになるといった状況だったのだ。そんな中で、特に熱心だったアメリカ人の学生と一緒に日本の経営手法を研究するサークルを創設した。共同創設者になった学生は、その後全米商工会議所の副会長になった。活動は、日米両国で活躍している企業の実際の経営手法について研究しようということで、実際に活躍している経営者に来てもらってみんなで議論したりするものだった。例えば、ソニーの盛田会長(当時)を呼んできた。そんな活動が評価されて、卒業式ではクラスに最も貢献した学生として表彰された。そのような私にとって、当時から日本人が、国際会議で3S(スリープ、スマイル、サイレンス)といわれていることは大きな謎だった。かつては国際会議を成功させる秘訣は、いかにインド人を黙らせ、いかに日本人にしゃべらせるかだといわれていた。なぜかといえば、日本人は他の人より先にしゃべることをためらう文化を持っているからだというのだった。最近は、GDP規模で中国やドイツに抜かれてインドに抜かれるのも時間の問題、一人当たり国民所得で韓国や台湾にも抜かれるという状況で、国際会議で日本人にしゃべらせようなどとは言われなくなっているようだ。それは、これからは日本人も自分から発言していかなければ自国の利益を守ることができなくなっていることを意味している。民間企業のビジネスにおいても同じで、言うべきことを言うべきタイミングで言わないと、諸外国の企業に太刀打ちできなくなっているのだ。
そんな中で日本の現状がどうかというと、英語教育の重要性が言われるようになっているが、学校で教えてくれる英語は多くの人にとってあまり役に立っていない。学校では英語が上手になることを教えてくれるが、他の人よりも先にしゃべることを教えてくれないからだ。そもそも、日本人は、自分たちがそのような文化にどっぷりつかっているという自覚がない。とすれば、そのような文化の下にある日本語とはどんな言語なのかを知ることが必要だと思われる。「敵を知り、己を知れば、百戦して殆うからず」*1というが、まずは「己を知る」ことが必要というわけだ。本稿は、そんな問題意識からのものである。論点が多岐にわたるため、相当回数に分けての連載となるが、まずは総論として日本語では主語が使われないということをご説明することとしたい*2。
主語を使わない日本語
現在放映中のNHKドラマの主人公、紫式部が書いた源氏物語にはおよそ主語は登場しない。当時の人々には敬語の使い方によって、だれが話しているかは一目瞭然だったからだ。「光る源氏」(帚木巻)というのも「光る君」(桐壺巻)というのも主人公をめぐる「世間」での評判・噂を凝縮したあだ名だったのであり*3、主人公やその相手方が名乗ったり呼んだりしたものではなかった。なお、最初に申し上げておきたいのは、今日、世界を席巻しているのは主語を使う英語であり、公的な国際会議でもビジネスの世界でも、効率的なコミュニケーションを行うためには英語を用いることが不可欠になっているが、実は世界の言語の中で、英語のように主語を使う言語は少数だということである。世界では今日6000ほどもの言語が話されており、うち160余りが主要言語とされているが、主語を使うのは欧米の10ほどの言語と中国語くらいなのである。例えば、ギリシャ語やラテン語*4では主語はほとんど使われないし、かつては英語でも主語は使われていなかった。英語が主語を使うようになったのは近世になってからのことなのである*5。日本語が主語を使わないことのわかりやすいケースが愛の告白だ。これは、日本語には主語がないということを早くから指摘していたカナダ在住の日本語学者の金谷武洋氏が講演などの例示で取り上げておられることだ。日本語では、異性に愛を告白する時には、贈り物をしたり、レストランでご馳走をしたりと雰囲気を盛り上げたうえで「好きだよ」とだけ言うのが普通だ。主語を使って「私は、あなたが好きです」などと言ったのでは、相手は学校の先生から講義を受けているような気分になって、考えさせてくださいということにもなりかねない。日本人には、「好きだよ」だけで十分なのだ。主語を使うなどという無粋なことをしては雰囲気を壊してしまう。主語を使わなくても何の不自由も感じないし、むしろ使わないことによって「雰囲気」に合わせた細やかなコミュニケーションを実現しているのだ。そこには、「私は」という主語や「あなたが」などという目的語は登場せず、「愛」という感情を自分と相手とで共有したいという願望を表す「好きだよ」という言葉だけが直截に表現される。それは、自分(I)の「好きだ」という能動的、意図的な行為(love)ではなく、「好きだよ」という状況をある意味で自分も受動的に認識している*6。その状況を相手にも共有してもらいたいという願望を表しているのだ。それに対して、英語の“I love you”では、「私(I)」という主体からの「あなた(you)」という客体への「好きだ(love)」という感情の能動的な働きかけが表現されている。「愛」という感情を相手と共有しようという願望ではなく、「好きだ」という自分の感情を相手に受け入れてもらいたいという願望が表現されているのだ。
何か小難しくてよく分からないと言われそうだが、その違いは日本と米国の恋愛映画の典型的なクライマックス・シーンを思い浮かべてみれば分かりやすいという。すなわち、日本の恋愛映画のクライマックスでは、愛する二人が同じ方向、例えば浜辺に立って沈む夕日を眺めているというような光景で終わりになるが、ハリウッド映画では、お互いに見つめ合って、次の瞬間、燃えるようなキスを交わし、そこで「The End」という文字がスクリ-ンに現れるというのだ。
虫の音を虫の「声」として聴く日本人
金谷教授によれば、このように相手と感情を共有しようという構造を持つ日本語を学ぶと人格が柔らかくなるという。そのような日本語は地球を救える力を持っているのだという。それだけの力を持っているかはさておき、日本語の相手と感情を共有しようという構造はどこからきているのだろうか。私は、それは日本語が自分だけでなく多くの相手がいるという「世間」の中で、互いに意思疎通を図る言語として発達してきたからだと考えている。そして、この「世間」で意思疎通を図る相手は、日本語の場合は人間に限らない。動植物や自然、さらには道具の類も意思疎通を図る相手になっている。そんなことをいうと驚かれそうだが、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪は、一反木綿にしても塗り壁にしても、元々は道具や建物だったのだ。それが人間と意思疎通するようになっている。日本語での意思疎通の相手が人間に限らないことは、実は、日本人が虫の音を虫の「声」として聴くことに現れている。ちょっと意外だが、西欧人には秋の草むらの虫の音は雑音としてしか聞こえないという。西欧人にとって、虫は意思疎通を図る相手ではないからだ。英語には日本語の「虫」にうまく当てはまる言葉もないのだという*7。虫の音の聞こえ方の違いは、西欧人が虫の音を直感的に何かを決めるときに働く右脳で聞くのに対して、日本人が言語を操る左能で聞くからだということが科学的に明らかにされているが、生まれつき日本人の脳と西欧人の脳が違っているはずはない。では、日本人がどうして虫の音を虫の「声」として聞くようになるのかといえば、それは日本人が日本語を話すからだと思われる。では、そのような日本語はどのようにして生まれてきたのかといえば、私はそのカギは八百万(ヤオロズ)の神々が混とんの中から誕生してきたという日本神話の中にあると考えている。以下、この点について説明させていただくこととしたい。
「世間」の中で会話をする日本人
一神教であるキリスト教の世界では、人間は唯一の創造主によって創られ、生きとし生ける万物を統べるようにとされた。それに対して多神教と言われる日本の神話には唯一の創造主などは登場しない。初めにあったのは混とんで、神々もその混沌の中から生まれてきた。そして、人間や動植物の誕生については何も述べられていない。ということは、人間や動植物も神々と同じように混沌の中から生まれてきたといえよう。それは、日本では優れた人間は今でも神になるということからうかがわれる。大手町に神社がある平将門しかり、近年では日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎が原宿の東郷神社に祀られている。もともと混沌の中から神々も生まれてきたのだから、今日でも優れた人間が神になるのは当たり前というわけだ。そのように混沌の中から万物が生まれてきたと考える日本人には、人間が万物を統べるなどという感覚はない。それどころか、混沌の中から生まれてきた動植物も同じ「世間」に存在する者同士という感覚をもっている。「やれ打つな、ハエが手をする足をする」という小林一茶の俳句も、その感覚からのものだといえよう*8。そのような日本人にとって、秋の草むらの虫の音を、「声」として聞くのは当たり前なのだ。それに対して、唯一の創造主から万物を統べるようにと創造された西欧人にとっては、統べるべき万物の一つである虫の発する音は雑音にしかならないというわけだ。なお、混沌の中から神々が誕生してきたというのは、ギリシャ神話でも同じだ。ゲルマンの伝説やアジア・アフリカのアニミズムの世界でもこの世は精霊に満ちているが、それらも混沌の中から生まれ出てきたという神話からのものではなかろうか。世界の言語の中で、主語を使う言語が少数だというのは、そんなところからすれば当然のことのように思われる。ただし、今日、世界の多くの人々が信じているのは、キリスト教やイスラム教といった一神教である。そのことには、今日、英語が世界の主要言語になっているという現実と重なり合うものがあると言えよう。そのような世界で、日本語で生き抜いていくにはどうしたらいいのかを考えなければならないということである。
「世間」の中で自己を規定する日本語
自分だけでなく多くの相手がいるという「世間」の中で、互いに意思疎通を図る言語として発達してきた日本語の下で生まれてきたのが、他人より先にしゃべることをためらう文化だ。「世間」の中での会話なので、自分の意思表明をするよりも前に、「世間」の中での自分の位置を見極めようとするのだ。だから、主語を使わないのだ。「世間」の中での自分の位置を見極めようとするということは、「世間」の中で自己を規定するということである。「世間」で規定される前の独自の自分、自己などないということだ。そういうと、そんな馬鹿なといわれそうだが、例えば子供を持つ女の先生は、ある時はお母さんと呼ばれ、ある時はママと呼ばれ、生徒からは先生と呼ばれ、友人からはあなたとよばれるというように変幻自在だ。英語なら“you”の一語で済むものが、何通りもあるのだ。それは、「世間」の中で相手と自分とが関係をとり結ぶことで、時々刻々と新たな自己が立ちあらわれてくるという世界だと言えよう。自己も他者も、「世間」での出会いに先だって確立している絶対的な存在などはないのだ。関わりあうことで立ちあらわれてくる、可変的な存在、というより状態の連続としての、いわば無常性といってもいいのが日本語における自己なのだ*9。そのような日本語を、赤ん坊は、「世間」の中にいる母親からの語りかけによって自然に習得する。「おふくろさん」という言葉に対する特別な親しみも、そこからきていると言えよう。少し難しいことを言うと、西田哲学による「我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。絶対的一者の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである」「我々の自己は根底的には自己矛盾的存在である」*10というのが、そういうことなのだと考えられる。それは、西欧近代思想の始祖と言われるデカルトが言っていた「我思うゆえに我あり」という「我」のようなものが存在しないということである。またしても、そんな馬鹿なといわれそうだが、これは英国の脳科学者でウォーリック大学経営大学院のニック・チェイター教授が「言語はこうして生まれる」という本*11の中で述べていることでもある。同教授によれば、一部の哲学者や心理学者が愛してやまない「自己意識」なるものは、ナンセンスの極致だという。人の脳は、その時注意を向けている感覚情報を整理統合して意味をとるために絶えず奮闘している存在で、感覚世界の一部ではない「自己」を意識するなどという話は支離滅裂なナンセンスなのだという*12。ちなみに、東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎准教授は、日本人にとっての「自立」とは、他者に依存しなくなるということではなくて、多くの人に少しずつ依存できるようになることだとしている。なお、デカルトの「我思うゆえに我あり」は、中世のスコラ哲学では「我ありゆえに我思う」といわれていたのを逆転させたものだ。西欧でもかつては近代的な「自我」などはなかったのである。このあたりの話は、チャットGPTが登場してきた今日、AIと人間の知能の違いは何だろうかという問題にも関連することなので本論稿の最後に考察させていただくこととしたい。日本語における敬語
「世間」で規定される前の独自の自分、自己などはない、日本語における自己は「世間」の中で変幻自在に立ち現れるものだということは、日本語独特の敬語の存在からも分かることだ。敬語には、尊敬語と謙譲語と丁寧語があるとされるが、日本語の敬語は相手との関係によって臨機応変に使い分けられる独特のものである*13。それは、相対敬語と言われるもので、日本語ではそのような相対敬語を使いこなすことによって、相手との心理的な距離をうまくコントロールしている。しばらく会っていなかった同級生とは、最初は敬語で話すが、やがて丁寧語になり、最後はタメ口になるといった具合である。夫婦喧嘩では、突然「お好きになさったら」といって相手にとどめを刺す。それは、「世間」における相手との相対的な関係を臨機応変に取り結ぶもので、子供を持つ女の先生が、相手によって「ママ」とよばれたり「先生」とよばれたりするのと同様のことだ。敬語の使い方、すなわち相手との心理的な距離を測り損ねると大変なことにもなりかねない*14。西欧諸国の言語や、中国語*15、韓国語ではこんなことはない。ちなみに、韓国語にも敬語があるとされるが、日本語の相対敬語とは似て非なる絶対敬語といわれるものだ。取引先の相手に対しても、「わが社の社長様がおっしゃいました」というように使う。従業員にとっての社長は、絶対的に敬意を払うべき存在というわけだ。それは、日本語の敬語のように「世間」の中での社長の相対的な位置づけに応じて臨機応変に使分けられる敬語ではなく、自分と特定の人(社長)との固定的な関係に基づく絶対的な敬語なのだ。日本人の感覚では、社長に対する丁寧語を社外の人に対しても使っているという感じである。人間社会・文明の形成と言語
そのような敬語を使って「世間」での意思疎通を図る日本語の他の発言者への反応速度は、他の言語の場合に比べて格段に短いという。これは、シドニー大学の言語学教授ニック・エンフィールドの「会話の科学 え?」という本の中に出てくる話で*16、欧米の言語での他の発言者への反応速度の平均は207ミリ秒なのに対して、日本語では7ミリ秒と圧倒的に短いのだという。それは、日本語の話者が、周りの人が何を言うのかを、つまりは「世間」を、まずは認識しようとするからであろう。他の動物と人間の違いが言語の使用だといわれる。言葉の使用によって人間社会、文明の形成が可能になり、共存・共栄が可能になったというのだ。とすれば、周りの人が何を言うのかをまず認識し、相手との相対的な関係を臨機応変に取り結ぶ日本語は、多くの言語のうちでも最も進化した形態のものだということが出来よう。そこからは、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」を克服するための社会契約から国家が創り出された。そこから文明の進歩が始まったという説は違うのではないかという疑問も出てくる。実は、人類の古代史を解明していくと、同様の疑問が出てくるのだという。それは、英国の人類学者デヴィッド・グレーバーと考古学者デヴィッド・ウェングロウが唱えている説で、「万人の万人に対する闘争」ではなく平等原理を尊重する社会が、人類の歴史の中にはいくつも存在し、繰り返し登場してきた例があるというのである*17。
世界の中で優位性を失っている日本語
ただ、日本語が多くの言語のうちで最も進化した形態のものだと言えるとしても、その日本語が、今日、世界では全く優位性を失っている。他の人より先にしゃべることをためらう文化を持っているからだ。なぜ、他の人より先にしゃべることをためらうかといえば、日本人がまずは会議などの雰囲気、即ち「世間」を見極めようとするからだ。日本人は、自分の利害に関することでも、まずは他の会議参加者の発言を聞いて、それを尊重しつつ発言をしようとする。そして、いざ発言となっても相対敬語を使う感覚での発言をする。間違っても、相手と正面から直接議論を戦わせたりはしない。自らの発言に自信があっても、自分が必ずしも正しくないかもしれないという謙虚さを示しながら発言をする。日本で下手に特定の相手を正面から批判したりすると感情的な反発を招き、逆恨みをされて、その後どんなしっぺ返しをされるかもしれないからだ。しかも、最後に断定するのを回避することも多い。日本語は、文の成立になくてはならない述語を最後に持ってくるという構造を持っているので、聞き手は最後まで聞いていないと発言者が何を言いたいのかよく分からないのが日本語なのである*18。英語ではまず結論を述べ、その後にそれを裏付ける理由や説明を加えるが、日本語では時間の経過に従ってものごとを述べるのが一般的だ*19。それは、その後の相手の反応によって、主張のトーンを変えられるようにしているものともいえる。そのような日本人の発言は、日本人同士なら「ゆかしさ」や「思いやり」になるが、国際的には全く通用しない*20。明確に反論すべきことについて、最後に「と思います」とか、「ではないでしょうか」などと言って断定を避けたのでは明確な反論にならない。それが相手に自分の意見を認めたと誤解されると、後から反論しても時宜を外れた議論として受け入れられず、挙句の果てには「ごまかしと」と受け取られたりもする。かつては、そうなると、「黙って刀を抜いてバッサリ切る」という行動に出たので恐れられたりもしたという。それは、中国大使をされていた宮本雄二氏が、「2035年の中国」という本の中に書かれていることだが*21、日本の国力が落ちてきたこの頃ではそんなことなどできなくなっている。日本人は、言い訳や弁解を潔しとせず、沈黙を重んじる文化だなどと言っていては、単に国益を守れないということになるだけだ。空気を読む、沈黙は金、出るは打たれるなどと言っていても、そんなことは世界では通用しないということだ。
ここで、もう一つ、日本の会議で出される結論が間違っていた場合の問題についても述べておくこととしたい。先にみたように、日本の会議では「世間」の中での意思疎通ということで明確な反論が行われないのが一般的だ。そこで、議論が煮詰まらずに結論が出ないことが多く不効率だと言われるのだが、そんな会議をまとめるのに使われるのが、根回しや「言語明瞭、意味不明」*22という日本流の弁論術だ。そして、そのようにしてまとめられる結論は、論点に曖昧な部分が残っていても全員の異議がないという形になることが多い。それは、個人の責任の所在が曖昧になることを意味している。責任の所在が曖昧なので、失敗した場合に個人に責任を問うことが難しくなり、「水に流す」形での手じまいが一般的ということになる。しかしながら、そんなことは国際的には通用しない。国際的な会議では、アメリカ人だけでなく中国人も韓国人も、誰かの発言に異議があれば、すぐに面と向かって反論する。そして、そのような議論の末に出された結論が間違っていた時には「水に流す」ことなどとんでもないということになる。日本流の「水に流す」スタイルは、説明責任を果たしていないとして違和感を持たれるだけでなく非難されることにもなるのだ。
岡藤正広伊藤忠商事会長が、2023年5月号の「文芸春秋」に寄稿された「日本復活への道」によると、中国人は商魂したたかで、韓国人は負けず嫌い。日本人の謙虚さは美しいけれど、外国からはただのお人よしと見られている。主張や競争を避けてしまうのは美徳ではないとのこと。岡藤会長は、日本人と中国人、韓国人の違いに関して、日本では子供に「人に迷惑をかけるな」と教えるが、中国では「人にだまされるな」と教える。韓国では「人に負けるな」と教えるということを紹介されている。思うに、日本で子供に「人に迷惑をかけるな」と教えるのは、主語を使わない日本語が「世間」の中での言葉で、気遣いを優先する言葉だからだろう。それに対して、主語を使う中国語や韓国語は、まずは自分があっての言葉なので、騙されるな、負けるなと教えるのだろう。
英語を使いこなすようになるために
では、そのように国際的に通用しない日本語の中にいる日本人が、今後、国際社会で活躍していくためにはどうしたらいいのだろうか。まず一つ考えられることは、日本語の殻から脱却して英語を使いこなせるようになっていくことだ。財務省のOBで宇宙デブリを除去する会社「アストロ・スケール」を立ち上げた岡田光信氏は「愚直に考え抜く」という本*23の中で、今日、グローバルな「仕事の言語」は、ほとんど英語になっている。情報も技術も人材も資金も、すべてにおいて英語になっている。世界の情報の9割以上が英語になっている。そして、英語で動けば、より大きく、より早く動くことが出来る。仕事の処理速度の実感値で、英語は日本語の3倍速だという。岡田氏がかつて経営していたIT会社は、アジアを営業範囲にしていたが、社内言語が日本語だったので、いちいち技術資料を英語にしなければならず、英語に慣れていない社員が顧客とのやり取りに苦労してタイムリーな情報提供、顧客の心をつかむこと、そのどれにも失敗した。とにかく、英語で仕事をしないといけないという。岡田氏には、私も直接お話を伺ったことがあるが、日本人にも国際的にこんなに活躍している人がいるんだと強い印象を受けた人である。最近では、グローバル企業で英語を「公用語」化する会社も出てきている。そんなことを言っても、自分は英語は苦手だから、英語を使いこなすことなどできないといわれそうだ。しかしながらそれは、日本人が上手な英語でなければいけないと思い込んでいるからだ。それと、日本語と同じ調子で低い声でしゃべっても通じないことを知らないからだ。英語で仕事をするには上手である必要はない。通じればいいのだ。それなのに、学校では英語が上手になることばかりを教え込まれる。かつて、スタンフォード・ビジネス・スクールで、日本の経営手法を研究するサークルに来てもらったソニーの盛田氏の英語は、ありていに言えばブロークンで発音もよくなかった。これなら私の方が上手だと思ったほどだった。しかしながら、盛田氏にはビジネス・スクールの全学生を対象に大講堂で講演をしてもらい、学長との昼食会もしていただいたが、大きな声で明瞭に話され、アメリカ人のジョークにもしっかりと受け答えをされていた。アメリカ人にしっかりと理解されていた。盛田氏の英語は、私に英語はそれを使いこなすためには上手である必要はないということを教えてくれた。なお、私の英語も褒めたものではなかった。私は、退官した翌年、ビジネス・スクールの卒業35周年の同窓会に行ったが、その時のパーティーの後、家内がホテルに帰ってきて、今日は面白い話を聞いたという。私の学友が、タカシつまり私(崇)の英語は“difficult”だった(難しかった)と言っていた、あなたは卒業式で表彰されるほどだから英語の達人かと思っていたけれどもそうでもなかったのねと言ったのである。まあ、私も自分が英語の達人とは思っていなかったが、私の英語が“difficult”だったと言われたことには考え込んでしまった。そこからの結論は、下手な英語でも相手が一生懸命、理解しようとしたから“difficult”だったんだということである。当時、ビジネス・スクールの米国人学生が理解しようとしていた日本の会社の経営手法など、日本語で説明しても簡単に説明できることではない、それを私がつたない英語で説明して、相手はそれを理解しようとしたのだから大変だった。ただ、相手は是非とも日本の会社の日本的経営手法の「秘密」を知りたいと思っていたので、一生懸命理解しようとしたので“difficult”だったということである。そして、そんな私のつたない英語での説明は、卒業式で全学生の前で表彰するに値するものだったということである。
ここでもう一つ、日本人が英語を日本語と同じ低い声でしゃべっても通じないということがある。それは、盛田氏が「大きな声で明瞭に発言された」という点についてである。これも金谷氏が指摘していることだが、日本語は遠くに届かない低い声で話される(周波数125-1500ヘルツ)*24。それに対して、英語は高い声で話されている(2000-15000ヘルツ)。そこで、日本人が日本語をしゃべる調子で話したのでは、英米人にはまともに聞いてもらえないのだという。ちなみに、フランス人も比較的低い声で話す(1000-2000ヘルツ)。フランス料理のテーブルマナーには、他の席の邪魔にならない程度の低い声での会話というのもあるのだという*25。その、フランス語は、かつては外交の言語として花形だったが、今やビジネスの世界ではすっかり英語に席巻されてしまっている。今日、フランス語を駆逐して、プレゼンスをあげてきているのが、高い声で話す英語や中国語だ。中国語は英語やイタリア語に次いで高い声で話す言語なのだ(500-3000ヘルツ)*26。なお、韓国語も、北朝鮮のアナウンサーのニュースなどを聞いていると、相当に高い声で話している。日本人も、それに負けないように大きな声で話すことが、国際社会では必要だと言えよう。「敵を知り、己を知れば、百戦して殆うからず」となるためには、そんな点にも気を配ることが必要なのだ。なお、英国人は初対面の人ばかりのグループでも初めから和気あいあいになるのが普通なのに対して、フランス人や日本人はそんなことはないと言う*27。小さな声で話すということは、そんな面にも関係しているといえそうだ。
日本語のこれからの戦略
最後に、英語が影響力を強めている世界の中での日本語のこれからの戦略について述べておくこととしたい。日本語での会話は、ハイコンテクストな会話*28だといわれる。多くの構成員で構成される「世間」を前提とした意思疎通がそんな会話を生んでいると言える。しかしながら、そんな会話をするのは日本人だけなので、国際社会ではそんな日本流の会話は誰も相手にしてくれない。それは、日本語の弱点というべきものなのだ。これからは、そのような日本語の弱点を克服するための教育、経営戦略、外交戦略を組み立てていかなければならない。そんなことから、日本語の教育でも、「主語」を使って論理的に主張を展開する訓練が必要だということで打ち出されたのが、文部科学省の論理国語*29の重視だといえよう*30。アメリカでも、小学校の時代から、スピーチの訓練しているとのことなので、そんな訓練が必要だというのはもっともなことである。そして、英語教育に関しては、2020年度から、小学校での英語の授業が必修となっている。ただ、この点に関しては、私は小学校の段階での英語教育はほどほどにして、新たに打ち出された論理国語、即ち相手の議論にしっかりと反論できる国語力の教育を重視すべきだと考えている。その上で、中学校からは是非とも大きな声で話す英語を教えてもらいたいと思う。日本語と同じ調子で低い小さな声でしか話さないのでは、どんなに流ちょうな英語を習得しても聴いてもらえないからである。発音などは二の次、文法なども二の次だと思う。そのように新たな形での国語教育や英語教育が必要だと考えるが、そういった中でも、忘れてはならないのが本来の日本語の教育である。主語を使わない日本語の教育である。英語が上達すると、性格が積極的になる*31が、日本社会で受け入れられにくくなるといわれている*32。最近、日本語がちゃんと話せない人が多くなって日本人の温和な社会が失われつつあるようにも思われる。敬語をしっかりと使えない人が多くなっている。最近の敬語は、「礼語」になってきているともいわれる*33。そんな中で、日本語の持つ優れた共感能力が生かされなくなって、ネット空間におけるセクハラ攻撃、パワハラ攻撃、言葉狩りなどが行われるようになっている。そして、一人一人がバラバラになり孤独になっているのではなかろうか*34。外国人も、日本語が上達すると礼儀正しくなり性格が温和になるという。人々の性格が温和であることは、日本社会を成り立たせるうえで大切な要素だ。英語を使いこなせるようになったとしても、日本語がちゃんと喋れなくなって日本社会の良さが失われてしまったのでは元も子もない。日本人が幸せになるためには、本来の日本語教育をしっかりとすることも大事なのだ。それには、古典の教育が大切だ。古典には、「主語」を使わない日本語の、日本社会のエッセンスが詰まっている。そんな中で気になるのは、最近、義務教育における国語の時間が短くなっているという話だ。小学校4年生の国語の時間は、大正時代に14時間、昭和15年に12時間だったのが、2006年には4-5時間と大幅に短くなっているという*35。英語の授業が必修とされた影響と思われるが、日本人が、日本人の良さを生かしつつ国際化していくために、それでいいのか疑問なしとしない。
*1) 中国春秋時代(紀元前5世紀)の兵法書「孫子」の一節
*2) 日本語は、述語が中心となる述語制言語とされる。世界の言語の中で、述語制言語は44%。英語のような主語性の言語は39%(「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎、2023,p187-91)。
*3) 「『源氏物語』の現実感-物語社会という視座」安藤徹、学士会報、No.965,2024-Ⅱ、p39
*4) ラテン語の場合、人称代名詞の主格は主語を強調したり対比したりする時以外使われない(「しっかり学ぶ初級ラテン語」山下太郎、ベレ出版、2013,p116)
*5) 「英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ」金谷武洋、講談社選書メチエ、2004
*6) 「日本語には敬語があって主語がない」金谷武洋、光文社新書、2010、p19-24
*7) 「日本の感性が世界を変える」鈴木孝夫、新潮選書、2014,p30
*8) 鳥獣戯画を面白がるのも、その感覚からといえよう。
*9) 「人類精神史:宗教、資本主義」山田仁史、筑摩書房、2022,p215-16
*10) 「規範としての民主主義・市場原理・科学技術」藤山智彦編著、東京大学出版会、2021、p316
*11) 「言語はこうして生まれる一即興する脳とジャスチャーゲーム」モーテン・H・クリスチャンセン、ニック・チェイター、新潮社、2022
*12) 「心はこうして創られる」講談社選書メチエ、2022,p255
*13) 金谷武洋、2010、p17、52、187
*14) 山口仲美、2023,p197-201
*15) 中国語には、敬語はないが丁寧語があり、相手の呼び方は相対敬語の日本と同じ(影山輝國、「影山輝國先生論語義疏」2022、9・15、経学研究会、しまうまプリント、p18)
*16) 「会話の科学 え?」ニック・エンフィールド、文芸春秋、2023
*17) 「万物の黎明」デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ、光文社、2023、p4-31、587-88
*18) 現在のことだと思って聞いていると、最後に「だったのよ」といわれて、なんだ過去の話だったのかということになるのが日本語である(山口仲美、2023,p191-94)
*19) 山口仲美、2023,p132
*20) 山口仲美、2023,p194-96
*21) 「2035年の中国」宮本雄二、新潮新書、2023、p34
*22) 竹下登元総理が有名
*23) 「愚直に考え抜く」岡田光信、ダイヤモンド社、2019、p192、194
*24) 「述語制言語の日本語と日本文化」金谷武洋、2019、p292
*25) 「一汁一菜でよいと至るまで」土井善晴、新潮新書、2022
*26) 金谷武洋、2019、p293
*27) 「古き佳きエジンバラから新しい日本が見える」ハーディー智砂子、講談社α新書、2019,p36
*28) 「過剰可視化社会」与那覇潤、PHP新書、2022,p57
*29) 2023年度の学習指導要領に伴う科目再編で、国語が「論理国語」と「文学国語」に分けられて「論理国語」重視が打ち出された
*30) 「日本語の歴史」山口仲美、岩波新書、2006、p219-20
*31) 金谷武洋、2010、pp178-181。英語を「公用語」化する会社の隠れた目的ともいわれている(「漢字とは何か」岡田英弘、藤原書店、2021、p292)
*32) 鈴木孝夫、2014、p54-57、p65
*33) 金谷武洋、2010、p91
*34) 金谷武洋、2010、p187
*35) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p30