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路線価でひもとく街の歴史

第49回 「静岡県沼津市」

アニメが示すまちづくり戦略の未来

沼津は元々湊町そして宿場町である。沼津宿は東海道五十三次の12番目で、箱根峠を越えて三島宿の次だった。沼津藩が置かれたのは安永6年(1777)で、徳川政権の閣僚を輩出していた水野家が治めていた。町人街は既にできあがっていたため、本城や武家地は街道の西北に造成された。大政奉還後の政変で中央政府を追われた徳川家は、駿遠に三河地域を加えた静岡藩の首長におさまり、明治4年(1871)の廃藩まで当地を治めていた。沼津も静岡藩の支配となり、城主が退去した沼津城は藩立沼津兵学校に転用される。フランス陸軍に倣った士官学校だが、廃藩に伴い兵部省に移管され、その翌年には閉校となった。沼津城は解体され、堀も埋め立てられた。後に2度の大火、震災、空襲で町割りが上書きされており、現在の区画から城下町の痕跡をたどるのは難しい。

街道と水運が交差する通横町

宿場町の本陣(ホテル)は上本町(かみほんちょう)と下本町(しもほんちょう)にあった。上下まとめて本町(ほんちょう)とも呼ばれる。また問屋場(事務所)が通横町(とおりよこちょう)にあった。静岡県統計書に所載される宅地最高地価の初出は明治18年(1885)で、沼津市街の最高宅地の所在地には「沼津本町」とあった。沼津本町は大字名で、御成橋に続く東西の通横町、大門町が含まれ、それより南の旧市街はすべて沼津本町である。町名の本町と大字の沼津本町は異なるが、本陣があった上本町、下本町、同じく東海道沿いの通横町が沼津本町の中の一等地だったと考えて差し支えなかろう。大正12年(1923)から所在地が絞り込まれ「本字通横町」となった。宿場町時代の街の中心は明治・大正期においても街の中心であり続けた。街なかに狩野(かの)川が流れ、その河岸に船着場があった。河岸沿いの魚町(うおちょう)や仲町(なかちょう)は水運や漁業の拠点として賑わっていた。

街道沿いで生まれた地元行

現在、沼津に本店を置く銀行はスルガ銀行と静岡中央銀行の2つある。これに静岡県の一番行である静岡銀行を含めた地元3行は旧東海道の沿道にある。スルガ銀行は明治20年(1887)、現在の沼津市青野に当時22歳の岡野喜太郎(きたろう)が創業した貯蓄組合「共同社」を起源とする。明治28年(1895)10月に根方(ねがた)銀行となる。翌年、沼津市街の六軒町に移り駿東(すんとう)実業銀行と改称。さらに4年後の明治33年(1900)に通横町の現在地に移転する。駿河銀行となったのは明治45年(1912)だ。当行は、昭和前期の一県一行主義を拒絶したことでも知られる。岡野喜太郎は大蔵省銀行課長に呼び出され静岡銀行と合併を迫られたが机を叩いて拒絶したと日本経済新聞「私の履歴書」にある。93歳まで頭取を務め、会長職のまま昭和40年(1965)に101歳の天寿をまっとうした。社名表示をスルガ銀行に変更したのは平成2年(1990)である。
次に、静岡銀行沼津支店の沿革をひもとくと、沼津に本店を構えた2つの銀行にさかのぼる。1つが沼津初の銀行である沼津第五十四国立銀行である。創業は明治12年(1879)だが、3年後に静岡が本店の静岡第三十五国立銀行に統合された。明治30年(1897)、免許後20年と定められていた営業期間が満了したため三十五銀行となる。静岡銀行沼津支店のもう1つの源流が沼津銀行である。これは明治13年(1880)に旗上げされた「通信社」を起源とする。沼津銀行になったのは明治24年(1891)で、明治29年(1896)に創業地の川廓(かわぐるわ)町から上土(あげつち)町に移転した。その後、静岡に本店があった「静岡銀行」(第1次)と合併し「静岡銀行」(第2次)となった。第1~2次とも現存する静岡銀行とは同名の別銀行である。昭和12年(1937)、沼津銀行の後継たる静岡銀行と、沼津第五十四国立銀行を承継した三十五銀行が合併する。行名も合体されて静岡三十五銀行となった。さらに戦時中の昭和18年(1943)、県西部の有力行だった遠州銀行と合併して静岡銀行と(第3次)、これが現在に連なる静岡銀行である。同じ年、三島市に本店を構え伊豆地方に支店網を築いてきた伊豆銀行を買収する。
沼津駅の開駅は明治22年(1889)2月。小田原の手前の国府津駅から静岡駅まで延伸された東海道本線の途中駅だった。当時の東海道本線は箱根の急こう配を避け、外輪山を北に迂回するルートをとっていた。現在の御殿場線が当時の本線だった。東海道五十三次でいえば三島宿がスキップされたことになる。現在地の三島駅が開業したのは丹那トンネルが開通し東海道本線が現ルートに切り替わった昭和9年(1934)である。沼津駅は箱根越えに備える補助機関車の連結等で全列車が停車する主要駅だった。ちなみに沼津駅開業の前年に当地には既に鉄道が開通していた。沼津駅と狩野川河口を結ぶ「蛇松(じゃまつ)線」である。本線の整備にあたって港から資材を搬入するための路線だった(図3 広域図)。後に廃線となり現在は緑道になっている。また沼津駅前には明治39年(1906)に三島駅をもう一方の端とする駿豆電気鉄道の路面電車線が乗り入れている。会社は現在の伊豆箱根鉄道で、大正12年(1923)に西武グループの傘下となった。

防火建築帯だったアーケード名店街

昭和32年(1957)の最高路線価地点はアーケード名店街にある松菱百貨店の前だった。戦前浜松に本店を構えた松菱の支店第1号で昭和26年(1951)に開店した。沼津初の百貨店で4階建だった。アーケード名店街は昭和28年(1953)に松菱の向かい側(西側)、その翌年に松菱側(東側)が完成した。長屋状に連なった建築物で、本来の趣旨は延焼防止のための「防火建築帯」で街の防火壁のようなものだ。沼津のアーケード名店街は防火建築帯を共同店舗に仕立てた施設である。戦後復興の一環で類似施設が全国各地に建てられた。今でいう都市再開発の原型ともいえる。この頃の商業の中心は旧国道1号線の南側で、例えば昭和31年(1956)、今の新仲見世に十字屋、昭和38年(1963)には長崎屋が上土町に出店している。
その後、以前は郊外の扱いだった駅前に一等地の座を譲ることになる。昭和44年(1969)の最高路線価は「大手町西武百貨店西通り」だった。西武百貨店は昭和32年(1957)、伊豆箱根鉄道が所有する店舗に出店した。西武百貨店には初めての地方支店だった。開店時のキャッチコピー「沼津で東京のお買物」が人口に膾炙した。これで駅前が勢いづき、昭和38年(1963)に十字屋が仲見世に移転。昭和41年(1966)には丸井が進出し、長崎屋も上土町から駅前に移った。昭和42年(1967)、西武の隣に富士急百貨店が開店する。本館1階が富士急バスのターミナルになっていた。翌年は仲見世に緑屋とほてい屋(ユニーの前身)が開店。昭和45年(1970)、地元商業者が建てた共同ビル「沼津商連会館ビル」に総合スーパーのニチイが出店した。その翌年には西武百貨店が新館を増築する。
駅前の発展の一方、戦後、街を貫く形に付け替えられ、拡幅された旧国道1号を通過する車が増え人流が分断されたこともあり国道南側が衰退。松菱が撤退したのは昭和46年(1971)だった。

路線価にも顕著な商業の空洞化

開店ラッシュを沸かせた当時の大型店は現在残っていない。要因の1つが車社会化だ。昭和44年(1969)3月東名高速道路の沼津ICが開通。その翌年、国道1号沼津バイパスが部分開通し、昭和55(1980)年までに全面開通した。前後して郊外大型店が出店を始めた。昭和53年(1978)、旧製紙工場の跡地にイトーヨーカドーを核店舗とするイシバシプラザが開館。駐車場を備えた郊外店だが、沼津駅北口に近接した駅前立地でもあった。昭和56年(1981)、沼津バイパス沿いの紡績工場跡にユニーを核店舗とするサンテラス駿東が開店した(現在はサントムーンアネックス)。
平成6年(1994)に十字屋、翌年ニチイが閉店。この頃から中心街の人通りが少なくなってきた。平成9年(1997)、サンテラス駿東の隣地にサントムーン柿田川が開店。平成12年(2000)に御殿場プレミアム・アウトレットがオープン。沼津駅から30km離れているが高速道路で30分程のアクセスだけに影響は大きかった。駅前では平成14年(2002)に長崎屋、その2年後には丸井が撤退した。
そして平成25年(2013)、西武百貨店が撤退した。空洞化は最高路線価の推移からもうかがえる(図4 最高路線価の推移)。沼津市の最高路線価は低下傾向に歯止めがかからない。平成20年前後に下げ止まったようにみえたが、西武撤退に伴い一段と下落した。静岡、浜松に次ぐ県内第3位が定位置だった沼津だが、令和4年、近年の上昇ぶりが目立つ熱海に抜かれ、令和5年には三島に並ばれた。三島については、公示価格の商業地では平成30年(2018)に既に追い抜かれている。
令和元年(2019)10月、ららぽーと沼津がオープンした。その2年後には沼津駅北口のイシバシプラザ(イトーヨーカドー)が開店43年の幕を閉じた。

アニメが示すまちづくり戦略の未来

令和2年、沼津市は「中心市街地まちづくり戦略」を策定した。ここで車中心からヒト中心の魅力ある街への再生を掲げている。沼津駅高架化や周辺の区画整理を含む「沼津駅周辺総合整備事業」とセットで進められる。区画整理の一環で、街なかを通り抜ける車を迂回させるよう「駅まち環状」道路を設定。さらに十字に伸びる大通りの歩道を拡幅し、駅を中心とする「駅まち環状」の内側を歩行者優先の広場空間とする。
再生のひな型も現れている。“人が自然と集まるような、心地よい空間に”を掲げ空間再編プロジェクトを立ち上げた新仲見世商店街は老朽化したアーケードを撤去した。空き店舗のリノベーションも進み、図5 リニューアル後の新仲見世商店街のように独特の雰囲気を持つ街になってきた。令和4年にはOPEN(オープン) NUMAZU(ヌマヅ)が始まった。公道にテラス席や屋台を設け、オープンスペースとしての活用を試す社会実験だ。今年は駅前の再開発ビル「イーラde」の前の歩道に面した車道の一部を囲い、テラス席を置いている。取り壊された富士急百貨店の跡地には、令和5年に低層の商業施設「PLAZA(プラザ) FONTANA(フォンターナ)」ができた。ヨーロッパの街並みを模した建物群は、人工的につくった商店街のような空間に仕上がっている。
沼津のまちおこしといえばアニメ作品とのコラボレーションが有名だ。平成28年(2016)に第1期、翌年に第2期が放映されたアニメ作品「ラブライブ!サンシャイン!!」(サンライズ制作)である。平成31年(2019)には劇場版が公開された。沼津駅からバスで30分、内浦湾を見下ろす長井崎の丘の上の高校「浦の星女学院」2年の高海千歌(たかみちか)が校内にメンバーを募ってスクールアイドル部を立ち上げる。紆余曲折の上9人で結成した「Aqours(アクア)」が「ラブライブ!」の地区予選の突破から全国大会優勝を目指して活動するストーリーだ。むろん高校は架空だが校舎のモデルは実在し、作中には内浦湾や沼津市街の景色が登場する。本作のヒットで、映像と同じ場所を探索する「聖地巡礼」めあての来訪が増えた。放映から8年経っても客足絶えず、今でも沼津の街なかでAqoursメンバーのイラストを見ることができる。駅正面は大型パネルで装飾され、街にはラッピングバスが走り、商店街のアーケードにはタペストリーが吊り下がる(図6 仲見世商店街アーケード)。街なかに等身大パネルが立てられた店が散見されるが、スタンプラリーの協力店だ。
令和元年、沼津市は昭和57年(1982)以来37年ぶりに転入超過となった。ららぽーと沼津の開店に伴う転入者が多そうだが、ラブライブ!サンシャイン!!への憧れが高じて移住を決めたケースもあるという。まちづくり戦略の1つに「まちなか居住」がある。戦前の一等地だった通横町の北東角は再開発されホテルとマンションが建った。Aqoursメンバーの1人がそこに住んでいる設定だ。アニメの中の仮想現実は沼津のまちづくり戦略の描く未来を先取りしているようだ。



プロフィール

大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図1: 市街図
図2: アーケード名店街の近影