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ファイナンスライブラリー

評者

財務省大臣官房
財政経済特別研究官 名古屋大学客員教授
佐藤 宣之

ダグラス・クタッチ 著/
相松 慎也 訳/一ノ瀬 正樹 解説

因果性

岩波書店 2019年12月 定価 本体2,500円+税


(評者と因果関係)

私たちは重大な個人的・社会的問題に直面すると、その原因や責任をめぐる論争に白熱しがちだが、「そもそも因果関係とは何か」という前提的な理解が人によって文脈によって著しく異なっている可能性があり、そのことに無自覚なままでは、建設的な議論など望みえない(本書の訳者による紹介文より引用)。
因果関係と言えば、「相関と因果関係は違うので注意せよ」と教わったのを思い出す。「データは21世紀の石油」と言われるが、相関・因果関係分析などデータサイエンスのスキルがないと宝の持ち腐れになりかねない。法学部で習った刑法では因果関係論の二つの学説が拮抗していたが、もう決着したのだろうか。

(著者と因果関係)

著者は哲学博士号を取得後に自然科学の思索に入り「物理学の哲学者」を自認するなど、哲学界での因果関係の議論と統計学を含めた自然科学界での因果関係の議論を架橋する重要な役割を担っている。
本書は英国ケンブリッジの出版社ポリティプレスの「現代哲学のキーコンセプト」シリーズの一冊で、因果関係の議論を横断的かつ分かり易く説明することが目的とされているので、哲学にも自然科学にも通じた著者はその書き手に打ってつけと言えよう。
本書の表題は「因果性」であるが、本稿の表記は「因果性」、「因果」と同義の「因果関係」に統一する。

(産出説vs差異形成説)

著者によると、哲学界では因果関係の本質として、「産出説」(原因とは結果を産出・決定するもの)、「差異形成説」(原因とは結果の有無・内容の差異を形成するもの)の二説を軸に議論が重ねられた。
先ず産出説について。不作為は何も生み出さないので不作為による因果関係を説明できない、不確実性を含むシナリオを説明できないといった基本的な問題点が指摘され、産出説は理論として確立していない。
次に差異形成説について。その代表選手が「(反事実)条件説」で、命題「AはBの原因である」に関し、その反事実条件文「AがなければBはない」が真なら命題「AはBの原因である」も真と判断する。条件説なら産出説と違って不作為による因果関係も説明できる。条件説にも反事実条件文の真偽は必ず所与なのか等の問題点の指摘はあるものの、条件説に理論として致命的欠陥があるとは認識されていない。

(言語と因果関係)

著者は条件説について、因果関係が一言語たる英語の論理を無意識に前提としていると見て、言語が偶然備えている特徴に出来るだけ頼らない研究を目指すべしと指摘する。本書に例文がないので著者の問題意識を正確には計りかねるものの、評者が学生当時から気になっている点を掘り下げてみたい。即ち、「彼は正しくないと私は思う」を素直に翻訳すると「I think that he is not right」となりそうだが、英語では「I do not think that he is right」(彼は正しいと私は思わない)とするのが普通である。「彼は正しくないと私は思う」と「I do not think that he is right」の両文章を比べると、内容は一見違うが結果的に大体同じだろう。しかし、両文章を条件文化して「彼は正しくないと私は思うなら」と「If I do not think that he is right」(彼は正しいと私は思わないのなら)を比べると、内容は一見して違ってくる。ちなみに欧米の言語なら一緒かと思いきや、「彼は正しいと私は思わない」をフランス語に翻訳すると「Je ne pense pas(I do not think)・・・」型も「Je pense(I think)・・・」型も許容されるようだ。こうした言語の違いに起因する問題が他にもあるのだろうか。

(法律と因果関係)

著者は医療を含めた科学分野での相関・因果関係分析について課題ありとしつつも評価する一方で、法律や道徳での因果関係の議論は楽観視できないと警鐘を鳴らす。著者は交通事故を例に、ギリギリ合法な量を飲酒して運転することは飲酒しない場合に比べ殺傷リスクを7倍に引き上げると仮定する。その上で、「普通のレストランまで1kmをギリギリ合法な量を飲酒して運転することは事故の主な原因である」、「美味しいレストランまで7kmを飲酒しないで運転することは事故の主な原因ではない」という同量の殺傷リスクに係る二つの判断を引き合いに、個々には常識的な判断を集めると互いに整合しないことがよく起こるとした。この問題提起は、法律上の因果関係に関して精緻な理論を構築することには困難が伴うことを暗示する。
実は刑法典には「行為と結果の間には因果関係が必要」とは書いていないが、罪刑法定主義から導かれる要請として、行為(殺人罪なら殺人行為)と結果(殺人罪なら殺人結果)の間には因果関係が当然必要であり、結果との間に因果関係がない行為に刑罰を科してはならないとされる。評者の学生当時、刑法の因果関係論の学説は、お馴染みの「条件説」と、条件説をより厳しくした「相当因果関係説」(条件説に加え、行為から結果が発生することが経験則等に照らして相当であることが必要)とが拮抗していた。
久しぶりに刑法を勉強したところ、刑法の因果関係論は決着どころか発散していることに驚く。条件説、相当因果関係説に産出説の色濃い「客観的帰属論」(行為が危険を創出しその危険が結果を実現することが必要)が加わり、さらにそれらの微修正された多様な学説が乱立する。罪刑法定主義の趣旨貫徹のための因果関係論が余りに複雑になっては却って罪刑法定主義に反するのではないか、一法学士として気懸りだ。
刑法以外の動きとして、独禁法の世界では、因果関係を独禁法違反要件論の体系に位置づける議論は長らくなかった由。その理由の一つとして、因果関係を言語化すると独禁法違反を立証するのが面倒になるからと心配する向きもあるようだ。刑法の議論を見て心配するのなら、気持ちはわからないでもない。

(確率と因果関係)

著者によれば、差異形成説の現代的展開として、自然言語の特性に依存しない因果関係の研究が統計・計算科学者主導で行われている。「確率上昇説」は「Xの発生がXが発生しない場合と比べてYの発生確率を上昇させるなら、XはYの原因である」と見る。また「介入主義」は「(特定の確率で)Yを変化させるようなXへの可能な外部からの操作(介入)が存在する時、かつその時に限り、XはYの原因である」と見る。
これらの現代的展開の今後が注目されるが、純粋哲学者からは「確率は因果関係に基づく概念なので因果関係を確率に基づかせるのは矛盾ではないか」との声もある。確率自体にしても、ケインズ以来今日まで様々な概念が提唱されている。
本書の解説者は、因果関係について「逸脱基底的・疑問依存的理論」を提唱する。即ち、因果関係は通常から逸脱して「なぜ?」の問いが発せられる場面に現れるのであって、問いがなければ因果関係はないのだと。私達はこの因果関係という果てしない空を行く。



相関

「気温」と「アイス消費」、「気温」と「エアコン消費」には前者を原因、後者を結果とする因果関係がある一方、「アイス消費」と「エアコン消費」には一方を原因、他方を結果とする因果関係はなく「気温」を共通原因とする相関があるだけ、と言われる。
「因果関係がある」とは二つの事柄に原因と結果の関係があること、また「相関がある」とは二つの事柄に何らかの関係があること。因果関係は「何らかの関係」の一つなので、言葉の厳密な使用としては、因果関係は相関の一種ということになる。

罪刑法定主義

行為を犯罪として処罰するには、立法府が制定する法令で犯罪行為の内容・刑罰を事前かつ明確に規定しなければならないとする原則を罪刑法定主義という。日本では明治時代に制度的に確立した。
社会通念上「物」ではない電気の窃盗が「物」を対象とする窃盗罪に該当するとの大審院(現在の最高裁判所に相当)判決については罪刑法定主義の観点から疑義が寄せられた。その後刑法改正で電気も窃盗罪の対象とすると明文化して決着している。
因みに、電気の輸入がない日本の関税率表に電気は掲載されない一方、陸続きの欧州諸国やシンガポールでは電気も輸入されるので関税率表に電気が掲載される。これらの国では社会通念上も電気は「物」なのかもしれない。所変われば(物)品変わる。