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家康公、天下取りの礎~徳川家康公生誕の地 岡崎市~


岡崎税務署 総務課長 渡邉 益代

はじめに

岡崎税務署が所在する岡崎市は、愛知県の中央部に位置し、東海道宿場町や城下町として古くから西三河地方の中心都市であり、天下泰平の世を築いた徳川家康公の生誕の地として知られています。
岡崎税務署は、明治29年に、現在の所在地より約3キロ北の岡崎城近くに創設されました。
管轄区域は、岡崎市及び額田郡幸田町の1市1町であり、管内面積は444.02km2、管内人口は約42.5万人です。
写真: 徳川家康公銅像

徳川家康公

歴史的大偉人といえる徳川家康公は、天文11年12月26日に岡崎市で産声を上げました。
決して有力とはいえなかった松平家の長男として生まれ、幼少期は人質として過ごし、幾多の戦いを経て、江戸という泰平の時代の礎を築きました。
岡崎市で始まった家康公のその数奇な人生は、令和5年NHK大河ドラマ「どうする家康」をはじめとして、数々のドラマに取り上げられています。

三河人の気質

戦国時代の三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は全員、現在の愛知県の生まれです。信長と秀吉は尾張、家康が三河の出身ですが、同じ愛知県でも尾張と三河ではその気質が大きく異なるといわれています。
派手好きで独立心が強いといわれる尾張人の気質とは異なり、三河人は地味で我慢強く、協調性があり、質実剛健の方が多いようです。
世界中で評価の高い日本人の国民性の原型は、戦国時代から江戸時代にかけて全国に散らばっていった三河人の気質と泰平の世を築いた家康公の政策が合わさったことで形成されたのではないかとも考えられています。

岡崎城

徳川家康公が生まれた城として有名な「岡崎城」は、石垣や堀跡などの遺構が数多く残され、日本の100名城に選定されています。
江戸時代には、「神君出生の城」として重要視され、石高こそ5万石前後と少なかったのですが、大名は岡崎城主になることを誇りにしたと伝えられています。
現在の天守閣は、昭和34年に復興されたもので、町のシンボルとなっています。
また、天守閣を有する岡崎公園は、日本さくら名所100選に選定されており、訪れた人を「グレート家康公『葵』武将隊」が出迎えます。
写真: 岡崎城

大樹寺

大樹寺は、徳川家の先祖である松平家と徳川将軍家の菩提寺です。桶狭間の戦いに今川軍が敗れた際、若き家康公が代々の墓前で自害を図り、この寺の住職に諭され、再起を期して立ち上がったといわれています。
この時住職からいただいた言葉が「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」です。「穢れた現世を逃れ、清らかな仏の国(あの世)に生まれ変わることを望む」という、仏教の教えを説いたものです。家康公は、「穢土」を「戦国の世」、「浄土」を「平和の世」とし、平和な世をつくるため、「厭離穢土、欣求浄土」を旗印に用いました。
また、松平8代と家康公はじめ歴代将軍14代家茂公までの等身大の位牌が安置されており、家康公の位牌の高さは臨終時の身長と同じ159センチになっています。
写真: 大樹寺 位牌堂

ビスタライン

大樹寺と岡崎城を結ぶ約3キロの直線はビスタラインと呼ばれています。ビスタライン上には高い建物が全くありません。
これは、徳川家三代将軍家光公が、家康公17回忌を機に大樹寺を整備する際、「祖父家康公生誕の地を望めるように」と山門と総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して岡崎城が見えるように配置したことに由来しています。
時は移り、岡崎城も再建されましたが、大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望は約380年間守られています。
写真: 大樹寺 山門

御影石

岡崎市の地場産業に石細工があります。岡崎城築城の際に石工を集め、地元産の御影石(みかげいし)を使用したのが始まりといわれています。
御影石というと、墓石を連想するかもしれませんが、建材にも多く使われています。
本来、御影石は石材としての名称であり、岩石としての正式名は花崗岩(かこうがん)です。
ちなみに、岡崎市には、「花崗町」と書いて「みかげちょう」と読む町名もあります。

八丁味噌

八丁味噌は江戸時代から全国に知られていた豆味噌で、その名は、岡崎城から西に八丁(約870m)の距離にある旧八丁村(現八丁町)で製造されていることに由来します。
大豆のみで造った大豆麹を塩と水と一緒に木桶に仕込み、重石となる玉石を山のように積み上げ、二夏二冬以上の長期間熟成させるという伝統的な製法が受け継がれています。
他の豆味噌より仕込み水が少ないことから、多くの重石が必要とされます。石積み作業は、現在も職人たちが手作業で行っていますが、熟成中に重石が崩れることのないように積み上げるには、10年以上の修業が必要とされています。
健康志向と言われる家康公も兵食としたほど栄養価の高い食品です。
写真: カクキュー八丁味噌 資料館

三河花火

三河花火は、家康公が火薬の製造、貯蔵を三河に限定したことに始まります。
徳川300年の泰平の時代になるにつれて、軍事的利用の重要性が弱まりましたが、徳川家二代将軍家忠公の時代に、観賞用としての製造が盛んになり、祭礼の献上用として発達しました。
その技術は現在まで受け継がれ、毎年8月第1土曜日に開催される花火大会では、華やかな打ち上げ花火や仕掛け花火が人々を楽しませます。

岡崎宿・二十七曲り

岡崎城下にあった岡崎宿は、本陣も脇本陣も3軒ある、東海道の中でも有数の規模を誇る第38番目の宿場町でした。城までの距離を延ばして外敵からの防衛を図るために屈折を繰り返す町並みは「二十七曲り」と呼ばれ、その長さは東海道随一で、数多くの商店が立ち並んで賑わいました。
現在も多くの商店が軒を連ね、それぞれの曲がり角には「金のわらじ」のモニュメントが置かれているほか、街道筋には往時を偲ばせる石碑や常夜灯なども残されています。
それらを巡りながら散策するのもおすすめです。

レッドサラマンダー

「レッドサラマンダー」とは、全国に2台しかない、水陸両用の消防車です。
日本では、平成25年に初めて、岡崎市に配備されました。クローラーと呼ばれるゴム製のキャタピラーで、がれきの山も難なく乗り越えていきます。
これまで、平成29年の九州北部豪雨や、平成30年の西日本豪雨など全国の災害現場に出動しています。
岡崎市は、日本の真ん中に位置しており、高速道路のアクセスも良く、全国各地に出動がしやすい上、内陸部のため津波の被害を受けにくいという理由で選ばれたとのことです。
写真: レッドサラマンダー

おわりに

岡崎市は、家康公生誕の地であり、幼名、竹千代君の時代にはこの地で読み書きを習い、その後の人生観にも影響したといわれるゆかりの地が、市内各所に点在しています。
歴史浪漫あふれる岡崎市に、是非一度、お越しください。
(写真提供:一般社団法人岡崎市観光協会、岡崎市消防本部)


富士山の玄関口~自然と歴史と産業が調和するまち~


富士税務署 総務課長 前田 純之介

はじめに

富士税務署は、昭和22年8月に沼津税務署から分割され富士宮税務署として設置された後、昭和39年2月に現在の所在地に移転し、富士税務署と改称されました。
管轄区域は、静岡県東部の富士市及び富士宮市であり、南は日本一深い駿河湾が広がり、北は世界文化遺産の「富士山」がそびえ、自然に恵まれています。
管内面積は、634.03km2、管内人口は約37.6万人であり、地下水に恵まれた地域であることから、その特性を生かし、古くから「紙のまち」として栄え、現在も製紙関連産業が基幹産業の1つとなっています。

富士山へ、0からの挑戦

「富士山登山ルート3776」は、富士市が設定した海抜0mから富士山頂(標高3776m)を目指す、田子の浦港付近からスタートする全長約42kmのルートで、3泊4日の行程が推奨されています。
このルートでは、あらゆる視点からの富士山の眺望、多くの先人達が歩いたとされる海からの富士登山の歴史、そして富士山や駿河湾といった恵まれた自然により形成された観光資源や産業資源等、ここでしか楽しむことのできないオンリーワンの魅力が満載です。
皆さんも、余裕のある計画で山頂を目指してみてはいかがでしょうか。
写真: 署の屋上から撮影した富士山

静岡県富士山世界遺産センター

静岡県富士山世界遺産センターは、平成25年6月にユネスコの世界文化遺産に登録された「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」を後世に守り伝えてくため、富士宮市に建てられた施設です。
中央の展示棟は、木格子で覆われた逆円すい形のユニークなフォルムが特徴です。施設内にはらせんスロープがあり、壁面に投影される富士山の風景を楽しみながら富士登山を疑似体験できます。
写真: 静岡県富士山世界遺産センター

紙のまち

富士及び富士宮地域は、豊富な水資源、原料である木材の供給地や製品の消費地への近接などを背景に、明治期以降の近代製紙産業が集積し、全国有数の「紙のまち」として発展してきました。
特に、衛生用紙(トイレットペーパー、ティッシュなどの家庭紙)については、国内屈指のシェアを誇っています。
この地域は、戦後から高度成長期にかけては化学工業や輸送用機械等の工場の進出が相次ぎ、バランスの良い産業構成となっていますが、製紙関連産業が基幹産業の1つとなっています。

富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間大社は、富士山を御神体とし富士山信仰の広がりとともに全国各地に祀られた総数約1,300を数える浅間神社の総本宮で、世界文化遺産の構成資産に登録されています。
社伝によると、紀元前27年、垂仁天皇が富士山の噴火を鎮めるために「浅間大神(木花之佐久夜毘売命)」を富士山麓に祀ったことが起源とされています。その後、大同元(806)年に平城天皇の命を受けた坂上田村麻呂が現在の大宮の地に社殿を建立しました。境内には、富士山の神水が湧き出す「湧玉池」があり、道者は湧玉池で身を清めてから富士登山をすることが習わしとなっていました。
浅間造りと称される二階建ての本殿は、他に例を見ない構造で国の重要文化財に指定されています。浅間大社の御神木は桜であり、境内は春になると約500本の桜が美しく咲き誇ります。
写真: 富士山本宮浅間大社

人穴富士講遺跡

人穴は、新富士火山の溶岩流の末端にできた総延長83.3m、高さは最高6mの溶岩洞穴で、建仁3(1203)年に源頼家が富士の巻狩りの際に、仁田忠常に人穴を探索させたとされています。その後、富士講の祖、長谷川角行が戦国時代末から江戸時代の初期にかけて修行し、富士講の聖地巡礼の場となりました。人穴の上には、大日堂の建物が建てられ、富士講道者の世話が行われました。
今では、富士講は衰退しましたが、世界文化遺産の構成資産に登録されたことで富士講の聖地巡礼の場として広く知られています。

白糸の滝

白糸の滝は、長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った場所として知られ、世界文化遺産の構成資産に登録されています。
滝の高さは約20m、幅は約150mで滝の周辺の地質は上部に割れ目が多く水を通しやすい地層(新富士火山白糸溶岩流)があり、下部には水を通しにくい古富士泥流があるため、この溶岩流から水が幾筋も流れ出て滝を作っています。
古くより景勝地として知られ、源頼朝が富士の巻狩りの際、白糸の滝の上にある水が湧き出る岩窟で髪のほつれを直したと伝わる「お鬢水」や曽我兄弟が仇討ちの密談をしていた時に滝の轟音で話が聞き取れず神に念じたら滝の音が止んだという「音止の滝」の伝承があります。昭和11(1936)年には国指定の名勝及び天然記念物として「白糸ノ滝」周辺地が指定されています。

西山本門寺

西山本門寺は、富士宮市西山に境内を構えている法華宗興門流の寺院で、創建は康永2(1343)年、日代上人が開いたのが始まりと伝えられています。
日代上人は、日蓮上人の高弟で六老僧の1人に数えられた日興上人の高弟で、日興死後は北山本門寺の貫主を務めていましたが領主である石川実忠や宗徒達と対立し、現在地の領主である大内安清の招きで西山本門寺を開きました。
中世以降、寺運が隆盛し富士五山や興門八本山に数えられ最盛期には塔中30余坊、末寺21か寺を擁し、境内には数多くの堂宇が建立されました。
境内背後には、織田信長の首塚と伝わる塚がありヒイラギが植えられています。

田貫湖

元中元(1384)年に富士山本宮浅間大社神主の田貫次郎実長がこの地に隠居すると、「田貫沼」と呼ばれるようになり、後に沼北側に田貫神社として祀られるようになり、昭和24年に「田貫湖」と改称されました。
田貫湖は、富士宮市北部の広大な朝霧高原の一角に位置し、東西1km、南北0.5km、周囲3.3kmの人造湖です。
毎年4月20日と8月20日の前後1週間に、富士山頂から昇る朝日が湖面に映し出されます。この自然が織りなす絶景は「ダイヤモンド富士」と言われ、多くのカメラマンがこの地を訪れます。
写真: 田貫湖のダイヤモンド富士

田子の浦港

田子の浦港は、駿河湾の最奥部に位置し、富士山の南を流れる沼川と潤井川の合流点に建設された掘り込み式港湾です。
昭和39年に重要港湾に指定され、地域経済の成長とともに、工業港として順調に発展し、静岡県東部地域の国際及び国内海上輸送網の拠点として重要な役割を果たしています。
また、田子の浦港を望む「ふじの国田子の浦みなと公園」には、「田子の浦にうち出でて見れば白妙の・・」で知られる山部赤人の和歌が万葉仮名で刻まれた歌碑があります。
さらに、田子の浦港に水揚げされるしらすは、「しらす一艘曳網漁」を採用していることや船上での氷締めの作業等を徹底することで抜群の質と鮮度を誇っています。
写真: 山部赤人の歌碑

おわりに

富士山の麓には、牧野酒造、富士錦酒造、富士高砂酒造、富士正酒造の4つの酒蔵があります。自然に濾過された富士山の伏流水(軟水)を使用して作られる日本酒は、多くの鑑評会や品評会で高い評価を受けています。
また、富士市・富士宮市では、伏流水を使用した様々なクラフトビールが各ブルワリーで醸造・販売されています。
このほかにも、富士市では「つけナポリタン」、富士宮市では「富士宮やきそば」といったB級グルメがあり、店ごとに違った味が楽しめます。
富士山世界文化遺産登録10周年を迎え、様々な記念イベントで盛り上がっている富士市・富士宮市に、是非、お立ち寄りください。
(写真提供:静岡県富士山世界遺産センター、日本富士山協会)


美濃焼のまち、多治見~美濃焼と歴史、豊かな自然を有するまち多治見~


多治見税務署 総務課長山口 敬輔

はじめに

多治見税務署は、明治29年に土岐津・御嵩両税務署が設置された後、同42年に両税務署が合併し多治見税務署となりました。その後、幾度かの移転の後に平成22年5月に現在地に現庁舎が新築移転されました。
現庁舎は、庁舎の外観等に美濃焼タイルが使用され、地域の主要産業と融和した作りとなっています。
管轄区域は、多治見市、瑞浪市、土岐市、可児市及び可児郡御嵩町の4市1町を管轄しており、管内面積は、526.53km2、管内人口は約31万人(令和5年1月)です。
御存知のように岐阜県は、国のほぼ中央に位置しています。その中で多治見市、瑞浪市及び土岐市は、県南東部に位置し、JR中央本線、国道19号に沿い、可児市及び御嵩町は、県中南部に位置し、木曽川の南岸にあります。いずれの市町も名古屋駅から車でも電車でもおよそ1時間から1時間30分余りの距離ですが、緑や川が近くにあり豊かな自然環境に恵まれています。
写真: 現庁舎

美濃焼

多治見署管轄地域は、国内でも有数の陶磁器の産地です。当地域で作られる陶磁器は、「美濃焼」として知られています。歴史は古く、平安時代から始まり、桃山時代には、「黄瀬戸、志野、織部、瀬戸黒」が焼かれています。その後、江戸時代末期には白い磁器の生産が始まり、一大産地となっていきました。
作陶体験ができる施設もあり、土から器などを作ることが出来ます。中々思うようにはいきませんが、手びねりをしたり、ろくろを引いていると無心になれ、一時、陶芸家となることができます。
また、美濃焼は、これまでに重要無形文化財保持者に6名認定されているように工芸品として高度な技術によるものもありますが、一方で、和飲食器や洋飲食器など日常生活に欠かせないものに国内において高いシェアを有しているように身近なものもあります。
今、みなさんが手にとってお使いになっている茶碗なども美濃焼かもしれません。何気なくお使いになっているものにそのような背景があることをお知りになったら、これからの食事などがより美味しくなると思いませんか。
写真: 美濃焼

織部の里公園(土岐市)

織部の里公園は、連房式登窯をはじめとした4つの窯跡からなる国指定史跡の元屋敷陶器窯跡周辺を「歩く」「見る」「触れる」ことで美濃桃山陶への理解を深め、楽しむための公園です。これらの窯では、千利休や古田織部が登場し京都や大阪で茶の湯が隆盛した約400年前、茶陶である美濃桃山陶が盛んに生産されました。茶の湯の文化を知るうえで大変重要な場所です。
このような歴史のある場所には、元屋敷窯跡から出土した遺物の展示のほか、松坂屋の創業家である伊藤家の別荘「揚輝荘」から移築された茶室「暮雪庵」や、毎年6月頃に見ごろを迎え、風に揺れる紫や白色の1万5千株の花菖蒲園などがあります。
茶室「暮雪庵」では、定期的にお茶会が開催されており、6月には花菖蒲を鑑賞しながらの野点も開催され、来場者が見て、触れることができる魅力あるイベントとなっています。
写真: 元屋敷陶器窯跡と花菖蒲

虎渓山永保寺(多治見市)

虎渓山永保寺は、多治見駅から車で10分ほどの距離にある寺院です。
鎌倉時代(1313年)に開創された臨済宗の禅寺で、観音堂と開山堂は国宝に、池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されています。
池泉回遊式庭園は、自然の地形や景観を巧みに利用して築造され、中世禅宗寺院の庭園として高い価値があるといわれています。特に紅葉の時期には辺り一面が鮮やかに染まり、樹齢700年の大イチョウが黄金色に輝く様子は見事です。
近くには土岐川が流れており、寺院にもその流れる音が聞こえてきます。寺院の空気に触れ、流れる川の音を聞いているととても癒されます。
写真: 虎渓山永保寺

おわりに

このほかにも、瑞浪市には、市内で採集された化石を展示する「瑞浪市化石博物館」、可児市には、国史跡に指定される「美濃金山城跡」、御嵩町には、中山道の宿場町であった様子が分かる「中山道御嵩宿 商家竹屋」など、中山道や下街道、木曽川など歴史や自然が豊かな当署管轄地域には素晴らしいところが沢山あります。
東海圏にお越しの際には、岐阜へ、また、ぜひ、当地域にお寄りください。きっと、いろいろな発見をしていただけることと思います。お待ちいたしております。
(写真提供:一般社団法人岐阜県観光連盟、土岐市)