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路線価でひもとく街の歴史

第47回 「東京都新宿区」

バイパス駅前が東京の中心になるまで


はじまりは新宿二丁目
新宿の起源は甲州街道の宿駅「内藤新宿」にさかのぼる。甲州街道の最初の宿駅であり、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿と並び江戸4宿と呼ばれた。元々高井戸宿が最初の宿駅で、内藤新宿は浅草商人の出資で開設された新駅である。開設は元禄12年(1699年)で享保3年(1718年)に一旦廃止、明和9年(1772)に再開した経緯がある。信州高遠藩内藤家の下屋敷に隣接した新しい宿なので内藤新宿という。下屋敷は明治の代に新宿御苑となった。
宿場町は新宿御苑の北辺に並行し、四谷大木戸(おおきど)から新宿追分まで1kmにわたる。四谷大木戸は現在の四谷四丁目交差点にあり、要するにここから西は江戸城下町の外だった。明治に入っても内藤新宿は南豊島郡の内藤新宿町で、東京市に編入され四谷区の一部となったのは大正9年(1920)である。新宿追分は青梅街道と甲州街道の分岐点で、現在の新宿三丁目交差点である。当時は丁字路で南に曲がると甲州街道。東西の直進ルートが青梅街道で現在の新宿通りだった。
明治15年(1882)の東京府統計書によれば南豊島郡の最高地価の場所は「内藤新宿二丁目」だった。現在の新宿二丁目と範囲が若干異なるが、かの有名な二丁目仲通りと交差する地点は当時の内藤新宿二丁目に含まれる。ここが新宿の中心地だった。
新宿駅の開業は明治18年(1885)3月。経営は上野駅を起点に現在の高崎線に沿って当時は前橋駅まで路線を延ばしていた日本鉄道である。途中の赤羽駅から枝分かれし、当時未開業の池袋駅から現在の山手線のルートを辿って品川駅に至る品川線の駅だった。品川駅で既に開通していた官営鉄道と連絡することで、群馬の養蚕地帯と横浜の生糸輸出港を結ぶ意図があった。既に建物が密集していた都心を迂回するための路線で、要するにバイパス線である。
新宿駅というものの住所は内藤新宿町ではなく、その西隣の角筈(つのはず)村だった。開駅4年目の明治22年(1889)に淀橋町となる。淀橋町が東京市に編入されるのは内藤新宿町より後の昭和7年(1932)で、他3町と合併して淀橋区となった。淀橋区が四谷区、牛込区と合併して新宿区となったのは昭和22年(1947)である。


新宿追分または新宿三丁目交差点
明治43年(1910)の東京府統計書では最高地価の場所が「内藤新宿町三丁目」とある。大正15年(1926)大蔵省の土地賃貸価格調査事業報告書では四谷区の最高が新宿三丁目となっていた。明治後期から大正にかけて街の中心が新宿駅に向かって動いたことが窺える。この時点で街の中心は新宿追分だった。
明治後期といえば明治36年(1903)、新宿通りに路面電車が開通した。半蔵門から甲州街道に沿って敷かれた東京市街鉄道の路線で終点は新宿駅前駅だった。大正4年(1915)、笹塚駅と調布駅の間で開業していた京王電気軌道が新宿追分駅まで延伸。新宿追分駅は新宿三丁目交差点の路上にあった。この頃から郊外住宅地が開発され、新宿駅は都心に向かう乗換拠点の性質を帯びてきた。この動きに拍車をかけたのが大正12年(1923)の関東大震災である。比較的地盤が安定していた東京西郊に人気が集まった。
昭和2年(1927)4月、新宿を起点に南多摩、神奈川県央を経由し小田原に至る小田原急行鉄道が開通した。国鉄新宿駅に乗り入れる形で新宿駅が設けられた。同年10月、京王電気軌道は新たに建設した四谷新宿駅に新宿の起点を移す。四谷新宿駅は都営新宿線C1出口を擁する京王新宿三丁目ビルの場所にあった。戦時末期に現在の新宿西口に起点を移したが、今も京王電鉄の登記上の本店は新宿三丁目である。
この頃には新宿駅の乗降客数が東京で第1位となっていた。鉄道省が昭和4年(1929)5月22日に電車線の降車客数を調べたところ東京駅70,962人に対し新宿駅は81,842人だった。
前後して新宿追分を中心に百貨店の進出が相次いだ。日本橋に本店を構える三越の進出は、大正12年10月、関東大震災の直後に急造した仮設店舗の「新宿三越マーケット」だった。大正14年(1925)に現在の新宿アルタの場所に建てられた鉄筋コンクリート造5階建の店舗に移転した。地元勢は大正15年(1926)、四谷で呉服店を営んでいた「ほてい屋」が交差点北西角に6階建の百貨店を立ち上げた。昭和2年に四谷新宿駅が開業した際、駅ビルの2~5階に、四谷で呉服店を営む武蔵屋呉服店が入居し百貨店営業を始めた。もっとも長続きせず、昭和4年(1929)に「新宿松屋」に交代した。松屋銀座の社長の妹婿、牛山武兵衛が立ち上げた百貨店である。その翌年の昭和5年、現在のビックカメラ新宿東口店の場所に三越が8階建の店舗を新築し移転する。駅前の旧店は三越グループの食料品専門店「二幸」に衣替えした。昭和8年(1933)、神田を本拠としていた伊勢丹がほてい屋の隣で開業し本店を新宿に移す。2年後の昭和10年(1935)にほてい屋を買収し両店を連結。東京で三越本店に次ぐ大規模店となった。
銀行の出店も相次いだ。新宿三丁目交差点の南西角の三菱UFJ銀行新宿支店は、元を辿れば大正14年(1925)、二丁目に出店した第百銀行新宿出張所である。昭和2年(1927)に川崎第百銀行となり現在地に店舗を新築、その後三菱銀行となった。現在に至る再編で東海銀行も合流しているが、新宿の場合、東海銀行の前身の名古屋銀行(現存する同名行とは別)が大正12年(1923)に新宿支店を出している。三丁目界隈のみずほ銀行新宿中央支店は昭和2年に開店した第一銀行にさかのぼる。なお駅前の同行新宿支店は大正12年(1923)に進出した安田銀行が源流だ。大正15年(1926)から現在地で営業している。隣の三井住友銀行は昭和5年(1930)、同じ場所にあった浅田銀行の営業を引き継いで進出した住友銀行に由来する。


三丁目交差点から駅前へ
戦後も新宿三丁目交差点が街の中心だった。昭和36年(1961)の最高路線価地点は「新宿3丁目タカノ洋装店」である。新宿通りに面するタカノ洋装店は伊勢丹の向かい側にあった。新宿三丁目の商業を長年リードしてきたのが三越と伊勢丹である。新宿三越は平成24年(2012)に撤退したが、伊勢丹本店は一貫して地域一番店の座を保ちいまや全国でも売上首位である。戦後に進出した勢力としては昭和30年(1955)、伊勢丹の北側に出店した「新宿丸物」があった。京都に本拠を構える百貨店だったが、昭和41年(1966)に伊勢丹に買収された。現在の伊勢丹メンズ館である。昭和23年(1948)に初出店以降スクラップアンドビルドを繰り返してきた丸井もある。現在は新宿に3店あり、昭和49年(1974)出店のニュー新宿店を起源とする新宿マルイ本館が基幹店だ。
昭和47年(1972)、最高路線価地点が駅前の「角筈1丁目高野果実店前新宿通り」に移った。高野果実店はタカノフルーツパーラーとして知られている。社名を「新宿高野」といい中村屋、紀伊國屋書店と並び新宿御三家とも称される老舗だ。新宿駅が開業した明治18年(1885)、初代髙野吉太郎(きちたろう)が新宿駅前に立ち上げた「高野商店」が源流である。この時点では繭仲買・中古道具を扱っており、明治33年(1900)に本業とするまで果実は副業の扱いだった。大正10年(1921)、現在地に移転しフルーツパーラーを始めた。その隣には中村屋がある。元々は本郷のパン店で、明治42年(1909)に新宿に本店を移した。大正4年(1915)末、インドの独立運動家、ラス・ビハリ・ボースを約3か月半かくまった。その縁で創業夫妻の長女の相馬俊子とボースが恋に落ち結婚。昭和2年(1927)に中村屋が喫茶部を新設するにあたって娘婿のボースが提案した新メニューが今に伝わる「純印度式カリー」だ。
駅前の発展を示す出来事の1つに駅ビルの開業がある。昭和39年(1964)、新宿ステーションビルが竣工した。民間が出資して店舗を併設した国鉄「民衆駅」で、後の「マイシティ」、現在の「ルミネエスト」である。もっとも、駅前の求心力が高まった要因としては新宿駅の外縁で進んだ再開発の影響が大きい。戦後早々に始まったのが駅北側の歌舞伎町である。「歌舞伎町」という地名は、「歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」構想があったことにちなむ(鈴木喜兵衛「歌舞伎町」(1955)に寄せた元東京都建設局長石川栄耀(ひであき)の序文)。昭和23年(1948)に路面電車のルートが靖国通りに移転、後に西武新宿駅も開業し各々最寄り駅となった。
昭和25年(1950)、造成が一段落した歌舞伎町で東京産業文化博覧会が開催される。閉会以降、西側は広場を中心に映画観や劇場を囲む街となった。広場の西端にあったパビリオンの1つ産業館は東京スケートリンクに改修され、後にミラノ座が建った。現在は48階建の東急歌舞伎町タワーが建つ場所だ。東端にはコマ劇場が建てられたが平成23年(2011)に解体され現在は30階建の新宿東宝ビルになっている。当初目指した山の手家庭向けの教養娯楽センターとは異なるが、歌舞伎町は清濁併せ呑む有数の歓楽街となった。


プール底を活かした未来都市・西新宿
次に姿を現したのは駅西側である。昭和41年(1966)、新宿駅西口広場が竣工した。来るべき車社会を想定した地上部と、歩行者が行き交う地下広場がある。天井が開いた地下広場の中央にはインターチェンジ状の乗降場がある。乗降場の南北には地下街「小田急エース」が設けられた。翌年には小田急新宿駅ビルが完成。昭和37年(1962)から現ハルク館で営業していた小田急百貨店が本店を移した。西口広場、駅ビルともに小田急電鉄が整備に関わり統一的な景観を実現している。昭和39年(1964)には京王百貨店もオープンしており、この5年程の間に新宿三丁目に劣らぬ商業集積が新宿西口に生まれていた。
昭和40年(1965)に廃止された淀橋浄水場の跡地では高層ビル街の造成が始まった。ビル群で最初に完成したのが昭和46年(1971)6月、47階建の京王プラザホテルだった。最高路線価地点が新宿駅前に移ったのはその翌年である。ビル街の建設は東京都庁が竣工した平成3年(1991)まで続く。沈殿・ろ過用のプールの底に造成した街で、3×3のマス目内は地表面に対し1階分低い。図3でいえば前方の左右に横切る道路が新宿駅と同じ標高となる。東西軸と南北軸が立体交差しており街区内は横断歩道なしで徒歩移動できるが、階段の上り下りは多い。
昭和47年の最高路線価地点の移転の意味は新宿エリア内にとどまらない。銀座を抜き、新宿が東京都ひいては全国の最高路線価となったからだ。統計書を元に東京の最高地価をふりかえると明治15年(1882)で最も地価が高い場所は「安針町」だった。日本橋魚河岸の後ろ側である。大正9年(1920)の統計書には三越本店が店を構える「室町一丁目」とある。大正15年(1926)から日本橋の南詰の「通一丁目」、昭和4年(1929)に銀座四丁目交差点の南側「銀座五丁目」に移った。舟運と街道が交わる日本橋周辺から、鉄道の時代を反映し駅前に街の中心が移ってきたことが窺える。東京駅の開業は大正3年(1914)だが、それまでの東海道線の起点である新橋駅の駅前、すなわち銀座界隈が栄えていた。戦後も「銀座5丁目三愛前銀座中央通り」が最も高い路線価だった。
昭和57年(1982)に奪還されるものの、昭和47年から9年間は新宿が東京で最も高い路線価だった。地方都市では、元々郊外立地だった駅前が街道・河川沿いの伝統的な中心地から最高路線価地点の座を奪取するケースが多かった。求心力を高めた要因は交通手段の変化と新しい街への再開発である。経緯を踏まえれば銀座より新宿のほうが性質的には「駅前」に近い。


新宿グランドターミナル構想
平成に入り再開発の舞台は新宿南口に移る。平成8年(1996)、新宿貨物駅の跡地に高島屋を核店舗とするタカシマヤ タイムズスクエアが完成。2年後、小田急線の線路上の人工地盤にホテルや商業施設が散在する新宿サザンテラスができた。平成28年(2016)にはわが国最大のバスターミナル、通称「バスタ新宿」が開業した。周辺に分散していた19か所の高速バス乗り場が駅直結のターミナルに集約された。隣接して32階建の「JR新宿ミライナタワー」が開業。低層階はルミネ新業態のNEWoMan新宿となった。
戦前、新宿の市街地は駅の東側にあった。新宿三丁目交差点の東側、末廣亭界隈から二丁目にかけての宿駅時代以来の街も、店や業態は変わったが繁華街の一角を占めている。戦後は駅を中心に北、西そして南側の順で新しい街が開発された。東西南北の街はそれぞれ独立しており別の顔を持ち、バラエティ豊かな街の特長を示している。一方、これは新宿の課題でもある。新宿駅による街の分断を意味するからだ。「新宿ダンジョン」とも呼ばれる新宿駅を迷わずに通過するのは至難の業だ。アメーバ状に広がる地下街では方角がわかりにくい上、アップダウンが多く高齢者には不便だ。
そこで平成29年(2017)、「新宿の新たなまちづくり」が東京都および新宿区から公表された。2040年代を見据えたコンセプトが「車中心のまちから人中心のまちへ」と「多様な都市機能が近接し、連携するまち」である。街の形成史と関わりが深い官民連携の視点も盛り込まれている。具体策の1つが「新宿グランドターミナル構想」だ。新宿駅を、鉄道会社の違いを越え、駅前広場や駅ビルが有機的に一体化した次世代ターミナルと再定義。さらに西の新宿公園から東の新宿御苑に至る東西骨格軸を定めた。その上でグランドターミナル化した新宿駅を要に、東西骨格軸をもって、東西南北に分散した新宿の街を人の視点で再統合するのが構想の目玉だ。その鏑矢が、約8年という歳月を経て令和2年7月に開通した東西自由通路である。今後、南口にあるようなテラスとデッキが新宿駅を囲むように東口側と西口側にでき、駅上広場(新宿セントラルプラザ)を介して東西南北に横断できるようになる。そして東西自由通路につづく西新宿の中央通りと東口の新宿通りが歩行者仕様の道になる見通しだ。歩車分離による共存を目指した西口広場はより歩行者に重きを置いた空間になる。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図1. 市街図 (出所)筆者作成
図2. 伊勢丹本店(出所)令和5年12月16日筆者が撮影、加工
図3. 西新宿の風景(出所)令和5年12月16日筆者撮影