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講師 守屋 淳 氏(作家、中国古典研究家 グロービス経営大学院特任教授)


演題
「論語」と「韓非子」に学ぶ組織論
令和5年9月20日(水)開催


はじめに:「徳治」と「中国式」法治
ご紹介にあずかりました守屋と申します。今日のテーマは、中国古典から学ぶ良い組織の形成についてです。中国古典の中には、これが良い組織だという対極的な考え方があるのです。
まず、「徳治」と言われる考え方があります。これは徳のあるリーダー、すなわち非常に人格者で、器が大きいイメージでよいと思いますが、こうした人が組織の真ん中にいて、組織をまとめていきましょうという考え方です。この考え方を代表する古典が「論語」です。
一方、これと真逆に「中国式」法治という考え方があります。これは、人の属性に頼っていると良い組織はできないから、法と権力でうまく組織を一つにまとめて、成果を上げさせるのがよい、という思想です。これを代表的する古典が「韓非子」です。
この「徳治」と「法治」には当然強みと弱みがあります。それぞれの強みと弱みは何か。最終的には二つのハイブリッドが良い、ということになるのですが、ではどうやったらハイブリッドにできるのかという話へ進んでいきます。
実は、中国の歴史的な統治方法というのは「中国式」法治なのです。現在の中国を考える上でも参考になる面がありますので、後ほど「中国式」法治の歴史的な意味についてもお話をします。


A.徳治(論語)
1.孔子が求める理想的な組織とは
まず、「徳治」の話から始めますが、「論語」の基本的な話をします。「論語」は今から約二千五百年前、中国の春秋時代末期に活躍した孔子(本名:孔丘、字:仲尼)とその弟子たちの言行録です。
「論語」は孔子が書いた、と言いたくなるのですが、孔子は書いておりません。孔子の死後、約百年が経過し、その教えがバラバラになってしまうことを恐れた孫弟子や曾孫弟子たちが集まり、「論語」を編集した。これが「論語」の最初の形だと言われています。
この「論語」の中で、孔子は理想的な組織について次のようなことを言っています。
「徳を持った人が組織の真ん中にいる。その周りには部下が星々のように存在する。部下たちは徳を持った真ん中のリーダーやトップに対して、信用や尊敬、憧れを抱く。このお互いの信頼関係から、美しい天体のような組織を作っていく」
これが孔子の理想とした組織で、これを「和」の組織と言ったりもします。

2.後から身に着けるもの/天から与えられたもの
徳というのは、基本的に、社会的な役割を果たすために必要なスキルや人格、行動規範を指します。もし自分に不足していれば、後から身につけることが可能です。
一方、天から元々与えられているものもあります。それが「性」です。あえて訳すと「らしさ」になります。この「らしさ」を基にして、自分の進むべき道を決め、そこで社会的に与えられた役割を果たしていくために、後から身につけていくのが「徳」であると考えると非常に分かりやすいですね。

3.「和」の組織の外形的な条件
この「和」の組織が成り立つためには、外形的な要素と内実的な要素の両方にいくつかの条件が必要となります。
まず外形的な絶対条件としては、徳あるトップが真ん中にいることです。部下たちは適材適所に配置されているため、その周りを円滑に回っているのだと、中国古典では考えるのです。例えば、「書経」という古典にも「部下一人一人を適材適所していくのが、上に立つ人間の役割なのだ」と書かれています。
では、適材適所というのはどう行うのか? 原理原則は一つです。すなわち、「その長所だけを見て、短所は忘れてやる。」です。これは、人使いの名人と称された三国志の孫権の台詞です。
この「長所を見て適材適所を行う」というのは、そのとおりですが、一つ条件があります。それは、ポストが豊富に存在するということです。もし、ポストが少ない、またはそういった余裕がない状況であれば、誰を組織に入れるのか、不適切な人は外すのか、ということにならざるを得ないのです。

4.「和」の組織の内実的な条件
「和」の組織では、まず、部下の適材適所を行うのですが、部下がトップを信頼し、尊敬しないとうまく機能しない、と考えます。また、お互いに育み合い、生かし合い、そして上に対して諫言することができて、初めて「和」の組織ということができるのです。
孔子は「とにかく、上には正しい情報を上げろ」と言っています。同時に「言うべきことは徹底して強く主張しろ、これが下のあるべき姿だ」とも言っています。これが「和」の組織の内実なのです。

5.「和」の組織の問題点
この「和」の組織は理想的な状態とも言えるのですが、「和」の組織がうまく機能しなくなる場合も多いです。
パターンはいくつかあります。第一に、有徳者が続かなくなってしまうことです。
真ん中に徳のあるトップやリーダーがいるからこそ、「和」の組織は機能するのです。ある時点では徳のあるトップかもしれません。しかし、その後継者、さらに次の後継者となるにつれて、徳のない人が真ん中に座ることもあり得ます。そうなると、こういったタイプの組織は崩れてしまう可能性があるのです。
第二に、徳のある人が、権力を持ち続けることによって、徳のない人に変わってしまうというパターンです。
さらに第三として、この組織が現場に依存している場合、現場が暴走すると、その暴走も止められなくなるという状況が生じます。
なぜならば、基本的には信頼関係でしか繋がっていないからです。

6.「和」と「同」
「論語」には、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という有名な言葉があります。「和」と「同」は何が違うのでしょうか?
「和」というのは、お互いに意見すべきときは意見し、諫言すべきところは諫言しつつ、最後には協調できる態度のことです。
「同」というのは同質化のことで、親分が白いものを黒だと言えば、部下も「黒です」と言うようなことです。
この組織は、良いときは「和」なのですけど、下手すると「同」に引っ張られるのです。
「和」と「同」の違いの根本は、その組織が何を目的にしているかによる違いから説明できます。
「和」というのは、その組織が目指すべきものが組織の外にきちんと立っている状態のことを言います。
これに対して「同」は組織自体が目的化してしまった姿なのです。この組織にぶら下がっていたい、この組織で今の地位を維持したいと思うのであれば、実力者に忖度して、実力者が白いものを黒だと言えば、「黒です」と言っていた方が、生き残りやすくなるわけです。こういう違いがあるのです。
なぜ「和」が「同」に引っ張られていくのか。それは、組織が大きくなって安定してくると、「安定しているから」という理由で、組織に入る人が増えてしまうからです。どうしても「同」の方に、守りに入っていくことが起こるのです。
名門企業の再生に活躍したコーポレート・ガバナンスの研究者、小城武彦さんが書いた「衰退の法則」という本の中にも、「同」に近づけば近づくほど、名門企業でも破綻に近づいていくことが書かれています。今、日本の大企業の多くが、おそらくこの問題を抱えています。
組織は「和」の状態であればすごく良いのですが、下手すると、知らず知らずのうちに「同」の方にどんどん寄っていってしまうのです。


B.「中国式」法治(韓非子)
1.韓非子:論語とは前提条件が真逆に
では、どうすればいいのかという問題に対して、「論語」的な「徳治」とは真逆の原理、すなわち「中国式」法治により組織をまとめる方法を考え出したのが、韓非という人物です。正確に言うと、「中国式」法治の考え方は孔子のさらに前の時代からあったのですが、韓非がそれを集大成したのです。
「中国式」法治が登場した理由は、これまで見てきた組織の問題点に加えて、もう一つの理由があります。孔子が活躍した春秋時代は戦乱の時代ではありましたが、それほど激しい戦乱ではなかったのです。一方で、韓非が活躍したのは次の戦国時代の末期、より混乱した時代だったのです。
この間三百年ぐらい時代が経過しています。戦乱がさらに激しくなり、もう人の信用とか信頼を当てにすることが難しくなってきたのです。
そういう意味では、「論語」と、ここからご紹介する「韓非子」というのは前提条件が全く違うのです。
「論語」は「信用信頼こそが何より重要だ」と言っていますが、一方「韓非子」では「相手を信用するから騙される」みたいなことが書いてあります。
また「論語」では「上下の良い関係を作って、良い組織を作ろう」と言っていますが、「韓非子」では「君主と臣下とは、一日に百回も戦っている。臣下は下心を隠して君主の出方をうかがい、君主は法を盾に取って臣下の結びつきを断ち切ろうとする」と言っています。
これは非常に極端ですが、組織にはこういう面がないとは言えません。
さらに「論語」は「法とかルールを振りかざすからお互いギスギスするので、お互い良心的に真心を持って話し合えば、それで済むのではないか」と言っています。一方、「韓非子」は「人間のことを頼りにしているから駄目なのだ、法やルールに頼りなさい」と言っているのです。

2.欧米の法治と「中国式」法治
ここで一つ補足いたします。ここまで「中国式」法治という言い方をしてきました。なぜ「中国式」が付くのかというと、欧米の法治とは考え方が異なるからです。この点が現在の中国を考える上での一つのヒントにもなります。
欧米の法治は、ロックやヒュームを源流とする自由主義の前提にあります。これは基本的に個人中心の考え方で、確固たる法が基盤にあるからこそ、人々は自由に行動できるとされています。まずしっかりと法やルールを基盤に決めよう、その上で個々人は自由に行動しよう、と考えているのです。
さらに欧米の法治の特徴として、「正しさ」は法が決めると考えます。この「正しさ」の中核は公正さです。
一方、「中国式」法治とは、法と権力を手段とし、組織や国における統治や統制を実現することです。成果を上げさせるための賞罰規程も入っています。正しさは法やルールが決めるのではなく、政治が決めると考えるのです。
これは組織、国中心の考え方であり、会社や組織統治のやり方そのものなのです。会社みたいなものなのです。私は「中国とはどういう国か?」と聞かれると、「会社みたいな国です」と答えていますが、それはここからくる考え方なのです。

3.「中国式」法治の中身:法を重視
「中国式」法治の中身についてここからお話をします。まず「中国式」法治では法を重視します。法やルールを例外なく公平に当てはめることで、まず、組織を一つにまとめようと考えます。
ただ、一つ難しいところがあって、法やルールというのは、それを決めただけでは、部下が守ってくれるとは限らないということです。

4.権力とは
「韓非子」には「国に混乱が生じるもとは六つある。君主の母親、妻や愛人、子供たち、兄弟、重臣、知識人たちだ」と書いてあります。
ここに書いてあるのは、「法やルールなんて私たちには関係ないでしょ、私は君主の身内なのよ」と言い始める人たちです。
権力を握っている人や握っているらしい人に「法やルールなんて関係ないわ」と言われると、部下としては抗えないのです。
ではどうしたら法やルールを守らせることができるのか? ここで必要なのが権力だ、と「韓非子」では考えるのです。
「韓非子」にとっての権力は、例えば、虎の爪なのです。虎は爪を持っているから、他の獣たちに言うことを聞かせることができる。しかし他の獣たちからは言うことを聞かせられない、この一方的な関係を作れることを権力と言っているわけです。

5.手続きや形式としての権力と実質的な権力
ただし、ここで一つポイントがあります。権力というのは「手続きや形式としての権力」と「実質的な権力」の二つに分かれるのです。
「手続きや形式としての権力」というのは、それを握っても、部下が言うことを聞いてくれるかどうかわからないのです。面従腹背でこちらが言ったことがみんな流されてしまう状況になることもあるのです。

6.実質的な権力の源泉
そこで「実質的な権力」というものが必要になります。その源泉はいくつかあります。まず、軍事力や裁判権です。言うことを聞けば生かしておくし、言うことを聞かないと殺す、と言って相手を従わせるわけです。
財力もそうです。言うことを聞けばお金をあげる、言うことを聞かないとあげない、と言って相手をコントロールするのです。
現在の組織だと人事権が重要です。言うことを聞けば出世させる、言うことを聞かないと左遷やクビだ、と言って、従わせるのです。
また最近よく使われるのが情報です。言うことを聞けば教える、あるいはまずいことを黙っていてやるし、言うことを聞かないと教えない、ばらしちゃうぞ、と言って、従わせるのです。
さらに依存関係もそうです。言うことを聞けば依存させてあげる、言うことを聞かないと、依存させない、と言って、従わせるのです。
「実質的な権力」は賞罰、飴と鞭をうまく使って相手従わせるのです。
現代だと軍事力、裁判権はあまり出てこなくて、ポイントは財力と人事権になるわけです。これを握れば言うことを聞かせられるのです。
この権力を使って、まずは、ビシッと組織をまとめて、かつ成果も上げさせようというのが「韓非子」の考え方です。
「韓非子」には「賞と罰をうまく使うことによって、こちらは相手の言うことを聞かせられるが、相手からは言うことを聞かせられないという環境を作って、うまく組織をまとめて成果も上げさせなさい」ということが書いてあります。
これは四字熟語の「信賞必罰」と非常に近くなります。信賞必罰には一つの原理原則があります。
「みせしめに殺すなら、なるべく位の高い者がよい。また、賞を与えるなら、なるべく地位の低い者がよい(これを殺すは大を貴び、これを賞するは小を貴ぶ)」(尉繚子)
こうすれば宣伝効果が上がるから、法というものがきちんと公正に適用されている象徴になるからと、このように考えるわけです。

7.刑名参同:目標管理制度
この「韓非子」という古典は、実は時代を二千年以上先先んじている面があるのです。
どういうことかというと、ピーター・ドラッカーが20世紀になって言い始めた「目標管理制度」というやり方を二千年以上前から唱えているところがあるのです。「韓非子」には次のように書かれています。「部下の悪事を防ごうとするならば、トップは部下に対して「刑」と「名」、すなわち申告と実績の一致を求めなければならない。まず部下がこれだけのことをしますと申告する。そこでトップは、その申告に基づいて仕事を与え、その仕事にふさわしい実績を求める。実績が仕事にふさわしく、それが申告と一致すれば、賞を与える。逆に、実績が仕事にふさわしくなく、申告と一致しなければ、罰を加える。」
これを「形名参同」と言いますが、ドラッカーが20世紀になって唱えた「目標管理制度」ないしは「会社業績評価制度」とほぼ同じような考え方になるのです。
ただ、ドラッカーの考え方と「韓非子」では一つ大きく考え方が異なるところがあります。
「韓非子」には次のように書いてあります。「これだけはやりますと申告しながら、それだけの実績をあげなかった者は、罰する。実績が小さいからではない。申告と一致しないから罰するのだ。これだけしかやれませんと申告しておきながら、それ以上の実績をあげた者も罰する。なぜか。むろん、実績の大きいことを喜ばないわけではない。だがそれよりも、申告と実績の不一致によるマイナスの方がはるかに大きいからだ」
これは「韓非子」の考え方が「人や部下を信用できない」という前提に基づいて組織をまとめようとしていることの弊害が現れているところです。部下には裁量の余地を一切与えないという考え方です。
だから、「言ったことは字義どおり守らせる」という話にせざるを得ないのです。対前年5%売り上げ伸ばしますと言ったら、5%ぴったりじゃないと左遷するぞ、というアホな話にしかならないところがあるのです。
「韓非子」がこういう目標管理制度みたいなやり方を入れたのには、いくつか理由があります。
「中国式」法治の大きな問題点は、上の人間が恨まれやすいことです。賞を与えている分にはいいのですが、変に罰与えてしまうと、「あいつめ、俺のことを罰しやがって・・。許せん!」ということになります。すごく恨みを買いやすいのです。だけど刑名参同のやり方は、恨みを回避することができるのです。なぜならば、「自分が立てた目標が達成できずに罰せられるのは自分の責任だ、こちらが恨まれる話じゃないよね」というロジックを立てることができるからです。
「中国式」法治は、この刑名参同を使うことによって、下に試行錯誤をさせて、その成果だけを収奪するシステムだという言い方もできるのです。

8.習近平の愛読書「韓非子」
実は中国の習近平総書記の愛読書の一つがこの「韓非子」だと言われています。直近の中国共産党大会の前まで2期連続して李克強が首相でしたね。習近平と李克強の関係は確かに「韓非子」的なところが非常に強いのです。
この刑名参同のやり方を使うことによって、君主は恨まれないための透明な評価者になろうという考え方が「韓非子」にはあるのです。
先ほどの習近平と李克強の話で言うと、李克強は子供のときから天才と言われた人で、要するに政策オタクだったわけです。李克強がいろいろな政策を実施する。そうすると当然うまくいくものもあまりうまくいかないものも出てくるわけです。すると習近平は、うまくいったものに関して、俺は最初からこれが気に入っていた、みたいなことを言うわけです。そうするとそれにリソースが集中されて、他のものは消えていく、という形で、ある種の「韓非子」的なシステムでうまく回していたところがあると言われています。

9.「徳治」の問題解決としての「法治」
「中国式」法治の考え方をまとめますと、権力と法で組織を一つにまとめます。組織において権限委譲は不可欠だが、それをどう秩序づけるのかという問題があります。「論語」の「徳治」では、秩序付けの手段は徳なのですが、「韓非子」の「中国式」法治の場合は、法と権力で秩序付けようとするわけです。
法は組織を一つにまとめる縛りであり、賞罰規程も含まれます。
この法と権力、すなわち賞と罰、飴と鞭を使って、組織を一つにまとめ、成果を上げるようにする、信賞必罰、刑名参同を手段とする、こういう話なのです。
この統治の方法は、互いに信用が難しい状況(例えば、共通の価値観が少なく、文化的な違いが大きい場合、過度な競争状態など)では、普遍的に見られる組織の統治形態となります。

10.「中国式」法治と成果主義
その意味では、現在の成果主義の企業や組織が取る統率方法と「中国式」法治の方法とは、非常に似た点があると言えます。現在の中国社会も、この「中国式」法治の伝統を引き継いでいる面があります。この意味で、うまく機能していると私も感じますが、この「中国式」法治にはいくつか問題も存在します。

11.「中国式」法治の問題
(1)「中国式」法治の問題点その1
まず最も大きな問題として、この「中国式」法治では、権力闘争が非常に起きやすいという点があります。
基本的に、お互いの信頼関係を築くよりも、自分が成果を上げることが重要という前提が存在します。
そのような状況では、他人に従うよりも、他人を従わせた方が気持ちいいので、どうしても権力闘争が起こりやすくなるのです。
しかも、権力には源泉があります。この権力の源泉の奪い合いが、権力闘争の本質となるのです。

(2)「中国式」法治の問題点その2
「中国式」法治の2番目の問題は、チームとして成果を上げようという発想がなくなりやすいことです。要は、自分さえ成果を上げればいい、自分さえ評価を上げればいい、ということになってしまうのです。これは「中国式」法治の方法を採用すると、非常に発生しやすいマイナスの傾向です。

(3)「中国式」法治の問題点その3
実はもう一つ、「中国式」法治には大きな問題があります。それは信賞必罰という考え方に関わる問題です。
土地などの賞の源泉がなくなると、財源が不要である罰だけの片肺飛行になって、システムが維持できなくなるのです。
実は、「韓非子」の考え方は、戦国時代の秦という国の政という王様が採用します。これが後の秦の始皇帝です。秦が中国を統一した大きな原動力になったのが「韓非子」の考え方だと言われているのです。
当時の恩賞は土地です。秦が他の国を滅ぼしているうちは、新たな源泉が手に入るから問題ないのですけど、全部統一してしまうと、恩賞にできる良い土地が手に入らなくなってしまう。しかも平和になると人口が増えるのです。
ますます賞が減少し、罰だけの片肺飛行となった秦王朝はたった15年で滅びました。その後、項羽と劉邦という英雄が覇権争いを行い、劉邦が勝ち、漢という王朝を作りました。漢王朝は行政的には秦王朝のやり方を全て受け継ぎました。しかし、最初は戦乱が続いていて、人口が少なかったのです。恩賞の土地もある程度ありました。さらに貨幣が導入されたため、一応貨幣で恩賞を支払っていました。しかし、漢の武帝という皇帝が匈奴という遊牧民と大戦争を行い、国庫が空っぽになってしまいます。下手すると罰だけの片肺飛行になりそうになりました。
このままでは秦王朝の二の舞だということで、漢王朝が何をやったかというと、「論語」的な「徳治」を導入したのです。
すなわち「利益なんかを追っているのはつまらない人間であり、義(公益)を優先させてこそ立派な人間なのだ」という価値観を浸透させていくのです。実は、これがうまくいって、漢王朝は前漢、後漢と合わせると四百年という、大変長命な王朝になったのです。


C.「徳治」と「法治」の両立
1.制度設計は「法治」、運用は「徳治」
そこで、「徳治」と「法治」はやはり両立するのが良いという話になっていきます。
前漢の第10代皇帝の宣帝、この人は前漢中興の祖と言われているすごい皇帝ですが、彼は「わが漢の王家には、ふさわしい制度がある。それが覇道と王道の併用だ」と言っています。
覇道というのが、「韓非子」的な「法治」です。王道というのが「論語」的な「徳治」です。この二つを併用するからこそ長続きできるのだ、と。
では「徳治」と「法治」をどうやって併用するのか?
つまり、制度設計は、「韓非子」的な性悪説に基づき「法治」で作ります。しかし、実際にそれを運用するときは、「論語」的な性善説に基づいた「徳治」で運用します。ただし、「徳治」で運用すると、先ほど述べたような「徳治」の問題がどうしても発生します。
問題が発生したら、制度設計しておいた「法治」を再度導入し、「徳治」の問題を解決します。問題がうまく解決したら、再び「徳治」の運用に戻します。これが併用の方法だと言われています。

2.「徳治」と「法治」を二重人格的に繰る
組織内で「徳治」の側面と「法治」の側面を、それぞれ異なる人間が担当し、コンビで行うと、うまく機能するのではないかという考え方があります。
また、一人の人間がやる場合には、二重人格的に両者を操っていくしかないと言われています。
私はいろいろな経営者と付き合いがありますが、すごい経営者だなと思う人は、二重人格的な面を持っている人が多いです。「法治」の側面と「徳治」の側面を、もう一人の自分が俯瞰して、それぞれの状況で最適なバランスを見つけていくことができる人なのです。彼らは自分のことをメタ認知しているのです。そういう人は、今は「法治」9割、「徳治」1割がこの組織にはちょうどいいと判断するかもしれません。しかし、時間が経つと「法治」は2割に減らし、「徳治」を8割に増やそうと考えるかもしれません。彼らはこのように全体を俯瞰して考えるのです。


D.「中国式」法治の歴史的意味
1.二千年以上続いた「皇帝制度」
「中国式」法治は、中国の歴史的な統治原理であり続けたのです。よく儒教が中国の統治原理だという人がいますけど、それは完全な誤解です。中国の王朝は「中国式」法治が基本であり、その上に儒教、仏教、道教が加わったり加わらなかったりするという状況なのです。
王朝によって儒教の地位は変わります。だけども「中国式」法治だけは延々と続くのです。この端的な例が「皇帝制度」と言われるもので、これは二千年以上続きました。
まず特徴として、皇帝支配による専制政治です。また郡県制度による直轄統治、あとは官僚制度による中央集権です。この中央集権は完全能力主義でポストは非世襲です。
中国は伝統的に貴族政治だと思っている人がいますが、大きな間違いです。中国は既に今から千年以上前から世襲の貴族がいませんでした。優秀な人間が上に行くシステムができていたのです。
さらに一君万民による独裁政治です。
中国は「自分たちは中国的な民主政治をやっているのだ」みたいなことを主張していますね。欧米各国から叩かれたりするのですが、でも中国の言い分は、実は妥当性がなくはないのです。
確かに、デモクラシーの本来の意味は、世襲貴族が存在しない平等な社会を指すものでした。この意味では、千年以上前から中国はデモクラティックな社会であったと言えるかもしれません。これが欧米と中国人自身の自己認識の違いを大きくしているところなのです。

2.中国社会(ニアリーイコールの記号)成果主義の会社
先ほど述べたとおり、中国はある意味で、成果主義の会社と同じような社会を築いてきました。少数のエリートによる統治を行っていますが、これは会社におけるboard(取締役会)による統治と同じです。
さらに、生まれに関係なく成果を上げた者が共産党幹部となって権力者になっていきます。共産党内部の出世は基本的に実力主義です。これは会社において成果を上げた社員が役員になるのと全く同じです。
あと、今ちょっと尻すぼみになっているのですが、国民の信頼度の査定として、「社会信用システム」というものを中国は導入しようとしていました。これは会社での査定と全く同じようなものです。
中国は、今から千年以上前から会社のような社会を作ってきました。中国人からすれば、それはデモクラティックな社会であり、中国的な民主制を実現していることになるのです。
おそらく、共産党は自身を王朝の代替であると考えているところがあるのでしょう。だからこそ、こういうロジックが成り立つと思われます。歴史的視点から見れば、このようなことが言えるのです。
ご清聴ありがとうございました。
(以上)

講師略歴
守屋 淳(もりや あつし)
作家、中国古典研究家、グロービス経営大学院特任教授
1965年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。作家として『孫子』『論語』『韓非子』『老子』『荘子』などの中国古典や、渋沢栄一などの近代の実業家についての著作を刊行するかたわら、グロービス経営大学院アルムナイスクールにおいて教鞭をとる。2018年4~9月トロント大学倫理研究センター客員研究員。
【専門領域】
『孫子』『論語』『韓非子』『老子』『荘子』。
『孫子』の派生でクラウゼヴィッツと戦略論一般。
『論語』の派生で渋沢栄一と日本人論。
中国思想と西洋哲学との比較による文化論。
【主要著書・共著・編訳書】
「勝負師の条件 同じ条件の中で、なぜあの人は卓越出来るのか」日本経済新聞出版社、「オリエント 東西の戦略史と現代経営論」日本経済新聞出版社、「最高の戦略教科書 孫子」日本経済新聞出版社、「組織サバイバルの教科書 韓非子」日本経済新聞出版社、「孫子・戦略・クラウゼヴィッツ」日経ビジネス人文庫、「『論語』がわかれば日本がわかる」ちくま新書、「現代語訳 論語と算盤」ちくま新書、他多数。