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路線価でひもとく街の歴史

第46回 「兵庫県姫路市」


駅前大通を車両通行禁止にした歩く街(ウォーカブルシティ)
姫路駅を降りると、駅の正面に伸びる大手前通りの向こうに姫路城が見える。慶長14年(1609)に建てられた姫路のシンボルは、白鷺が羽を広げた姿になぞらえて「白鷺城」と呼ばれる。昭和26年(1951)に国宝に指定され、平成5年(1993)には奈良斑鳩の法隆寺とともにわが国初の世界文化遺産に登録された。

船場と西国街道
姫路は金沢や小田原と同じように、街全体が城の外堀で囲まれた惣構(そうがま)えの城下町である。城を中心に内堀、中堀、外堀の三重に囲まれていたが、現存するのは城址公園内の内堀で、中堀、外堀は大部分が埋め立てられた。城下町を西国街道が東西に貫いている。これを横軸とすると城下町の縦軸は城の正門の中之門に至る中之門筋である。城下町の西辺には船場川の流路がある。これを4kmほど下った河口に飾磨津(しかまづ)、今の姫路港があった。飾磨津は姫路城下町の外港で、ここから瀬戸内海運に乗り換えられた。陸路の西国街道と水路の船場川が交差する地点が物流拠点で、「船場」と呼ばれた川の西側が後背地として賑わった。
船場には姫路で初めて開業した銀行があった。明治10年(1877)に免許を受け、翌年11月に西国街道沿いの龍野町で開店した第三十八国立銀行である。国立銀行制度の満了後は三十八銀行となった。もっとも本店が船場にあった期間は短く、開店の2年後には川の東側の本町、明治23年(1890)に呉服町に移った。現在の三井住友銀行に連なる戦後の都市銀行の1つに神戸銀行があるが、神戸銀行の源流でもっとも古いものが三十八銀行である。開業早々に神戸支店、大阪出張所を開設し、昭和11年(1936)に神戸銀行が発足する前まで兵庫県南部に拠点網を広げていった。現在の指定金融機関にあたる金庫業務を神戸市、姫路市、兵庫県で受託する県下の有力行だった。

俵町・福中町から御幸通の中二階町へ
兵庫県統計書によれば、明治17年(1884)の宅地の最高地価の場所は俵町(たわらまち)だった。明治22年(1889)以降は福中町(ふくなかまち)である。俵町、福中町ともに西国街道沿いの町で、中之門(なかのもん)筋と船場川の間にある。地価の水準から両町が当時の街の中心だったと推察される。
俵町には姫路で2番目に開業した姫路銀行(初代)があった。明治16年(1883)5月の設立で、大正6年(1917)に三十八銀行に合流し同行の姫路西支店になる。福中町には姫路商業銀行の本店があった。こちらは明治29年(1896)に地元商工業者の出資で設立された。福中町の西端が船場川だが、かつて橋のたもとに道路元標があり姫路市の起点となっていた。
姫路駅が開業したのは明治21年(1888)12月である。当時は山陽鉄道の駅だった。資金難だった官営鉄道は神戸駅が終点で、そこから西は民営の山陽鉄道が路線を延ばしていた。今でいう民間資金によるインフラ開発である。姫路駅は外堀のさらに外側にあった。惣構えの姫路にとっては城下町の外側を意味する。明治22年(1889)に市制が布かれ姫路市が発足したとき姫路駅の住所は国衙村(こくがむら)で、名実ともに姫路市外だった。
明治36年(1903)、姫路駅と練兵場を結ぶ線上に「御幸通」が開通した。現在のみゆき通りアーケード街である。明治天皇が陸軍特別大演習の観兵式に行幸するために整備されたことが名称の由来だ。ほどなくして、駅前通りとなった御幸通が中之門筋に代わる南北軸のメインストリートになった。最高地価の場所が西国街道に沿って東に移動し明治43年(1910)に中二階町(なかにかいまち)となった。二階町は俵町の隣町で、西二階町、中二階町、東二階町の3つに分かれる。このうち御幸通と交差するのが中二階町だ。
そのうち銀行も御幸通に移ってきた。地元最大手の三十八銀行は大正15年(1926)に現在の三井住友銀行姫路支店の場所に移転した。昭和3年(1928)に姫路銀行(2代目)に改名した姫路商業銀行は、昭和6年(1931)に本店を西紺屋町(にしこんやまち)に移している。現在の三菱UFJ銀行の場所である。三十八銀行、姫路銀行は昭和11年(1936)12月に他の県内5行と合併して神戸銀行となった。本店は神戸に移転し、旧三十八銀行の本店は神戸銀行の姫路支店となった。
御幸通には県外行の支店もあった。明治43年(1910)に不動貯金銀行が出店。戦後の協和、現在のりそな銀行である。兵庫県農工銀行は昭和4年(1929)に本町から西紺屋町に移転した。昭和12年(1937)に日本勧業銀行になり、金融再編を経て現在のみずほ銀行になった。岡山市に本店を構える中国銀行の姫路支店は亀井町にあった。元々は姫路倉庫銀行の姫路駅前支店だったが昭和2年(1927)に中国銀行の前身の第一合同銀行に買収された。中国銀行姫路支店になったのは昭和5年(1930)である。三十四銀行の進出は大正6年(1917)で当初は坂元町にあった。当時の行舎が現存する。昭和5年(1930)には錦町の御幸通に面する場所に移転し、昭和8年(1933)に鴻池銀行、山口銀行と合併して三和銀行になった。三菱UFJ銀行の前身行の1つである。

御幸通の駅前から大手前通りへ
戦後、最高地価が駅前に移った。昭和31年(1956)の路線価図によれば最高路線価は御幸通のうち駅に近い所にあった。山陽電気鉄道の開業も駅の吸引力を高めたと思われる。大正12年(1923)8月、外堀跡に沿って敷設した路線が御幸通に突き当たる形で「姫路駅前駅」が開業した。当時は前身の神戸姫路電気鉄道の駅で、当時の終点は明石駅だった。昭和2年(1927)に電力会社の宇治川電気が兵庫電気軌道と神戸姫路電気鉄道を買収。兵庫電気軌道は兵庫駅と明石駅を結んでおり、この2社の買収を機に姫路駅前駅と兵庫駅の直通運転が始まった。昭和8年(1933)、宇治川電気から分離して山陽電気鉄道が発足した。これに伴い姫路駅前駅が電鉄姫路駅となる。
昭和37年(1962)、最高路線価が御幸通の1筋西の大手前通りに移った。背景には大手前通りの開通と駅前広場の大改造がある。大手前通りは駅と姫路城を結ぶ、幅50mの戦後復興道路で昭和30年(1955)に完成した。景観に配慮して電柱地中化が施され当時にしては画期的な道路だった。電鉄姫路駅は大手前通りに面する場所まで後退し、駅頭に山陽百貨店が建った。昭和34年(1959)、民間の出資で上階に商業フロアを併設した国鉄姫路駅が竣工した。5年後、駅前広場を挟む対面に「姫路観光ビル」(現フェスタ北館)が建つ。市営バスターミナルを階下に擁したこのビルは、同じく神姫バスおよび鉄道のターミナルを併設する山陽百貨店、国鉄姫路駅と地下街を介して連結された。この時点で姫路駅前は様々な公共交通期間が有機的に繋がる一大拠点となっていた。昭和41年(1966)5月にはモノレールが開業する。「姫路大博覧会」会場の手柄山中央公園への旅客輸送を目先の目的として整備された。2駅1.6kmの極めて短い路線で実用面に不安があり、昭和49年(1974)4月に運行休止となった。

2核が競った中心商業
最高路線価こそ駅前に譲ったが、御幸通の商業軸は健在で中二階町と駅前の2核が競争していた。中二階町の代表が姫路初の百貨店「ヤマトヤシキ」である。前身は、明治39年(1906)4月に中二階町で米田徳次が旗揚げした洋品雑貨店「米田まけん堂」である。相手によって言い値を変える「掛値販売」の慣習が残る中、「定価販売」を貫く決意を「負けん」(安くしない)の屋号で示した。戦後、米田まけん堂を母体に「やまとやしき同志連鎖商店街協同組合」を立ち上げ集合店舗を始めた。その後、昭和32年(1957)には地上8階建の店舗を新築し百貨店経営に乗り出した。
対する駅前代表が昭和28年(1953)開店の山陽百貨店である。駅ビルや地下街とともに商業核を形成していた。2核の競争に拍車をかけたのが総合スーパー(GMS)だ。昭和39年(1964)10月にダイエーが駅前に進出した。昭和46年(1971)6月に地元スーパー「フタギ」の後継でもあるジャスコの西館、翌年11月に東館が開店。昭和49年(1974)12月にはダイエーの2店目がヤマトヤシキの隣に出店し新たな姫路店となった。元々商店主だった地元地権者が8階建の姫路センタービルを建設。ダイエーに賃貸し核店舗とした。なお駅前のダイエーは昭和55年(1980)にディスカウント業態のトポスへ転換した。

御幸通から生まれた全国チェーン
姫路はイオン発祥地の1つである。イオンの前身のジャスコは昭和44年(1969)2月に岡田屋、シロ、フタギの3社で立ち上げた共同仕入会社が源流だが、このうちフタギが姫路出身だ。元々は昭和12年(1937)11月に二木一一(かずいち)が光源寺前町(こうげんじまえまち)で創業したフタギ洋品店である。戦災で全焼するが戦後に再建。昭和24年(1949)7月にフタギ株式会社となった。翌年、西紺屋町に新店が開店し本店を移した。昭和38年(1963)、同じ場所で本店を建て替え、その後、総合スーパーを目指し生鮮食品など衣料品以外の品目を拡大するとともに多店舗展開を始めた。ジャスコ発足前には兵庫県南部は尼崎から赤穂まで店舗網を拡大していた。ちなみに「ジャスコ」と命名したのは後にジャスコ社長を務めた二木英徳(ひでのり)の妻、二木栄海(えみ)である。
姫路発祥の全国チェーンは他にもある。1つはメガネのパリミキで、昭和5年(1930)に多根良尾(たねよしお)が創業した「正確堂時計店」が源流である。戦後、株式会社三城時計店を設立し、昭和35年(1960)にメガネの三城と改称した。みゆき通りにメガネの三城の姫路総本店が営業している。もう1つはベビー用品の西松屋である。昭和31年(1956)10月、大手前通りと中二階町の交差点にある呉服店「着物の西松屋」ののれん分けで開業した「赤ちゃんの西松屋」が源流で、呉服店の2軒隣に発祥地の表示がある。創業者は名誉会長の茂理佳弘(もりよしひろ)とその母の茂理満(みつ)。昭和40年(1965)には御幸通に「みゆき通り店」を出店した。多店舗展開は昭和54年(1979)8月に西松屋チエーンに商号を変更した頃から本格化した。

トランジットモール化した駅前大通
平成に入ると郊外大型店の出店が相次いだ。平成5年(1993)11月、核店舗がジャスコの姫路リバーシティーが西日本最大の規模をうたって開店。翌年、西友系のザ・モール姫路がオープンした。さらに6年後の平成12年(2000)にはイトーヨーカドー広畑店が出店する。郊外大型店の影響で中心街の客足が遠のいた。元のダイエーのトポスは平成11年(1999)6月に閉店。御幸通のダイエー姫路店も平成14年(2002)1月に閉店した。ジャスコ姫路店は平成6年(1994)にファッションビルのフォーラスに転換し営業を続けてきたが、平成28年(2016)1月に閉店。跡地はダイワロイネットホテルと15階建のマンションになった。商店街の空き店舗に路面店を出店するなど街の賑わいを維持すべく努力していたヤマトヤシキ姫路店だが平成30年(2018)に閉店となった。跡地には16階建と11階建のマンションが建つ予定である。
ただ、みゆき通り商店街を歩いてみると相当程度の賑やかさを保っているように見受けられる。西松屋、メガネの三城総本店の他、戦前から営業している和菓子の老舗も健在だ。新しい店もあり空き店舗は目立たない。考えられるのは中心商店街を支える住民がいることだ。中心市街地の居住人口は堅調に推移しており、平成21年(2009)3月末からの14年間で約3割伸びた。かつての商業地にマンションが建ち、中心街の辺縁から住まう街として再生していることがうかがえる。
姫路市が目指している、歩いて快適なウォーカブルシティの象徴が姫路駅北駅前広場である。平成20年(2008)12月、駅と周辺路線の20年に及ぶ高架化工事が完了した。地上路線の南側に高架線を敷設したため、駅の北側に空きスペースができた。これに伴う再開発プロジェクトが「キャスティ21」である。その1つとして姫路駅北駅前広場が平成27年(2015)3月に完成した。旧駅ビルが撤去され、城の外堀をイメージした半地下の庭園「キャッスルガーデン」が整備された。その前面は芝生広場となった。同年4月には駅前の大手前通りが「トランジットモール」となり路線バス・タクシーを除く車両の乗り入れが禁止された。車道と歩道の割合が逆転し、整備前は車道6車線32m、歩道18mだったのが整備後は車道2車線16m、歩道34mとなった。駅前広場の東西に一般車乗降場が設けられ、その内側には車が入ってこれなくなった。トランジットモール化した大手前通りと公園化された駅前広場は歩行者中心の空間となり、鉄道や路線バス、タクシーなど公共交通機関の乗り換え拠点となった。
大手前通りから姫路城を真正面に臨む位置には眺望デッキ「キャッスルビュー」ができた。図4. 姫路駅北駅前広場から大手前通りを望むはキャッスルビューから撮影した大手前通りの眺望である。令和2年3月、トランジットモールの北側から姫路城までの大手前通りがリニューアルされた。歩行者利便増進道路制度(通称「ほこみち」)の適用第1号である。令和4年には、「姫路市ウォーカブル推進計画」が「まちづくりアワード」の第1回で最高賞(国土交通大臣賞)を受賞した。大手前通りとその周辺のまちづくりはウォーカブルシティの未来像を示している。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図1. 姫路城
図2. 市街図
図3. 現在の御幸通(みゆき通り商店街)