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徳川家康公が遺した・・・(下)

 
元国際交流基金 吾郷  俊樹
 
 
前回に引き続き、大河ドラマで40年振りに徳川家康公が主人公となった今年は、直接、間接に家康公が遺したものについてご紹介。
 
 
4. 住(続き)
岡崎で生まれてから、駿府で亡くなるまでの75年の生涯で家康公は各地に足跡を残しており、前回は大坂から駿府まで主な場所を西から順にたどってきたが、最後は家康公が幕府を開いた江戸。
(8)江戸
鎌倉時代に江戸氏が治め、室町時代に太田道灌が江戸城を築いた江戸。天正十八年(1590)年、7月13日、小田原の北条氏を滅ぼした秀吉公は家康公に対し、東海甲信から北条氏の旧領である伊豆、相模、武蔵、上野、上総、下総の六カ国に移るよう命じ、その命に従い、8月1日には江戸に入ったというからすごいスピード感。江戸時代には8月1日を八朔といって祝ったという。
東京都の編集・発行の「江戸の発達」は、「徳川家康が江戸に入ってきたときの江戸城はみすぼらしいものだった」という。「城の外側には石垣もなく、ただ柴の土手がめぐらして」あり、「その中にあちこち粗末な建物があったが、屋根は腐って雨漏りがし、その中の畳も腐ってい」て、「玄関の土間で上から段に幅の広い舟板が並べてあった」、「後の西丸、今日の二重橋を入った皇居の所は田畑があり梅の木などが植えられてい」て、「とても200万石を超す天下第一の石高の居城とすべきものではなかった」という。「日比谷から馬場崎門の辺まで日比谷入り江が湾入し、日本橋から京橋・銀座・築地辺は、州となつて」いて、「城下も町といっては茅葺の家が百軒ばかりで、白の東の方の平地の分は、至る所が汐入の茅原で、武家の屋敷や町家を十町と割り付けるだけの場所もなかった」という。
せっかく駿府城を整備したばかりのところ国替えで江戸に入った家康公。「城下の開拓を先にし、城は応急修理便にとどめた」というが、征夷大将軍となると、「その威風を示すためにも、天下の総力を挙げて江戸城の大拡張工事を始めた」という。将軍任命の翌慶長九年(1604)から着手された「工事は、全国の大名に課し、全国の資材を集めてなされ、それに要した経費や労力は日子は、測りがたい莫大なもの」で数度の大工事の結果、巨大な城郭が完成。江戸城に関する文献は多いが、日本建築史・日本都市史の専門家の「江戸と江戸城」によると「一万一九二五両を諸大名に補助して工事用の石船調達を命じた」といい、伊豆には「三〇〇〇艘の石船が集中」し、三代家光の時代寛永十五年(1638)に完成した天守閣は高さが京間29間5尺(58.64m)に及び「天守台は江戸城でも最も高い位置に築かれたから、城下からは100メートル以上の高さとなっていたであろう」という。
「本城は本丸・二の丸・三の丸等を含み、西城は西丸・紅葉山を含み、また吹上苑があり北の丸があり、…お茶の水や四谷辺は台地を盛り割って作った大工事…現在の外神田を除く千代田区と中央区に当たるところの武家地と町家の重要部分を抱擁し」、「本城・西城・吹上苑だけで面積約30万坪」。石垣に面した城門(見附)は俗に三十六見附と称されたといい、赤坂見附などに地名が残る。
大坂の陣のあった慶長の末頃、「諸大名の屋敷の建並んだ所は壮観目を奪うものがあった」という。その模様は、「諸侯大夫の屋形つくりを見るに、ただ小山の並び立るが如し、棟破風光り輝くその内に、龍は雲に乗じて海水を捲き上げ、孔雀鳳凰の翼を並べて舞下る。これを振りさけみんとすれば、天津光うつろい眩くしてその形さだかに見え難し、軒の周り門の辺りには虎が風に毛をふるい、獅子がはがしらする風情、誠に生きて活くかと身の毛もよだちて傍へ寄り難し」と言われ、「桃山様式をそのまま江戸に移して来て、諸大名が豪壮華麗を競っていた」という。中でも蒲生飛騨守秀行の屋敷の門は「人が見とれて帰るのを忘れる故に日暮門と呼ばれ」、大阪冬の陣のあった「慶長十九年頃では、屋敷の立派なのでは浅野筑前守長政、門の立派なのでは松平上総介忠輝」と伝えられる。
他方、家康公自身は、「江戸城内の屋敷を見すぼらしいままにしていたので、旗本たちも割り当てられた屋敷内に…粗末な家を建てた。屋根は茅葺きで、白壁の家などほとんどなかった。-…旗本屋敷はのちのちまで質素で瓦ぶきの屋根はなかった。」といい、諸大名に豪華建築を競わせて費用をかけさせる一方で、倹約を重んじる家康公の考えが徹底していたことがうかがえる。
豪壮を誇る諸大名の屋敷も火には弱い。「火事は江戸の華」ともいわれるが、死者10万を超え、「将軍以下西の丸に避難して辛うじて難を免れ」たと言われる明暦三年(1657)の大火は江戸の6割を焼き、完成した江戸城も西の丸を除き焼失させ、諸大名の豪華建築も灰燼に帰したという。度々の再建は容易ではなく、大建築物は火災を大きくする危険。幕府も建築物の大きさや高さに制限を加え質素にすることを命じたという。
明暦の大火の後、「都市災害の問題が大きくクローズアップされ…幕府は大規模な新都市計画をたて、着々と実行に移した」といい、御三家を城外転出(尾州・紀州屋敷は麹町に移転)させ、大名屋敷や寺社も移転させるなどしたという。
そして、「寛永頃に江戸はすでに京都を凌いで日本一の大都市になっていたと思われる」江戸の最盛期の人口は、「少なくとも一三〇萬と推定」されるという。「文政五年(一八二二)江戸に来たオランダ人フィツセルは、その紀行の中に、『おそらく世界の最大都市たる日本の首都…』と記し」たと言い、「その頃ロンドンやパリを始め、欧米諸国都市も未だこれだけの人口を持つに至らなかった」という繁栄ぶり。「江戸と江戸城」によると明治2年の調査だと江戸の武家地は68.58%、寺社地は15.61%、町人地は15.81%、人口概算は武家地65万、寺社地5万、町人地60万人で1m2当り人口密度(現在、東京都区部で15,485人)は武家地16,816人、寺社地5,682人、町人地は67,317人‼。「江戸っ子は『宵子越しの金は持たねえ』ことを誇りとした」というのも「江戸の繁昌に彼ら職人は失業を考える必要がないので、明日はまた明日で稼ぎの銭が入り、蓄財の不要をいった」ともいうが、「常に火災にあっている…彼ら江戸っ子は、年に一度くらい家が焼けるのは当たり前であった」からともいう。
このような江戸の繁栄をもたらしたのは諸大名の妻子江戸在府制度と参勤交替制度だと「江戸の発達」はいう。これにより、「全国二百数十の諸大名は江戸に広大な屋敷を構え、多数の家臣や召使を擁することと」なり、「大名は普通上・中・下の屋敷を江戸に持ち」、「夫人が常住し在府中は主人もいる上屋敷は、…大きいものは数万坪」、「多数の家臣家族が住居し江戸家老以下諸役人を持つ政府があり、幕吏も干渉しえない一王国をなしていた」という。「江戸を埋めるばかりにこのような大名屋敷があり、競って贅沢な生活」。ゆえに「大名の生活を通じて全国の富の大半が江戸で消費され、…町人も栄え江戸は非常な繁栄を来した」という地方の富を吸い上げて江戸が潤う一極集中の消費システム。
最近、家康公に関する本が多い中、新聞各紙でも紹介された「将軍の世紀」によると、「外様最大の加賀・前田家(約百三万石)」では、「元禄九年(一六九六)七月、五代国主前田綱紀の帰国に随行した人数は、六千七百六十人…加賀・前田家は十七世紀から幕末まで、いまの東京大学本郷キャンパスに当たる上屋敷をはじめ次の四屋敷を所持し…上屋敷(本郷)は十万三千八百二十二坪、中屋敷(駒込)は二万六百六十坪(無年貢抱屋敷)、下屋敷(平尾=板橋)は二十一万七千九百三十五坪余、蔵屋敷(深川)は二千六百八十八坪。江戸時代も後期の上屋敷には三千人近い人々が居住していた」という。
「江戸の発達」はまた「過大人口に加えるに贅沢な消費生活からは、大火災の頻発、風俗の頽廃、旗本の窮乏、浮浪者の増加その他ひいては幕府の基礎も危うくするような弊害が生まれた」という。弊害の根本原因はこの二制度のため、幕府も本格的な対策には手を付けられず、ようやく、「幕府の際末期文久三年(一八六三)に至って、内外の情勢に押され、ついに祖法を破って、大名妻子の国元引き揚げを許し、参勤の制度を緩和」すると「江戸の大名屋敷はから屋敷同然の有様」になったといい、「間もなく再び旧制に戻そうとしたが、その時は幕府の威信地に落ちていて、実行されずにそのまま幕府の瓦解に至った」という。
写真: 寛永9年(1632)の江戸図 明暦の大火の前で江戸城天守閣があり、御三家の屋敷も城内にある。000020695.jpg(11000×8037)(i-repository.net)東京都公文書館所蔵資料
写真: 加賀藩の上屋敷跡、東京大学本郷キャンパスの赤門
 
 
5. 人
(1)子孫
家康公は多くの子孫を残す。正室・後室と16人の側室・妾が確認されていて、11男、5女という家康公が始めた徳川時代は260年余り続く。
そのように多くの子孫を残したのも健康長寿ゆえか。徳川幕府の公式文書「徳川實紀」によると公は「健康には殊の外留意し、…鷹狩・乗馬・水泳等で身体を鍛えることは怠りなく、薬にも強い関心をしめすようにな」り、「駿府に退隠後は、…製薬の研鑽につとめ、…自ら製剤」したという。
大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした翌年、慶長20年(1615年)に75歳で亡くなったのは、秀吉公の死去から17年後。戦国の英雄達が天に召される時期が違っていたら、歴史はどうなっていたのかは神のみぞ知ることである。
その家康公の子孫をみると二代将軍秀忠は54歳で、三代将軍家光は48歳で逝去。歴代将軍で家康公より長生きしたのは、西洋医学の恩恵も受けられたと思われる最後の将軍慶喜の77歳のみ。
子供の死亡率の高かったこの時代、家康公の子も多くが幼少期に亡くなる。成人しても長男信康など多くの子供が家康公より先に亡くなり、家康公より後に亡くなったのは、三男秀忠のほか、御三家となった九男義直、十男頼宣、十一男頼房。そして、大坂夏の陣でのいきさつから越後高田60万石を取り上げられた六男忠輝(92歳まで生きた!)。
家康公が遺した「東照宮御遺訓」。「人の一生は重荷おもにを負をひて遠き道をゆくが如し いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし…」など知られているものも多いこの遺訓。歴代将軍は、家康公の「命日にあたる毎月一七日に、麻上下を着用して江戸城本丸御殿の御座の間上段の少し下段側に着座し、『御遺訓』を拝聴することを代々の慣例としていた」という。その際、御遺訓を拝読する小姓頭が将軍の上座に座り「対する将軍には敷物はあてがわれず、拝聴している間、将軍は両手をついて頭を下げていた」といい、そのような役目は恐れ多いとして読み上げ役をしり込みする者が多かったという。
 
(2)秀忠
家康公の長男信康は21歳で信長公の命により自刃させられ、次男秀康は秀吉公の人質となる。三男秀忠は、信州眞田攻めに手間取り、関ヶ原の合戦に間に合わず、家康公の本陣に着くと家康公は対面しなかったという。家康公が家臣に「我今男子三人もてり。いづれにか我家國をゆづるべき。卿等が思ふところをつつまず申すべき」と尋ねたところ、「武勇絶倫智謀淵深にして。しかも御長子なれば」と次男結城秀康や、関ケ原の合戦で功のあった四男の忠吉を推すものが多い中、「乱を治め敵に勝つは。武勇を先とすといへども。天下を平治したまはんとならば。文徳にあらずしては基業をたもち給はん事かたし。…中納言殿はもとより謙譲の御志不覚。御孝心又あつし。そのうへ文徳智勇を兼備ましまし。久しく御家嫡に備わり給ひ。位望また御兄弟にこえて。天意人望の帰する所なり。」と秀忠を推す者は一人だったというが、秀忠以外の二人は家康公より早世しており、お眼鏡に狂いはなかった。
秀忠も政事では厳しい。家康公の遺言により弟の松平忠輝、関ヶ原の戦いでも功のあった安芸49万石の福島正則を改易、家康公の謀臣で信頼が厚く、亡くなる直前に家臣で唯一枕元に呼ばれたという本多正純も最上義俊改易で城を受け取った後、江戸へ帰らぬうちに改易、兄結城秀康の子で娘婿、大坂の夏の陣で真田幸村などを討ち取り、大阪城を陥れた松平忠直を隠居させるなど41名の大名を改易する荒事を実行。
天正十八年(1590)、12歳で初めて上洛した際には秀吉公から大歓迎され、関白より一字をさずけて秀忠となる。このとき「秀吉大いによろこび。君の御手をひき。…さまざまにもてなされ。大政所みずから御ぐしをゆひ直し。御衣裳も改めかへ。金作の太刀はかしめ。…御供せし井伊直政等にむかひ。大納言殿には幸人にて。よき男子あまたもたれしな。長丸いとをとなしやかにてよき生立ちなり。ただ、髪の結様より。衣服の装皆田舎びたれば。今都ぶりに改めてかへしまいらするなり。」と伝わる。関白秀吉の天下の時代、16歳で信長公の姪で、淀君の妹で秀吉公の養女であるお江(22歳)と結婚。高校1年生で天下人の親戚で結婚歴のあるスーパーセレブな女性と結婚したことがまだないので、どんなものかはよく分からないが、やはり子宝に恵まれ、お江との間に秀頼の妻千姫、3代将軍家光をはじめ8人の子を残す。
将軍秀忠が駿府に滞在中、家康公が自身の側室阿茶の局(大阪冬の陣のときの休戦交渉役で大阪城の堀を埋めさせた功労者)を呼び、「城中きっての美人の女中に菓子を持たせて訪問させよ、と命じた、阿茶の局も、気の利いた上意であると賛同し、…とりわけ艶やかな姿に仕上げて菓子を持たせ、秀忠の居室を訪問させた」、「秀忠は、上下姿でこれを出迎え」、美女を「上座に据えて菓子をおし戴いて受け取ったものの、それが済むと」、その場に佇んでいた美女に向かって「『早く帰らせ候らへ』と声をかけ、自ら先導して居室から送り出してしまった」という。これを聞いた家康公は「将軍はりちぎ第一の一なり。我はしごをかけても及びがたし」と上意があったと伝わる。また、阿国の歌舞伎が流行り諸大名が招いていると聞いたが、「一度も召されることはなかった」という。
20歳の家光に将軍を譲り、大御所として、家康公の生前から意図されていた娘和子の入内を実現。将軍家光とともに御水尾天皇の二条城行幸を迎える。お江は二条城行幸が無事に終わるのを待っていたかのように5日後に亡くなる。「徳川實紀」は、秀忠について「いかにも天資孝順温和にましまし。何事も列祖の御庭訓にもれ給はず。いささかも御心のままに。専らふるまはせ給ひし事はおはしまさず。列祖神さりませし後は。…己を虚にし諫をいれ。倹を崇み奢を禁じ。百姓を撫育し賦税を減省し給ひける。…こと鼓うつことを好ませ給ひけるが。天下の御ゆずりをうけつがせたまひて後は。更に鼓を御手にもふれたまはず。侍臣等そのゆへをうかがひしに。上の好む所は下必ならふものなり。今我鼓をこのむことあらば。天下貴賤とも鼓を習て。武備を廃せんかと恐るるぞと仰せければ。聞もの落涙して退きたり。」と伝える。
写真: 関ケ原の合戦のおり、眞田昌幸が秀忠軍を撃退し、合戦に遅参させたという上田城。天正11年(1583)、眞田昌幸によって築かれた平城で、上田盆地のほぼ中央に位置。堀と土塁で囲まれ、虎口(出入口)に石垣を使った簡素な城ながら、2度も徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせた。数ある城郭のなかでも、2度もの実戦経験をもち、輝かしい戦果をあげた城は、全国でも他に例がないという。上田城跡公園 - 上田市ホームページ(city.ueda.nagano.jp)
 
(3)家光
父秀忠が将軍の時に生まれたが、「徳川實紀」は「この公御幼稚のほどは温和に過て。御言葉もまれまれにのみ宣ひし」と記し、弟國千代(忠直)を母お江が「殊さら…いとをいみふかくましましければ。…近侍の者または女房などもおほく國千代の方にあつま」ったという。心配した家光の乳母春日局が家康公に陳情、公は江戸に行き、秀忠夫妻と竹千代(家光)、國千代(忠長)と対面。家康公が座り、「竹千代殿これへこれへと御手をとりて上段にのぼらせたまへば。國千代の方も同じくのぼり給はむとし給ふに。しし勿體なし。國はそれにとて下段に着せしめられ。御菓子を進められし時もまづ 竹千代殿へ進らせ。次に國へも遣わせ」と言い、お江に向かい「嫡子と庶子とのけじめは。よく幼き時より定め置てならはざればかなはぬものなり。行すえ國が堅固に生立ば 竹千代藩屏の臣たらむはいふまでもなければ。今よりその心掟し給へ。これ國がためなり」と言い、秀忠にも諭したところ、秀忠も「盛慮のかしこさを謝し」、お江は「何と仰せらるる旨もなく。ただ面あからめておはせし」といい「人々のつかふまつりざまも改ま」ったという。こうして三代将軍家光までは家康公が決める。
三代将軍となるも10年間は秀忠が大御所。「将軍の世紀」によると大御所秀忠が亡くなると「老中や大老さえも言葉を慎むような恐怖政治」だったという家光。老中らの監視役として目付を設け、監視の目は隅々に行き届き、「島津家久殿の屋敷内にある小さな材木小屋から出火している事を、屋敷内の者がまだ気づかないうちに、目付たちがいち早く知って門をたたき、邸内より出火、と呼ばわったので、邸内の者も気づき、消火することができた。これほど油断なく目付たちは、江戸の各所を見回っている様子なのだ。言葉に尽くせないほどである」と驚きをもって子の忠利に伝えた細川忠興の手紙が残る。家光は、肥後、豊後五十四万石の加藤清正の子忠広を改易し、父秀忠の死後、乱行のあった弟忠長を自害させる。
戦国と違い武士たちの力の見せ場のない時代になり、血筋、家柄、官位、石高等で「大名の序列化」を始めた家光。江戸城本丸登場城時の「殿中席」が重要だと言われ、御三家と加賀前田家が入る大廊下(忠臣蔵の松の大廊下)、溜之間(大名最高の詰めの間)、大広間など部屋や畳の目数まで細分化され、それが将軍家との縁組、官位の昇進などにより入れ替わったという。
元和九年(1623)に二条城で将軍宣下を受け、寛永三年(1626)二度目の上洛で後水尾天皇の二条城行幸を父秀忠と迎えた家光は、秀忠の死後寛永十一年(1634)には、30万7千人を率いて三度目の上洛。家康公が始めた切支丹禁止を進め鎖国を完成させ、寛永十四年(1637)の切支丹の農民による島原の乱を鎮圧し、これが徳川時代、幕末まで最後の実戦になったと知られる。その島原の乱。「徳川實紀」によると、寛永十四年(1637)10月、肥前國島原にて「天主教を奉ずるもの一揆をくはだて」。「一揆の人数雲霞の如くあつまり」更に天草も加えて一揆勢は1万2千余。家光は当初、板倉内膳正重昌(大坂の陣の時の京都所司代板倉勝重の子)を追討の御使として派遣。それを聞いた柳生但馬守宗矩(将軍秀忠、家光の兵法指南役)は、家光に「土民等深く宗門を深く信じ。その法をかたく守る時は。…必死の勇者となる…内膳位浅く禄少し。一旦は御使いの事ゆへ。西国の大名等その下知にしたがふといへども。案の外に時に伸びて攻めあぐまば。いかに思ふともせんかたなかるべし。其時に至り。重ねて家門の貴族か。又宿老の権威ある輩をゑらび御使立てられば。内膳なに面目ありてか。そのまま帰り来るべき。あたらしき武士一人みずみず討死にせしめん事。まことにおしきことならずや。かつは百姓の一揆に御使いの人うたれしといふことは。長き天下の御恥辱にこそ存れ。あはれお許し蒙りて今より打立。内膳を引き連れかへり来るべしと。」はばかるところなく申したが、命じた其日のうちに召し返すのは考え難いと「上にも御後悔の色みえ給ひしが。宗矩も詮方なく引退けり」という。
果たして、板倉重昌は十二月朔日に着陣するが一揆軍は手強い。家光は上使として松平信綱らを派遣。その到着前、寛永十五年(1638)元旦に追手は総攻撃するも、攻撃を予想していた城兵が待ち構え、板倉重昌「自身鑓とり諸軍を下知すといへども。進むものもなければ。重昌手勢ばかりを引ぐし堀をわたりこし。数十丈の堀を乗んと近寄」ったが鉄炮で撃たれ、討死。松平信綱らは1月4日に着陣。総勢「十二万四千四百人の着到」。遠巻きに包囲する作戦に変更。やがて城兵は「兵糧矢玉もつきたる様」になり、2月27日に総攻撃、細川勢が天草四郎を討ち取り、ようやく攻落。2月27日、28日両日の城責だけで追手側の討死1,051人、手負いは6,743人という。「徳川實紀」は「後に思ひあはするに。宗矩が詞掌を指すよりも明らかなりし事共なり。」と記す。
家康公の意向で世継ぎとなったことから、生涯、祖父を崇拝。「徳川實紀」には、家康公が好んだ鷹狩の記録も家光には多く、今では想像もつかないが、葛西、中野、高田、小石川、品川、麻布、目黒などが鷹場として記される。夢枕に家康公が立つたびに狩野探幽に家康像を描かせた一連の肖像が残り、秀忠が建てた東照宮を今日の姿に造り替える。これにより、家康公、二代将軍秀忠が蓄えた徳川家の金銀百萬両を費したという。世界的建築家ブルーノタウトは「世界の名所に比すれば物の数ではな」いと日光東照宮を評したが、平成十一年(1999)登録のユネスコの世界文化遺産「日光の社寺」の構成資産として残る。
「徳川實紀」は、家光について「公には寛大勇壮の御資質にわたらせたまひ。東照宮(家康公)。台徳院殿(秀忠)創業の御跡をうけつがせ給ひ。理世安民の御政厳粛にして。紀綱正しく定めさせ給ふ。…大方上下のわいだめおごそかに。よろづの式法どもたてられ。御所の御かまへものこの 御代につくりひろげられしとなん。…されどまた奢侈をにくませ給ひ。武備質素をむねと命ぜられしが。一とせ火の事ありてのち。御所のつくり改められたる時。ことにその結構花麗なりしを御覧ぜられ。これ天下に倹をしめすゆへんにあらずと宣ひ。即日に毀ち破り改めつくらせしめられ。」と伝わる。
写真: 三代家光が今日の姿にした日光東照宮(陽明門)(東照宮社務所 著『日光東照宮寫眞帖』,東照宮社務所,1936.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1701860(参照 2023-10-21)日光東照宮寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
 
(4)御三家
1600年に関ケ原の戦いのときに59歳だった家康公には、その後も3人の男子(義直、頼宜、頼房)を残す。家康公の11人の男子には幼少や若くして亡くなった人も多く、関ケ原の合戦の後、安芸広島に栄転した福島正則のいた尾張を与えられた四男忠吉が28歳で後継ぎなく病死し、九男義直が継ぐ。水戸には25万石で五男信吉が入るが21歳で亡くなり、十男頼宜が継ぐ。頼宜が、その後、駿河・遠江50万石に移ると、水戸に十一男頼房が移る。秀忠は家康公の遺言で六男松平忠輝を改易。その後、弟の十男頼宜を紀伊に移し、秀忠の子忠長に駿河・遠江55万石を与えるが、その後の乱行により三代家光が蟄居・自害させる。結果、最終的に義直、頼宜、頼房の3人が尾張61万石、紀伊55万石、水戸35万石の御三家となる。このうち、紀伊徳川家からは8代将軍吉宗が、水戸徳川家からは最後の将軍慶喜を輩出するも御三家筆頭の尾張徳川家からは将軍が出ていない。
 
 
6. 文化
(1)茶
茶は権力者に愛され、権力者の庇護の下で花開いたという。
永禄一二年(1569)、信長公は入洛するなり、当時名物として知られた三つの茶入を召し上げたといい、信長公の名物茶具は「三つの茶入れのほか五十数種類」、秀吉公は、「六十六種類の名物を所持」、「幕藩体制が整った三代将軍家光の所持した数は、百種をこえ」、「権力の座の大きさが、この名物の数によっておのずから誇示」されているという。
信長公は優れた功績のあった家臣にしか茶の湯を許さなかったといい、これを許された数少ない一人だったのが秀吉公。天下人となった秀吉公も茶を愛す。
家康公は「茶の湯に親しまず、茶の席に連なることはあっても自ら茶会を催すことは少なかった」と言われ家康公の晩年の生活を記す、「駿府記」にも茶にまつわる話は少ない。ある時、秀吉公が諸大名を集め、「わが宝とするものは…種々かぞへ立て。さて各にも大切に思はるる宝は何々ぞ」と問うたとき、毛利や宇喜多等は所持の品々を申し立てたが、家康公が黙っていたので、「徳川殿には何の宝をか持たせらるる」と問われて、「君それがしはしらせらるる如く三河の片田舎に生立てぬれば。何もめずらかなる書画調度を蓄へしことも候はず。さりながら某がためには水火の中に入りても。命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ 家康が身に於て。第一の宝とは存ずるなり」と答えると、「関白いささかはじらふさまにて。かかる宝はわれもほしきものなり」という話が残る。
とはいえ、家康公は「当時、武家の間でも盛行した侘茶を『御数寄屋』の接待として公式行事に位置づけ」たという。
秀吉公に重用された千利休は、秀吉公のお咎めを受け、悲劇的な最後。利休の死の4日前、最後の茶会の客は家康公だというが、2人の間でどんな話がされたのだろう。利休亡き後、その高弟古田織部が頭角を現す。関ケ原合戦後、徳川将軍家では織部を大名に復し、「慶長十五年に将軍秀忠は織部を招いて台子茶湯の伝授を受け」、「翌年には織部は駿府城で家康の茶頭を勤めた。織部は天下一宗匠とたたえられた」という。「徳川實紀」も「古田織部正重然…千利休宗易が随一の弟子なれば。宗易罪せられて後は。世人重然をもて一世の宗匠と尊敬せり。」と記す。織部も大阪夏の陣の直後に謀反を疑われ、自刃を命ぜられており、最後は悲劇的。「無策の姿にわび茶の精神を求めた」利休と異なり、織部は正反対に「徹底して作為を表に表し、強い主張をその好みに示した」といい、関ケ原の合戦の前年、古田織部の茶会の客人は、その茶湯日記に織部好みの歪んだ沓型茶碗を「ヘイゲモノ」(おどけた姿のもの)と評したという。やきものは産地名や作者名がつくのが普通だが、産地名でも作者名でもない古田織部の名にちなんだ「織部焼」は今も独特の風合いのやきものとして知られる。
 
(2)能
能を観て、何が謡われ、語られているのかをどうやって理解すればいいのだろうと思っていた。自ら能を好み、能の海外進出のプロモーターも担った日本文学者、ドナルド・キーンによると「現在の能は、特に謡う部分は、音楽の旋律に応じて母音を極端に引っ張ったり飲み込んだりするので、非常にわかりにくい。専門家でも謡本を見ながら能を見ることもあるくらい」だと知って安心した。キーンは、「徳川時代までの能は、もっと写実的でもっと早く、もっとわかりやすかったはずです。…一般の人、あるいは文字の読めない人でも能を理解できていた」のだという。「ところが、徳川の時代になって、能の意味がかなり変わりました。…権力者たちは能を徳川の時代を象徴する音楽として選びました。それで能は一般の人のためでなく、特殊な人、専門家と将軍家、大名などのための音楽になった。聴衆はみな、能をよく知っている人ばかりだという常識ができた」ため、「田舎の人にもわかってもらうという意欲がなくなった」という。
キーンは、徳川に先立ち、「天下統一を成し遂げた秀吉は、…文化的にも公家や僧侶にも劣らぬところを見せなければと案じて、能を学ぶことをその最善の道と判断した」と言い、能を学んだ秀吉公は「まもなく人々の前でも自信をもって舞台に立つようにな」って、「後陽成天皇の宮中での三日の間に…一二曲の能を舞った」という。秀吉公が「芸術に情熱を傾けるようになって、他の大名も秀吉に気に入られるために能を学ばざるを得なかったのだが、この宮中演能の際には徳川家康も『野宮』を演じ、二日目には新作の狂言『耳引』を秀吉と共演した」という。さすがの家康公も秀吉公との共演は緊張したかもしれない。
その家康公の能の腕前については、聚楽第で申楽興行があったときに「舟弁慶の義経にならせ給ひしが。元より肥えふとりてをはしますに。進退舞曲の節々にさまで御心を用いざれば」、皆が笑ったが、後にこれを秀吉公が聞いて、「徳川殿は雑技に心を用いられざるゆへ。当時弓矢を取てその上に出る者なし。汝等小事に心付て大事にくらきは。これ又うつけ者といふべしといたくいましめ」たという話が残る。
ただ、「秀吉の死後、新たな後援者を探すことを迫られた役者たちは、それを…徳川家康に求め、一六〇六年に江戸城の増築が成るやいなや、観世流、金春雄が駆けつけて家康のための上演を懇望し、翌年、江戸城内で演じ」、「金剛流と宝生流もそれにならい…、四流派が駿河浅間神社において家康の前で共演」。「この時以来、能は徳川幕府の式楽としての役割を担」ったという。公は二条城に諸大名を招いて度々能を張行、「能の伝統を重んじ、能が幕府の式楽となる基を作った」と言われる。
「駿府記」でも慶長十六年(1611)10月21日には江戸城「本城南庭に於て、御能十一番あり。少進法印、金春太夫、金剛、宝生などこれをなす」とあり、翌日にはまた十番の能を「大御所の仰せによりて幕下御台所(秀忠夫人浅井氏)御覧あり」。この日は「家族Day」だったのか、人質で在京していた諸大名の母や息女も観たという。豊臣を滅ぼした直後、慶長廿年七月は朔日、7日、8日、17日、21日、22日に能とあり、7日は武家諸法度を17日は禁中並びに公家諸法度を言い渡した後で大名や公家に観せ、22日は「秀吉公北政所」ねねや大名の奥方も見学したという。
「能の上演は、特に新年には、国に繁栄と幸福をもたらすと信じられて入念な儀式として行われ」たといい、能の「熟練の役者は…武士と同じに扱われることになった」というが、「将軍たちは…冷酷な批評者でもあり、間違いは勿論、一切の手抜きを許さなかった。祝典の途中で間違ったものには容赦ない処罰が直ちに下され、演技失敗のせいで流刑に処せられたり、極端な場合には切腹を命じられることすらあった」という。寛永三年(1626)、後水尾天皇の二条城行幸の際、能楽が行われ、天皇、大御所秀忠、将軍家光の前で林羅山が作った長すぎる口上を忘れた役者は何とか処罰を免れたというが、御水尾天皇の退位後、上皇の前に演じた役者はその前に将軍家光の前で演じたときと違い、将軍軽視という罪で謹慎を命ぜられたという。
明治維新で徳川幕府が崩壊すると、能は新たなパトロンを求めることとなるというが、それはまた別の機会に。
写真: 能樂圖繪 前編 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
舟弁慶の音声はこちらから聴けます。:船弁慶(一) - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)観世 小次郎 信光[作詞]ほか『船弁慶(一)』,ビクター.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1318013(参照 2023-11-10)
 
(3)学問
徳川記念財団の徳川恒孝理事長によると「公のご興味は『モノ』には殆どなく『人』と『知』にあったことを強く感じ」るといい。「家康公が大切にされたのは、書籍であり…、西洋から入ってきた新しい知見や情報でした」という。学問好きで、学者を重んじ古典籍を愛したという家康公、侍医はその覚書で漢詩や和歌・連歌など文学は苦手で、歴史書を好むと記す。日本の書籍では鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』を座右の書とし、「源頼朝を処世の手本」としたという。
かつて、書物は原本を読むか、書写して読むしかなく、読める人は限られていた。家康公は活版印刷による書籍を刊行させ、関ケ原合戦前年の慶長四年(1599)からの木版印刷が残り、愛読書『吾妻鏡』も刊行され、「伏見版」と呼ばれる。大坂夏の陣があった元和元年(1615年)には駿府で銅活字で書籍を刊行、翌年、家康公は、唐の太宗が編纂させた政治の参考書『群書治要』(「論語」等から治世の参考となる語を抜粋。禁中並公家諸法度第一条にも天子が身につけなければならない学問の一つとして本書を学習すべき旨を規定。)の刊行を気にかけていたが、その完成前に他界したという。
家康公は「学者を優遇し、積極的に自ら学ぶ姿を示し、且つ側近達にも大いに学ばしめ」、「識者の意見に耳を傾け」、「古典籍の蒐集にも力を注ぎ、多くの和漢書を所蔵…、欠本があれば書写して補足することも心掛けてい」たという。慶長七年(1602)には江戸城本丸に文庫を設置し、蒐集した蔵書や金沢文庫の蔵書等が納められ、将軍職を譲った後、駿府城にも文庫を創設。
古典籍の蒐集には実利があり、大坂の陣と並行して公家の門外不出の古書を京都の五山各寺の僧侶に筆写させた「慶長御写本」は、「禁中並びに公家諸法度」や諸寺院へ出された法度などを制定するためにの必要だったという。
写真: 家康公が最後まで完成を気にかけていたが、亡くなるまでに完成が間に合わなかったという「群書治要」。禁中並公家諸法度第一条で天子が身につけなければならない学問の一つとして本書を学習すべき旨を規定(駿河版『群書治要』TOPPANホールディングス株式会社 印刷博物館所蔵)
 
 
7. 仕組み
人が変わっても、確立した仕組みは残る。家康公が始めた仕組みはその後、長く存続。経済面でも造幣局のWebsiteによると家康公は「日本ではじめて貨幣制度を統一」したという。江戸幕府は、4代家綱が11歳で、7代家継が3歳で将軍となっても揺るがず。「江戸の発達」は「広大な江戸城は威容を天下に示して諸大名をはばからせただけで、ついに一度も実戦に役立てずに終わった」が、「幕府の頼むところは関東の地勢や譜代大名の配置、さらには諸大名を牽制する諸制度にあった」という。参勤交代と大名の妻子在京制度については既に述べたので、それ以外の主なものについて。
(1)交易と鎖国
「江戸時代は鎖国の時代」というイメージが一般的。しかし、海外との貿易に積極的な姿勢を示し、東南アジア方面との朱印船貿易を盛んにしたのは家康公で、「亡くなるまで身近に置いて親しんだ遺愛品には、舶来品が多い」という。
オランダ商船に乗り込んで、マゼラン海峡を越えて日本に来た英国人ウイリアム=アダムス(三浦按針)を関ケ原の合戦直前に大阪城で引見し、長時間にわたり話を聴き、合戦翌年から東南アジア方面の貿易船に渡海朱印状が例年のように発行されたという。家康公が南方との貿易で個人的に求めたものは香木と鉄砲・火薬(塩硝)で、「特に香木への執着はマニアックともいえるほどのこだわり」だったという。
ただ、交易はその後、若いころ三河の一向一揆に手を焼いた家康公は切支丹を禁止し、鎖国への道に至り、「華僑に匹敵する」かもしれない海外進出の機会を失った一方、長い平和が続いた大きな理由だという。その功罪のいずれが大きいか、鎖国がなかったら今の日本がどうなっていたのかは分からないが、鎖国はその後の日本に大きな影響を残す。
 
(2)交通網
交通網の整備は人流や物流に不可欠のインフラで、全国統治には必須の仕組み。
陸路。東京都の「江戸の発達」によると、江戸が政治の中心となると共に、陸上の交通路も江戸を中心に整備。慶長九年(1604)には、日本橋を中心に各街道の里程を定め、一理ごとに一里塚を設け、今も板橋区内志村の中山道に一里塚が残る。
最も重要なのは、東海道(京都に至る)中山道(碓氷峠・木曾路を経て草津で東海道に合する)甲州道中(甲府に至り、さらに下諏訪で中山道に連絡)日光道中(日光に至る)奥州道中(途中まで日光道中と同じで白川に至る)の五街道。「江戸と江戸城」によると当時の旅行速度は、「東海道の場合…、尾張藩の女性、武女一行が藩命を帯びて名古屋城から江戸市谷の藩邸まで、八九里二一丁(351.82キロメートル)の距離を、八日で旅し」たという。
江戸時代の陸上交通の発達を促進した原因は、参勤交代制が最も大きいという。参勤交代で諸大名の往来する道路は定まっていて、「東海道が百五十九家、中山道が三十四家、日光道中が六家、奥州道中が三十七家、甲州道中が三家、水戸街道が二十五家、その他が二家」。これらの大名が年々多数の従者を連れ街道を上下するため設備も整えられたという。東海道には朝鮮・琉球・オランダ等の江戸参府や公家や幕府役人の往来も度々。一般民衆の旅行等もますます多くなり、戦乱等で廃れていた駅伝の制度が江戸時代にまた整備充実されたという。「江戸と江戸城」によると、江戸伝馬役の発した継飛脚の速度は、急行便で江戸から日光まで17時間、京都まで56時間~60時間、「文久年間(1862年ころ)日本に駐在した英国公使オールコックの『江戸長崎旅行記』によれば、早飛脚による江戸より長崎・函館の所要時間は9日」だったので「幕府は江戸において天下の情報を10日以内に知りえたものと考えられる」という。「徳川實紀」は島原の乱の際、「江戸大阪の工程百三十三里。何ほど急ぐとも往来五日づつ」、「大阪より西國へ達せんに。海上三百六十里。早くても十日はひまどるべし」と記す。
水運。江戸への人間の交通はほとんど陸路によるが、物資の輸送には海路を利用。最も重要なのは大阪方面との間の航路。慶長年間に江戸城造築の資材の輸送などから始まり、江戸が大都市になるに伴って種々多様の物資が輸送されるようになったという
整備された街道の情景は広重や北斎の「東海道五十三次」などの浮世絵に残り、街道の中には今でも使われているものもあり、その名は今も東海道新幹線として、日本の大動脈の名にも残る。
写真: 街道の起点は江戸日本橋。広重,豊国『双筆五十三次 日本橋』,丸久,安政1.国立国会図書館デジタルコレクション(参照2023-12-02)双筆五十三次 日本橋(双筆五十三次) - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
 
(3)武家諸法度
武家の棟梁たる徳川家にとっては、武家の統治が国家運営の柱。慶長二〇年(1615)五月に豊臣氏を滅ぼすと、大名への統制を強め、早速、七月七日「伏見城に諸大名を召て。…武家の法令を仰出さるる旨を傳へ」られた、諸大名は金地院崇傳から十三条の「武家諸法度」を聞かされ、「次に猿楽を催され大小名に見せしめられ。饗應せらる」と徳川實紀にある。家康公が遺したこの法度、第一条で「文武弓馬之道、専可相嗜事…」、第六条で「諸国居城、雖為修補、必可言上、況新儀之構営、堅令停止事…」と定め、第八条で私婚を禁じ、第九条で参勤交代を定める。最後に「国主は政務の器用を選ぶべきの事…」定めたこの条項は「統治者の資格として能力を要求」するもので、一見、当たり前に見えるが、運用次第で恐ろしい条項。違反するとどうなるのかは書いていないこの法度、これに反する大名を取り潰す根拠。
豊臣が滅んでから4年、元和五年(1619)、2代秀忠は、秀吉公の子飼い大名、福島正則を「居城廣島に於て。恣に城櫓壁塁を増築し。天下の大禁を犯す」として改易。正則は「大御所世にまします時ならんには、正則申すべきものなきにあらず、当代に向かい奉りて、また何をか申すべき。兎にも角にも、ただ仰せの旨に従ふべし」と言ったという。元和八年(1623)には山形の57万石の「若年にして。みづから國政を沙汰する事あたはず。常に酒色にふけり宴楽を専らにして。家司等是を諫といへども用いざれば」として最上義俊を改易。家光の時代には、謀反の疑いで加藤清正の子、忠正を改易。
ルールができると身内にも適用しなければ示しがつかない。大坂夏の陣で大阪城一番乗りの功があった越前67万石の松平忠直(家康公の次男結城秀康の子、秀忠の婿)は「強暴のふるまひ超過し。酒と色にふけり。あけてもくれても近習小姓等を手打ちにし…名ある家人…ども。攻殺さるることたびたびにおよびしとなり」、参勤交代の途中で「関ケ原に二百百余日も逗留して酒食や放鷹にふけ」った翌年、将軍秀忠は「連年の病を理由に」隠居を命じる。
社会保障のセーフティーネットもないこの時代、お取りつぶしにあった大名とその家臣は浪人となり、この「武装した失業者集団」の扱いが幕府の重要課題となっていくという。
写真: 慶長二十年(1615)5月に豊臣を滅ぼし、7月に出された武家諸法度 武家諸法度(archives.go.jp)
 
(4)禁中並公家諸法度
徳川時代となっても豊臣は朝廷に影響力。後陽成天皇は慶長八年(1603)2月、六十二歳の家康公に将軍宣下し、右大臣に任じ、4月には空いた内大臣に十一歳の秀頼を任じ、十年(1605)4月には秀頼を家康公が辞した右大臣に任じ、秀忠が将軍宣下を受け、秀頼の前職たる内大臣に任じる。
慶長十六年(1611)、秀頼との「二条城会見」の前日、秀吉公の後押しで即位していた後陽成天皇が退位。後陽成天皇の意向に反し、家康公の働きかけで第三皇子、後水尾天皇が即位したという。
慶長二十年(1615)5月に豊臣氏を滅ぼすと、武家諸法度を諸大名に聞かせた10日後7月17日に家康公、将軍秀忠の「両御所二条城に摂家華族をはじめ。公卿殿上人を會せられ。御饗應あり。…公家法令十七条を授け給ふ」と「徳川實紀」は記す。第一条「天子諸芸能事、第一御学問也、…」で始まるこの法度は、武家の官位は幕府の裁量で任命できることとし、公儀との連絡のための「武家伝奏」を関白に次ぐ枢要な役職と位置づけ、僧侶が勅許を得て初めて着られる最高位の紫衣について、幕府の事前了解を要することなどとした。関白も署名したこの法度、「将軍の世紀」は、「何よりも禁中の序列と階級を規定し」、「禁裏の抑圧ではなく、儀礼規則を通した秩序や安定の改革」を趣旨とし、「パクス・トクガワナの安定に貢献した戦略的核心」だという。
元和六年(1620)には家康公が生前から画策していたとおり、秀忠の末娘(家康公の孫娘)、和子が御水尾天皇に入内。「徳川實紀」によると、入内のときは「二三日前よりこの御行粧を拝し奉らんとて。二条より内裏までの間に。思ひ思ひに支度し。堀川邊に桟敷をかまへ。あるは門々の蔀格子を引きはなち。…けふを晴れとかざりあへり。洛中の貴賤遠近の道俗。昨日の夕より夜もすがら行つどひ。ここの辻かしこの軒までも衆人群衆せり」という。「一六〇棹におよぶ長櫃などの道具類の行列が先行した。ついで、和子の乗る牛車は女房集の乗る輿を先頭に、前後に騎馬の殿上人、所司代板倉重宗らの武士、輿に乗る関白・大臣らが供をして進んだ。」といい、二人の間に二皇子五皇女をもうける。後水尾天皇は、当初、前号で述べた二条城への行幸など幕府と円満な時期もあったが、法度に反して幕府の了解なしに朝廷が出した紫衣を幕府が無効にするなどでやがて緊張関係に。
このような状況の中、譲位の意向を秀忠に拒絶された後水尾天皇は、寛永六年(1629)11月8日、公家を突然呼び出し、7歳の第一皇女興子内親王(家康公のひ孫)を明正天皇として「秀忠に黙って」で譲位して上皇となる。「譲位を突如知らされた多くの公家は、ただただびっくり仰天(驚顛の気色)」したといい、85歳で逝去されるまで以後50年の院政を敷く。その後水尾上皇がパトロンとなって花開いたのが寛永文化。後水尾上皇を中心にして宮廷文化の復興期を迎え、その「活動は朝廷内部にとどまらず、…在位中から上層の京都町衆や僧侶らと連歌や立花などの文化的交流を繰り広げたため、宮廷文化が民間にも享受され…民間社会更には武家社会にも、宮廷文化、すなわち雅の文化への憧れを生むことになった」という。それを代表する絵画の狩野探幽、尾形光琳、工芸の本阿弥光悦などの作品が今日に残る。寛永文化の中心にいた後水尾上皇自身が遺したのは、修学院離宮。京都の離宮としては、京都の南西にある桂離宮が知られるが、修学院離宮は京都の北東、比叡山の麓に造られた「上・中・下の三つの離宮からなり、上離宮背後の山、借景となる山林、それに三つの離宮を結ぶ松並木の道と両側に広がる田畑とで構成。総面積54万5千平方メートルを超える雄大な離宮」が今も残る。「幕府との間に緊張が続いた時代であっただけに、短期間にこれほど大規模な山荘を造営しえたことは一つの驚異でもある」という。桂離宮を「世界に二つなきもの」と激賞した世界的建築家ブルーノタウトはなぜか修学院離宮には手厳しく「奇怪な松の化粧」を美しい日本庭園の「例外」という。広く見せるために遠近法を駆使した桂離宮と異なり、本当に広い。中の離宮の客殿には、「随所にみられる飾り金具には葵の紋が配されており」、徳川家から嫁いだ東福門院(和子)の「背後に控える幕府の権勢が示されているよう」だという。下の離宮から松並木を通り、標高差40m近くも登っていく上離宮は「谷間をせき止め浴龍池と呼ぶ大きな池を中心に据えた回遊式庭園」、「大小の滝に加え水流の早い小川もあり、どこにいても絶えず水の音を聴くことができる」という。夏だと汗だくになりながら登っていくと水の音がひときわすがすがしい。
写真: 家康公の孫娘和子が入内した後水尾上皇が比叡山の麓に築いた広大な修学院離宮
 
 
8. おわりに
家康公が遺したもののうち、あるものは当時の文化を今日に伝え、あるものは徳川幕府の繁栄の基礎となる。現代においても仕組みを作った者がその世界を牛耳るのはしばしば。カリスマでなくても永続する仕組みを作った徳川幕府は15代、260年余りにわたって続く。ただ、出来上がった仕組みを活用するのはそれを作った者だけではなく、上手く利用したものが栄える。家康公が定めた全国に通用する通貨で商人たちは商い、幕末に官軍は江戸時代に整備された交通路で進軍したはず。
家康公が遺したものの中には、今の日本にも貢献しているものある。例えば、家康公が礎を築いた名古屋は現在、中部地方の中心地。そして、勿論、江戸は首都東京。家康公が連れてきた漁師が発達させた漁業から、魚市場が繁盛し既に江戸時代には名物となり、その賑わいは築地中央市場、そして、今日の豊洲市場に至る。街道には拡張されて今も使われているものもあり、大名や旗本の屋敷跡が東京23区内の敷地の広大な施設になっていることも多い。例えば、外様大名最大の前田家(103万石)の上屋敷跡は東京大学本郷キャンパスなのは知られているが、譜代筆頭の井伊家(18万石)の上屋敷は憲政記念館、中屋敷はホテルニューオータニ、下屋敷は明治神宮。「三河物語」を遺した旗本大久保彦左衛門(2千石)の屋敷跡は白金の八芳園の一部。最近の大型再開発をみても、米沢藩上杉家(15万石)の中屋敷があった飯倉交差点付近には、約8.1haの緑に包まれた広大な区域に3棟の超高層タワーを配置する麻布台ヒルズが11月に開業したばかり。
写真: 11月24日に開業した“緑に包まれ、人と人をつなぐ「広場」のような街”「麻布台ヒルズ」(イメージ)(画像提供:森ビル)
 
(主な参考文献)
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「戦国資料叢書6 家康史料集」、小野信二校注、人物往来社、1965年
「名茶会再現 上巻 鎮魂の茶会」、近藤道生、有馬頼底、熊倉功夫、株式会社世界文化社、1995年
「日本陶磁全集16 織部」、竹内順一編、中央公論社、1980年
「ドナルド・キーン著作集 第六巻 能・文楽・歌舞伎」、ドナルド・キーン、新潮社、2013年
能樂圖繪 前編 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
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家康の出版事業|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー|国立公文書館(archives.go.jp)
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江戸城内の文庫造営|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー|国立公文書館(archives.go.jp)
古記録の所在調査・収集|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー|国立公文書館(archives.go.jp)
造幣局:日本の貨幣の歴史(mint.go.jp)
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「天皇の歴史6 江戸時代の天皇」藤田覚、株式会社講談社、2018年
家康の内政・外交|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー|国立公文書館(archives.go.jp)
宮内庁参観案内:施設情報:修学院離宮(kunaicho.go.jp)
修学院離宮のパンフレット、公益財団法人菊葉文化協会
憲政記念館〈彦根藩井伊家上屋敷跡〉 - 滋賀区(shiga-ku.tokyo)
港区ゆかりの人物データベースサイト 八芳園・壺中庵(旧久原房之助邸)(city.minato.tokyo.jp)
港区ホームページ/武家屋敷・お屋敷跡(city.minato.tokyo.jp)|
「麻布台ヒルズ」2023年11月24日開業|ニュースリリース一覧|プレスルーム|企業情報|森ビル株式会社(mori.co.jp)
「新訂 徳川家康文書の研究 上中下之1.2」、中村孝也、日本学術振興会、1980年、1982年
「日本の歴史 13 江戸開府」 辻達也 中央公論社 1967年
「日本歴史シリーズ11 江戸開府」、世界文化社、1972年
「江戸開幕」、藤井譲治、講談社学術文庫、2016年
「人物叢書 徳川家康」、藤井譲治、日本歴史学会編集 吉川弘文館、2020年