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徳川家康公が遺した・・・(上)


元国際交流基金 吾郷 俊樹

1 はじめに
天正十八年(1590)、秀吉公は小田原の北条氏を攻める。「未だ小田原攻囲中、秀吉は家康に語って、落城の跡はこの城は貴君に渡そうと思うが、その場合ここを居城とするつもりかと問うた。家康はこれにこたえて、将来は別として当分はここにいるのがよいと思うというと、秀吉はこれに反対して、ここから東の方に江戸というところがある。そこは関東を収めるのに景勝の地であるから、そこを本城とするがよいといい、家康もこれに従った」という。「その着眼の優れていたことは、その後の江戸から東京の発達の跡が、何よりもよく示している。」と東京都編集・発行の「江戸の発達」はいう。
徳川幕府の公式記録「徳川實紀」によると、当時、旧武田領など5か国の大大名だった徳川からすると「当家年頃の御徳に心腹せし駿遠三甲信の五國を奪う詐謀なる事疑いなし。…されば御家人等は御國換ありとの風説を聞て大に驚き騒」いだというが、家康公はこれを受け入れ、「汝等さのみ心を勞する事なかれ。我たとひ当領をはなれ。奥の國にもせよ百萬石の領地さへあらば。上方に切てのぼらん事容易なりと仰ありて。自若としてましましけれる」と伝えられる。
大河ドラマで40年振りに徳川家康公が主人公となった今年は、直接、間接に家康公が遺したものについてご紹介。
写真 駿府城公園の家康公像 鷹狩好きの家康公の左手には鷹

2 衣―遺愛品から
家康公が遺したものとしては、まずは遺愛品として伝わる数々の品々。まとまって伝わるものでは、没後に徳川御三家に譲られた「駿府御分物」と呼ばれる遺産。特に尾張家伝来品が名古屋の徳川美術館に多数所蔵。これらとは別に日常的に使っていた遺愛品(これを「手沢品」という。)の多くが久能山東照宮に御神宝として遺され、その大部分が「国の重要文化財に指定。まずは遺愛品の中から衣食住の「衣」を中心にご紹介。
(1)甲冑
「武家にとっての表道具(晴れの道具)は、武器・武具」。「家康ハ華奢風流ハ成程不調法なれ共、治をなし、家を斉へ、人を見知る、武道の達人也、我朝にハ言うにや及ふ、異国にも希なるべし」と言われた家康公ゆかりの甲冑については、中世以来の伝統的な腹巻、新形式の具足、当時の舶来品である南蛮銅具足など新旧さまざまな形式が遺る。
古くは、静岡浅間神社の紅糸威腹巻。家康公が今川義元から送られた着初めの腹巻と伝えられ、室町時代の伝統的な形式。
久能山東照宮の金陀美具足は、永禄三年(1560)5月18日、桶狭間合戦の前日の大高城兵糧入れの具足として知られ、総重量12kgと軽くて実用的な金箔や金粉で表面を金色とした当世具足。桶狭間の戦いに先立ち、大高城への兵糧運び入れの任務は、今川方の「家のおとなどもをあつめ評議しけれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなし」だったのを引き受けた当時18歳の家康公は「敵軍の中ををしわけ。難なく小荷駄を城内へはこび入れしめられ」、敵も味方も天晴と感嘆しない者はいなかったという。召替用のほぼ同形の金箔押しの上に透漆を塗って白檀塗とした白檀塗具足とともに江戸城の神庫で大切に取り扱われていたもの。「当時の武将は、目立つ衣装で身を飾るという意識を濃厚に持っていた」というのも、戦で手柄を立てても見てもらえなければ、論功行賞されない。今川家の人質の身なら尚更か。
家康公の具足の中で最も重要なのは冑に歯朶(しだ)の前立てが付属することから「歯朶具足」と称される甲冑で、関ケ原の合戦の前に霊夢を見た家康公が奈良のお抱え具足師に製作させたもので、関ケ原の合戦、大阪の冬の陣、夏の陣に用いられて『御勝利之御具足御吉例』として江戸城で特別に大切にされて来たもの。総重量19kg、「全体を黒で統一した重厚で質実な具足」が地味なのは、既に家康公は論功行賞される立場でなかったから目立つ必要もなかったということか。慶長二十年(1615)、家康公最後の戦い、大坂の陣では、鎧も着用しない大御所家康公を見て驚いた外様大名の藤堂高虎が「何とて具足をめし給はぬか」と言うと、「あの秀頼の若年ものを成敗するに。何とて具足の用あるものぞ」と語ったというが、高虎が出た後、身内には、高虎は「上方者ゆへ。心の底を見せまじとて先の答えはしつれ。まことは年寄りて下腹がふくれしゆへ。物の具しては馬の上下もかなわぬゆへ着ざるなり。何事も年寄りては。若きときとは大いにかわるものなり」と嘆いていたという。当初久能山に納められたこの具足、三代家光によって江戸に取り寄せられ、承応元年(1653)8月、13歳の四代将軍家綱は、歯朶具足を身に着けて具足初めの式を行い、歯朶具足に倣った写し型の具足を二領作らせ、一領は歯朶具足の代わりに久能山へ納め、以後歴代の将軍も写し形の具足を新調し、毎年正月十一日には、黒書院で写形の具足を飾って具足祝いの嘉儀を執り行うようになったという。
南蛮銅具足。16世紀後半から始まった南蛮貿易によってキリスト教に関する文物や火縄銃などと共にヨーロッパ製の甲冑も日本にもたらされた。家康公が歯朶具足とともに関ケ原の陣中に携えていたのがこの具足で日光東照宮の宝物として遺る。
写真 家康公が天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いと大坂の陣に携行し、見事勝利を収めた徳川家“吉祥の具足”歯朶具足 出典:宇都野正武 編『久能山東照宮宝物解題』,画報社,大正4.国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2023-10-26)
(2)刀剣
「武家の魂」と言われる刀剣。日本刀はまず刃文(刃の文様。「波紋オーバードライブ」の波紋ではない。)の美しさを見るものらしいが、どう見たらよいか門外漢には難しい。家康公の遺産である「駿府御分物」のうち約一二〇〇点近くにものぼるという刀剣。最も有名なのは、きっと「重要文化財 太刀(銘)(表)妙純伝持/ソハヤノツルキ(裏)ウツスナリ」。古来より鎌倉時代の三池典太光世作とされ、銘文の意味は未詳というが、家康公は、「臨終に当たってこの刀を枕元に置き、切先を大坂の陣後も不安の残る西国に向けておくように遺言」し、「久能山東照宮第一の重宝として江戸時代には蒔絵刀箱に納めて社殿内陣に置かれご神体同様に扱われた」という。家康公の懸念とおり、没後250年の時を経て、関ケ原の西軍だった島津や毛利を中心とする官軍により徳川幕府は倒される。鍔のない合口式の拵が付属する家康公の脇差「重要文化財 脇差 無銘 行光」も久能山東照宮蔵で鎌倉時代の名工行光によるもの。この他、徳川美術館には慶長十六年(1611)3月28日、京都の二条城で豊臣秀頼が家康公と会見した時に贈った刀「重要文化財 刀無銘一文字 名物 南泉一文字」もあり、由来を聞けば、いずれも只者ではないことは素人にもわかる。
家康公の刀については、ある時秀吉公が諸大将(後の五大老(宇喜多秀家、上杉景勝、前田利家、毛利輝元、徳川家康))の刀をとりよせ。「我其刀の主をあてて見む」といって全て当てて見せたという。なぜわかったのかと驚いて尋ねると「先ず秀家は美麗をこのむ性質なれば。金装の刀はその品としらる。景勝は長きを好めば寸の延たる刀これならん。利家は卑賎より幾度の武功を重ねて大國の主となりし人なれば。いにしへを忘れずして革鞘を用ゆるならん。輝元は数寄人なればこと様の装せし品その差料ならむ。江戸の亜相は器宇寛大にして。刀剣の製作などに心用ゆる人ならねば。元より装飾もなく美麗もなきなみなみの品。その佩刀ならんと思ひて。かくは定めつれ」といったといい、家康公の刀は質素だったと分かる。
写真 家康公が臨終に当たり、枕元に置き、切先を西国に向けておくように遺言したという三池典太光世作の差料とその拵 出展:宇都野正武 編『久能山東照宮宝物解題』,画報社,大正4.国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2023-10-26)
(3)鉄砲
鉄砲の名手であったという家康公。「鳥銃は三発。…日課の御徳にていささか怠らせ給はず」と伝わる。慶長十六年(1611)8月、既に70代の公は的の星に当てること五度、近侍が撃ったが皆当たらず、櫓上に留まった鳶に自ら鉄砲を放ち、三度とも当たって、「二鳶すなわち落つ。一鳶、足を射切りて飛去す」という話も残る。家康公の側近大久保彦左衛門の「三河物語」には戦の際に鉄砲を仕損じた家臣に対して、技術的なアドバイスをしていたとの記述もあり、徳川美術館にはこれを扱うには大変だったろうと思われる家康公の長大な外国製の銃身の鉄砲が遺る。
なお、若年のほどより70過ぎまで「日毎にかならず御馬にめし」、「乗馬でも「海道一二の建騎」「海道一の馬乗り」といわれ、弓も「信長公記」によると武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いで逃げる家康公を、「敵が先回りして待ち受け戦いを挑んだ。それを家康は馬上から弓で射倒し、駆け抜けて浜松へ帰城した。この時に限らず、家康の弓の腕前は今にはじまったことではなかった」という。
(4)ファッション
家康が用いた染織品も「駿府御分物」の中に数多く遺る。侍医の覚書「慶長記」に「家康公よりはしまりし申候。…家康公しわき御人と世上にて申候得共、…小袖の結構になり候事、家康公よりはしまり候事、人はしらす。」、「関ケ原御合戦に御かち、其年のくれに、諸大名小袖を進上被申候。其年より翌年にはけつこう(結構)になり、年をへ候程、いやましによく成候」とある。このように家康公は「ファッションに敏感だった」といい、「一見質素な小紋染の小袖でも手の込んだ技法が凝らされている」、「復元した羽織右派、金色の地に波兎文というカラフルなもの」、復元した浴衣も「藍染めの大胆な文様は当時先端のデザインであったに違いない」という。

3 食
秀忠に将軍職を譲り、大御所となった家康公の慶長十六年から二十年の大阪の陣前からの駿府での生活を記した「駿府記」。クール便もない時代、どうやって運んだのか仙台の伊達政宗からも「鮮魚」など諸大名などからの贈り物の数々に晩年の食生活が伺える。
慶長十四年(1609)には房総沖で遭難し、救助されたイスパニアの属領フィリッピンの総督ドン=ロドリゴ=デ=ビベロは駿府に赴き家康公に謁見。その容貌を「(家康は)壮麗な宮殿内の広き室の中央なる段上に置かれた緑色天鵞絨(ビロード)の椅子に座し、寛闊な衣を着し、髪は束ねてあり、年齢は六、七十歳位、中丈で肥満し、愉快気な容貌で、尊敬すべき老人である。」と記す。
(1)粗食
肥満といっても美食三昧ではなく至って粗食だったという。三河時代、夏には麦飯を供していたが、「あるとき近臣の扱いにて。飯器の底に精米を入れ。上にいささか麦をのせてたてまつりしかば御けしきあしく。汝等はわが心を知らざるな。わが吝嗇にして麦を食ふと思ふか。今天下戦争の世となりて。上も下も寝食を安むずることなし。さるに我一人安飽をもとめんや。」と叱ったと伝わる。また、信長公から夏が旬の桃が一籠、季節外れの11月に贈られてきたとき、近臣等は珍しいとはやしたところ、「此菓子珍しからぬにはなけれども。信長と我とは國の大小異なれば。好むところも又同じき事をえず。わがごときものは。珍品を好むとなれば害ありて益なし。」といって、そんなものを好むとなると「國中の良田畝に無用のものを植えて民力をつからすべし」、「すべて心あらん者は。奇品珍物は好むまじきなり」と笑って食べなかったという。これを伝え聞いた武田信玄は「家康や大望があるゆへ。養生を主として。時ならぬもの食わぬと見えたり」といったと伝わる。また、霜月の寒い朝、伊達政宗からの使者が来た際、朝食を相伴せよといって使者に出したが、ごはんと「君が御前にのせし菜は。粕漬の魚ばかりにて。いと倹素の御事なり」と本当に粗飯だったといい、「徳川實紀」には「萬事倹素」という一章が残る。最近、家康公関連の本が多い中で新聞各紙でも紹介された大著「将軍の世紀」は、家康公の教えが将軍家に残ったゆえか「歴代将軍の食事はいかにも質素だった」という。
ただ、公は健啖家だったようで三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れて浜松城に逃げ帰った後、戻ってくる兵が困るので城門を閉めるなと言って、門の内外に大篝を設けさせ、「御湯漬けを三椀まで」食べると御高鼾をかいて寝てしまったというし、本能寺の変の後、堺から三河への逃避行「伊賀越え」のときも白子から船に乗ると安心して腹が減ったのか、「船子己が食料に備蓄し粟麦米の三しなを一つにかしぎし飯を。常に用ゆる椀に盛て」出すと、塩辛を肴に「風味よし」といってやはり三碗食べたという。
(2)佃煮
「食」に関して、今も残るのは佃煮。家康公が江戸に入った頃、漁業は微々たるもので漁法も幼稚であったという。このため、摂津の漁師が江戸にきて漁業権を得て、進歩した漁法を取り入れたため、関東で漁業が大いに発達したという。
家康公が伏見にいた時から関係があった摂津国西成郡佃村の森孫右衛門が一族7人と佃村などの漁夫30余人を連れて江戸にきて、佃島(中央区内)をもらって住居し、江戸湾の漁業を営み、魚介を幕府の膳所に出し、その残りを市中で売ったという。全国調理食品工業協同組合のWebsiteによると、本能寺の変の後の「伊賀越え」の折、家康公「一行が、今の大阪・住吉区の神崎川にさしかかった折、渡る船がなく足止めに遭って難渋しているとき、…「森 孫右衛門」とその配下の漁民たちが、舟とともに自身が備蓄していた小魚煮を道中食として差し出し…日持ちが良く、体力維持にも効果を発揮した小魚煮のお陰で家康一行は、無事岡崎城に辿り着くことができ」たという。公は「佃村漁民への恩義と小魚煮の効果を忘れず、森 孫右衛門をはじめとした漁民を江戸に移住させ手厚く加護した」と伝えられる。江戸の人口が増加し、需要が増えるにつれて市場が必要になり、日本橋本小田原町(今の室町一丁目)に開いた。魚市場は江戸の中心の日本橋際にあり、「商売柄非常に活気があったので、江戸の一名物となっていた」といい、「江戸の繫昌の象徴のような観があった」と「江戸の発達」は言う。江戸時代から人気スポットだった日本橋の魚市場は関東大震災で焼失したのを機に築地中央市場に移転。
佃煮の「にんべん」のWebsiteによると、「上等な魚は幕府へ納められましたが、小さな魚は佃煮にされ、庶民の口に入るようになった」のだといい、今も「贈答品としても重宝されている佃煮は、和食には欠かせない食品の一つ」。粗食だった家康公は食べ物にまつわる話も実用的。
写真 家康公が江戸にもたらしたという佃煮 出典:佃煮の世界:水産庁(maff.go.jp)
(3)鷹狩
地味な話が多い「食」に関して特記すべきは鷹狩。虎狩や狐狩りは、虎や狐を狩るが、鷹狩は鷹で狩る。江戸時代の歴代将軍の鷹狩りについて詳しい「鷹と将軍 徳川社会の贈答システム」によると、鷹の調教には手間もかかり、それだけで生計を立てるのも難しく、古くは朝廷の庇護を受けるなど「権力者たちによって手厚く保護され」てきたという。
公の鷹狩り好きも有名で、「なべてえうなき御遊戯は。このませ給はざりしが。…ただ鷹つかふことばかりは御天性すかせられ。」と伝わり、獲物を自ら料理して近習集に食させたこともあったという。今川家の人質時代、小さいときから鷹を使うのが好きで、しばしば隣家の屋敷に鷹が飛び込み、そのたびに隣家の主人に叱られ、その無念さがいつまでも忘れられず、のちに武田方に属した隣家の主人を捕らえたとき、切腹を命じたという。人質時代の苦労をしのばせる話と言われていたが、徳川美術館では今川家でも幼少から鷹狩りができるほどの厚遇を受けていたとの解説。長久手の戦いの後、秀吉公からの上洛を求める使いを鷹狩の場に召出し、「われ此頃は鷹つかふをもて。明暮の楽しみとす。都方は織田殿のすすめにて一覧せしかば。今はまた見まくとも思はず」と言って上洛を拒否したという。
鷹狩の効用について「一つは御摂生のため。一つには下民の艱くをも近く見そなはし。山野を奔駆し身体を労働して。兼ねて軍務を調練し給はん」と考えていたという家康公は、秀吉公に従った後には、時には一緒に京都に鷹狩りに出かけたという。
「駿府記」を見ると、大坂冬の陣の前年、慶長十八年霜月は、4日、10日から14日まで「御鷹野」、15日に腰痛で「御鷹野止む」が17日には回復し「御鷹野」、18日は「御鷹野」の途中、民情視察もしていて、百姓の訴えにより代官が「百姓と御前において対決を遂げ」、代官を罷免、19日、21日、24日から29日までも「御鷹場」や狩りの成果が続き、鶴十九を獲った26日には「御気色甚だ快然」との記録。大阪冬の陣の際にも道中で「御放鷹」、「鶴の御料理、近習の輩これを賜う」とある。ただ、大坂夏の陣の年、慶長廿年(1615)正月の鷹狩で「鶴取の御鷹、鶴のために損ず…これにより御機嫌快からず」、11月には「御鷹場水滞り御放鷹ならず。これによって代官御勘気を蒙る」、更に12月には「御鷹損スルニよっテ」「御小人頭稲垣現右衛門誅戮」というし、大坂夏の陣の際に伊達政宗が大胆にも他人の領地、相模で鷹狩をしたところ、そこを守る大岡なにがしが「鑓提て出切り政宗にむかひ。某があづかりしところを。かく狼藉せられては。大御所へ対し奉りて申分立ず。我首取りてご覧に入られ。某が緩怠にあらざるよし申されよとののし」ると、さすがの政宗も当惑して「ひらにゆるされよ」と詫びたというから、この時代は命懸けである。
公の鷹マニアを知って、伊達政宗など諸大名の中には鷹を献じるものがあり、公もまた、豊臣秀頼をはじめ大名への贈答に鷹を用いたといい、慶長十七年(1612)正月には「御鷹の鶴」を後陽成上皇、御水尾天皇に献上し、また、秀頼公に贈ったという。
「鷹と将軍 徳川社会の贈答システム」によると、家康公の鷹狩り好きのためか、江戸時代、鷹狩りは一つの文化として花開き、歴代「将軍たちへの鷹の献上・拝領、大名間の贈答と言う形で鷹が全国を飛び回った」といい、そのために「幕府によって張り巡らされたネットワークがあった」という。金融政策と違って、徳川時代、タカ派、ハト派などはなく、タカ派のみ。鷹は「権威と忠誠の表象」だともいう。
献上される鷹は、容姿端麗な若鷹(その年に獲れた鷹)、「手つかずの初物」で「大名が拝領した鷹は、将軍が鷹狩に使用(実際には代行の鷹匠など)した、お手つきの鷹」だったという。「しかも、鶴、雁、鴨を捕獲した実績のある大鷹が拝領鷹に選ばれており、鷹や獲物のランクが大名家格にリンクしていた」という。例えば、安永二年(1773)、参勤交代の帰国の餞別として鷹を拝領したのは9人(御三家の尾張藩、紀州藩、越前松平家など徳川一門と将軍家の外戚金沢藩前田家、幕府の重鎮や顧問的立場の大名)だけで、中でも格式の高い「鶴捉」の鷹を拝領したのは、御三家の尾張徳川家と紀伊徳川家のみ(水戸藩主は帰国しないため、餞別を拝領する機会はない。)だったという。
鷹の献上大名には、「自己をアピールする格好の献上品であり、将軍に良き心証を得られる機会」であり、拝領大名には、帰国後に鷹狩りをして、獲物を献上しなければならないが、「拝領者が少ない分、その意義・価値は大きかった」という。このように、献上大名・拝領大名双方にとって、財政面の損失に「余りある利得が将軍との親密な関係の維持であり、他の大名に対する自家の名誉・誇り」であり、「贈答行為が将軍の手を経ることで、政治性・権力性を帯びるものとなった」。という。江戸時代、鷹匠は千石取りの旗本。
鷹狩の獲物も贈答の対象。「将軍所有の『御鷹』が捕獲した鳥を『御鷹之鳥』」といい、これに対し、「将軍自らの『御拳』から放たれた『御鷹』が捕まえた鳥」「『御拳之鳥』」は、「将軍が直接捕獲したという点で極めて価値が高かった」という。将軍は鷹狩の鶴を天皇に献上し、大名に下賜したという。幕末の嘉永三年(1850年)、彦根藩主になったばかりののちの大老、井伊直弼は、「『御鷹の雁』を拝領」。前例に従い、将軍からの上使が「将軍家慶の『上意』を述べている間、直弼はその前で平伏し続けている」という記録が残るという。
家康公の鷹狩り好きはその後の徳川家の将軍に引き継がれて、生類憐みの令の5代綱吉の時にいったん廃止されるも、8代吉宗で復活。幕末に参勤交代が廃止される中でも将軍家への鷹の献上は将軍から天皇への鷹狩りの獲物の献上のため続けられたという。都内でも将軍家の鷹場の跡の一つは旧浜離宮庭園として、また、鷹番、三鷹などの鷹狩り由来の地名が今も残る。
写真 旧築地市場跡地のすぐ南西に位置する「特別名勝」・「特別史跡」指定の「旧浜離宮庭園」中央区ホームページ(広報紙「区内の文化財」(令和5年1月21日号))より 中央区ホームページ/旧浜離宮庭園(chuo.lg.jp)

4 住
岡崎で生まれてから、駿府で亡くなるまでの75年の生涯で家康公は各地に足跡を残しているが、ここでは主な場所を西から順にたどる。
(1)大阪
室町時代に建立された石山本願寺の本山が堀や土塁を備えるなど城郭化したのが大坂城の前身。信長公は「交通の要衝であったこの地に価値を見出し」明け渡しを要求したのを機に「約11年にも及ぶ石山合戦が繰り広げられた」という。天正八年(1580)、和議が成立し本願寺勢が退去。本能寺の変を経て信長の後継者となった秀吉公は天正十一年(1583)、豊臣大坂城を築く。「金箔瓦を施した5層8階…の大天守や千畳敷の御殿などが立ち並ぶ5つの郭と、城下町ごと囲む総構えを持つ、豪華で壮大な城」となったという。
小牧・長久手の戦いで秀吉公と対峙した後、秀吉公に服従し天正十八年(1590)の北条攻めの先鋒を務めるなど豊臣の重鎮となった家康公。慶長三年(1598)8月18日、秀吉公が5大老らに秀頼のことを託して亡くなると、翌年9月に直前まで北政所がいた大阪城西の丸に入った家康公はそのまま居座り、「西の丸曲輪内に天守まで構築」したというから大した度胸。関ヶ原の合戦が起こる慶長五年(1600)の正月一日には「諸大名は大阪城本丸の秀頼に年賀を述べたのに続いて、西の丸の家康に年賀を述べた。」という。同年6月16日に大阪城から関ヶ原の合戦のきっかけとなった会津攻めに出発。ただ、公は関ヶ原の戦いの後も豊臣政権の重臣の立場で征夷大将軍となるまで大阪城の秀頼に家臣としての礼をとったという。
慶長二十年(1615)、栄華を誇ったこの城も大坂の陣により落城。かつて、太閤秀吉は「此城攻むには二つの術あり。大軍にて年月かさねて固守し。城中の糧食の尽きるを待つか。さらずは一旦和を入れ。堀を埋め塀を毀ち。かさねて責めれば落つべし」と自賛したのを聞いていた家康公はそれを実行。家康公が遺したのは、大坂夏の陣で破壊した豊臣大阪城の跡。
元和六年(1620)、徳川幕府二代将軍秀忠は西国への備えとして大坂城の再築城に取りかかる。旧本丸を盛土で埋め、堀を広げるなど、縄張りも大きく変更。現在の姿はこの時築城された徳川大坂城。幕府直轄の城となり、幕末の鳥羽伏見の戦いで官軍の錦の御旗の前に敗れた15代将軍慶喜は夜間、密かに大阪城を脱出。徳川時代の幕開けと幕引きの大きな節目の舞台。
大坂の陣については、勝者の歴史「徳川實紀」だと孫の徳川忠直が「眞田幸村が備えを打破り。一番に城に乗入れしかば御感斜めならず」とか、徳川方の戦死した武将について記されているくらいだが、「駿府記」だと幕下御先において徳川方の多くの将が「討死にす。…関東勢少し敗北のところ」とあり、側近の大久保彦左衛門が子孫に向けて遺した門外不出の「三河物語」だと夏の陣で真田幸村が押し出した天王寺では、家康公の御前には一人しかおらず、散り散りになり、三方ヶ原以来、崩れたことのない公の御旗が崩れたと記す。長久手の戦いの後にも徳川軍二萬ばかりが「眞田が為に散々打ち負けて還」ったり、関ケ原合戦、大坂の陣と真田昌幸・幸村二代にわたる真田の勇名が残り、真田相手には徳川も散々である。
大阪城の落城の時、秀頼母子らは櫓に籠る。「駿府記」によると秀頼の妻、家康公の孫、千姫は秀頼母子の助命を願い出る。これを受けて将軍秀忠の意向を、そして最後は大御所の判断を仰いだという。その後、夫を亡くした千姫の侍女への孫娘を気遣う家康公の自筆の手紙が遺る。
写真 大阪城の古建造物は徳川時代以降のものだが、今の天守閣は豊臣時代の天守閣を再現。(c)大阪城天守閣 大阪城天守閣(osakacastle.net)
(2)京都
京都は、天下人にとって朝廷との関係で欠かせない拠点。信長公は京都に自らの城を築く間もなく本能寺で討たれ、直前まで京都にいた家康公は難を免れる。本能寺の変につき、信長公と18回も会見したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、明智光秀の軍がフル装備で京都に入ると「兵士たちはかような動きがいったい何のためか訝り始め、おそらく明智は信長の命によりその義弟である三河の国主(家康)を殺すためであろうと考えた」、「我らの主なるデウスは、都の教会と、当時同所に住んでいた我らを憐れみ給い、ほんの数日前に三河の国主(家康)が堺に出発するように取り計らわれた。彼は信長の義弟であったから、明智は必ず彼を殺すために〔彼もまた殺戮された者の一人になったであろう〕、彼が宿泊した邸と接していた我らの教会に放火せねばならなかっただろう…彼が同所に留まっていたならば、我れらは危険から免れ得なかったことであろう。」と記す。
秀吉公は聚楽第や伏見城を築き、慶長三年(1598年)8月に伏見城で亡くなる。翌年五大老の前田利家が亡くなり、石田三成が失脚すると豊臣政権の五大老筆頭だった家康公は伏見の屋敷から伏見城の本丸に入る。これを聞いた「奈良興福寺の僧侶英俊は、日記に『天下殿になられ候』」と記したといい、慶長四年(1599)8月に参内した家康公に対し後陽成天皇は秀吉公や室町将軍と同等の扱いをしたという。
幕府を開いた家康公は、慶長八年(1603)、二条城を築く。ここは政権交代の舞台に2回。2回目は幕末、15代将軍徳川慶喜の大政奉還。1回目は、70歳の家康公が19歳の秀頼と面会。孫娘千姫の夫、秀頼との徳川の城、二条城での面会は政権交代を印象付けるための場だったという。これに先立ち、慶長十年(1607)、秀忠が二代将軍になると、家康公は秀頼に将軍への挨拶を求めたものの、淀君が激怒して拒絶。その後、慶長十六年(1611)4月12日、後陽成天皇の譲位と後水尾天皇即位の儀式に先立ち、3月28日、家康公は19歳になった秀頼を二条城へ呼び出し、会見を要請。この二条城会見について、国立公文書館のWebsiteでは「秀頼は辰の刻(午前8時頃)に二条城に到着しました。家康は庭上まで出向き、秀頼が「慇懃」(いんぎん)に礼をします。その後、家康から『互いの御礼あるべし』と、対等の礼をしようと提案しますが、秀頼はこれを堅く『斟酌』(しんしゃく、遠慮)し、秀頼が家康に礼をする形となりました。饗応の場では、高台院(秀吉正室寧々)も相伴しました。…大坂や京都では会見が無事に終わった事を悦んだと伝えられています。」という。別の文献では、そのとき、秀頼は吸い物を口にしただけで豪華な膳には手を付けなかったといい、加藤「清正は始終秀頼の傍らを離れず」、「福島正則は病と称して、大阪に留」り、「もし万一二条にして変あらば、…正則は大坂を守りて、兵を出さんと約した」という緊張感が伝わる。秀頼との二条城会見を終えた家康が、重臣の本多正信を召して、「秀頼にハかしこき人なり」と述べたと伝わる。そんな秀頼を脅威と感じたのかわからないが、4年後に孫娘の婿を大坂夏の陣で滅亡させる。
当初、二条城は現在の二の丸の辺りだけだったが、家康公の孫娘和子が入内した御水尾天皇の二条城への行幸の際に拡張され、本丸が設けられたという。寛永三年(1626)、大御所秀忠、三代家光が御水尾天皇を迎えた行幸は、五日間に渡り、御所から二条城までのパレードには全国の大名も参加、雅楽、能、和歌御会などでもてなし、伏見城から移設されたという天守閣には行幸中後水尾天皇が二度登られたという、おそらく二条城の長い歴史でも最も華やかな1ページ。なお、江戸城の本丸・二の丸・三の丸・西丸等の内部の広大な殿舎はいずれも焼失してしまったが、二条城にその様式を偲ぶことができるという。二条城は、平成六年(1994)にユネスコの世界文化遺産登録となった「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」の構成資産の一つ。
写真 国宝・二の丸御殿 京都市元離宮二条城事務所 国宝・二の丸御殿|二条城 世界遺産・元離宮二条城(kyoto.lg.jp)
(3)関ケ原
関ヶ原は今の岐阜県関ケ原町。家康公がここに滞在したのは一日もなかっただろうがここは外せない。「天下分け目の戦い」として知られるのは慶長五年(1600)9月15日の家康公の東軍と石田三成の西軍の戦い。もう一つ、飛鳥時代にも天下分け目の戦い、天武天皇元年(672)の壬申の乱の戦場。大化の改新の後、即位した天智天皇の後継を争う戦い、この戦いで勝利した大海人皇子が天武天皇として即位。
「敵味方廿萬に近き大軍」が激突した1600年の戦い。秀頼公のために五大老の一人、上杉景勝を討つとの大義名分で家康公が進軍すると、五大老の一人毛利輝元を担いだ石田三成が挙兵。東軍の大阪の妻子を人質にし、徳川方の伏見城を攻め落とす。取って返す家康公の東軍。当時22歳の秀忠率いる徳川の本隊は信州上田で真田幸村の父、昌幸相手に苦戦し、関ヶ原に間に合わず、加藤清正、福島正則、細川忠興ら豊臣恩顧の大名が主力となる。決戦前夜、西軍の島津義弘は家康公本陣への夜襲を進言し、宇喜多秀家らは籠城して大阪城の毛利輝元らの後詰めとの挟み撃ちを主張したが三成が了解しなかったという。
関ヶ原合戦の後の論功行賞。「将軍の世紀」によると「豊臣恩顧の大名が戦功第一だった事実を無視できなかった」ため、「関ケ原合戦では西軍に加担した大名の改易と減封によって六百三十二万四千百九十四石の領地を没収…。この数字は全国総石高千八百万石余りの三分の一を超え…没収高の八十%以上の五百二十万石を東軍の豊臣恩顧の大名たちへの加増分に充てた」という。その際、領地朱印状を出すなら、将軍でもない家康公ではなく、秀頼の名で出す以外になかったはず。「厄介な問題を避けるために、…宛行を家康譜代家臣が口頭で伝えた」という。結果、関ケ原で「島津の退き口」で退却の際に四天王の一人井伊直政に重傷を負わせた島津義弘は本領を安堵された一方、120万石だった上杉景勝は米沢30万石に、合戦の際、西軍の総大将でありながら大阪城を動かなかった毛利輝元は120万石から36万石に減封。秀頼の名前で東軍に大金を下賜し、論功行賞が行われたのに、どういうわけか合戦前に220万石だった豊臣家は65万石の大名になる。一度の戦いで徳川時代の基盤を築く。
関ケ原戦いの前後の動きは家康公の侍医板坂卜斎の覚書「慶長記」に詳しく、また、この時期の家康公の諸大名への手紙が多数遺る。
「徳川實紀」は、黒田長政が福島正則の「陣所にゆきて。さまざまいひこしらへ」た結果、軍議で福島正則は一番に家康公の味方になると申出、他も味方となったと記し、また、小早川秀秋の内通も合戦前夜に家康公に報告していたと記す。その長政が合戦の後一番に来たところ、公は「御床几をはなれ長政が傍によせられ。今日の勝利は偏に御邊が日比の精忠による所なり。何をもて其功に報ゆべき。わが子孫の末々まで黒田が家に対し粗略あるまじきとて。長政が手を取ていただかせ給い。これは当座の引き出物也とてはかせ給ひし吉光の御短刀を長政が腰にささせ給ふ」と感謝の模様を記す。戦前の調略により1日で決着したこの戦い。後から見ると楽勝のようにも見えるが、「将軍の世紀」によると、黒田長政は家臣への極秘の遺言で「関ヶ原の一戦の前、東から徳川方として美濃路に馳せ上がった朋輩の多くは、太閤秀吉のお取立て大名であった。その時に、「我等」(私)が心変わりして大阪方と組んでいたなら、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、藤堂高虎なども悦び勇んで、共に別の道を進むことも「案の内」(考えの範囲内)であった。この者たちが西軍(大阪方)に加わり、島津義弘と私が先陣となって攻撃に出たなら、他の東軍(徳川方)は一戦に及ばず敗北するのも明白だったかもしれない。大勢は大阪方となったに違いない。日和見を決め込んだ大名、小名のすべてはこの知らせを聞いて、大阪方に参陣したに相違ない。だからこそ、家康公も我々の心根に疑いを抱き、人馬と連ねて百里以上にもなる大敵相手に、徳川軍の先鋒として井伊直政や本多忠勝だけを遣わし、その後、外様の諸将に二心がないことを見届けてようやく出馬されたのだ。」と語ったのが残る。
このあたり、雪で東海道新幹線がしばしば遅れ、「関が原付近での積雪のため遅れます」と車内アナウンスが流れると乗客はきっと関ヶ原の戦いを思い出す。
写真 家康公の侍医による「慶長記」における関ケ原の戦いの模様 慶長記 上(archives.go.jp)
(4)名古屋
関ヶ原の戦いに勝利した家康公は、慶長八年(1603)に江戸幕府を開く。当時、「大坂城には、いまだ幕府にとって脅威だった豊臣家が拠点を置き、次の戦に備える必要」。家康公はかつて信長公、豊臣秀次も居城にしていた那古野城の跡に慶長十五年(1610)、加藤清正、福島正則など豊臣恩顧の西国大名20家に命じ、天下普請として名古屋城の築城を開始。縄張は藤堂高虎、天守台の石垣は加藤清正、「当時の城づくりの名手」が担う。各大名はその威信にかけて任務を全うし、加藤清正は、天守台の石垣を3ヵ月もかけずに築いたという。築城に際して、福島正則は池田輝政に「これは庶子の居城なれば、実に吾輩諸大名の役に従うべき事にあらず、足元は大御所の愛婿なれば、此の事を諫められよ」と言うと、清正は「足元もしこれを労とせば、速やかに兵を揚げて叛くべし。もし其能わずば、此の言を発するべからず」というと、「正則黙して止む」という記録が残る。
家康公の9男義直が初代藩主として入り、盤石の体制を整えた名古屋城から大坂冬の陣・夏の陣へ出陣」。冬の陣の後、義直の結婚(冬の陣で講和した秀頼からのお祝いも贈られていたという。)を名目に名古屋入りした家康公はそこから夏の陣に出陣。
金の鯱で知られる名古屋城は、城郭として国宝第一号に指定。昭和二十年(1945)の空襲で焼け再建。設備の老朽化や耐震性の確保などの問題で、現在、見学はできないが、木造での再建が計画されているという。天守閣の再建に先立ち、天守閣と共に戦災で焼失し、平成三十年(2018)に総工費150億円で再建された総檜の本丸御殿は日本を代表する近世書院造の建造物で総面積3100m2、13棟から構成。床は二条城と同じ鴬張り。本丸御殿の上洛殿は寛永十一年(1634)に三代家光の上洛にあわせて増築された御成御殿で、天井には板絵、極彩色の彫刻欄間がはめ込まれ、日光東照宮を彷彿させる。
城だけではない。もともと信長公も安土城を築く前は清州城を居城とし、本能寺の変の後の体制について柴田勝家、羽柴秀吉ら織田家の重臣が集まり清須会議が開かれたのも清州。尾張藩の中心は清州城だったが、水害に見舞われることが多かったため町ごと名古屋に移る。「家臣や町人、商家や質屋まで約60,000人と3つの神社、100を超える寺などをすべて、清州から名古屋城下へと移し」たといい、「清洲越」と呼ばれる。三の丸部分は、現在では愛知県庁や名古屋市役所が建てられており、名古屋市行政の中心地。首都東京だけでなく、今日の名古屋の礎を築いたのも家康公。
名古屋の繁栄は周知のとおり。名古屋城の他、尾張徳川家の財宝を収蔵する徳川美術館で往時を偲ぶことができる。
写真 名古屋城の本丸御殿の「上洛殿」1634年(寛永11)、三代将軍家光が上洛に際し、名古屋城に宿泊。これに先立ち増築された本丸御殿で最も絢爛豪華な「上洛殿」。室内の装飾は細部まで贅の限りが尽くされ、「帝鑑図(ていかんず)」や「雪中梅竹鳥図(せっちゅうばいちくちょうず)」は当時33歳の狩野探幽による。本丸御殿|観覧ガイド|名古屋城公式ウェブサイト(city.nagoya.jp)名古屋城総合事務所提供
(5)岡崎
天文十一年(1542)、家康公生誕の地、今の愛知県岡崎市。いにしえより、東海道の舟運による交通の要衝として栄えたという。6歳で人質として駿府へ向かう途中で裏切られて連れ去られ、尾張へ送られ、その後、人質交換で今川家の人質となり駿府に移るが、桶狭間の戦いで味方の大将今川義元が討ち取られると、駿府に戻らず、岡崎城に入る。ここで今川と手を切り、織田と組む。29歳で武田信玄との戦いに備えて浜松に本拠を移すと、岡崎は長男信康の城となる。岡崎城のそばには、「東照公産湯の井戸」や、家康公のへその緒を埋めたとされる「東照公えな塚」が残る。
信康の妻は信長公の娘で、父への手紙がきっかけで武田家との内通を疑われた信康は信長公の命により、自害させられ、その生母で家康公の正室、築山殿は岡崎城に行く途中で殺害される。今だと芸能人などセレブな夫婦のもめごとは文春砲で撃たれるが、戦国時代だと本当に命を落とす。
(6)浜松
浜松城は家康公を始め歴代城主が出世していった出世の城として知られ、大河ドラマの放送が決まっていた昨年、駅前にご当地キャラ「家康君」の巨大なマスコット。
永禄十一年(1568)12月、家康公が遠江国に攻め入って、当時の引間城を攻め落とし浜松城と名付け、以後17年間居城とする。その際、いちはやく家康公に味方したという松下家は、少年時代の秀吉公が信長公に仕える前に尾張から針を売りながらこの地に来て、初めて仕えた武家だという。また、幼くして父を失った井伊直政は松下家の養子となり、大河ドラマにもなった「おんな城主」直虎の計らいで家康公にお目見えし、小姓となる。後に徳川四天王の一人となり、譜代大名最大の18万石の城主となる。
その後、武田信玄の脅威に対して、信長公は岡崎へ退くよう勧めたが、公は浜松城に踏みとどまる。元亀三年(1572)に三方原の戦いで「徳川軍は戦国最強と謳われた武田軍の圧倒的な戦力の前に総崩れとなり、わずかな護衛と共に命からがら浜松城へ逃げ帰」ったという。三方ヶ原の戦いに負け、浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでその松に掛けたといわれる「鎧掛松」が、浜松市役所の西側に残る。現在の松は3代目、初代の松は浜松城内の堀の近くにあったといい、当時鎧掛松近くの清水で、合戦で疲れた馬のからだを冷やしたことから、馬冷(うまびやし)という地名が今も残る。
浜松と言えば、今は鰻が名物だが、浜名湖の鰻の養殖は140年ほど前からとのこと。武田信玄の圧力に屈せずに命懸けで守った家康公の城下町から発展した浜松には、現在、時価総額上位の日本を代表するいくつかの企業の本社があり、浜松駅でもそれら企業の展示がある。ヤマハの本社にあるヤマハの事業と歴史を体感できる企業ミュージアムには、著名な国際コンクールでも使用されているコンサートグランドピアノCFXもあり、音楽好きでなくても思わず弾いてみたくなる。音楽好きなら嵌って出られなくなる魅力的な場所。
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(7)駿府
今川義元の居城があった駿府は、今の静岡市。家康公は三度住む。最初は今川家の人質時代、天文十八年(1549)、父・広忠が暗殺され、8歳で今川義元の人質となり駿府へ移る。16歳で今川氏の重臣・関口義広の娘・築山殿と結婚し、18歳で長男・信康が誕生したのも駿府。
次は信長公とともに武田家を滅ぼして、駿河を与えられた後、関東に移封されるまで。
そして最後は関ケ原の合戦の後、天下人になり、秀忠に将軍を譲ってから晩年に亡くなるまで過ごした地。「将軍の世紀」によると公は「大坂の秀頼と京都の後陽成天皇に睨みを利かせながら、豊臣の力を過小評価せず伏見に在城することも多かった」、『将軍の城』江戸城、『天下人の城』駿府城、京都の伏見城、二条城の「四つの場所の重要性は固定されておらず、家康がどこにいるかという事実で決まった」という。
秀吉公がもし、徳川を関東に移封していなかったら、江戸幕府ならぬ駿府幕府が開かれ、江戸時代は駿府時代と呼ばれたかも。そうなると広大な関東平野を持たない首都駿府はずいぶん窮屈になり、今の日本はどうなっていただろう。
大御所時代、駿府は大御所家康公の城下として繁昌。家康公が亡くなると、その繁昌の大部分は駿府にいた家臣とともに江戸に引移り、その時移ってきたものの屋敷地に由来するという「駿河台」の名は今も残る。
次回は、「住」の続き、家康公が幕府を開いた江戸から、遺した人、文化、仕組みなどについて。
写真 現在の駿河台周辺は、明治大学や日本大学など多くの大学が所在する学生街。明治時代、私立専門学校のほとんどが帝国大学の所在する本郷と霞ヶ関の官庁街とのほぼ中間にある神田界隈に集中していたひとつの理由は非常勤講師たちが出講可能な場所だったからだという。写真は明治大学駿河台キャンパス
(主な参考文献)
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「新訂増補國史大系 徳川實紀 第一編」、吉川弘文館、1990年
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久能山東照宮宝物解題 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
「現代語訳 三河物語」、大久保彦左衛門著 小林賢章訳、筑摩書房、2018年
「新人物文庫 現代語訳 信長公記」、太田牛一著、中川太古訳、株式会社KADOKAWA、2015年
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「徳川家に伝わる 徳川四百年の裏養生訓」、徳川宗秀。株式会社小学館、2018年
「日本の歴史 13 江戸開府」 辻達也 中央公論社 1967年
6月29日は「佃煮の日」について|全国調理食品工業協同組合ホームページ(zenchoshoku.or.jp)
佃煮の種類や歴史は?誰でも作れるレシピもご紹介!|鰹節・だし専門店のにんべんネットショップ(ninben.co.jp)
佃煮の世界:水産庁(maff.go.jp)
「鷹と将軍 徳川社会の贈答システム」、岡崎寛徳、講談社、2009年
中央区ホームページ/旧浜離宮庭園(chuo.lg.jp)
目黒の地名 鷹番(たかばん)|目黒区(city.meguro.tokyo.jp)
三鷹市|三鷹の歴史「明治時代・三鷹の誕生」(mitaka.lg.jp)
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「完訳 フロイス日本史(3) 安土城と本能寺の変」、中央公論新社、2020年
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二条城会見|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー|国立公文書館(archives.go.jp)
国宝・二の丸御殿|二条城 世界遺産・元離宮二条城(kyoto.lg.jp)
「徳川十五代史:巻之1~2 東照公記 慶長8年~19年 第1編」、内藤 耻叟、博文館、1914年
「京都二条城と寛永文化」、Living History in 京都・二条城協議会、青幻社、2022年
関ヶ原の戦いがあった場所とは/ホームメイト(touken-world.jp)
「新訂 徳川家康文書の研究 上中下之1.2」~「下巻」、中村孝也、日本学術振興会、1980年、1982年
名古屋城の概要|特別史跡 名古屋城|名古屋城について|名古屋城公式ウェブサイト(city.nagoya.jp)
徳川家康公の来歴|家康公と岡崎城の歴史|特集|岡崎公園|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト(okazaki-kanko.jp)
徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松(hamamatsu-ieyasu.com)
三公の関り|頭陀寺(zudaji.or.jp)
INNOVATION ROAD - ヤマハ株式会社(yamaha.com)
徳川家康と駿府 - 【公式】駿府城公園(sumpu-castlepark.com)
明治大学発祥の地(深溝松平家上屋敷跡)/千代田区文化財サイト(edo-chiyoda.jp)