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合理的とはどういうことか
株式会社グランドレベル代表取締役社長 田中 元子

「1階づくりはまちづくり」と大きな声で言いたくて、2016年わたしはひとつも仕事がないまま、株式会社グランドレベルという1階専門事業を立ち上げました。一体どんな仕事なのか、ビジネスモデルは、と聞かれる度に「これは未来で当たり前になる仕事ですが、今はこの仕事を具体的に指し示す言語さえ、まだありません。ビジネスモデルはきっと、未来のクライアントが教えてくれます」と答えていました。たとえ自分が会社をうまくやれないとしても、わたしは1階を持つ方々に冒頭の言葉がすこしでも届けば、それで本望だと思っていました。
建物の1階や広場、空き地、道路といった地面全般は、特に目をこらさなくても、不特定多数のどなたの目にも等身大で晒されてしまうので、持ち主がたとえ嫌だと思っても、まちの風景になってしまう宿命を持っています。この部分を時間的、あるいは経済的合理性だけで建ててしまうと、まちの風景はそのぶん、貧しくなります。貧しい風景に暮らしたい人はいません。風景が貧しくなると、その建物や土地そのものの資産価値が下がることにつながります。つまり自分の首を自分で絞めていることになります。建物や土地の持ち主だけでなく、周辺の人々にとっても心身すこやかに暮らせる状況から遠くなり、まちの秩序にも深く影響します。こんな悪循環がまかり通っているのが、都市開発の現状です。
そもそも、合理的とはどんなことを指すのでしょうか。物事の善し悪しも、お金や時間の量や価値も、物の大小も、ほとんどが状況や立場による、あるいは相対性でジャッジされることに過ぎません。たとえば、先述したような都市開発は、短期間で局所的な側面では合理的と言えるのかもしれません。では絶対的あるいは真に合理的と言えるものとは何かと考えたとき、それは人間という生き物の習性や生態に基づくものではないかと仮定しました。まちを歩く時、ほとんど1階や地面、グランドレベルを眺めてしまうのも、人間の身体が前方にだけ、身長より少し下くらいに目がついているつくりだからです。もし人間が変温動物のように、建物が高くなれば目の高さも変わる、コンピューターの情報処理速度が速くなれば脳も変わる、という生き物であれば、わたしは1階の仕事なんてしなかった。どんな生き物にも、人間にも生物上の限界があるからこそ、その限界値を具体的に知って応えることが、総合的な意味での合理性なのではないかと思います。
素朴さや有機的なことだけが人間らしさではありません。独善的な目先の時間的、経済的合理性で以後何十年も建ち続け、多くの人々に影響を与え続けてしまう風景の一端を作ってしまうのも人間です。時に残酷で非情な選択や行動をしたり、理屈では説明がつかないような事象を起こしたり、ひとりひとりが違うだけでなく、ひとりの中にすら多面性や矛盾があるのも人間です。一方きっと原始人の頃から人間は、痛みや苦しみは避けたい、花や夕陽を美しく感じてしまう、柔らかな場所が心地よい、また社会活動を営む習性から、集団心理や防衛本能で不条理なことまで受け容れてしまう、といった普遍のスペックがあります。それらを現代においてどのように扱えるのか、それによってどんなメリットを享受できるか。合理性という言葉のベクトルは、わたしたちが生きられる、限られた時間の質にこそ向けられて然るべきものではないでしょうか。そして、人間にとって総合的かつ普遍的な合理性を社会実装することが、1階づくりというちょっと変わった仕事の職責です。