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新時代の札幌~歴史と新しさ、自然と文化の調和~札幌市

札幌税関支署 次長 髙松 和彦


1.はじめに
札幌市は、明治2(1869)年の開拓使設置以来、北海道開拓の拠点として発展し続け、現在では人口約197万人を擁し、北海道全体の3割強の人口が集中しており、全国市町村別の人口ランキングでは、横浜市、大阪市、名古屋市に次いで4番目の人口規模を誇る大都市に発展しました。
石狩川流域は、早くからサケの豊富に獲れるところとして知られ、開拓使設置当時、現在の札幌市周辺には先住するアイヌ民族と何百人の和人が居住しているだけでした。
札幌市の中心部である扇状地を作り出したのは石狩川支流の豊平川であり、アイヌ語で「サッ・ポロ・ぺッ」(乾いた広大なところ)と呼ばれ、これが札幌の地名の起こりという説があります。
札幌市に税関が設置されたのは、終戦後、米軍が駐留していたことから輸出入通関業務の増加に伴い、昭和26(1951)年に小樽税関支署の出先として、札幌出張所が設置されました。昭和30(1955)年には札幌税関支署に昇格し現在に至っています。札幌税関支署は、札幌市をはじめとする19市、9郡を管轄しています。


2.札幌市の沿革
○開拓使設置
明治維新後の明治2年に札幌を北海道開拓の拠点として開拓使が設置され、その発展の基礎が作られました。開拓にあたっては、移民の誘致、道路工事、市街の測量などに着手し、市街地は幅約20メートルの道路を南北に交差させました。現在、札幌市の碁盤の目の街並みはこの時から継承されているのです。
開拓初期から、多くの外国人技術師たちを雇い入れて、先進国の農業工業の知識や経験、専門技術の導入や機械など近代的なものを受け入れて、開拓の革新が図られました。また、政府の殖産興業政策にならい、札幌にも紡織所・味噌醤油製造所・麦酒醸造所・諸機械などの官営工場が続々と建設されました。
農業の発展は最重要課題の1つで、明治9年には札幌農学校が開校したのを機に、マサチューセッツ州立農科大学の学長であったウィリアム・クラークを教頭として迎えました。クラークが帰国の際に告げた「BOYS BE AMBITIOUS」(青年よ、大志を抱け)は、若者のチャレンジ精神、そして北海道開拓魂を代表する言葉として、今も新鮮な響きを持っています。
○戦後の目覚ましい発展
昭和30年代、高度経済成長期の全国的な都市集中傾向は、北海道における中心都市である札幌市で特に顕著となり、都市規模が急激に拡大していき、昭和45年には札幌市の人口が100万人を超えました。札幌オリンピック開催が決定すると、オリンピック関連施設の整備事業、都市建設、都市整備などオリンピックを目指した建設ラッシュが続き、札幌市はオリンピックを境にその景観が一変したと言われるようになりました。
昭和47年は札幌市の歴史上、画期的な1年となりました。まず、2月にアジアで初の冬季オリンピック大会が開催され、さらには、4月には政令指定都市に移行しました。


3.歴史を感じるショートトリップ
○旧札幌農学校演舞場(時計台)
札幌駅から南に4ブロック進んだ東側に観光スポットの1つである時計台があります。この建物は明治11年に札幌農学校の演部場として建設されました。明治36年に札幌農学校が現在の北海道大学の位置に移転しましたが、明治39年、現在地に解体することなく移され、その姿のまま引き継がれています。時計の機械は鳩時計と同様の振り子時計で、この仕組みの時計としては、日本で原形のまま正確に作動している最も古い時計塔で、国の重要文化財に指定されています。
写真: 【時計台】

○北海道庁旧本庁舎
札幌駅から時計台に向かう途中で、西方向を望むと突き当りに堂々と姿を現す北海道庁旧本庁舎。「赤れんが庁舎」の愛称で知られる煉瓦造りの建物です。明治19年に北海道庁設置に伴い建築に着手し、同21年に完成しました。現在使われている新庁舎ができるまで約80年にわたって道政を担ってきた歴史ある建物です。都心部にありながら、美しい庭園で四季を感じることができるのが魅力的で、写真スポットとして、市民からも人気が高いです。(注:令和7年3月までリニューアル工事のため休館中です)
写真: 【赤れんが庁舎】

○サッポロビール博物館
札幌市の中心部から東側には明治時代から「産業のまち」として栄え、今も醸造所をはじめ、さまざまな工場や倉庫がひしめき、下町的な雰囲気を残しています。
明治の官営工場の1つであった麦酒醸造所は、札幌を代表する食料品工業の中でものその存在は大きく、札幌麦酒(当時の社名)で生産されたビールは、その後「サッポロビール」の名称で全国的に知名度を上げ、今日も多くの人に愛飲されています。
日本で最も歴史のあるサッポロビール博物館とサッポロビール園開拓使館は、明治時代の貴重な建造物として北海道遺産にも指定されています。明治の面影を残す煉瓦造りの建物では、ここでしか飲めない貴重な「復刻ビール」を楽しむことができます。
写真: 【サッポロビール博物館】


4.札幌市民の憩いの場「大通公園」
大通公園は札幌市の中心部に位置し、大通西1丁目から大通西12丁目までの長さ約1.5キロメートル、面積約7.8ヘクタールの公園で、明治の終わりに本格的な公園整備を行い、100年以上の歴史があります。この大通公園では四季を通じて様々なイベントやお祭りが行われていますので、お勧めの催しをいくつか紹介します。
○2月 さっぽろ雪まつり
さっぽろ雪まつりは、昭和25年に地元の中・高校生が6つの雪像を大通公園に設置したことをきっかけに始まり、雪合戦や雪像展、カーニバル等を合わせて開催し、5万人の人出を集め予想以上に大人気であったことから、以後、札幌の冬の行事として定着していくことになりました。
昭和34年の第10回開催時には、自衛隊が雪像制作に参加し、2500人を動員して大規模な雪像造りに挑戦し、はじめてテレビや新聞でも紹介されたことから、翌年以降、本州からの観光客も増えて大盛況となりました。今では日本各地をはじめ、海外からも多くの観光客が訪れ、毎年約200万人もの観光客であふれかえる北海道で最も大きなイベントの1つとなっています。近年は大雪像をスクリーンにして映像投影を行う「プロジェクションマッピング」が登場し好評を博しています。
写真: 【さっぽろ雪まつり・大雪像とプロジェクションマッピング】

○6月 YOSAKOIソーラン祭り
札幌の街が新緑に染まる6月、大通公園や札幌の目抜き通りの市内各所がYOSAKOIの舞台に変わります。YOSAKOIソーラン祭りは、高知県の「よさこい祭り」をルーツに平成4年、よさこい祭りの「鳴子」と北海道の民謡「ソーラン節」をミックスして誕生しました。
YOSAKOIソーラン祭りの基本ルールはたったの2つ。(1)手に鳴子を持って踊ること。(2)曲にソーラン節のフレーズを入れること。
第一回は、参加10チーム1000人、観客20万人で始まったこの祭りは、踊りの斬新さと爽快感が共感を呼び、特に街をステージに踊ることが魅力であり、北海道内はもちろん、日本全国さらには海外にも広がり、今では約240チーム2万4千人の参加者と約206万人の観客が集う祭りへと成長しました。色とりどりの衣装を身にまとい、鳴子を手にした踊り子たちが、ソーラン節の「ヤーレンソーラン♪」のメロディーに合わせて躍動し、そのあふれるエネルギーで街中が祭りの熱気に包まれます。
写真: 【YOSAKOIソーラン祭り】

○7月~ ビアガーデン
夏の恒例イベントとして一番盛り上がるのは「さっぽろ大通ビアガーデン」です。昭和36年から続いているイベントです。開催期間は例年7月下旬から約1か月間、座席数は1万席超と国内最大級のビアガーデンです。大通公園の中にサッポロ、サントリー、アサヒ、キリンの各ビール会社などのビアガーデンが出現します。世界のビールや本場ドイツのビール区画もあり、ビールの飲み比べが楽しめます。区画ごとにテーマが異なる雰囲気や提供する飲食の違いもあり、緑豊かな大通公園で北海道の旬の食材を味わいつつ、札幌市内や近郊の工場から直送されるビールを堪能できる開放感は格別です。
写真: 【さっぽろ大通ビアガーデン】

○9月 さっぽろオータムフェスト
さっぽろオータムフェストは、実りの秋を祝い、味覚を楽しむ食の祭典です。食の宝庫・北海道で食べたいグルメはここでコンプリートできます。大通公園には全7会場あり、それぞれの会場で異なるコンセプトの下、道産小麦にこだわったラーメン、おいしい北海道のお肉、スープカレー等の札幌を代表する食、道内市町村の特産品、北海道の原料、醸造にこだわるワインや清酒、ご当地カクテルなど、延べ約300店舗ものお店が勢揃いし、約200万人が来場する国内最大級のグルメイベントです。札幌の9月は湿度も低く真夏日になることもほぼなく、1年で一番過ごしやすい気候です。カラッと爽やかな秋空の下でお気に入りの会場を見つけて過ごしてみてはいかがでしょうか。
写真: 【さっぽろオータムフェスト】


5.おわりに
令和12(2030)年度末に、北海道新幹線が函館から札幌まで延伸し、開業予定となっています。これまで鉄路で東京-札幌間は7時間44分かかっていたところ5時間1分で、函館-札幌間は3時間30分のところ1時間13分で移動が可能となり、ビジネスや観光などあらゆる面で利便性の向上が期待されます。さらには、現在、同年の冬季オリンピック開催に向けた招致活動が行われています。新幹線の札幌延伸やオリンピックの開催決定が今後の札幌市の更なる発展の起爆剤になることが期待されます。
○参考文献
概説札幌のあゆみ、札幌地名考、札幌市ホームページ、YOSAKOIソーラン祭りホームページ、サッポロビール120年史

○写真提供
・札幌市役所
・一般社団法人YOSAKOIソーラン祭り組織実行委員会



世界遺産の交差点「新宮市」

大阪税関和歌山税関支署新宮出張所長 水口 省二


1.はじめに
【空青し・山青し・海青し】新宮市出身の詩人・作家である佐藤春夫(昭和39年没)の『望郷五月歌(ぼうきょうごがつか)』の詩の一節です。この7月、大阪府からここ和歌山県最南東部の新宮市に異動してからは、日々この詩を実感しています。空気がきれいなためなのでしょう。空、山、海がくっきり見え、美しいのです。
こんにちは。財務省大阪税関和歌山税関支署新宮出張所 所長 水口と申します。
今回、当出張所(職員3人勤務)の概要を簡単に説明した後、管轄の和歌山県南部の名所旧跡等を一部となりますが紹介します。
写真: 当出張所の管轄区域図。和歌山県南部(新宮市及び東牟婁郡)を担当。
写真: 新宮市 王子ヶ浜。税関イメージキャラクター「カスタム君」とともに訪問。


2.大阪税関和歌山税関支署
新宮出張所
(1)大阪税関
大阪税関は、全国を9つの区域に分け設置されている税関の一つであり、その管轄は、大阪府、京都府、和歌山県、奈良県、滋賀県、福井県、石川県及び富山県の8府県に及びます。
大阪税関管内には、外国貿易のため特に指定された大阪港をはじめとする12の海港(開港)と3の空港(税関空港)があり、大阪税関本関のほか、本関直轄出張所2、支署8、支署出張所10の計21官署において、約1,500名の職員が輸出入貨物や外国郵便物の通関、密輸の取締りなどに従事し、秩序ある貿易の発展に努めています。

(2)新宮出張所
新宮出張所は大阪税関和歌山税関支署に属する出張所で、和歌山県新宮市の新宮港に所在します。
新宮港は、和歌山県の最南東部、熊野灘に面した三重県との県境に位置し、紀伊半島南部で唯一の「開港」(外国貿易を目的とする船舶が自由に出入りできる港として法令に基づき指定された外貿港)で、原木、木材チップなどが輸入されています。また、熊野地方の世界遺産登録を機に国際クルーズ客船の寄港が増加しております。
この新宮港を含め、新宮出張所は和歌山県のうち、新宮市及び東牟婁郡を管轄地として、社会の安全・安心を妨げる不正薬物や拳銃等の国内流入を防ぐため、海上保安庁、警察等と連携し、水際取締りを実施しています。


3.新宮市
新宮市は、熊野川流域から産出する木材の集積地として発展してきましたが、現在は卸・小売業やサービス業を中心とした第3次産業が、事業者数、雇用労働者数ともに第2次産業を凌いでおり、商業都市としての性格を持っています。
観光に目をやると、多くの名所旧跡がありますが、新宮駅を降りますと徐福公園が目に入ります(園内に徐福の墓碑あり)。徐福は、秦の始皇帝に命じられて、不老長寿の妙薬を探すため、この地に上陸したと伝えられています。徐福はその後も大陸に戻ることはなく、農耕や捕鯨、紙すきなどの技術を当地に伝えてくれたとのことで、今なお地元の人に慕われています。また、徐福の遺徳を偲ぶ供養式典として、熊野川河川敷で本年8/20(日)、4年ぶりに新宮花火大会が行われました。水上スターマイン、ナイアガラなど約6,000発の花火は迫力満点。私は、やけに今晩は街中に人が少ないと思ったら、ドンドンドンと花火の打ち上げが開始され、急いで見に行きました。市内外から約4万5,000人(主催者発表)が来場し、夜空に打ち上がる大輪の花火を楽しみました。
写真: 徐福公園。中国風の楼門が目を引く。
写真: 新宮花火大会。


4.熊野三山及び熊野古道
紀伊半島の南部は、古くから「熊野」とよばれて、都から見て隅っこながら、清らかな所として多くの人々から敬われてきました。
ここに祀られてきたのが、「熊野三山」とよばれる、本宮(熊野本宮大社)・新宮(熊野速玉大社)・那智(熊野那智大社および那智山青岸渡寺)の3社1寺で、いずれも熊野川や大きな岩、滝などの自然崇拝が起源であったとされています(補陀洛山寺(ふだらくさんじ)を含め3社2寺を熊野三山と説明されているものも見かけます。)。
今から1,000年くらい前(平安時代)になると、熊野は、神や仏のいるありがたい理想の世界と考えられるようになります。そのため修行するお坊さんだけでなく、天皇を退いた上皇や貴族も大勢、この世の幸とあの世の救いを求めてお参りするようになり、その熊野参詣道を「熊野古道」と呼んでいます。
600年くらい前(室町時代)からは、熊野三山の信仰は、地方の武士や庶民にも広まりました。多くの人々が熊野へ列をなす様は、「蟻の熊野詣」とまで言われたのです。
2004年(平成16年)7月、熊野三山及び熊野古道は、歴史的資産と、人々と自然の関わりの中で培われた文化的背景が高く評価され、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、日本で12番目の世界遺産に登録されました。
熊野古道は6つの路がありますが、熊野本宮大社を最初の目的地とし、ここから熊野川を下り、熊野速玉大社から熊野那智大社へと参拝するのが一般的だったといわれています。我が新宮市には6つの路のうち、4つ(中辺路の他、大辺路、伊勢路、大峰奥駈道の一部)が通っており、「世界遺産の交差点」といえます。
先日、私も東京の知人とともに、熊野古道・中辺路(大雲取越、小雲取越)を1泊2日で歩き、悠久の時を体感、身を浄化し蘇りました。なお、道中の昼食はやはり、熊野を代表する郷土料理の「めはり寿司(高菜の葉の漬け物でご飯を巻いたもの)」そして「さんま寿司」で決まりです。
写真: 熊野古道図(渡瀬温泉の観光案内看板)
写真: めはり寿司。さんま寿司。


5.那智勝浦のマグロ
和歌山県南東部に位置する天然の好漁港「勝浦漁港」は、はえ縄漁法による「生まぐろ水揚げ日本一」を誇ります。市場には、近海まぐろが早朝から所狭しと並べられ、仲買人たちの声が響き活気に溢れています。2F展望スペース「TSUNAGOOD(つなぐ)」からは競りを見学することができます。
写真: 勝浦漁港(魚市場)。まぐろのセリ様子。
写真: 生まぐろ丼。超新鮮、もちもち。


6.紀伊半島大水害
熊野の大自然は、ある時には豊かな実りを、しかし、またある時には猛々しく災害をもたらします。2011年(平成23年)に紀伊半島を襲った台風12号の大雨等は、過去に類をみないほどの大災害(河川氾濫、土砂災害等)をもたらし、尊い人命や大切な財産を奪っていきました。
道の駅「瀞峡街道(どろきょうかいどう)熊野川」の駐車場を訪れると、「紀伊半島大水害の慰霊碑」があり、また、「最高水位を表すポール」が立っており、立っている場所が当時は水深-8.27mの場所だったと想像すると怖くなり、自然のおそろしさを改めて感じるとともに、当時の記憶を風化させることなく、防災・減災の意識を後世へ伝えていく必要があると実感させられました。
なお、令和6年秋頃の開通を目指し、新宮紀宝道路の事業がすすめられており、熊野川河口部には熊野川河口大橋が建設中です。この道路は観光、産業、普段の生活に使用するのはもちろん、災害時の交通の確保を目的としています。
写真: 最高水位を表すポール。
写真: 熊野川河口大橋が建設中。


7.先人たちを偲ぶ
本州最南端の潮岬の先端に広がる大芝生広場には休憩所「潮風の休憩所」があります。
館内の展示スペースには、明治から昭和にかけて当地域の人々がオーストラリアの木曜島へ白蝶貝(しろちょうがい)を求めて移住した歴史に関する資料が展示されています。
白蝶貝は、高級ボタンなどの材料にもなる美しい貝(貝殻部分を利用)。この白蝶貝を潜水で採取するのは、当時「世界一危険な職業」とも言われていたほど過酷なものでした。熊野地方の若者たちが、人生の夢を求めて渡った遠い新天地。迫害や戦争など多くの苦難に見舞われながらもたくましく生き抜いた移民たちの暮らしを、展示品から感じることができます。
写真: 白蝶貝を潜水で採取する際に装着する潜水具。


8.結びに
以上、税関新宮出張所の説明の他、和歌山県南部の名所旧跡等を紹介いたしましたが如何でしたでしょうか。朝の連続ドラマ「らんまん」の主人公「牧野富太郎博士」も植物採集に来られたほどの自然豊かな当地方に少しでも興味を持っていただければ嬉しいです。また、この熊野地方の風土からなのでしょうか、優しい方が多いように思います。例えば、見晴らし最高の神倉神社において多くの観光客に対し笑顔で『素晴らしい風景でしょう! あなたのスマホで写真撮ってあげましょうか?』と話しかけている地元愛溢れる年配男性や、別の名所で私が帰り道に迷いキョロキョロしていたら、脇の建物の2階から地元住民が話しかけてきて、帰り道を教えてくれたりして、本当に優しい人ばかりです。
『♪君を待っているよう~~~、ジョ、ジョ、ジョ、ジョー~シン♪』 和歌山県を拠点に活動するJ-POPバンド・ウインズ平阪の全国区CMソングを口ずさみながら、自然や文化に触れに、ぜひ、つれもて(方言・一緒にの意)お越しください。人が優しい土地、和歌山そして熊野へ。
以上