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路線価でひもとく街の歴史

第44回 「富山県高岡市」

郊外化の一方で進む山町筋の街なみ再生


城下町を商工業拠点へ転換した街
高岡市街は前田利長が開いた城下町に遡る。利長は初代加賀藩主で利家に次ぐ前田家2代当主である。開府は慶長14年(1609)だが、肝心の高岡城は慶長20年(1615)の一国一城令で廃城。廃城で住民が流出し寂れるところ、3代当主利常は商工業拠点へ再生を図る。台地にあった城跡は、有事の軍事転用を念頭にあえて堀を埋めずに藩の米蔵や塩蔵を配置。低地にあった城下町には魚問屋や塩問屋を誘致した。
北前船が寄港する伏木湊を外港に持ち、「加賀藩の台所」と称されるほどに繁栄した高岡の町衆文化のシンボルが高岡御車山(みくるまやま)祭だ。毎年5月1日に開催される関野神社の春季例大祭である。京都祇園祭をはじめ、平成28年(2016)にユネスコ無形文化遺産に登録された「山・鉾・屋台行事」の33件の1つである。高岡の御車山は祇園祭の山鉾に似ているが台車の上に鉾ではなくパラソル状の「花笠」が乗る。通町、御馬出(おんまだし)町、守山町、木舟町、小馬出(こんまだし)町、二番町が町名と同じ名前の御車山を各1基保有。一番町、三番町および源平町の3町が一番街通という御車山を共有し、祭の日に旧市街を曳き回す。先導役を担う坂下町に御車山を保有する9町を加えた10町は山町と呼ばれた。
伝統工業では高岡銅器など鋳物業が有名である。前田利長が、街から10km南郊の戸出西部金屋(といでにしぶかなや)から鋳物師を誘致し、千保川の北岸に土地を与えて住まわせたのが発祥だ。一画は鋳物師の出身地にちなみ金屋町という。千本格子の町家が並ぶ風景が特長で、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている(図1. 金屋町の街なみ)。

山町筋の問屋・銀行街
明治16年(1883)に石川県から富山県が分離。高岡は富山県に属することになり、経済都市としての独立性は高まった。
御車山祭と縁が深く山町と呼ばれた10町の界隈を山町筋(やまちょうすじ)といい、特に北陸街道沿いの小馬出町、木舟町、守山町が賑わった。問屋や銀行が集積し、商都の中心街を形成していた。明治17年(1884)の富山県統計書によれば、高岡市街の最高地価は小馬出町だった。1反平均地価は317円で、県庁があった富山の東四十物町(355円)に比べても引けを取らなかった。
明治18年(1885)、山町筋に商品市場の中心となる高岡米穀取引所ができた。明治22年(1889)に高岡銀行、明治28年(1895)には高岡共立銀行が設立された。守山町にある赤レンガの建物は、大正3年(1914)12月に竣工した旧高岡共立銀行の本店である(図2. 旧高岡共立銀行本店)。鉄骨レンガ造銅板葺2階建で設計は清水組(現・清水建設)の田辺淳吉。伝統的建造物に特定されている。赤レンガに白い石のアクセントが東京駅の赤レンガ駅舎を彷彿させるが、それもそのはず、東京駅を設計した辰野金吾の監修だ。
大正9年(1920)、高岡共立銀行は高岡銀行と合併し新銀行を立ち上げる。新銀行の商号も高岡銀行とし、本店を赤レンガ行舎に置いた。その後、昭和18年(1943)、1県1行主義の方針に従って、富山市本店の十二銀行および富山銀行、砺波市が本店の中越銀行と合併して北陸銀行となった。赤レンガ行舎は北陸銀行の高岡支店となる。戦後、昭和39年(1964)に北陸銀行高岡支店は片原町交差点の角に移転。赤レンガ行舎は昭和29年(1954)に創業した富山産業銀行(現・富山銀行)が引き継いで本店とした。その富山銀行も令和元年(2019)に高岡駅前に移転。赤レンガ行舎は高岡市が譲り受けた。

御旅屋通と百貨店
大正15年(1926)の大蔵省「土地賃貸価格調査事業報告書」を見ると、当時の最高賃貸価格は木舟町になっていた。山町筋に変わりないが、駅前正面からまっすぐ延びる道路と交差する地点に移った。昭和に入るとこの道路は都市計画に従って拡幅され「昭和通」と名付けられた。
高岡駅が開業したのは明治31年(1898)1月2日である。砺波地方と伏木港を結ぶ中越鉄道の駅だった。中越鉄道は富山県で初めて開業した鉄道で、現在のJR城端(じょうはな)線および氷見線である。高岡駅の開業前は2kmほど南、現在の新高岡駅の近くの「黒田」に仮停車場が置かれていた。その後、駅の場所が決まった後で高岡駅が開業したわけだが、所在地はは射水郡下関村で高岡市ではなかった。高岡市になったのは大正14年(1925)に編入されて以降だ。高岡駅が開業した年、官営鉄道北陸線の高岡駅が隣接して開業した。北陸線は敦賀から北に向かって整備が進められており、高岡駅の開業前は金沢駅が終点だった。
駅と山町筋を結ぶ広幅道路「昭和通」の開通は、山町筋に対する駅の吸引力を強めることになった。昭和12年(1937)9月、中心街から坂を上った台地にある御旅屋(おたや)通に、高岡初の百貨店ができた。鉄筋コンクリート5階建で、2年前に金沢で百貨店を創業した丸越の2店目である。昭和18年(1943)、丸越と同じく金沢に本店を構える大和百貨店と合併。丸越高岡店は大和高岡店となった。
既存店との競合を避けて百貨店が開店した頃の御旅屋通は郊外の位置づけだったが、戦後はこちらが中心街となった。昭和31年(1956)の路線価図をひもとくと、当時の最高路線価地点は御旅屋通のうち図3. 市街図の(1)の部分、大和百貨店の前にあった。ちなみに御旅屋とは鷹狩や領内の視察の際に訪れる藩主の宿泊施設だ。ホテルニューオータニ高岡の前に案内板がある。
中心街の移転には、昭和通(現・末広町通)に開業した路面電車の影響もある。路面電車は現在の万葉線だ。万葉線は昭和23年(1948)4月に地鉄高岡駅と伏木港駅の間で開通した富山地方鉄道伏木線を前身とする。現在のJR氷見線とほぼ並行して走っていた。3年後、途中の米島口駅からY字に分かれ新湊駅(現・六渡寺(ろくどうじ)駅)に至る新湊線が開通。高岡軌道線となった。昭和34年(1959)に加越能(かえつのう)鉄道に経営が移り、昭和46年(1971)に新湊線が廃止され現在の路線となった。なお軌道線は六渡寺駅が終点だが鉄路は越ノ潟駅まで続いている。この区間は鉄道事業法の鉄道路線で富山地方鉄道の射水線を前身とする。
万葉線を最後にわが国では長らく路面電車の新設がなかった。今年8月、宇都宮市で開業した「宇都宮芳賀ライトレール線」が実に75年ぶりの新線である。

地下街を擁する地方都市
昭和38年(1963)、最高路線価地点が駅前に移った。詳細には図3の(2)で示した路線である。昭和48年(1973)から「末広町毛利カバン店前駅前通り」で、図3の(3)の部分だ。
往時の勢いといえば高岡駅前には北陸唯一の地下街がある。昭和44年(1969)12月に開業した。面積は4,244m2で渋谷地下街(しぶちか)の4,676m2に比べ一回り狭い。国土交通省が平成25年(2013)に調べた地下街一覧表を見る限り、高岡市は本格的な地下街を擁する都市で最も小さい。
昭和40年代、駅前に3つの大型店が登場した。昭和40年(1965)に長岡市本店の丸大百貨店が進出。昭和46年(1971)にユニー、その翌年には金沢市本店のいとはん(後に北陸ジャスコ)が開店した。商業中心地は御旅屋通から駅前に拡大した。
もっとも高岡の場合、昭和50年代から厳しい立地間競争があった。競合の1つが駅の南側である。昭和51年(1976)10月にダイエーが進出。北陸地方の出店第1号だった。もう1つはバイパス沿線である。郊外大型店のさきがけが昭和58年(1983)に開店したジャスコ高岡店(現・イオン高岡店)だ。1,100台の駐車場は当時の県内最大規模だった。富山県は自動車の普及ペースが速く、世帯普及率の都道府県別ランキングでは昭和44年(1969)から10位以内を維持していた。世帯当たり1台を超えたのは平成元年(1989)である。

高速道路の吸引力がつくる新たな中心
平成5年(1993)、駅の南側に高岡サティが開店した。1,250台の駐車場とシネコンが話題になった。車のアクセスは郊外店に匹敵し、南側とはいえ駅前立地という強みは駅北側の既存店の脅威となった。駅北側の対応策は2つに分かれた。平成6年(1994)、御旅屋通の大和高岡店は隣地で店舗を3倍にした。活性化の切り札として整備された再開発ビル「御旅屋セリオ」の核テナントとなった。駅前のユニー高岡店は撤退を選択し、御旅屋セリオが開業した年に閉店した。
郊外大型店の攻勢も激しかった。平成8年(1996)アルプラザ小杉が開店。その翌年は自動車の世帯普及率が都道府県で2位となった。それまで高岡の中心市街地で買物をしていたケースでも、少なくとも日用品については郊外店で間に合うようになった。業態が郊外店と競合する上、余力も失っていたダイエーは平成11年(1999)に閉店を余儀なくされた。
平成14年(2002)、イオン高岡SC(現・イオンモール高岡)が高岡駅の南郊2kmに開店する。富山県内で最大の規模だった。影響を受けたのは高岡サティである。平成21年(2009)に閉店することになった。
高岡の場合、郊外化をさらに進めた変化が2つあった。1つは、高岡から名古屋まで中部地方を縦断する東海北陸自動車道が平成20年(2008)に開通したことである。東西軸の北陸自動車道と小矢部砺波JCTで交差する。富山県全域に石川県や岐阜県北部を取り込む広域商圏ができ、十字路の結節点となる高岡エリアがその中心機能を担うようになった。平成27年(2015)には高速道路ICの近くに3つの大型店ができた。コストコホールセール射水倉庫店、イオンモールとなみ、三井アウトレットパーク北陸小矢部である。
もう1つが北陸新幹線の開業である。新幹線「新高岡駅」がイオンモール高岡の北側にできた。

最高路線価は郊外の新・駅前に
新高岡駅が開業して5年後の令和2年(2020)、最高路線価地点が新高岡駅の北側「京田県道57号線」に移った。人口10万人台後半の都市で最高路線価地点が郊外に移った例は珍しい。この年は北海道釧路市も最高路線価地点が郊外に移った。
高岡の場合、高速道路と新幹線の両方の影響がうかがえる。県内から広く集客するイオンモール高岡は高速道路ICに通じるアクセス道の立地である。また都市間鉄道のターミナル機能が高岡駅から移った点も見逃せない。北陸新幹線の開業に伴い旧北陸本線の富山県内の区間は第三セクター鉄道「あいの風とやま鉄道」に移管された。大阪発の特急列車は手前の金沢駅が終着となった。旧北陸本線が近郊路線となり、新高岡駅の周辺が機能としては「駅前」である。
実際、新高岡駅の周辺一画に新たな都市が形成されている。イオンモール高岡の南側には、平成6年(1994)に来た済生会高岡病院がある。高岡医療圏の急性期医療を担う基幹病院の1つである。その隣に高岡市サッカー・ラグビー場がある。ターミナル駅を中心にそれぞれ中枢レベルの商業、医療、スポーツ施設が立地する一画はまさに郊外型の新都心の様相を呈している。

郊外化で進んだ街なみ再生
令和元年(2019)8月、大和高岡店がサテライトショップを残して閉店。御旅屋通のアーケード商店街や駅前に至る大通りはシャッターを閉じたままの店が多く、閑散とした印象は否めない。
とはいえそうした印象と住民の豊かさには関わりがない点には留意が必要だ。金屋町に端を発した鋳物産業は戦後、アルミニウム工業に展開した。三協アルミニウム工業の創業者の竹平政太郎記念室が金屋町の町家(KANAYA)の2階にある。同社の前身の「竹平着色所」の創業地だ。後継の三協立山は当地を代表する企業だが、その他にも高岡にはトナミホールディングスなど上場企業の本社が6つある。地元に根を張る大企業の本社が多いことが地方創生では強みとなる。
かつて中心街だった山町筋は赤レンガの銀行をアクセントに土蔵造りの町家が軒を連ねる落ち着いた街なみとなった(図5. 山町筋の街なみ)。金屋町と同じく重要伝統的建造物群保存地区にも指定され、いまや貴重な観光資源である。商業、医療などの中枢機能は郊外に分散し、ターミナル駅も移転した。かつての中心街は確かに「空洞化」したが、視点を変えれば閑静な街になった。高度成長期に産業化される前の街なみに戻し、住まう街あるいは観光資源に再生する次の一手もある。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図4. 広域図