前理財局長 齋藤 通雄/東京大学 服部 孝洋
本インタビューの目的
我が国の国債市場の重要な制度は、主に2000年前後に形作られています。もっとも、その際の議論については意外と文献がないのが実態です。そこで、本稿では、国債を専門とする経済学者である服部が、国債の制度改正に深く携わった齋藤通雄氏にインタビューし、それを活字化することで、2000年前後の制度改正の歴史を将来世代に残すことを目的にしています。
インタビューそのものは5時間以上に及んだため、これから2回にわたり、インタビューの内容を紹介いたします。本インタビューの活字化等にあたり、東京大学経済学部の安斎由里菜さんと新田凜さんの協力を得ました。
服部 最初に、財務省に入省された経緯からお話しいただけないでしょうか。
齋藤 私は、学部時代、法学部の第3類という政治コースに所属しており、ゼミでは政治過程論という、政策の意思決定プロセスを研究するゼミに入っていました。日本の政策がどういうプロセスを経て決まるのかについて興味があったんです。就職をする時に、民間企業も回っていたんですが、官庁訪問をしたところ、当時の大蔵省の採用担当者が採用してくれることになりました。私が就職したのは今から36年前であり、今とは大分違っていて、霞ヶ関の影響力がより大きい時代でした。その中でも大蔵省であれば、予算や税などを通じて、自分が興味のあった日本の政策の決定プロセスを、裏側から見られて面白いかなと感じました。そういったことが、自分が大蔵省に入った動機です。
実は就職する時も、30年以上、公務員として勤めあげるとは正直あまり思っていませんでした。就職して、政策の決まるプロセスをある程度裏側から見られたら、研究者になるか、あるいは政治評論家じゃないですけど、文筆業とか、いずれにせよ政治について研究したり、物を書いたりといった仕事に行ってもいいかなと思っていました。ですが結局37年、定年までいたという感じでしょうか。
服部 1987年に入省後、最初の配属は主税局調査課ですね。
齋藤 振り出しはそうですね。私が就職して間もなく、中曽根内閣の売上税が廃案になりました。そこから消費税導入にいたるまでの期間が、私が見習いとして1、2年生を過ごした時期でした。そういう意味では、まさに非常に大きな税制改革を裏側から見ることができました。
入省直後は、1年生として、会議のメモ取りみたいなことも仕事の一部でしたので、政府や自民党の税制調査会に行って、どういう議論が行われているのか一生懸命メモを取って、というようなこともやっていました。なので、就職する時に考えていた、政策が決まるプロセスを見てみたい、という希望は入省して最初の頃から割と満たされていて、やりがいがあったし、楽しかったですね。
ただ、当時のメモ取りは、今みたいにICレコーダーがあって、パソコンで自動で文字に起こしてもらえるみたいな時代とはわけが違うので、会議中はひたすら手書きでメモをとって、戻ってきてまたそれを手書きで一生懸命綺麗にメモに起こすという時代でした。例えば税制調査会の会議が夕方にあると、戻ってきてメモ起こしをスタートするのが夜で、全部メモを起こし終わると夜中です。そこから上司にチェックをしてもらった上で、さらにそれを関係者に配る。それも、今だったらメールか何かで添付して共有すれば終わりますけど、当時はそんなものは何もないので、ひたすらコピーを取って配って回るということをしていました。起こしたメモを配り終わると、当然電車がないような時間になるという、体力的にはハードな生活でしたけど、中身はやりがいがあり、そういう意味では楽しかったですね。
服部 その後1989年にドイツに留学されますよね。なぜドイツを選ばれたのでしょうか。
齋藤 父の仕事の関係で、子供の頃にちょっとドイツに住んでいたことがありました。幼稚園に上がる前の年齢だったので、全然記憶にはないんですが、子供の時のアルバムを見ると、ドイツで撮った写真があるので、なんとなくドイツに行ってみたいなと思っていました。私ぐらいの世代、当時の大蔵省に入った公務員だと、就職して三年目というのが留学に出るチャンスで、どこの国に行きたいかという希望を一応出せるんですが、大体みんな英語圏ですよね。アメリカ、イギリスを希望するんです。私も第一希望はアメリカだったんですけど、今お話したような事情があって第二希望でドイツと書いたものですから、第二希望でドイツなんて書く人は他にいなかったので、じゃあお前はドイツに行け、という感じになりました。
服部 その後、フランクフルトに3年いらっしゃいますよね。最初の海外が長かったということですか。
齋藤 そうですね。直接留学からフランクフルトに行っているわけではなくて、留学の後一回日本に帰ってきて、それからフランクフルトに行きました。
写真:齋藤通雄 前理財局長
財投改革時に国債課に異動
服部 海外から帰ってきて、まさに本題である国債課に1998年から2001年にいらっしゃったわけですね。個別のことの前に、まず当時の国債課がどういう感じだったのかをお聞きしたいです。
齋藤 そうですね。まず今の財務省の局には、大臣官房という全体の取りまとめや調整をやっている大臣直轄部隊のようなグループがあります。民間企業でいうと総務みたいなものです。それ以外に局が5つありまして、予算を担う主計局、税制を担う主税局、関税制度を担う関税局、インターナショナルなことをやっている国際局、あと理財局です。
服部 理財局の国債課だと今2つの課があり、企画を担当する「国債企画課」と、入札などを担う「国債業務課」があります。しかし、当時は国債課だけで1つの課だったということですね。その当時の国債課がどういう感じだったかというのは、今ではほとんど遡って知ることができないのです。マスコミとかでは、資金運用部ショックが、国債課が2つの課に分かれた契機だとされています。
齋藤 はい。資金運用部ショックは、1998年ですね。
服部 国債課1つだけだった当時、職員の数は、今よりも少なかったのでしょうか。
齋藤 今だと企画課と業務課2つあわせて70人くらいいると思いますけど、その約半分という感じですね。国債課一つで30人ちょっとだったと思います。
服部 それは、当時は国債の発行が少なかったから、職員数が少なかったということでしょうか。
齋藤 それは、その後に国債管理政策の改革をやっていくきっかけというか、背景になる部分でもあります。理財局は、企業の財務経理部門が担当しているような仕事をやっています。財務省は財務という名前がついているくらいだから財務をやっていて当たり前だと思うかもしれませんが、理財局の仕事は大きく、資金調達、キャッシュマネジメント、国有財産の管理、それから財政投融資になります。
まず、国債の発行に代表されるような資金調達ですよね。それから、国庫課という課があって、国のお金の資金繰り、キャッシュマネジメントと呼ばれるようなことをやっています。資金調達をして、手元資金をちゃんと管理して、お金を払うべきタイミングでちゃんと払えるようにしておく、あるいは無駄な手元の現金をできるだけ抱えないようにする。これは国であっても企業であっても財務部門の大事な仕事の一つですけど、このキャッシュマネジメントというのも理財局の仕事です。
国有財産の管理については、債務・負債の管理だけではなくて、資産の側の管理も理財局の仕事になっています。国の財産は大きく分けると2つあり、1つは不動産です。国有地と国有地に建っている建物、この役所の建物もそうですし、あるいは公務員の宿舎もそうです。そういった不動産という国の財産・資産の管理に加え、もう1つ大きいのが、政府が持っている有価証券、株などの管理です。国は、いわゆる政府系金融機関などに出資をしており、政府は出資者になっているわけです。昔国営企業だったものが民営化されたケースもそうです。例えばNTTとかJT、日本郵政など、国がある種直轄でやっていたものが民営化されて企業になっているわけですけど、そういうところの株は1/3ぐらいずつは政府が持っているんですね。そういう政府の株式の持分の管理をしたり、あるいは売るタイミングがあったら売ったりというようなことも理財局の仕事です。
理財局の仕事として財政投融資もあります。今の仕組みでは、まず財投債という国債の一種があって、これは財政投融資特別会計が発行する国債のことです。これを出して資金調達をし、調達した資金を政府系金融機関とか、独立行政法人や地方自治体に貸し出すということをやっています。実は大企業も似たようなことを、大企業の財務部門でやっています。グループ・ファイナンスと呼ばれるものです。ホールディングスの親会社が資金調達をして、グループ内の子会社に対してお金を貸しつける。親会社の方が当然大企業なので、信用力が高いから、より低い金利で資金調達ができるわけです。だから親会社が調達をしてあげて、子会社に必要なお金をファイナンスしてあげる、みたいなことをやるわけです。財政投融資は、国、地方公共団体、パブリックセクターの中でやっている、ある種のグループ・ファイナンスという風に考えることもできます。これも理財局の仕事の一つです。
もう一度整理すると、資金調達、キャッシュマネジメント、国有財産の管理、さらに、財政投融資。これが理財局の仕事です。理財局の歴史を振り返ると、実は国有財産の管轄は、局が別だった時代があるんですね。
服部 何という局の管轄だったのでしょうか。
齋藤 「国有財産局」です。私が入った時には既に今の形の理財局でした。ただ、なんで国有財産局の話をしているかというと、当時の理財局はどんな感じだったのかという話、あるいは国債課の位置づけみたいな話に繋がってくるんです。理財局には、局長の下に次長が2人いるんですけれど、その2人の次長の担当は、俗に「旧理(旧理財局)担当次長」といって昔からの理財局を担当する次長と、国有財産の担当次長という形で、当時は2人に分かれていたんです。旧理財局担当次長は何を見ていたかというと、財政投融資と、国債発行の資金調達、あとキャッシュマネジメントです。
実はこの中では、財政投融資をやっている部署の方が優位にあったんですね。なぜかというと、さっきお話ししたように、財政投融資というのはパブリックセクターの中のグループ・ファイナンスのようなものです。「第2の予算」という言葉がありますね。税を財源にして主計局が編成する予算の他に、財政投融資がありました。お金を渡す先は政府系金融機関のほか、当時はまだそれこそ小泉政権の特殊法人改革前なので、道路公団とか住宅金融公庫とか、そういう所も全部財政投融資のお金で回っていたんです。
したがって、政府系金融機関だけではなくて、道路公団にお金を貸して高速道路を作るとか、あるいは新幹線の建設資金になったり、住宅金融公庫を経由して、いろんな住宅を建てるなど、そういう公共事業の原資として財政投融資が使われていました。これが財務省が各省庁に対して、色々なパワーを発揮する一つの源になり得ていたわけですよね。なので、旧理財局の中でいうと、資金運用部で財政投融資をやっている人たちは、割と主計局の経験者も多く、財務省の仕事で言うと、より本流に近いという印象でした。
服部 「資金運用部」というものがあったということでしょうか。
齋藤 理財局の中にある課の名前も今と違って、今だと財政投融資をやっている部署に「財政投融資総括課」というのがあります。そこの下に財政投融資の計画官という、どこにいくらお金を貸すかみたいなことを決める課長クラスの担当者がいます。当時、財政投融資制度改革の前だと、財政投融資の部署は資金一課、資金二課、地方資金課という三課体制で、資金運用部資金という言い方をされていたんですよね。それは、今と財政投融資の仕組みがそもそも全然違っていて、財政投融資制度改革の前なので、郵便貯金で集めたお金、あとは国民年金の原資、公的年金の原資、それが資金運用部に預託されました。ゆうちょとか年金で、もともと国民から預かっているお金が、大蔵省資金運用部というところに預けられて、そこからさっきお話ししたみたいな、特殊法人とか政府系金融機関に貸し付けられるという仕組みだったわけです。それをゆうちょや年金も自主運用しましょうね、その代わり、財政投融資の資金は、財務省が自分で国債(財投債)を発行しましょうというふうに切り替わりました。財政投融資改革(財投改革)です。
服部 「資金運用部」という部があると思っていましたが、具体的には資金一課、資金二課、地方資金課などが担っていたのですね。お話を伺っていると、国債課に異動されたタイミングはちょうど財投改革が議論される中だったわけですね。
齋藤 私は1998年の夏に理財局の国債課長の補佐になりました。1998年は、タイミングでいうとまさに財投改革の頃です。資金運用部ショックと言われる国債の暴落・金利の急騰が起きたのもその時です。なぜ資金運用部ショックという名前になったかというと、財投改革前は、さっきお話ししたように、資金運用部には、ゆうちょとか年金がお金をいわば預けてくれるというか、受け身でお金が入ってきていて、それを道路公団や住宅金融公庫、特殊法人、地方自治体に貸したりしていました。その中でもどちらかと言うと、ゆうちょ・年金から入ってくるお金のほうが、特殊法人などに貸すお金よりも多かったので、手元に余裕資金があったわけです。その余裕資金で、マーケットで国債を買う、あるいは国債発行当局から、理財局の中同士なのですが、直接引き受ける「運用部引受」がなされていました。つまり、資金運用部が余裕資金で国債を引き受けてあげるということをやっていたわけです。
ところが、財投改革の後は、今まで入って来ていたお金がもう入ってこなくなるので、今までみたいに余裕資金で国債を買うみたいなことが当然できなくなるわけです。むしろ財政投融資の人たちは、自分たちが国債を出す立場になっていくので、そういう事もあって、もう国債は資金運用部では買えませんよという話になるわけです。でも、そのことをマーケットはちゃんと予想出来ていませんでした。「資金運用部がもう国債を買わなくなるらしい」というのが、マーケットの人たちにとってサプライズになり、それが結局金利の上昇に繋がりました。それが1998年の12月のことですね。なので、着任して半年で資金運用部ショックが起きたということです。
写真:服部孝洋 特任講師
1998年時点の国債課
服部 当時の国債課はどういう状況だったのでしょうか。
齋藤 昭和50年(1975年)代から平成になるくらいまでの間、新しい年限の国債をどんどん出しています。その時期に何が起きていたかというと、まさに昭和50年代に、建設国債だけでは国債の発行が足りなくなって、赤字国債・特例公債を出さないといけなくなりました。国債の発行額が増えていく中で、国債発行当局が新商品を次々と導入しながら、増える国債をどうやって円滑に発行するかを工夫していた時期です。その後平成になって、バブルが来て景気も良くなり、一時期赤字国債も出さなくて済んだりもしていたので、国債発行当局の苦労みたいな期間は一段落していました。それが平成一桁くらいの時代です。私が国債課の補佐に着任した平成10年(1998年)の夏は、橋本龍太郎総理の時代です。橋本内閣は、財政健全化を掲げていた内閣だったので、国債をそこまで出そうということにはなっていませんでした。さっきお話したように、資金運用部はまだ余裕資金があり、国債を運用部で引き受けたり買ったりということができていたので、理財局の国債課の仕事はそこまで大変ではないだろうと思われていたのが1998年の夏だったんですね。
ところが、色々状況が変わっていきました。一つは橋本内閣から小渕内閣に政権交代があり、小渕恵三首相になって財政運営のスタンスががらっと変わったことです。景気が悪い中で、国債を増発して景気を財政で支えるという方向になり、それこそ補正予算で国債10兆円増発みたいなことになっていきました。他方で、財政投融資の方は、さっきお話しした財政投融資改革をまさにやっていこうとしていて、10兆円も増える国債を、資金運用部の財政投融資の余裕資金で受け入れることはできませんとなりました。「10兆円増発する国債は国債課が自分たちで工夫してなんとか捌いてください」みたいな状況になりました。そこから国債課が、ではどうやって自分たちで国債の発行を工夫していこうかということを考えるという時期に入っていく、そういうタイミングでした。
服部 その時は課長補佐でいらっしゃったんですよね。
齋藤 次席補佐です。当時の国債課は、総括補佐が課全体の取りまとめと、法律改正・制度改正が必要なときの法令担当をやっていました。私が座っていた次席補佐は、企画といわれる国債の発行計画全体を作る仕事と、あとは実際の国債の発行の日々の入札の担当でした。だから、いまの企画課と業務課に分かれているものの両方を1人でやっていたわけです。
服部 次席補佐を2年やられたのでしょうか。
齋藤 2年ですね。
服部 では当時は、入札も当然見ていて、国債発行計画もやっていたということでしょうか。
齋藤 はい。でも、両方を1人で担当するというのも、それはそれで合理性があったんです。国債発行計画を作るときは、何年物の国債でいくら出すのかということを考えます。つまり年限別の配分をどういう風にするか、ということですが、これが国債発行計画作りの肝の部分ですよね。年限によって買い手の投資家層がある程度変わってくる中で、それぞれの年限の需要と供給のバランスを見ながら、増発しないといけない時に、何年物をどれくらい増やそうかということを考えます。そうすると、入札担当として毎月実際に入札をやっていると、「この年限はまだもう少し増やせる余裕があるな」とか、「この年限はもう結構パンパンだな」とかが分かるので、そういう意味では入札をやっている人間が計画を作るというのはすごく合理性があったと思うんです。
服部 市場参加者とのコミュニケーションについて、当時と今との違いはありますか。
齋藤 今は入札をやるときに、プライマリーディーラー制度という仕組みがありますけれども、当時はそれができる前でした。なので、入札の前日に、入札に参加してくれる証券会社、大手の銀行、そういう人たちに対して全部で30社くらいに手作業でヒアリングをしていたと思います。入札の前の日に職員が手分けしてヒアリングをして、明日の入札にニーズがありそうかどうかを確認します。実際入札をした後に、落札額が多かった金融機関に対して、今回たくさん買った理由はなんですか、といったこともヒアリングする。制度の有無こそ違いますが、そういうコミュニケーションは、当時も今も基本的にはあまり変わっていません。
服部 大きな違いでいえば、現在の方が、会議体などがしっかりしているということですね。
齋藤 そうです。市場との対話という点で作られた会議や懇談会は、私が最初に国債課に着任した頃にはなかった会議です。プライマリーディーラー制度自体が元々なかったというのもありますが、プライマリーディーラーとの会合みたいなものもなかったし、投資家、保険会社とか銀行とかアセマネとの懇談会もなかった。こういう会議体をそれぞれつくって整備していき、市場関係者との定期的な意見交換の場を作っていったのが、2000年前後くらいからの市場改革の1つの大きな成果物でしょうか。
入札方式への移行
服部 市場参加者の意見を聞いて、入札へと移行されていったということですね。当時は、シ団方式と並行してやっていたということでしょうか。シ団との調整も同時にご担当されていたということですよね。
齋藤 そうです。日本の国債発行の歴史でいうと、元々戦後の国債発行は7年物の国債から始まって、それが10年債になりました。当時はナショナル・シ団という言い方をしていました。国債を引き受けてくれるシンジケートに日本の国内の金融機関がみんな入っていたんです。元々のシ団引受は、シ団の中でのシェアが全部固定だったんですね。業態で言うと都銀、地銀、信用金庫、保険会社、証券会社と、あらゆる業態がシンジケート団に入っていたわけです。シンジケート団の代表・取りまとめは全銀協の会長行がやってくれていました。毎年翌年度の予算編成ができると、翌年度の予算の中で国債の発行額がいくらというのが決まるわけですよね。昔、国債は全額シ団の引受で発行されていたところから始まっているので、予算が決まり国債発行額が決まると、「来年度はこれだけの金額の国債を出しますのでシ団の皆さん引き受けてください、よろしくお願いします」というセレモニーを、全銀協の会長を担当する銀行と取りまとめをするシ団幹事との間で、予算が出来上がる12月のタイミングでやっていたわけです。
服部 12月末に金額を固めて、それを毎月毎月、少しずつ買ってもらうということでしょうか。
齋藤 シ団引受は、予算編成のタイミングで年間発行総額が決まります。年度のトータルの引受額を、シ団と発行体である財務省との間で合意するというのが年末になされます。それはあくまでも年度を通しての総額なので、実際に毎月いくらにするのかというのは、毎月シ団と国債課の間で話し合いをしていました。昔、私が来るよりもっと前の時代ですけど、国債発行額が少なかった頃は、別に毎月国債を出さなくても、必要な国債は出し切れたんです。シ団と交渉する時は、今月いくら引き受けるというのと、金利何パーセントで、というのが当然交渉材料なわけです。シ団の人は民間の金融機関ですから、金融情勢に応じて「今月は金利をここまで上げてください」ということを言うわけですよ。そこで昔の大蔵省が「そんな高い金利では出したくない」となると、今月は国債発行はお休み、みたいなことも起こっていたわけです。それは国債発行額が少ない、のどかな時代だからできたことです。国債発行額がどんどん増えてくる中で、そんな悠長なことも言っていられなくなりました。
シ団制度の話に戻すと、シ団の中で各業態ごとのシェアが決まっていて、さらにその業態の中で個別の金融機関ごとのシェアが決まっていました。そのシェアに応じて個別の金融機関が引き受けるというのがシ団引受の仕組みだったわけです。私は、固定シェアで引き受けてもらうというのは、国債のマーケットの発展という意味では、意味があったと思っています。というのは、個別の金融機関の状況を見ていくと、「今月うちこんなにいらないんだけど」とか「本当はもう少し国債買いたいんだけどな」ということも起こるわけです。でも、シ団の中でシェアが決まっているわけですから、それに応じて引き受ける。そうすると、「こんなにいらない」というところは引き受けたものを売りにいくわけですし、「もっと欲しい」というところは、引き受けた分に加えて追加で買いに行くわけですよ。だから無理やり固定シェアで引き受けてもらうことで、セカンダリーマーケットを発達させる役割があったのではないかと考えています。
服部 固定シェアはどこかで変わっていくのでしょうか。
齋藤 そこはシ団の自治の部分なので、シ団の中での話し合いによって決まります。当然金融機関の合併みたいなことがあれば、それによってシェアが変わりますし、業態ごとのシェアも、それぞれの業態の事情に応じて、シ団の中で話し合いをして変えていたんだと思います。ただ、発行額が増えれば増えるほど、全額を固定シェアで引き受けてもらうことは段々無理が出てきます。シ団の引受も、固定シェアで引き受けるのが発行額の全額ではなくて一部になり、残りの部分は入札で買い手を決める形になります。
服部 それで入札のシェアがどんどん増えていくということですよね。
齋藤 入札で買い手を決める部分の比率が増えていって、固定シェアで引き受ける部分が減っていくことになります。
服部 入札にシフトしていったのは、国債発行額が増えていったというのがその大きな要因ということですね。
齋藤 さらに言えば、シ団が引き受ける国債だけではなく、シ団を通さず普通の入札で買い手を見つけるような、別の年限の国債もどんどん増えていきました。
資金運用部ショックについて
服部 また話が資金運用部のところに戻ってしまうのですが、齋藤様が国債課に着任されたのが1998年の夏であり、小渕政権ができたのが1998年の7月末ですから、ちょうど同じタイミングですね。例えばVaRショックとか、他の金利上昇ショックも色々ある中で、運用部ショックは実際、どれくらいのショックだったのでしょうか。
齋藤 起きた瞬間は正直何が起きているのかよく分からなかったですね。国債の先物市場というのは、国債マーケットの中で流動性が一番高くて、日中も継続的に価格が変化しているんです。理財局の国債課には証券会社みたいに、金利とか価格が表示されている金融指標のボードがあって、そこに当然国債の先物の値段が出ているわけですけど、それがストップ安になってしまって、それ以上取引ができなくなったわけです。未経験の事態でした。国債の制度改革をやることになったきっかけの一つが運用部ショックです。
服部 何がきっかけだったか覚えていらっしゃいますか。
齋藤 その原因は、国債の発行額の急増、言い方を変えれば国債の需給バランスの悪化があるわけですが、実はもう一つ別の流れによる、国債管理の改革がちょうど同じタイミングでありました。円の国際化です。
服部 1998年は、アジア通貨危機の後ですね。橋本内閣の時には金融ビッグバンもありましたよね。
齋藤 そうです。まさにこのあたりの話が、金融ビッグバン明けの東京市場のグローバル化、円の国際化などの話につながってきます。橋本内閣の時からだったと思いますけど、東京を国際金融センターにしようみたいな話があったんです。つまり、円をもっとグローバルに使われる通貨にしようということで、円の国際化に注力しようということです。その流れの中で、日本の国債マーケットをもっと海外の投資家がアクセスしやすいマーケットにしようという要請があったんです。これは小渕内閣に変わって財政のスタンスが変わる前から動き出していました。例えば、それまで日銀が引き受けていたFBをマーケットで公募するとか、日本の国債について海外投資家向けの非課税制度を作るなどの話につながってくるわけです。
服部 マーケット重視の流れがその辺りから出てきているわけですね。
齋藤 実は、私が1998年の夏に人事異動で国債課に来た時に、当時の理財局の幹部から、日本の国債マーケットをグローバルに通用するマーケットにするために、何をやらないといけないかを考えて整理しておけという宿題をもらっていたんです。それで、当時、今もそうですが、世界の国債マーケットの中で一番流動性が高く、進んでいたのはアメリカの国債マーケットでした。なので、米国債のマーケットについて色々勉強しながら、日本の国債マーケットに何が足りないのかを夏場から勉強して色々蓄積はしていたんです。運用部ショックが起きて、国債発行額が増えていくのをどう捌かなければいけないかを考える時に、勉強して蓄えていたものが役に立ちました。
服部 資金運用部ショックは、資金運用部が国債を買わなくなることを、マーケットが予想できていなかったから、金利が跳ね上がってしまったということですよね。どのくらい市場とコミュニケーションを取っていたのでしょうか。
齋藤 小渕内閣になって、国債の発行額が増えるのですが、実は国債の増発ということだけでは、金利は必ずしも大きくは上がらなかったんです。国債発行当局と、マーケットとのコミュニケーションの中で、国債発行額が増えそうだということは伝えており、市場の人たちが驚かないようにしていました。だから、金利は上がってきてはいましたが、ゆっくりとした上がり方で、ショックと言われるような上がり方ではありませんでした。そもそも資金運用部ショックのときは、資金運用部が国債を買わなくなる金額が、小渕内閣で国債を増発した金額に比べて、1桁少なかったんです。小渕内閣の増発は10兆円規模だったんですが、運用部の買入額は、年間で1兆円規模なんですよ。なので、資金運用部の人たちは、10兆円増発しても、金利が大して上がらないんだから、自分たちが1、2兆円買う量を減らしても、金利に対するショックはそこまで大きくないと思っていました。
しかし、マーケットは自分たちが予測できていることには備えていますけど、予想できていないことが起きると驚いてしまって、金利が跳ね上がったり、逆に急に下がったりということが起こります。資金運用部ショックでは、予想外のところで、資金運用部が国債を買わない、という話がでてきてしまったものだから、金利が跳ね上がることになりました。つまり、小渕内閣になって国債発行額が増えて、需要と供給のバランスが崩れました。供給が増えるということは値段が下がるわけですよね。国債・債券の場合、値段が下がるというのは金利が上がるということですが、需給バランスが崩れて価格が下がっていく方向になっていきました。元々日本の国債マーケットで小渕内閣になって、そういう需給悪化懸念みたいなことでマーケットの人たちが心配している中に、さらにそれに拍車をかける方向でびっくりネタが出てきたから、金利がボンと跳ねたというのが運用部ショックです。
これはある意味、去年のトラスショックと似ているとおもいます。トラスショックの時も、ショックとはいえ、元々伏線があるわけです。主体は違いますけど、インフレの中で、英中銀がどんどん金利をあげ、それまで金融緩和の中で買っていた国債を買うのをやめて、むしろ売りますとなりました。イギリスの国債マーケットにおいて、中央銀行の金融政策に起因する需給悪化懸念がある中に、トラス政権が誕生して、財政もやって国債を増発するという話しになった結果、市場がびっくりして金利が爆発的に上がったということです。
服部 資金運用部ショックのタイミングは冬ですね。予算編成中に金利が上がると大変ですよね。
齋藤 資金運用部ショックのタイミングは、予算の政府案ができた直後だったんです。運用部が買わなくなるという話が、どうやって世の中に出ていったかというと、平成11(1999)年度予算が編成されて、予算の政府案を財務省が記者の人とかアナリスト、エコノミスト向けに説明会をやったときです。そういえば資金運用部の来年の国債買入ってどうなるんでしたっけ、いや実は買わなくなるんだよとなって、そこから火がついていきました。
資金運用部ショックの時も、10年物国債の金利水準でいうと、一番下がっていた時、小渕内閣誕生に伴う需給悪化懸念の前ですけど、瞬間的に0.7%程度までいきました。そこからジリジリ上がっていって、年末の運用部ショック前には、金利水準は、10年金利は0.9%くらいです。そこからスルスルと上がっていって、年末に運用部ショックがあって、年明けに約2%くらいですかね。1%くらいの幅で、短い期間で金利がグッと上がったという感じですね。最終的には、春くらいには2.5%近くまで上がりました。
その運用部ショックの時の0.9%くらいから2%まで、差で言うと1.1%と言うのは、VaRショックでも同じくらいの幅で金利が上がっています。それで、今の国債の積算金利は、金利が上がった時に備えた余裕分として1.1%足すという慣例ができています。
服部 資金運用部ショックを経験し、国債課を二つに分けるところまでいくと思いますが、当時はどういう議論がなされたのでしょうか。
齋藤 資金運用部ショックという名前がつくくらいですから、火元になった運用部は火消しのために、何とか歯を食いしばって国債を買い続けます、ということをしばらくやったんです。でもそれだけでは収まらず、金利が上がったままになったので、理財局の幹部から、国債課もマーケットを落ち着かせるための施策を考えてくれという発注が来ました。マーケットフレンドリーというんでしょうか、市場参加者が好ましいと思うような、新しい政策を色々やっていこうということになって、いろいろな制度改革が進んでいったという感じです。
服部 国債課を2つに分けるのはいつのことだったんでしょうか。資金運用ショックが大きな契機になったという風に報道されることが多い気がしますが。
齋藤 そこから5,6年あとですね。まあ、さっきお話しした旧理財局グループの中でいうと、財政投融資をやっている人たちが一番メインであり、国債発行の担当者はその次、という位置づけとなっていたんです。ただ、マーケットが混乱する中で、もうとにかく国債のマーケットの安定が最優先という風にならざるを得なくなりました。結局、国債の発行額もどんどん増えていき、新しい国債もどんどん出ていきました。そうすると当然、入札の回数なども増えていきますから、人員も増やさないといけなくなりました。あるいは、そのちょっと後になりますけど、個人向け国債を作ったりとか、国債の発行に関する仕事量が全体として増えたので、一つの課で抱えるには人数が多くなりすぎました。国債課1つだったのを、企画課と業務課の2課体制にし、当時は旧理財担当次長が財政投融資などと一緒に国債を見ていたわけですが、そのタイミングで国債担当審議官という審議官のポストができて、その審議官が国債課2つと、さらにさっきお話しした、国庫課でやっているキャッシュマネジメントを担当することになりました。
服部 この辺りで今の組織の形はあらかた決まったという感じですね。市場分析官もそののち作られますが、市場参加者との交流を深めるためでしょうか。
齋藤 専門的な分析をしてもらって、専門知識を発揮してもらうのが第一ですね。霞が関の役所の人事は、1,2年でどんどん異動していってしまうので、専門性を身に着けるにはどうしても限界があるわけですね。だけど、民間の金融機関でマーケットの分析をやっているようなアナリストの人たちは、例えば十年間とか、ずっと分析をやっているわけですから、そういう人たちの方が、当然専門的な深い知識を色々持っているので、そういった知見を国債の発行に活かしてもらうために来ていただいています。
服部 今の国債課は、たぶん財務省の中でも、民間出向者の割合がかなり高いですよね。昔はどうだったんでしょうか。
齋藤 昔よりは今の方が明らかに増えていますね。
TB1年債・5年債・30年債の導入
服部 日本における運用部ショックは、1998年の金融危機の直後ですね。この後、30年債、5年債、変動利付国債が矢継ぎ早に出て、今の確立した国債の商品性が固まります。齋藤様はこの時ちょうど新しい種類の国債の導入を担当されていたということですね。
齋藤 そうです。
服部 これらの新商品の導入には、どういった議論があったのでしょうか。
齋藤 例えば、平成11(1999)年度のあたりで、運用部ショックの後にTBの1年物と30年債と5年債、それから15年変動利付債と、新しい商品が4つ出ています。でも、実はそれぞれ、背景事情が違うんです。
例えばTB1年物の入札については、短期はそれまで3カ月物と6カ月物しかなかった。それ以外に、FBと呼ばれる資金繰りのために発行される短期債があって、それは実は日銀が全部引き受けていたんです。それを円の国際化の中で、短期の金融市場を育てるという意味で、FBを市中公募しようという話になってきました。それで、直接マーケットでFBを出して、短期のマーケットの厚みを増すということを始めたんです。この流れの中、それまで国債を発行していた理財局の立場からすると、2本立てで出していた3カ月と6カ月物のTBがあったところで、FBの3カ月物を市中公募することになりました。3カ月物はすべてFBに譲るとしても、国債の発行額はむしろ増えており、短期の新しい商品を出す必要性にも議論が進み、1年物を導入することになりました。
服部 円の国際化、市中公募、TB1年物という大きな文脈があるんですね。
齋藤 そうです。他にも新しいものを出せないかという中で、それまで一番長いもので20年までしかなかった国債について、30年物を作ろうということになりました。
服部 30年債という重要な商品を作られたわけですが、当時について印象深いことはありますでしょうか。
齋藤 30年債の導入では単に新しい年限だということだけではなく、面白い新しい試みをやっていました。例えば服部先生のご専門のあたりでしょうが、入札でいうと、それまでの国債は全部発行当局がクーポン、すなわち表面利率を決めて、入札参加者には入札したそれぞれの価格で、実際に買ってもらうという方式でやっていたんです。
服部 コンベンショナル方式ですね。
齋藤 新しく30年国債を入れるにあたって、今までよりもイールドカーブが伸びるわけですけど、カーブを右に伸ばしたところで30年の金利の居所がどうなるかというのが誰もよく分からなかった。もちろん理論値は色々な形で出せます。ただ、最後は需要と供給のバランスで決まるので、その理論値通りにいくかは誰にも分からなかったんです。なので、我々発行当局からすると、表面金利を何パーセントにするか自信をもって設定できないんです。その上、入札に参加する金融機関の人たちからしても、これぐらいの値段で買えばいいかなと思ったら、実は本当はもっと安かったです、みたいなことになると、入札に参加している人たちからすると、高値掴みするリスクも出てくる。どうしても入札に臨むスタンスがおっかなびっくりになってしまう。そういう中で、どういう発行方式をやるのがいいかとなったときに、イールドダッチという新しい入札方式を入れることになりました。つまり、表面利率、クーポンも入札の中で決めることにするとともに、その発行予定額に達するところの最低落札価格で、全員その値段でいいです、高値掴みの心配はありませんよという入札方式にすることにしました。
服部 前例がないことですよね。
齋藤 日本で前例はないですね。ただ、アメリカではイールドダッチはやっていました。さっきお話ししたように、アメリカの国債の発行、国債管理政策、国債の発行の仕方などを色々研究していました。ただ日本ではじめて導入するにあたって、いくつか技術的な問題がありました。イールドダッチでやるということは、複利利回りで入札してもらうわけですけど、その決まった表面利率、クーポンに基づいて、各業者が指していた利回りが価格に置き換えると一体いくらなのかを計算し直さないと、いくらで買うのかというのが出てこないわけです。利回りのままだと価格が分からないままなんです。しかし、当時、証券会社ごとに複利の計算式が違いました。例えば、その価格と利回りを計算するときに、日割り計算が当然必要になるわけですが、1年を365日で割るか、360日で割るのかが会社によってまちまちでした。
服部 業界統一の計算式がなかったということですね。
齋藤 そうです。なので、財務省が決めようということになりました。もちろん、各社どうやっているかを全部聞き、諸外国がどうやっているかも聞き、一番合理的なものを選ぼうとしました。それで、複利利回りと価格の計算式は、財務省としてはこれを使いますというのを発表しました。
服部 それがある意味で、日本の業界のスタンダードを作ったとも言えるわけですね。面白いですね。日本の入札の1つの特徴はダッチ方式とコンベンショナル方式を両方とも使っているという点だと思います。物価連動債は、ダッチ方式ですね。
齋藤 物価連動債はダッチですが、イールドではなく、価格でやっています。
服部 30年債の入札というのは、TB1年物よりもはるかに大変だったということですね。新しい方式ということもあるし、金利リスクも大きい。色々な議論をされたと思います。
齋藤 たしかに大変でしたね。
服部 デュレーションがどんどん伸びてきたのはこの頃くらいからですね。生命保険会社なども国債を買うようになったイメージです。
齋藤 もちろん、生保とも議論しました。さきほどの30年債と同様に国債の発行額が増える中で、それを円滑に消化するためには、何か新しい年限の国債をやっぱり出していかなければいけないだろうと、そういう流れの中で導入したのが、5年物の利付国債です。もともと海外の国際マーケットなんか見ても、年限の刻みは一般的には、2年があって5年、10年という形になっていますよね。
服部 2、5、10年の刻みはグローバルスタンダードですね。
齋藤 そうなんです。でも日本の場合は、その中期と言われる国債はなぜか、5年じゃなくて4と6年という刻みだったんです。
服部 長期信用銀行に気を使ったんですよね。
齋藤 そうです。今はもうなくなってしまいましたけど、昔は長期信用銀行という金融機関の業態があったわけですよね。日本興業銀行と日本長期信用銀行、日本債券信用銀行という3つの銀行がありました。それで、この長期信用銀行の資金調達手段の主力が、5年物の利付金融債でした。当時の大蔵省は、利付の国債はこれに遠慮する形で、あえて5年を避けて、4、6年債で出しました。
実は5年は個人向けに割引債で出してはいました。正確に言うと、個人しか買えないわけではなかったので、今の個人向け国債と位置づけは違うんですが、実際に買い手になっていたのはほとんど個人でした。こういう形で遠慮していたんですが、やっぱり4、6年債と二つに分けて出すよりは、5年債に一本化したいということになりました。一本化した上で、そこでまとまった金額を出す方が、流動性が高いマーケットを作っていけます。当時は批判もあったのですが、国債の発行額が増えていく中で、国としてもいつまでもこのままではやっていけないということもありました。
服部 落としどころとしてはどうなったでしょうか。
齋藤 5年の利付国債の発行を始めるが、いきなりたくさんは出さないで、金額が少ないところから少しずつスタートして増やしていくことになりました。したがって、5年利付国債を導入したタイミングでは、実は4、6年債が残っていたので、4、5、6年債の3本立てで出ていました。その後、徐々に4、6年債から5年債に移行していく形です(図表3. 4・5・6年債の発行額推移を参照)。
(翌月号に続きます)
図表1. シ団引受シェアの推移
図表2. 資金運用部ショック時の金利の動き
本インタビューの目的
我が国の国債市場の重要な制度は、主に2000年前後に形作られています。もっとも、その際の議論については意外と文献がないのが実態です。そこで、本稿では、国債を専門とする経済学者である服部が、国債の制度改正に深く携わった齋藤通雄氏にインタビューし、それを活字化することで、2000年前後の制度改正の歴史を将来世代に残すことを目的にしています。
インタビューそのものは5時間以上に及んだため、これから2回にわたり、インタビューの内容を紹介いたします。本インタビューの活字化等にあたり、東京大学経済学部の安斎由里菜さんと新田凜さんの協力を得ました。
服部 最初に、財務省に入省された経緯からお話しいただけないでしょうか。
齋藤 私は、学部時代、法学部の第3類という政治コースに所属しており、ゼミでは政治過程論という、政策の意思決定プロセスを研究するゼミに入っていました。日本の政策がどういうプロセスを経て決まるのかについて興味があったんです。就職をする時に、民間企業も回っていたんですが、官庁訪問をしたところ、当時の大蔵省の採用担当者が採用してくれることになりました。私が就職したのは今から36年前であり、今とは大分違っていて、霞ヶ関の影響力がより大きい時代でした。その中でも大蔵省であれば、予算や税などを通じて、自分が興味のあった日本の政策の決定プロセスを、裏側から見られて面白いかなと感じました。そういったことが、自分が大蔵省に入った動機です。
実は就職する時も、30年以上、公務員として勤めあげるとは正直あまり思っていませんでした。就職して、政策の決まるプロセスをある程度裏側から見られたら、研究者になるか、あるいは政治評論家じゃないですけど、文筆業とか、いずれにせよ政治について研究したり、物を書いたりといった仕事に行ってもいいかなと思っていました。ですが結局37年、定年までいたという感じでしょうか。
服部 1987年に入省後、最初の配属は主税局調査課ですね。
齋藤 振り出しはそうですね。私が就職して間もなく、中曽根内閣の売上税が廃案になりました。そこから消費税導入にいたるまでの期間が、私が見習いとして1、2年生を過ごした時期でした。そういう意味では、まさに非常に大きな税制改革を裏側から見ることができました。
入省直後は、1年生として、会議のメモ取りみたいなことも仕事の一部でしたので、政府や自民党の税制調査会に行って、どういう議論が行われているのか一生懸命メモを取って、というようなこともやっていました。なので、就職する時に考えていた、政策が決まるプロセスを見てみたい、という希望は入省して最初の頃から割と満たされていて、やりがいがあったし、楽しかったですね。
ただ、当時のメモ取りは、今みたいにICレコーダーがあって、パソコンで自動で文字に起こしてもらえるみたいな時代とはわけが違うので、会議中はひたすら手書きでメモをとって、戻ってきてまたそれを手書きで一生懸命綺麗にメモに起こすという時代でした。例えば税制調査会の会議が夕方にあると、戻ってきてメモ起こしをスタートするのが夜で、全部メモを起こし終わると夜中です。そこから上司にチェックをしてもらった上で、さらにそれを関係者に配る。それも、今だったらメールか何かで添付して共有すれば終わりますけど、当時はそんなものは何もないので、ひたすらコピーを取って配って回るということをしていました。起こしたメモを配り終わると、当然電車がないような時間になるという、体力的にはハードな生活でしたけど、中身はやりがいがあり、そういう意味では楽しかったですね。
服部 その後1989年にドイツに留学されますよね。なぜドイツを選ばれたのでしょうか。
齋藤 父の仕事の関係で、子供の頃にちょっとドイツに住んでいたことがありました。幼稚園に上がる前の年齢だったので、全然記憶にはないんですが、子供の時のアルバムを見ると、ドイツで撮った写真があるので、なんとなくドイツに行ってみたいなと思っていました。私ぐらいの世代、当時の大蔵省に入った公務員だと、就職して三年目というのが留学に出るチャンスで、どこの国に行きたいかという希望を一応出せるんですが、大体みんな英語圏ですよね。アメリカ、イギリスを希望するんです。私も第一希望はアメリカだったんですけど、今お話したような事情があって第二希望でドイツと書いたものですから、第二希望でドイツなんて書く人は他にいなかったので、じゃあお前はドイツに行け、という感じになりました。
服部 その後、フランクフルトに3年いらっしゃいますよね。最初の海外が長かったということですか。
齋藤 そうですね。直接留学からフランクフルトに行っているわけではなくて、留学の後一回日本に帰ってきて、それからフランクフルトに行きました。
写真:齋藤通雄 前理財局長
財投改革時に国債課に異動
服部 海外から帰ってきて、まさに本題である国債課に1998年から2001年にいらっしゃったわけですね。個別のことの前に、まず当時の国債課がどういう感じだったのかをお聞きしたいです。
齋藤 そうですね。まず今の財務省の局には、大臣官房という全体の取りまとめや調整をやっている大臣直轄部隊のようなグループがあります。民間企業でいうと総務みたいなものです。それ以外に局が5つありまして、予算を担う主計局、税制を担う主税局、関税制度を担う関税局、インターナショナルなことをやっている国際局、あと理財局です。
服部 理財局の国債課だと今2つの課があり、企画を担当する「国債企画課」と、入札などを担う「国債業務課」があります。しかし、当時は国債課だけで1つの課だったということですね。その当時の国債課がどういう感じだったかというのは、今ではほとんど遡って知ることができないのです。マスコミとかでは、資金運用部ショックが、国債課が2つの課に分かれた契機だとされています。
齋藤 はい。資金運用部ショックは、1998年ですね。
服部 国債課1つだけだった当時、職員の数は、今よりも少なかったのでしょうか。
齋藤 今だと企画課と業務課2つあわせて70人くらいいると思いますけど、その約半分という感じですね。国債課一つで30人ちょっとだったと思います。
服部 それは、当時は国債の発行が少なかったから、職員数が少なかったということでしょうか。
齋藤 それは、その後に国債管理政策の改革をやっていくきっかけというか、背景になる部分でもあります。理財局は、企業の財務経理部門が担当しているような仕事をやっています。財務省は財務という名前がついているくらいだから財務をやっていて当たり前だと思うかもしれませんが、理財局の仕事は大きく、資金調達、キャッシュマネジメント、国有財産の管理、それから財政投融資になります。
まず、国債の発行に代表されるような資金調達ですよね。それから、国庫課という課があって、国のお金の資金繰り、キャッシュマネジメントと呼ばれるようなことをやっています。資金調達をして、手元資金をちゃんと管理して、お金を払うべきタイミングでちゃんと払えるようにしておく、あるいは無駄な手元の現金をできるだけ抱えないようにする。これは国であっても企業であっても財務部門の大事な仕事の一つですけど、このキャッシュマネジメントというのも理財局の仕事です。
国有財産の管理については、債務・負債の管理だけではなくて、資産の側の管理も理財局の仕事になっています。国の財産は大きく分けると2つあり、1つは不動産です。国有地と国有地に建っている建物、この役所の建物もそうですし、あるいは公務員の宿舎もそうです。そういった不動産という国の財産・資産の管理に加え、もう1つ大きいのが、政府が持っている有価証券、株などの管理です。国は、いわゆる政府系金融機関などに出資をしており、政府は出資者になっているわけです。昔国営企業だったものが民営化されたケースもそうです。例えばNTTとかJT、日本郵政など、国がある種直轄でやっていたものが民営化されて企業になっているわけですけど、そういうところの株は1/3ぐらいずつは政府が持っているんですね。そういう政府の株式の持分の管理をしたり、あるいは売るタイミングがあったら売ったりというようなことも理財局の仕事です。
理財局の仕事として財政投融資もあります。今の仕組みでは、まず財投債という国債の一種があって、これは財政投融資特別会計が発行する国債のことです。これを出して資金調達をし、調達した資金を政府系金融機関とか、独立行政法人や地方自治体に貸し出すということをやっています。実は大企業も似たようなことを、大企業の財務部門でやっています。グループ・ファイナンスと呼ばれるものです。ホールディングスの親会社が資金調達をして、グループ内の子会社に対してお金を貸しつける。親会社の方が当然大企業なので、信用力が高いから、より低い金利で資金調達ができるわけです。だから親会社が調達をしてあげて、子会社に必要なお金をファイナンスしてあげる、みたいなことをやるわけです。財政投融資は、国、地方公共団体、パブリックセクターの中でやっている、ある種のグループ・ファイナンスという風に考えることもできます。これも理財局の仕事の一つです。
もう一度整理すると、資金調達、キャッシュマネジメント、国有財産の管理、さらに、財政投融資。これが理財局の仕事です。理財局の歴史を振り返ると、実は国有財産の管轄は、局が別だった時代があるんですね。
服部 何という局の管轄だったのでしょうか。
齋藤 「国有財産局」です。私が入った時には既に今の形の理財局でした。ただ、なんで国有財産局の話をしているかというと、当時の理財局はどんな感じだったのかという話、あるいは国債課の位置づけみたいな話に繋がってくるんです。理財局には、局長の下に次長が2人いるんですけれど、その2人の次長の担当は、俗に「旧理(旧理財局)担当次長」といって昔からの理財局を担当する次長と、国有財産の担当次長という形で、当時は2人に分かれていたんです。旧理財局担当次長は何を見ていたかというと、財政投融資と、国債発行の資金調達、あとキャッシュマネジメントです。
実はこの中では、財政投融資をやっている部署の方が優位にあったんですね。なぜかというと、さっきお話ししたように、財政投融資というのはパブリックセクターの中のグループ・ファイナンスのようなものです。「第2の予算」という言葉がありますね。税を財源にして主計局が編成する予算の他に、財政投融資がありました。お金を渡す先は政府系金融機関のほか、当時はまだそれこそ小泉政権の特殊法人改革前なので、道路公団とか住宅金融公庫とか、そういう所も全部財政投融資のお金で回っていたんです。
したがって、政府系金融機関だけではなくて、道路公団にお金を貸して高速道路を作るとか、あるいは新幹線の建設資金になったり、住宅金融公庫を経由して、いろんな住宅を建てるなど、そういう公共事業の原資として財政投融資が使われていました。これが財務省が各省庁に対して、色々なパワーを発揮する一つの源になり得ていたわけですよね。なので、旧理財局の中でいうと、資金運用部で財政投融資をやっている人たちは、割と主計局の経験者も多く、財務省の仕事で言うと、より本流に近いという印象でした。
服部 「資金運用部」というものがあったということでしょうか。
齋藤 理財局の中にある課の名前も今と違って、今だと財政投融資をやっている部署に「財政投融資総括課」というのがあります。そこの下に財政投融資の計画官という、どこにいくらお金を貸すかみたいなことを決める課長クラスの担当者がいます。当時、財政投融資制度改革の前だと、財政投融資の部署は資金一課、資金二課、地方資金課という三課体制で、資金運用部資金という言い方をされていたんですよね。それは、今と財政投融資の仕組みがそもそも全然違っていて、財政投融資制度改革の前なので、郵便貯金で集めたお金、あとは国民年金の原資、公的年金の原資、それが資金運用部に預託されました。ゆうちょとか年金で、もともと国民から預かっているお金が、大蔵省資金運用部というところに預けられて、そこからさっきお話ししたみたいな、特殊法人とか政府系金融機関に貸し付けられるという仕組みだったわけです。それをゆうちょや年金も自主運用しましょうね、その代わり、財政投融資の資金は、財務省が自分で国債(財投債)を発行しましょうというふうに切り替わりました。財政投融資改革(財投改革)です。
服部 「資金運用部」という部があると思っていましたが、具体的には資金一課、資金二課、地方資金課などが担っていたのですね。お話を伺っていると、国債課に異動されたタイミングはちょうど財投改革が議論される中だったわけですね。
齋藤 私は1998年の夏に理財局の国債課長の補佐になりました。1998年は、タイミングでいうとまさに財投改革の頃です。資金運用部ショックと言われる国債の暴落・金利の急騰が起きたのもその時です。なぜ資金運用部ショックという名前になったかというと、財投改革前は、さっきお話ししたように、資金運用部には、ゆうちょとか年金がお金をいわば預けてくれるというか、受け身でお金が入ってきていて、それを道路公団や住宅金融公庫、特殊法人、地方自治体に貸したりしていました。その中でもどちらかと言うと、ゆうちょ・年金から入ってくるお金のほうが、特殊法人などに貸すお金よりも多かったので、手元に余裕資金があったわけです。その余裕資金で、マーケットで国債を買う、あるいは国債発行当局から、理財局の中同士なのですが、直接引き受ける「運用部引受」がなされていました。つまり、資金運用部が余裕資金で国債を引き受けてあげるということをやっていたわけです。
ところが、財投改革の後は、今まで入って来ていたお金がもう入ってこなくなるので、今までみたいに余裕資金で国債を買うみたいなことが当然できなくなるわけです。むしろ財政投融資の人たちは、自分たちが国債を出す立場になっていくので、そういう事もあって、もう国債は資金運用部では買えませんよという話になるわけです。でも、そのことをマーケットはちゃんと予想出来ていませんでした。「資金運用部がもう国債を買わなくなるらしい」というのが、マーケットの人たちにとってサプライズになり、それが結局金利の上昇に繋がりました。それが1998年の12月のことですね。なので、着任して半年で資金運用部ショックが起きたということです。
写真:服部孝洋 特任講師
1998年時点の国債課
服部 当時の国債課はどういう状況だったのでしょうか。
齋藤 昭和50年(1975年)代から平成になるくらいまでの間、新しい年限の国債をどんどん出しています。その時期に何が起きていたかというと、まさに昭和50年代に、建設国債だけでは国債の発行が足りなくなって、赤字国債・特例公債を出さないといけなくなりました。国債の発行額が増えていく中で、国債発行当局が新商品を次々と導入しながら、増える国債をどうやって円滑に発行するかを工夫していた時期です。その後平成になって、バブルが来て景気も良くなり、一時期赤字国債も出さなくて済んだりもしていたので、国債発行当局の苦労みたいな期間は一段落していました。それが平成一桁くらいの時代です。私が国債課の補佐に着任した平成10年(1998年)の夏は、橋本龍太郎総理の時代です。橋本内閣は、財政健全化を掲げていた内閣だったので、国債をそこまで出そうということにはなっていませんでした。さっきお話したように、資金運用部はまだ余裕資金があり、国債を運用部で引き受けたり買ったりということができていたので、理財局の国債課の仕事はそこまで大変ではないだろうと思われていたのが1998年の夏だったんですね。
ところが、色々状況が変わっていきました。一つは橋本内閣から小渕内閣に政権交代があり、小渕恵三首相になって財政運営のスタンスががらっと変わったことです。景気が悪い中で、国債を増発して景気を財政で支えるという方向になり、それこそ補正予算で国債10兆円増発みたいなことになっていきました。他方で、財政投融資の方は、さっきお話しした財政投融資改革をまさにやっていこうとしていて、10兆円も増える国債を、資金運用部の財政投融資の余裕資金で受け入れることはできませんとなりました。「10兆円増発する国債は国債課が自分たちで工夫してなんとか捌いてください」みたいな状況になりました。そこから国債課が、ではどうやって自分たちで国債の発行を工夫していこうかということを考えるという時期に入っていく、そういうタイミングでした。
服部 その時は課長補佐でいらっしゃったんですよね。
齋藤 次席補佐です。当時の国債課は、総括補佐が課全体の取りまとめと、法律改正・制度改正が必要なときの法令担当をやっていました。私が座っていた次席補佐は、企画といわれる国債の発行計画全体を作る仕事と、あとは実際の国債の発行の日々の入札の担当でした。だから、いまの企画課と業務課に分かれているものの両方を1人でやっていたわけです。
服部 次席補佐を2年やられたのでしょうか。
齋藤 2年ですね。
服部 では当時は、入札も当然見ていて、国債発行計画もやっていたということでしょうか。
齋藤 はい。でも、両方を1人で担当するというのも、それはそれで合理性があったんです。国債発行計画を作るときは、何年物の国債でいくら出すのかということを考えます。つまり年限別の配分をどういう風にするか、ということですが、これが国債発行計画作りの肝の部分ですよね。年限によって買い手の投資家層がある程度変わってくる中で、それぞれの年限の需要と供給のバランスを見ながら、増発しないといけない時に、何年物をどれくらい増やそうかということを考えます。そうすると、入札担当として毎月実際に入札をやっていると、「この年限はまだもう少し増やせる余裕があるな」とか、「この年限はもう結構パンパンだな」とかが分かるので、そういう意味では入札をやっている人間が計画を作るというのはすごく合理性があったと思うんです。
服部 市場参加者とのコミュニケーションについて、当時と今との違いはありますか。
齋藤 今は入札をやるときに、プライマリーディーラー制度という仕組みがありますけれども、当時はそれができる前でした。なので、入札の前日に、入札に参加してくれる証券会社、大手の銀行、そういう人たちに対して全部で30社くらいに手作業でヒアリングをしていたと思います。入札の前の日に職員が手分けしてヒアリングをして、明日の入札にニーズがありそうかどうかを確認します。実際入札をした後に、落札額が多かった金融機関に対して、今回たくさん買った理由はなんですか、といったこともヒアリングする。制度の有無こそ違いますが、そういうコミュニケーションは、当時も今も基本的にはあまり変わっていません。
服部 大きな違いでいえば、現在の方が、会議体などがしっかりしているということですね。
齋藤 そうです。市場との対話という点で作られた会議や懇談会は、私が最初に国債課に着任した頃にはなかった会議です。プライマリーディーラー制度自体が元々なかったというのもありますが、プライマリーディーラーとの会合みたいなものもなかったし、投資家、保険会社とか銀行とかアセマネとの懇談会もなかった。こういう会議体をそれぞれつくって整備していき、市場関係者との定期的な意見交換の場を作っていったのが、2000年前後くらいからの市場改革の1つの大きな成果物でしょうか。
入札方式への移行
服部 市場参加者の意見を聞いて、入札へと移行されていったということですね。当時は、シ団方式と並行してやっていたということでしょうか。シ団との調整も同時にご担当されていたということですよね。
齋藤 そうです。日本の国債発行の歴史でいうと、元々戦後の国債発行は7年物の国債から始まって、それが10年債になりました。当時はナショナル・シ団という言い方をしていました。国債を引き受けてくれるシンジケートに日本の国内の金融機関がみんな入っていたんです。元々のシ団引受は、シ団の中でのシェアが全部固定だったんですね。業態で言うと都銀、地銀、信用金庫、保険会社、証券会社と、あらゆる業態がシンジケート団に入っていたわけです。シンジケート団の代表・取りまとめは全銀協の会長行がやってくれていました。毎年翌年度の予算編成ができると、翌年度の予算の中で国債の発行額がいくらというのが決まるわけですよね。昔、国債は全額シ団の引受で発行されていたところから始まっているので、予算が決まり国債発行額が決まると、「来年度はこれだけの金額の国債を出しますのでシ団の皆さん引き受けてください、よろしくお願いします」というセレモニーを、全銀協の会長を担当する銀行と取りまとめをするシ団幹事との間で、予算が出来上がる12月のタイミングでやっていたわけです。
服部 12月末に金額を固めて、それを毎月毎月、少しずつ買ってもらうということでしょうか。
齋藤 シ団引受は、予算編成のタイミングで年間発行総額が決まります。年度のトータルの引受額を、シ団と発行体である財務省との間で合意するというのが年末になされます。それはあくまでも年度を通しての総額なので、実際に毎月いくらにするのかというのは、毎月シ団と国債課の間で話し合いをしていました。昔、私が来るよりもっと前の時代ですけど、国債発行額が少なかった頃は、別に毎月国債を出さなくても、必要な国債は出し切れたんです。シ団と交渉する時は、今月いくら引き受けるというのと、金利何パーセントで、というのが当然交渉材料なわけです。シ団の人は民間の金融機関ですから、金融情勢に応じて「今月は金利をここまで上げてください」ということを言うわけですよ。そこで昔の大蔵省が「そんな高い金利では出したくない」となると、今月は国債発行はお休み、みたいなことも起こっていたわけです。それは国債発行額が少ない、のどかな時代だからできたことです。国債発行額がどんどん増えてくる中で、そんな悠長なことも言っていられなくなりました。
シ団制度の話に戻すと、シ団の中で各業態ごとのシェアが決まっていて、さらにその業態の中で個別の金融機関ごとのシェアが決まっていました。そのシェアに応じて個別の金融機関が引き受けるというのがシ団引受の仕組みだったわけです。私は、固定シェアで引き受けてもらうというのは、国債のマーケットの発展という意味では、意味があったと思っています。というのは、個別の金融機関の状況を見ていくと、「今月うちこんなにいらないんだけど」とか「本当はもう少し国債買いたいんだけどな」ということも起こるわけです。でも、シ団の中でシェアが決まっているわけですから、それに応じて引き受ける。そうすると、「こんなにいらない」というところは引き受けたものを売りにいくわけですし、「もっと欲しい」というところは、引き受けた分に加えて追加で買いに行くわけですよ。だから無理やり固定シェアで引き受けてもらうことで、セカンダリーマーケットを発達させる役割があったのではないかと考えています。
服部 固定シェアはどこかで変わっていくのでしょうか。
齋藤 そこはシ団の自治の部分なので、シ団の中での話し合いによって決まります。当然金融機関の合併みたいなことがあれば、それによってシェアが変わりますし、業態ごとのシェアも、それぞれの業態の事情に応じて、シ団の中で話し合いをして変えていたんだと思います。ただ、発行額が増えれば増えるほど、全額を固定シェアで引き受けてもらうことは段々無理が出てきます。シ団の引受も、固定シェアで引き受けるのが発行額の全額ではなくて一部になり、残りの部分は入札で買い手を決める形になります。
服部 それで入札のシェアがどんどん増えていくということですよね。
齋藤 入札で買い手を決める部分の比率が増えていって、固定シェアで引き受ける部分が減っていくことになります。
服部 入札にシフトしていったのは、国債発行額が増えていったというのがその大きな要因ということですね。
齋藤 さらに言えば、シ団が引き受ける国債だけではなく、シ団を通さず普通の入札で買い手を見つけるような、別の年限の国債もどんどん増えていきました。
資金運用部ショックについて
服部 また話が資金運用部のところに戻ってしまうのですが、齋藤様が国債課に着任されたのが1998年の夏であり、小渕政権ができたのが1998年の7月末ですから、ちょうど同じタイミングですね。例えばVaRショックとか、他の金利上昇ショックも色々ある中で、運用部ショックは実際、どれくらいのショックだったのでしょうか。
齋藤 起きた瞬間は正直何が起きているのかよく分からなかったですね。国債の先物市場というのは、国債マーケットの中で流動性が一番高くて、日中も継続的に価格が変化しているんです。理財局の国債課には証券会社みたいに、金利とか価格が表示されている金融指標のボードがあって、そこに当然国債の先物の値段が出ているわけですけど、それがストップ安になってしまって、それ以上取引ができなくなったわけです。未経験の事態でした。国債の制度改革をやることになったきっかけの一つが運用部ショックです。
服部 何がきっかけだったか覚えていらっしゃいますか。
齋藤 その原因は、国債の発行額の急増、言い方を変えれば国債の需給バランスの悪化があるわけですが、実はもう一つ別の流れによる、国債管理の改革がちょうど同じタイミングでありました。円の国際化です。
服部 1998年は、アジア通貨危機の後ですね。橋本内閣の時には金融ビッグバンもありましたよね。
齋藤 そうです。まさにこのあたりの話が、金融ビッグバン明けの東京市場のグローバル化、円の国際化などの話につながってきます。橋本内閣の時からだったと思いますけど、東京を国際金融センターにしようみたいな話があったんです。つまり、円をもっとグローバルに使われる通貨にしようということで、円の国際化に注力しようということです。その流れの中で、日本の国債マーケットをもっと海外の投資家がアクセスしやすいマーケットにしようという要請があったんです。これは小渕内閣に変わって財政のスタンスが変わる前から動き出していました。例えば、それまで日銀が引き受けていたFBをマーケットで公募するとか、日本の国債について海外投資家向けの非課税制度を作るなどの話につながってくるわけです。
服部 マーケット重視の流れがその辺りから出てきているわけですね。
齋藤 実は、私が1998年の夏に人事異動で国債課に来た時に、当時の理財局の幹部から、日本の国債マーケットをグローバルに通用するマーケットにするために、何をやらないといけないかを考えて整理しておけという宿題をもらっていたんです。それで、当時、今もそうですが、世界の国債マーケットの中で一番流動性が高く、進んでいたのはアメリカの国債マーケットでした。なので、米国債のマーケットについて色々勉強しながら、日本の国債マーケットに何が足りないのかを夏場から勉強して色々蓄積はしていたんです。運用部ショックが起きて、国債発行額が増えていくのをどう捌かなければいけないかを考える時に、勉強して蓄えていたものが役に立ちました。
服部 資金運用部ショックは、資金運用部が国債を買わなくなることを、マーケットが予想できていなかったから、金利が跳ね上がってしまったということですよね。どのくらい市場とコミュニケーションを取っていたのでしょうか。
齋藤 小渕内閣になって、国債の発行額が増えるのですが、実は国債の増発ということだけでは、金利は必ずしも大きくは上がらなかったんです。国債発行当局と、マーケットとのコミュニケーションの中で、国債発行額が増えそうだということは伝えており、市場の人たちが驚かないようにしていました。だから、金利は上がってきてはいましたが、ゆっくりとした上がり方で、ショックと言われるような上がり方ではありませんでした。そもそも資金運用部ショックのときは、資金運用部が国債を買わなくなる金額が、小渕内閣で国債を増発した金額に比べて、1桁少なかったんです。小渕内閣の増発は10兆円規模だったんですが、運用部の買入額は、年間で1兆円規模なんですよ。なので、資金運用部の人たちは、10兆円増発しても、金利が大して上がらないんだから、自分たちが1、2兆円買う量を減らしても、金利に対するショックはそこまで大きくないと思っていました。
しかし、マーケットは自分たちが予測できていることには備えていますけど、予想できていないことが起きると驚いてしまって、金利が跳ね上がったり、逆に急に下がったりということが起こります。資金運用部ショックでは、予想外のところで、資金運用部が国債を買わない、という話がでてきてしまったものだから、金利が跳ね上がることになりました。つまり、小渕内閣になって国債発行額が増えて、需要と供給のバランスが崩れました。供給が増えるということは値段が下がるわけですよね。国債・債券の場合、値段が下がるというのは金利が上がるということですが、需給バランスが崩れて価格が下がっていく方向になっていきました。元々日本の国債マーケットで小渕内閣になって、そういう需給悪化懸念みたいなことでマーケットの人たちが心配している中に、さらにそれに拍車をかける方向でびっくりネタが出てきたから、金利がボンと跳ねたというのが運用部ショックです。
これはある意味、去年のトラスショックと似ているとおもいます。トラスショックの時も、ショックとはいえ、元々伏線があるわけです。主体は違いますけど、インフレの中で、英中銀がどんどん金利をあげ、それまで金融緩和の中で買っていた国債を買うのをやめて、むしろ売りますとなりました。イギリスの国債マーケットにおいて、中央銀行の金融政策に起因する需給悪化懸念がある中に、トラス政権が誕生して、財政もやって国債を増発するという話しになった結果、市場がびっくりして金利が爆発的に上がったということです。
服部 資金運用部ショックのタイミングは冬ですね。予算編成中に金利が上がると大変ですよね。
齋藤 資金運用部ショックのタイミングは、予算の政府案ができた直後だったんです。運用部が買わなくなるという話が、どうやって世の中に出ていったかというと、平成11(1999)年度予算が編成されて、予算の政府案を財務省が記者の人とかアナリスト、エコノミスト向けに説明会をやったときです。そういえば資金運用部の来年の国債買入ってどうなるんでしたっけ、いや実は買わなくなるんだよとなって、そこから火がついていきました。
資金運用部ショックの時も、10年物国債の金利水準でいうと、一番下がっていた時、小渕内閣誕生に伴う需給悪化懸念の前ですけど、瞬間的に0.7%程度までいきました。そこからジリジリ上がっていって、年末の運用部ショック前には、金利水準は、10年金利は0.9%くらいです。そこからスルスルと上がっていって、年末に運用部ショックがあって、年明けに約2%くらいですかね。1%くらいの幅で、短い期間で金利がグッと上がったという感じですね。最終的には、春くらいには2.5%近くまで上がりました。
その運用部ショックの時の0.9%くらいから2%まで、差で言うと1.1%と言うのは、VaRショックでも同じくらいの幅で金利が上がっています。それで、今の国債の積算金利は、金利が上がった時に備えた余裕分として1.1%足すという慣例ができています。
服部 資金運用部ショックを経験し、国債課を二つに分けるところまでいくと思いますが、当時はどういう議論がなされたのでしょうか。
齋藤 資金運用部ショックという名前がつくくらいですから、火元になった運用部は火消しのために、何とか歯を食いしばって国債を買い続けます、ということをしばらくやったんです。でもそれだけでは収まらず、金利が上がったままになったので、理財局の幹部から、国債課もマーケットを落ち着かせるための施策を考えてくれという発注が来ました。マーケットフレンドリーというんでしょうか、市場参加者が好ましいと思うような、新しい政策を色々やっていこうということになって、いろいろな制度改革が進んでいったという感じです。
服部 国債課を2つに分けるのはいつのことだったんでしょうか。資金運用ショックが大きな契機になったという風に報道されることが多い気がしますが。
齋藤 そこから5,6年あとですね。まあ、さっきお話しした旧理財局グループの中でいうと、財政投融資をやっている人たちが一番メインであり、国債発行の担当者はその次、という位置づけとなっていたんです。ただ、マーケットが混乱する中で、もうとにかく国債のマーケットの安定が最優先という風にならざるを得なくなりました。結局、国債の発行額もどんどん増えていき、新しい国債もどんどん出ていきました。そうすると当然、入札の回数なども増えていきますから、人員も増やさないといけなくなりました。あるいは、そのちょっと後になりますけど、個人向け国債を作ったりとか、国債の発行に関する仕事量が全体として増えたので、一つの課で抱えるには人数が多くなりすぎました。国債課1つだったのを、企画課と業務課の2課体制にし、当時は旧理財担当次長が財政投融資などと一緒に国債を見ていたわけですが、そのタイミングで国債担当審議官という審議官のポストができて、その審議官が国債課2つと、さらにさっきお話しした、国庫課でやっているキャッシュマネジメントを担当することになりました。
服部 この辺りで今の組織の形はあらかた決まったという感じですね。市場分析官もそののち作られますが、市場参加者との交流を深めるためでしょうか。
齋藤 専門的な分析をしてもらって、専門知識を発揮してもらうのが第一ですね。霞が関の役所の人事は、1,2年でどんどん異動していってしまうので、専門性を身に着けるにはどうしても限界があるわけですね。だけど、民間の金融機関でマーケットの分析をやっているようなアナリストの人たちは、例えば十年間とか、ずっと分析をやっているわけですから、そういう人たちの方が、当然専門的な深い知識を色々持っているので、そういった知見を国債の発行に活かしてもらうために来ていただいています。
服部 今の国債課は、たぶん財務省の中でも、民間出向者の割合がかなり高いですよね。昔はどうだったんでしょうか。
齋藤 昔よりは今の方が明らかに増えていますね。
TB1年債・5年債・30年債の導入
服部 日本における運用部ショックは、1998年の金融危機の直後ですね。この後、30年債、5年債、変動利付国債が矢継ぎ早に出て、今の確立した国債の商品性が固まります。齋藤様はこの時ちょうど新しい種類の国債の導入を担当されていたということですね。
齋藤 そうです。
服部 これらの新商品の導入には、どういった議論があったのでしょうか。
齋藤 例えば、平成11(1999)年度のあたりで、運用部ショックの後にTBの1年物と30年債と5年債、それから15年変動利付債と、新しい商品が4つ出ています。でも、実はそれぞれ、背景事情が違うんです。
例えばTB1年物の入札については、短期はそれまで3カ月物と6カ月物しかなかった。それ以外に、FBと呼ばれる資金繰りのために発行される短期債があって、それは実は日銀が全部引き受けていたんです。それを円の国際化の中で、短期の金融市場を育てるという意味で、FBを市中公募しようという話になってきました。それで、直接マーケットでFBを出して、短期のマーケットの厚みを増すということを始めたんです。この流れの中、それまで国債を発行していた理財局の立場からすると、2本立てで出していた3カ月と6カ月物のTBがあったところで、FBの3カ月物を市中公募することになりました。3カ月物はすべてFBに譲るとしても、国債の発行額はむしろ増えており、短期の新しい商品を出す必要性にも議論が進み、1年物を導入することになりました。
服部 円の国際化、市中公募、TB1年物という大きな文脈があるんですね。
齋藤 そうです。他にも新しいものを出せないかという中で、それまで一番長いもので20年までしかなかった国債について、30年物を作ろうということになりました。
服部 30年債という重要な商品を作られたわけですが、当時について印象深いことはありますでしょうか。
齋藤 30年債の導入では単に新しい年限だということだけではなく、面白い新しい試みをやっていました。例えば服部先生のご専門のあたりでしょうが、入札でいうと、それまでの国債は全部発行当局がクーポン、すなわち表面利率を決めて、入札参加者には入札したそれぞれの価格で、実際に買ってもらうという方式でやっていたんです。
服部 コンベンショナル方式ですね。
齋藤 新しく30年国債を入れるにあたって、今までよりもイールドカーブが伸びるわけですけど、カーブを右に伸ばしたところで30年の金利の居所がどうなるかというのが誰もよく分からなかった。もちろん理論値は色々な形で出せます。ただ、最後は需要と供給のバランスで決まるので、その理論値通りにいくかは誰にも分からなかったんです。なので、我々発行当局からすると、表面金利を何パーセントにするか自信をもって設定できないんです。その上、入札に参加する金融機関の人たちからしても、これぐらいの値段で買えばいいかなと思ったら、実は本当はもっと安かったです、みたいなことになると、入札に参加している人たちからすると、高値掴みするリスクも出てくる。どうしても入札に臨むスタンスがおっかなびっくりになってしまう。そういう中で、どういう発行方式をやるのがいいかとなったときに、イールドダッチという新しい入札方式を入れることになりました。つまり、表面利率、クーポンも入札の中で決めることにするとともに、その発行予定額に達するところの最低落札価格で、全員その値段でいいです、高値掴みの心配はありませんよという入札方式にすることにしました。
服部 前例がないことですよね。
齋藤 日本で前例はないですね。ただ、アメリカではイールドダッチはやっていました。さっきお話ししたように、アメリカの国債の発行、国債管理政策、国債の発行の仕方などを色々研究していました。ただ日本ではじめて導入するにあたって、いくつか技術的な問題がありました。イールドダッチでやるということは、複利利回りで入札してもらうわけですけど、その決まった表面利率、クーポンに基づいて、各業者が指していた利回りが価格に置き換えると一体いくらなのかを計算し直さないと、いくらで買うのかというのが出てこないわけです。利回りのままだと価格が分からないままなんです。しかし、当時、証券会社ごとに複利の計算式が違いました。例えば、その価格と利回りを計算するときに、日割り計算が当然必要になるわけですが、1年を365日で割るか、360日で割るのかが会社によってまちまちでした。
服部 業界統一の計算式がなかったということですね。
齋藤 そうです。なので、財務省が決めようということになりました。もちろん、各社どうやっているかを全部聞き、諸外国がどうやっているかも聞き、一番合理的なものを選ぼうとしました。それで、複利利回りと価格の計算式は、財務省としてはこれを使いますというのを発表しました。
服部 それがある意味で、日本の業界のスタンダードを作ったとも言えるわけですね。面白いですね。日本の入札の1つの特徴はダッチ方式とコンベンショナル方式を両方とも使っているという点だと思います。物価連動債は、ダッチ方式ですね。
齋藤 物価連動債はダッチですが、イールドではなく、価格でやっています。
服部 30年債の入札というのは、TB1年物よりもはるかに大変だったということですね。新しい方式ということもあるし、金利リスクも大きい。色々な議論をされたと思います。
齋藤 たしかに大変でしたね。
服部 デュレーションがどんどん伸びてきたのはこの頃くらいからですね。生命保険会社なども国債を買うようになったイメージです。
齋藤 もちろん、生保とも議論しました。さきほどの30年債と同様に国債の発行額が増える中で、それを円滑に消化するためには、何か新しい年限の国債をやっぱり出していかなければいけないだろうと、そういう流れの中で導入したのが、5年物の利付国債です。もともと海外の国際マーケットなんか見ても、年限の刻みは一般的には、2年があって5年、10年という形になっていますよね。
服部 2、5、10年の刻みはグローバルスタンダードですね。
齋藤 そうなんです。でも日本の場合は、その中期と言われる国債はなぜか、5年じゃなくて4と6年という刻みだったんです。
服部 長期信用銀行に気を使ったんですよね。
齋藤 そうです。今はもうなくなってしまいましたけど、昔は長期信用銀行という金融機関の業態があったわけですよね。日本興業銀行と日本長期信用銀行、日本債券信用銀行という3つの銀行がありました。それで、この長期信用銀行の資金調達手段の主力が、5年物の利付金融債でした。当時の大蔵省は、利付の国債はこれに遠慮する形で、あえて5年を避けて、4、6年債で出しました。
実は5年は個人向けに割引債で出してはいました。正確に言うと、個人しか買えないわけではなかったので、今の個人向け国債と位置づけは違うんですが、実際に買い手になっていたのはほとんど個人でした。こういう形で遠慮していたんですが、やっぱり4、6年債と二つに分けて出すよりは、5年債に一本化したいということになりました。一本化した上で、そこでまとまった金額を出す方が、流動性が高いマーケットを作っていけます。当時は批判もあったのですが、国債の発行額が増えていく中で、国としてもいつまでもこのままではやっていけないということもありました。
服部 落としどころとしてはどうなったでしょうか。
齋藤 5年の利付国債の発行を始めるが、いきなりたくさんは出さないで、金額が少ないところから少しずつスタートして増やしていくことになりました。したがって、5年利付国債を導入したタイミングでは、実は4、6年債が残っていたので、4、5、6年債の3本立てで出ていました。その後、徐々に4、6年債から5年債に移行していく形です(図表3. 4・5・6年債の発行額推移を参照)。
(翌月号に続きます)
図表1. シ団引受シェアの推移
図表2. 資金運用部ショック時の金利の動き