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路線価でひもとく街の歴史

第43回 「群馬県高崎市」


車社会で健闘する駅前の商都
県都の前橋市に対し高崎市は「商都」と呼ばれる。地元の「上毛かるた」で「関東と信越つなぐ高崎市」と詠まれる交通の要衝だ。わが国の東西幹線の1つの中山道の宿駅で、ここから長岡に通じる三国街道に分岐する。三国街道は越後国、信濃国、上野国の3つの地域にちなむ三国峠に由来する。高崎城の背後を流れる利根川水系の烏川(からすがわ)を5kmほど下ったところに倉賀野河岸がある。鉄道開通前は高崎と江戸・東京を結ぶ大動脈だった利根川舟運の発着点だった。

生糸を介した高崎と横浜のつながり
前橋の回でも説明したが群馬県は横浜と縁が深い。近代の戦略商品である生糸の産地と輸出港の関係だ。そのキーマンは、高崎の九蔵(くぞう)町(まち)に生まれ、横浜で生糸貿易を起こし財を成した野沢屋こと茂木惣兵衛である。
明治8年(1875)、群馬県で初めての銀行が開業した。第二国立銀行の高崎支店である。その前年、横浜為替会社を基に設立された2番目の国立銀行だ。製糸業のための銀行で、横浜の大手売込商の原善三郎が頭取、茂木惣兵衛が副頭取だった。産地の製糸工場が、積出港のある横浜の売込商に宛てた荷為替を組む。銀行はそれを買い取ることで産地に資金を供給していた。その後、第二国立銀行は国立銀行制度の満了に伴い第二銀行となった。横浜に本店を構え、高崎以外では前橋、東京、横須賀に支店を出した。
明治17年(1884)には第七十四国立銀行の高崎支店ができた。明治11年(1878)に、第二国立銀行と同じく横浜で設立された銀行で、明治14年(1881)に茂木惣兵衛が第2代頭取となっていた。
その後、茂木惣兵衛は明治28年(1895)に横浜で茂木銀行を設立。翌年、第七十四銀行高崎支店の営業を引き取り茂木銀行高崎支店とした。ただし同支店は大正7年(1918)に第七十四銀行の後継の七十四銀行に復帰する。七十四銀行が茂木銀行を吸収したからだ。ところがその2年後、第1次世界大戦の反動恐慌のあおりで七十四銀行が破綻。受け皿銀行として設立された横浜興信銀行に引き継がれた。それで、七十四銀行高崎支店は横浜興信銀行の支店となった。昭和2年(1927)には第二銀行も破綻。第二銀行の営業も横浜興信銀行に引き継がれている。

田町の銀行街
横浜興信銀行は現在の横浜銀行である。歴史をたどれば、前身銀行の系譜を継ぐ横浜銀行の支店のうち最も古いものが高崎支店となる。高崎支店は昭和53年(1978)に連(れん)雀(じゃく)町(ちょう)に移転したが、それまでは前身の第七十四国立銀行が九蔵町に開店以来、94年にわたって同じ場所で営業していた。第二国立銀行は中山道に沿ってその隣にあった。中山道は高崎の街をかね字に貫く。街道に沿って町名が付され、東西に伸びる本町(もとまち)から南に曲がり九蔵町、田町(たまち)、連雀町、新町(あらまち)と続く。鉄道が開通する1年前、明治16年(1883)の統計によれば当時の最高地価の場所は田町だった。1反平均地価は317円で、前橋の桑町の252円より高かった。明治36年(1903)に本町に移ったが、大正元年には再び田町が最高地価になった。その後、確認できる範囲では昭和5年(1930)まで田町が最も高かった。ちなみにこの間の最高地価は前橋と同水準だった。
当時の銀行は九蔵町や田町に集積していた。明治41年(1908)、伊勢崎に本店を構える群馬商業銀行が現在の田町交差点の北西角に高崎支店を出店した。安田銀行の系列で、大正5年(1916)の明治商業銀行を経て大正12年(1923)に安田銀行に吸収された。戦後の富士銀行、現在のみずほ銀行である。
地元資本の銀行には明治後期の高崎積善銀行、高崎銀行、大正に入って創業した上毛貯蔵銀行があった。その後、高崎本店の有力行を設立する機運が高まる。統合の受け皿行として大正8年(1919)に上州銀行が設立され、地元3行がこれに合流した。当初の本店は九蔵町に置かれたが、大正11年(1922)に田町に本店が新築された。昭和7年(1932)、1県1行主義が背景となって群馬大同銀行に統合する。現在の群馬銀行である。現在、同じ場所には群馬銀行高崎田町支店と第四北越銀行の高崎支店の共同店舗がある。共同店舗には他に群馬銀行の高崎北、高崎西の各支店と高崎駅前出張所が同居している。
田町にある足利銀行高崎支店も大正10年(1921)の進出だ。当時は本店が栃木県宇都宮市ではなく足利市にあった。出店以来同じ場所で営業している。
当時の高崎の中心軸は中山道で高崎駅前は郊外然としていた。高崎駅は明治17年(1884)、日本鉄道の駅として開業した。同じ年に前橋駅まで延伸している。現在の高崎線で、当初からわが国戦略商品の生糸を横浜に輸送する使命を帯びていた。翌年、赤羽駅から現在の山手線をたどり品川駅に至る「品川線」が開通。品川駅の連絡で横浜駅までつながった。これを境に生糸の輸送が利根川舟運から鉄道にシフトしていく。駅ができた場所は高崎城下町の外側で、今のような商業地になる前の駅西口一帯は倉庫はじめ物流関係の施設や旅館が散在していた。

中央銀座から連雀町へ
戦後、昭和30年(1955)の最高路線価地点は中央銀座だった。昭和35年(1960)は「寄合町関口眼鏡店前中央銀座通」とある。中央銀座は県下で最も賑わっていた商店街で、最高路線価は前橋を上回っていた。関口眼鏡店は現在も営業を続けている。
昭和43年(1968)の最高路線価地点は「連雀町小泉呉服店前」だった。小泉呉服店は中山道と大手前通が交差する連雀町交差点の北西にあった。この交差点には昭和6年(1931)から高島屋ストアがあった。戦後は界隈に当時の大型店やチェーン店が集まってきた。
昭和37年(1962)、地元の商店主が協同組合方式で2階建の寄合百貨店「中央デパート」を設立した。その後、9階建の高崎スカイビルに建て替えられる。最上階の回転展望喫茶室が新名所になった。昭和39年(1964)10月には5階建の藤五百貨店がオープンした。高崎で初めての百貨店だ。戦後、中央銀座で創業した洋服生地販売「藤五商店」が前身である。伊勢丹との縁があり、百貨店の立ち上げに際して3.3%の株式を持ってもらうなどしている。開店翌年には伊勢丹の共同仕入機構の十一店会に加盟した。
この1か月前、前橋にも前三百貨店がオープンしていた。藤五、前三ともに群馬県に本格的な百貨店がないことが創業動機の1つで、設立に地元の商工会議所が関わっていることも共通している。前三の開店には三越の支援があった。開店時の店長は三越OBである。
小売り経験に乏しかった前三に比べ藤五は地元商人が立ち上げた分の一日の長があり、前三の倍以上の売上を上げていた。他方、チェーン店の進出が相次ぎ競争環境は厳しかった。百貨店が開店した年には十字屋が、その3年後の昭和42年(1967)には緑屋が進出。他にも長岡市本店の丸専、熊谷市に本店を構える八木橋百貨店が高崎店を出していた。そして昭和43年(1968)、前橋市に本店を構えるスズラン百貨店が高崎店を立ち上げた。創業者の渋沢康平は高崎出身で念願かなっての出店だった。
これに対して藤五百貨店は昭和44年(1969)、伊勢丹に提携を要請し追加の資本と役員を迎え入れた。昭和48年(1973)には関係を一段と強化し「藤五伊勢丹」に改称。それまで非常勤だった伊勢丹出身役員を代表取締役会長に据えた。出向受け入れを増やし幹部ポストに据えた。昭和50年代に本格化する駅前再開発を見据えての策だった。

上越新幹線の開業と駅前の変貌
昭和50年代は、それまで倉庫はじめ物流施設が散在していた駅前地区が一大商業地に変貌した年代である。再開発を機に商業施設の進出が相次いだ。背景には上越新幹線の開業があった。昭和51年(1976)、上越新幹線の着工年でもある年、高崎駅西口にニチイとダイエーがオープンした。その翌年には高崎高島屋が開店した。ほぼ同時期に3店オープンする事態を受け、十字屋と緑屋が昭和51年に撤退している。
昭和57年(1982)11月に上越新幹線が開通。高崎駅の新駅舎が完成し、駅ビルのモントレが開店した。藤五伊勢丹は「高崎伊勢丹」に改称。駅前集積の勢いに押され業績は厳しかったが、伊勢丹のブランドを前面に出して押し返そうとした。
それでも一矢を報いることはかなわず、昭和60年(1985)8月に閉店を余儀なくされる。奇しくもこの年、高崎市の最高路線価地点が連雀町から「通町東京風月堂前大手前慈光通り」に移った。連雀町と駅前地区の中間点である。高崎城の正門から続く大手前通は城下町時代から行き止まりで、突き当りには慈光山安国寺があった。安国寺は群馬県庁が前橋に移るまでの一時期に県庁が置かれたことで知られる。昭和42年(1967)に安国寺が移転。跡地が再開発され、山号にちなんだ名称の「慈光通り」ができた。慈光通りの開通で連雀町と駅前地区が直結した。
他方、慈光通りは連雀町から駅前地区への誘導路にもなった。平成3年(1991)には最高路線価地点が「八島町サロン・ド・ジュン前市道高崎駅・連雀町線」に移った。現在の地図でいえば高崎高島屋とモントレの間の道だ。以来、現在まで33年連続で高崎の最高路線価地点である。

健闘する駅前集積
平成に入ると車社会化が進み、商業機能は郊外に分散した。平成8年(1996)には店舗面積10,000m2クラスのハイパーモールメルクス倉賀野、アピタ高崎店がオープンした。対して駅前のサティ(旧ニチイ)は若者向けの高崎ビブレに業態転換を図る。差別化が難いと判断したダイエーは平成6年(1994)に閉店していた。平成18年(2006)にはイオン高崎ショッピングセンター、現在のイオンモール高崎が開店した。
かつて県下一の賑わいを誇っていた中央銀座に往時の勢いはない。他方、駅前の商業集積は全国屈指の車社会の群馬県において健闘している。それは最高路線価の推移に反映しているようだ。図3. 都道府県庁所在地の最高路線価ランキングに都道府県庁所在地の最高路線価ランキングの推移を示した。高崎は県庁所在地ではないので、仮に高崎市が県庁所在地であった場合の順位を示している。
上越新幹線の開業5年前、高崎と前橋の差が小さかった点に目が留まる。その後、新幹線の開業に向けて高崎の順位が上がった。開通年は順位を下げている。これは東北新幹線が開通した宇都宮も同じである。地価の押し上げ効果は新幹線の開通というより開通に向けた期待や駅前再開発にあるということだろうか。
90年代初頭の地価高騰期に順位を大きく上げたのが高崎だ。その反動で90年代の下落幅も大きかった。90年代は前橋の順位も下がっている。高崎と前橋が異なるのは2000年代半ば以降の動きである。前橋は下げ止まらず2007年に最下位となる。それに対し高崎は2000年代半ばに順位が上がり始めた。近年は政令指定都市の新潟と同じ25位である。
背後に何があったと考えられるか。前月号でも説明したが、高崎駅が、前橋・高崎をひとまとめにしたエリアを代表する駅となったことだ。前橋は旧街道沿いの中心街から駅前に最高路線価が移転していない。前橋駅が拠点駅と認知されていないからだ。次に高崎駅の拠点機能が高まったことが考えられる。高崎の最高路線価は、東京からの距離が高崎とほぼ同じの宇都宮を上回っている。北陸新幹線の開通で高崎駅に停車する新幹線が2つになった。また、高崎駅前に大型店が複数あることも見逃せない。駅前の高崎ビブレがいったん閉店、平成29年(2017)に周辺一帯が再開発され、高崎オーパになった。高崎オーパにはイオンスタイルも入居している。高崎高島屋や駅ビルモントレとともに商業核を形成している。駅前地区で約50,000m2、スズラン百貨店を含めれば中心市街地は約70,000m2の大型店を擁しており、大型店シェアで郊外に対抗しうる規模を維持している。

住まう街としての高崎
新幹線で首都圏に通勤することを考えてみる。駅の拠点機能にせよ、駅前の商業機能にせよ、駅と駅前の利便性の高さは街の発展に有利にはたらく。時間距離の短縮によって広域首都圏の最も遠い郊外都市の位置づけを高崎が得つつあることが、高崎駅前の地価水準が地方都市の中で堅調に推移している背景にあるのではないか。
駅前の商業集積が健闘する一方、かつての商業中心地は住まう街に変わりつつある。高崎伊勢丹の跡地は平成20年(2008)に15階建のマンションが建った。スカイビルは最近取り壊されたがこちらも18階建のマンションになる予定だ。スズラン百貨店のある区画は目下再開発中で、19階建のマンション棟と4階建の商業棟ができる。百貨店は商業棟に移転する予定だ。高崎市の中心市街地活性化基本計画のフォローアップ報告によれば、高齢化による自然減の一方、マンションの新築で中心市街地の居住人口は底堅く推移している。本年3月末は28,328人だが2年後の目標30,100人は達成の見通しだ。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図1. 市街図
図2. 広域図