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ファイナンスライブラリー


評者
梶川 幹夫
Ken Steiglitz 著/岩野 和生 訳


なぜ世界はデジタルになったのか
マシーンの離散的な魅力
共立出版株式会社 2023年5月 定価 本体2,900円+税

この著書は「コンピュータ・サイエンス」の自然科学としての面白さを、幅広い読者に向けて語るポピュラー・サイエンスの良書である。デジタルという言葉を聞かない日はないが、そもそもデジタルとは何であろうか? 「0と1」という連続しない離散的な値をANDやORなどの論理ゲートを用いて計算を行う、この仕組みで問題を解くということは、どういうことなのか? デジタルに関する著書は溢れかえっているが、そのほとんどは、技術的な解説書や実用書であり、本書のような一般向けかつ体系的な科学書は稀有である。
デジタル・コンピュータが大きく発展する中で、それと並行して、コンピュータに関わる「サイエンス」も大きく発展してきた。そこからは新たな数学理論が発展したが、未解明な難問も鮮明になっている。「なぜ世界はデジタルになったのか」というタイトルに反し、本書の面白さはデジタル・コンピュータの原理とその限界がどこにあるのか、デジタルとは異なる原理による計算は可能であるかという科学的な探究部分にあり、知的好奇心に刺激を与えてくれる。
具体的に以下のような話に興味のある読者は、是非この著書を一読されたい。
―「シュタイナー問題」と呼ばれる問題がある。N個の町を道路で結ぶ場合の全体の道路長を最も短くするにはどうしたら良いかという問題である。デジタル・コンピュータで解くのは事実上困難であるとされている。驚くべきことにワイヤーフレームを石鹸液に浸け、出来上がる石鹸幕がその解答を示しているように見える。アナログがデジタルを打ち負かすこともあるのだろうか。
―そもそも「問題の難しさ」とは何か? コンピュータの発展とともに、「問題の難しさ」についての数学が発展した。これは「P≠NP予想」という大きな未解決問題を導いた。この予想についてはクレイ数学研究所によるミレニアム懸賞問題のひとつとして100万ドルの懸賞金がかけられている。解答を得るのが困難な問題よりも、得た解答が正しいかどうかを判定する問題の方が簡単であることは、現代暗号の基礎を成すものであるが、その背景となる計算理論はどうなっているのだろうか?
―量子コンピュータはこれまでのデジタル・コンピュータとどこが違うのか? 「0と1の重ね合わせ」を利用することで、デジタル・コンピュータでは事実上解けない問題を短時間のうちに解いてしまうとすると、予想に反し「P=NP」となってしまうのだろうか?
―脳はデジタルとアナログの両方の信号処理を持っているが、このことにより人間とAIとは本質的に異なるのか? あるいは、2020年にノーベル賞を受賞したロジャー・ペンローズの唱えるようにニューロンの中の微小管は量子力学の原理を利用しているのか? 人間の脳を模倣した究極のロボットは、意識を持つのだろうか?
こうした「謎」について、本書の第3部から第5部にかけて体系的に記述され、コンピュータ・サイエンスを築いてきた著者の考え方が明確に示される。
さらに上記のような理論部分のみならず、著書の幅広い経験や豊富な知識に基づいた様々なエピソードが本書の第1部を中心に散りばめられており、科学史としても楽しむことができる。また第2部では通信や情報理論について述べられている。情報をいかに効率的かつ正確に伝達するかについては、シャノンの情報理論を嚆矢として一つの大きな体系が出来上がっており、この分野についても「デジタルのもう一つの勝利」として知識を深めることができる。
著者Ken Steiglitz氏は1939年米国生まれのプリンストン大学のコンピュータ・サイエンスの教授である。(ファイナンス読者に馴染みの深い経済学者とは別人)訳者の岩野和生氏はSteiglitz教授の指導の下、同学よりPh. D. を取得された、日本のコンピュータ・サイエンスの先駆的な研究者である。