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路線価でひもとく街の歴史

路線価でひもとく街の歴史
第41回 「愛媛県松山市」
大街道の復活はデータ重視の歩くまちづくりから
松山の偉人といえば俳聖子規こと正岡升(のぼる)。その盟友の漱石こと夏目金之助も松山を全国に知らしめた功労者だ。型破りな新任教師の青春譚「坊っちゃん」で活写された街のイメージが今も息づいている。作中、坊っちゃんは汽船から艀に移り三津浜に上陸。伊予鉄道の三津(みつ)駅から外側(とがわ)駅(現・松山市駅)に向かう。「乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない」。マッチ箱のような汽車とはドイツ(バイエルン王国)製の軽便汽車で、客車1両の定員は12人とミニサイズだった。現在も外観を模した「坊っちゃん列車」が市内を走っている。
「坊っちゃん」と同じく夏目金之助も旧制中学で英語教師をしている。明治28年(1895)、和暦と同じ28歳のとき松山中学に赴任した。小説に「松山」の記載はないが、フィクションとはいえ、臨場感ある書きぶりは金之助が己の目で見た風景を写し取ったためだろう。ちなみに金之助が赴任した当時の松山中学は今の愛媛県庁の向かい側にあった。坊っちゃんは車(人力車)を雇ったが、松山市駅から歩けば12分である。
城下町以来の中心地は古町エリアの本町
夏目金之助も利用したであろう伊予鉄道は明治21年(1888)に三津駅と松山駅の間で開通、四国で初めての鉄道だった。松山駅は翌年外側駅に改称する。
金之助が松山に赴任した明治28年には2社目の道後鉄道が開業している。伊予鉄道の途中駅の古町(こまち)駅と接続し、城の北面を迂回し道後温泉に至る路線と、現在の道後温泉駅である道後駅から松山駅(現・大街道駅)に至る路線があった。古町駅は小説に登場する。坊っちゃんが宿直部屋から抜け出して温泉に行き、その帰りに「古町の停車場」まで戻る場面だ。道後鉄道の道後駅から乗ったのだろう。
伊予鉄道と道後鉄道の駅があった古町は、少なくとも明治前半までは松山の中心だった。古町は慶長7年(1602)、領主加藤嘉明が松山城下町を造成したときに商人地に定められたエリアだ。その中心が札の辻で、平山城である松山城の平城部分(三の丸または堀之内)の北西角にある。今治街道、大須街道その他の街道の起点で松山市の道路元標にもなった。札の辻から西に伸びる道沿いの町が紙屋町(かみやちょう)で、松山初の銀行である第五十二国立銀行があった。明治11年(1878)の創業だが、3年後に外側(とがわ)エリアの三番町に移転する。
札の辻を起点に北に伸びる道沿いの町が本町(ほんまち)である。もっとも手前が1丁目で、愛媛県統計書によれば現存する最古の記録である明治17年(1884)時点で最高地価の場所だった。ここは松山初の百貨店が開店した場所でもある。大正6~7年頃(1917~18)に開店した大丸百貨店で、昭和4年(1929)頃までの約10年と短い営業期間だったが、木造4階建の洋風建築で店内にはエレベーターもあった。百貨店大手の大丸と同じ名前だが関係はない。
鉄道開通が後押しした湊町の繁栄
坊っちゃんの時代に現在の松山市駅は外側駅といったが、駅名の「外側」は松山城の南側一帯を指す。ここには古町と並び立つ商人町の湊町があった。江戸時代の末期に中ノ川の舟運が開かれたが、その後背地だったことから「湊町」と呼ばれた。舟運は古町から始まるルートもあり、両者は城の西郊で合流して三津浜に至った。もっとも水量が安定せず、松山市史によれば交通の大動脈とまではいかなかったようだ。造成時からの商業地であり藩の庇護もあった古町エリアだったが、時代とともに後発の湊町に賑わいが移っていった。伊予鉄道の古町駅が途中駅だったのに対し外側駅が終着駅だったことも奏功した。愛媛県統計書によれば、明治36年(1903)の最高地価は湊町3丁目だった。東西に伸びる湊町のうち松山市駅の面前が湊町5丁目で東に進むにつれ湊町4丁目、3丁目となる。3丁目の東端で、後述する南北のメインストリートの大街道と交差する。東西の湊町と南北の大街道が交差する地点が当時の松山の中心だった。
第五十二国立銀行が紙屋町から移転した三番町は外側エリアの中央を東西に貫く道である。その第五十二国立銀行は国立銀行の制度満了後に五十二銀行となった。昭和12年(1937)には本町に本店があった仲田銀行と合併して松山五十二銀行となった。
現在の地域一番行の伊予銀行は戦前の一県一行主義の流れで昭和16年(1941)に東予、中予、南予の県内3地域を代表する3行が合併して発足した伊豫合同銀行を前身とする。3行とは中予を代表する松山五十二銀行、明治29年(1896)に発足し東予を地盤とする今治商業銀行、そして南予を地盤とし八幡浜に本店を構える豫洲(よしゅう)銀行である。豫洲銀行の源流は第二十九国立銀行に遡る。設立は第五十二国立銀行より半年ほど早い明治11年(1878)3月15日で、伊予銀行はこの日を創業記念日としている。伊豫合同銀行は3行合併10周目の昭和26年(1951)に伊豫銀行に改称。翌年、本店を現在地に新築した。常用漢字の伊予銀行となったのは平成2年(1990)である。
三越開店と大街道
昭和30年(1955)の最高路線価地点は大街道1丁目だった。5年後に現れる地点名は「あづまや履物店前」で、湊町3丁目との交差点の北西角にあった。住所こそ大街道だがこの時点では同じ角地の東西辺から南北辺に変わった程度の変化だった。商店街は湊町3丁目と同じく銀天街に属する場所だ。
昭和36年(1961)、「大街道2丁目松菊堂店前大街道通」が最高路線価地点となった。街なかの南北のメインストリートが大街道で、2丁目には三越松山店があった。三越は大街道商店街の北端にあって路面電車が走る大通りに面する。目の前にある大街道停留場は遡れば道後鉄道のターミナルだった。ターミナル時代の駅は大通りを挟んで向かい側のいよてつ会館の場所にあった。三越が開店したのは昭和21年(1946)。高松に続く四国2店目の三越で、松山初の都市型百貨店だった。その後、大街道には昭和39年(1964)にダイエーの四国1号店が進出する。昭和43年(1968)には大街道を挟んで三越の向かい側に、広島地盤のスーパー「いづみ」(現イズミ)が出店した。
三越とそれに続く大型店の出店で水をあけられたかのように見えた湊町も対抗策を打ち出していった。昭和28年(1953)、県内初の全蓋アーケードが架けられた。屋根が銀色だったことにちなみ「銀天街」と名付けられ、「横のデパート」と呼ばれた。昭和43年(1968)には商店街の4店が協同組合銀天街ショッピングビルを設立、「ラブリープラザ」を立ち上げ、核店舗として全国チェーンのニチイを誘致した。同じ年、銀天街の松山市駅に近い場所にフジが出店した。広島を地盤に繊維問屋を営む十和が始めたスーパーで、瀬戸内海を挟んで隣県の愛媛県でチェーン展開を図った。銀天街の店舗は宇和島店に続く2号店だった。
昭和45年(1970)にはダイエーが2号店を千舟町に出店した。その翌年には松山市駅に市内2店目の百貨店、いよてつそごうがオープンした。郊外路線網を擁する伊予鉄道のターミナル、松山市駅の集客力も強く、昭和56年(1981)に最高路線価地点が「湊町4丁目小林呉服店前銀天街」になった。大街道との角地と松山市駅を結ぶ銀天街のほぼ中間地点である。11年後の平成4年(1992)には松山市駅の向かい側の「湊町5丁目日切ビル前通り」に移った。その後20年超にわたって駅前が最高路線価地点となる。
松山環状線
他の地方都市と同様に、松山市もロードサイドの発展が見られる。そのさきがけは昭和48年(1973)にフジが出店した四国で初めての大型ショッピングセンター、フジショッピングスクエア駅前店だ。駅前とはいえ当地で実質的な駅前は伊予鉄道の松山市駅で、昭和2年(1927)に開業した国鉄松山駅の周辺は戦後も郊外然としていた。平成元年(1989)、に大規模増床し、フジグランとなった。店舗面積は22,185m2である。
当地の場合、市街地を大きく囲む形で松山環状線ができた。昭和49年(1974)に南部環状線の一部が完成し、平成11年(1999)に全線開通する。沿線では高速道路ICにつづく砥部(とべ)道路と交差する朝生田(あそだ)地区が郊外の商業拠点となった。はじめに出店したのが昭和54年(1979)開店のダイエー南松山店である。平成17年(2005)閉店し、入れ替わりで「ジョー・プラ」が入った。店舗面積は16,669m2である。平成7年(1995)にはジャスコシティ松山がオープンした。今のイオンスタイル松山で、店舗面積は18,353m2である。この頃から郊外店が目立って増えてきた。押される形で平成10年(1998)にダイエー千舟町店が閉店。銀天街のニチイは平成9年(1997)にサティ業態に転換したが客足は伸びず平成11年(1999)に撤退。撤退後の店舗はオーナーである協同組合の直営になり「松山銀天街GET!」となった。
平成20年(2008)、松山環状線のさらに外側に商圏内最大の店舗面積59,268m2のエミフルMASAKIができた。核店舗はフジグランである。同じ年、大街道を挟んで三越の向かいにあったラフォーレ原宿の松山店が閉店した。ラフォーレ原宿はいづみ松山店が撤退した後、昭和58年(1983)に開店したファッションビルで、三越とともに大街道の二枚看板となっていた。
最高路線価地点は35年ぶりに大街道へ
平成27年(2015)、最高路線価地点が35年ぶりに「大街道2丁目大街道商店街」となった。この年、ラフォーレ原宿の跡地が再開発され、アエル松山がオープンしている(図4 大街道とアエル松山)。下層階が商業施設で上層階がホテルの13階建の複合施設である。最高路線価地点がかつての中心商店街に戻ってきたといえば、高松丸亀町商店街の例がある。地方都市の空洞化が問題となる中、高松も松山も中心街が善戦している。
駅前からかつての中心地に街の中心が移動したことは、駅前周辺に集中していた中心街の範囲が拡大したことをも意味する。松山は街なか再生がうまくいっているように思われる。その背後にどのような取り組みがあったのか。
人流データを捉えた戦略的まちづくり
松山のケースは、都市構造の変化に伴う新たな人の流れをデータで捉え、公共インフラの再整備に反映したことが特長だ。その代表例が花園町通りの減幅・街路化である。花園町通りは、松山市駅前から城山公園に突き当たる戦災復興のシンボル道路である。幅員40mで、中央に路面電車の複線があり、その両脇に車道が側道含む片側3車線、往復6車線あった。将来の車社会を見越して広げた花園町通りだったが、90年代半ば以降の20年で自動車通行量が半減した。松山環状線など迂回路の整備により都心に流入する自動車が減ったこと、中心商業が朝生田地区をはじめとする郊外拠点へ移転したことが主な要因だ。城山公園にあった野球場、競輪場その他のスポーツ施設や国立がんセンターの郊外移転も影響した。
松山市は「歩いて暮らせるまち松山」をコンセプトに掲げている。その一環として城山公園から松山市駅へ、銀天街及び大街道を抜け、ロープウェイ通りを経て道後温泉に至る徒歩導線を想定し、その導線上の1つである花園町通りの街路化を進めた。平成23年(2011)から検討を進め、交通量のシミュレーションや社会実験を重ねつつ、平成29年(2017)に完成した。路面電車の外側に車線を1本ずつ残し、潰した車線を自転車道と歩道にした。これで歩道幅は5mから最大10mに広がった。整備に合わせて電柱を地中化し、片側のアーケードを撤去し、外壁や看板、テントなどのデザインを「景観まちづくりデザインガイドライン」に沿って統一した。広くなった歩道にはウッドデッキや芝生が敷かれ、マルシェやオープンカフェが開催されるようになった。
もう1つの目を見張る取り組みは市内の商店街を中心としたまちづくり会社「まちづくり松山」の人流分析だ。来街者捕捉カメラでデータを分析している。年齢、性別、曜日・時間帯の来街者データから人の流れを分析し様々な施策に役立てている。例えば、銀天街や大街道は30代後半の男女が多い。また、日曜はファミリー客が多く、夕方には早々と帰宅することがわかった。そこで、街なかバルのイベントを打つにあたって金土日から1日前倒しし木金土の開催に変更するなどの工夫をした。
目下、公・民・学の連携組織「松山アーバンデザインセンター」の主導でスマートシティプロジェクトが進んでいる。決済、交通データ、スマホ位置情報や定点カメラから得られるデータを加工してサイバー空間上に人の流れを再現。公共交通の最適運行や、まちづくり計画とその効果測定に役立たせる「データ駆動型都市プランニング」手法の構築が期待されている。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図1 市街図
図2 広域図
図3 花園町通り