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ファイナンスライブラリー

評者 羽深 成樹

中原 広 著
元国税庁長官の俗物的料理日記 食欲とぼやきと蘊蓄と時々慨嘆の日々
霞出版社 2023年4月 定価 本体2,000円+税


ある哲学者は言った。かつては労働者の労働力が搾取されていたが、現代は、労働者の「暇」が搾取されていると。資本主義の発達とテクノロジーの進歩で、人々は裕福になり「暇」を得た。だが、暇を得た人たちは、その暇の使い方が分からず、資本主義が与える娯楽―グルメや旅行や映画やショッピング―に取り込まれていく。かく言う私も、コロナ禍の間、会食がなくなって空いた時間に、ネットフリックスで「あなたにおすすめ」の韓国ドラマを見てしまい、資本主義による「暇の搾取」の餌食となった。
著者の中原氏は、そんな俗人とは一線を画し、暇を主体的に楽しむ。読書し、料理し、ジムに行き、蘊蓄を語り、世を慨嘆する。現役時代は「大饗膳蔵」というペンネームで、既に3冊の「料理日記」が出版されており、本書は4冊目になる。ファイナンスの読者には、お馴染みの方も多いのではないか。
初めての読者のためにご紹介すると、著者は、40歳頃から趣味として週末料理を始め、以来、今日まで続けている。近くのスーパーで手軽に入手できそうな材料を使って、ボリュームたっぷりの料理を作る。本人はB級料理というが、レシピはどれも手が込んでいて美味しそうである。そこに週末の生活風景を加えてファイナンスに「料理日記」が連載されたが、その最新のものをまとめたのが本書である。
丁寧な料理レシピも素晴らしいが、料理の合間に語られる本の紹介や蘊蓄、ぼやきや慨嘆が、また面白い。その意味では、本書は読書日記でもあり、書評集、エッセイ集でもある。タイトルは「俗物的」というが、書かれている内容は決して俗物的ではない。紹介される本は古典や歴史物、随筆などで、いずれも手軽に読めるような代物ではない。それらをグラスを傾けながらスイスイ読んでしまうのだから、著者がいかに読書を愛してきたか、推して知るべしである。
読書の対象は様々な分野に及ぶ。乱読である。全50話の中で50冊に近い本が紹介されているが、経済や安全保障など政策的な領域から歴史書、歴史評論、内外の名著・古典、戦後の大衆文学や随筆など多岐にわたる。氏はそれらを読みながら、関連する蘊蓄を語り、独自の考えを展開する。時に歴史や古典から現代を眺め、慨嘆する。
例えば、「失敗の本質」を読んでギリシアの政治家ペリクレスの生涯に思いをいたし、民主主義とポピュリズムの難しい関係を考える。「義理と人情」を読んで、臆面もない権利主義や外罰的な責任追及が溢れる現代社会を慨嘆する。「日本霊異記」から、世間を説くには「理」より「利」に訴える方が効果的と納得する。「古川ロッパ昭和日記」を読み、その面白くも哀しい人生に献杯する。戦前のサラリーマンの給与と物価の動きから日本経済の将来を心配し、戦前日本の政治を見て国際社会や経済のリアリズムを見極める眼力の衰えを憂える。
私たちの生き方や仕事の参考となるような話もある。「元禄忠臣蔵」を紹介しながら、討ち入りを巡る内蔵助や赤穂浪士の葛藤、仇討を巡る論点を紹介し、現代のサラリーマンの生き方を問う。「中国の歴史」に出てくる塩鉄会議に、時の権力者の側近と行政機関の実務官僚のバランスの難しさを考える。ドイツ帝国陸軍の参謀将校ハマーシュタインの部下の評価基準に人事評価の妙を見る。こんな具合である。
映画やテレビドラマも登場する。しかし、著者が見るのはハリウッド映画や韓国ドラマでなく、戦記物ややくざ映画など昭和の娯楽映画である。ネット配信映画も見るが、ある日の日記では、「水戸黄門」か「肉弾鬼中隊」か「洲崎パラダイス赤信号」かで迷う。ちなみに、私はどれも見たことがない。
暇というのは、忙しい人には貴重だし、時間がある人にとっては日々の生活そのものだから、やはり貴重である。その暇をどう使うか。豊かな人生とは何か。そんなことを考えされられる一冊である。
(注)本書が書店やオンライン・ショップで見つからない場合には、霞出版社のHP(http://www.kasumi-p.net/)からの購入をお勧めします。